JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

×

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

【公園フェンスから… New! Gママさん

箱根一泊旅行 (その5… New! オジン0523さん

2026年5月 京都府立… New! 隠居人はせじぃさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん
noahnoah研究所 noahnoahnoahさん

Comments

オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 予約時に保養所から確認の電話があるけど…
JINさん@ Re:再び大涌谷へ(05/16) Dさんが申し込んで下さいましたが、朝食を…
オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

Calendar

2022.01.23
XML
カテゴリ: 国内旅行
奥平昌成(まさしげ)公着用の鎧(右)と奥平昌高(まさたか)公着用の鎧(左)



「奥平昌成公着用の鎧」。



卯花縅(うのはなおどし)腹巻(江戸時代中期)
黒漆盛上本小札(こざね)に卯花縅、八双金
物唐草透し彫軍配団扇の居文金物(すえかなもの)
小縁(こえん)は菖蒲革、化粧の板は菖蒲革包み、
地革は正平革(しょうへいがわ)、冑(かぶと)は覆輪懸筋の星鉢、五枚𩊱(しころ)」



「奥平昌高公着用の鎧」。



紺糸縅(こんいとおどし)大鎧(江戸時代中期)
弦走(つるばしり)の革を付けず采配付の鐶(かん)を配し背に押付の板を備えて具足の様式との
折衷を示している。
小札(こざね)は盛上本小札、裾金物は左右唐草透し彫り、中央軍配団扇(うちわ)の紋、
笄金物 (こうが いかなもの)は出八双(ではっそう )配置、
胸板の小縁は菖蒲革、地革は正平革、小桜鉄留めの、全体として製作が細密巧緻(こうち)で
工芸品としても勝れたものと云える。尚冑(かぶと)が傳えられていない事がうらまれる。」



「大鎧
甲冑の内、その中心となるものが大鎧である。
元来鎧と云う名称は具足と同様「よりそろう」意で物の集合構成を示す語であり物具と云う
のも同意である。それ故胴冑は勿論籠手脛当(こてすねあての如き小具足をも總て含めたものが
本義である。
大鎧とは他の形式の胴丸腹巻き等に比して大き目に製作せられたが為にこの様に云われたもので
式正鎧(しきしょうよろい)と呼ばれた。大鎧の構造は最も騎射戦に適する様製作されて居る。
つまり引合わせを右脇に設け右脇の間隙は脇盾で塞いで居る。草摺(くさずり)は馬上に於て
其の大腿部を完全に覆うべく大きく前後左右に分かれて居り左右の肩には大袖を付け胸板の
左右には鳩尾板(きゅうびのいた)、梅檀板(せんだんのいた)を附属して居る。」



手前に軍扇と采配。
「軍扇」は軍配団扇(ぐんばいうちわ)の一種で、武将が戦場の指揮具として用いた扇。
「采配」は戦場で大将が士卒を指揮するために振った道具。厚紙を細く切ってふさをつくり、
これに柄(え)をつけたもの。



中津藩奥平家4代 奥平昌章公着用の鎧。



「胴丸
胴丸は大鎧が騎馬に適切なのに対して全く徒歩(かちいくさ)戦斗に適応すべく構成され
いる故、軽快に製作されている。胴は引合を右脇に設け草摺は通常五段下り八間に分かれて
徒歩の便を良くしている。尚元は杏葉を以て左右の肩を覆い大袖の用をなして居たが南北朝時代
以後戦闘様式の変化に伴って次㐧に高級の者も胴丸を着用する様になり大袖を併用すると共に
杏葉は前方に下って恰も(あたかも)栴段鳩尾の如き観を呈するに至った。」



説明文に専門用語が多すぎてついて行けないので、鎧の各名称をネットから。
これにも「よみがな」が欲しいのであった。



徳川家康公より拝領した奥平家重代の家宝
「白鳥鞘(さや)の鑓(やり)(鎭西八郎爲朝用ゆる鏃(やじり))」
(平安時代末期)
□刃 長さ:三寸 量目:三十九匁 □三条小鍛冶宗近 作
「穂先は源氏の弓の名手、源為朝公が使用した鏃(やじり)と伝えられている。徳川家康公が
織田信長公より拝領し、徳川家の家宝とされていた。その後、家康公の曾孫にあたる
奥平忠昌公が、元和二年(1616年)家老桑名主米と共に駿府で家康公の病状を見舞うため、
初めての拝謁を賜った際、当時六歳の忠昌公がこの槍を所望して拝領。奥平家の行列は、
この槍の威光で諸大名より特に重視され、また江戸城登城の際玄関先追持入ご免であった。
以来奥平家の重宝とされている。三条小鍛冶宗近の作と云う。」



