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やまゆり園の事件から8年が経った。8年も経ったのか。まだ1年か2年程度の気がする。事件以降、私自身は、障碍者であること、障碍で何ができないのかを、強く意識するようになった。社会的に改善されたことがあるのかは、正直まったく分からない。1日いろいろ取りとめなく考えていた。いざ書いてみようとしても、ダメだ、まとまらない。。。8年かけてもまだ気持ちも考えもまとめられない、そういう事件だ。今年も平日で、献花に伺えなかった。NHKのお昼のニュースで流れるだろうと見ていた。映し出されたので、そっと手を合わせた。来年は土曜だろうから、体調が許せば、また献花に伺いたい。
2024/07/26
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高校の仲間が首吊り自殺をしてから、今日で20年。その10年ほど前に、私は自ら精神科通院を決め、虐待トラウマの治療を始めた。当時は、今以上に精神科の敷居が高かったから、身近な仲間には精神科を話題にした。その時に、なんとなくそんな話題は避けたがってるように感じる人がいて、彼には話さないようになった。首吊り自殺したのは、その彼。まさに彼こそが、話すべき人だったのかもしれない。彼が精神科に通院していれば、自殺せずに済んだかもしれない。しかしそういう人ほど、例えば自分の弱さに向き合えなかったりして、精神科の話も聞けなかったのかもしれない。あれから20年。仲間はみんな、彼の命日は忘れているだろう。彼を嫌いになれない。なりたくない。あの彼が自殺したなんて思い出したくない。受け入れられない。受け止めるには衝撃的すぎた。受け止められるだけの強さがない。そうすると彼を話題にできない。話題に上らなくなる。それで、そのうち忘れていった。それでいい、忘れていいと思う。彼の自死を受け止め続けてきた私も、自分自身に希死念慮があって、自殺は他人ごとではなかったから、自分の希死念慮に向き合い続けた結果として、彼の自死を受け止め続けたに過ぎない。今もまだ精神疾患への差別・偏見は根強い、と当事者として思っている。車椅子の人に「階段を昇れ」という人は普通いない。けれど精神疾患は、目で見えないし、理解しにくい。あからさまに精神疾患者を侮蔑するケースは昔よりは減っていると思いたいけれど、周囲が理解不足から「階段を昇れ」と同等のことを言っていたり、本人に病識がなくて「他の人は昇れているのに」と自分を責めたり、ということは解消されていないのでは。精神疾患者への、エスカレーターやエレベーターに該当するような社会的なサポートって、あるんだろうか。考えてみたけど思い当たらない。精神疾患者への差別などをなくすのも大事だろうけど、それより、自分を省みて「なんかおかしいかも?」と思った時に、自ら精神科にかかれるといいな。精神疾患者を差別せず見下していない人でも、いざ自分が精神科にかかるとなると、ためらうのでは。風邪気味の人に「内科に行ってきたら」と言うように、メンタル落ちてる人に「精神科に行ってきたら」と言えて、「行ってきたよ」と答えてもらえるといい。身体は、年に1回の人間ドッグでいろいろ検査する。肝臓が弱いとか高血圧とかコレステロールが高いとか、病気でなくても、自分の傾向が分かる。精神では、そういった定期検診がない。それなら一層、普段から精神科のかかりつけが必要なのに、逆に、まだまだ敷居が高くて精神科にかかりにくい。身近に精神疾患の人がいたり、精神疾患の人の文章を読む機会があったりすれば、少しでも精神科が身近になって、その人に何かあった時に精神科にかかるという選択肢が頭をよぎれば、もしかしたら自死を防げるかもしれない。そんな思いがずっとある。それもあって、このブログに今まで自分の精神疾患を書き綴ってきたし、身近な人には話すこともあった。もう今は、他人様の悩み事を聞いてあげられるようなパワーはないけれど、このブログは、ささやかながらこれからも書き続けたい。やっぱり、彼に生きてて欲しかったから。
2024/07/24
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つい先ほど、スマホに電話がかかってきた。知らない電話番号。+28-929-3041。怪しみながら電話に出た。「こちらは入国在留管理局です」と女性の合成音声で名乗り、その後に「ツォオ チャン ツィイー」と中国語っぽい言葉が続く。私には何の関係もないので、電話を切った。心当たりのある人は、切れなくて、この手のサギのカモになるのだろうか。念のためググって、「入国管理局」が平成31年4月1日に「出入国在留管理庁」に名称変更されていた、のを知った。つまり「入国在留管理局」は存在しない。日本では、いきなりお役所から電話がかかってくるって、基本ないんじゃないかな。悪い内容にしても、いい内容にしても。悪い内容として、例えばこちらに何らかの落ち度がある場合なら、封書が届く。何度でも何年でも送りつけてくるけど、電話はない。いい内容として、例えばこちらに困り事があって支援を受けたい場合、そもそもどんな支援があるかを調べたのは自分だった。そうしてお役所などに足を運び、どんな書類が必要か教えてもらって、こちらで全ての書類を用意して、書類不備などがあれば何回も何回も足を運んで、その上で、審査を通れば、やっと支援を受けられる。お役所の方から「こんな援助がありますよ。どうですか」と電話をもらったことなんて、今まで一度もない。外国では違うのかな。知らんけど。
2024/04/26
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外階段にミモザの花が散り敷いていたので、掃除をしていた。すると、どこかで軽い爆発音がして、水音も聞こえ始めた。うちの周りは音が反響する。どこから聞こえているのか分からない。まあ、爆発音のように聞こえたのは気のせいだろう、水音は何らかの作業をされているとかだろう。と思って、掃除を続けていた。しかし、いつまで経っても水音が切れることなく終わらない。結構な水量が流れ続けている。何かおかしい。周りを見渡したら、音源はすぐ見つかった。お隣のベランダから、水が大量にしたたり落ちているのだった。すぐにお知らせしようと思って、でも、、、。どうしよう。長時間水を流し続ける作業をされている最中なら余計なお世話だし、こちらに音で迷惑を掛けたと思わせてしまったら余計な気遣いをさせてしまうのでは?もし水漏れが起きているとして、こんな失敗を指摘したら、不快にさせてしまうのでは?たまたま、人との距離感が分かってなくて大トラブルになって落ち込んでいる所なのに、こういうことをお知らせすることで、またもや近付きすぎになって、またもやトラブルになって傷付くのでは?こういうネガティブな内容をお知らせして大丈夫な間柄だろうか。いやでも近付きすぎも何も、お隣なんだけれど。何がどこまで大丈夫で、どこから問題でトラブルになるのか、すっかり分からない。自分が情けなかった。主人に、斯く斯く然々と説明。主人はすぐ2階に上がり、ベランダからお隣を見て、車がないから外出中と見当を付けた。そして「ベランダから水が滴っています」と書いたメモを持って、お隣に向かい、玄関にメモを貼って、帰ってきた。「こういうのはお知らせしていいの?いいんやね。ああ、気付けて良かった。お知らせしてくれてありがとう」その後も掃除を続けた。滴り落ちる水音はかなり激しい。滝のよう。間違いなくマイナスイオンが発生している。掃除が終わっても、夕方に私たちが買い物に出掛ける時にも、お隣の水漏れは続いていた。すっかり暗くなって帰宅したら、お隣の家に電気がついていて、水漏れは止まっていた。
2024/04/08
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昨日、津久井やまゆり園に献花に行けた。 海老名を出た時は降ったり止んだり。 津久井に向かって、山の中に入るにつれ雨足が激しくなり、着いた頃はすっかり激しい土砂降りだった。 あれから四年。 最初に事件を知った時は、テロだと思った。弱者を狙うなんて醜悪だと思った。 その後、「意志疎通のできない重度の障害者は、不幸かつ社会に不要な存在であるため、重度障害者を安楽死させれば世界平和につながる」という優性思想が出てきた。しかも犯人は、障害者との接点のないおかしな思い込みどころか、寄りによって施設の元職員だった。 頭の中がぐちゃぐちゃになった。 私自身も障害者。生きていていいのか。いじめで幾度となく「死ね」「死ね死ね」と言われてきた。自ら死ななければいけないのではないか。 何だかんだで、似たり寄ったりの苦悩をした障害者は、おそらく少なくないだろう。 自らが障害者であることを、真正面から捉え直した。 気持ちや考えの整理に、何年かかかった。 そのうちに裁判は進み、犯人の元施設職員は、死刑判決となった。犯人は上告しなかったので、死刑で確定した。 まだ執行されてはいないよう。 献花台に花を置いて、手を合わせた。 唐突に、膨大な無念で気圧されたようになった。涙がボロボロとこぼれた。 これまで私は、被害に遭われた方々のことを十分に想えてなかった。自分の気持ちや考えばかりだった。 唐突に無念が流れ込んできた。そりゃそうだろう。明日も明後日も生きられるつもりだったのに。あんな残虐な形で、いきなり命を絶たれてしまって。 今も無念でたまらないのかもしれない、そんな念のようなものが残っているのかもしれない、と感じた。 帰宅してからも、ふっと気がゆるむと泣ける感じだった。 施設は、解体工事が進んでいた。 一通り取り壊されて、新たに建て直されて、また利用者さんの明るい声が響いて笑顔が広がることを、一番に願われているように勝手に感じた。 改めて、元施設職員の意味不明な思い込みでの決め付けで、あまりにも残虐で凄惨な事件が起きてしまったことに、震え上がる。 判決は死刑。 障害があるから死ね、という考え方はされない。むしろ、この国の方向性は、病気や障害を抱えていても生きられるシステム作り。 しかし、他者に著しい危害を加えた者は、法の下で殺される。 シンプルにそれだけのこと。これが今の日本。 けれど、今から100年前なら、300年前なら、違っていただろう。。。 私には、会ったこともなく「意志疎通のできない重度障害者」が、生き続けたいと願っていたのか、1日も早く死にたい楽になりたいと思っていたのかは、分からない。 けれど、殺傷される刹那のあまりの無念のようなものをいくばくかを感じたように思えて、一方的な思い込みで殺すのは間違っているという、ごくごく当たり前のことを思った。 この、無念を感じた、というのも思い込みや思い過ごしなのだけれど。 今、時間は夜中の2時を回った。 今この時間帯に事件が起きていた。 いろいろ、思う所は多々ありすぎて、うまくまとめられなかった。
2020/07/26
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2019年1月24日、千葉県野田市で小学四年生の女児が虐待で亡くなる事件が起きました。亡くなった女の子が、心安らかに向かうべき所に行けますように、祈ります。1.虐待案件の現状2.事件のあらまし3.虐待家庭の日常4.私の体験談5.周囲でできること ・189の周知 ・学校関係者への要望 ・児童相談所への要望 ・その他の方々への要望6.最後に、思うこと1.虐待案件の現状もしかして、虐待死亡事故報道は年2~3回だから年2~3件程度あるもの、と誤解されてはいないでしょうか。児童虐待による死亡事例の推移(児童数)より虐待死亡は、心中を除いて年間約50人。ほぼ毎週1人が亡くなっています。児童虐待そのものは、どのくらいでしょうか。厚生労働省 平成29年度の児童虐待対応件数を公表に、次のように記載されています。児童虐待相談対応件数 13万3778件(前年度比1万1203件増)【内容別】 心理的虐待 7万2197件 身体的虐待 3万3223件 ネグレクト 2万6818件 性的虐待 1540件これらを把握した上で、そのひとつ、野田市の虐待死亡事件に着目します。2.この家庭で何が起きていたのか日本経済新聞さんのサイトの内容を、時系列でまとめなおしました。●家族構成・女児(10) 小4・父親(41) 会社員 千葉県出身・母親(32) 沖縄県糸満市出身・妹(1)●時系列【2017年】7月 女児は小学3年生。家族は、母親の実家のある沖縄県糸満市に住んでいた。母親の親族から糸満市に「父親が女児に恫喝している。母親にも支配的で外出や携帯電話をチェックしている」と情報提供があった。市は自宅訪問したいと求めたが、父親が応じなかった。8月 家族は千葉県野田市に転出し、女児は転校。糸満市は、家族に関する情報を野田市に連絡。11月6日 女児が、学校のいじめアンケートの自由記述欄に「お父さんにぼう力を受けています」と書く。顔にアザがあった。欄外の書き込みは、当時の担任が「けられて今もいたい」「なぐられる10回(こぶし)」「口をふさいで」「ゆかにおしつける」妹の面倒を見なかったら「せなか首をちからいっぱいける」「おきなわでは、お母さんがやられていた」などを聞き取ってメモしたもの。(「10回殴られた」と聞き取りも 死亡小4女児アンケートより)11月7日 柏市児童相談所(以下、柏児相)は女児を一時保護。この後、柏児相は父親と8回面談。父親は虐待を否定。医師は、女児に心的外傷後ストレス障害(PTSD)の疑いがあると診断。12月27日 柏児相は、女児の親族宅での生活を条件に一時保護を解除し、父親に「落ち着くまで女児と2人きりで会わない」と約束させた。行政上の措置ではなく、誓約書は取らなかった。(結果的に)この日以降、柏児相による自宅訪問はなかった。【2018年】1月12日 父母・学校側・市教委が学校で面談。野田市児童家庭課は、一時保護で印象を悪くしているためいない方がいいと判断して欠席。父親は「家族を引き離された者の気持ちが分からないのか」「保護が解除されたのは暴力がないという証しだろう」「訴訟を起こす」などと強く抗議。アンケートの閲覧と複写を要求。学校側は、個人情報で、女児本人の同意がないことを理由に拒否。父親は「実物を見せろ」と迫り、情報開示や信頼できる学校運営を誓う念書を要求。1月13日 学校は、父・親族宛に校長名で、前日の面会で父親が示した文面通りの念書を出す。1月15日 父母は、市教育委員会(以下、市教委)へ。父親は、女児本人が書いたアンケート開示の同意書を持参。母親も、女児が書いたものと認めた。市教委は父親に、アンケートの欄外書き込みを消した上で、コピーを渡す。「威圧的な態度に恐怖を感じ、屈して渡してしまった」。柏児相への事前相談なし。1月18日 父親は、女児を転校させる。女児は親族宅預かりのまま。2月20日 市教委は、市要保護児童対策地域協議会(市・柏児相・野田署などの構成)で、コピーを渡したことを事後報告。2月26日 柏児相職員3人が、親族宅を訪問して面談。自宅に戻せるか判断するためのもの。父親は、女児が書いた「お父さんに叩かれたというのは嘘です」書面を提示。お父さんに叩かれたというのは嘘です。小学校の先生に聞かれて思わず言ってしまいました。お父さん、お母さん、妹、〇〇(親族の呼び名)にたくさんの迷惑をかけてしまいました。ごめんなさい。ずっと前から早く4人で暮らしたいと思っていました。この間のときにも言いました。お父さんに早く会いたいです。児童相談所の人にはもう会いたくないので来ないでください。会うと嫌な気分になるので、今日でやめてください。お願いします。(千葉小4死亡事件 女児が父親に書かされた書面の要旨より)「娘と会わせないとの指示に法的根拠はあるのか。ないなら従う義務はない」「今日で連れ帰る」「名誉毀損で訴える」などと女児の帰宅を要求。 親族が「何も言わないんですか」と尋ね、職員は「止めれば覆るんですか」「児相としていいとは言えない」と発言。事実上押し切られた。(大声やひどい言葉やテーブルを叩くなど威圧感が激しく、また要求が一方的で会話成立が困難で、疲弊しきっていたのでは。)2月27日 柏児相から市へ「女児は自宅へ戻ったと思われる」報告。父親は、転校先の小学校へ「今後は妻が娘を送り迎えする。第三者が来ても娘を引き渡さないように」と連絡。2月28日 柏児相の所内会議で、女児の帰宅を追認。児童福祉司の意見書もなく、帰宅を認めた結論についての記述もなく、虐待リスクが高まったことを認めた上での帰宅決定。3月19日 柏児相、女児と転校先の小学校で面談。学校側は同席せず。女児が帰宅していること、「嘘です」書面は父親に書かされたことを、ここで確認。父親が仕事で不在で女児が自宅に戻った際、母親に父親から「こういう手紙を書くように」と内容を記したメールが届き、女児はそれを書き写した。柏児相は当初から、女児の本当の気持ちで書かれたものかを疑っていた。(この書面を書かせたことも虐待に当たる。)柏児相は、学校が様子を見守り、気になることがあれば連絡するよう依頼していた。柏児相側も早急に動ける態勢を取っていた。しかし転校先の小学校は、これまでの経緯を知らない。柏児相と学校が情報共有した記録は残されていないが、口頭で伝えた可能性はある。学校側は、事件後に「書面のことを把握していれば、父親がそういうことをする人だとの認識を持って対応できたかもしれない」としている。4月 女児、小学4年生に。学級委員に立候補。6月 学校のアンケート「いじめはありますか」に「いいえ」と答える。9月 夏休み明けに10日ほど休む。9月10日 父親から学校へ「母親が沖縄にいるため、女児は親族宅から通わせる」と連絡。学校は柏児相に伝える。11月 学校のアンケート「いじめはありますか」に「いいえ」と答える。12月22日 女児、冬休みに合わせて、親族宅から自宅に戻る。12月30日ごろ~1月3日ごろ 父親が女児の顔を浴室床に打ちつける、膝でのし掛かる、胸や顔を圧迫するなどの暴行。胸の骨折や打撲。父母ともに女児を治療させず、女児のあざを隠すために自宅軟禁して外出させなかった。【2019年】1月7日 女児、始業式を欠席。父親が学校に「妻の実家(沖縄)に帰っているため少し休む」と連絡。1月11日 父親が学校に「休みを1月いっぱいに延長したい」と連絡。1月21日 柏児相、女児が始業式から休んでいることを把握。1月22日ごろ この頃から父親は、眠っている女児を起こして立たせて眠らせない、食事を与えないなどの虐待。母親「止めても無駄だと思った。どうしようもなかった」。1月24日 父親は、午前10時から女児を立たせたまま休ませず、冷水シャワーを掛け続ける。23時10分、父親が「娘の意識と呼吸がない」と110番通報。23時20分、救急隊が到着。女児は服は着ていたが全身が濡れた状態。女児の死亡を確認。既に死後硬直(死後2~3時間は経過)。この後の司法解剖で、肺から水が検出され、胃の内容物はほぼなく、骨折や複数の皮下出血や変色があった。死因は不明。1月25日 父親逮捕2月4日 母親逮捕時系列まとめここまで 私は被虐待当事者です。父親の半殺しも、母親のネグレクトも、日常茶飯事でした。おそらく、程度の差は五十歩百歩で、この家族と大差ない家庭で生まれ育ちました。(恥ずかしながら、ここまでこれだけまとめるだけでも、かなり大変でした。) 書き出す前から、そして書いている今も、「半殺しやネグレクトが日常だった私が、親どころか他人から半殺しにされた経験さえ一度もない人に、この家族特有の異常な日常をどう伝えたら伝わるのだろうか」と不安です。 どうか、この時系列で分かった気になって誰かを批判するのは、止めて下さい。学校・市教委・児相に、普通なら考えられない対応があったとしても、それほどまでに父親の態度が異常で高圧的だったのかもしれません。皆さん、ただの人間です。身の危険を感じれば恐怖します。誰もが、何よりもまずは自分の身を守る必要があります。3.虐待家族の日常 一般的な家庭は、割と、横並びな人間関係かと思います。 虐待家庭の特徴は上下関係です。会社や部活のようではなく、「完全支配ー絶対服従」です。イメージとして、第二次世界大戦下の旧日本軍が近いでしょうか。 この父親は、家庭内を完全支配しただけでなく、柏児相や市教委をも完全支配しようと、はなはだ威圧的で攻撃的な態度だったのでしょう。更に自分を、虐待する加害者であることを認めず、「娘を引き離された」と被害者としてふるまう辺り、対応は非常に難しかったでしょう。 そういう父親が、職場では非の打ち所のない勤務態度だったようです。私の父も、自営業でまともにお金を稼いでいました。 おそらく、職場では「絶対服従」で波風を一切立てなかったのでしょう。その無茶の反動ストレスを、家庭での「完全支配」で吐き出して、危ういバランスを取っていたのでしょう。 母親も子供も、常に父親の言葉や身体の暴力に晒され続けていたのでしょう。 どうしていつもこんな目に遭うのかと思った時に、そこで「お父さんが悪い」と考えて父親と対峙すれば問題解決できそうですが、あまりにも圧倒的で理不尽な暴言や暴力に晒され続けると、そんな気力は生まれなくなります。ただただ生き延びるので精一杯です。おまえが悪いと言われ続けれるままに、「暴力をふるわれるのは私が悪いんだ」と受け止めてしまうのです。 父親は、自らの暴力に罪悪感を持たないように、相手に非があると自らを正当化する必要があり、そのため、ますます暴力をふるって、相手に落ち度があるように仕立て上げていたのでしょう。 母親も子供も、暴力をふるわれるたびに、ますます「やっぱり自分が悪いんだ」で思考停止して、それ以上自分が傷付くことから自分を守るので精一杯の状態で、その場その場だけをしのいで生きていたのでしょう。虐待をされるという体験は、強い恐怖や不安、怒りや抑うつ、無力感やあきらめ、孤立無援感などの否定的な感情をもたらすほか、自責感や罪悪感、自尊感情や自己評価の低下、安心感や信頼感の喪失など、否定的な認知を強める。また、対人関係、学習能力、日常生活における問題解決能力、感情調整や行動制御能力などにことごとく影響を及ぼし、心身の健全な発達を阻害する。(虐待ーWikipediaより)4.私の体験談 私も、まだ3歳になるかならないかの頃から、物心つく前から、母が半殺しにされているのを、いつも見ていたように思います。子供の私が母を助けに入れたことはありませんでした。 そして私も、日常的に半殺しにされていましたが、母が止めに入ってくれた記憶はありません。私がお母さんを助けない悪い子だから、お母さんも私を助けてくれないんだと思っていました。 父には「おまえが悪い子やで、直せるように、いい子になれるように、殴ったり蹴ったりしてやっとるんや。オレだって手や足が痛いけど、おまえのためを思ってやったっとるんや」などと言われて半殺しにされていました。 小3の時に、妹たち(双子)が生まれました。妹たちも頻繁に半殺しにされていたと思います。 一度だけ、末妹がメタメタに殴られていたのを目の前で見て、いきなり私にスイッチが入ったかのように、地響きのような言葉にならないうなり声をあげて父に突進して、末妹を庇ったことがありました。 それ以外は記憶にありません。互いに見て見ぬ振りをして、自分の身を守っていたのかもしれません。 家庭や学校で凄まじい暴力をふるわれていたことは、知識としてあるのですが、体験としては、50歳の今もまだ全く思い出せません。解離性健忘という状態です。母や祖母や妹たちへの暴力も、同様に思い出せません。 実は、48歳の時にあることがきっかけで、ほとんど食事のない凄まじいネグレクトで、状況的に何度か餓死しかかっていたのでは?と推察させる記憶が、続けざまに2件出ました。全く知らなくて、心底からびっくりして、大ショックでした。そして49歳で今度は、性的虐待の記憶が1件出ました。覚悟はしていましたが、大ショックでした。とにかくあまりにも気持ちの悪いものでした。 暴力の記憶は、まだ何もありません。