全5件 (5件中 1-5件目)
1
日本史の上で、貴族・公家社会の中心であり続けたのが藤原氏。平安時代には、次々と天皇家に皇后を送り込むことで、その外戚として栄華を極め、武家が政権を握ってからも公家として、宮廷の中心であり続けました。藤原氏の取ってきた政治手法というのは、その善悪は別として、ある意味とても日本的であるともいえ、現代に至るまでの日本政治に、受け継がれているようにさえ感じます。こうした藤原政権の基礎を築いたのが、藤原不比等でありました。これから何回かにわたって、藤原政権が確立される過程についてのことを、書いていきたいと思っているのですが、今回はその一回目。今回は、まず、藤原不比等について。藤原氏の始祖は鎌足。中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに、大化の改新を成し遂げ、律令制・中央集権国家の基礎作りを担った人物として有名でありますが、この鎌足の子が不比等です。しかし、不比等は、父鎌足の功績をそのまま引き継いだわけでは決してなく、不比等は、自分の代で、藤原氏の勢力基盤を築いていった人でありました。それというのも、鎌足の死後、天智から天武への政権の移行(壬申の乱)があり、不比等は天智系の人であったため、用いられることがなかったためでありました。天武(大海人皇子)は、天智の晩年には、互いに反目しあっていたため、不比等は、天武政権のもとでは、下級の官吏でしかなかったのです。しかし、持統天皇が即位してから、不比等は急速に頭角を現し始めます。政権の中枢に参画し、さらには、文武天皇、元明天皇が即位するにあたっては、その立役者にもなっていきました。大宝律令・養老律令を制定し、律令国家のしくみを日本に確立させ、また、平城京への遷都を推進したのも不比等でした。こうして、不比等が台頭してきた要因には、彼自身、とても知識があり、有能でもあったという事があります。しかし、それだけではなく、不比等は、一面、すごく権謀に長けた人でもあったのです。その一つが、天皇家との婚姻政策。不比等は、自分の娘を天皇家に嫁がせ、それにより政権基盤の強化を図りました。長女の宮子は文武天皇に嫁ぎ、宮子は聖武天皇の母となりました。末娘の安宿媛(あすかべひめ)も聖武天皇の妃となり、のちに人臣初の皇后(光明皇后)となります。不比等は、このようにして、後の藤原氏の栄華の基盤を着実に築いていったのです。そして、不比等の死後、その政権は、不比等の4人の息子たちに引き継がれていくことになり、その後、多少の浮沈を繰り返しながら、やがて、藤原政権は最盛期を迎えていくことになるのですが、この続きは、また、いつか。
2009年01月24日
コメント(8)
面白きこともなき世を面白く・・・高杉晋作の辞世の句として、よく知られた歌です。晋作は、第2次征長戦の小倉攻めのさなか、体調の不良を訴え、やがて喀血し、床に臥せるようになっていました。当時では、不治の病と言われていた肺結核にかかっていたのです。晋作は、下関郊外の桜山というところに「東行庵」(とうぎょうあん)と称した小屋を建てて、愛妾の、おうの とともにここへ移り、療養生活を送りました。「面白きこともなき世を面白く・・・」の歌は、この頃に、詠んだものです。晋作が書いた、この上の句に続けて「すみなすものは心なりけり」と、下の句を続けたのが、福岡の女性勤王家、野村望東尼(のむらもとに)でありました。晋作が九州に亡命している時に、彼女にかくまってもらったことがあり、逆に、望東尼が、福岡藩から弾圧を受けていると聞いた晋作が、奇兵隊士を送って望東尼を奪還。下関に亡命してきていた望東尼は、度々、晋作を見舞いに訪れていたのでした。面白きこともなき世を面白く すみなすものは心なりけり面白きこともない世だが、出来るだけ思いを通そうと思って生きてきた(晋作)・・・そう、それは心掛け次第なのですよ (望東尼)(gundayuu 意訳)死が迫っていることを自覚していた晋作には、決して思い通りに生きられなかったという悔いがあったのかもしれません。でも、それをどう感じるかは、きっと、心の持ち方次第なのでしょう。慶応3年(1867年)3月。高杉晋作、没。29才という、あまりにも若い死でありました。高杉晋作は、幕末動乱の世の中を駆け抜けた風雲児でありました。電光石火のひらめきを見せた天才であり、また、優れた変革者であったといえますが、反面、彼は、集団の枠の中には決して収まりきらず、孤独な一生であったのかもしれません。晋作の遺骸は、その遺言により、下関市吉田清水山に葬られました。晋作の死後、彼の墓を守り続けたのは、愛妾のおうのです。晋作の墓の近くには、妻の雅、長男の東一の墓とともにおうのの墓が、今もひっそりと建っているそうです。
