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幕臣でありながらも、新しい統一国家のビジョンを持ち、最後は、徳川幕府の解体に力を尽くすことになった勝海舟。立場上、歴史の主流にはなれなかったものの、彼は、個人の力によって歴史を動かすことが出来た人物の一人であったと思います。今回は、そうした勝海舟の生い立ちから青年期に至るまでを追いかけて見たいと思います。『勝海舟について』勝海舟は文政6年(1823年)の生まれで、父は旗本の勝小吉。海舟とは号で、佐久間象山よりもらった「海舟書屋」という書からつけたもの。通称は麟太郎といいました。『勝海舟の先祖について』勝の家は、旗本とはいっても、先祖代々の武士ではなく、海舟の曽祖父にあたる人は、放浪の盲人でありました。ところが、この人が利殖の才に優れていて、高利貸などをして大いに財をなし、旗本男谷家の株を買い取って、武士の身分を手に入れました。彼は、自らを男谷検校と名乗り、その子平蔵が男谷家を相続。この、男谷平蔵の三男が小吉です。やがて、小吉は旗本勝家の養子となり、海舟が生まれました。徳川封建制も、江戸時代後期になると、武士の生活が窮乏したために、金さえあれば武家の株を手に入れて、武士になることができました。勝海舟が、幕臣でありながら違う発想を持ちえたのは、こうした、履歴が影響しているようにも思われます。『勝小吉と幼少期の麟太郎』麟太郎が幼少の頃、勝家は貧しく、生活は貧窮を極めていました。父の小吉は小普請組という下級旗本で、禄高400俵あまり。小普請組というのは、要は無役の旗本のことで、役柄がないのでする仕事がなく最低の手当をもらっているだけ、一日ぶらぶらしているしかない生活だったのでしょう。小吉も役に就くために、しきりに運動をしたようですが、結局、生涯役につく事はできませんでした。勝小吉という人は、生来たいへんな暴れ者で、何度も家を飛び出して諸国をさすらい、無頼の徒と交わり、数年間座敷牢に入れられていた事もありました。そうした、身持ちの悪さが、役につく際の障害になっていました。麟太郎が生まれてからは、生計をたてるために、富くじの世話をしたり、刀剣の売買をしたり、加持祈祷のまねごとまでしていたようです。しかし、剣術だけは滅法強く、町道場主の間でも一目置かれていて、又、江戸っ子らしい気っぷの良さから、ちょっとした町の顔役でありました。小吉は、そうした、どうしようもない自分のような生涯を、麟太郎にはさせたくないと願い、麟太郎に期待をかけ、彼を一人前の人間に育て上げようとしました。小吉にとっては麟太郎の成長こそが、唯一の夢であったのです。麟太郎7才の時。江戸城本丸の庭を見物していたところ、その活発な挙措が将軍家斉にの目にとまり、家斉の孫初之丞のお相手として召し出されます。この時ばかりは、小吉も泣いて喜んだといいます。しかし、初之丞はその2年後、幼くして亡くなり、同時に麟太郎の御殿勤めでの出世の道も閉ざされました。この頃、小吉が隠居し、麟太郎が家督を継いでいます。『麟太郎、剣と蘭学に打ち込む』御城勤めから戻った麟太郎は、剣術と蘭学に打ち込む事になります。剣術は本家の男谷精一郎が開いていた道場に入門し、その高弟島田虎之助に就いて、修行に励みました。海舟は後年「若い時に本当に修行したのは、剣術ばかりだ」と述懐し、この剣術の鍛錬が、のちの艱難辛苦に耐えるのに役立ったと語っています。暑さ寒さも関係なく、寝る間もなく打ち込んでいたようです。21才の時、免許皆伝を受けています。一方の蘭学は、蘭学者・永井青崖に就いて学びました。麟太郎の蘭学修行は、貧しい暮らしの中で、工夫しながら精魂を傾けたものでした。いくつかのエピソードが残されています。(その1)日蘭辞書「ズーフハルマ」全58巻を一年がかりで筆写した話。当時、日蘭辞書はこの一種類しか刊行されておらず、それも、時価60両という大金でした。貧乏旗本の麟太郎には、とても手が出る代物ではありません。知り合いにこの辞書を持っている人がおり、麟太郎は年10両の約束で、この辞書を借りました。それからは、昼夜を問わずこの筆写に明け暮れ、全58巻を筆写。しかし、それでは借賃の10両が支払えないので、さらにもう一部を筆写。