右前歯が差し歯なのは、父に殴られて折れたからなのを40代になって自覚しました。ずっとなんとなくモヤモヤ忘れていました。何がきっかけで殴られたのか、歯が折れた時の痛みはどうだったのか、顔にアザなどできたのか、他にどのくらい殴る蹴るされたのか、そういったことは全く思い出せません。ただ、折れた前歯を拾ったのは自分だったことは思い出しました。 虐待の記憶の大半は、まだまだ、深い深い霧に包まれています。その記憶で私が傷付かないように、無意識が私を守ってくれています。 記憶を解離させ続ける反動なのか、ずっと鬱状態です。他にもPTSD(追体験・回避・過覚醒)はじめ様々な症状を抱えています。15年ほど前から8年間ほど、ほぼ寝たきりでした。今もまだ寝たり起きたりの生活です。精神障害2級です。 もうとうに父も母も他界しました。しかし元凶が両方死んでもなお、様々な症状や体調の悪さは変わらず、虐待の過去も消えません。当たり前ながら、最初から虐待のないのが一番です。5.虐待について周囲でできそうなこと●189(いちはやく:児童相談所全国共通ダイヤル)の周知 110番で警察につながるように、189番に電話することで児童相談所にアクセスできます。虐待案件に限らず、子育て相談などにも応じてもらえます。●学校関係者への要望 あざなどのある身体的虐待は判りやすい一方、ネグレクトや性的虐待は判りにくいかと思います。もし次のような兆候があれば、気に掛けて頂けますか?・病気をしていないのに体重が落ちた←ネグレクトかも・夏休み明けに体重が落ちた←ネグレクトかも・虫歯が多い←ネグレクトかも・何日も入浴していない←ネグレクトやうつ病など・体育の授業を見学したがる←着替えで暴力のアザがばれないよう隠す(身体虐待)、短パンや水着を嫌がる(性的虐待)など・絵を描けない←なんらかのメンタルケアが必要かも 身体検査などの結果をどなたかが一括してチェックされて、状況に応じてスクールカウンセラーなどの支援につなげて頂けるとありがたいです。 これは、ほとんど私の経験談です。今から思うと、記憶を解離していたので、先生などに「うちにはごはんがありません」などを伝えようがなかったのです。「○歳なんだし、何かあれば自分で言えるだろう」ではないのです。 もうひとつ、お尻や胸や性器を触られたり、後ろから抱きつかれたりした時に「ぎゃーっ!!」と大声を出させる授業をお願いします。性的虐待や性犯罪の防止になります。小1など小さい頃からやって欲しいです。特殊支援学校のお子さんには特に力を入れて頂けると嬉しいです。●児童相談所への要望 年間13万件以上にご対応いただき、たくさんの命が救われていることに、心から感謝します。 何よりもまずご自愛下さい。今回の事件で、たくさんの皆様方が胸をかきむしられる思いでいらっしゃることと思いますが、救う立場の方々がよろめいていては安心して頼れません。 一件、当事者として気になったことがあります。一時保護についてです。 一般的に、女の子の顔に手を挙げてアザができるほど殴るのは非常識だ、というのは分かります。けれど、原家族での自分自身の感覚だと、殴られたぐらいで一時保護は唐突すぎるとも感じるのです。 できれば初期介入は、児童の味方でもあり、父親の味方でもあり、母親の味方でもあって欲しいのです。誰もにとっての「児童相談所は安全だと安心できる相談所」をお願いします。 しかし、私は、最後の顛末を知ってから、遡って事件の報道を見ています。今となって、例えばお母さんだけでも児相への信頼があれば、夏休み明けに休んだ時や年末年始の暴行時に、児相に助けを求められたかもしれない、と思うだけのことです。もしリアルタイムで身近で見ていたら、すぐさまの一時保護に(内心で当惑したとしても)安堵した気がします。私が今になって言っているのは、サッカーのPK戦で「今のシュートは右に蹴られたのだから、キーパーは左ではなく右に飛ぶべきだった」という結果論でしかありません。●その他の方々への要望・自治会(町内会)に入る ゴミ当番や清掃活動や防災訓練などに日頃から参加し、地域コミュニティに自分たち家族の居場所があるのは大事なことだと思います。(もちろん単身世帯も自治会に入って下さい。)・マスコミ報道に煽られない、踊らされない 今回なぜか、児童相談所にナンセンスな抗議電話が殺到したようです。見ず知らずの無関係者が電話をしてもしなくても、死んだ女児は生き返りませんし、両親も逮捕されていたのに。 たださえ多忙な児相を、一層疲弊させただけではないでしょう。その抗議電話のせいで、もし本来の相談・通報電話がつながらなかったりして業務に支障を来せば、それこそ虐待死につながる可能性が大いにあります。 今後、抗議電話をした人は公務執行妨害で逮捕されるべきでしょう。それだけでなく、煽動したマスコミ報道の番組プロデューサーや編集長なども、デマ拡散による公務執行妨害で逮捕されるべきでしょう。表現の自由という権利を行使するのなら、義務も果たして下さい。・冷静になる 虐待死亡事件が起きると、日頃は温厚そうな人でもSNSなどで「容疑者をコ○セ」「○ねばいい」「同じ目に遭わせてやりたい」などと書き込むため、凄まじい恐怖を感じます。 被虐待者の約2割で虐待が連鎖すると、何かで読んだことがあります。私の場合、父も母も、それぞれ問題を抱えた家庭で生まれ育っていました。私は、縁あって結婚したものの、子供に恵まれないという形で虐待の連鎖を断ち切りました。最近になり、虐待による脳へのダメージ(萎縮など)が解明されています。おそらく私は、もし子供を授かっていれば、意図せず虐待を連鎖させた2割でしょう。 そんな私から、どうか虐待報道に接したら冷静になって下さい、とお願いします。 虐待に遭った人が、結婚して、子供を授かって、その人なりに頑張ろうにも、どっちに向かってどう頑張ればいいのか分からず、一番避けたかった虐待の連鎖をやってしまっていることが本人にとってひどすぎて自覚できず、その挙げ句での惨劇に、胸を痛めるより「同じ目に遭わせろ」ですか? 虐待に遭って生き抜いた人を、なぜそんなにも、また虐待に遭わせたいのですか?そしてコロ○たいのですか? あなたは、なぜ「私は、虐待という完全支配ー絶対服従という手段で、この容疑者をコロ○たい」という意思表明を、SNSで全世界に向けて発信せずにはいられないのですか? この夫婦は、妊娠が判った時から小四で殺害するつもりだったのでしょうか。きっと違います。妊娠が判った時も、無事に出産した時も、嬉しかったはずです。亡くなった女児の名前は、すっごくカワイイです。絶対に、心から愛しんで育てるつもりだったと思うのです。 私は、亡くなった女児のご冥福と、ご両親が今度こそ「完全支配ー絶対服従」以外の関係性を築けるようになることを、心から祈るばかりです。6.最後に、思うこと これまでずっと、虐待死亡事件の報道を目にするたびに、死ねた被害者が羨ましくて、そんな自分に嫌気がさして罪悪感が起きるのでした。それでも現実に冷静に考えて、私も殺されてた方が楽だったよなー、と思われてしまうのです。 今回思うところあって、この事件を調べました。PTSDが出まくり、ストレスが身体化して、めまい・吐き気・耳鳴り・頭痛・だるさなど、連日ひどいものでした。特に「司法解剖で胃の内容物がなかった」を読んでからはしばらく、食事をするのが苦しくて申し訳なかったです。 主治医には「自分の意思でやるのを止めはしないけれど、本来は入院してカウンセリングを受けながらやるような作業だからね」と言われました。「いつでも入院できるからね!」と念押しされました。ムリせずぼちぼちやりました。入院せずに済みました。 偶然にも、こちらの家庭環境とは、虐待以外にも重なる部分が多くありました。亡くなった女児と同じように、私にも9歳下の妹がいます(私の妹は双子です)。この双子の妹は、容疑者の父親と年が同じです。真ん中の妹には子供が4人いて、末の男女2人(これまた双子)が、亡くなった女児と年が同じです。亡くなった女児に、かわいい姪っ子が重なりました。 家でも学校でも、いつも殴られて蹴られて半殺し。自分がなぜ生まれて生きているのか分かりません。楽になりたいのに、自殺するパワーがありません。妹たちや母や祖母のために長女の私が父を殺さなくてはいけないと思うのに、そのパワーもありません。余計に自分なんか生きてちゃいけない死ななきゃいけない、いつもそう思っていました。 1度、何かあって切羽詰まって、児童相談所に電話したことがありました。「助けて下さい!!妹たちが殺されます!!」電話の向こうの女性は、あえて保留ボタンを押さず、電話の向こうで同僚に聞こえよがしに、「ね~え~、どーするぅ~?殺されるとか言ってるけど~」を繰り返すばかり。30分ほど粘りましたが埒があかず、とうとうこちらが根負けした時には、電話越しでハッキリ分かるようにホッとされました。やっぱり私には生きる価値も資格もないんだ。死ななきゃいけないんだ。日頃の思いが強くなりました。 今回、学校・児相・市教委がからみながらも救えなかった命と、児相にも見捨てられた私達3姉妹が全員生きている事で、混乱しました。児相が介入して救う価値があると判断した命が救われなかったのなら、児相に救う価値なしと見捨てられた私は生きていてはいけないのではないか、今すぐ自殺しなくてはいけないのではないか、といった思いに強迫的に駆られたのでした。 いろいろぐるぐる何日も悩み抜いて、出てきたのは、運という言葉でした。 今回の事件で亡くなった子がいい子悪い子でもなく、私もいいでも悪いでもなく、たまたま紙一重で、たまたま私は生き延びて、たまたまどうしようもなく亡くなった子がいる。 津波に呑まれて亡くなった人、呑まれずに逃げられた人、呑まれて沖合まで流されて津波第2波で陸に戻って生きている人と同じ。運。 亡くなった命に振り返って、反省すべきは反省し、改善すべきは改善するとしても、誰かを批判する筋合いではないと思います。そして、もちろんゼロを目指しながらも、この先も虐待死亡ゼロにはならないでしょう、児相に抗議電話する人がゼロにならないように、交通事故がゼロにならないように。現実に向き合うと、そうなると思います。 改めて私は、辛い苦しい思いを人一倍経験したからこそ、もう辛い苦しいは充分。それより平穏な日常を、嬉しい楽しい笑顔になれる出来事を、人一倍大事にしよう。人一倍経験しよう。せっかく生きているのだし、どうせ生きているのだから。 頑張って、死ぬまで生きよう。 なんだか、そんな気持ちになりました。 今までずっと「自分は生きてちゃいけない。死ぬべき存在だ。自殺しなきゃいけないのに出来ない。死に損ないだ。殺され損ないだ」という呪いに縛られていました。 これから、その呪縛を切りほどいて、「死ぬまで生きよう」に上書きしていければ。 亡くなった命に思いを巡らすと、どうしても宗教的になります。 世間の雑多な悪意にからめられたりせず、怨霊や悪霊や自縛霊になったりせず、魂が鎮まりますように。そして産まれた時の”心から愛しまれる”魂のまま、あちらの世の向かうべき所へ向かいますように。 この亡くなった子をはじめ、年間約50人の全ての御霊が救われますように。 ご冥福を祈ります。合掌。長文となりました。最後までご高覧下さいましてありがとうございます。
2019/02/28
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Twitterを見ていたら、どうもまた虐待死亡事件が起きてしまったよう。各種SNSやテレビなどの報道は一切見ないようにしよう。こういう時、ここぞとばかりにしたり顔での有識者?のツイート連投も、マスコミ報道も、どうして当事者の私が見るに堪えないのだろうと、素朴に不思議。本来なら、当事者こそ発言すべきかもしれない。その当事者が締め出されるというか、自衛のために撤収しなきゃいけない現状だなあ。良くこれまで頑張ったね。もう全部終わったよ。もう怖くないよ。もう苦しまなくていいよ。安心して、行くべき所へ向かってね。お子さんが亡くなられたことは痛ましい限りなのだけれど、不謹慎を承知で正直言えば、死ねたお子さんがうらやましい。そう言いながら、そう思ってしまうことに強い後ろめたさや罪悪感がある。親御さんも、それぞれ何らかの問題を抱えていたのだろう。親御さん方が、お子さんを殺した現実を真正面から受け止めて、茨の道を歩んで立ち直られる日が来るよう、心底から強く祈る。「虐待してますね」「共依存ですね」と言われて、「はい、そうです」と認められるのなら、そもそも虐待にも共依存にもなってはいない。報道や知識人達については、共依存のあのドロドロ底なし沼のような恐怖を知らないことすら分かっていないことへ、薄気味の悪さや違和感があるのかもしれない。死ねてうらやましい。私も死ねた方が良かった。私は殺され損ないの自殺し損ないだ。虐待死亡事故が起きるたび、そんな気持ちになる。とは言え、虐待トラウマなどによる精神障害者で常に体調不良を抱えてはいるものの、この今すぐに死に直面する訳ではない。かたや、今この時に死を間近に見据えて闘病される方もいる。その方からすれば、私に腹立たしいかもしれない。苦しみは人それぞれ。今、たまたませっかく生きている。もう本当に悲しみ苦しみはこりごり。どうせ生きるのなら、いかに明るく楽しく過ごせるかの工夫を凝らそう。末文ながら、亡くなったお子さんの冥福を心から祈ります。【追記】この時は、まだ、このようにしか書けませんでした。後日、この事件に自分なりに向き合ってコラムを書きました。よろしかったらご高覧下さい。⇒「野田市虐待死亡事件に思う」
2019/02/06
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1995年1月17日AM5:46に阪神淡路大震災が起きて、今年で24年。昨晩は、不安や緊張が強くなって眠れず、頓服薬を使って眠った。毎年いろいろ思い起こす日だけれど、今日はなるべく思い出さないよう心掛けた。このところずっと体調が良くないのもあって、あれこれ思い出したらもたない感じ。Twitterを眺めていたら、神戸ご出身で、今年は辛いとツイートされる人がいた。私もですとリプライした。先方は当事者で、私はボラで少し関わっただけで、おこがましいのだけれど、お仲間がいたみたいに感じて、少し気が楽になった。もうすぐ春ですねと他愛のない話をして、相当気が張っていたのが、いい感じにゆるんだ。初めて神戸に足を運んだのは3年目だった。私なんかが行っていいのかと思っていたけど、迎えてくれた方はみんな喜んで迎えてくれた。どなたも街の話になると声が熱くなったのを思い出される。ガスや電気や水道や道路や学校や街の風景や家族など、「当たり前」だったことの崩壊。当たり前のことを当たり前だと思えていることが一番幸せなことだと、神戸で感じた。それ以来ずっと、私のライフスタイルになっている。あれこれ浮かび上がる記憶を、今年はフタをして閉じ込める。来年、もし元気なら、来年思い出せばいい。今年の今日は、そっと静かに過ごしたい。
2019/01/17
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今日は、告別式と初七日。まずは、親戚一同の写真撮影。私が参列できなかったので、私も見返せるように、葬儀社のアルバム作成オプションを頼んでくれた。ありがたい。葬儀は、みんな集まる割に、集合写真を撮りにくい。そういう意味でも良かった。そして火葬、続いて集骨。行けていれば、主人と一緒にお骨を拾っていたのに。火葬場から斎場へ戻る時、小さくなって骨壺に収まった姑は、主人の膝の上だった。膝枕のよう。その後は初七日。お経さんをあげてもらって、精進落としの会食。そんな流れを、主人は、逐一LINEで送ってくれていた。後で、私が少しでも一緒にいられるようにという心遣いと知って、嬉しかった。昨日は納棺。お義母さんは真っ白な棺に入った。開いた蓋からお顔を見られて、棺の上には、明るい笑顔の遺影が飾られていた。そしてお通夜。今日は告別式。そして火葬、集骨。初七日。少しずつ、ひとつひとつ、イベントを進めていきながら、亡くなったことを実感して、喪った哀しみを周囲と共有して、死を受容していく。喪の作業は、心の旅なのだろう。精進落としの和やかな会席で、来られた方々は日常の世界に戻っていく。そんな葬儀の場に一緒にいられなかった。みんなの、特に主人の、嘆きや哀しみや回復の様子を見守れなかった。この先ずっと悔やむだろう。さて帰宅。送られてきた写真には、見慣れた床の間に、たくさんの花が飾られ、骨壺と遺影が置かれていた。病院で亡くなった後、本当は家で安置したかった。しかし、階段の作りが悪くて上り下りできない。やむなく、霊柩車で家の前を走ってもらっただけだった。お義母さんは、やっとおうちに帰れた。ほっとされているだろう。19時半頃、主人から電話があった。親戚がみんな帰って、今はお義母さんと2人とのこと。ずっと鼻声。親戚がいなくなって気が抜けて、また泣けているよう。突然の死のショックと、葬儀の喪主の疲れ。加えて、昨日の岐阜は38.9℃、今日も38.0℃、体温を余裕で超える酷暑。相当へたっている感じなのに、まるで自覚してないようだった。とりとめのない話を一通り聞いて、今夜はお風呂に入って早く寝るように言った。こんな状態の主人なのに側にいられないのは、なんとも辛い。近くに住んでいれば当たり前にやれていたことが、やりたかったことが、たくさんあったのだ。離れて暮らすことで、相当頑張っても十分にはできなかったり、頑張りのキャパを超えていたりした。私の病気も、主人の足を引っ張った。思うようにやれなかった心残りが、主人の中で溢れている。「この先、四十九日まではなるべく毎週土日に帰省したい」と言われて、そう感じた。「分かった。なるべく応援して協力する」そうは言ったものの、平日いつも帰りは22時過ぎなのに、更に土日に帰省とか、かなりムチャ。けれど、そうしないと気が済まないのだろう。そうまでしたいのだろう。暴走しかかったら止めるつもりで見守ろう。明日は、お寺さんにお礼参り。また1つイベントをこなして、また少し重荷を下ろせて、心の風景がまた少し変わればいい。一通りの嫁姑はあったし、私の病気での悪化増幅もあっただろう。最後に会えたお正月は、ちょうど、自分の感覚過敏の特性を自覚できた直後だった。普通の人だと、見落として気付けない。話しても「気にしすぎじゃない?」「そんな細かいことを?」と見過ごす。だから、ずっと自分が間違っていると思っていた。それがそうではなく、普通の人には気付けないことに私は気付ける、だと分かったんだった。自分の感性に自信を持って、姑と接した。何かに気付けば、姑の気持ちを私の感性で推し量りながら、差し出がましくないようにしつつ、やれるだけやった。初めての柔らかな笑顔の「ありがとうね」が嬉しかった。ずっと居場所のなかった主人の実家で、初めて居場所ができた気がした。後ろ髪を引かれる思いで実家を出る時に、主人が「おれ、今までで一番おふくろに何かやれた気がした」と顔をくしゃくしゃにさせた。あとで、その時に姑に「幸せやった~」と言われたと知った。最後に、そんなステキな思い出ができたことは幸せ。お義父さんに続き、お義母さんも、もうみええへんのやなあ。笑顔ばっかり思い浮かぶもんや。
2018/08/04
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今日、納棺・お通夜が滞りなく執り行われた。残念ながら、私は帰省できなかった。朝食後、洗い物と庭の水やりはやれた。少し横になって休んでいたものの、帰らないと!と気持ちばかりが超テンパったまま、結局体が動かなかった。暑さからの体調の悪さもあった。主人に帰れないと連絡。ものすごく申し訳なくて、たまらなく情けなかった。ずっと横になって過ごしていたら、16時過ぎ、納棺が済んだよと連絡くれた。遺影が、すごくいい笑顔で、涙がこぼれた。姪っ子が、数年前に撮ったものらしい。その写真に、改めて今から帰れば明日の告別式には参列できる、最期のご挨拶したいと、また気持ちが焦った。ふと、岐阜市の明日の天気を確認したら、39℃だった。今日は、名古屋市で40.3℃と、初の40℃台超え。岐阜市内も38.9℃だった。こちらでもエアコンの部屋で寝込んでいる病人の私が、行って大丈夫な気温じゃない。あまりの暑さに頭が冷えた。19時からお通夜。その少し前に起きた。座ってられたのは40分ほど。まだお通夜やってるのにとは思いながらも、また横になった。少し休んだら楽になれて、近くのスーパーまでお弁当を買いに行けた。空気がむんむんで、息苦しさを感じた。夕ごはんを食べながら、お正月に帰省した時に、黒豆と柚子大根といかにんじんを作って持って行ったことを思い出した。もうかなり食が細っていた。それなのに、おそらく普段以上に食べてもらってる感じだった。特に口に合ったのが、いかにんじん。福島の郷土料理で、我が家風にアレンジしたもの。喜んでもらえて嬉しかった。柚子大根は、拍子切りだったため食べにくかったよう。来年は銀杏切りにしようと思っていた、、、のになあ。。。しばらくして、ザーッと一雨。熱がこもる建物や空気が、雨で冷えた。体が楽になった。お通夜が済んだ後、ずっと連絡なかった。昨晩はウトウト2~3時間と言っていたし、今日はこの暑さなので、もう寝たのだろうと思っていた。23時頃に連絡がきた。今までずっと義妹(主人の妹)といたよう。お義母さんの思い出話が弾んでいたのならいいのだけれど、病院や介護施設や旦那さんへの不平不満を、いつものマシンガントークでぶちまけていたとしか思えない(>_<)明日、告別式。明後日、お寺さんへのお礼参り。月曜火曜で一旦こちらに戻り、また、各種手続きのため岐阜に行くよう。その時、もし体調が良ければ、岐阜に一緒に行けるといいけれど。。。明日も暑くなりそう。告別式も、無事に滞りなく執り行われますように。お義母さん、葬儀に行けなくてすみません。こちらから葬儀に参列しているつもりで思っています。なるべく早く会いに行きます。
2018/08/03
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昨日(8/2)、姑が他界。突然だった。一昨日、それまでの病院を退院して、介護施設に移ったばかりだった。ちょうど義妹や姪が行っていた時に、呼吸が荒くなり、前日までいた病院に搬送。急性心不全だったよう。最期、義妹や姪に看取られたのだろうか。主人は、間に合わなかった。会社で連絡を受けた時には「もう息をしていない」だった。ムリな延命はしない選択をし、間もなく亡くなった連絡が入った。会社から連絡してきた主人は、少し泣いていた。取り急ぎ帰宅して、一息ついて、「突然すぎる。昨日移ったばかりなのに」やりきれない様子で、また少し泣いた。主人と一緒に帰省したいのは山々だけれど、体調の悪さが歯がゆい。今日は、ひとまず主人1人に帰省してもらった。なんとか、明日のお通夜や明後日の告別式には出たい。ご挨拶は最期になる。つい昨日、「お盆休みで会えるのが楽しみ」と、ここに書いたばかりだったのに。今日0時を回って、主人から「着いたよ」と連絡が入った。「生きてる時と変わりない。寝てるみたい」その声は、さっきよりはずっと落ち着いていて、顔を見て安心したのだろう。きっと苦しまれず逝かれたのだ。
2018/08/03
