JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.05.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

許禰神社の角にあった『長命寺・笹田源吾供養塔』まで80mと。
「戦国時代、袋井市域は徳川家康と武田勝頼の合戦の場となりました。天正6(1578)年頃には
徳川方が優勢となり、遠江の武田方の城は大東町の高天神城だけとなりました。
武田方は徳川方の情勢を探るため、高天神城にいた笹田源吾(篠田源五)を偵察に出しました。
8月10日夜、木原村まで来ているところを徳川方に味方する木原村の住人太郎兵衛らが加わり、
これを討ち取りました。徳川家康はこの手柄をたいへん喜びました。
その後、平和な時代となりましたが、村には疫病や災害などの悪いことが続き、太郎兵衛にも
不幸がありました。これらの災難は笹田源吾や武田と徳川の戦いにより戦没した人々の
悪霊の祟りだという噂がおこり、これらの人々の悪霊を鎮めるために、地蔵が建てられました。
この地蔵は現在でも丸野家の子孫の方々によって四百年間大切に祭られています。」



更に旧東海道を進むと右手の水路の上にあったのが
袋井市指定無形民族文化財『木原大念仏』案内板。
「「木原大念仏」は 静岡県西部(遠州地方)の各地に残る「遠州大念仏」の一つ。
武田信玄と徳川家康が戦った“三方ヶ原の戦い”の犠牲者を供養する目的で始まった念仏踊りで
現在は宗教色は薄れて娯楽性の強い行事となっている。現在各地に70ほどの“組”があり、
8月のお盆の時期に新盆の家々をめぐり, 横笛や太鼓などに合わせて念仏を唱えながら
踊り死者の霊を弔う。」



横には夢舞台東海道『木原』道標が。
見付宿坂まで一里二町・4.1km。



県道413号線合流地点手前まで進む。
左手に案内板が姿を現す。



『木原』
「木原は 元亀三(一五七ニ)年に武田信玄 が徳川家康 を破った三方原の戦いの前哨戦
(木原畷の戦い)の地としてしられています。
また 武田勝頼 軍の斥候(せっこう)笹田源吾 に由来する「木原大念仏」
(市指定無形民俗文化財)の発祥の地でもあります。
地区内には 原寸大に復元された木原一里塚をはじめ木原権現社(武内許禰(こね)神社)
長命寺笹田源吾の墓や供養塔 徳川家康腰掛石など多くの歴史遺産が残っています。」



県道413号線に戻り進むと狭い水路の上で袋井市から磐田市にはいる。



これが灌漑用?水路。
この付近は田園地帯が拡がっていた。



磐田市中心街に向かって進む。



磐田市の汚水マンホールの蓋。
デザインは、磐田市岩井にある桶ヶ谷沼に生息するベッコウトンボ。
この蓋はここから「磐田駅南」交差点方向に何枚もあったが、羽の黄色のエポキシ?が
抜けてしまっているものが多かった。



酉島交差点の先、右側にあったのが『曹洞宗 廣福山 全海寺』。



『廣福山 全海寺下馬地蔵』。
「当山は天文十一年(1542年)家康公の父広忠が曹洞宗天龍院末寺として草創開山する。



『六地蔵尊』。



『手水舎』。



『本堂』。



扁額には『全海禅寺』と。



本堂の横の御堂は改修工事中。



太田川に向かって進む。



そして太田川、橋の名は三ヶ野橋(みかのばし)。



右の橋は現国道1号線、太田川橋。



国道1号線の横には菜の花畑が拡がっていた。
菜の花畑の中で写真を撮るカップルの姿が。
訪ねたかったが、時間の関係で諦める。



三ヶ野橋を渡り左折し旧東海道を進む。



『旧東海道松並木』
「東海道 は、奈良時代から平城宮と地方を結ぶ交通路として主要な役割を果たしていた。
特に鎌倉時代以降になって整備されてきたが、江戸時代に幕府は、江戸を中心とした
五街道を制度化そ、道中奉行をおき宿駅を設置し、道路の改修・並木の植樹・一里塚の
築造などの整備をした。特に、東海道には力を入れた。
東海道は、それぞれの時代によってうつり変っているが、見付宿の東はずれから
三ケ野地内までは、この道路が江戸時代の東海道々筋であった。松並木は、後世補植されて、
現在に続いている。
  おねがい 交通規則を守って、自己防止にご協力下さい。」



夢舞台東海道『三ヶ野』道標。



その先が『鎌倉時代の古道』。
この場所にはいくつもの道筋が穿かれ、磐田(見付)へとつづいていた。
その道筋も旧東海道が整備される以前の鎌倉古道を始め、江戸時代の古道、明治の道、
大正時代の道、更には「質道」、そして昭和の道、平成の道と全部で7本の道が
集中していることから「三ヶ野七つ道(みかのざかななつどう)」と呼ばれているのだと。



