JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 予約時に保養所から確認の電話があるけど…
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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2015.09.23
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カテゴリ: 国内旅行

大洲城(おおずじょう)を訪ねる。

大洲城は伊予国喜多郡大洲(四国・愛媛県大洲市大洲)にある日本百名城。

肱川(ひじかわ)の河畔に望む大洲城は、元弘元年(1331年)鎌倉時代末期に

守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房によって築城されたといわれ、

その後、藤堂高虎等によって大規模に修築がなされ、伊予大洲藩の政治と経済の

中心地として城下町は繁栄して来たと。

大洲市役所駐車場に車を停め天守に向かう。

DSC06244_R.JPG

松根 東洋城(まつね とうようじょう)旧居。

夏目漱石の門下生の大正時代の俳人。 

DSC06245_R.JPG

天守に向かって大洲城への登城道を上る。

明治維新後は、城内のほとんどの建築物が破却されたものの、地元住民の活動によって

本丸の天守・櫓は一部保存されたが、明治21年(1888年)老朽化により、惜しくも天守は

解体された。その後、大洲城を愛する地元住民の城郭への保護活動と、市民による寄付等に

よって平成16年(2004年)に復元されたのだ。 

この坂は当時は石段?

DSC06248_R.JPG

大洲城の案内図。 


ズームして。

二の丸御殿跡には中江藤樹の像が。

大洲は、中江藤樹が10歳から27歳まで過ごした立志・感恩・勉学の地。

DSC06252_R.JPG

中江藤樹漢詩碑「忍の字に題す」。

『忍字に題す 中江藤樹

一たび忍べば七情 皆中和す

再び忍べば五福 皆並び臻(いた)る

忍んで百忍に到れば 満腔の春

熙熙たる宇宙 総べて眞境』 

意味をネットで調べてみると

「人間の感情には、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲の七つの動きがある。

その感情をもろに出してしまうと、誤解や摩擦が起こる恐れがあり、

コントロールすることが大切。そうすることで、七つの感情が程良く穏やかに治まる。

更に更に勉強し修行し忍ぶことができるようになれば、五福が集まり得られると。

五福は四書五経の書経に、人間が求める幸せとして

長寿・財が豊か・無病・徳を好む・天命とのこと。

更に努力を重ね自然に感情を抑えきれるようになれば、

心の中ではいつも暖かい春に包まれるような、穏やかで明るい気持ちに成れる」と。

このような境地に成れる日は何時のことか。

DSC06255_R.JPG

天守と高欄櫓。 

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前田伍健句碑。

彼は「野球拳」の創始者でもあるのだそうだ。

「歓ずるに みな佛性よ 狩供養」「供養して 心山河の 霧はるる」

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大洲城の本丸は上下二段に分かれ、井戸のある下段を井戸丸と呼ぶと。

かつての井戸丸には、直径3.8mの国内最大級の本丸井戸があったと。


本丸の天守と連立する台所櫓。

現在の台所櫓は安政6年(1859)、高覧櫓は万延元年(1860)に再建されたもの。ともに国の重要文化財に指定

天守はじめ各櫓の棟には瓦製のシャチが乗っていた。

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のぼり旗は下に蛇の目紋。

藤堂高虎の後、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、

この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。

また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。

元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が

12代に亘り大洲藩主として治め明治維新を迎えた。

よって加藤家の家紋が蛇の目紋。 

DSC06268_R.JPG

天守閣。

平成14年から16年にかけて復元された4層4重の天守閣。

初重と二重屋根には「千鳥破風」、三重屋根には「唐破風」を載せていた。

見えにくいが二重部分の窓は「火灯窓」になっていた。

大洲城天守閣の外観上の特徴として、この二階部分の火灯窓が挙げられると。

火灯窓は鎌倉時代に中国から取り入れられた建築意匠で、通常天守の最上階の

窓など意匠的に重要な部分に用いられる装飾的要素の強いもので、大洲城のように

最上階でなく二階に連続して配置されている例は大変珍しいと。

天守閣に入ると玄関口には天守雛形が展示されていた。

しかし2回目の私は、この日は天守閣内部には入らず。

そして初めての登城の旅友も何故か百名城スタンプのみ。

イメージ 2

二の丸御殿跡には天守閣礎石が。 

二の丸御殿跡は上下の曲輪に、それぞれ城主の生活空間である奥御殿、

政務の場である表御殿が分かれて存在していたのだと。

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二の丸と下台所(左) 

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御門番長屋。

門番が詰めていた建物で曲輪の仕切り塀の門に付属する長屋。

平成のときに再建されたもの。

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二の丸上の石垣。 

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大洲城下台所(おおずじょうしもだいどころ)。

大洲城跡に残る国の重要文化財の4櫓ととともに数少ない大洲城の遺構で、

二の丸大手曲輪に所在。

この建物は、大洲城内の賄所、食糧庫としての機能を果たした。建築年代は不詳であるが、

元禄5(1692)年に描かれた大洲城絵図には既に記されており、それ以前に

建築されたものと推定できると。

木造一部2階建、切妻造、本瓦葺である。桁行19.82m、梁間7.90m、

平面積156.58平方メートルで土蔵風の造り。柱と柱の間に1本あての間柱を建て、

整然とした点は他の櫓にみられないもの。

明治以後は、監獄所、製糸工場の倉庫などに利用されたとのこと。

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下台所入口にある石垣と有形文化財 大洲城下台所と刻まれた石碑。

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大洲市の下水道マンホール。

鵜飼と市花:ツツジが描かれていた。

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駐車場から臨む肱川と肱川橋、冨士山。

苧綿(おわた)櫓は、天保14(1843)年に再建されたもので、二の丸の東隅に位置し、

肱川に一番近い独立した櫓。二重二階櫓、本瓦葺で規模は小さい。

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雪見塚 松尾芭蕉句碑。

「いざさらば 雪見に転ぶ ところまで」と木製説明碑が。 

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Last updated  2021.03.08 15:58:25
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