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先日の西日本豪雨災害。岐阜県でも被害に見舞われた地域があるけれど、西日本の被害の方が広範囲で犠牲者も多い。そうは知りつつ、つい地元ばかりが気にかかり、西日本はチェック出来ていなかった。東広島に友人Mさん(高校の先輩)がいる。最初は、まだ割と軽い気持ちで、「そちらもご実家(岐阜市内)も大丈夫でしたか?」のようなメールをした。普段と違って、いつまで経っても返事が来ない。きっと忙しいんだ。東広島の状況をネットで調べた。docomoの基地局は、ちょうどメールを送った日の午前中に復旧していた。停電も復旧していた。断水地域はまだあったかもしれない。道路の冠水や崩落がひどかった。山陽道が、土砂崩れで上下線通行止めになっていたのは知っていたが、その現場は東広島だった。そういった被害ニュースを読んで、2日置いて、またメールした。また返事が来ない。またあれこれ調べつつ、また2日置いてメールした。また返事がない。不安が少しずつ膨らんでいった。主人と、そんなこんなで心配していた。そうだ!もしかしたらAさんなら、Mさんの同級生だし、連絡行ってるかもしれない。昨日、Aさんに電話してみた。けれど出ない。彼は接客業なので、来客中だと出れないことが多い。また後でかけ直そう。やっぱり、Mさんに直接電話してみよう。もしかしたら、疲れていて返事を書くのが億劫なだけかもしれない。と思いながらも、電話するのが怖かった。どんな被害状況の話になるか分からない。もしかしたらご家族が、とかあるかもしれない。。。勇気を振り絞って電話。「お客様のおかけになった電話は、電波の届かない地域にあるか、電源が入っていないため、つながりません」そんな音声アナウンスが流れ、Mさんにはつながらなかった。もう停電も基地局も復旧しているのに。何があったんだろう。スマホや充電ケーブルの水没とかならいいんだけれど。。。ものすごくためらいながら「広島 死者 身元」で検索。亡くなった方の氏名と住所が出てきた。災害犠牲者の名前を、こんな思いで見るのは初めて。東広島で並ぶ氏名を見た。一通り見た。なかった。見落としがあるかもしれない。もう一度、今度はちゃんと落ち着いて見た。やっぱりなかった。もしかしたら現在まだ行方不明かもしれないとは思いながらも、ひとまずホッとした。そしてどっと疲れた。そこへ、先ほど電話したAさんが折り返し電話くれた。まずは互いの実家の被害のあるなしなど。一呼吸置いて、「Mさんなんですけど」と言ったら、「M!大丈夫か!!」と、やはりその話題と承知されていたよう。心配されていたよう。「こちらからは連絡が取れなくて、Aさんには連絡来てるかなと思ったんですが」「オレんとこにもないけど」と言いながら、Aさんの声は少しホッとしていた。万一の通告ではなかったことにだろう。あとはまあとりとめなく話しながら、お互いに「それじゃ連絡来たら連絡しますわ」結局何も分からなかった訳だけれど、同じように気を揉む人がいるというだけで気が楽になった。主人は、いつものように遅い帰宅。「Aさんに電話してみたけど、連絡来てないって」と話したら、「Mんチの固定電話って、下4ケタ××××だっけ?」と思いもかけないことを言い出した。確認したら合っていた。「ネットで、東広島とMの名前で検索かけたら、固定電話番号が出てきた」あ、調べたりしたんだ。それで、思い切って言おうとした。「広島 死者 身元で検さ、、、」「なかった!!!」主人は強い口調でキッパリ断言。ああ、主人も調べていたんだ。。。夕ごはんを食べ終わった頃、ふと、「そういやMの場合、日本におらんのかもしれん」突然主人が言った。そうだ、時々2週間ほど海外出張している。そうだ!きっとそうだ!!そうだと思いたい。(今どうしようもなく不安なので、この気持ちを吐き出すために書きました。その後が分かれば追記します)【7月28日追記】メールのお返事来た!タイトル「なんざんしょ」本文「日本は暑い」生きてた!!!良かった。゚(゚´Д`゚)゚。やっぱ海外出張してたんかな。おそらく、今はあちこちへの連絡で慌ただしいだろう。落ち着かれた頃を見計らって電話しよう。
2018/07/19
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西日本の豪雨災害に、心からお見舞い申し上げます。 私の故郷の岐阜県岐阜市も、いつ長良川が氾濫してもおかしくない状態でした。 実家は長良川沿いで、長良橋のすぐ上流で、堤防から100メートルも離れていません。 長良橋のライブビューや岐阜新聞をネットで見ていましたが、橋のたもとひたひたまで増水していて、鵜飼屋の辺りなどは道路が泥水に浸かっていて、胸がつぶれる思いでした。 幸い、長良川の氾濫・堤防決壊は回避されました。 けれど、上流の関市で、長良川に流れ込む津保川が氾濫しました。 床上浸水や断水など深刻な被害が出ています。 たくさんのボランティアさんが、泥かきなどやって下さっていると、関の友達から聞いています。 感謝でいっぱいです。 関の特産品は、刃物が有名です。うちの包丁も貝印の関の孫六です。 観光では、鵜飼もやっています(岐阜市長良川の鵜飼とは別です)。 お土産で思いつくのは椎茸スナック。いろんな味があります。元号が平成になった時に一躍有名になった平成(へなり)村の特産品で、今は関市に合併しました。 ふるさと納税も考えましたが、お盆に帰省して、お土産どっさり買い込んで、友達に配ったり送ったりしたいです。 岐阜の友達にも会いたいし、もちろん姑にも会いたいし、何より、長良橋から長良川と金華山を見たいです。 昭和51年の台風17号で、長良川の安八町での堤防決壊を目の当たりにしました。 あの時の恐怖と、安八町に濁流が流れ込んだことで岐阜市が助かってしまった罪悪感は、今も強烈に心に焼き付いています。 あれから約40年。 今回の氾濫・堤防決壊を防がれた全ての皆さんに感謝しています。
2018/07/12
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昼過ぎ、姑が入院したと主人から連絡。今日は早く帰って、今日のうちに岐阜に向かうとのこと。姑は、しばらく前から在宅酸素の状態で、容態は良くない。私たちは神奈川に住んでいて、姑の介護は、市内に住む義妹(主人の実妹)がやってくれている・・・はずだった。けれど、やれているとは言えない状況。。。正月に帰省した時、義妹とすれ違って会えなかったので、神奈川に戻る前に主人と義妹宅に訪れた。いきなり一方的に激しく罵られた。「お兄(主人の事)がお母にちっとも電話せんもんで、私がお母に『死にたい死にたい』ばっか聞かされとるんやよ!!私の身にもなってよ!!私だって神奈川に逃げたいわ!!!!!」こんな言葉では表現しきれないほど、凄まじく負の感情に満ち満ちて、あまりにも攻撃的な言葉で延々と罵られながら、主人と私は寒い中で玄関にさえ入らせてもらえず、冬の雨に打たれていた。今日、姑の入院。低血糖で動けなくなっていたそうだ。満足に食事もとれていなかったらしい。義弟(主人の妹の旦那さん)が発見して病院へ連れて行ってくれたそう。主人の職場は年度末を迎えて、先月から残業も多く、休日出勤もちょくちょくしているし、仕事を持ち帰る日も多い。それが今日は、いつになく早く帰ってきた。帰省の荷物をまとめる手も震えている。とても動揺している。車で帰省するつもりだったようだけれど、新幹線で帰るよう言った。そうしてくれた。義妹は、自分が精一杯やっていることしか頭にないのだろうか。姑にとっての十分かつ適切な介護は、できていない。でもそれを全部、主人が離れて暮らしているせいにして、姑の『死にたい死にたい』までも主人の攻撃に利用する。訪問看護や居宅介護やショートステイなどのサービスを利用するよう言っても一切やらず、ただただ主人を攻撃するばかりのよう。主人は、初めは自分さえグチを聞けばと耐えていたけれど、すっかり自分が至らないと落ち込んでしまっている。と言うより、そもそも、もう主人がグチを聞いて何とかなる段階ではなくなっている。姑の『死にたい死にたい』は、本当に死ぬつもりではなく、助けてほしいというSOSだったのに。。。今回、一歩間違えば、本当に。。。どうしても私は、私の実父や実母との関係に比べてしまう。母親を最後まで面倒みられるのは、幸せなことではないの?ボランティアや就職での「介護」は、自分の関心や適性に合わせて選ぶことができる。親の介護は、誰がどう見ても介護に向いていない人にも降りかかってくる、ということが問題なのだろう。。。正月に帰省して、後ろ髪を引かれる思いで実家を出る時に、主人は、「オレ、これまでで一番、おふくろになんかやれた気がする」と、顔をくしゃっとさせた。その時、姑は主人に、「あ~、幸せやった~」と言ってくれたと、後になって主人から聞いたのだった。。。(正月に帰省した時のこと⇒「主人と姑と足湯」)主人は、明日の祝日を利用してのとんぼ返りなので、私は留守番。なんともいたたまれない気持ちでいっぱいで辛い。そんなこんなですみません。ぐちこぼしでした<(_ _)>
2018/03/20
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1995年1月17日の阪神淡路大震災から23年。 そんなに年月が流れた気がしないのだけれど、その年の秋にWindows95が発売されたことを思うと、意外に随分前なのだと思う。 何か書こうとしているけれど、いろんなことが思い出されて、うまくまとまらない。 初めて、神戸で仮設住宅を見た時は、大ショックだった。 単にプレハブ物置が並んでる感じ。 こんな所に人間が住むなんて・・・とは口に出来なかった。 トタン屋根で夏場は40℃超え、冬場は六甲おろしをモロに受けて冷え切ると伺った。 東日本大震災の仮設住宅はテレビ越しでしか見たことがないけれど、あれよりは随分良くなったことにホッとした。 とは言え、東北の厳しい寒さに加えて、7年目の今もまだ仮設にお住まいの方がおいでで、とても安穏とは出来ないのだけれど。 阪神淡路大震災の時は、全国から救援の手が差し伸べられるまま、家屋倒壊などで行き場のない被災者が全国に割り振られた。 本人が希望して、神奈川や関東に来られている訳ではなかった。また、住民票の異動という引越手続きをして来られていた。 その後、兵庫県や神戸市が県外避難者への住宅などの支援を始めた時に、住民票が移っているため、行政側では誰が引越で誰が避難者か分からない。ネットも今のようではない(Win95の発売前)。必要な支援情報を避難者に郵送するために一苦労という大混乱があった。 東日本大震災で、福島県をサポートしたのは兵庫県。 なんと!避難者は、住民票を移さないまま県外も含め避難できることに!本来は住民票がないと利用できない保育園や図書館などにも、対応されている。 兵庫県すげえ!!!と私は感動したのだけれど、肝心の福島県民は、そのありがたさを知っているのかな? 阪神淡路大震災で関東に来られた方々は、揃って丸3年辺りで、今後どうするかを決断されていた。 「ここ横浜は神戸に雰囲気が似ているし、こちらでお友達もできたし」と、戻らないことを決めたおばさんは、にっこり微笑まれていた。 一方で「何が何でもオレは神戸に戻る!!!」と、悲愴な表情で話すおじさんもいた。 どちらも配偶者を亡くされていた。 心の傷の大きさや深さと、回復度合いと、戻る・戻らないの選択は、ほとんど連動していなかった。 東日本大震災では、まず「県外避難者」という言葉が「福島県内から県外に避難している人」だけでなく、「福島県外(関東など)から他地域へ避難している人」としても使われている。しばしばミスリードを誘っている。 そして「強制避難」「自主避難」「母子避難」と、様々に区分けされている。そんなふうに、お辛さがたくさんある。 もちろん、宮城県・岩手県からの神奈川県などへの避難者もいる(いた)。そういった方々についての報道は、ほとんど目にしなかった。福島避難者に埋もれた感がある。 丸3年になる頃、福島市は、すっかり線量が下がっていた。 もう、私の故郷の岐阜市の方が、線量が高い程だった。 けれど住民には、まだまだ放射能への怯えを払拭できていないように見受けられた。自主避難されている方々の不安は相当だったかもしれない。 そして今、丸7年になろうとしている。 今も戻れない地域があって、避難解除されたものの戻れないでいる方々も多数いて、自主避難から今も戻らない(戻れない)方々もいる。 いろいろと苦しみがごちゃごちゃなのだろう。 ・・・そこは、よそ者が迂闊には踏み込めない領域だと感じる。福島市に足を運んでいた時も、ほとんど触れられなかった。触れて傷付けるのが怖かった。。。 うん、案の定やっぱり上手くまとまらないや(笑) 阪神淡路大震災から20年目の3年前、Twitter越しに見た限りだけれど、宮城は割と神戸の話題に触れて兵庫県に感謝していた。それを福島では見なかった。それがもどかしくて歯痒くて辛かった。 神戸には、足を運ぶたびに明石焼きを買って帰った。 地元の人は、たまごやきと言う。 ふわふわのたこ焼きを、アツアツお出汁につけて、ハフハフ食べる。 とっても美味しい。 あー、思い出したら、今すぐ食べたくなった。 あんまり美味しいから、地元の方に作り方を伺ったことがあった。 「たまごやきの作り方?いいわよ~、カンタンよ!まず、うちにたこ焼き器あるでしょ?」 「ありません・・・」 説明者は絶句し、周囲が爆笑し、説明はそこで終わったwww ※関西では本当に、一家に一台たこ焼き器があるらしい。 こうして思い返すと、神戸にも、宮城にも、福島にも、言い尽くせない感謝が溢れる。 「当たり前のことを当たり前と思えていることが最高の幸せ」と、神戸を案内されて歩いていて思った。 今も、私にとっての大切な心の支え。 これを書いていて、頭をよぎったたくさんの方々が、今日を、平穏にお過ごしでいらっしゃいますように。 阪神淡路大震災での救援活動や支援は、完璧ではなかった。 そのマイナスの経験値が東日本大震災で改善されて、見ず知らずの人の助けになっていった。 またその東日本大震災でもマイナスの経験値があり、それが熊本地震で発揮されて、見ず知らずの人の助けになっていた。 そんなことを目の当たりにした。 そのマイナスがなければ、プラスは生まれなかった。 さて、私自身はどうだろう。 ワインやコーヒーでは、苦味や渋味が、旨味になることもあり、雑味になることもある。 ともすれば雑味になりがちな辛さや苦しさを、ワインが時間を置いて醸造されていくように、私の人生の旨味にしていけるだろうか。 とても難しいことだけれど🍇🍷
2018/01/17
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反原発派、アンチ反原発派、原発賛成派、原発推進派、誰が正しいとか正義とか間違いとか悪とか、そんな単純なことではなく、、、。 伝わらなかった想い。 昨日、風邪がぶり返した。 また少し横になっていたら、いつしか眠りに堕ちていた。 私は夢の中で、必死に足掻いていた。 2012年5月から2014年3月まで、F-pins(エフピンズ)という4種類のピンバッチをはじめとする福島グッズのお取り扱いを、個人でやっていた。 2012年5月に、あるイベントで物販をやったのがきっかけで、その後もずっとちょこちょこと扱っていた。何度かイベントへのお声掛けを頂き、2014年の2月と4月のイベントで物販することとなった。そして2月のイベントは無事に済み、その直後の4月開催の1か月前に先方から一方的にドタキャンされた。 もちろん当方に多大な落ち度があったのだろうし、先方に何一つ落ち度がなかった訳でもないだろう。 それより何より、様々なすれ違いがあった。 物販にあたり、先方がご用意される幾つかのパネルを掲示して欲しいという中に、坂本龍一さんがF-pinsを着けているものがあった。 かなり大きなパネルで、掲示すればかなり目を引く。 私は、絶対にそんなものは使えないと言った。先方は、もしかしたら自分達を否定されたとでも思われたのか、ムッとされていた。 どうしてそのパネルをご用意されたのかも伺った。フェスティバルFUKUSHIMA!という福島市内でのイベントに坂本龍一さんも参加されていて、その時にどなたかがF-pinsをお渡しになってお着けになった時の写真を、パネルにされたものだった。 F-pinsで活動されている団体がフェスティバルFUKUSHIMA!を開催されている訳ではなかった(たまたま両方に参加するスタッフはおいでのようだった)。坂本龍一さんがF-pinsがらみで何らかの活動をなさっている訳でもなかった。知名度の高い人だから目を引いて販売促進になるから、といった理由だった。 こちらでは、どうしてその坂本龍一パネルを使えないのか。 その説明を、まだ私が上手く話せなかったのか、先方に聞く耳を持ってもらえなかったのか、今となってはもう良く判らない。 夢の中では、先方に、必死に、その説明をしていた。 2012年の春先、まだ私がF-pinsを知る前に、双葉町から横浜に避難で来られた年配の男性とお話する機会があった。 福島の方言ではなく東北の鼻濁音を聞き取れなくて(後になって、私が育った岐阜市などの中部地方は全国的にまれな鼻濁音がない地域と知った)、その方の言葉を一度で聞き取れず、二度言い直して頂くことが多かった。それでも不快な素振りもなさらず、とつとつお話下さった。 突然の激しい地震、帰宅しようと車を走らせて渋滞に巻き込まれ、身動きできない所に押し寄せた津波。その引き潮で沖合まで車ごと流され、しばらく漂流なさっていたこと。(おそらくは津波の第2波第3波に乗って地面に戻れて)シートベルトを外して車から降りて家を目指す途中、強制避難することになったこと。ずぶ濡れのまま着替えさえ取りに戻れなかったこと。などなど。。。 その頃は、首相官邸前の反原発デモなどが活発になる前だった。 とは言え、ここ神奈川県でも放射能汚染を口実に、ゴミ処理施設近隣住民らは、震災がれきどころか岩手県北部の魚網の受け入れさえ拒絶。何度測定してもN.D.なのに「信用できない」の一点張り。神奈川県は、震災がれき受け入れに関してはほとんど実績がない。 震災がれきは膨大で、てっきり速やかに全国各地で処理していくと思っていた。そのがれきが置かれている土地が家であれば住民が、会社であれば従業員が、その地域に戻れない。当初の一時避難が、戻れないことで移住になれば、被災自治体の税収が激減する。ただでさえ膨大な支出を余儀なくされているのに。。。 こんなことは、ほんの一例だった。ここ関東では、自分達が放射能に汚染されていないと安心したいための過剰すぎる福島排斥・東北排斥が起きていた。 ここ海老名も震度5弱だった。一時はガソリン・トイレットペーパー・パン・ヨーグルトなどの物流が完全ストップし、買い占めも起きた。計画停電もたびたびあった。JR相模線はずっと運休して、間引き運転の再開が5月ゴールデンウイーク明けだった。そして余震は何か月も続いた。空間線量も上昇し、外遊びをやめた幼稚園もあった。震災は他人事ではなく、むしろここも被災地だった。 東日本大震災は、被災地が被災地を救援する震災だった。だからこそ、被災地同士で手を取り合って助け合えれば良かったのだけれど。。。 一部の声の大きな人達は、ひたすらに福島忌避しなければ今より自分達が放射能に汚染される、汚染は東北だけで十分だ、と考えているかのようだった。 それらは思い込みの決め付けに過ぎず、だからこそ言動が暴走していた。 そういう人達が垂れ流すデマへの反感が強かった私は、原発賛成でも原発推進でも反原発でもなく、ただアンチ反原発の気持ちが強かった。 そんな私でさえ、さすがに、津波で沖合まで流されて漂流して、やっと戻れたのに原発事故で着替えさえ家に取りに戻れなかった方は、反原発でいらっしゃるのではと、そんな言葉を口にした。 その瞬間、それまでとつとつとお話下さっていたその方が、突然びくっと怯えて身体を震わせ、眼が泳いで不安が宿った。 一瞬で、この話題は絶対NGと脊髄で感じた。理由なんて全く分からなかったけど、そんなのはどうでも良い。咄嗟に話題を変えた。 そんなことがあった。 それからF-pinsを知り、2012年5月のあるイベントに誘われたことで、そのイベント会場内でF-pins物販をやった。 それがあって、F-pins活動グループの1人が、福島から海老名のビナウォークにまで会いに来てくれた。 病身で被災地に足を運べなかった私にとって、本当に本当に嬉しかった。 その直後。 ビナウォークの美容院でカットしてもらいながら、会いに来てくれた人の話をしていた。美容師さんは、当初、福島の話題をそれとなく避けようとしていた。それをお構いなしで私が話していたのが、福島への憧れや好意だった。 唐突に、美容師さんが、 「実は、ぼく、福島なんです」 と仰ったのでびっくりして、だからこの話題を避けようとなさっていたのかと思いながら、思わず口をついて言葉が飛び出した。 「あの、私にとっての最初の福島は、ままどおるなんです。その、反原発とかって、イヤなんですダメなんです!!!」 その言葉で、その美容師さんは、気持ちが一気にほぐれたご様子だった。 「ままどおるを知ってるんですか。え、エキソンパイも食べたことあるんですか。嬉しいなあ。ありがとうございます(^^)」 そうして浪江町ご出身とお話された。警戒区域とかいう言葉は言いたくなくて、頭の中大回転で考えて、 「ああ!DASH村の町ですね!!」 と言った。それも喜ばれた。 そして、DASH村までは車で15分ほどですよなんて話が弾んでから、義兄(お姉さんのご主人)が今も第一原発で働いていることなどをお話になり、そして、ご実家は60μSv/hでもうあんな所には人は住めないと苦しそうに絞り出すように仰ったのだった。。。 おそらく、その美容師さんに、世間話で自分は正しいつもりで、原発バッシング・東電バッシングをする客は、少なくなかっただろう。その美容師さんにとっては、姉家族へのバッシングでしかない。相当お辛い思いをなさってきたのだろう。だから当初、福島なのに福島だからこそ福島の話を避けて、話題を逸らそうとなさる程だったのだろう。 警戒避難区域の方々ほど、反原発は絶対NGだった。警戒避難区域の方々ほど、反原発と言われて喜ばれるどころか、怯えて苦しまれる。。。 それを肌で感じることが出来たのは、私が反原発派ではなく、さりとて原発推進派でもなく、アンチ反原発だったからだろう。 その後、F-pinsお取り扱いをしながら、原発そのものにはあくまでも中立の立場でないといけなかった。反原発派も原発推進派も、それぞれの想いで福島を取り巻いていた。 あの頃は「自分達は福島のために反原発」という人達ほど、実際は自分達の正義を引き立てるために福島を利用しているだけだった。 本当にお辛い思いをされている方々の傷を、いたわりねぎらい癒やすどころか、真逆のえぐるような言動が多かった。 2011年春~2014年春先の神奈川は、そんな感じだった。 2012年初夏にF-pinsというご縁が出来たことでフェスティバルFUKUSHIMA!というイベントを知り、そこに坂本龍一さんが来ていると知った時は、衝撃だった。震災がれき受け入れ反対などもあり、被災地はどこもアンチ反原発だと思っていた。 ただ、坂本龍一さんは以前、原発廃棄物処理施設への反対運動の一環として、青森県への風評加害活動をやっていた。だから福島市民は、農産物を人質にされてイヤイヤ従っている可能性を捨てられなかった。呉越同舟を堪え忍んでいらっしゃるのかもしれなかった。 翌2013年の夏、フェスティバルFUKUSHIMA!の会場に足を運んだ。さんかく広場と呼ばれる一角に布が敷き詰められ、櫓が立ち、フラッグがはためき、とてもあたたかな雰囲気だった。そして、少なくとも会場に足を運んでいる地元民は、坂本龍一さんを好意的に受け入れているのも肌で感じた。驚きだった。 被災地で、反原発派がボランティアなどで入り込めているのは、私の知る限りでは福島市や南相馬市などの福島県北部だけだった。 宮城県南部まで北上すると、もう反原発への反発があった。 宮城県北部は、沿岸部の津波被害が凄まじいばかりでなく、女川原発があった。発災直後に原発敷地の門戸開放で100名以上の命が助かっている。その後も避難所として解放された。地元民の女川原発への感謝は強い。一方で、反原発派による再稼動反対のえげつない嫌がらせが多発。反原発派への反発や恨みは宮城県南部よりも強い。 F-pinsお取り扱いをしていて知ったのは、関東で東北ゆかりの人は少なくないことだった。 本人が東北出身だったり、親や祖父母の代が東北出身だったりする人は、本当に多い。そういう人達は、福島県だと大半が会津や浜通りだった。