それを、10両で売り払うことで辞書を返却しました。(その2)新刊の兵書を、半年かけて訪問し続け、筆写した話。麟太郎は町で新刊の兵書を見つけました。その価格は50両。これも又、到底手が届きません。やがて、その本は売れてしまったのですが、麟太郎は欲しくてなりません。本屋から、その本の購入者を聞き出して、その人の元に訪ねて行き、貸して欲しいと頼みますが、聞いてもらえません。結局、深夜・夜10時以降なら構わないという事になって、麟太郎は、それから、一里半離れたその家を夜中に毎日通い、半年かけて、その兵書を書き写しました。麟太郎は、逆にその貸主よりも、その本の内容をよく理解して、貸主からは「私が持っているより、あなたにさしあげましょう」と言われたとか。麟太郎だけでもないですが、この頃の名を成すほどの人の、物事に対して取り組む姿勢、情熱は、並はずれたものを感じます。現代では、とてもそこまでは出来ないといったような・・・麟太郎、28才の時、蘭書と西洋兵学を教える塾を開設。次第に、世間に彼の名が知られるようになり、この頃には生活も安定してきます。そして、麟太郎31才の時、ペリーが来航。彼は、この非常時に際して幕府に意見書を提出し、やがて麟太郎は、幕府内でもその存在が認められ始めます。
2007年01月27日
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NHK大河ドラマ「風林火山」。毎週、楽しみに見ております。最初は、山本勘助って地味だし、華やかさもないし、配役もどうかな? という事もあって、正直それほど期待していなかったんですが、第2回まで見て、 いや これはいける と思いを改めました。内野勘助の熱演、脇役陣の確かな演技、緊迫感のあるドラマの展開 などこのままの調子で進めば、ますます、ドラマに引き込まれていきそうです。この後の、中だるみ、尻すぼみがないよう期待します。それと、Gackt謙信の出来がどうなのかも気になるところです。ところで、山本勘助は伝説の軍師といわれています。実在した人物かどうかも、話題になっています。それは、歴史家が一級資料と認める、信憑性の高い資料に山本勘助の名前が現れないために、その事歴・経歴に疑問が持たれている事によります。現在知られている山本勘助の活躍ぶりは、おもに、江戸初期に出版された「甲陽軍艦」という書物に記されたものです。この「甲陽軍艦」の作者は、甲州流軍学の兵学者小幡勘兵衛であるとされていますが、実際には、これを書き始めたのは、僧になっていた勘助の息子であるようです。彼は、武田信玄の事蹟を集め、編纂し、その中で父を軍師山本勘助として登場させました。それを、小幡勘兵衛が加筆し、武田家家臣・高坂弾正の遺稿と称して出版。そうした、経緯で「甲陽軍艦」は生まれました。しかし、江戸時代からもその記述には誤りが多いと指摘され、又、創作と思われる部分が多いと言われています。近年、「市川文書」と呼ばれる資料が発見され、山本勘助は実在していた事が裏づけられました。現在のところ、山本勘助は実在の人物であるが、軍師という重責を負う人物では、無かったのではないか、と言ったところが、一般的な見解でしょうか。それは、そうとしてドラマとは事実を描く事が目的ではありませんし、描かれる人間の生き様や、恋愛や、スリル、スペクタクルなどを見るものに与えるエンターテイメントなのだと思います。「風林火山」今後の展開が楽しみです。
2007年01月20日
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少し前ですが、出張で青森に行った時、棟方志功記念館に立ち寄りました。校倉造の小ぢんまりとした建物で、展示室は1フロアのみ。決して広くないのですが、これは「一点一点の作品をじっくりと見て欲しい」という、棟方志功の希望から、あえて広さを抑えているのだそうです。日本が世界に誇る板画家、棟方志功。力感のあるその作品群は、見るものを惹きつけて離さない凄み・迫力がありました。 若き日の棟方志功は、一枚のゴッホの絵に出会った事から、絵画の世界に魅了されました。