JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.04.21
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カテゴリ: 国内旅行
​松陰神社を出て左に曲がり、そのまま神社の壁沿いを歩いて行くと、道はやや上り坂な細い路に。
江戸時代には、この道を松本新道と呼んでいたと。
この松本新道を少し歩くと、一般住宅の前左側に、石碑が。
「吉田稔丸(よしだ としまろ)誕生地」と刻まれていた。
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江戸時代末期(幕末)の長州藩の活動家。名は栄太郎。後に稔麿と改名。
久坂玄瑞、高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称される。
(入江九一を入れて松門四天王ともいう)。京都の池田屋で新選組に襲われ
亡くなった人物。吉田松陰とは親戚関係ではないと。
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そして更に進み右手に曲がっていくと左手にあるのが「伊藤博文旧宅」が。
​​ 伊藤博文は、天保12年(1841)熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)の農家に生まれた。
幼名は利助、のち春輔、そして“博文”と改めた。

この旧宅は、木造茅葺き平屋建ての約29坪の小さな家。
もとは萩藩の中間 伊藤直右衛門の居宅でしたが、安政元年(1854)に伊藤博文の父・
林十蔵が伊藤家の養子となったため、一家をあげて伊藤家に入家。
その後、博文が明治元年(1868)に兵庫県知事に赴任するまでの本拠となった家であると。
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旧宅横の広場に立つ「公爵伊藤博文像」。
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伊藤博文旧宅の木門。


​​
伊藤博文の略年譜。
博文が17歳の時に近くの松下村塾に通って吉田松陰の教えをうけ、尊皇攘夷運動の志士として

その後、明治憲法制定の任にあたってその功を遂げ、初代内閣総理大臣、枢密院議長、
貴族院議長に就任するなど政府の要職を歴任。
内閣を組織すること4次、明治の元勲といわれ、政府の最高指導者となったが、明治42年69歳、
ハルピン駅頭で凶弾に倒れた。
​​

​​
茅葺き平屋建て(7室、建築面積8952m2)で風呂場と便所が野外にある当時の農村にあった
典型的な下級武士の住宅。 伊藤博文の学業時代を偲ばせる貴重な史跡。
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藁葺きの屋根は改修工事中であった。
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工事前の姿を「​ 地球の歩き方 ​」から転載させていただきました。
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旧宅は開放されているので上がる事はできなかったが、外から内部も見学する事が出来た。

​​台所土間。
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旧宅は、いかにも農民の家という感じがしたが、木戸孝允や高杉晋作の旧宅と比べると、
どれだけ身分が違ったのかが良く理解出来たのであった。


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​​質素な茅葺屋根の家で暮らしていた人が、日本の初代総理大臣に。
松下村塾が当時それだけ大きな存在であったこと、明治維新が本当に画期的な革命であったのだ。
​​


旧宅の隣に建つ別邸。

移築したものと。
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別邸内部。
別邸は、伊藤博文が明治40年(1907)に東京府下荏原郡大井村(現:東京都品川区)に
建てたもので、車寄せを持つ玄関の奥に、中庭をはさんで向って右に西洋館、左に書院を配し、
さらにその奥に離れ座敷、台所、風呂及び蔵を備えた広大なものであった。
萩市へは往時の面影をよく残す一部の玄関、大広間、離れ座敷の3棟を移築していると。
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別邸の前の説明板。
「長州ファイブ」とは、文久3年(1863年)にイギリスに密航留学した5人をさし、
ロンドン大学にその名を刻した碑がある。同名の映画も話題になった。
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ロンドン大学にある「長州五傑」碑 ​。
井上馨、遠藤謹助、井上勝、山尾庸三、伊藤博文の5人。
井上馨は初代の外務大臣、遠藤謹助は大阪の造幣局立ち上げ、
井上勝は新橋横浜間の鉄道建設のパイオニア、山尾庸三は東京帝大工学部の開祖、
伊藤博文は初代の総理大臣、といづれも明治新政府等で活躍した。
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裏面には24名のロンドン大学・留学生の名前が刻まれていると。
2013年の日英研究教育大学協議会に参加した安倍首相も視察に来ていると。
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            【https://ameblo.jp/hisokajuku/entry-12202416915.html】より転載
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吉田松陰の生家跡に向かって更に進むと左手にあったのが「玉木文之進旧宅」。
​​