福島市など福島県北部からの自主避難者は、ほとんどが山形県に行ったようで、ここ神奈川で会ったことはない。 そんな経緯で、福島市のF-pins活動グループにとっては、自分達の反原発感情はさも当然の当たり前のことだった。 こちら神奈川では、まず東北ゆかりの人が多く、福島県ゆかりの方々ほど反原発で苦しまれていて、宮城県・岩手県出身者やボランティアなどで足を運ぶ人などの反原発派への反発・反感にも根強いものがあった。 そのため「原発については様々な考え方がある」という、少しアングルを引いた考え方が一般的だった。 そして、被災3県の中でも『福島県』だけは別格の異彩を放っていた。 個人的には、坂本龍一さんのファンだった。 けれど震災以降、「たかが電気」発言に猛反発する津波被災地を見ていた。その後も「僕らは難しいことは考えず、ただ『反原発』と言っていればいいんだ」などの発言で、、、坂本龍一の反原発だけでなく音楽さえ、もう聴けなくなった。。。 ここ神奈川でF-pins物販イベントをやるにあたって、活動グループは坂本龍一さんに好意的でも、ここでカネを払う客が坂本龍一さんに反感を抱いている以上、販売促進どころか悪影響を及ぼしかねない。客足が遠退く。 一方で『福島』という言葉の引力が強烈過ぎる。余計に坂本龍一パネルなんて要らない。 けれど、震災前からずっと福島に住んでいて外に出ていない人ほど、『福島』の引力の強烈さを知らないのだった。。。 神奈川でのF-pins物販は、福島市の活動グループのためなのか。神奈川にいる福島ゆかりの方々や神奈川から福島に心を寄せる方々のためなのか。 この2つが相反する時に、どちらが優先だろうか? 震災後も自宅に住める福島が福島にいて、自宅を流されたり流されてなくても戻れない福島が神奈川にいて、彼等の親兄弟親戚や同級生が第一・第二原発で今働いてるかもしれなくて、あるいは故郷への原発誘致活動した自分を責めている福島かもしれなくて、そして福島など被災地に心を寄せる神奈川がいて、、、。 福島にいるF-pins活動グループという創り手を喜ばせるのか、神奈川にいる『I LOVE FUKUSHIMA』というピンバッチに心を寄せる人に喜んでもらうのか。 創り手より、目の前で買ってくれるお客さんを選んだのが、間違いだったのだろうか。 創り手の彼等に、どんなふうに伝えても、私の気持ちや考え方が伝わったとは思えなかった。辛く苦しかった。 あの頃の彼等には、我々をないがしろにされているとしか捉えられなかったのだろうか。。。それは、あの頃はまだ震災の傷痕が生々しかったからで、今なら違ったりするのだろうか。。。 ふう。 そんなこんながあった発災から2年目~3年目だった。 F-pinsのご縁で、福島市近郊に2年で5回ほど足を運んだろうか。こんな病身ながら。 あの僅か2年足らずの間、時の流れがドロリとネトつくかのように奇妙に遅く、やけに長く感じたことは忘れられない。 昨日、夢の中で、一生懸命に説明していた。 けれど、先方には全く相手にしてもらえず、不快感を露わにされるばかり。言葉は空回り。 目が覚めて、あのイベント参加ドタキャンから自分が一歩も動けていないのを実感して、愕然としつつ自分が情けなかった。 少しでもあの日から動きたいと、今回、自分の気持ちを吐き出して整理しようと試みたけれど、話があちらこちらして、やっぱり上手くまとめられなかった。 仕方ない。今はこれでいい。 別に、またF-pinsお取り扱いを再開させたい訳でもない。それどころか、あの活動グループの複数名からFacebookやInstagramなどのSNSでブロックされている訳だし。ケンカどころか普通のやりとりさえなく、、、先方に一方的に嫌われて切られたようで。。。 だから私としても、仲良くしなきゃとか気を遣うとか、もう出来そうもない。もうムリ。もう頑張れない。自分がもたない。 ただF-pinsが好きなだけでいたい。。。 この"好き"な気持ちを、また脅かされるようなことは、もうされたくない!!!!!!!!!! あの活動グループの人達にとっては、私の虐待トラウマなんてどうだっていいのだろう。 私の方では、伊達市のお米や果物を美味しく戴いているし、今も4つのF-pinsが大事だし、「福島なんてどうでもいい」ではないけれど。。。 ただ、またあんなふうに傷付くのはもうイヤ。そんなつもりはなかったのに傷付けてしまったことも未だに辛い。 本当に、夢の中でさえも、全く相手にされず空回りするばかりだったのだなあ。。。
2017/10/16
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福島とのご縁が出来てから、散々悩んだ挙げ句に広島の友人に思い切って尋ねたことがあった。「広島でも、『オレ甲状腺がんになっちまったー!』『原爆の残留放射能あるからな』なの?」その場合は、広島の傷みも引き受ける覚悟だった。「聞いたことがないわっ!」一喝だった(笑)ご縁ができた福島市の方々は、「福島に来て欲しいけれど、被曝させてもいいのだろうか」「私は福島産を食べない!」だった。それで広島に訊いたんだった。放射能を勉強していくにつれ、日本一自然放射線量が高いのは私の故郷の岐阜県だと判るようになった。もうその頃は、福島市より岐阜市の方が線量が高かった。私が生まれた多治見市はもっと高い。あるお宅では、今もまだ母子避難を続けておいでなんだろうか。一般論ではなく、その人の家庭のことで、奥さんやお子さんのこと。彼に会った時、「私の岐阜市・多治見市より、ここ福島市の方がとっくに低いんですよ」と何度も喉元まで出掛かったけど、毎回呑み込んだ。よそ者が踏み込んではいけない。今思い出しても辛くなる。去年の3月だったか、彼が毎日新聞に載っていた。「放射能への不安はまだ消えない」母子避難はずっと続いていた。もし私が、岐阜市でも多治見市でも鼻血なんて出ていないしガン発生率が高かったりもしないと言えていたら、もう戻られていたのだろうか。しばらく自分を責めた。なかなか割り切れなかった。けれど、もし言っていたとしても、「経験してないから分からない」とか言われるだけで、聞く耳を持ってもらえなかっただろう。互いに不快になっただけだろう。福島復興グッズ物販イベントのドタキャンを思い返すと、本当に、気持ちが言葉が通じなくて伝わらなくて、辛く悲しかった。人は、自分が信じたい情報に群がるのだろう。はたからとやかく言っても仕方ない。何も言わない私の選択は正しかった。あたたかな家庭への憧れが人一倍強いだけに、今も思い出すと辛い。
2017/08/05
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交通事故で家族を失った人の「車反対!!」「反車社会!!」というデモは聞かない。原発事故では、家族を失った訳でも、さしたる実被害があった訳でもない他人事な人達が「反原発!」「卒原発!」「終原発!」だのと、自らをおかしな理屈で正当化して正義に仕立てて騒いで、楽しんでいた。それらに煽られた多数の被災者(被害者)達の一部に、心が痛む。彼等は、原発事故ではなく原発や東京電力を恨み、復旧・復興に汗水垂らして励んでくれている国などの行政を感謝せず恨み、もう既になくなった風評被害を今もあるものとして恨み、恨み続けて憎しみ続けて怒り続けている。心の回復は、恨みや憎しみや怒りからの解放。その第一歩は、自らが恨みや憎しみや怒りを手放そうとすること。フクシマ被災者は真逆。恨みや憎しみや怒りを、頑なに、固く握り締めたまま、決して手放さない。FacebookやTwitterなどのSNS越しでは、互いの恨みや憎しみや怒りに「いいね!」を付けあい、RTやシェアで拡散しあう。どんどん憎悪して、互いに手を取り合って、互いに引きずり込んで、無限地獄に堕ちていく。もう手を差し伸べられない。一緒に堕ちてはいけない。そんな私もまた、きっと相当に恨まれている。もっと早く見捨てることが出来ていれば、嫌われることも恨まれることもなかった。福島を好きになってはいけなかった、のかもしれない。憎しみは憎しみで、怒りは怒りで、恨みは恨みで裁かれる。それだけのこと。ひとりひとりがいい人なのを知っているから、悲しくて辛くて苦しいけれど、仕方ない。彼等が、自ら選んだ生き方が、果てのないルサンチマン。尊重することも、変えることも、出来ない。堕ちてたまるか!福島になってたまるか!自分もぎりぎり辛い時に、そんなふうに考えて、なんとか堕ちないで留まったり、堕ちかけても這い上がれるようになった。そう思えば、福島とのご縁が出来て、やっぱり良かったのかもしれない。こんな形じゃない方が良かったのだけれど。
2017/06/07
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隣町の大和の独楽寿司から、主人の誕生日で10%オフクーポンが来てた。食べに行ってきた。 駐車場に車を停めて、お店に入ろうとした時、ドン!と大きなすごい音。 振り返ったら、車道に、細身の女性が座り込むように倒れている。 その手前に、停まった車。 え、まさか、交通事故?それも人身?! と思う間に、主人はすかさず携帯で110番。 ああいう時は、ほんの少しの短い時間が、ねっとり長く感じる。 たぶん30秒もしないうちに、運転手さんも119番。それを数分後みたいに感じた。 被害女性に、意識はあるようだ。 「車道の真ん中で危ないから、歩道に移動しましょうね」と言っても、動こうとしない。 頭を強打しているのだろうか。 …えっと、自分の携帯で、娘さんに電話を始めた??? つか、すごく酒臭いわ。 運転手さんが、 「視界の右端(反対車線の歩道)に女性が見えてはいたけど、さて信号が青になってアクセル踏んだ時に、女性がふらふらっと出てきて、慌ててブレーキを踏んだんだけど…」 うわあ、横断歩道でもない所で、反対車線も横切って酔っ払いが突然ふらふらって、そんなん避けれんて…。 この時点までは、被害女性は何が起きたか、把握できてないようだった。 運転手さんが、酒臭いだの酔っ払いだの言ってたのを、この辺りで理解し始めた。 やおら、 「酔っ払いだとか酒臭いとか、言うな!」 「そりゃ少しは酒が入ってるかもしれないけど、自分の罪を軽くしようとしてるのか!」 「救急車なんか呼ばなくていい!ちゃんと娘を呼んだ!」 などなど喚き出した。うるさいうるさい。元気で何より。本当に酔っ払い以外の何者でもない。断言。 そんな所へ、さっき1度は立ち去られた若い女性が、戻って来られた。 「あのー、私、目撃したんですけど、いた方がいいでしょうか?」 「はい、お願いします!」私ってば即答。 いやでも、これは目撃者が必要でしょう。 つか、なんで私に聞かれたんだろ?いいけど。 程なくして、娘さんが来た。 お母さんを心配するより、ただもうイヤそうな顔だった。 べろんべろんでのトラブルは、おそらく何度も起こしているのだろう。 運転手さんや私達に話し掛けられているのに、こちらとは一切会話もなく、まず娘さんに電話していた。これまでも、トラブったら娘さんに電話するのが常習で、だから今回もそういう行動になったのでは、と邪推。 随分してからのような、すぐのような、救急車が来た。 被害女性は、 「救急車になんか乗らない!」 「娘が来たから帰る!」 と喚いている。 運転手さんが、万一のために診てもらって欲しいと救急隊員に言って、それに被害女性が言い返して、カオスになりかかっていた。 運転手さんに「こういうのはプロに任せた方がいいですよ」と引くように言った。 運転手さんは、随分しっかりなさっておいでだったけど、どうしても動転されていた。 ムリもない。 ちょっとコンビニに行ってこようと、すぐそこの自宅から出てきて、こんなことに…。 もう少しして、警察も来た。 被害女性が、今度は警察と話したいと喚くやら何やら、落ち着くまでが大変だった。 警察の皆さんも、最初は一同揃ってポカンとされていた。すぐ状況把握されたのがサスガだった。状況把握も一斉で同時なのが面白かった。 実況検分。 1人の警察官が、運転手さんの話を聞いていた。 別の警察官が、目撃者の話を聞いていた。 また別の警察官が、車にライトを当てて、細かく鑑識していた。その後、かすかに積もった埃の落ち具合や付着した指紋で、被害女性がどんなふうに当たったのかを、運転手さんに説明されていた。 主人も、警察通報者ということで、携帯の通話記録で事故発生時間を提供していた。 そんなふうに皆さんが各々の仕事をこなす中、私だけ何の役回りもなかった(笑) 最後に、それらを総括して、矛盾なく筋が通っています、とのことだった。 救急車は、普通なら被害者を乗せてすぐ走り去るのに、しばらく現場に残っていた。 中で、ずっとあれこれモメていたのだろう。 救急隊員の皆さま、お疲れさまでした。 「くれぐれも大したことがないといいのだけれど」と、運転手さんが言っていた。その口調は、賠償金額とかより、本当に相手の身体への心配だった。 「酔っ払っていたから、受け身を取れていないのでは」と主人。 「今痛みを訴えていないのは、お酒で分かんないだけでしょう」と私。 酷だけど率直に言った。覚悟はしといた方がいい。 運転手さんは、あちゃー…と空を仰いでいた。 目撃女性が、こそっと、 「さっき来た娘さん、実は小中学校の同級生なんです。気まず~いんです(>_
2016/07/10
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(ごめんなさい。グチです。かなり疲弊しています) もう、くたびれたを通り越えちゃった。 定期的に燃料投下して、炎上して、怒りの暴言が溢れかえるのを、何度見てきたやら…。 またやってるとスルーできればいいのだけれど、もう耐えきれない。自分が浸食されるのを止められない。自分が弱いから。 うちのごはんは変えたくない。 けれど、Twitterの被害地・被害者の方々は、一通り外してしまおうか…これ以上、自分の心がズタズタにならないように…。 お辛い思いをなさったことで、お心が荒んでおいでなのは仕方ないのだろう。回復に掛かる時間は人それぞれだし。 けれど、だから何を言ったりやったりしていいとは思えなくて…。そんなことを許してはいけないのではと…。 「赤信号みんなで渡れば怖くない!!」を見ているようで。 「被害者上等!!」ステッカーを貼っているかのようで。 楽しみたいSNSなのに、TwitterやFacebookは、我慢大会や自慢大会のような苦行。 家庭菜園やってる人達や、何らかの障碍を抱える人達と、楽しくつながりたい…。 被害者だから何をやっても許されるなんて、私は思いたくない。 ハンデを背負ったのが自分の落ち度であろうとなかろうと、立ち上がりたいのなら結局、まずは自分が頑張るしかないんじゃん。 …そんなのは、私の価値観でしかない。 座布団の上で、あぐらかいたり寝そべったりして、テレビ見ながらお菓子を食べて、他の人に指図するばかり。 その街を復興するのは、自分達じゃないんだ。 よその人が復興とやらをやって街を元通りにすべきで、自分達は何にもせず元通りになった街を受け取るだけでいいと考えているんだ。 早く街が復興しないのは妨害されているからだと、他の人を責めたり指図するばかりで、自分達が手を動かして汗をかいていないからだとは思わない。 その妨害もあわせて、自分達が力を合わせて乗り越えるんだ、という考え方はしない。 どこまでも被害者のまま。 人を責め続ける方々と、立ち上がる練習を続けられた方々と、むごい程に同じ5年3か月。 (毒を吐きました。すみません…)
2016/06/19
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早く余震が収まりますように。 被害が小さく済んでいますように。 夜中に大きな余震が起きたりせず、今夜おやすみになれますように。 暗い夜に余震が続いて心細い中、声を掛け合って助け合って、お過ごしでいらっしゃいますように。 津波がなくて良かった…。 東日本大震災や阪神淡路大震災を体験された方々の、経験者ならではのアドバイスがTLに流れてた。 大きな地震を経験された方々も、今夜は心が泡立つと思うけれど、おやすみになれますように…。
2016/04/14
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熱を出した。 こないだの講演会まとめを頑張って根を詰めすぎた。 お昼過ぎにやっと起きて、軽く食べてお薬を飲んで、1時間もせず、また横になっている。 どうしても、311の前に、講演内容をまとめておきたかった。 ムリが効かない身体なりに、内容の良し悪しもさておいて、ひとまず精一杯全力で頑張ったよ。 講演ではもっと分かりやすかった内容が、私の言葉足らずな表現で小難しくなっているのが、何とも口惜しい。 今日は雨の予報で、明日こそ畑で過ごすつもりだった。 種まきや種芋植え付けや、あえて未来につながる作業をしながら黙祷するつもりでいた。 なんか天気予報が雪になってるんだけど…(>_
2016/03/10
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吉田先生の講演会。うちのごはんの生産者:福島県伊達市の田中さんを、発災直後からサポートされている方です。奇遇にも、同じ海老名市内にお住まい。一度お目に掛かれたらと、ずっと思ってました。講演会は鎌倉市だったので知らなかったのですが、田中さんのお口添えで受講できました。吉田先生は、穏やかな口調で、穏やかに微笑むようにお話をされる方でした。講演内容は、とても分かりやすいだけでなく、楽しく面白くて、特に後半はエキサイティング!!受講者からも「福島がこんなに元気で美味しいなんて思いもしなかった!今日は目から鱗でした!!」と、驚かれながらの明るく弾んだ声が挙がっていました。こういった福島の現状が周知されれば、福島の当事者・関係者にも、支援者・応援者にも、まだ不安を払拭しきれない方々にも、元気が出て安心されて喜んで頂けるんじゃないかな?そんな思いから、講演内容を以下にまとめます。原発事故と環境~原発事故、放射性物質による環境汚染、農業の復活~日時:2016.3.5 14:00~16:00場所:鎌倉市腰越行政センター2階講演者:吉田博久(首都大学東京 都市環境科学研究科 教授)主催:鎌倉市教育委員会イントロダクション大学での研究内容(本業)は、物質をナノレベルで分解・結合して、新しい物質を生成すること。その分解・結合のために、日頃から放射線を利用していた。今回の震災で、福島の当事者からの放射能関連お問い合わせをきっかけに、発災年の4月上旬には測定器などの機材を現地に持ち込んだ。気が付けばもう、数百日の調査を続けている。その中で、様々なふれあいがあった。福島県にとって、原子力発電所は沿岸部地域の経済活性化に必要不可欠だった。あの時は、保守点検の時期だった。「1日も早く稼働させて欲しい」という知事の要請で、前倒しして稼働されていたのだった。そこに大地震が発生、続いて大津波の発生、全電源喪失、非常用バッテリー使用不可…。想定外の事態が幾つも重なり、炉心が溶け(メルトダウン)、水素爆発を起こし、放射能が東日本各地に落下・沈着(ホールアウト)した。福島第一原発の爆発事故は、当初、政府関係者さえも知らされていなかった。放射能の単位と種類単位:Sv(シーベルト:主に空間線量)とBq(ベクレル:主に食品)の2種類。●Sv:シーベルト(強さ)一般的に、日常生活で「年間2.4mSv(2.4mSv/y)程度」は誰もが被曝している。放射線取扱者の安全基準は「20mSv/y」までの被曝に抑えるようにしている。原発事故後の避難区域は、この「20mSv/y」に基づいて策定された。※0.001Sv=1mSv=1000μSv。 普段目にする空間線量は、ほとんどの街が「0.1μSv/h」といった単位。1時間あたり0.1μSv(=0.0001mSv)という意味。 0.1μSv/h×1日24時間×1年365日=876μSv/y=0.876mSv/y 実際には、屋内にいれば約60%軽減したり、同じ家の庭でも軒下など水回り周辺では高かったりするので、一概ではない。目安として、避難地域・立ち入り禁止区域は2.3μSv/h以上。●Bq:ベクレル(濃度)日本の食品基準は100Bq/kg以下。アメリカは1200Bq/kg以下。EUは1250Bq/kg。日本は、世界基準の1/10以下。一般的な濃度単位には、0.001ppm=1ppb=1000ppt が使われている。100Bq=0.3ppt。pptでの説明の方が分かりやすい。角砂糖1つ1gを、コーヒー1杯100cc(10cm×10cm)に入れた時の濃度は1%。1リットル(1000cc:100cm×100cm)の容器に入れると0.1%。←これが1ppm。 ※横浜ランドマークタワーに角砂糖1つ投入した感じ。1km×1kmの容器に入れると0.0001%。←これが1ppb。 ※東京湾に角砂糖1つ投入した感じ。10km×10kmの容器に入れると0.0000001%。←これが1ppt。 ※瀬戸内海に角砂糖1つ投入した感じ。0.3pptは、100km×100kmの容器に角砂糖を3つ投入した感じ。要するに、特別に放射能測定装置が必要なほど小さな値。●種類:原発事故で放出された放射性物質の95%はヨウ素やセシウム 131I:放射性ヨウ素(半減期8.02日) 134Cs:放射性セシウム(半減期2.0652年) 137Cs:放射性セシウム(半減期30.1年) もう131Iや134Csは検出されていない。今問題にされているのは基本的に137Cs。福島第一原発で何が起きたか?3/11 14:46 M9大地震発生 15:35 津波第2波で全電源喪失 20:00 炉心溶融(メルトダウン)し、建屋内に放射能が充満し始める。3/12 14:30 水素が充満。爆発を避けるため排気(ベント)。 水素と一緒に放射能も外部に放出されることとなる。 15:36 1号機爆発3/14 11:01 3号機爆発3/15 06:00 2号機・4号機爆発 09:05 原発正門で11.93mSv/h福島県内:3/15~16の降雪。宮城・岩手ルート:太平洋の海水で運ばれた。埼玉・群馬ルート:南西の風で運ばれた。茨城・千葉・東京ルート:南南西の風で運ばれた。※神奈川県で足柄の新茶が出荷停止になったのは、茨城・千葉・東京ルートの風によるもの。放射線量の時間経過【南大沢キャンパス】発災前は0.07μSv/h。発災直後3/15に0.6μSv/hに上昇。その後、停電対策で計画停電が始まり、計測が途切れた。3/21の計測再開後、線量がどんどん低下しているのが判る。これは131I:放射性ヨウ素(半減期8.02日)の半減によるもの。つまり都内の奥多摩でも、放射能が風に乗って沈着(ホールアウト)していたと言える。また、建物の南側での汚染度が高かった。また発災年の秋、東京都庁など高層ビルの周辺で、落ち葉(ケヤキ・イチョウなど)から300Bq/kgが測定されている。風に乗った放射能は、高層ビルにぶつかって落下したようだ。飛来高度は上空100m~200mと推測できる。福島の環境汚染土壌の深さ方向の汚染○雨どいの出口のような水回りは、一律して高い。○深さの分布は場所によって違うものの、概ねほぼ表面。○水田は、耕した後に測定したため、分散した。○砂や石より、粘土質の場所の方が高い。放射性物質の河川での移動○上流は高く、河口に近付くにつれて下がる。放射性物質は、それほど遠くには流れない。○砂防ダムの下流で一気に数値が下がっていた。ダムの堰の内側の底土に沈殿している。外部被ばくを防ぐために~新山公園での除染~当初3.6μSv/h以上あったため、立ち入り禁止区域(2.3μSv/h以上)になっていた公園。自治体の許可を取った上で、ボランティアによる4日間の作業。表層土(2cm)をはぎ取った結果、3.6μSv/h→0.8μSv/hに!!!はぎ取った表層除染土は、公園の一角を深く掘って埋め、上から40cmの土をかぶせて遮蔽した。