地元の画家にゴッホの「ひまわり」を見せられてから、志功はたちまち絵画に夢中になり、『わだばゴッホになる』と叫び、絵の道に進むことを決意しました。周囲のものたちは、志功があまりに ゴッホゴッホと言うので、「風邪でもひいたのか」と言ってからかったといいます。記念館の隣の平和公園にある記念碑にも、この志功の有名な言葉が刻まれています。 大正13年(1924年)志功21才の時上京し、独学で油絵を学び始めます。昭和6年(1931年)には、初の版画集「星座の花嫁」を刊行。その後、生命力、躍動感に溢れた力強い傑作を数多く発表していきました。昭和27年(1952年)スイス・ルガノ国際版画展で、優秀賞を受賞。昭和31年(1956年)には、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展にて日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。20世紀を代表する、世界的巨匠と呼ばれるようになります。昭和45年(1970年)文化勲章を受賞。棟方志功といえば、大変な近視の為、眼鏡が板に付く程に顔を近づけて、板画を彫るスタイルが特徴的です。又、志功は、板の声を聞き、木の魂をじかに生み出すという意味から、版画ではなく、板画という呼び方をしていました。驚いてもオドロキきれない喜んでもヨロコビきれない悲しんでもカナシミきれない愛してもアイシきれないそれが板画です棟方志功の言葉です。板画を愛し、板画にその生命を燃やし続けた芸術家の姿が、そこにあります。
2007年01月14日
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玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの 弱りもぞする 式子内親王わが命よ、絶えるならば絶えてしまえ、このまま生き永らえていたら、こらえしのんでいる事が、弱くなってしまうといけないから。”この忍ぶ恋が、表にあらわれてしまうといけないからそれよりは、死んでしまった方がいい”と詠う感情を包み隠す恋。 辛く、哀れな恋の歌です。きっと、藤原定家好みの歌であると思います。この歌の作者、式子内親王は、源平争乱の中心人物、後白河法王の三女。源頼政と共に平家追討の口火を切った以仁王は、彼女の弟にあたります。肉親の相次ぐ死に遭遇し、幾度かにわたり反乱に巻き込まれたりと、幸せに恵まれない生涯でありました。しかし、歌人としては、多くの優れた歌を残し、新古今和歌集の代表的な歌人として評価されています。彼女の和歌は、定家の父、藤原俊成に学び上達していきました。恋の歌に秀作が多く、自らを内に閉じこめるような憂愁をこめた歌や、感傷的な追憶の歌を好んで詠んでいます。ところで、式子内親王と藤原定家は恋仲にあった、という伝説があります。中世になると、定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説から、能の題材に取り上げられ『定家』という演目が生まれました。実際はどうだったのでしょうか。定家は、式子内親王のもとで家司のような仕事をしていたとも言われています。折に触れ、内親王のもとに伺候していたのでしょう。又、内親王は定家から歌壇の動向や、歌作についての情報を得ていたことも当然あったものと思われます。定家の日記『明月記』に、しばしば内親王に関する記事が登場し、特に式子内親王の薨去の前後には、その詳細な病状が記されていることから、両者の関係が相当に深いものであったことは事実であるようです。しかし、内親王に関する資料があまりのも少ないため、これを積極的に肯定することも、否定することもできないというところが現状であるようです。歌の世界で共感しあう2人。あるいは、厳しい世情の中で、不幸が続く内親王に対しての定家の同情。そういう事が想像できますが、実際、お互いが惹かれあう条件は揃っていたのだろうと思われます。まさに、最高の忍ぶ恋であったのかも知れません。
2007年01月08日