2009年01月18日
コメント(14)
いよいよ、スキーシーズン到来。独身の頃は、年に3~4回程度はスキーに出かけていたのですが、結婚してからは、とんとご無沙汰。一昨年、何年かぶりに、スキーをしたのですが、何とか滑れはしたものの、膝は痛いし、太ももがパンパンになるなど、日頃の運動不足を思い知らされた次第。でも、この時期になると不思議なものでまた、スキーに行きたくなってきます。ところで、日本で初めてスキーが行われたのは明治時代でありましたが、それを導入したのが、長岡外史という人でした。長岡外史は、陸軍士官学校・陸軍大学をともに第一期生として卒業したというエリート軍人。日清戦争では、大島旅団の参謀として、平壌攻撃作戦に参加し、日露戦争では、山県有朋のもとで大本営に所属しました。参謀本部次長として、東京から203高地の砲撃作戦を指揮し、その後は、各地の師団長を歴任しました。また、退役後には、飛行倶楽部の理事長を務めるなど、日本の飛行機普及に携わったことでも知られています。日清戦争で大島旅団の参謀を勤めていた時、二宮忠八が飛行機製作の提案をしてきたのを却下したことがあり、後年、そのことを忠八に謝罪したという逸話も残っています。そうした、長岡外史の事跡のもう一つの側面が、日本で初めてのスキー導入でありました。明治43年(1910年)長岡外史は、越後高田第13師団に師団長として就任しました。当時、この師団には、軍事研究将校として、オーストリアからテオドル・フォン・レルヒ少佐が赴任してきており、レルヒがオーストリアのスキーの達人であったことから、長岡は、レルヒを教官として、スキーの研究を始めることを思い立ちます。長岡は、青年士官を集めてスキー班を作り10人の陸軍将校たちに、レルヒのもとスキーの講習を受けさせました。1カ月間に渡るレルヒの指導の結果、彼らはスキー術を完璧にマスターしたといいます。 さらに、長岡はスキーを軍事行動としてだけでなく、国民体育の発展のため、一般にも普及させようと考えました。長岡は、レルヒに一般へのスキーの指導も要請し、これを快く受けたレルヒは、軍人だけでなく民間人にもスキーを教えました。この受講生たちが、日本各地に散らばっていき、やがて、日本にスキーが急速に広まっていくこととなったのです。レルヒがスキー場として選んだのが越後高田の金谷山。この山頂には、現在も、「大日本スキー発祥の地」の記念碑が建てられていて、毎年2月には、「レルヒ祭り」と称した催しが行われているとのこと。長岡外史とレルヒ少佐。まさに、この2人の取り組みが、日本にスキーが普及していく礎となったのです。
2009年01月09日
コメント(8)
正月気分もまだ抜けないので、美術工芸の話を少し。江戸初期の才人で、日本のダ・ビンチとも称されている本阿弥光悦についてです。本阿弥光悦は、江戸初期の工芸家、書家、陶芸家、画家、出版者、など様々な顔を持つ芸術家。抜群のデザインセンスで、多くのジャンルにおいて名品を生み出し、今で言えば、まさに、マルチアーティストともいえる人でありました。そうした、光悦の美の世界を、代表作を通してたどってみます。まず、書の世界では「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流という流派をたてました。3代将軍家光からも「天下の重宝」と絶賛されたという書の達人です。「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(重要文化財)俵屋宗達の絵の上に、光悦が三十六歌仙の和歌を書いたもの。ちなみに、若き日の宗達を見い出し、世に送り出したのも、本阿弥光悦でありました。陶芸では、ロクロを使わず手びねりで制作した特徴的な茶碗を作りました。代表作は、楽焼茶碗の「不二山」(国宝)雪を冠した富士のような景色からこの名がつけられています。工芸の代表作は、「船橋蒔絵硯箱」(国宝)平安初期・源等の歌をモチーフにした豪華な蒔絵硯箱です。東路の 佐野の舟橋かけてのみ 思ひ渡るを 知る人のなきこの歌が硯箱に書かれているのですが、東路乃 さ乃ゝ“ ”かけてのみと、途中の「舟橋」の言葉がわざと抜かれていて、そのかわりに舟橋そのものを箱に描くという凝った趣向がとられています。