理論上は20cmの遮蔽物で十分に遮断できるが、念のため40cmかぶせた。(当時は除染廃棄物の処理方法が未定だった。)果樹園や水田汚染の汚染実態と対策結果果樹園と水田の土壌の放射能濃度○果樹園は、ハウス内が低かった。○水田は高い。2012年8月時点で平均5000Bq/kg。しかし、その土から前年収穫した玄米は16Bq/kg、白米に精米すればN.D.(不検出)。なぜそんなことが?水田の放射性物質分布○1枚の田んぼの中でも、水口(みなくち:用水の取り入れ口)が高く、水尻(みなじり:排出口)に向かって低くなる。→「放射性物質の河川での移動」と同じ!水田土壌から玄米への放射性物質の移行○当初、土壌から玄米への移行は0.1と考えられていた。そのため国からは、水田内を2000Bq/kgにするよう指導されていた。しかし現実に8000Bq/kgの水田からも、移行せず基準値以下でお米が生産できていた。土壌粒子サイズと放射能濃度の関係土の粒が大きな石や砂。→放射性物質が結び付きにくいので、水に溶け出しやすい。→植物に移行しやすい。粒の小さな粘土質。→土に結び付きやすいため、水に溶け出しにくい。→植物(稲)に移行しにくい。→一概に0.1ではなかった。水田の汚染防止対策ゼオライト土嚢で堰を作る。←「放射性物質の河川での移動」の砂防ダムと同じ!・ゼオライトに137Csを吸着させる。・堰の内側の底土に137Csが沈殿する。汚染防止対策の効果堰の内側の底土は20000Bq/kg、堰の外側の水田内は1/5の4000Bq/kg。堰に多大な効果があった。調査後、内側の底土は除去。同じゼオライトを使いながら、堰を作らず水田内に散布した場合との比較。○堰(トラップ)を作った場合は、堰の内側の底土を除去すれば良く、水田内の汚染を低減できる。○水田内にゼオライトを散布した場合も、稲への137Cs移行は同様に低かった。ただ、ゼオライトそのものは回収できないので、水田内の137Cs数値は下がらない。ゼオライトそのものは、土壌改良剤のひとつ。土の保湿力がUPする。また海洋タンカー事故のオイル流出で、ゼオライトにオイルを吸着させたりする。低農薬栽培をされていたので、元々ゼオライトを使い慣れていた。自分の田んぼの周囲に散布し、周囲の田んぼで散布された農薬をゼオライトに吸着させて、自分の田んぼに農薬を入れないという使い方をされていた。そこで、田んぼ内にゼオライトを散布してしまうと、137Csだけでなく養分も吸着されてしまうことをご存知だった。2013年、この水田の持ち主の田中さんのお米は、福島県で優勝!!その時の米袋には、ピカピカのシールが貼ってありました(^_^)v(写真を撮っておいたのに、そのデータを見つけられないでいます…_| ̄|○)2012年晩夏、Kさんの電話越しの熱さを忘れられません。「そろそろ新米を収穫するのに、不良在庫で倉庫が空いていない。なんとか出来ないだろうか」とネットで相談されたのが、我が家が田中さんのお米に出逢ったきっかけでした。その後、電話でも何度かやりとりしました。彼の東北イントネーションは、中部圏出身の私には、とても心地よく響きました。Kさんが、田中さんのお米やお野菜にホレ込まれた想いが、福島への想いが、とてつもなく熱かったです。(その時の説明を元に、以前にまとめた記事⇒『福島のお米の残留放射能対策(ゼオライト・カリウム)』)講演会で、水口と水尻を細かく計測されていたお話に差し掛かって「これ、Kさんから伺ったのと同じ!てことは、この5000Bq/kgの水田って、まさに、うちのお米のお話なの?!」と途中で気が付いて、、、嗚咽しそうなのを全力で堪えながらも、眼は完全うるうるでした。そういえば、まだKさんにお目に掛かれていません。もっといえば、田中さんの奥さんといつもメールやりとりしながら、お目に掛かったのは3分。バスツアーで伊達市のJA直販店んめ~べさんに立ち寄った時に、わざわざ会いに来て頂いたのでした。そして、ご主人にも、まだお目に掛かったことがありません。私が、もっと元気なら、福島なんて近くだし、ちょくちょく足を運ぶのですが、今もまだ体調は思うに任せられません…。それでも今年こそ、田中さんご一家にも、Kさんにも、お目に掛かれますように☆果樹の汚染調査樹について。桃の樹を1本伐採し、輪切りにして調べた。果樹園内でも南東(事故現場に近い方)の樹で調べ、樹の内部に放射性物質が入り込んでいないことが判った。実について。桃は水分が多いため、摘果した固い実も、熟した実も、乾燥させた実も、その果樹園で栽培されている10種類以上の品種の全てを測定した。10年ほどの若い樹の果実からは、ほぼN.D.(不検出)。そろそろ植え替え(30年で現役交代)の樹から検出されるものもあったが、数Bq/kg(わずか1ケタ台)が最大だった。樹皮に亀裂が入り始めていることで検出されたのだろう。有機栽培を40年以上手掛けてこられた生産者さん。総じて、有機栽培を長くやっている水田や果樹園では、放射性物質の検出が揃って低かった。スギ樹木内部の汚染調査川俣町山木屋のスギの樹を伐採し、輪切りにして調査。スギの場合、樹の上部(若い所)は内部にも137Csが入り込んでいた。そこで、○年輪1本ずつ測定。 →樹木の上部以外では内側は汚染されていない。○葉を測定。 →2011~12年までの葉からは検出、それ以降の葉からはそれほど検出されない。それぞれの検出は、追跡調査すると自然減衰している。【判ったこと】○同じスギでも、樹高や樹皮の亀裂などで、汚染度が異なる。○スギ上部の内部汚染は、樹皮や葉からの浸透によるもので、根からの吸収ではない。【チェルノブイリとの大きな違い】チェルノブイリで調査が入れたのは、事故が発生して5年も経ってからだった。その結果は、汚染された土壌から根が137Cs(など)を吸収し、葉に移行し、落葉して土壌が再汚染されている、となっている。日本では、そもそも根からの吸収がない。そのため葉への移行もない。チェルノブイリと日本では大きく異なる。なぜ、この違いが生まれたのか?日本とチェルノブイリでは、土が全く違う。チェルノブイリでは、わずか約1mの泥炭層で、その下は凍っている。その1mの土壌の上に林が成り立っている。日本では、山の中は粘土層が多い。粘土質に結び付いた137Csは、水(や植物)に移行しにくい。粘土質で吸着されたことで、汚染されたのはもっぱら表面の土に留まり、深さ方向への汚染は進行しなかった。なお、吸着した137Csの初期汚染は、そのまま残る。良くも悪くも新しい葉などには分散せず、初期汚染部分は(自然減衰以外では)低くならない。飯館村の原木マイタケキノコのホダ木栽培用の原木は、震災前は福島県が60%を占めていた。震災以降、福島県の原木は出荷できなくなり、九州などの木が使われるようになった。この調査のきっかけは、2013年の飯館村マイタケ生産者さんからの相談。「震災の後、ずっとほったらかしてあったマイタケを、収穫してみて測定してもらったら、140Bq/kgのと2000bq/kgのがある。どうしてだろう?」現地調査。畑の土壌は、概ね10000Bq/kg。キノコの移行係数は1.0.140Bq/kg(以下A)は、柔らかい土に埋めてあったホダ木。2000Bq/kg(以下B)は固い土だったので、埋めずに置いてあったホダ木。AとBの違いは137Cs濃度。この違いは水分分布にあった。Aは下から、Bは横(樹皮)から水分を吸収している。水分を、横からは浸透させず下から吸い上げるよう栽培環境を整えることで、数値低減が可能になるのでは?実証試験(2014年7月に埋め込み、9月に収穫)。広さ1.5m×2m、深さ1.5mの穴を2つ掘り、周囲をボードで囲う。穴の底部分は、3種類の違う環境を用意。 1.ホームセンターで購入した黒土(2.8Bq/kg)を敷く。 2.そのまま何もしない。 3.137Cs吸着シート(後述)を敷く。その後は通常通り。ホダ木を敷き詰め、ホームセンターの黒土を2cmかけ、落ち葉(震災前に集めてあったもの)を3cmかけ、最後に上から遮光シートをかける。結果。移行係数1.0のキノコなのにN.D.(不検出)~最大13Bq/kgを達成!!!しかも、N.D.のマイタケは60%!!!追跡調査(2015年)の結果。○なぜか収穫量が増えた。←一般的に2回目以降は減る。○N.D.90%!!!!!現状、飯館村の農産物は全て出荷停止。この結果を学会での発表した後、林野庁から連絡をもらった。この方法で栽培された飯館村キノコが食卓に並ぶ日は、遠くないかもしれない?!しかしながら……。現状、数値がこれだけ実際に低いのに、飯館村産なので、このマイタケを流通経路に載せることはできません……。ものすごく大きくて立派なマイタケで、原木栽培だから分厚くて、だから味もとびきり濃厚なのに……。そして、計測には各検体1kgで十分なのに、生産者さんは「持ってけ!!いいから持ってけ!!」研究所の皆さんで、原木マイタケをフルコースで堪能されたそうです。羨ましいっっっ!!!(≧∇≦)将来に向けて~汚染水対策~吉田先生の専門は化学。物質をナノレベルで分解・結合して、新しい物質を生成すること。特定物質137Csをキャッチできる物質はないか?特殊センサーになる物質はないか?その物質を利用して、137Cs吸着シートを作れないか?プルシアンブルー(紺青:C13Fe7N18)葛飾北斎「冨嶽三十六景:神奈川沖浪裏」の海の濃い紺色部分に、顔料として使われている。このプルシアンブルー(以下PB)に、137Csを吸着する性質がある。そこで、ウールをPBで染めて、137Cs吸着フィルターを作成(以下PBウール)。動物の皮膚や髪・毛は、うろこ状のキューティクルに覆われているため、疎水性(水を弾く)があり汚れにくい(=汚染されにくい=137Csを吸着しにくい)。色落ちしないようにきちんと染めれば(表面のエビキューティクルをエクゾキューティクルやエンドキューティクルに変えて……この説明が先生の専門で真骨頂なのに、すみません???でした。要するにウールとPBが安定して結合すれば)、137Cs吸着効果がずっと続く。137Csを含む水を、PBウールでろ過。左のPB-0はPBゼロのウール、右のPB-TがPBウール。PBウールは、ろ過機能が高い(水の137Csが低く、ウールに吸着した137Csが高い)。↓実証試験の様子。キノコ原木表面を洗浄した後の700リットルの水(汚染水)を、薄さ0.3ミリのPBウールで作ったフィルターに通し、更にもう一度通した(約40分)。その結果、137Csは1/1000になった。福島第一原発の汚染水も海水レベルにすることが可能!!!○汚染水が出た時に、PBウールで作ったマットに吸水させて絞ることができれば、ろ過も含めた汚染水対策が可能。○農業用水のため池の汚染度は、底土に137Csがどれだけ沈着しているかで違う。底土をろ過できれば、農業生産者さんは楽になる。なお、福島県内の川・池・湖の水は、既にほぼ0.2Bq/kg以下に下がっている。※「福島第一原発の汚染水」について。 良くある勘違いで「爆発時に、冷却させるために使って汚染した水を、タンク内で保管していて、漏れ出してきている」というのがありますが、違います。 もともと、福島第一原発の下に地下水が流れています。この地下水が、敷地内に入り込むことで137Csが溶け出して汚染されるのです。その汚染水が海に流れ出ないように、汲み上げてタンク内に貯蔵しています。また、地下水が敷地内を流れないよう別の経路を作ったり、凍土壁を作ったり、様々に尽力されています。 このPBウールの話は、既に東京電力に持ち掛けられておいでです。他の研究グループも、それぞれに素晴らしい案を持ち掛けられているでしょう。 汚染水そのものは、地下水が止まらない以上は完全ゼロには出来ません。そこで必要な対策は、海に汚染水が出ないこと。そして、タンク内の水をろ過すること。そのための対策が実を結ぶ日も、さほど遠くはなさそうです。以上が、放射能への取組です。最後に、ふれあってきた福島の方々や、大学の研究仲間を紹介します。飯館村の佐々木千栄子さん。3/15は雪でした。浪江町から避難で来られた方々に炊き出しされていたので、降る雪で外部被曝されています。ご主人が、がんだったのですが、震災で手術キャンセルになりました。4月になってから、飯館村も強制避難区域になりました。7月になって、ご主人のがん治療は再開できたのですが、、、その後、残念ながら他界されました。ずっと何も手につかず、時間が止まっていたそうです。2013年になって、ふと、ずっとほったらかしてあったマイタケを収穫して計測持ち込みして「どうして?」とお問い合わせになった時から、時間が再び流れ出しました。「農家レストランを再開しよう!!」伊達市 桃井松男さん ずっと有機栽培されてきた桃井さんのような方々のデータから、有機栽培の畑ではN.D.が早い・多いことが証明されました。 飯館村でブラックベリー栽培の実証実験もされました。有機栽培ではほぼN.D.、有機でないと20~30Bq/kg検出されることが判りました。 なぜ? 植物には、栄養分が足りず飢餓状態になると、根から酸を出し、土壌の養分を溶かして養分を吸収する仕組みがあるそうです。 有機栽培で十分に栄養分が行き渡っている土壌であれば、酸を出す必要がないので、粘土質を溶かして137Csを吸収することがないのでは、と考えられています。伊達市 田中保男さん・千歳さんご夫妻うちのごはんの生産者さん(*^^*)飯館村 まさともさんご夫妻と研究室の皆さん福島県は、北海道のように開拓されて切り拓かれた土地です。まさともさんご夫婦も、鋤や鍬など自らの手で山を開墾し、山菜栽培をされてました。今は、避難先の二本松で農業再開されています。「ここで新たに生きていく」御年95歳!!そして、飯館村の佐々木さんが農家レストランを再開!!前列中央の黒いシャツの女性が佐々木さん。後列左端の若い男性は、韓国からの留学生の方です。発災直後、韓国全域では全ての学校が休みになりました。何度も帰国を薦めるご両親に、「大丈夫だから。僕は、この目で福島を見てきてたよ。それで大丈夫だと判断しているよ。大丈夫だよ」帰国されなかったそうです。日本に留まり続けてくれました。そして福島に足繁く足を運ばれています。こういった韓国からの留学生が、吉田先生の研究室だけでも3名いらっしゃいます。前列の佐々木さんの左隣の女性お二方は、吉田先生の先輩で、ご専門は染色技術。このお二方のお力添えで、PBウールのシートやマットが開発されています。また、後列右側、福島県林業センターの方もご一緒です。前列右端の女性二人も、研究室の学生さんで、足繁く福島に通っています。ご自身の研究も素晴らしく、更に、吉田先生の研究や福島を力強くサポートされておいでです。いろんな人が、つながって、支え合っての、福島での5年でした。3月でひとまず退官ですが、研究室などの環境を含めて大学に残ります。震災から5年が経ちますが、やることはまだまだあります。以上が、講演会のまとめです。メモと記憶を頼りに急ぎ書きあげたもので、説明不十分や私の勘違いがあるかと思います。文責は全て私にあります。今回の講演内容をブログにまとめる許可は、吉田先生から頂いています。全ての資料・写真などの著作権は吉田先生の研究室に帰属します。内容の濃い長文記事になりましたが、最後までご精読頂き本当にありがとうございます!!
2016/03/05
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福島の風評被害はもうないと、個人的に感じている。 私の視点を押し付ける訳ではないけれど、御一読頂ければありがたい。 最初に「?」と感じたのは、昨年2月の銘柄福島牛イベントでのこと。 その時点では1kg¥300安いとのことで、震災後は「銘柄福島牛」のブランドを使えず、「国産牛」として取り扱いされているそうだ。 ブランドがないのだから、安いのは仕方ないのでは? そして「国産牛」扱いで福島県産かどうか分からないのに、どうやったら消費者は福島牛を避けることができるのだろうか。 そんなふうに考えた。 そして昨年7月、JA伊達みらいさんで、桃の風評被害に関して質問した。 その時点で、福島桃の売上は震災前より実際に落ち込んでいた。しかし、と職員さんはお続けになった。 「桃の樹の寿命は約30年。それ以降は実の生り方が悪くなる。定期的な植え替えを奨励されており、植え替えると国から補助金が出る。発災年、植え替えの補助金でしのいだ生産者さんは少なくなかった」 キリッとした口調で、鋭い眼光で、緊迫した空気で、淀みのない説明だった。説明の中で「風評被害」という言葉は使われなかった。 それから調べた。 桃の苗木は、植え付けてから実が生るまで「桃栗三年柿八年」のとおり最低3年かかる。 あの年に事故があるなんて誰も予期してなかった訳で、成長不十分な苗木でもと植え替えた場合は、実が生るのに4年以上かかる。 そしてJA伊達みらいさんでは、全ての桃を光センサーで糖度チェックされている。そうすると、生育3年で実が生ったとしても、まだ糖度は不十分で、ハネモノレベルかもしれない。 そんなこんなで震災前より桃の売上高が低いのだとしたら、それを風評被害とは言わない。 福島県の食品イベントに何度も足を運んできたけれど、生産者さんが自ら「風評被害」という言葉を使われることは、もうすっかりない。 (福島ではないパネリストが風評被害という言葉を使うことは、今でもある) ネットやマスメディアを見る限りでは、今も、風評被害があるのが前提。 神奈川県に住む一主婦として「風評被害はまだあるの?」という疑問は、3年目には強く感じていた。スーパーの品揃えにしても、友人や近所の人と話をしていても。 福島を食べない人には、何人か接したことがある。 全員が、ご本人かご友人が短絡的な反原発で、かつ、福島支援する私はいい人でしょ♡な偽善パフォーマーだった。 それ以外は、私は1人も知らない。 念のため、今も彼らが福島産を避けているかは分からないし、まだ反原発やってるかも知らない。 それはそれとして。 少し話を変える。 うちのごはんは福島県伊達市のコシヒカリ。 福島県中通りのコシヒカリは、現在は特Aクラス。魚沼産コシヒカリと同様。 魚沼産コシヒカリがビッグネームなのは10年以上も特Aクラスを維持しているからだそうだ。 けれど福島県産コシヒカリも、今の生産者さんの真摯な取り組みを思うと、特Aクラスは10年以上続くのではないだろうか。 今に「魚沼産コシヒカリ」のように「福島産コシヒカリ」もビッグネームになるのではないだろうか。 ということで、風評被害に話を戻す。 「えー、魚沼産コシヒカリ食べてるの?すごーい!やっぱり美味しさは違うの?」 と言われるように、 「えー、福島産コシヒカリ食べてるの?すごーい!やっぱり美味しさは違うの?」 と言わせたい。そして、 「うん、すごく美味しい。うちのは特に低農薬有機農法天日干しだしさ。いやもう口が肥えちゃて外食でお米は頼めなくなっちゃってさ。ほんと美味しいよ。いいでしょ~」 なんて威張ってみたい。 それなのに、 「福島は風評被害で大変で…」 なんて同情してもらうようなことを言わなきゃいけないの? そんなこと、いつまで言わなきゃいけないの? あと10年? 5年? 3年? 1年? 半年? 3か月…? いつ止めるの? 今でしょ!! もう福島の風評被害はなくなったと宣言したい(個人的に)。 それはそれとして。 福島県に限らず、岩手・宮城も復興半ばでいらっしゃることは否定しようがない。 風評被害ではない。復興半ば。中でも、福島県の復興は遅れている…。 まあだからと取り立てて何かを変えるでもなく、今後も引き続きこれまで通り、うちのごはんを美味しく頂ければありがたい限り。
2016/02/27
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平穏な日常の中で 12時間遅れで1分間を切り取り 黙祷して想いを馳せた 蛇口をひねるだけでお水もお湯も出ること 夜でも本が読めること 道路や信号があること エアコンやストーブがあること 郵便や宅配便があること 電話やネットでコミュニケーションが取れること 昨日も今日も明日も美味しいごはんを食べれること 戦争していないこと 当たり前のことを 当たり前と思えてることが 一番の幸せ そう神戸で感じたことは 私の一生のたからもの
2016/01/17
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(今どうしようもなく辛くて、気持ちを吐き出すつぶやきです。) 「この日、神戸は喪服が行き交うのですよ」 おかざきさんにそう伺って、翌年から、ずっと、今日は黒い服。 3月11日や月命日11日の「黙祷」ツイートさえ「被災地内外の違いを知らされる」や「私は支援してますパフォーマンスしやがって」とお捉えになる方々がいらっしゃる。 そういう方々が多数派か少数派かは、こちらからは分からない。そういった方々の声は超デカいので、大多数なのだろうと感じている。 おそらくは「風化させたくない」と仰る層と被っているだろう。 被災者だけではなく、被害者な方々。 黙祷ツイートに「分かってもらえていない」と傷付けられる。 黙祷ツイートがなくなると「風化して忘れられた」と傷付けられる。 何であっても何かしらケチを付けるのが巧みで、常に傷付けられている。 今朝AM5:46は、お布団で夢の中だった。 増薬影響もあって調子ガタガタで、徹夜や早起きなどのムリはしなかった。 ただ、今年もいつものように黒い服に着替えた時、気持ちがしゃんとした。 きちんと仕立てられたスーツをまとったような。 職場の制服のような。 神戸からの「パフォーマンスしやがって」バッシングは、私はたまたま1度もない。 117で傷付いたのは兵庫だけじゃない。 311で傷付いたのは東北の太平洋側だけじゃない。 誰のための黒服で黙祷だろう。 東北か関東か関西か、県境で傷付きが決まる、とでもお考えでいらっしゃるのだろう。 自分の心のための黙祷さえ、被災地外という理由で否定・批判されてしまえば、自分の心を守るには被災地から離れるしかない。 私たちは、被災地から自分を守らなくてはいけなかった。 311を悼む心を行動に現すことは、反原発デモであれ黙祷ツイートであれ、常に非常な危険を伴い、凄まじい恐怖に晒される。 「あなたの福島は間違っている!!!」何であっても何かしらケチを付けるのが巧みな方々。 更に昨今は「風化」という言葉も目に付く。 被害者やりたい放題。 赤信号みんなで渡れば怖くない。 …そういう方々が多数派か少数派か、こちらからは分からない。少数派に過ぎないと実感したいのだけれど…。 2016年1月も当たり前に黒服を着て、2032年1月も黒服を着ているだろうけれど、同年3月に黙祷している自信は正直ない。 (ごめんなさい。余計なことでいっぱいになってて、とても苦しかったんです。少し吐き出せて、少し楽になれました。この空いた分で、やっと、神戸に想いを馳せることが出来そうです…。12時間遅れの17:46に黙祷します)
2016/01/17