旅友もカメラの手を休めて、多くの展示物を観る。



●「奥平昌暢公 奥平家第十二代 豊前中津藩第六代主 従四位 大膳大夫」の鎧(左)。
 文化6年(1809年)ー天保3年(1832年) 
●「蘭癖大名「フレデリック・ヘンドリック」
 奥平昌高公 奥平家第十一代 中津藩第五代藩主 従四位下侍従 大膳太夫」の鎧(右)。
 天明元年(1781年)ー安政2年(1855年)



「奥平昌暢公着用鎧 奥平家第十二代 中津藩第六代藩主
茶色威革包金箔押伊予札縫延胴具足
(江戸時代後期)
胴は伊予札を金箔押の革包にし、縫延(あいのべ)という横縫いする手法を採用。
草摺は茶色威で、杏葉(きょうよう)(肩上に染め革でくるんで付けた鉄板)には、奥平家の
家紋である軍配団扇をかたどった居分(すえ)金物という飾りの金具が付けられている。
具足の背後には、旗指物を差すための受筒を装備、冑は、黒漆四枚矧の日根野鉢に素懸威
(すがけおどし)の日根野錏(しころ)を垂らし、前立には、高くとがらせた高角の鍬形と、
車配団扇が用いられている。この洗練された、まるで美術品の様な鎧が放つ色の輝きを見ると、
若き藩主の貴公子然とした姿が、自然と眼に浮かんでくる。」



「奥平昌暢公 奥平家第十二代 豊前中津藩第六代主 従四位 大膳大夫
文化6年(1809年)ー天保3年(1832年)
中津藩第五代藩主の昌高公の次男として江戸で誕生。薩摩藩第八代藩主の島津重豪公の孫に
あたる。母は、中津藩代四代藩主の昌男公の娘、八千姫。文政5年(1822年)10月、義理の伯父
である第十一代将軍徳川家斉公に初めて謁見し、12月に従四位下美作守に叙任。文政8年1825年)、
父昌高公の隠居に伴い家督を相続、大膳大夫に遷任。文政10年(1827年)、農民の献金額に応じて
庄屋格または名字帯刀を許すという、藩法である授格条例を改正、増補。
文政12年(1829年)には、数万両もの多額の資金を投じて水田開発をおこない、また、多数の
犠牲者を出した前年の大洪水を受けて、三百間(約545メートル)に及ぶ頑丈な石堤を造成。
藩政改革に意欲を燃やす若き藩主は、同年2月、一橋斉敦公の五女、国子姫と結婚。徳川御三卿
一橋家と諸代の名門、徳川御連枝奥平家が結ばれるという、幕閣をはじめ諸大名から庶民までもが
注目する華燭の典であった。」



「采配」が下に展示されていた。



「「蘭癖大名「フレデリック・ヘンドリック」
 奥平昌高公 奥平家第十一代 中津藩第五代藩主 従四位下侍従 大膳太夫」
 天明元年(1781年)ー安政2年(1855年)」
薩摩藩第八代藩主、島津重豪公の次男として江戸藩邸で誕生。第十一代将軍徳川家斉公の正室、
広大院及び薩摩藩第九代藩主島津斉宣公(重豪公長男、篤姫の祖父)の弟。また福岡藩第十一代
藩主、黒田長溥公(重豪公十三男)及び八戸藩第九代最後の藩主、南部信順公(重豪公十四男)の兄に
あたる。天明6年(1786年)、六歳の時に二十四歳で急逝した中津藩第四代藩主、奥平昌男公の
未期養子として迎えられ家督を継ぐ。昌男公は、実父重豪公の蘭学仲間であった。昌高公も成長
するにつれ蘭学に没頭し、「蘭癖大名」と呼ばれる。寛政8年(1796年)、藩校進脩館を創設し
文武両道を奨励。歴代のオラダ商館長と親交を結び、「フレデリック・ヘンドリック」という
オランダ名を贈られている。文化7年(1810年)、中津辞書と呼ばれる「蘭語訳撰」を、文政5年
(1822年)には「中津パスタード辞書」を出版。文政9年(1826年)、ドイツ人医師シーボルトが
オランダ商館医として江戸参府した際、実父重豪公と共に対面を果たし、以後深い交流を重ねる。
江戸後期、西洋文明の導入に大いなる功績を遣した名君である。」



