JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.06.03
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カテゴリ: 国内旅行

『旧東海道を歩く』ブログ 目次


次に向かったのは藤枝市に残る駿河『田中城跡』。
前方には薩埵峠の姿が。



そして興津川を渡る。



国道1号線 新宇津之谷隧道に入る。



『田中城』位置図。
JR東海道本線、西焼津駅下車、バス7分「西益津中学校前」降車、徒歩すぐで田中城本丸跡。




Google map より。



県道30号線から県道224号線に入る場所にあった『田中城跡』石碑が。
田中城は天文 6 年( 1537 年)に駿河今川氏によって築かれた。
永禄 13 年( 1570 年)の武田氏による駿河侵攻以降、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の
城砦網の要として重要視された。
天正 10 年( 1582 年)、徳川勢により攻められ開城。天正 18 年( 1590 年)の徳川家関東移封後は
駿府城主中村一忠の管轄となった。慶長 6 年( 1601 年)、酒井忠利が田中藩主となり城域の拡張や
藤枝宿の城下町への取り込みなどを行った。酒井忠利は慶長 14 年( 1609 年)に川越に転出し、
以後は駿府に居を構える徳川頼宣・徳川家康によって支配された。
なお、元和 2 年( 1616 年) 1 月に徳川家康は田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて
鯛の天ぷらを食した。これが家康の死因とする説がある。
寛永 10 年( 1633 年)以後、松平氏、水野氏、北条氏等が封じられた後、享保 15 年( 1730 年)、
本多正矩が 4 万石で封じられ、以降明治維新まで同地に拠った。
明治元年( 1868 年)、最後の田中藩主本多正訥が安房長尾藩に移封される。
駿河国に転封となった徳川本家(静岡藩)の支配地となり、高橋泥舟が城を預かる。
のち廃城となった。



県道224号線を進むと、大手二之門跡と大手二之堀跡が右手に。



木橋の太鼓橋とその先の掘。



田中城 ニ之掘。



ここには『大手ニ之門』も。



『藤枝市指定史跡 田中城 ニ之掘』
「戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の
原型が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた
田中城が完成しました。
二之掘は、本丸から二重目の掘りで、幅12.7~21.8m、深さ2.1~2.9mでした。

大手ニ之橋がかけられていました。その北西側にはかつて三日月掘りがありました。」



本丸を中心に、直径約600mの同心円状に3重に堀を巡らす珍しい構造を持つ。
また、二の丸及び三の丸外に丸馬出しが計6箇所設けられており、武田氏流城郭の特徴を
示している。
本丸及び二の丸跡には西益津小学校が、三の丸には西益津中学校がそれぞれ設けられ、
遺構の保存状況は必ずしも良くないが、一部の水堀及び土塁が残る。
また、不浄門が旭傳院山門として、長楽寺に村郷蔵が、それぞれ移築され現存する。



『田中城 鳥瞰図』。上図と向きが反対。
堀は全部で4重ほどあり、すべて水堀である。
これらの堀の水は、下屋敷との間を流れている川の水を利用していたのであろう。
堀の幅は10~20mほどであり、郭内側には土塁が盛られていたようである。

けっこう大規模なものであったと。


       【 http://yogoazusa.my.coocan.jp/marikotanakakoyama.htm 】より

西益津小学校・校門前に「田中城本丸跡」の木柱が立っていた。
今は、藤枝市立西益津小学校の敷地となっている本丸跡。




『西益津小学校の生徒通用門』。



『西益津小学校の沿革』。
西益津小学校は、1872年に田中城本丸跡に創立された歴史と伝統のある小学校。
地域の高い教育力に支えられ、音楽の世界では『月の砂漠』を作詞した加藤まさを、
サッカーの世界では名波浩など、多くの著名な人を育てて来たと。
「学ぶ喜びと自信をもって進む子」を学校教育目標とし、「自ら進んでよりよい判断・実行」を
重点目標にして実践。
歴史と伝統を支えるために、毎年亀城祭を催し、大名行列などを行っている と。