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今日の午前中(10:30ごろ?)、北朝鮮で地震とは違う揺れが感知された。 核実験では?と日本でも報道された後、北朝鮮が12:30ごろ「水爆実験を実施した」と報道。 いろんなことを考えた。 最初、この所の世界情勢の悪化が頭に浮かんだ。 北朝鮮には、友好関係の良好な国がない。味方がいない。 なんかあった時に、守ってくれたり助けてくれたり、一緒に戦ってくれる仲間がいない。 今の世界情勢で怯えて、「僕たち水爆持ってる(からいじめないでね)」とアピールしなきゃいけなかったんでは。 ケンカで、言い返せない・腕力で勝てない弱いヤツほど、先生にチクったり刃物を持ち出したりする感覚で。 だから孤立無援なんだけど。 それから、中東ばかり注目されて忘れられてる感覚もあったのかなと。 構ってちゃんタイプと言うか…。 前回2013年の北朝鮮の核実験の時のことが頭から拭えない。 あの時、加藤登紀子さんは「北朝鮮の核実験による放射能が恐ろしい」という人に「地下実験だから大丈夫、福島の原発事故の方がキケン」のようなことをツイートされていた。 なんと愚かで醜悪でおぞましい反原発だったろうか。 核実験の先にある戦争や原水爆投下を思った時に、なぜ死者数ゼロの事故が引き合いに出てくるのだろうか。 しかも、まだ福島の皆さんが今よりずっとお辛い思いをされていた時に…。 ただ、どなたにも過ちはあり、成長して変化される。もう今は、地に足の着いた考え方が出来るようになっておいででありますように。 ところで。 原爆のエネルギーは核分裂、水爆は核融合。 水爆が核融合するための起爆剤として、原爆で核分裂させ、そのエネルギーを元に核融合するようだ。 水爆のエネルギーは、原爆の何百倍~何千倍になる。 にも関わらず、北朝鮮の揺れがM5.1程度と、2013年と大して違わないのは、どういうことなんだろう。 実は原爆の実験だったのに、水爆だと見栄を張っているのだろうか。 実は原爆しか爆発せず、水爆は失敗に終わったのだろうか。 米国が「あれ違くね?」みたいな反応なのは、そういうことなんだろうか…。 北朝鮮の金正恩さんのお誕生日は明後日なのに、しょぼいことになっちゃったもんだ…。 そして、過激なことを思う。 北朝鮮は非友好的かつ弱小国、叩き潰した方がいいのではないだろうか。 北朝鮮が拉致を認めた時に「(北朝鮮学校で)拉致はやっていないと教わったのを、ずっと信じてきたのに…」と在日の方の血を吐くような苦しみを、私は忘れられない。 北朝鮮で貧しいと報道されている一般市民も、日本に来ている在日の方も、その方が救われるように思ってしまった…。 先日、ヤングサイエンス選書1「キュリー夫人の玉手箱」を読んだ。東日本大震災後に出版された書籍。 そこに、マリー・キュリーがノーベル賞を受賞した時の講演の一節が記載されていた。 放射性物質、特にラジウムについて ラジウムが犯罪者の手に渡れば非常に危険なものになると考えられます。~中略~自然の秘密を知ることが人類に利益をもたらすであろうか、あるいは人類はそれを活用できるほど成熟しているであろうか、それとも、その知識は災いをもたらすであろうか。ノーベルの発見は典型的な例であり、強力な爆薬は素晴らしい仕事を可能にしてきました。それはまた人々を戦争に引き込む恐ろしい犯罪人の手に渡ると、恐怖の破壊手段となるのです。私は、新発見が人類にもたらすのは害よりは益の方が大きいと、ノーベルとともに考える一人です。 せっかくの放射能という大きなエネルギーを手に入れて、原爆や水爆で使うのか。 長崎で、原爆投下地に立った。 この周囲一帯が焼け野原で、近くの川は水を求めて来て息絶えた死体でいっぱいで、温暖な九州の8月で凄まじい腐臭だったと想像しながら歩いていたのに、 覚悟しながら歩いていたのに、 爆発でわずかに残った教会の柱を見て、足が怯んだ。心が怯えた。近付くのが怖くなった…。 それから、こちらに戻って何日かして、ふうっと思った。 あれだけ凄まじく人も建物も心も破壊するエネルギーで、人も建物も心も温めることも出来る、せっかくの莫大なエネルギー、そんなふうに使わないと。 包丁で、人を殺すことも出来るし、美味しい料理で人をもてなすことも出来る。 包丁に良いも悪いも関係ない…。 … …… 北朝鮮と友好関係を築ける日は訪れるのかな。 中東情勢が落ち着く日は訪れるのかな。 どうすれば、その日を早く手繰り寄せられるのかな。 どうすると、第三次世界大戦になってしまうのかな…。
2016/01/06
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利権という言葉を見聞きして、もやもやすることでのグチこぼし。 まずは、311以前の話。 かつて岐阜県で、徳山村を潰して徳山ダムが建設されたことがあった。 当初の計画は、都心部の人口増加・工場増加による水の需要増加を見込んだものだった。 次第に、戦後の高度成長期のようには人口も工場も増加しないことが判明。 もちろん村を潰すことへの反対運動も起きていた。 水力発電へのシフトは、出たものの実現しなかった。 それでも徳山ダムは建設された。何のために建設されたのか、今でも分からない。徳山村はダムに沈み、地図から名前が消えた。全ての徳山村民が他の街に移住させられ、コミュニティはバラバラになった。 テレビの水不足ニュースでは、徳山ダムが映るようになった。 ダムの水が少なくなって水面が低くなると、屋根が見えるようになる。 あれが自分の家で、家の中はドロドロで、それがテレビに流されて、どんなお気持ちだったろう…。 その後、長良川に河口堰を建設する話が持ち上がった。 洪水を減らすために必要だという主張もあって、効果ないという主張もあった。 鮎など魚の遡上に悪影響を及ぼす、つまり長良川の鵜飼に悪影響を及ぼすという主張もあって、魚道を作るから問題ないという主張もあった。。 私も含めて、周囲は全員反対だった。 それでも建設された。 その後、やはり遡上に悪影響が出たことが発表されている。しかし取り壊したとしても、破壊された環境や生態系は今さら元には戻せない。 徳山ダムや長良川河口堰のように、不要な事業でお金を使うことを「利権」だと思っていた。 それが311以前の話。 さて311以降、違う『利権』を見聞きするようになった。 ある福島支援者(福島県出身者)は、こう仰っていた。 「震災がれき撤去は、大手ゼネコンと結び付いた『利権』だ!!あんな甚大な津波被害が起きた場所に、住みたがる人間がいる訳ない。放射能に汚染された震災がれきを撤去するため、住民を移動させる手間を省くため、これは『利権』だ!!」 …これ、ネットで読んだ訳ではなく、目の前で実際に伺った。 宮城で、津波被害でご実家が震災がれきとして撤去された方は、また違うことを仰る。 「原発は『利権』だ!!リニア開発も、東京オリンピック開催も『利権』だ!!」 この宮城の方が、ご実家の撤去を『利権』だと仰るだろうか。 この『利権』とは何なんだろう? 『金儲けは悪だ!』と主張するなら、会社から給料もらうな。客から代金もらうな。 『自分の家だけ何とかなれば、他の地域はどうでもいい』なら、被災地のために神奈川が気をもむ必要はない。 被災者が主張する『利権』は、あなたの街には不要なだけで、他の街には必要な事業では? 東京オリンピック開催のために、復興住宅の建設が遅れていたり資材調達が難しくなっているニュースには、私も心を痛めていた。 それでも、直接の「東京オリンピックは『利権』だ!リニアも『利権』だ!」に、ほとほとげんなりした…。もうこうなったら話してもムダだ、この人とは会話が成立しない…。 「被災地を風化させたくない!」 そう仰りたいお気持ちや現状とは全く別の次元で、また被災地からの一方通行で、こちらや他の被災地の現状には内容がそぐわないのだろうか…。 これは、個人的な考え方に過ぎないのだけれど…。 例えば今年の1兆円を復興住宅の建設や津波被害のインフラ整備に使って、5年後に、どれだけ経済が潤うだろうか。 同じ1兆円を東京オリンピックに向けて使った場合、5年後に世界中から観光客が訪れて、10兆円にも30兆円にも膨らむかもしれない。その分、復興に廻せるお金も増える。 更にその先々も、リピーターで日本に訪れてくれる観光客が増えれば、ずっと1000万円ずつ入るかもしれない。 この先、復興はあまりにも長丁場になる。 今のうちに、こういうお金の使い方をしておかないと、ずっと先々まで保たない。 …と、東京オリンピックの話が出た時から思っていた。 そして開催が決定した。 オリンピック観光客を直接被災地に送り込むことができる。 被災地の現状を直接見てもらえる。 お金が被災地に直接落ちる。 東京でのオリンピック開催は、絶好のチャンスだ!!! それを『利権』て…。 耐用年数2年の仮設住宅に、5年目にまだ入居されているお辛さは、想像もできない。 ただそこで「仮設に住んでないから分かってない!」「被災地に住んでないから分かってない!」「『利権』を分かってない!」と私をバッシングして、どんなふうに事態が好転するのか? そんなこんなで、どうも利権という言葉を見聞きすると、もやもやする。
2015/09/23
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東日本豪雨の被害に遭われている皆さま、心よりお見舞い申し上げます。 早く雨が上がり水が引き、まずは、少しでも落ち着いてお休みになれますように。 行方不明の方も、早く戻れますように。 泥水に浸かった家屋も、田畑なども…被害の大きさが言葉になりません…。 自治体・自衛隊・警察・消防・インフラ整備などの皆さま、本当にありがとうございます。 どうかご無理なさいませんように。 よろしくお願いします。 かつて伊勢湾台風の甚大な被害で、祖母は、全国からの支援で助けて頂きました。 ボランティアなどで駆け付けることはかないませんが、赤十字などの募金受け付けが始まり次第、せめてもの気持ちを恩返しとして寄せます。 まずは、皆さまが落ち着きを取り戻されますように。 早く元の暮らしに戻れますよう、強く祈ってます。
2015/09/11
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伊達市のお子さんが下関市での保養プロジェクトで夏休みを満喫、というNHKニュースに、震災から5年目にして配慮が足りないと、もやもやしたり怒ったりしている人がいるようだ。 その怒りは妥当だろうか。矛先が間違ってはいないだろうか。 下関スタッフは「子ども達の放射能への不安を思って活動を続けている」「笑い顔が増えた」なことを言ったらしい。 NHKはそのまま放送した。 下関側のありのままを放送で見た福島が「プロジェクトに参加する時は、支援団体の活動性を確認すべき」「風評被害を増幅させかねない活動グループへの参加は止めよう」と、自分たちを省みるのであれば、風評を失くしたいんだと分かる。 福島が、NHKに表現配慮を要求するのは、おかしい。 そもそも、伊達から下関までタダ・格安旅行を純粋にご厚意で用意するほど福島にお心を寄せる人が、伊達の空間線量に問題ないことを知らない訳がない。 タダより高いモノはない。 保養プロジェクトがそういうものである現実は、変えようもない。 お子さんがそう利用されるのを承知の上で、お子さんが世間の実態に触れたり見聞を広めたりするために、あえて参加させているのだと思っていた。 NHKに表現の配慮を求めるのは、「風評被害を活用した保養プロジェクトを、今後もタダ・格安で利用したい。支援側のありのままを報道されると、お金が集まらなくなる。都合の悪い真実は流さないよう、配慮・捏造をお願いしたい」と言っているかのようだ。 こちらの実感としては、福島風評被害が今もあるのか、本当に良く分からない。 どうしても一部おかしな人・マスコミはいる。それをゼロにはできない。 そうは言っても腹が立つのは仕方ない。。。 ただ、なんか違ってないかなと、、、。 「福島を差別するな!」と言う福島関係者の半数は、こちらにいれば「福島を食べるな!」「震災がれき受け入れ反対!」だったろうなと、しばしば思う。 「差別するな」と言いながら、外国人・障碍者などへの蔑視表現を混ぜ込む。 騒ぎたい人達が、福島内外で敵味方に分かれてみただけで、同じ穴のむじな。 加害者がゼロになっても、言いがかりを付ける被害者がいる間は、風評被害はなくならない。 こちらは、良く見定める必要がある。当事者だからと安易に鵜呑みにしてはいけない、本当に風評被害を失くしたいのなら。
2015/07/27
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今年の311は辛かった…。 昨年の今頃は、福島グッズグループとゴタゴタもめていた。イベントをドタキャンされた後、関係修復できないまま、足すら運べていない。 そのことを、私の方は未だに引きずっている。 一昨年の311は、そのグッズ製作者さんと心温まる時間を過ごさせて頂いてただけに、一層…。 この件に関して、いつか割り切れるようになったとしても、ずっと自分を責め続けるのだろう…。 冬季うつに加えて、PTSDも増悪した状態で迎えた311。 テレビの中の他人事の世界が、ひとつひとつ、自分の虐待トラウマに呼応する。 「故郷に帰りたい…帰れない…」 「このまま留まったら死んでしまう。『ありがとう』と言って置き去りにするしかなかった」 「(避難者への政策は)社会的なDV・虐待だ」 自分のしんどさが引き出されて噴き出して…トラウマ再体験になってしまった。。。 本当に辛かった。 特に、NHKクローズアップ現代の、浪江町の老夫婦と楢葉町の老夫婦が辛過ぎた。 もう福島ムリ。関われない。関わりたくない。関わっちゃいけない。そんな気持ちになった…。 一晩寝て、今朝、テーブルの上のりんごキャンディや糀や、朝食のトーストのりんごジャム、、、あれ、これも福島だっけ? 少しきょとんとして、そうだこれが私のいつもの福島だと、少しずつホッとした。 「凄まじい福島」に完全に呑まれてしまったけれど、早い時点で「いつもの福島」に上書きできて、戻ってこられて、良かった。 昨日の14:46少し前に撮ったもの。 なんだか、1つのトラブルを乗り越えると、また別のトラブルに見舞われて、復興は障害物競争のよう。 阪神淡路に比べ、ハード面・メンタル面の双方の復興が著しく遅れている…。 今なおお辛い方も、10年目ぐらいに振り返られた時に、「1番辛かったのは3~4年目だった」と思える5年目になりますように。 わすれな草。今年、初めて種から育てている。 フェンスを活かして、スイトピーもまいた。 来月、我が家のストリートガーデンは、どんな風景になるだろう。
2015/03/12
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行ってきました。 帰宅してへろへろで、詳しくは後日まとめます。 「ありがとうございます」の笑顔が弾けてました。 行けて良かったです。 こちらこそ福島ありがとう!!
2015/02/14
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また毒を吐きます。よほど溜め込んでたみたいなので…。 被災者間や被災地間で、格付けをやってるのかなと感じることがある。 自然災害の津波より人災の原発事故の方がとか、家族や家を失ってない人より失った方がとか、放射能汚染の中通りより汚染と津波の浜通りの方がとか。 ご自分よりもお辛い方を思って使われることもあるし、自分の辛さを主張するために相手の辛さを否定するように使われることもあるし、自分より辛い相手を卑下して使われることもある。 ここ海老名も、あの時は被災地だった。被災地が被災地を助けようとした災害だった。それゆえの混乱もあったんだ。 善意の折鶴や古着などの役に立たない支援物資で被災地が更に混乱した『第二の災害』を知って、そんなことを書き込んでいた。どうすれば次こそ防げるのか。 そこに「海老名よりずっと大変な福島市に、もっと大変な浜通りから避難民が押し寄せて~」とか福島市民からリプライ。そうまでして悲劇ランキングで自分達を持ち上げないと気が済まないのか。どれだけ悲劇演出したいのか。 ほとほとげんなりする。 格付けで、問題を見誤ってる気がする。 ご自宅で生活する被曝者と、自宅も写真も宝物も流された被災者と、人災だから被曝者の方が格上か。 避難区域は、インフラ・会社・学校などが整備されてなくて戻れないケースもある。放射能が高いことにして除染だけしてても何も解決しないし、避難区域よりお高めの居住区域が見えなくなる。 放射能が怖くて地産物を食べれない人はチヤホヤされて格上で、きちんと調べて食べてる人が見向きもされないと、自分を治そう食べようと思わなくなる。 都市部のアパートに住んでいる避難区域が、仮拵えの仮設で4度目の冬を迎えるより格上か。 上下を言ってても仕方ない。それぞれを、ありのままあるがまま見つめないと。 町の復興も、心の回復・成長も、変わること。 抱える問題に自ら向き合って、受け止めて引き受けること。 おかしな格付けで問題点を見誤ることで、復興や回復から遠去かる。 それで喜ぶのは、ずっと被災者でいたい人と、支援してあげる自分に価値を見出してる人、なんだろうな。 向き合う覚悟を決めてもスタートラインに過ぎない。その先に抱えるしんどさに向き合っている人を応援していかないと。 被災地という座布団で胡座かいてる被災者を支援してはいけない。 支援が不要になるための支援でないと。 …という基本を踏まえた上で、言ったり書いたり動いたりしていないと、被災者に呑まれる。 ただ、基本は基本に過ぎないし、応用も臨機応変も必要。
2014/10/18
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昨晩、Eテレで放映されてた。 観れて良かった。 真ん丸の籾が収穫された辺りから、涙ボロボロ。 うちのごはんを作られているTさんも、ほとんど同じお気持ちでいらっしゃっただろう。あるいは、今も同じお気持ちだろう。 そう思うと、とても他人事ではない。 番組の内容・感想は、また後日ここに追記しよう。 以下、メモ。 福島グッズ物販イベントを先方にドタキャンされ、その前後にTwitterで執拗に絡まれ、そろそろ半年。 ずっとモヤモヤささくれてくすぶった気持ちを、どうにも持て余していた。 その辛さが、ボロボロの涙に溶けて、流れ出たようだった。 なんかストンと楽になった。 でも、くれぐれも、もうムリしないでおこう。 こちらはさておき、先方は明らかによそ者を受け入れる余裕が微塵もなさげで、こちらが頑張って何とかなるものではないので。
2014/09/14
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「弱者」・「続:弱者」に記載した"身体障碍者にケリ入れたのが知的障碍者だった事件"について、知的障碍者にロボトミーどうこうと書き込まれる方がいました。白杖障碍者にケリ入れたのが知的障碍者だった件。「複雑」「居たたまれない気持ち」などのツイートを読んでいて、世の中は健常者で構成されているのだなあと実感してしまう。2chの変わらぬスタンス「頃す」「氏ね」はいっそ清々しい。某SNSで「ロボトミー」て言葉を出せる女性が恐ろしい…。お子さんが交通事故にでも遭わなきゃ分からんだろな。という内容のツイートをしたところ、その人からmixiメッセージが届きました。「秋の蝉」の人です。今回も、表ではなくコソコソ裏。いつもながら、ホトホト面倒臭い人…いや蝉です。Twitterなど決して表には出ないのは、相当のやましさがあるのでしょう。何かあった時に備えて転載しますが、今回も超長文かつ意味不明です。引用部分の下、黒字部分が私の考え方です。~~~引用~~~蝉ご無沙汰しています。何か解釈の違いがあるのかと思いますが、私が出した言葉にご不快を覚えたならばごめんなさい。交通事故ですか。私は身内を二人、交通事故で亡くしています。どちらも未成年で逆縁でした。残された親達のその後も見ています。妹も交通事故に遭いました。ですから、そういう喩えは勘弁してくださいね。あの単語を出したのは、私自身がおぞましいと感じているからです。でも、国家権力がそういう流れになる時は、たいていが、そういう国家権力を受け入れる社会が出来ているのです。今の日本の社会に気味悪さを感じているから出た言葉です。ケネディ家の娘が受けたという逸話を読んで以来、長いこと忘れていた言葉です。様々な人がいて良いと思います。様々な人がいるからこそ、どうやって共存していけるかを模索するのが大切です。そんな時、誰かの不都合な部分を切り取るようなやり方は絶対にあってはならないと思います。私の出した言葉に不快感を覚えたならば申し訳なかったと思います。ただ、その言葉を出せるというだけで私の考えていることや感じていることを飛び越えて、ご自分の解釈を加え、あまつさえ、全く逆に受け止められるような発言にされたのは残念に思います。ロボトミーという行為は絶対に許せないものです。だけど、そういうことが起こる世の中を呼び起こす可能性はいつでもあるし、それを呼び出すのは往々にして一般民衆の何気ない流れだという怖さがあります。だからこそ、自分の目をきちんと持ち続けたいと思います。貴女が私のロボトミーに対する考えをどう受け止めたかは解りません。ただ、「子どもが交通事故にでも遭わなければ」などという発想になるのは残念に思います。想像であっても、相手自身ではない、弱い立場のものへの危害を口に出せることも恐ろしいと思います。感じ方は自由ですから、もめるつもりはありません。ただ、「子どもが交通事故にでもならなければ」という表現には、こちらも感じるものがありましたのでメッセージを送らせていただきます。少なくとも、貴女は私の子ども自身に会っています。そういう人が、そういう表現をされるのは、とても残念ですし、哀しいことだと思います。私知的障碍でロボトミーという言葉が出てくる発想自体が私には理解し難いです。交通事故という言葉がたまたまトラウマティックに作用し、考えるきっかけになられたとは。ご主張されたいことは、ロボトミー同様に理解できません。長文過ぎ。蝉了解しました。長文ごめんなさい。言いたいのは「誰が知的障害だからロボトミーにしろ」と言ったか?ということです。私が言っているのは全く逆のことですよ。よく読めとは言いませんが、全く違う解釈であったから誤解ですねとお伝えしたいだけです。また、交通事故はトラウマではありません。事実は事実として受け止めています。ご安心くください。私さっきよりは短いので、恐らく意図を把握しました。あなたが私の意図を微塵も把握してないので、もう話してもムダでしょ。また楽しいお話でもしましょう、表で。蝉了解しました。~~~引用ここまで~~~何を言わんとしているのか推測ですが。「ケリ入れた知的障害者がロボトミー手術を受けることにならなければいいのですがと懸念する私って、なんていい人なんだろう!!なんて問題意識が高いんだろう!!」なことをお考えで、「弱者をこんなに優しくあたたかく見守る私を悪い人呼ばわりなんて、あなたは悪い人だ!!」抗議でしょうか。優しくて温かな人や問題意識の高い人が、知的障碍者に絡めてロボトミーを持ち出す必要はありません。 この抗議文?で改めて、生ゴミめいた胡散臭い演出だと感じました。降りかかる火の粉は払いましたが、憤りも強くありますが、対応で時間をムダにしたくもありません。なお「知的障碍者をロボトミーさせるべきと蝉さんが主張した」と思った訳ではありません。一般的にロボトミー手術は、身体障碍・知的障碍ではなく、精神病(精神障碍)への治療方法のひとつです(でした)。ざっくり説明すると、脳の活動過多(ドーパミン分泌過多など)で興奮しすぎたり錯乱状態に陥ったり、非常に攻撃的・暴力的な状態への対処として、前頭葉の一部を切除した手術です。例として家庭内暴力・虐待・DVなどを想像してみて下さい。この手術で、実際におとなしくなったと言われています。今でこそ、薬物療法のおかげで精神科病棟で猿ぐつわ・拘束衣などが常習されなくなり、鉄格子もなくなりましたが、当時は大変だったことでしょう。(今も、患者の容態に応じて、命を守るために必要に応じて使われる病棟への批判ではありません)。 ちなみに前頭葉などの「葉」が「lobo」で、「葉の切除」が「ロボトミー」です。肺がんなどで肺の一部を葉ごと切除(例:肺下葉切除)するのもロボトミーの一種です(臨床ではロベクトミーが用いられるそうです)。「人をロボット(robot)にする手術」という誤解は、スペルを見る限り日本独自のようです。(Wikiより)当時の技術やモラルに問題がなかったとは言えませんが、人体実験ではなく臨床手術です。今ならiPS細胞で眼科手術をするような、最先端治療な感覚だったことでしょう。しかし、ロボトミー手術後に、患者が治療者を殺害する事件も起きました。もともと患者が攻撃的・暴力的であるなら、手術の結果で殺人が起きたというより、殺人するような人を治療したものの満足な結果を得られなかった、ということかもしれません。同時に、外科手術以外のアプローチも進んでいました。そのひとつが薬物療法です。もちろん、薬の開発にも臨床実験は欠かせません。現代の精神医学は薬物療法(投薬治療)が主流です。医薬は、外科手術のような多大なデメリットはないところまで進歩したものの、効果が出るまで時間が掛かりすぎるなど問題は今も多々あり、投薬治療も決して完全ではありません。外科手術、投薬療法、宗教、民間療法、カウンセリングなど。様々な患者がいて、様々な治療形態があって、医学も日進月歩で変化しています。今後一層、効果の高い治療方法が確立されるでしょう。身体障碍者・知的障碍者・精神障碍者が一層回復できる手段が増えます。これまでなら治らなかった方も治るようになるでしょう。 そこで、蝉さんは治るのでしょうか? 蝉さんは、外国人(中国人・台湾人)や虐待や福島を始めとする被災者など、様々な弱者に支援してあげることを必要とされているようにお見受けします。福島に関しては、私があげた福島みやげを召し上がれなかったのが、この蝉さんです。それなら、日頃から「東北・福島へのお気持ち」とやらパフォーマンスなんてなさらなければよろしいのに。他にも、本当にものすごくいろいろ疲弊させられました……。 こういう方に、ロボトミーとは何か説明することで、発言撤回される可能性はあります。しかし、そもそも知的障碍にロボトミーを持ち出す気味悪さは治りません。福島支援アピールを、福島ではなく私にする気味悪さも治らないでしょう。 ご自分の尊大過剰演出を見抜かれて卑下されているだけなので、演出習慣を止めればいいのに。 台湾人の元ご主人を、ものすごく口汚く罵ってました。なぜそんな人と結婚したのかと思いました。 もしかしたら、支援や同情が必要でない自立した台湾人と、支援してあげたい蝉さんだから、離婚するしかなかったのかも。 離婚する事態になっても、ご自身の支援したい病に気付けなかったのだとすれば、やはり今後も…。 まあいずれにしても、ご自覚がないだけに、この人が治る日は永久にないでしょう。お可哀想に。
