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隠居人はせじぃさんComments
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五宝滝散策の後は、岐阜県可児市瀬田長山にある「明智長山城址」を目指す。
途中381号線を走り、岐阜県加茂郡八百津町と岐阜県可児市の木曽川に架かる
東海環状自動車道の木曽川橋(きそがわばし)の下を通過。

岐阜県可児市瀬田長山にある「明智長山城址」に到着。
住宅街の中に残る小山全体に削平地(さくへいち)が築かれているようであった。
住宅街の裏にある山道脇に駐車し散策開始。

築城年代は定かではないが明智頼基によって築かれたと云われる。
明智氏は美濃国守護土岐成頼の子土岐頼基が可児郡明智八郷を領して明智氏を名乗った事に
始まる。天文21年(1552年)明智定明は斎藤道三と戦って討死し、一族は離散し、
定明の子定政は家臣に守られて菅沼常陸介を頼って落ち、後に徳川家康に仕えて
土岐氏に復姓したという。
戦国時代に織田信長に仕えた明智光秀の出自については定かではないが、一般的に
この明智氏の一族といわれるのだと。
明智城址公園散策路マップ。

西出丸跡と刻まれた石柱。

落ち葉が一面に。

木耳(きくらげ)を発見。

雨に濡れて光る紅葉のモミジ葉。

明智城址記。
明智城は、張り出した尾根や谷などの自然地形を生かした典型的な中世の山城で、長山城または
明智長山城と呼ばれている。明智氏がおよそ215年間にわたり居城とたが、城といっても
天守閣等の派手な建物はなく、周囲に土塁や逆茂木を廻らした中世の典型的な山塞。
そして、弘治2年(1556年)、斉藤道三の息子で稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受け落城した。
そのとき、明智城代明智光安は弟光久ら870余人を集めて籠城。しかし義龍軍は3,700余の軍勢で
2日間にわたり攻撃。光安は光秀に明智家再興を託し、一族もろとも落城前に自刃したと。
城は落城後再興されることはなかったと。

明智城址の碑。

『可児市は、戦国時代の悲運の武将「明智光秀」の生誕の地である。康永元年(1345年)に
美濃源氏、土岐市下野守頼兼が名字を「明智」と改めて初代明智家棟梁となり、明智荘瀬田の
当地に明智城を築城した。以来、およそ215年間、ここに山城を構えていたが、弘治2年
(1565年)に当時の美濃国の支配者、斉藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ、
義龍に追い込まれて落城。最後の城主であった光秀は、城の脱出に成功して明智家を再興したが、
ここへは戻らず、彼の死後も、再びここに築城されることなく明治維新を迎えた。
城は自然の地形をうまく利用した典型的な中世の山城で、この山の中央主峰、標高175米の頂上に
本丸を築き、ここを中心として、いくつかの別の峰に小城塞、見張り台、城郭施設等を配置させて
あったと考えられる。居館跡には「光秀産湯の井戸」と伝承されている井戸があり、当時使用
されていた土器破片が出土している。また、出丸付近には落城の際の戦没者を葬った
「七ッ塚」がある。 昭和48年には一族の供養等「六親眷属幽魂塔」が発見されている。
可児市』と。

土岐桔梗紋の下に「美濃国明智莊 明智光秀公 生誕地 可児市」と書かれた幟。

明智城 本丸跡。

七ッ塚。

落城の際の戦死者を葬ってある出丸付近にある七ツ塚。

陽光が無くとも真っ赤に輝くモミジ葉。

更に近づいて。

二ノ丸跡。

コウライ(カニ)オヤニラミの化石が日本で初めて発掘されたと。
この淡水魚は現在日本に生息していないと。朝鮮半島と中国の一部だけに生息していると。
この魚がここで発掘されたというのは1800万年前、日本と朝鮮半島が地続きだったいう証だとか。
大手門方面にはこの先を。

雨に濡れた真っ赤なモミジ葉の輝きを楽しみながら車へと進む。

モミジの樹の後ろには馬防柵が。

葉が紅葉するのは、気温が下がると葉の付け根に「離層」と呼ばれる層ができ、
葉で作られた糖分が枝に回らなくなる。その後、糖分はアントシアニンという
赤い色素に変わり、葉が色づくことになる。モミジやウルシといった落葉樹が代表的。
イチョウなどは「黄葉(こうよう)」と呼ばれ、葉緑素が分解されて黄色の色素カロチノイドが
残ることで色づくと。