本丸跡に建つ西益津小学校内にある田中城の模型。わりとよくできている。
ミニチュア系の模擬天守があるのも楽しい。
しかし、実際にはこのような天守は存在してはいなかったと。



車に乗り田中城の周囲を巡る。
『田中城 三日月掘(馬出曲輪)』。
「三日月堀と言うのは、正式には馬出曲輪といい、甲州流(武田 式)築城法の一つである。
諏訪原城(金谷)、小山城(吉田町)、 江尻城(清水)など武田氏の築いた城郭にはみんな馬出曲輪が 
備えつけられている。 
馬出曲輪とは、城門の外側に三日月形の堀とその背後に土居 (土塁)を設けて、敵が場内へ
侵入するのを防ぐための備えである。 
したがって、三日月堀だけが単独で存在するものではなく、堀と 土塁、その奥の広場、耕形を
持った城門の三つが一組になって城の 守りを固めていたのである。 
田中城には大手一之門・ニ之門、半島一之門、新宿「え 門・ニ之門、清水御門の外の六箇所に
馬出曲輪が備えつけられ ていた。しかし、現在眼にすることのできるのは新宿ニ之門の外に
つ くられた三日月堀だけで、それも実際の大きさの約三分の一位 である。 
下の絵図でわかるように、ニ之堀に突き出た外耕形を持つ新 宿ニ之門、ニ之堀と橋、
広場、土居と三日月堀でニ之丸への 敵の侵入を守っていたのである。
三日月堀の大きさは長さ四五・ 四五メートル、幅-0.00メートル、深さーヘニメートルで 
あった。背後の土居は長さ三五・四五メートル、高さ三・四ニメー トルもあった。
背後の広場には敵に知られないで城兵がここに集ま り、三日月堀によって二分されて場内に
侵入しようとする敵を 待ち伏せしていたものと思われる。 」。



この三之堀付近は三之丸西にある御館(おたて)のちょうど西側にあたり、この堀に面した
四之曲輪には家老らの屋敷が立ち並んでいたと云う。
四之曲輪は、江戸時代の初めに駿河田中藩・初代藩主である酒井忠利が実施した改修で
追加され、最終的に田中城は四重の堀で囲まれる縄張となった。



『藤枝市指定史跡 田中城 三之掘』。
戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原型が
築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた
田中城が完成しました。
三之掘は、本丸から三重目の掘りで、幅18~27m、深さ1.7~4.2m、土塁の高さは、水面から
およそ5mです。堀の北側からは今でもきれこの掘りに面した四之曲輪には藩士たちの
屋敷が並んでいました。



土塁の跡から三の丸の堀を見る。



次ぐには田中城の南東隅にあっ下屋敷跡へ。
『田中城下屋敷』パンフレットの表。



『田中城下屋敷』パンフレットの裏。




ここは一色氏やその後裔の屋敷跡と伝われ、江戸後期には城主の下屋敷(別荘)が置かれ、
茶屋や庭園(築山、泉水)、稲荷社が設けられていたと。



『田中城下屋敷』の幟。



白塀の奥には『田中城本丸櫓』が。



『史跡・田中城下屋敷案内図』。
静岡県藤枝市では平成8(1996)年に、この下屋敷跡の庭園を復元するとともに、
田中城にゆかりの本丸櫓、茶室、仲間部屋・厩、そして長楽寺村郷蔵などを移築・復元
したとのこと。但し、時代が経過して宅地化が進むとともに南側にあった庭園の一部
(築山や泉水)などが埋め立てられて畑となった。なお入場料は無料だった。



入り口には冠木門が。
当時の図面(1/20縮尺)をもとに復元したものであると。



門を抜けると右手に受付が。



『入場ご案内』。
開場時間は9~17時で入場無料。



様々な案内が。



『田中城復元図面』
こちらは田中城復元図の上に現在の図面を重畳させたもの(赤字は廃城直前まであった建築物、
青色は堀川、茶色は土塁をそれぞれ示す)。
現在、本丸跡には西益津小学校の校舎が建ち、本丸堀や二之堀は埋め立てられ、
県道224号線が城を縦断しているのであった。