2014/09/13
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このところ朝日新聞が大バッシングされている。 南三陸町「ガレキとラジオ」捏造記事、従軍慰安婦、吉田調書、プロメテウスの罠…。 朝日新聞だけの問題として朝日だけを叩いているのは、何か違う気がする。 震災が発生して、取材対象の被災者がたくさんいることと、ネット越しに現状や被災地の声を聞けることで、報道と事実が往々にして異なることを痛感してきた。その積み重ねで、今回があぶり出されただけのような気もする。 東京新聞も「終わらぬ除染、福島市10μSv/h」だったし、SPA!も「がれきは片付いた」だったし。 震災以前も、他の件の当事者の声は必ずしも十分に反映できていたとは言えない。 これは、報道全体が抱える問題じゃないのかな。 さて福島。 付き合いのあったグループに限らず「真実を知って欲しい」欲求が強過ぎるように感じていた。微に入り細に入り共感されないと気が済まないような。 その一体化要求は、デマに翻弄され裏切られての不安の裏返しなら、ムリもない。 しかし一方で、原発事故を体験してないよそ者への伝え方が未熟。 そう指摘することで、伝わるよう修正されるのではなく、逆ギレされたり甲羅に閉じこもったり。 それもムリない。余裕がないのだ。 でも結果、自らの言葉足らずの説明が風評被害を後押ししていたり、味方したかった私は敵に廻されたり…。 もう少し時間が必要なのだろう。 朝日新聞「プロメテウスの罠」は、実際卑劣で狡猾なのだろう。 けれど、福島の総意なんてないし、人それぞれ感じ方が違いすぎるし。 誰かの思いを「分からない」を交えつつ真摯に受け止めて書いても、違う考え方の人は「過剰不安を誘導した書き方で卑劣・狡猾!」と批判する。 自分達のバラバラを全面許容させつつ、こちらが相手と少しでも違うと完全否定・排斥される。 …私はそんなふうに感じた。別に否定・批判する訳ではない。 そう感じて、ややこしいから解りにくくて、結局デマも生まれやすい。でも仕方ない。と思っている。 私が福島で見聞きした話を、このブログに書こうと思っていたけれど…。 福島に行ったことない人や放射能が分からない人にも、解るよう精一杯気を遣って解説しながら書いたとしても、絶対に別のどなたか何か気に食わない方からは大バッシングされるのだろうし。 あの時、良く分からないなりにも胸を痛めて、 「東京新聞の10μSv/hはおかしい。友人宅は○○」 と、もしツイートしていたら、 「福島市がそんなに高い訳ない!!」って私がバッシングされていたのではないだろうか。 友人宅がお高めだと知らなかった。 お高めだったことや理由をまだ言い出せない、言葉足らずな説明だった友人は、批判されない。 そういうのが丸ごと仕方ない。 そういうことが、例えば福島で、また他の被災地で起きていて、何も知らない不特定多数に理解できるよう伝えるって、どういうことなんだろう。 何をどこまで報道に求めていいものなんだろうか。 私達も、報道を鵜呑みにする姿勢を修正すべき。 「これが正しい」を短絡的に信仰してれば楽だけれど、最初からそんなものはない。 多様化する価値観に柔軟に対応することが求められている状況なのだろう。 富岡町から避難されてる方のご自宅線量の数値があって、福島市内のお高め友人宅はその2倍の数値。 友人に避難しろと言った方が良かったのか。 今日、浪江町のあるお宅の数値が公開されているのを見たら、友人宅の1/4。 もちろん悩み抜いて苦しんで、IAEAの基準で考えて、街を大切に想う友人に「避難して」と言わないことに決めた。 そして今、富岡町や浪江町に、どうして戻れないのか分からない。 福島県独自のマイルールは、難しくてややこしくて解りにくい。同じ0.4μSv/hでも、いわきでは結構高いし、福島ではビミョーだし、街によって感覚が異なり、更に人それぞれ違う考え方をされる。 そんなのを、不特定多数が読む新聞できめ細やかに伝えろという要求に、そもそもムリがあるのではなかろうか。 …そんなことも教えて欲しかったけれど、昨夏会った時の友人は、まだ放射能を話題にできない様子だった。ご自宅の数値、今はもっと下がってますように。
2014/09/12
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昨日、弱者に書いたように、白杖の女子高生に背後からケリ喰らわせた人が精神障碍者や知的障碍者でも「弱者をいじめるな!」と言うのだろうかと思っていた。まさか本当に知的障碍の方に話を聞いている状況とは…。まともに受け答えできてない様子で、警官(の制服)に怯えてるんかもなあ。「白杖より知的障碍の方が弱者だから仕方ないよ許してあげようよ」みたいな流れになるのだろうか。いやいやいや。誰であっても悪いことは悪い。盲目で分かんなくていきなりケリ喰らわせられて怖かった気持ちは、相手で変わるもんでもない。ただ、この件の起訴はなさげ。書類送検になるようだ。きっと「弱者どうこう」って言葉の使われ方が刺さったんだな。自分で自分に使えば最強。相手に使えば、まるで相手を気遣うように装いながら、見下して卑下できる。便利。へりくだることはあるけれど、見下されるのは好きではない。被災地・被災者・障碍者などと見下すのも好きではない。見下す必要のある人と積極的にお付き合いしたいとは思ってない。私を見下す人は、それとなく分かる。そんなあなたを私も見下す。そんなもん。⇒「知的障碍者へのロボトミー」発言が!?もありました。
2014/09/12
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全盲の女の子が、後ろからケリ入れられる事件があった。少し前に、盲導犬が刺される事件もあった。「弱者いじめ」とバッシング。もし加害者が精神障碍者だったら?「弱者だから」と庇ってあげるだろうか。「メンヘラ」「基地外」と、それこそ「弱者いじめ」を始めるんじゃないだろうか。知的障碍者だったら?外国人だったら?欧米と南米とアラブと、中国・韓国・北朝鮮と、同じだろうか?全盲の女の子を「弱者」にすれば、自分が「正義」になれる。被災地も弱者?3年半前は普通の人達。お兄ちゃんって呼ばせてもらった高崎さんは車椅子ユーザーだったけど、弱者扱いなんてできなかったな。宮城を弱者扱いできないけれど、福島は弱者で被災者で被曝者として配慮すべきだったのかな、友達にはなれなかったのかなと思ったりする。精神科ユーザーの私も、実は弱者になるのだろう。けれど、私は弱者扱いを望んでいない。極力突っぱねたい。お兄ちゃんを弱者扱いしないで済んだように。自分を「正義」にしてくれる存在が「弱者」なのかもしれない。初めは「後輩は同じ思いをしなくて済むように」だったのが、今は「怖くて1人で通学できない」になって、こんなふうに「弱者」に作られてる気がする。⇒続:弱者⇒「知的障碍者へのロボトミー」発言が!?に続きます。
2014/09/11
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映画「犬と猫と人間と2~動物たちの大震災~」の自主上映会が開催されます。◎日時:2014年3月23日(日) 10:30~ / 14:00~(上映2回)◎会場:ハーモニーホール座間(小ホール) 〒252-0021 神奈川県座間市緑ケ丘1丁目1-2 TEL:046-255-1100◎チケット:大人前売1,000円・当日1,200円 高校生以下前売700円・当日800円(全席自由)◎お問い合わせ:コーヒーノート TEL:046-254-2284◎トークイベント:宍戸大裕監督(名取市出身)と阿部智子さん(アニマルクラブ石巻代表)のトークを各上映後に開催。その後の動物たちのお話など聴ける予定です。【喫茶店「コーヒーノート」さんご夫婦の、この映画への想い】きっかけは、猫。フジコ・ヘミングさんが捨て猫の保護活動をされていて、何十匹も保護されていることだったそうです。猫を調べるため図書館に行かれました。飼い方や習性の本と一緒に棚に並ぶ、殺処分などの現実。そして前作「犬と猫と人間と」を自主上映。「映画を見て、何か考えたり行動したりしてほしい訳ではないんです。ただ知って欲しい」現実を知って、何をするかを考えるのは各自。何もしなくてもいい。「場を作れて良かった」今作「犬と猫と人間と2」。震災で、人間の社会そのものもグチャグチャになった中で、どうやって立ち直っていくか。「辛いのを見て、しんどい思いをしてほしい訳ではない。辛い映画だとは思ってない」3年経って、まだ何にも終わっていない。避難したままの人。全てを失った人。その中で、被災動物の面倒を見続ける人。「忘れる以前に、知らないことがたくさんある」宍戸監督の言葉知ってどうするかは、人それぞれ。自分もアクションを起こす人。過去形にする人。考えてくれる人。話し合いたい人。もっと聴いてみたくなる人。興味を持つ人。無関心からの変化に意味があれば、被災地外のこちらからできることが、まだまだいっぱいあるかも!?現実に起きたこと。心に留めておかなきゃと思うこと。自分たちが今ここで日々暮らしていることに繋がっていく。「映画に出てる人も明るい笑顔だし、被災地も犬も猫も、辛いばかりではない」再生の過程。負けてばかりではない。1度メチャメチャになったけれど、そこから立ち直っていく強さを知って欲しい。これは悲しいだけの映画ではない。「前作「犬と猫と人間と」を自主上映してくれたコーヒーノートさんがいたから、今作「犬と猫と人間と2」を撮ることができました。」宍戸監督にも飯田基春プロデューサーにも、そんなふうに言ってもらったんですよと、謙虚に感謝されておいでです。今作、上映前からマスターは「自主上映するんだ!」と仰っていたそうです。奥様は「せめて観てから決めようよ」と少し呆れていたようです。封切されて、映画館で2人でご覧になって「これは自主上映しよう!!」と、お気持ちがひとつに。昨年3月に上映申込みされて、1年前から準備されてきました。「なんでこんなことを始めちゃったかな」と思う日もあったそうです。そんな日あんな日を乗り越えて、2月下旬「あと1か月、わくわくする!!」と仰ってました。【F-pinsグッズ物販】ひょんなご縁で、コーヒーノートご夫妻お二方のご厚意に、会場のハーモニーホール座間のご厚意も重なって、福島市LIFEKU実行委員会のF-pinsグッズ販売も上映会でやらせて頂きます↑F-pins~福島からの4つの思い~↑スケッチブック↑原画ポストカード放射能を取り巻くあまりにもおぞましいデマの嵐の中で、何度も何度もズダボロになった。あの時は、もう福島に二度と遊びに行けないかもしれないと思った。放り出しちゃいたいのと、もう行く資格がない・行っちゃいけないかもしれない気持ちと。そのくせ、昨年5月にBarnSさんのLIVEで戴いた、雅さんの水出し珈琲を飲みたかった。それまでは、コーヒーは自分で淹れて飲むものだった。ドトールやスターバックスにも滅多に入らなかった。あちこち喫茶店巡りを始めた。雅さんの珈琲を探していた。コーヒーノートさんの水出し珈琲は、抽出8時間だったかな。暑い日、お店に入ったのは、泣きそうな気持ち。注文して出された水出し珈琲の味を、全く覚えていない。ただ一息に飲み干した。何度か通ううち、喫茶店にてなどあって…。マスターは彦根市出身。やや関西なまりで、岐阜弁の抜けない私には居心地いい。珈琲豆を「ブタ窯」で自家焙煎されている職人さん。奥様はやんわり柔和で芯が強くて、人の心の痛みを深く受け止めて救い上げる方。この方のお話の聴き方が、まさしく「傾聴」。お二人とも曲がったことは大嫌いで、心根が優しくて熱い。F-pinsのおかげで、こんなステキなご夫婦の喫茶店に、もうすっかり馴染みの常連客みたいに入り込めている幸せ。映画には、原発事故での避難区域内で、餓死した牛たちの映像も流れる。確か埋葬さえできなかったため、むき出し。テレビでは流さない映像。ショッキングな効果音など一切なく、ただ現実が流れるそうだ。私は、自分がどこまで受け止めきれるか分からない。観ることへのためらいは大きい。ムリはしないでおこう、辛かったら目を逸らそう、そんな覚悟をしている。ありのままをあるがまま、精一杯自分なりに受け止められたらいいな。↓3/18の朝日新聞(朝刊)で紹介されました。
2014/03/17
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14:46に黙祷して、何らかの区切りが付くハズもなく。これから津波襲来時間を迎える街がある。恐怖や絶望で過ごされたお時間や、ずぶ濡れで空腹で過ごされた時間が訪れる。お身内が見つかったり、原発が爆発したり強制避難されたりは、更に明日以降のお話。あの時間と今を、切り離せた人や地域と、深く結びついたままの人や地域。流された建造物も人も、永久に戻らない。建造物は、いつか再建されるだろう。放射線量を気にかける生活は、住み続ける限り今後も続くだろう。結局、311(あえて原発事故も含む)が他人事かどうかは、その人の今の生活に、あの日がどうリンクしているかに過ぎないのでは。被災地内外で分断し、こちらを外にし自分たちを内にし、内の価値観で外として批判されることが、このところ重なった。二言目には「経験していないから」「住んでいないから」を執拗に持ち出されると、外で頑張ってもムダなんですね今後一切外が頑張る必要はありませんね被災経験者・出身者からの選抜者だけで被災地復興を頑張るよりありませんね頑張って下さい!!てなお話にしかならない。亡くした人の数。失くしたものの大きさ。自宅周辺の数値。今なお引きずる痛手。などなど。不幸自慢で優劣を競うものではない。全てあるがまま受け止められるべき。支援が必要なのは自立できていない人だと思われがちだが違うだろう。素人ができるのは、基本は自助への支援。まだ自立できない人にできるのは、行政・医療支援につなげること。自分は素人だから、頑張ろうとする人に、できる範囲内に留めて微々たる力を差し出す。それ以上は関わらないよう、今後は特に心掛けたい。
2014/03/11
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チェルノブイリ「ナロジチ地区の菜の花プロジェクト」ナロジチの菜の花は、土壌セシウム濃度を下げるのも目的の1つ。ナタネ油からバイオディーゼル燃料を製造し、その油粕や茎・根などのバイオマスからメタンガスを製造する。その工場建設での雇用拡大・生活安定や、それによる健康促進を狙っている。現状、人々が貧しいため、感染症などが流行りやすかったり、森に入って果実やきのこ類(残留放射能濃度が高い)を食べている。ということのようだ。日本でも、ひまわりで土壌中の放射性セシウム濃度を下げる試みがあったけれど、そこに留まっていたように思う。なお、東北(主に福島県)への風評被害払拭に関しては、「農作物への放射性物質移行について、空間線量は全く関係ない。土壌中の放射性セシウム濃度も、あまり関係ない。土壌中のカリウム濃度が多いことで、セシウム吸収は阻害される」程度を知っていれば良いのでは。細かい説明は面倒い…。
2014/03/02
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福島市の「F-pins」物販を、3/23・4/27に計画しています。Twitterで「死ね」などと脅迫されています。ブロックしても、次々アカウントを変えて続いています。http://togetter.com/li/632683文面には「謝れ」「キチガイ」などの言葉が、執拗に並びます。福島・原発には一切触れていませんが、攻撃が始まったのは、物販イベントの3/23出店が決定した日の夜からです。イベント主催者さんへは、3月イベント・4月イベント、まだ両方に連絡していません。海老名警察署には相談しました。「ブロックされる反応が相手の快感になるので、ブロックしないように」「Twitterやらないと生活できないの?」「事件が起きていないことには」などなど。「被害者がTwitterやめるしかないんでしょうか?」「私がTwitterやめる反応が相手の快感になって、余計にエスカレートしませんか?」と尋ねましたが、しばらく黙り込んでいるだけでした。私が殺されたりすれば事件として動けるようですが…。週明け火曜日に相談に来て下さいとのこと。私個人は何とでもなります。気にしているのは、イベント妨害・会場内での迷惑行為など、福島にあたたかなお心をお寄せ下さっている主催者さん・来場者さんに迷惑が掛かることです。LIFEKU実行委員会さんにも及ぶかもしれません。何らかのアドバイスなどを頂けるとありがたいです。私の力が及ばず中止になった場合、LIFEKU実行委員会さんの皆様にも、相談に乗ってくれたり一緒に盛り上げてきてくれた友人にも、大変申し訳ありません。何卒ご了承ください。こちらで「福島」掲げるのはこういうことなんだなあと。せめて「反原発」も掲げていれば避けられたように感じます。
2014/02/21
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先日、『【前半】「たかが電気」批判ツイまとめ。【後半】ツイートしながら削除してTwiLogに履歴を残さない方とのやりとり。』の感想が、Facebookメッセージで送られてきました。2013/09/26 20:55とぎゃったの拝見しました。大変な思いをされていたんですね。怖かったのではないでしょうか。でも、勇気がありますね。私もネット世界で色んな思いをして、それ以来、面倒くさくなって表舞台?から消えました。2013/09/26 20:59それにしても怖い人ですね。なんなんでしょう、あの擁護者ぶり?いったいなに様?堀さんが悲しむ?教授が悲しむ?自分が悲しいだけでしょ?二人は自分ではないんだから。仮に彼らが悲しいと思うなら、自分で発信すればいいんです。他人がどうこう言うことじゃない。ああいう人が勝手に一体感を抱き、自分と相手は同じだって思うんでしょうね。思いこまれた人は気の毒ですね。堀さんも可哀想に。ただのアナウンサーで、ちょっと善意の人だった。それが左遷されて、結局、「見返してやれ」っていう負のエネルギーで退職しちゃったから。 そこに付け込まれちゃったんだろうな。人間、「黒い感情」を持つと、そこに絶対に付け込まれるんです。怖い怖いものがいるからね。堀さんもそうなんだろうな。かっこよく見てもらいたいとか、いい人でいたいとか、そういう願望って怖。山本太郎もそうね。2013/09/26 21:02はざやちゃん(心の中で勝手にそう呼んでる)はすごいなと思います。私はああいう電波系基地外(わ、2ちゃん用語がすぐに変換で出た!)の管理人みたいなのはもう、ほんとうに勘弁ですので逃げます。ああいうのはね、身体張って動けないの。机上の空論ばっか。私の若い頃からの持論。机上のイデオロギストになるな。路上のアクティビストたれ。なんか、それを言ったらかつて寺山修司が言った『書を捨てよ町へ出よう』みたいだって(^^;実際、日本のニューヨークである○○の○○○で毎日身体はって仕事しているから負けないですよ。ブローカーまがいの怪しいおっさんから袖口をひっぱられて難癖つけられたりするし、ちんぴらまがいの○○○にいちゃもんつけられるし。そんなだから専任職が「お願いですから、御身体だけは大切にして」と再三再四忠告して心配してくださいます(^^;2013/09/26 21:17だから私もはざやちゃんに言うね。「机上のイデオロギストなんかにかまっている時間はないから、だから、ああいうのはもう気にしないで。自分でできることをしていけばいいよ」。あんなのとやり合うだけ労力と体力と気力が無駄。見抜く人は見抜くから。堀さんも、なんかね、教授と意気投合してから不安だったわ。正直引きました。それでも次のように返信しました。2013/09/27 0:31 私おおうっ!メッセージありがとです。びっくりしました。堀さんの不幸は、人気商売ゆえに来る人の全てを受け入れてしまい、かつ、自分の頭できちんと考える人から彼の元を離れてしまったことでしょうね。そして朱に交わって赤くなってしまわれたと…。更に返信が…。2013/09/27 17:39堀さんの変化はとても残念だと思うのと同時に、よく見かけることだなと思ったりします。私がとても大切に思っていた(る)人も、彼と同じような流れの中で今も生きています。迷走し、「人の為に善いこと」をするのが使命だと勘違い。自分が自分でいればよかったのに。私、言っちゃった(書いちゃった)んです。「為人善?」それは「偽善」じゃない?って。<中国語ですははは、気分を悪くしたでしょうね。彼も善意だけの頭シンプルな人だったから、野心満々な若い社会運動ごっこ大好き女性に利用され、それに担ぎ出され、あっちこっちで社会運動みたいなのに登場し、挙句は人脈まで利用され、そして疲れ果て、彼女とは別れ(お払い箱?)今度は仏教に走り、ベジタリアンになったり、経典から訳の分からない言葉を並べて自分のフェイスブック飾ってみたり。そこにあほな取り巻きがぞろぞろ。今の彼女は仏教がらみの人みたいで、その人のページも似たようなオリジナリティゼロな他人の言葉の写しばかり。フェイスブックで写経しているよ状態(^^;そんなだからね、堀さんの迷走ぶりを見て、あああ、人って同じようなことをするんだなと思いましたよ。たぶん、堀さん自身はあまり主義主張のない正義と善意の人だったんでしょうね、シンプルな。それが担ぎ出されておかしくなった。こういうのを見ていると人の弱さとか哀しさが感じられて残念になります。でも、私はやはり人間には絶望できない。 どこかで希望を抱いています。