日本の紅葉と言えば多彩な色の変化、そして落ち葉としても絵になるその美しさ。
日本の紅葉は、外国のそれと比べてはるかに色彩豊かで世界一美しいと言われているのです。
欧米の紅葉が黄色を主体とした単色の情景に対して、日本の紅葉は赤や緑や黄色のコントラストが
美しく、より情緒的で人々の心に響く情景であるのです。
更に、そこに紅葉しない緑の葉と、たまに、雪も積もったりするから尚更美しいのです。
毎年、この時期には日本人に生まれて良かったとの想いが更に高まるのです。

以前訪ねた岐阜県恵那市明智町にある明知城址(あけちじょうし)が明智光秀生誕地であると
思っていたが、可児市にある、ここ明智長山城である可能性が高い事を学んだのであった。
次に岐阜県可児市にある明智一族の菩提寺・「天龍寺」を訪れた。
好き嫌いとかの概念を外れ、歴史上これだけ興味を引く人物は少なく、もし明智光秀が
歴史上存在しなかったら、また、もし本能寺の変がなかったならばと想像するに、
歴史の観点が大きく変化したに違いないことを、大変興味深く感じるのである。
更に今年9月に、明智光秀が「本能寺の変」で織田信長を討った10日後に、紀州の武将、
土橋重治に宛てて書いた直筆の手紙が見つかったとニュースで。
土橋は紀州の「反信長」のリーダー格とされ、手紙には、信長によって追放された室町幕府
最後の将軍、足利義昭の入京を承知したとする内容が記されているのだと。
光秀は、義昭と連携していた土橋に対して「(将軍の)入京をお受けしました」と述べていると。
文中に義昭の名前は出てこないが、「上意」「御入洛(じゅらく)」という貴人にしか使わない
言葉が出てくることから「信長亡き後、こうした表現がなされる対象は義昭のほかに
考えられない」と。よって、本能寺の変の動機は「義昭との関係を復活させた光秀が、
まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を
再興させる政権構想を持っていたのでは」との説が有力になって来たと。
天龍寺・山門。

この地域には「可児家」があることも山門前の墓地の石碑から知る。

天龍寺案内板には、次のように記されていた。
『天龍寺 山号 青雲山
天龍寺は永平寺を本山とする曹洞宗のお寺で、「聖観世音菩薩」をご本尊としています。
このお寺は寛永2年(1625)武儀郡下有知村(現関市)龍泰寺の末寺として
同寺20世鰲山正雪禅師を招請して開山した由緒あるお寺です。
大正12年3月の焼失以前は、本堂、開山堂、明王堂、鐘楼門などを有する堂々とした
一大伽藍のお寺でした。本堂は昭和45年10月に落慶、その後庫裏、山門、開山堂などを
再建し現在に至っており、可児新四国36番札所ともなっています。
また、明智一族の菩提寺として毎年光秀公の法要が営まれており、本堂には日本一といわれる
大きな光秀公の位牌が祀られています。
境内の東北部には、日本では3つしかないという北向地蔵がみられます。・・・以下略』
![o0800045013540828785[1]_R.jpg](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/56d3ebe8c69b2ea0076ac970798f763e024660a2.15.2.9.2.jpeg)
山門を潜ると正面に本堂が。
本堂内には日本では3つしかない北向地蔵もあると。
早朝のため、残念ながら本堂正面の扉は閉まっていた。

「瀬田おたすけ観音」が本堂の右に。

本堂前には獅子に乗り経典を持つ文殊菩薩の石像が。

反対側には象に乗った普賢菩薩。
こちらは何を持っているのであろうか。

境内の枯山水の庭園の奥の築山も紅葉。

駐車場の奥に鐘楼。
『柿撮れば 鐘が鳴るなり 天龍寺』・・・詠み人知らず。

駐車場の横手奥、紅葉の樹木の下に、歴代明智一族のお墓と云われる供養塔、五輪塔が。
大きな石灯籠の横に「明智氏歴代之墓所」 と刻まれた石碑も。
裏山に散在していた墓石や石仏などを集めて整備したもので、明智氏のどなたの墓碑かは
わからないとネット情報にて。「明智氏歴代之墓所」 としては寂しい墓所なのであった。

枯山水の庭の石の廻りには緑の苔が。

雨後の美しい苔の姿。

再び山門そして白壁を。

時間が早いため、本堂内部の見学は出来なかったが本堂内部には
六尺一寸三分(184cm)と巨大な光秀公の位牌が安置されていると。
そして御朱印も残念ながら時間の関係上、頂けなかったのであった。
![1109-6[1]_R.jpg](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/b4c3c8510b9aec3efd5e35c7fb8e54c32b4a22ee.15.2.9.2.jpeg)
【 http://commufa203.mino-ch.com/c1404.html 】より転載
江戸東京博物館へ(その10) 2026.05.27
「かんなみ仏の里美術館から江川邸へ」(そ… 2026.04.05
「かんなみ仏の里美術館から江川邸へ」(そ… 2026.04.04