JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.05.20
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カテゴリ: JINさんの農園
「宝蔵門」への参道の右側にあったのが「 戦災者供養 平和地蔵尊 」。
東京大空襲で亡くなりなった御霊 がお祀りされている と。 





平和地蔵尊由来記
第二次世界大戰はその規模においても その被害についてもまことに甚大であった  
ことに昭和二十年三月十日の大空襲には この附近一帯は横死者の屍が累として山をなし 
その血潮は川となって流れた その惨状はこの世の姿ではない これ等の戦争犠牲者の霊を
慰めることこそ 世界平和建設の基となるものである ここに平和地蔵尊を祭り その悲願を
祈るため 昭和二十四年四月こゝに安置された次第である」  






建立者の龍郷定雄翁像
建立年 昭和24年4月 と。
平和地蔵を、私財を投じて奉納した龍郷定雄の胸像。築地市場の関係者だったようだ。
この龍郷像を作った立川金禄は埼玉県白岡市出身の仏師。白岡市を中心に、埼玉県各地に仏像や
ブロンズが残っている。日展では「シャモ」を題材に入選を果たしている と。



そしてその隣、本堂側・左側にあったのが「 久米平内堂(くめのへいないどう)
久米平内(くめのへいない)をまつる平内堂は、浅草の縁結びの神様として知られています。
仲見世通りの突き当たり、宝蔵門手前、右側にある平内堂には、今日でも縁結びを願う若い人が
参拝する姿が見られます。
この平内堂は江戸時代に建立され、昭和20年の空襲で焼失したものを、昭和54年に再建した
もので、中には小さな石像がまつられています。この石像が平内様です。
久米平内は講談で語られるなどフィクションも重なって、実際の人物については謎が多く
残されています。例えば、座禅を組んでいる自分の像を平内自身が彫らせたという説。
これは、平内が首切り役人とか、刀の試し切りや辻斬りをした浪人だったとかで、死んでから
少しでも罪が軽くなるように「大勢の人に踏みつけてほしい」と願ったと言うもの。
また、平内が教えていた「仁王座禅の法」の看板がわりのものだったという説もあり、今でいう
体操教室かフィットネスクラブの先生であった平内が、生徒募集のためのユニークな看板と

平内の石像がお堂の中に収まって「平内堂」となったのは、実在の平内が亡くなった後のこと
と ネットから。



久米平内堂 」に近づいて。



久米平内堂
           台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺
久米平内は江戸時代前期の武士。『武江年表』によると、天和三年(一六八三)に没したとされるが、
その生涯については諸説あり、実像は明らかではない。
平内堂には次のような伝承がある。平内は剣術に秀でており、多くの人をあやめてきた。後年、
その供養のために、仁王坐神の法を修行し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこんだという。
臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人々に踏んでもらうことによって、犯した罪を
償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に理めたと伝える。
その後、「​石像​」はお堂に納められたという。「踏付け」が「文付け」に転じ、
願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の
信仰を集めた。
平内道は昭和二十年三月の戦災で消失した。現在のお堂は、同五十三年十月に浅草寺開創
千三百五十年記念として再建されたものである。
平成十八年三月
                    台東区教育委員会」



久米平内堂 縁結び絵馬奉納箱 」。 



久米平内堂 」の正面扉の見事な彫刻。



廻り込んで。



「​ 久米平内像 ​」👈️リンク をネットから。

2018/6/19-25落ち着いてきたがとりあえず浅草寺弁天池と久米平内像の新旧は押さえとく(結論あり)_b0116271_15372736.jpg

「久米平内堂」前から、「 宝蔵門 」、「 五重塔 」を見る。



この木も、何か由来があるのだろうか?



そして参道の左側にあったのが「 大行院・浅草不動尊 」。
浅草寺の宝蔵門手前に鎮座。浅草寺の境内ですが別のお寺になるのだと。
右後ろに見えるのは浅草寺の五重塔。
関東三十六不動霊場の二十二番目のお寺だそうだ。






三宝荒神堂 」。 



正面に「 なでぼとけ 」。



近づいて。



三宝荒神堂
浅草不動尊大行院が戦前にお祀りしていた三宝荒神堂は、明治六年五月に谷中の金嶺寺様の
より勧請した御像であり、多くのご参拝者の皆様から「金山三宝荒神」として親しまれていた。 
当時の金山三宝荒神は病苦厄難を退け開運繁栄をもたらすとして、金物に関する信仰のみならず
諸願成就の信仰をも集めるようになった。
惜しくも当院はこの御像と堂宇を昭和二十年の東京大空襲によって焼失したが、それまでの信仰と
歴史を大切に受け継ぎ、終戦の直後に再造された御像(秘仏)は仮堂に安置され、昭和五十年には
金山堂を三宝荒神堂と改称し堂宇も再建された。
当院の三宝荒神信仰においては鍛冶職の方からの信仰にとどまらず「かまどの仏様」という側面に
強いことから、その御利益は「台所守護」と称され、長きにわたり日本全国のご家庭の台所や
飲食店の調理場等に当院の三宝荒神御礼(御姿と御幣)が祀られ、親から子へ子から孫へと代々その
信仰が受け継がれている。 
              浅草不動尊 大行院」 