飯舘村の美しい風景を写したフェイスブックのページがあり、イイネしました。私が文通している少女の故郷。だけど、反原発な原発脳の人からしたら汚染地域なんだろうな。つくづく残念。2013/09/28 7:44今朝ほど見た堀さんのツイッター、パリからとかあるから誰かと思えば辻仁成^_^; ああれはもう、脳みそ御花畑な勘違い野郎。教授といい、あれといい、どーして問題意識あるふりしたいんだろう。所詮は社会から隔絶された特殊環境で生きているのに。そして、そういう薄っぺらいくせにかっこよく見せたがる人が自分たちの象徴として堀さんを選んだのでしょうね。辻仁成と教授という支持者を見ただけで、なんとなく現在の堀さんの状況が解りました。趣旨が全く理解できません。2013/09/28 15:17 私お、オモテに書いて下さいっ(^_^;)私は説明してもらわなくても大体分かってます。知らない人が信者にならないよう啓蒙して頂ける方がありがたいです。2013/09/28 15:50ごめんね~~~、2ちゃんの台湾板やヤフー掲示板であれこれとらぶって面倒臭い経験があるので、おもてではゆるーーいことしか書かないんですよ(^^;いや、はざやちゃんはすでに解っていると思っているから「なるほど」と私が気付いたことをご報告したまでです。辻も教授もアーティストであることにこだわりすぎなタイプだと思う。それにこだわりすぎると本来の創作というものからかけ離れ、「そういうかっこいい自分」に陶酔しちゃうからね。そんな人の良い装飾品になっちゃったんだろうね、堀さん。そして、9/27のアンチと同じ文面をmixiにもUPしたところ、この方からも次のコメントが。他人事のように「アンチ」…。この方が尊敬されるカメラマンI氏は、反原発活動・南相馬市支援活動・オレンジリボン活動をされています、が…。お目に掛かった際、I氏の南相馬市の説明は「線量は関東と同じくらい」、オレンジリボンに関しては単なる騒ぐネタのようでした。数日後、I氏がFBでシェアされた記事は、「福島に行ってきた。地元の人から話を聞く限り福島はキケンだ」福島市か福島県内か不明で、数値などのキケン根拠はありません。I氏は、そんな記事をシェアして更に、記事を書いた福島支援者を誉めていました。本題の方は、福島のお土産を差し上げたものの、ご感想を伺っても逃げます。I氏からの放射能知識で、福島を応援しながらも、口にはできないのかも。それなのに他人事のように「アンチ」…。「自己陶酔型」に皮肉を込めました。数日後、今度はPCメルアド宛にメールが来ました。10/4 メールこんにちは!ツィッターはあまりにも怖いから、自分のmixiでひっそりと堀潤アナの周辺について呟きました。そのうちにmixi日記でまとめるかも。mixiの友人は信頼できる人がほとんどだから。昨晩は買い物に出たら、我が家の目の前に路駐する車の男と目が合い、路駐について目の前にある生協の職員と話していたら、その男が開き直り「俺の車のこと言ってんでしょ!」って最初から喧嘩腰し。私が話していたのは彼の「俺の車」ではなく、我が家の前に生協利用者がする路駐における弊害だったんですが、自意識過剰の自己中野郎には何を言ってもムダ┐(-。-;)┌たぶん、ネットでは、こういうのがもっと顕著なんでしょうね・被災地支援を自称する人にしても、結局は公の発想がベースなのか、自己中な発想がベースなのかで違うと思います。堀アナはNHKという公共の枠の中にあってギリギリのことをしているうちは美しかったです。でも、ツィッターという「バカ発見器」で有名だけど実は有名になった分野バカである他のことについては真性物知らずな人と繋がってしまい、結果、NHKという、よくも悪くも公共の枠組みを否定する方向に動いてしまった。実は坂本教授のメンバーであるテイトウワ氏はご近所で家族ぐるみでお付き合いがあり、トウワ氏の妹の大学進学については相談に乗ったこともあります。トウワ氏は母の影響でクリスチャニティに基づく生きる規範があるようです。恐らくは反原発ではあっても、それは生き方の方向性であり、その活動を焚き付けたりしません。自分の社会的影響力を知り、自戒しながら生きています。彼がアメリカで成功した時に母が送ったのは新しい聖書の最初のページに「傲るなかれ」と母が記したもの。それを見ているだけに、音楽的才能以外は幼稚な坂本教授の社会的未成熟さを思います。本当に、あることに対する才能と社会性は別物ですね。その分析が出来なかったのが堀潤アナの不覚でしょう。そこらへんをまとめられたらまとめてみます。またもや趣旨が全く理解できません。ただ今回メール送信なのは、メルアドも把握している逃がさないという意味かと、あまりにも怖くなりました。どうしたら、関わらないでもらえるんだろうか。10/8 私のエアツイートある方へ。・堀潤氏批判や現状等、私への報告は不要です。・オモテで書かないと言いつつ、メールやFBメッセージで堀氏批判を送られても困ります。・なぜ福島みやげの感想を伺うと避けるのですか。・なぜ「福島キケン」を主張したあなたのご友人のカメラマンではなく、堀氏の批判なのですか。まるで「福島キケン」のご友人に惑わされて、お豆さんを口にできないのに、福島支援をされているように見受けられるんです。堀氏批判の前に、うろこやさんのお豆さんの感想・もしくは何故口にできないかを伺えれば良かったのですが…。正直、食べれないのなら、受け取らないで欲しかったです。できるなら、これまで通りにお付き合いしたいので、私の誤解を解いて下さい。お豆さんの感想や、どんなふうに召し上がったかを教えて下さい。堀氏の近況ではなく、南相馬市支援者カメラマンさんと離れた・もしくは放射能汚染について正しい知識を伝えたご報告を伺えれば、何よりです。現在まで、私のツイートのFAV・RT、メッセージ等はなくなりました。数日後、ご報告されていたmixiで呟いた内容を確認しました。10/3 mixiNHK辞めた堀潤アナの支援者に坂本教授がいるだけでも十分に彼の進む方向に頭お花畑行き疑惑があったけど辻仁成の名を彼のツィッターで見かけ、確信に変わった。担ぎ上げられたまっさらバカの悲劇は林強だけで沢山だったのに。これで賛嘆されるつもりだったのが「脳内お花畑」では?福島支援も、日頃デキル人として振る舞っていたのもお花畑で、実態はこんな言語表現などで問題視され、専任職から忠告されているのかも?ネット上の付き合いでは、分かりませんでした。改めて怖くなりました。
2013/10/08
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夏に桃狩りさせてもらった福島市の果樹園さんで、かなり梨・りんごが落果してます。枝が折れてる写真も…。ハッとして、うちのお米の伊達市の生産者さんにメール。畑もぐちゃぐちゃで、田んぼの稲も倒れている御様子です…。あぁ…。河川氾濫のニュースに気を取られ、農作物被害が頭に浮かんでいませんでした。
2013/09/16
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前は、台風が関東を通り過ぎるとテレビ報道はなくなってました。今は、こちらの雨風は収まっても、東北の様子がNHKで流れてます。さっきJR福島駅前が映りました。あそこやあそこや♪と喜んでました。いや、水がたまりはじめてるんで、これから大変かもしんないけど。電車停まってるし。これから大きな被害がありませんように。特に、沿岸部は地盤沈下してるし…。京都だけでなく、福井県でも大きな被害が出ているようです。お見舞い申し上げます。大飯原発の隣町の小浜市でも川が氾濫して家屋が水に浸かっています。それなら原発にもダメージが起きているはずだ、あの氾濫した水は汚染されている、福井県キケン!!にならなければいいですね。※小浜市がこれまで福島に何を仰ってたかを今は書き連ねませんので、この程度の毒は見逃して下さい(誰か読まれた方へ)。
2013/09/16
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あの日の、世界中からの優しくてあたたかくて力強い手を、忘れない。今、東京開催への凄まじいバッシングに、怖じ気づく。日本は、私の故郷。だから、#prayforjapan のお礼は、私が7年後に言おう。自衛隊さんも原発で作業されている方も、改めてありがとう!あの日、私達はひとつだった。
2013/09/11
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阪神淡路大震災から3年目の夏、神戸で耳にした話。 広島県に県外避難された方が、地元の方に言われたそうだ。 「神戸?あぁ知ってるよ。テレビで見たさ、あの程度だろ。それより、お前は広島に原爆が落とされたことを知らないのか!」 そう言われて、しばらく外出できなくなってしまったそうだ。 (又聞きの上、15年も前のことで、ビミョーに違っていたら申し訳ないです) 痛みを知るからこそ、広島は温かく受け入れられると思っていた。逆に相手の痛みを否定する言葉がショックだった。 全ての広島県民が同じとは思わない。ごく一部のそんな方に遭ってしまったのだろう。 その頃の神戸で伺った、中井久夫さんの講演を思い出す。 戦争体験(トラウマ)に関するお話。 日清戦争・日露戦争の頃の体験談は、ほとんど残っていないそうだ。あの時代の日本の男性は、寡黙に堪えることが美徳。出されなかった思いは、出なくても、ない訳ではない。おそらく、故郷や家庭に戻ってきて、話しても分からないと諦めていたのではないか。 そして第二次世界大戦後、何十年経っても戦友会の仲間が集まる。分かり合いたいけれど、分かってもらえない失望は味わいたくない。間違いなく共感しあえる仲間の存在が、それだけ大きい。 そして、阪神淡路大震災に遭遇した神戸。苦しみや悲しみや失望を、どれだけ出していけるか、他者に共感してもらい、共有していけるか。それによって、その人やその街の立ち直りが早くなる・深くなる。 そんなお話だった。 先ほどの広島の方は、ご自分や街の抱える痛みを、十分に共感してもらえていなかったのだろう。だから、他者の痛みを受け入れる余裕がなかったのかもしれない。 もしかしたら、辛さを知る神戸になら広島の痛みが分かってもらえるだろうという甘えだったのかもしれない。 どちらにしても、その時にお辛い神戸の方を、更に辛くさせたことに変わりはない。 さて、話を現在に移して。 福島とご縁ができたことで、風評被害で、あまりにもおぞましいデマが垂れ流されていることに直面している。 広島には、原爆による実害に加えて、結婚解消などの風評被害もあった。あの原爆と今回の原発事故を単純比較してもナンセンスだが、辛さや憤りなどのお気持ちは、今の福島の風評被害に重なるのではないだろうか。 福島の痛みは、県外の私には、まだあまり聴こえていないと感じる。比べて南三陸町は、自分たちの遭遇した体験を語れている。 話せる仲間がいる人や街は、堪えられるし回復していく。 福島は、無闇に痛みを話すと風評被害を悪化させかねないのではと、今はまだ案じてしまう。本当に信頼できる方に共感して共有してもらうことで、始めに書いた広島の方のような痛みの引きずり方を、今後されなければいいなと思う。 今回の大震災は、地震による各地の各種被害に加え、津波被害や、原発事故による放射能汚染(現実問題)と風評被害(虚空デマ)が甚大。 南三陸町のような痛みも、福島市のような痛みも、どちらも、日本中で世界中で共有できればと願う。それは、被災された痛みからの回復になるだけでなく、引き受けた方を豊かにする。 風評被害について、Facebookで実際に遭った実例の1つ。 千葉県の室敦○氏。「放射能で女の子の子宮が溶けている」と、性器被曝とやらがあるかのような話をされていた。「実際にレントゲンなどはありますか?脾臓や膵臓にはダメージがなく、子宮だけ溶解する医学的な説明をお願いします」と尋ねたが、説明は一切なく「真実を拡散するのが、私の真の福島支援です。こういった情報であなたが傷つくのであれば、Facebookの友達関係を解消するしかありません」と解消された。 その後も、室氏の活動は活発なようだ。たまにチェックしたが、気持ち悪くてセンセーショナルな内容がたくさん並ぶ。彼女と付き合いのある南三陸町の友人もいて、そこでアイコンや名前を見ることが堪えられなくなった。もう見ないように、今はブロックしている。 溶けてなくなったのは、この方の人間性や品格ではないだろうか。元からないのかもしれないが。。。 こんな感じの不快体験を、何人もの方から幾度となくさせられている現状。特に反原発活動家がおぞましい。しかし(自称)南三陸町支援者だという風評加害者にも遭っているので、肩書きは当てにならない。 今のは、ほんの1例。
2013/08/10
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広島・長崎の祈りは「平和」。もし今後、福島で同様の式典を開催していくなら、何を祈るのだろう。福島が、日本に世界に伝えたいスローガンは、何だろう。人が人を殺す戦争の残虐さ。沖縄戦や空襲では、民間人までもが大量に殺戮。その延長の原爆2発は、民間人を70年近く後遺症に苦しませる。従軍慰安婦問題や領土問題などは何も片付かず、70年近く経っても謝罪を要求される日本。広島・長崎と福島を、同列で語るべきではない。戦争の残虐性から平和を伝えたい方々の論点とはズレている。「福島でもこんなふうに人が死んでいる」などと、福島への風評被害も悪化する。確かに放射能汚染の点は、規模は大きく違うものの、似ているとは言える。その後「放射能がうつる」などと言われている点も同様。ただ、日本の原発事故は、核エネルギーを平和的に有効利用していたもの。災害による事故。作業員の故意や過失でもない。(予期せぬ事態とはいえ、事故を防ぎきれなかった意味では過失かもしれないが、それを言うなら、被害を最小限に食い止めチェルノブイリよりはるかに小さく済んでいることも同時に語るべき。)福島は、何を伝えていくのだろう。県外で風評被害の嵐を経験してきて感じること。まずは放射能の基礎知識を共有していかないと。先日「福島のお米の残留放射能対策」を書いたように、中学生くらいで分かるようにまとめよう、私が知らなかったこと。それから、まず福島はステキなところなんだよって大前提を、ちゃんと伝えないと。今は「=原発事故」「=放射能」。福島は、単なる地名だよ。そして、福島県全域が深刻な汚染に悩まされている訳ではないこと。子ども達は半袖で外遊びして、洗濯物を外干しして、マスクしてないこと。遺伝影響は否定されており、千葉県A.Mさんが仰るような「女の子の子宮は放射能で溶けている」ではないこと。流通する福島産を食べても支障はないこと。風評被害を一旦一掃してからでないと、福島のホントの辛さを聴いても、心に沁みるどころか「だから福島はキケン!!」に利用され真逆の事態になりかねないと危惧、、、している現状が悔しい。「あやまちは繰り返しませぬから」原発事故があやまちではなく、「放射能がうつる」などの風評被害というあやまちが繰り返されている。広島・長崎と福島を同列に語るべきではないし、福島の汚染による辛さと反原発も安易に同列に語るべきではない。
2013/08/09
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思い出すのは明るい声で私の名前を呼んでくれた優しい笑顔、って言うと、羨ましがられる。柩の中の最期の顔を思い出して辛い、って言われる。もう本当に最期だからってお花を入れに行った時、私はもう行けない見られない・・・って言うコもいた。額には血管が浮き出て、マスクメロンのようだった。三角の白い布の下、刈り上げた頭全体がマスクメロンだったのかもしれない。お顔はキレイにされてあった。顔全体に無数にひっかき傷があったけれど、薄いファンデーションで目立たなくなっていた。発見時は出血していたのだろうか。首吊りを選んだ自死。白装束の襟元は、深めにきっちり閉じられていた。開いたら、くっきり縄の痕が残っていたのだろう。そんなふうに言葉で覚えてる。写真のような映像としては覚えていない。最期だからって挨拶したはずなのに。覚えているのが辛過ぎるのかもしれない。みんなで泣いて、みんなで怒って。葬儀なんて形で同窓会やれるのなら、生きてるうちに集まって、どんな話でも、聞けたら良かったのに。お通夜ではしっかりされているように見えた奥様は、告別式では憔悴しきって今しも消えそうだった。まだ2つか3つのお嬢さんの面倒は、ずっと奥様のお父さんが見てらした。そのお嬢さんも、もうすぐ中学生。告別式でのおじさんの挨拶。人の顔が、あんなにワナワナ動くなんて知らなかった。大声で泣き喚きそうなのを理性で抑えつけて、挨拶を務められた。最期の顔を覚えていない。思い出すのは、明るい声で呼んでくれた優しい笑顔だから、嫌いになんかなれない。ずっと好きなままだから、どうしようもなく哀しい。何にも知らなかった。何にも出来なかった。何にも聞いてない。もう何にもやり直せない。悔やむばかり。それでも私の人生は続いていくし、これからも大したことは出来ない。もう同じ思いをしなくて済むよう、精一杯気をつけてはいたい。もし暑中お見舞いを出せていたら、今が変わっていたのかもしれない。これから先も、ずっとそう思い続けるのだろうな。
2013/07/23
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Facebookで「選手がつけた福島の瓦礫製のバッジ ”放射能がれき持ち込みを問題視した英BBCが生放送し、強制退場”」というブログ記事が出回ってますが、これはデマです。という説明を友人にしました。その文章を、改めてこちらにも記載します。あまりこういうデマに惑わされないように、また震災がれきについて被災地の真実の声を聞いて頂けるなら、長文になりましたが、ご一読お願いします。拙文ながら、これをお役に立てて頂けるなら、幸いです。上記ブログ記事がデマであることについて。・ブログ記事は「福島がれき」という記載。しかし引用部分は「石巻・南三陸町の流木がれき」と記載。捏造?・強制退場ではなく、日本選手団への誘導ミス。←このキーワードで検索すれば、該当記事は多数HIT。・ロンドンオリンピックでは、他にもトラブル多発中(笑) それらには一切言及せず、この件だけ取り上げているのは不自然。・問題になる程の放射線が測定されるモノで、子どもにバッジを作らせる人が日本にいるのか?・問題になる程の放射線が測定されるのに、どうやって空港検閲をパスできたのか? などなど。上記ブログ記事へのダウトは、上の5点(特に上の2点)だけで十分でしょうか。そして、もしできるなら、この後も読んでもらえますか。まず個人的に「気違い」などの差別用語(放送禁止用語)が使われる文章には、首をかしげることにしています。自分の言葉や感情を大切にし、他者の言葉や感情を大切にしている人には、こういった差別用語は使えません。特に、うつ病などへの理解がこれだけ広まりつつある中で、精神障碍者以外でも「気違い」という言葉に不快感を覚える人は少なくありません。不要な反発を招くデメリットが大きいだけです。そう考えると、この文章の「言葉への信頼性」そのものを、私は疑います。ただ、言葉の使い方への配慮が足りないから真実を伝えていないとは限らず、一概には決めつけられません。また、本当に震災がれきが汚染されているなら、それを被災者の側にいつまでも置いておくなんて問題だ、速やかに処理すべき、と考えるのが人間的だと思います。一方、このブログを書いた人は、震災がれきが汚染されていると決めつけた上で、自分が被曝しないために東北の方々を犠牲するのは当然だ、と考えているかのようです。言うまでもなく、福島も津波被害に遭っています。当然ながら震災がれきが出ています。福島の方はどうしたらいいのでしょうか。このブログ記事には、福島で生活されている方への配慮を、微塵も感じられません。むしろ積極的に切り捨てているように感じます。いわゆる「気違い」なら、精神科などでの治療による寛解が期待できます。しかし、こういう方はどうなんでしょうね。まぁそんなことは、どうでもいいのですが。という訳で、野田政権・マスコミ・震災がれき広域処理・原発への反対を、感情的に煽ることで、自身のブログ記事へのアクセス数が伸びるのを狙っているのではないかと、私には思われます。さておき。7/7にNHKスペシャル「シリーズ東日本大震災 がれき"2000万トン"の衝撃」が放送されました。その時に流れたツイートをまとめてあります。被災地につながる友人たちの声を精一杯拾いました。かなりのボリュームですが、これが被災地の真実の声です。できましたら、こちらも併せてご一読下さい。http://togetter.com/li/334230そして、ご遺体に関して、気持ち悪いと感じられそうな話になりますが、次のことも知っておいて下さい。先日、このデマに苛立ちを覚えた方からFBでメッセージを頂きました。その方への私の返信メッセージの一部を、若干修正しつつ、以下にコピペします。実は、あの震災がれきの中には、まだまだご遺体が眠っておいでなんです。津波は、人間だけを別に運ぶような気遣いはしてくれませんでした。そして、家さえも簡単に流す破壊力を持つ津波で、ご遺体の腕や脚はもげていても不思議はありません。あのがれきの山の中からは、そういったご遺体のパーツも出てきます。その分別作業を、身近な方を亡くされた方々が、手作業でなさっておいでです。ご遺体に限らず、亡くした方をイヤでも思い出してしまうお品々。それらを見つめ続ける作業。精神的に、どれほどお辛いことか。。。上記ブログには、強制退場事件を報道しないことがマスコミによる情報操作だ、という内容が書かれています。しかし私には、こういった被災地の本当の辛さをきちんとテレビ・新聞などが報道しないことで知らない人が多いのだとすれば、その方がよほど「情報操作」ではないかと思われてしまいます。しかし悪意によるものではなく、おそらくは視聴者・読者への配慮なのでしょう。でも、そのために被災地の辛さが矮小化されていると感じます。被災地につながる友人たちから、マスコミへの不信や呆然とする話を、散々聞かせてもらってます・・・。死者数・行方不明者数についても、「死者数=ご遺体が見つかった数」ではないことも、申し添えさせて下さい。震災発生から3か月経過した時点で「死亡認定」を受け付けています。ご家族が見つからないままで死亡届を出された方のお気持ち、今でも出されない方のお気持ちは、私には想像さえできません。そういったお気持ちが、あの震災がれきに眠っています。本当は皆さん、地元で全部処理したいんだと思います。そこにいるのは家族や友人なのだから。けれど歯を食いしばって、生き残ったからこそ復興しなければ、そのためには震災がれきを処理しなければ、そうでないと家(生活)や工場(雇用場所)などを建て直すことさえできない。それらを建て直すことができず、他県などへ移ることになれば、各自治体の税収の減少になり、ますます復興から遠ざかってしまう。。。そんなお気持ちで発せられている「広域処理」という言葉だと、私は受け止めています。振り絞るように聞かせてくれてきた友人たちの声を受け止めて頂けるのなら、私が聞かせて頂いた意味があると、思い切って書かせて頂きました。こういうお話を、どのくらいの方がご存知なのか分かりません。もしかしたら全然ご存知なくて、だから広域処理反対って仰っているだけなのだろうか。こういう被災地の想いを知ってくれたら、ハッとして、考え直されるのかもしれない?・・・そんなふうにも私は思います。大変な長文になってしまいました。それでも最後まで読んで下さったこと、そして友人たちの声に耳を傾けて下さったこと、本当にありがとうございます
2012/08/06
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