JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2019.04.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

旧東海道の左手にあった『海老坂薬師』。
この鳥居には大正十年と彫られていた。



こじんまりした神社。



そして次に訪れたのが東海道線が前を通る『木之本神社』。



本堂は修復工事中のようでテントの中に。
田子の浦港の東岸・鈴川は、吉原宿の前身「見付」があった場所。
中世まで田子の浦港の対岸まで渡船が営まれ、商人や富士道者の休憩・宿泊所、倉庫基地として
栄えた交通の要衝だ。そんな鈴川の産土神が、字砂山鎮座の木之元神社であると。
祭神は木元神。



木之元神社の『ムクロジ』は市天然記念物の御神木。



木之元神社のムクロジは、高さ11.6メートル、太さ1.8メートルあり、
樹勢はよく珍木として市内では貴重な存在であると。
昔はこのムクロジの黒い種を使って羽子板の羽根の黒い玉を作っていたのだと。
子供の頃の正月の遊びであったことを懐かしく想い出したのであった。



赤い鳥居は、木之元神社の境内にあった『伏見稲荷大明神』。



そして木之元神社の裏から『富士と港の見える公園』に向かって坂を登る。
振り返ると富士山の勇姿が、電線も映らずに。



大きな墓地越しに富士山が。



『日蓮宗 大乗教会』。



そしてここにも『妙法寺』が。
こちらは 日本山妙法寺。


本堂。
本堂前の芝生は、芝焼きが行われていた。



この地には鎌倉時代のはじめのころに「見付」が構えられ、東海道を往来する旅人を改め、
吉原湊から対岸の前田まで舟渡しをしていたという。
その後、徳川家康によって、東海道駅伝制が敷かれ、吉原宿として指定されたという。
その案内板と石碑が立っていた。





『見附と(元)吉原宿』説明ボード。
「鎌倉時代のはじめころ、このあたりに見付が構えられ、東海道を往来する旅人を改め、
吉原湊から対岸の前田まで舟渡しをしていました。
その後、南北朝から戦国時代になると、吉原湊が、軍事的、商業的に重要視され、
この見付には、道者商人問屋も置かれ、宿場、港町としての機能を合わせ持つようになった。
しかし、この地は湊からの高浪や、砂丘からの漂砂の害がひどく、天文年間(1532~1554)に、
今の鈴川、今井地区へ所替えし、まもなく吉原と改名され、東西への旅人で繁栄しました。
慶長6年(1606)に至り、徳川家康によって東海道駅伝制が敷かれ、吉原宿として指定されました。
しかし、この地も寛永16年(1639)に度重なる漂砂や高波の被害で、依田橋
村西方に所替えしました」



奥にあったのが『阿字神社奥宮』。



奥宮は社というよりも、祠というほどのもの。



こちらは『大隅稲荷大神』。



『田子浦仏舎利塔』がデーーンと。



下の写真の東は坐像、南は立像、西は涅槃像、北は坐像。



螺旋階段の展望台。



展望台の上から田子の浦越しの富士山の勇姿を楽しむ。



ズームで。繰り返しになるがそれにしてもこの時期としては雪の少ない
異様な姿。
「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」は何処に??



左手には若い頃仕事で通った紙パの工場の煙突が。



対岸の左に見えたのが「ふじのくに田子の浦みなと公園」。



田子の浦港に停泊する小型タンカーの姿も。
昭和三十年代から四十年代にかけて、ヘドロ公害で有名になってしまったが、




再び『田子浦仏舎利塔』を西側から。



『石水門の石碑』。



ズームで。
石碑の表面に「石水門」の絵が。



石碑の裏面に「石水門」の説明が書かれていた。
「この河口は、吉原湊(小須湊)といって鎌倉時代から交通に、或いは商港として大いに
利用されてきた。しかし、江戸時代の中頃になると湊は次第に浅くなり高浪が押しよ
せると湊口は惣ち土砂で閉塞され、海水はその土砂を乗り越えて耕地内に逆流し、関
係34ヵ村、2千余町歩におよぶ田畑に毎年大損害を与えた。
慶応2年野村一郎らは、湊口に堅牢な防潮堤を築いたが、明治2年の大暴風雨で破壊さ
れ、続いて明治3年渡辺佐一郎らが、第一次石水門の築造を始めたが、工事半ばで流出

内務省雇蘭人モルテルの助言や、石工小島佐左エ門父子の優れた技術などによって
明治18年見事に竣工した。
昭和42年、近代的な田子の浦港築造に伴って撤去されるまで、実に80余年の間使命を
果たしてきた沼川石水門を、永久に記念してここに建碑したものである」



ここは『富士と港の見える公園』。







正面から。
三股淵(現田子の浦港)の毒蛇に人身御供として身を捧げ、人々の難儀を救おうとした少女阿字と、
善竜と化した八大竜王をこの地を守る水徳の神として祀った神社であると。
三股淵というのは、沼川、和田川、潤井川が流れ込んでいたことからそう呼ばれていたと。



このあと、田子の浦の護岸沿いを歩いて、富士山を眺めながらJR吉原駅方面へ向かう



再び。



そして吉原駅手前のJR線路の上の南北自由通路を渡る。



自由通路から富士駅方面を見る。



吉原駅の北口に出て、庚申塔であろうか?



沼川(ぬまがわ)に架かる河合橋を渡る。



沼川は、静岡県沼津市および富士市を流れる富士川水系の一級河川。流路延長は14.1km。



県道171号線からの富士山。



『江戸方面 河合橋・(元)吉原宿跡』。



「ここは河合橋西
江戸時代、この辺り一帯は立派な松並木が整備されていた。現在はここを含め、
数本の松がかってを偲ばせている。また、ここから江戸方面へ150mほど行くと、
沼川に河合橋が架けられている。かっては高欄付きの板橋で、河合橋からの富士山の
景色が明治期の古写真に数多く残されています」



河合橋付近からの富士山の景色。



富士山に向かって歩く。



ここでは富士山はまだ道路の右側に。



                           ​ その3 ​  に戻る。

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.04.28 14:41:14
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