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隠居人はせじぃさんComments
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11月15日~17日まで三重県・津市に仕事の応援に行って来ました。
事業所から昼食の店に車で。この辺りは紅葉の真っ盛り。

昼食の店は老夫婦が運営する「旬のお食事処 みすぎ」 。

名物のカツ丼を注文。漬物、味噌汁も付いていました。
そして食後にコーヒーのサービスも。
オーダーが出てから肉を切り揚げる絶品。ご飯の姿が見えない具たくさんの大盛り。

そして仕事の現場に帰る途中で北畠神社に立ち寄りました。
この場所は三重県津市美杉町下多気字上村。
「歴史のふるさと 多気探訪マップ」
北畠氏一族の居館だった東御所(六田館)跡や美杉ふるさと資料館等、見所は多いと。

「美杉 案内板」 。
「森林セラピー基地」の文字が。
既に定着していた「アロマセラピー」に準じて林野庁長官によって作られた造語で、
2005年に林野庁が発表した森林セラピー基地構想に基づき2006年から具体化された
「科学的エビデンスを持ち,予防医学的効果を目指す森林浴」が行える場所。
ここ美杉地域は、東海地方で初めて森林セラピー基地の認定を受けたと。

大宮戸川に架かる朱の太鼓橋の近くのモミジも紅葉のピーク。

参拝と紅葉を目的に早速、 北畠神社 と 北畠氏庭園の散策を開始。

陽光を反射して輝くモミジ葉。

『光降るごとく雨来て山桜 和生』 と刻まれた歌碑。
この碑の前を左に行くと霧山城へ。

右に進むと北畠神社境内入口の二の鳥居前へ。
国の史跡「多気北畠氏城館跡」に鎮座し、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした
北畠顕能(あきよし)を主祭神とする。
『由来書によれば、北畠具房(ともふさ)の4代孫鈴木孫兵衛家次が寛永20年(1643年)3月、
旧縁の地に小祠を設けて北畠八幡宮と称したのが創祀という。
ただし、当初は八幡神の勧請のみで、顕能を奉祀したのは元禄年間に下るとの説もある。
やがて八幡三神に倣い、北畠親房・顕家を合祀する。1881年(明治14年)11月村社北畠神社に
改称。1907年(同40年)12月多芸村内の16社を合祀し、1916年(大正5年)宝庫・社務所などを
整備。1928年(昭和3年)10月社殿を新造して主神を遷座し、11月10日別格官幣社に昇格した。
別当寺の真善院が現在の庭園の位置にあったが、天保11年(1840年)春に火災に遭い、
再興しないまま1898年(明治31年)廃絶した。』 と。

種に塗られた大きな手水舎。

ここ北畠神社は北畠顕能を祀っているが、父親房・兄顕家は大阪の阿倍野神社、
また顕家は福島県伊達市の霊山(りょうぜん)神社にも祀られていると。

この辺りに居館の入り口があった事が発掘調査で判ったと。

北畠神社拝殿。

赤い拝殿には、天狗面が飾られていた。

祭神は、村上源氏中院家の流れをくむ名家であり、南北朝に活躍した南朝の忠臣・北畠親房の
三男北畠顯能であり、父・北畠親房と、兄・北畠顯家を配祀。
北畠顯能は、伊勢国司として当地に居城を構え、伊勢北畠家の起源となった人物。
当社は、織田信長に滅ぼされるまでの230年間、伊勢国司として威を張っていた
北畠氏居館跡に造営された神社。
滅亡後、当地は土民の耕地となっていたが、寛永二十年、一族の末裔鈴木孫兵衛家次が小祠を
設け、八幡神を勧請して、北畠八幡宮と称するようになったと。

中門から本殿。

本殿。

北畠神社は、南北朝時代に南朝に仕えた忠臣にして、後に伊勢国司に任ぜられた北畠氏を
祀った神社。
南北朝時代の公卿・武将。親房の長男。鎮守府将軍となり、新田義貞と共同して足利尊氏に
対抗する。後醍醐天皇の比叡山への遁入を守護し、父・義貞と尊氏と戦い九州へ敗走させる。
顕家蓬奏(建武政府に対する六ヶ条からなる意見書)は、最後の出陣に当たって後醍醐天皇に
上呈したものである。延元3年(1338)歿、21才。

境内の祭神は花将軍と謳われ、足利尊氏がもっとも怖れた若き天才・北畠顕家像。

北畠顕能歌碑。
『いかにして 伊勢の浜荻 吹く風の 治まりにきと 四方に知らせむ』

平成9年夏の発掘調査で中世館跡としては日本最古の石垣が発掘されたとのこと。


境内の築山。
見える石が日本最古の石垣なのであろうか?いや、最古の石垣は地中に埋まっていたのだ。

絶景かな、絶景かな。

黄金の絨毯が境内に拡がる。

本殿左の奥にあるのが多芸神社。

留魂社(りゅうこんしゃ)。

北畠具行卿、北畠満雅卿、北畠具教卿 北畠一族並に家臣、郎党、農民の戦死者を祀ると。

礎石建物跡。

細川高国、本居宣長がこの神社を訪ねた折に詠んだ和歌であると。
★『絵にうつし 石をつくりし 海山を 後の世までも 目かれずや見む 』・・細川高国
細川高国が大物崩れの戦いに敗れ自害するとき、北畠晴具へ送ったとされる辞世の句。
★『君まさで 経りぬる池の こころにも いひこそいでね 昔こふらむ』 ・・本居宣長
明和9年(1772)の春、本居宣長が吉野からの帰途、伊勢本街道を通り、飼坂峠を越えて
詣でたとき先祖の本居惣助が北畠家の家臣であったことを懐かしく思い出し、
ここの庭園に佇み詠んだ和歌

北畠氏館跡庭園 案内札。

1936年(昭和11年)9月、「北畠氏館跡庭園」として国の史跡及び名勝に指定された。
北畠氏の居城跡は別途「霧山城跡」として同年に国の史跡に指定された。
2006年(平成18年)7月に「北畠氏館跡庭園」と「霧山城跡」の2件を統合し、
指定地域を追加の上、「多気北畠氏城館跡 北畠氏館跡 霧山城跡」の名称で改めて
国の史跡に指定されたと。

格子戸の隙間から「北畠氏館跡庭園」を撮影。
『「米字池」と呼ばれる池泉は複雑な形をなし、屈曲する護岸石組みは豪快で力強く、
東側には高さ約2mの須弥山石を中心にした立石枯山水が組まれています。
築山には樹齢400年以上の巨樹が聳え、しっかりと大自然と調和しつつ、
しかも質実剛健、武将好みの男性的な庭園です。発掘調査の結果、池は16世紀代に造られた
ことが分りました。これは、7代国司北畠晴具の時代、享禄元年(1518)頃管領細川高国の
作庭という説に合致しています。』 と説明書きに。

社務所。

御朱印をいただきました。

帰路に再び太鼓橋のモミジを。

霧山城址(きりやまじょうし)のある霧山周辺の案内図。
霧山城または多気城(たげじょう)は、伊勢国一志郡多気(現在の三重県津市美杉町上多気および
美杉町下多気)にかつて存在した日本の城。城跡は日本国の史跡に指定されている。
伊勢国司から戦国大名となった北畠家北畠氏の本拠地であり、16,000騎を有する大将に
ふさわしい城郭であったと。
近くには美杉町地域の歴史・文化財を紹介している「美杉ふるさと資料館」もあるとのこと。

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