櫓は田中城の本丸にあったもので、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていた。
往時と同様に復元された石垣の上に移築されていた本丸櫓は木造で二層二階、
屋根は銅板葺きであるから江戸後期のものと推測されている。



『田中藩 牓示石(ほうじせき)蹟』と『顕彰碑』。
『従是(これより)西田中領』と書かれていた。



この傍示石は田中領と岩村領との境界傍示標である。
弘化年中(1846年頃)幕府より諸侯領地の傍示標は総て石材に改むべしとの布令があったので、
田中領主本多侯は、欧陽詢の書風よろしき、領内小土の藪崎彦八郎に命じ「従是西田中領」の
文字を書かせた。又これを城下、長楽寺町の石材業某に命じ彫らせた。
筆跡彫刻ともに街道中に比類なき作と称された。
斯くして、この碑を領地境に建立したが、やがて明治4年(1871)、廃藩置県令が発布され、
この傍示石を撤去することとなり、故あって水守の菊川晋一氏宅に在ること数十年、
1950年頃田中城跡、現西益津中学校正門脇に建てられ今日に至っている。



内部から入り口方面を見る。



『静岡県都市景観賞』銘板。



『田中城本丸櫓』



藤枝市指定有形文化財(平成5年4月指定)
○構造  木造・2階建て銅板葺
○規模  桁行3間・梁間2間(京間・46.57m2)
この櫓は、もと田中城の本丸にあり、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていたと
いわれてます。本丸の南東隅の石垣上に「御亭」と呼ばれる2階建ての建物のあったことが
記録にみえ、これに該当するもののようです。
明治維新によって、田中城には高橋伊勢守(泥舟)が入りました。村上氏はその配下にあり、
しかも泥舟の4男を養子とした関係で、明治3年この櫓の払い下げを受け、移築して住宅と
しました。また、泥舟はこの建物を「光風霽月楼」と名付け扁額を掲げています。
屋根はもと柿葺であったようです。
田中城より移築した建築物の中で、昔から最も著名な建物です。」



『長楽寺村郷蔵』。



「郷蔵とは、年貢米や飢饉に備えた非常(救済貸付)米を保存するための蔵で、江戸時代には
村ことに置かれていました。
村役人が管理しており、夜間は畳敷の小部屋に2人1組で泊まりこみ、夜番をしました。
長楽寺村の郷蔵は、明治10年頃に中西家に払い下げられました。この時、郷蔵の半分を切りとり
移築したものといわれ、本来は現状の倍の大きさであったとみられます。
長楽寺村郷蔵は、市内に現存する唯一の郷蔵であり、貴重な建築物です。
また、建替した時の年月と村役人(庄屋)の名が柱に書き付けられています。
  「天保十四卯歳九月建替 長楽寺村 庄屋 恵助
  (1843年)           同断      八郎右衛門」 



『中間部屋・厩(うまや)』。



『間取り図』。
「古くから、大洲村の大塚家にある長屋門は田中城内より移されたといわれてぎましたが、
調査の結果、長屋門に付設された納屋がそれだと分かりました。
仲間部屋と厩とを1棟に仕立てた建物で、手前右側の鬼瓦には、城主・本多家の家紋(立葵紋)が
刻まれていました。また、解体にあたって、「安政六年」(1859年)と書かれた板材が
見出されており、建築年代もその頃と推定されます。」



『仲間部屋(ちゅうげんべや)』。



『納屋』。



これは仲間部屋(ちゅうげん・べや)の横にあった『厩(うまや)』。
これは木造平屋瓦葺きの長屋に付属していたもので、この長屋の鬼瓦には
享保15(1730)年から田中城主を務めた本多家の家紋である「立葵(たちあおい)紋」が
刻まれていたと云う。




                                                      ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.01 12:12:15
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Re:藤枝市・駿河 田中城跡へ(その1)(06/03)  
オジン0523  さん
田中城シミ屋敷になっていますよ(笑) (2019.06.15 15:52:08)

Re[1]:藤枝市・駿河 田中城跡へ(その1)(06/03)  
jinsan0716  さん
オジン0523さんへ
ありがとうございます。
コピペではない証拠です(笑) (2019.06.15 19:07:20)

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