浅草大行院 」と。



浅草不動尊 大行院
宗派 天台宗(総本山 比叡山延暦寺)
御本尊 不動明王
当院は、江戸時代には浅草神社様の東側に位置し、「荒澤不動堂」の別当寺院として「専修院」
と称していた。
荒澤不動堂の御本尊であった不動明王像は、貞観元年(八五九年)に慈覚大師円仁様が日光の
荒澤の滝に出現した尊容を刻した御像である。荒澤不動堂は安政の大地震(一八五五)により
倒壊したため、御像は仮堂に安置された。
その後、神仏分離れいなどにより明治三年正月にこの地(以前は西の宮稲荷があった地)に
建立された不動堂に遷された。明治四年6月には、三御門室より大行院の稱號を賜り、専修院
から大行院に改称した。改称後の初代住職は荒澤嚴息(日光山台林寺の嚴息の弟子)であった。
当院は惜しくも昭和二十年の東京大空襲によりはぼ全てを消失したが、東叡山寛永寺様より
不動明王像(秘仏)を勧請し御本尊として仮堂に遷座した後、昭和四九年八月に多くの方々の
ご尽力と復興への強い願いをもって再建された大行院本堂にお祀りした。
現代では「浅草不動」として、開運・厄除・災難消除・当病平癒・身体健全・​ 六算除 ​👈️リンク
・虫封じ・商売繁盛・家内安全・学業成就・心願成就・交通安全などの現世利益を願う皆様に
親しまれている。」



浅草不動尊 」正面。



そして再び「宝蔵門」まで戻り 「宝蔵門」前から大提灯を見る。

浅草寺の宝蔵門(仁王門) - 七五三・お宮参りの出張撮影キッズフォト(KidsPhoto)

仁王像(阿形)。



仁王像(吽形)。



小舟町 」と書かれた「 大提灯 」。
高さ 3.75m・幅 2.7m、重さ 450kg。
日本橋小舟町奉賛会より平成26年(2014)10月奉納掛け換え(4回目)。



提灯下の彫刻



そして「 浅草寺の神木・いちょう 」。



浅草寺の神木・いちょう
浅草寺本堂東南に位置するこのいちょうは、源頼朝公が浅草寺参拝の折、挿した枝から
発芽したと伝えられる。
昭和五年に当時の文部省より天然記念物に指定されたが、昭和ニ十年三月十日の戦災で
大半を焼失した。今は天然記念物の指定は取り消されたが、あの戦災をくくり抜けた神木
として、今も多くの人々に慕われている。
                             金龍山 浅草寺」 



神木に近づいて。 大きな乳根(ちちね) が確認できた。



記念撮影用パネルも前日の5月10日のままに。



「五重塔」を見る。



そして「本堂」に向かう。人の数も多くなって来た。 



浅草寺本堂の階段の西南手前に「 迷子のしるべ石 」。
正面に「南無大慈悲 観世音菩薩」と刻む。



迷子しるべ石
昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。
石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み 、一方に「志らする方」、一方に「たづぬる方」
とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。情報未発達の時代には重宝され、
「江戸」市内の繁華な地に建てられたものの一つ。
安政七年(一八六〇)三月、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(現宝蔵門)前に造立したが、
昭和二〇年の空襲で倒壊したため、昭和三十二年に再建された。
                          金龍山  浅草寺」 



志らする方 」と。   
「私のところに、このような迷子がいます。」という内容の紙を 上部の四角い枠に貼り付けた。
四角い枠の上には雨除けの庇の様な突起が在る。



まよひこのしるべ 」と。 


たづぬる方 」。 
反対側の「たづぬる方」には、 迷子になった子供の人相や特徴を書いた紙を貼りつけておきます。
この紙をみて、迷子を探したわけです。



裏面には「 安政七年(一八六〇)庚申歳三月建、 施主 新吉原 松田屋嘉兵衛 」 と。
これらが「迷子しらべ石」に刻まれているのは、安政の大地震で亡くなった新吉原の遊女の霊を
慰める意味もあったからなのだと。







                                 ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2025.05.20 18:38:13
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