光悦、57才の時、人生に大きな転機が訪れました。徳川家康から京都の西北、鷹ヶ峰への移転を命じられそこに広大な土地を与えられたのです。これは、豊臣方に通じたという嫌疑から、光悦を郊外へ追放しようとしたものであるとも言われていますが、しかし、光悦は、これを機に、この地に芸術村を築きあげようとしました。光悦の呼びかけに応じて、多くの金工、陶工、蒔絵師、画家、等が集まり、村には56もの家屋敷が軒を連ねるようになったと言います。彼はこの「芸術村」の経営と指導に当たりました。まさに、日本最初のアート・ディレクターでもあったのです。光悦は、古典文化を愛し、それに様々な創意工夫を加え、新しい形で甦らせようとしました。対象物をデザイン化して再構成したり、文字を絵の一部として装飾化して加えるなど、そのアイデアから変幻自在な造形美が生み出されていきました。光悦の芸術村は、美術史の中で日本のルネサンス(文芸復興)の地と呼ばれ光悦は、多様な才能から日本のダ・ビンチにも比されたりしています。光悦と宗達の2人は、琳派の創始者となり、その精神は、やがて、半世紀後の尾形光琳に受け継がれていくことになります。本阿弥光悦の存在は、その後の日本文化に大きな影響を与えたものといえるでしょう。
2009年01月04日
コメント(12)
あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。1月1日の元旦は、豊臣秀吉の誕生日であると言われています。一介の貧しい百姓の倅から、未曾有の立身出世を続け、戦国の世の天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。秀吉が、日本史上屈指の英雄であることから、一年で一番おめでたい日の生まれであるということは、彼の英雄性を象徴しているようでもあります。しかし、秀吉の生年月日については、いくつかの説があり、専門家の間では、秀吉が1月1日生まれであるというのは偽説であると言われているようです。秀吉の生年月日については、母親の大政所もよく覚えていないと語っていたようで、貧しい農家の生まれであるだけに、資料もなく、確かなところはよくわからないというのが、実情であるようです。秀吉の幼名についても、「日吉丸」という名が有名ですが、これも真実ではないようです。確かに、この時代、一介の百姓の倅がつける名前ではないのでしょう。幼青年期の秀吉については、一級資料と呼ばれるような確かな資料には記述がなく、秀吉の前半生については、実際に、はっきりしたことはわかっていないのです。出生から青年期に至るまでの秀吉のことについて、詳細に記述されている資料としては、小瀬甫庵という人の書いた「太閤記」があります。小瀬甫庵は、戦国末から江戸初期にかけて、数名の武将に仕えた医者で、隠居後、色々な武将の事跡をまとめる著述活動を行いました。その中の「太閤記」。しかし、甫庵はこれを読み物としてまとめ、その内容も面白おかしく書いたことから、一般には人気を博し、広く世間に流布していったようです。しかし、一方、この本の内容には嘘が多いということも、当時、定説となっていました。武将の間においては、あまりに嘘が多いと、甫庵は爪はじきにされていたとも言われています。秀吉が1月1日生まれであることや、「日吉丸」という幼名についても、甫庵の創作であると言えます。矢作橋での蜂須賀小六との出会いの話や、信長の草履を秀吉が懐で暖めて待っていた話など、青少年期の秀吉の有名な話は、甫庵「太閤記」が出典となっているものがほとんどなのです。では、秀吉が信憑性の高い歴史資料にいつから登場してくるかというと、永禄11年(1568年)のこと。信長が足利義昭を奉じて入京する際、江州の佐々木氏と戦った記事(「信長公記」)であるようです。この時、秀吉33才。この時には、秀吉はすでに、信長のもとで高級将校の一人となっており、この後、さらに、彼の類まれな機略と度胸と人心掌握力により、織田政権の中心人物へ、さらに、天下人へと駆け上っていきます。一般に信じられていることが、史実とは違うということは、よくある話です。しかし、一面では、この甫庵「太閤記」も、多くの人に出世物語の夢を与えてくれたものであった、とも言えるのかもしれません。と、まあ、相変らずとりとめのない話を、書き綴っている当ブログでございますが、本年も、何卒、よろしくおつきあい願えればと存じます。今年が、皆様にとって良い年でありますように。
2009年01月01日
コメント(20)
全5件 (5件中 1-5件目)
1