『明治の道(緑のトンネル)』碑。



進んで行くと急な坂が始まった。
これが『大日堂・三ヶ野七つ道』の始まり。



この三ヶ野一帯は戦国時代の元亀3年(1572)に甲斐の武田信玄の遠州侵攻の
戦いの舞台となった場所で家康軍との小競り合いが起こった場所として知られています。
この時の武田軍は3万の兵、一方、家康軍はその半分の1万の兵ということで、
家康はいちはやく撤退を決意します。しかし武田軍は執拗に家康軍を追撃してきます。
家康軍は浜松へ戻るため三方ヶ原を辿るのですが、家康の生涯の中で最悪の敗戦と
言われている戦いこそが「三方ヶ原の戦い」。
ほうほうの体で浜松城へ逃げ帰った家康は、この戦で死の恐怖を味わったと言われているのだ。
さらに上り坂を登って行った。すると突然坂道の左側にかなりの急勾配の坂道の入口が現れた。




ここが江戸古道の入口。



坂を登り終えた五差路に『従是鎌田山薬師道碑』が。
この角から南に約1.5kmの所に「鎌田山(かまださん)金剛院(こんごういん)
醫王寺(いおうじ)」と称される、天平時代に聖武天皇の勅命を奉じて、
行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が山内の名木で薬師如来の尊像を敬刻され、ご本尊として
祀ったのが始まりと伝えらる醫王寺があり、この角はその参道入口だったとのこと。
見付宿はここを右折。逆に左に曲がると『江戸の道』であると。



『三箇野 車井戸之跡』そして左には『明治の道』。
昔、この辺りは水に困っており、その醫王寺によって滑車で汲み上げる井戸が掘られ、
車井戸と呼ばれたと。



磐田市三ケ野台の住宅街を進む。



右手に『三ヶ野立場跡』。



峠の茶屋の前の庭、野鳥と思いレンズを向けたが・・・・。



旧東海道を左に折れ『二子塚古墳』を訪ねた。



5世紀後半に造られた前方後円墳で、三ケ野台地にあり、出土品は馬形埴輪・人物埴輪で
埴輪と実物がセットで発見された珍しい例だそうで、銅鏡も見つかっていると。
しかし、説明書き等はみつからなかった。



左手に進むと『緑ヶ丘霊園』、『善導寺』へ。



『従是西見付宿』。



説明用の地図も。
江戸時代分間絵図に画かれた街道、榜示杭も画かれていた。



『榜示杭とは!』。
榜示杭は、街道に沿った村や宿の境を示す標柱です。 
ここは見付宿と岩井大久保・西貝塚大久保との境界でした。 
文化三年〈千八百六〉に発行された東海道分間延絵図〈おおくぼ〉に




現在の街道の様子。



『旧東海道 行人坂』。




行人坂:愛に月待日待の山伏勧進せしゆゑにかくはいへり、・・・
意訳しますと


この坂を行人坂 と言うようになった。この資料は井原西鶴 が晩年に執筆し、元禄の初めに
発行され度々再版された「一目玉鉾」の見付の処に書かれた文です。東京目黒の行人坂は
有名ですが、時代的にはここの坂の方が早くから有ったようです。この坂 は急勾配で、
江戸時代の見付東坂と同じくらい急でした。」



『行人坂』の登り終わると旧東海道は県道413号線に合流した。
磐田市富士見町にある歩道橋を渡り道路の反対側に向かう。
歩道橋から桜の咲く小さな丘が目の前に。



ここが『「鈴ヶ森の刑場跡(三本松刑場跡)』らしいが・・・・。

遠州金谷の生れで美濃から相模の八か国で、五十人~六十人の盗賊団を率いて暴れまわった、
といわれる大盗賊でしたが、江戸の火付盗賊改方に捕えられて、江戸で斬首されこの地に
運ばれ晒し首になったといいます。
遠州の鈴ヶ森という名前がついている刑場跡ですが、江戸の品川宿のはずれにも
鈴ヶ森刑場があり以前訪ねた。
どちらが先に鈴ヶ森という名前を使ったかというと、江戸の品川の鈴ヶ森と。
江戸の鈴ヶ森刑場が設けられたのは、あの慶安の乱(由比正雪の乱)が起こった
慶安4年(1651)に共謀者である丸橋忠弥を処刑するために設けられたのが
江戸の鈴ヶ森の始まり。
ということは日本左衛門が活躍したのが延享の時代ですから、慶安の乱からおよそ
100年後のこと。




しかしこんな立て札が立っていた。
「此処は刑場跡ではない。見附形状跡は、昭和三十一年(1956)国道一号線改良工事により
道路傍下に埋没された。此処は、見付府内に刑場が在った事を記すため、史跡碑建立の場として
所有者玄妙寺が管理しているものである。 見付 本立山妙源寺」。






                            ​ その7

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.01 11:58:03
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