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先週まるまる一週間、会社を休み昨日も有休をとった。11日ぶりの出社となった。雰囲気は…腫れ物にでも触るかのごとき、気まずい雰囲気。こういう時、人それぞれ人柄がでるなぁ~と思う。さすが部長クラスになると、非常に険しい表情で僕に近づき「大変だったな」の一言。…たった一言で労いを感じる。非常に残念だったのが、直属の課長の対応。なんら声をかけるでもなく、非常に明るく軽やかに、はつらつとしゃべっている。前々から軽い奴だなぁ~とは思っていたが、今日でこいつには踏ん切りがついたな。多分、暗い僕を見て、励まそうと思ったのか、和やかな雰囲気にしようとしたのか?…そんなところだとは思うが、それが僕の感情を逆なでするとは考えられなかったんだろうな…と思う。さてさて、肝心の僕の兄ちゃんの鎮魂歌…これから本格的に綴っていこうと思う。ただの「備忘録」になるか、辛辣極まりない「恨み節」となるか、その時の気分・流れに任せようと思う。
2015.03.10
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『4)患者さんは体の中をきれいにしてから旅立とうとされます。そのため場合によっては嘔吐、吐血、下血、多量の排便などが起こることがあります。』…嘔吐、吐血…これは見ていて非常に辛い。健康体の人でもかなりきついのに、ただでさえ体力が落ちているのに、胃の中のものを吐き出すのは筆舌尽くしがたい。兄の場合、腸閉塞をおこしていたため、胃の中に液体が溜まり続けていた。吐くものはタール状態で腸液の匂いまでしていたとのこと。本当にかわいそうです。『5)唇が乾燥し、ネバネバしたものが口にたまったり、呼吸する時にゴロゴロと音がすることがあります。口の汚れは濡らしたガーゼで拭いて下さい。』…この状態は、すでに2月初めに僕がお見舞いに行ったときから始まっていたような気がする。心配で心配で胸が張裂けんばかりの気持ちだった。『6)手や足が冷たくなり、皮膚は青白く、時には赤紫色になります。また青あざなどの内出血が見られることもあります。』…母親がしきりに手足をさすっていたのが辛かった。『7)39℃前後の高熱が出る時があります。これはお別れの前に残っている力を出しきろうとする反応です。水枕で頭や脇の下を冷やして見守って下さい。』『8)尿を作る力が弱まり、尿が出にくくなってきます。』『9)10~30秒息が止まる、また、下の顎を動かし体全体で息を吸うといった不規則な呼吸になります。』この7)8)9)で死期が早まったことを悟った。2/28の午前中、高熱と不規則な呼吸…これが決定打だった。最後の力を振り絞ろうとするとき・・・それが、お別れが近い前兆なのか?
2015.03.09
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今日は会社を休みました。先週の木曜日に東京に戻りましたが、その夜から喉が痛くなり、熱、咳、全身の痛み…明らかに疲れからの風邪?と思われます。職場の皆さん、ごめんなさい。熱でぼんやりしていても、兄の顔が浮かんでは消え、消えては浮かび…死に際に一瞬でも弟の僕の顔を思い浮かべてくれたかな?やっぱり、自分の子供たち、妻や母親を思って終わりかな。そんなことは、どうでもいいか。【お別れに近づいた時の様子】として、9か条の目安があります。父や兄を思い起こしてみようと思います。『1)徐々に寝ている時間が長くなりますが、周りの話し声は聞こえています。』…とのこと。父親のときも亡くなる一ヶ月くらいは寝ていたなぁ。『2)お食事や水分を摂る量が減ってきます。また手足がむくむこともあります。』…兄は、1月末から、まともに食事もできなくなっていました。腸閉塞をおこしていたため、それを改善させる処置がとられていましたが、やっぱり駄目でした。お見舞いに行った時、「腸閉塞が治ったら、お菓子が食べたいなぁ…」そう言ってました。あの時、何を食べたかったのだろうか?和菓子だろうか?洋菓子だろうか?結局、何も食べさせてあげられなかったことが、とても悲しいです。あのシーンを思い浮かべると、目頭が熱くなって、何も見えなくなってしまいます。『3)時間や場所、時にはご家族のことも分からなくなったり、大声を出したり、会話のつじつまが合わないことがあります。これは体のエネルギーが落ちてくる時の自然な経過です。決して”おかしくなった”わけではありません。』…父親が亡くなるとき、僕は毎週仙台に帰っていましたが、僕のことを「誰だかわからない」と言った時があります。あの時はショックだったのを思い出します。兄も、どうしたわけかパニックになることがあったとのこと。悲しいです。4)…続く