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あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな 和泉式部和泉式部は、平安時代の歌人の中でも、屈指といわれる和歌の名手。伝統にとらわれない、情熱的な恋歌にその特徴があり、与謝野晶子など、近代の女流歌人にも影響を与えたといいます。恋愛遍歴が多いことでも有名で、藤原道長から「浮かれ女」と評されたことも。一条天皇の中宮に仕え、紫式部の同僚でもありました。大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立 小式部内侍この歌の作者、小式部内侍は、和泉式部の娘です。彼女には、偉大な母を持ってしまったジレンマのようなものが、多少あったのでしょう。百人一首に撰ばれたこの歌には、その詠んだ時のいきさつが伝えられています。以下、その概略。母の和泉式部が、夫の任地・丹後へ行っている時。京で歌合せがあり、小式部内侍もその歌人に選ばれました。そんな時、歌人の藤原定頼がやってきて、「お母さんに、歌の代役を頼んだんでしょう。使者は丹後からもう戻りましたか。」と、小式部内侍に言い、からかいました。この失礼な発言に対して、即座に詠んでやり返したのが、この歌です。~大江山を越え、生野を通って行く道が遠いので、まだ天橋立は踏んでみたこともありません。”ふみ”は 踏み と 文 を掛けていて、”丹後のお母さんからの文も見ていません”の意味を持たせています。定頼もこれには、返歌が出来ず、立ち去ったといいます。掛詞を用いた、言葉遊びのようなやりとりは、王朝和歌の楽しさの一つです。今の日本人は、あまりそうしたセンスを持っていないですね。百人一首の選者、藤原定家も、こうした才気ある女性を好んだようです。
2007年01月04日
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。みなさん、新しい年を、どのように迎えられたでしょうか。正月の楽しみかたには、色々ありますが、「百人一首かるた」も正月の楽しみの一つだと思います。それぞれが、自分の好きな歌・得意の札を持っていたりして、その得意な札を、相手に取られた時の悔しいこと・・。秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ 左京大夫顕輔私の得意の札です。しかし、何故この歌が得意の札になったのか・・それは、よくわかりません。私も、学生時代には、百首すべてを諳んじていたんですが、年月は色々なものを忘れさせてくれます。今はとても、すぐに下の句が出てこなくなりました。百人一首は、ご存知のとおり、鎌倉時代初期の歌人・藤原定家が撰んだ歌集です。代々の勅撰和歌集から1歌人1首、計100首を撰んだもの。京都・小倉山に定家の山荘があったため、小倉百人一首と呼ばれています。南北朝から室町時代にかけては、和歌を学ぶ人の入門書として、よく利用されていたといいます。江戸時代には、ポルトガルから伝わっていたカルタと結びつき、やがて「百人一首かるた」として庶民の間にまで広まっていきました。今や、かるたとして、定着している百人一首ですが、藤原定家がこの百首を撰んだ経緯・選択基準については、残された資料が少ないため、その成立については謎に包まれている部分が多いようです。1番の天智天皇から100番の順徳院までの並び順。基本的には、時代順に並べられていますが、この順番も、各歌人の人間関係や逸話にまで細かく心を配って、撰歌・配列されているといいます。100首の歌の内容としては、恋の歌が最も多く、約半数を占め、中でも、忍ぶ恋が定家の好みであった事が伺われます。百人一首が編まれた時代背景は、源平合戦が行われ、貴族から武士に政権が移っていく、激動の時代でありました。おそらく定家は、平安文化の終末を惜しみながらも、その輝きを後世に伝えておこうとしたのではないでしょうか。百人一首には、歴史上の有名人が数多く登場し、その歌や歌人にまつわるエピソードも、多く残されています。百人一首は面白いものだと思います。
2007年01月01日
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