松下村塾の創立者であり、吉田松陰の叔父である玉木文之進は、文化7年(1810)萩藩士
杉七兵衛の三男として生まれ、11歳のときに玉木十右衛門の後を継ぐ。
天保13年(1842)松下村塾を開き多くの子弟を教育した。
吉田松陰が10歳で藩校明倫館の助教授となったときの後見人でもある。
性格は謹厳、剛直、明治9年(1876)の秋、前原一誠の起こした萩の乱を阻止出来ず、
養嗣子(乃木大将の実弟)正誼をはじめ門弟が多く参加したことから
「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」と言い、自刃した。享年66歳。
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建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関、4畳半の板間と
土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。
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玉木文之進 略年譜。
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玉木家・杉家・吉田家略系図。
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そして5分程、車を進めると「市指定史跡 吉田松陰の墓ならびに墓所」に到着。
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吉田松陰の墓は、松陰誕生地に隣接し、団子岩とよばれる小高い風光明媚な場所に建っていた。
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墓地 入口。
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吉田松陰之墓所、高杉晋作之墓所と刻まれた大きな石碑。
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墓前には、当時松陰は罪人であったにも関わらず、前原一誠、久坂玄瑞、高杉晋作、
入江九一ら門人17人、それと松陰の妹たちが寄進して、その名を公然と刻んだ石製水盤、
花立、燈籠が供えられていた。
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表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、
享年三十歳」と刻まれていた。
以下は下記リンクから転載させていただきました。
https://rekisuta.com/early-modern-period/yoshida-shoin/21kaimoushi/
『「二十一回猛士」は松陰の号(一種のペンネーム)であると。
二十一回猛士という号が使われだしたのは、松陰が25歳くらいの時からと。
このころ獄中にいた松陰は、ある日こんな夢を見た。
お札(おふだ)を持った神がいて、松陰にそのお札を差し出した。
そこに描かれていたのは、二十一回猛士という言葉。
夢から覚めた松陰は、この言葉の意味について考えたと。
松陰の旧姓は「杉」で、この字を分解すると十と八と三。
足し合わせると「二十一」。
また現在の性である「吉田」を分解すると、吉が十と一と口、田が十と口。
数字だけを足し合わせるとまたも「二十一」となり、さらにふたつの口を合わせると
「回」になる。
つまり吉田を分解すると、「二十一回」になるのだと。
そして松陰は、二十一という数字は自分に与えられた数字なのだと解釈したのだと。』
​​
松陰の没後百カ日に当たる万延元年(1860)2月7日、生家の杉家では百カ忌を営み、
家族や親戚、門人が出席し霊を弔い、遺髪を埋めたと。そして、同月15日に松陰の墓碑を建立。
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一番上に「松陰」と刻まれていた。
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高杉晋作 墓。
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高杉晋作草庵跡 顕彰碑。
文久3年(1863)3月に晋作が藩から10年の暇をもらい、4月から住んでいた場所。
この後6月には奇兵隊を結成したのであった。
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「この花の 松陰を生み 志士を生む」と刻まれた石碑。
作者は伊藤柏翠。
市街地と日本海が一望できる所に、句が刻まれた高さ100cm、幅140cmの石碑。
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吉田松陰と金子重輔の銅像が萩城下を見下ろしていた。
金子重輔は日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするが
アメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首したのだ。
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墓所の奥にある吉田松陰誕生地を訪ねる。
地元の小学生の姿も。
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吉田松陰誕生地内配置図。
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吉田松陰 生誕地の整備に貢献された方々の「寄付者芳名の碑」。
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旧宅敷石。
間取りは玄関3畳、表座敷6畳、居間6畳、隠居部屋3畳、納戸3畳、台所。
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そして別棟の納屋と厩。
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「吉田松陰先生誕生之地」石碑。
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行啓祈念樹碑。
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この地は大正15年5月30日に皇太子(後の昭和天皇)殿下が行啓遊ばされた地でもある。 
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松陰先生産湯の井。
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生誕地は萩城下町が一望できる風光明媚なところに。
萩城のあった指月山の姿そして日本海も。
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​​​​
吉井勇 歌碑。
「萩に来て ふとおもへらく いまの世を 救はむと起つ 松陰は誰」
この歌は、昭和30年(1955)、吉井勇が夫人同伴で萩を訪れ、市内の史跡や萩焼窯などを
見学して回った際、色紙にしたためたもので、それを昭和41年(1996)5月22日に
有志達によって歌碑として建立したものであると。
​​作者吉井勇は東京都出身の歌人・劇作家・小説家で、早くから「明星」に歌を発表、
のち「スバル」の同人として活躍、明治から大正の初めの日本近代頽唐派歌人として
多くの歌を残した人物と。
​​




                ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2018.05.29 21:50:09
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当サイトの下記の記事について無断転載(改変)を行っているようですので、該当箇所の削除または当サイトへのリンクをお願いいたします。
https://rekisuta.com/early-modern-period/yoshida-shoin/21kaimoushi/

問題の箇所は以下になります。

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二十一回猛士という号が使われだしたのは、松陰が25歳くらいのときからです。

このころ獄中にいた松陰は、ある日こんな夢を見ました。
お札(おふだ)を持った神がいて、松陰にそのお札を差し出します。
そこに描かれていたのは、二十一回猛士という言葉。

夢から覚めた松陰は、この言葉の意味について考えます。
松陰の旧姓は「杉」で、この字を分解すると十と八と三。
足し合わせると「二十一」となります。
また現在の性である「吉田」を分解すると、吉が十と一と口、田が十と口。
数字だけを足し合わせるとまたも「二十一」となり、さらにふたつの口を合わせると「回」になります。
つまり吉田を分解すると、「二十一回」になるわけですね。
松陰は、二十一という数字は自分に与えられた数字なのだと解釈しました。

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失礼いたします。 (2018.05.22 14:36:04)

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