2015.03.09
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訃報を聞いてから、浜松に着くまで5時間30分。必死に運転し続けた。いつもだったら、『あ~疲れた。あ~腹減った。あ~眠い。』とボヤキながら、ちょくちょくサービスエリアでダラダラと過ごすところ、あの日は必死だった。軽自動車の長距離運転は非常に疲れるものだが、あの日は違った。疲れを感じなかった。本当に必死で運転し続けた。一刻も早く母親を兄に会わせてあげたかった。もうすでに亡くなっているのだから、ゆっくり安全運転で良かったのかもしれない。でも、やっぱり母親に会わせてあげたかった。兄嫁を一人ぼっちにさせたくなかった。車の中で泣き続ける母さん。一年かけて覚悟を決め、心の準備をしてきたはず。でも、いざとなるとダメなものです。親より先に逝くことほど…親不幸はないな。僕は母さんに言いました。『もう兄さんは苦しまなくていいんだよ。耐えなくていいんだよ。楽になれたんだよ。』…やっと母親は泣きやみました。僕自身も本当につらかった。今、思う。あの時、母親のそばにいてあげられて本当に良かったと…。一人じゃなくて良かったと。25時30分…浜松の兄の家に到着。兄の亡骸にしがみついて兄の名を呼び続ける母親を見ていられなかった。僕はずっと咽び泣きつづけた。兄嫁から亡くなる瞬間の様子を聞いたとき、『あっぱれ!あんちゃん!』…そう思った。この日の午前中、看護士さんから「一ヶ月もたない。早まるかもしれない。親族に伝えた方が良い。」と言われた他に「もう歩けないと思う」とも言われたらしい。そうすると、当然トイレにも一人で行けなくなり、オムツをはくほかにない。そこまで体力的に追い込まれていたにもかかわらず、2度も一人でトイレに行ったとのこと。2度目のトイレで全力を使い果たし、そして果てたとのこと。気位の高い、プライドの高い兄らしさを感じた。自らトイレに行けない、自ら排泄できない、自分で下の世話ができない…こういうことを潔しとしない兄のプライド、『あっぱれ!』だと思う。もしかしたら、自分で心臓を止めたのかもしれない。
2015.03.08
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最後の更新、2015/02/27~10日が過ぎました。まさか、翌日(28日)に旅立つとは思っていませんでした。2015/02/28…昼の12時まえだったと思う。兄の嫁さんから電話がありました。『看護士さんから「一ヶ月もたない。早まるかもしれない。親族に伝えた方が良い。」と言われた。』とのこと。兄のお嫁さんが僕に直接電話をしてくるなんて、よっぽどのこと。この日(28日)、僕は東京から仙台に行き、そして母親を車に乗せて東京に戻り、母親は次の日(3/1)に浜松に行くことにしていた。そして、僕は3/7~3/8に浜松に行こうと思っていた。兄嫁の連絡を受けて、急遽計画変更。東京から仙台へ車を取りに行き、母親を乗せて帰京。そして、二人で3/1の朝一番の新幹線で浜松に行くことにした。とにかく、兄嫁をたった一人にすることはできなかった。仙台へ行き、東京に向けて18時に出発。約二時間後、栃木県に入った頃だったと思う。また、兄嫁から電話が来た。やはり、僕に電話をしてくるなんておかしい。物凄く嫌な予感がした。「今さっき、亡くなりました…」。車の中で母親は号泣し、僕も泣いた。浜松行の予定は、さらに変更。東京で一泊する予定が、そのまま浜松行に変わった。
2015.03.08
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