「奥平家第十五代 奥平昌邁(まさゆき)公」着用の鎧。



「奥平昌邁公 奥平家第十五代
豊前中津藩第九代最後の藩主 従五位下美作守
安政2年(1855年)ー明治17年(1884年)
幕来の四賢侯と言われた伊予字和島藩主、伊達宗城公の四男として江戸で誕生。信濃松代藩
第十代最後の藩主、真田幸民公(宗城公長男)の弟にあたる。文久3年(1863年)、第八代藩主の
奥平昌服公の養子として迎えられ、慶応4年(1868年)に家督を継ぎ藩主となる。明治2年
(1869年)、維新の主旨に基づいた藩政改革に次々と着手。旧来の慣習を打破して人材の登用を
実行し目安箱の制度を拡充。また、官吏を任用するにあたって初めて選挙法を用いた。同年、
版籍奉還により中津藩知事となる。明治4年(1871年)、中津藩上の福澤諭吉が設立した慶応義塾に
入学し、同年未アメリカへ留学。明治6年(1873年)、病を得て帰国。明治9年(1876年)、
天保の改革を行った老中水野忠邦公の孫である静子姫と結婚。明治13年(1880年)、
東京府会議員に当選し、翌年東京府芝区長に就任。明治17年(1884年) 7月、家格により伯爵を
授けられるも11月に病没。旧領中津と明治新国家の発展に尽力した昌邁公の30歳という若すぎる
死は、多くの人に惜しまれ、華族(旧大名)の中において比類無き人物を失ったと悲痛の記事を
掲載した新聞もあった。」


1階の「双葉山」展示コーナー。
明治45年(1912年)2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。
相撲界で前人未到の大記録、69連勝で知られる昭和の大横綱「双葉山」。



「横綱双葉山関と父祖の地中津
天下の名横綱・双葉山(本名・穐吉定次)は、明治四十五年(一九一ニ)二月、隣村の宇佐市下庄
(布津部)で生まれ、生まれ育った家は、現在、双葉公民館として利用されています。
双葉山の先祖は、もと中津藩の武家・内田氏で、代々刀匠・刀鍛治を務め、苗字帯刀を許され、
内田小三治淡路守と名のっていました。
定次は、小学校を終えた十三歳のとき、伯父を頼って下正路の汐湯で手伝いをしていました。
体格はずばぬけて大きく、カも強いうえ、誠実で実力があることから、毎日汐湯に人浴する
お年寄りたちに評判の少年でした。
そのうち、お年寄りの有志や角力(すもう)びいきの県の役人、警察部長、安藤氏、中野氏、
横松氏などの肝いりで蔵前の東京角力に人門し、みんなの期待通りぐんぐんと成長し
角界未曽有の六十九連勝(横綱ニ十六連勝)の大制覇をしたことは不減の輝きです。
五十余年前、少年双葉山が風呂の火をたいたり、父と共に回漕の船をこいだ所は護岸工事で
なくなりましたが、横綱の化粧まわしや写真、筆をふるった扁額などが市内各地で大切に
保存されています。
また、国鉄、天津駅には「横綱双葉山生誕之地」の大記念塔が健てられています。」

中央に双葉山自筆の額「忠魂輝寿康」。



化粧回。かなり色褪せてしまってはいたが。



「化粧回
伯爵 奥平昌恭公が双葉山(中津出身)の大関時代に贈った化粧回しで、双葉山は横綱昇進後
昭和十三年奥平神社に奉納」



手形。



私の手を双葉山の手形に合わせて。旅友が撮ってくれました。







徳川家康公 没後400年 特別記念展示品
「奥平第ニ代奥平信昌公義父 徳川家康公 没後400年 特別記念展示品」。
「大水牛脇立熊毛植黒糸威具足」(左)
「紺糸威金溜塗仏胴具足」(右)



徳川家康公着用の「大水牛脇立熊毛植黒糸威具足」。



「大水牛脇立熊毛植黒糸威具足
徳川家康公着用写(レプリカ)
天文11年(1542年)ー元和2年(1616年)
徳川家康公が着用した具足の写(レプリカ)です。 兜は水牛の角をかたどリ、具足全体に熊の毛を
植え付け、黒い糸で威(おど)しています。前身真黒の中に真紅(しんく)の面頬(めんぼう)が
いかにも鮮やかで、こういった奇抜な意匠は、戦国時代以降に流行した当世具足(とうせいぐそく)
の特徴をよく示しています。神君家康公の遺品として、御三家の尾張徳川家で大切にされ、
江戸時代は名古屋城小天守内に特別の場所を設けて安置してありました。徳川美術館蔵」



