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隠居人はせじぃさんComments
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札の辻交差点を右折し、三田3丁目交差点まで行き、ここを左折。
「聖坂」を上る。「聖坂」の名は古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、
その宿所もあったためと。竹芝の坂と呼んだとする説もあると。

「亀塚稲荷神社」。
聖坂 の途中西側にある小さな神社。祭神は 宇迦御魂命 (うかのみたまのかみ)。
名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神であると。
亀の形をした石を神体としている。伝承によると、 太田道灌 が当地に物見台を造った際に
建立したと。

亀塚公園のベンチで一休み。
江戸時代は、上野沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となったという
ところだけあって、閑静な高台にある公園。公園では多くの子供達が遊んでいた。
「亀山碑」。

亀塚公園内、都指定史跡「亀塚」の頂部にある幅2.2m、高さ1.4mの石碑で、上野国沼田城主
土岐頼熈によって寛延3年(1750)に建てられたもの。土岐家は明暦3年(1657)にこの地を
下屋敷として拝領した。詩文に秀でた大名といわれた頼熈は、この地が『更級日記』の竹芝寺
伝説の地であることや塚の頂部に酒壷があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが
一夜の風雨で酒壷の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるために
この碑を建立したと。大名屋敷に建立された石碑としても貴重なものと。

荘厳寺の鐘楼。
真宗大谷派寺院の荘厳寺は、由良山と号す。

本堂。
荘厳寺は、由良播磨守が開基となり、由良播磨守の弟祐傳を開山として寛永14年(1637)創建。

鯉の滝登り。見事な作品。

三田の「幽霊坂(ゆうれいざか)」。
幽霊坂の由来は坂の周辺地域には、寛永12年(1635年)の江戸城拡張に伴って、八丁堀より
移転されてきた寺院群が、道の両脇に建ち並び、昼でも幽霊が出そうなほど暗い場所で
あったことから、あるいは、それほどに寂しい場所であったからと。
幽霊坂は都内に7ヶ所もあると。

幽霊坂を下る。
坂の中腹にある黒沢邸(玉鳳寺の坂上側) のところに初代文部大臣の森有礼の居宅があったこと
から「有礼坂」が名の由来との説もあると。

玉鳳寺(ぎょくほうじ)三門。
山門寄進は、檀信徒総代 高橋是清 翁とのこと。 明治39年7月10日建立と。

こちらは向かいの仙翁寺 山門。

そして、地元の女性に聞きながら漸く 正覚院境内に 「福島正則の墓」を発見。
柵に囲まれていて中に入ることは出来なかった。墓には特に案内はなく、お線香を立てる石に
うっすら福島と彫られていた。
福島正利の墓(左)と福島正則の墓(供養塔)(右)。
左右のの五輪塔は「宝珠・半月型・三角・丸・四角」の5つのパーツから構成されており
「空風火水地(くうふうかすいち)」と刻まれていた。
福島正則は豊臣秀吉子飼いの武将で賤ヶ岳の七本槍の一人として活躍。秀吉最晩年には
清洲24万石の大名となった。文治派の石田三成とは反りが合わず、関ケ原の戦いではいち早く
徳川家康に味方し、戦後、広島藩49万石の大大名となったのだ。
それにしても、チョット寂しい歴史上有名な武将の墓(供養塔)なのであった。

三田台公園に立ち寄る。
三田の地名の由来は、朝廷に献上する米を作る屯田(みた)があったからという説があり、
また伊勢神宮や御田八幡神社の神田(みた)があったからという説もあるとのこと。

白の垂れ梅。

紅梅も青空に映えて。

「旧華頂宮邸跡 井戸」。

現在は非常用水源になっている模様。

「高輪皇族邸」正門。
高松宮邸は始め、 東京市麹町区 三年町(現在の 東京都千代田区永田町 、内閣府庁舎付近)にあった
有栖川宮邸を引き継いだが、昭和に入って同建物が外務大臣 官邸 に転用されることに伴い、
港区 高輪一丁目にあった高輪御殿に移転。同地は江戸時代、 大石良雄 らの切腹地として知られる
肥後 細川 家の下屋敷跡であり、大正時代には皇太子であった昭和天皇が一時期 東宮御所 として
いたこともあると。
高松宮宣仁親王 の妃・ 喜久子 様が薨去するまで使用されたと。

そして「大石良雄外十六人忠烈の跡(おおいし よしお ほか じゅうろくにん ちゅうれつの あと)」に
到着。港区高輪にある旧跡で、かつては肥後熊本藩細川家江戸下屋敷がここにあった。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄
(大石内蔵助)ほか16人が切腹した。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には
大石主税良金ら十士切腹の地がある。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれている。
浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺(曹洞宗)に葬られている。

内部にはいくつかの大石?が枯山水の庭園の如くに。

ここで自刃した十七名の義士名が、石に刻まれ残されていた。
17歳から69歳の義士達。

高輪の高層アパートの奥まった一画にあったが、こちらが正式な入口の様であった。
「大石良雄等自決ノ跡」と刻まれていた。

廣岳院の正面。
常陸国 (現・ 茨城県 )の永厳寺の末寺。 信濃国飯山藩 主となった 佐久間氏 ゆかりの寺で。
寺号は飯山藩佐久間氏初代藩主 安政 の嫡男・ 勝宗 の法名・広岳院殿より名付けられたと。

正面向側横にあった 丸山神社 。

「興意親王墓(こういしんのうのはか)」。
織豊-江戸時代前期,誠仁(さねひと)親王の第5王子(1576-1620)。
安土桃山時代の皇族。正親町天皇の嫡男 でありながら皇位につくことなく早世したが、
遺児である和仁親王(後陽成天皇)が皇位につくと、天皇の実父として太上天皇 の尊号を
追贈された。上皇としての諡(追号)は陽光院。
慶長15年近江(おうみ)(滋賀県)園城寺(おんじょうじ)長吏となる。19年豊臣氏が建てた
方広寺大仏殿の棟札に前例にない銘文をかき,また徳川氏調伏の嫌疑で蟄居(ちっきょ)する。
のち疑いがとけ,幕府の寄進で照高院を白川に再建した。元和(げんな)6年10月7日死去。
45歳。名は邦慶。寛永寺宮以外の皇族墓は江戸では珍しい例とのこと。

そして道を間違えやや遠回りしたが、「泉岳寺」の「中門」に漸く到着。
泉岳寺は慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。
寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・
水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。
赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られ、現在も多くの参拝客が
訪れる。 元来、泉岳寺には三門と言って三つの門(総門・中門・山門)があったが、
現在は中門と山門のみが残っているのだと。
現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建された
もので、昭和7年に大修理を施されていると。

山号の「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうはい)による書と。

「山門」。
この門は天保3年(1832年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたもの。
二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍が
はめこまれていると。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書と。

「大石内蔵助吉雄銅像」

この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々と
していましたが、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したもの。
内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連番状を手にして東の空(江戸方向)を
じっとにらんでいる姿を表したもの。

泉岳寺の境内。

「本堂」。
旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい消失。現本堂は昭和28年12月14日に落成した
鎌倉様式の建築。
ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の
守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められていると。

「史跡 赤穂義士墓所」と刻まれた石碑。

石碑の脇には「水琴窟」が。
水琴窟の上には小さな赤穂浪士の像が建っていた。
柄杓で水を汲んで注ぐと、綺麗な音色が聞こえて来たのであった。

「瑤池梅」と刻まれた石碑。

義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものと。

「血染の石・血染の松」。
血染の石・血染の松は、浅野内匠頭が自刃した田村右京太夫建顕(1656~1708)の屋敷に
あったものとのこと。

「首洗い井戸」。
赤穂義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え
告したところから「首洗い井戸」と呼ばれている。
本所松坂町の吉良邸跡にもやはり首洗い井戸があるのだが、首を2回洗ったということか??

「川上音二郎建立」と刻まれた石碑が井戸の前(写真右)に。
川上音二郎の墓はもともと泉岳寺にあった(現在は谷中霊園)とのことでで、
泉岳寺と関係が深いらしい。

赤穂義士記念館入口には「巨人軍 長嶋茂雄」と刻まれた石柱が。

「義商 天野屋利兵衛浮図」碑。
天野屋利兵衛(1661~1733)は大阪の商人で、赤穂浪士に武器を用立てしたとされる。
講談では、幕府側の追求に対して「天野屋利兵衛は男でござる」と口を割らなかった人物だが
実際には、赤穂浪士とは関係がなかった人物とのこと。

・・・ もどる
・・・
・・・ つづく
・・・
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