松平元康(徳川家康)公着用の「紺糸威金溜塗仏胴具足」。



「紺糸威金溜塗仏胴具足
松平元康(徳川家康)公着用写
天文11年(1542年)ー元和2年(1616年)
奥平忠昌公(おっくん)の曾祖父である徳川家康公(ひーじじ)が、永禄3年(1560年)、まだ

の前哨戦)に、着用したとされる甲冑のレプリカです。当時は敵の織田信長公も称賛した、その
鮮やかな戦いぶりから縁起が良いとされ、徳川家の家宝として代々伝わるものです。
紺糸威金溜塗仏胴具足(こんいとおどしきんためぬりほとけどうぐそく)、通称、大高城兵糧入具足
(おおだかじょうひょうろういれぐそく)と言います。」



「中津城歴代城主一覧」。

<黒田時代>

・黒田孝高(如水)・・・天正15年(1587年)入城

・黒田長政(長子)・・・慶長5年(1600年)関ヶ原戦功により筑前国52万石に移封

<細川時代>

・細川忠興(三斎)・・・慶長5年(1600年)入城

・細川忠利(長子)・・・寛永9年(1632年)大坂の役後、肥後国54万石に移封

<小笠原時代>

・小笠原長次・・・寛永9年(1632年)大坂の役後、入城

・小笠原長勝・・・寛文6年(1666年)長次の封をつぐ

・小笠原長胤・・・天和2年(1682年)長勝の封をつぐ

・小笠原長円・・・元禄11年(1698年)長胤の封をつぐ

・小笠原長邕・・・正徳3年(1713年)長円の封をつぐ、享保元年嗣子なく亡ぶ

<奥平時代>

・奥平昌成(昌章長子)・・・享保2年(1717年)入城

・奥平昌敦(昌成次男)・・・延享2年(1745年)昌成の封をつぐ

・奥平昌鹿(昌敦長子)・・・宝暦8年(1758年)昌敦の封をつぐ

・奥平昌男(昌鹿長子)・・・安永9年(1780年)昌鹿の封をつぐ

・奥平昌高(鹿児島・島津重豪次男)・・・天明6年(1786年)昌男の封をつぐ

・奥平昌暢(昌高次男)・・・文政8年(1825年)昌高の封をつぐ

・奥平昌猷(昌高五男)・・・天保3年(1832年)昌暢の封をつぐ

・奥平昌服(昌暢長子)・・・天保13年(1842年)昌猷の封をつぐ

・奥平昌邁(宇和島・伊達宗城三男)・・・慶応元年(1865年)封をつぐ

明治2年廃藩となる。







「長篠の戦い 特別展示会場」案内。



「長篠の戦い 特別展示会場」。



「館長 伯爵 奥平昌恭 氏」の写真。
NHK朝ドラ「花子とアン」と奥平家
仲間由紀恵さん演じる葉山蓮子のモデルである柳原白蓮と伊藤伝右衛門(ドラマ/嘉納伝助)の
離婚の仲介役をし、記者発表を行ったのは、写真の奥平家十六代当主の奥平昌恭伯爵 (最後の
当主奥平昌邁公の長男である。白蓮の兄、柳原義光伯爵(ドラマ/葉山晶貴伯爵)とは従兄弟の
関係であり、二人は伊達宗城公の孫にあたる。また共に貴族院議員を務め、年齢も一歳違い、
そんな関係から仲介役となったのでしょう。」



「鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)」コーナー。



鳥居強右衛門勝商の磔(はりつけ)の絵。



「鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)
天文9年(1540年)ー天正3年(1575年)
天正3年(1575年) 5月8日、21歳の若き青年武将、奥平貞昌(信昌)公に率いられたわずか500の
将兵が籠る長篠城は、1万5000の武田軍によって包囲された。この大軍にも億せず、奥平軍の
士気は非常に高く、武田軍の猛攻をよく耐えていたのだが、13日に城の兵糧蔵を焼失してしまい、
一気に落城の危機へとさらされた。このため貞昌(信昌)公は、一刻も早い援軍の要請を行うため、
家康公のいる岡崎域へと決死の使者を送ることを決断する。この命がけの役目に自ら応じたのが、
それまでは名もなき下級武士の鳥居強右衛門であった。翌14日、夜の闇に紛れて下水口から城を
抜け出した強右衛門は、川を潜って武田軍の包囲網を突破すると、岡崎城へたどり着くことに
成功した。すると織田・徳川3万8000の大連合軍は、3000丁もの鉄砲を携え、翌日にでも出陣
する手はずになっていた。強右衛門は、城の仲間たちにこの朗報をいち早く伝えるために、
信長公、家康公の慰留を辞し、すぐさま長篠城へ向けて引き返したのだった。16日の早朝、城の
近くの山で狼煙を上げて援軍が来ることを城内に知らせた強右衛門は、さらに詳細を伝えるため
再入城を試みるも、武田軍の兵に見付かり、捕縛されてしまった。強右衛門への取り調べに
よって、織田・徳川の援軍が長篠城に向かっていることを知った武田勝頼は、武田家の家臣と
して厚遇することを引き換えに、「援軍は来ない。早くあきらめろ」と城に向かって叫ぶように
命じた。もとより死を覚悟して、この命令を受け人れるふりをした強石衛門は、長篠城の近くへ
連れていかれると、仲間が見守る城内に向かって「二、三日のうちに援車は来る。絶対に
あきらめるな」と、大声で叫んだ。烈火の如く怒った勝頼は、その場で強右衛門を磔にして
処刑した。この強右衛門の命をかけた忠義と壮絶な最期は、長篠城内の奥平軍を大いに奮い
立たせ、援軍が到着するまでの二日間、堀のたにしを食べて飢えをしのいで戦い続け、見事に城を
守り通したのだ。この歴史に残る忠義が、5月21日の武田軍を壊滅に追いやった設楽原本戦の
大勝利を呼び寄せたのである。」



「烈士鳥居強右衛門勝商御木像 愛知県豊川市 松永寺所蔵」。



「長篠合戦図六幅掛軸」。



ズームして。



「織田信長」。



「羽柴秀吉」。



「徳川家康」。



各大名江戸藩邸之図(文久年間)



「奥平家中屋敷」、「奥平家上屋敷」。



国宝の日本刀のコーナー。



「徳川家康公より奥平信昌公拝領の太刀
国宝 太刀 大般若長光(模造)
(鎌倉時代・13世紀)」



「徳川家康公より奥平信昌公拝領の太刀
国宝 太刀 大般若長光(模造)
(鎌倉時代・13世紀)
室町幕府の足利将軍家に代々伝えられたこの天下の銘刀は、やがて織田信長公の手に渡り、
姉川の戦いの功で徳川家康公へ、そして長篠の戦いの戦功として奥平信昌公に与えられた。
その後は、信昌公の四男で家康公の養子になった幕府大政参与松平忠明公が所有し忠明公の
家系である武蔵国忍藩が所蔵したまま明治維新を迎え、紆余曲折を経て現在は、
東京国立博物館で所蔵されている。やがて国宝となる程の銘刀を与えられていた事でも、
長篠の戦いにおける信昌公の武勲がいかに輝かしいものだったかが分かる。」



奥平信昌公のコーナー。
着用した鎧、徳川家康公直筆の書、陣羽織、など貴重な家宝が展示されていた。



「奥平信昌公 長篠の戦い時着用の鎧」



「奥平信昌公 長篠の戦い時着用の鎧
錆地打延五枚胴具足
(安土桃山時代)
飾り気の無い錆地の五枚胴で草摺は黒漆一文字板札に啄木糸の素懸威、杏葉に丸に沢瀉の紋の
据文金物。
冑は錆地筋冑、三枚錣啄木糸素懸威、目の下頬当に喉輪、中袖は冠板祈り立て七枚下り。」



陣羽織。



長篠の戦い時使用「自鳴の法螺貝」。
奥平信昌率いる500の軍勢が「長篠城」籠城中、独りでに鳴り出したという法螺貝。
今も旧暦5月8日から21日までに夜の中津城から、法螺貝の音が響くという噂がある と。



「各大名江戸藩邸之図(文久年間)」



2階から中津城の本丸から望んだ中津川と北門橋を望む。
その向こう微かに龍王橋も見えた。



                              ・・・​ もどる ​・・・


                   ・・・​ つづく ​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.01.29 10:38:01
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: