JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 予約時に保養所から確認の電話があるけど…
JINさん@ Re:再び大涌谷へ(05/16) Dさんが申し込んで下さいましたが、朝食を…
オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2026.03.09
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カテゴリ: JINさんの農園
「白旗神社」を後にして国道467号を「白旗」交差点に向かって戻る。
この道は旧八王子街道。白旗神社までの道はかっては白旗横丁と呼ばれ、肥料、農業関係の
店が軒を並べていた。今でも昔からの店が残っている。藤沢本町駅からの道と交差する所に
重厚な建物で目を引くお店、タネや苗を販売するタネトウこと「種藤商店」があった。
タネトウの名は種屋藤三郎商店に由来し創業は明治初期。現在は高梨英彦商店、専業農家、
家庭菜園向けの野菜や花のタネ、苗を販売、サカタのタネの代理店でもある。 



店頭ではジャガイモの種芋が販売されていた。
「シンシア」という種類が販売されていたので、帰路に立ち寄り購入したのであった。 



「白旗」交差点を左折し国道146号を進むと直ぐにあったが「 藤沢宿絵図
「この地図は、江戸時代の寛政から文化にかけての様子を現在の地図と重ね合わせたものです。
なお、寺社等の位置は移設等により異なる場合があります。」と。



ズームして。現在地はここ。
昔は「白旗神社」の境内に「荘厳寺(しょうごんじ)」があった ようだ。
「荘厳寺(しょうごんじ)」 は元暦元年(1184年)覚憲により開山。
嘉禎元年(1235年)覚盛が再建中興した。元文年間(1736年-1741年)に火災で
消失した為、 延享4年(1747年)に荘厳寺が別当を務めていた白旗神社の隣に再建
天明4年(1784年)火災。天明6年(1786年)には、大雨により境川が氾濫し、
6尺(約1.8メートル)の浸水で寺が破壊された。
1875年(明治8年)神仏分離令のため現在地に移転した と。
現在の「荘厳寺(しょうごんじ)」は神奈川県藤沢市本町4丁目6−12
現在の「白旗神社」から徒歩で500mほどの場所・



この後に訪ねた遊行寺周辺の「 藤沢宿絵図 」をズームアップ。



「​ 藤沢白旗商店街マップ



そして歩道横にあったが「 伝源義経首洗井戸 」案内柱。
源頼朝に鎌倉を追われた 源義経は奥州平泉に逃げていましたが、文治5年(1189)に
藤原泰衡の裏切りで、衣川の館で自害した といわれています。鎌倉に送られた 義経の首は、
首実検の後に片瀬の浜にうち捨てられましたが、首は潮にのって境川を遡り漂着し、
この首を村人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたという伝説 が残っています。
以前は、鳥居が建てられ義経の首を祀った首塚、近くには武蔵坊弁慶の首塚もあり庶民に
信仰されていました と。 



案内に沿って住宅地の路地に入って行った。
路地の入口左側にあったのが「 藤沢警察署 本町白旗交番 」。 



「東海道分間延絵図」では、「白旗旅所義経首洗」として鳥居 と社があり、周囲を柵で囲んだ
様子が描かれている。
その首塚周辺の土地は白旗神社の所有地だったが、明治時代民間に払い下げられその土地を
買った人は百年の間に次々と破産したり病死したりと不幸な出来事が続いたので、
地元では忌地(いやじ)として誰も買う人がいなくなったという。
現在ではマンションが建ち首塚の所にあった石碑はこの井戸のそばに移されているのだ と。



路地の突き当りの右側にあったのが「 伝源義経首洗井戸 」。 



伝 義経首洗井戸
源義経(鎌倉幕府の将軍源頼朝の弟)は、頼朝に追われ奥州(東北地方)に逃げていましたが、
一一八九年に衣川(岩手県奥州市)で自害しました。腰越(鎌倉市)で首実検の後に浜に捨てられた
義経の首は、潮にのって川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられて
います。この絵は、歌川国芳が描いた源義経の浮世絵です。
ここからニ〇〇メートルほど北の白旗神社は祭神として義経を祀っており、境内には、藤沢の
御首と宮城県栗原市の判官森に葬られた御骸の霊を合わせ祀った源義経公鎮霊碑などがあります。
また、常光寺南側の公園には、「​弁慶塚​」と記された石碑が祀られています。」



歌川国芳 本朝武優鏡 源義経 」。
一指 源義経 寿永三年 筆者 弁慶
源義經 「義朝の第九の子にて頼朝の末弟なり。平治元年に誕生して二歳にて父にはなれ幼名
牛若丸と云。又舎那王といへり。幼少の時鞍馬山にて剣術を習ひ、成長して奥州へ下り、
路次にて熊坂を討とり、又元服して源九郎冠者と名のつて、後頼朝義兵の時義経の
はたらきにて平家の一ぞくを討ほろぼせり。義経武勇すぐれ軍略に達し、讒言の為によつて
頼朝の勘気を蒙りて二たび奥州へ下り、秀衡の館に暫らく止りて後に蝦夷の国へ渡るといふ」と。
また「吾妻鏡」には「文治五年六月大十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高平持參豫州首於腰越浦。
言上事由。仍爲加實檢。遣和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各着甲直垂。相具甲冑郎
從二十騎。件首納黒漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糧。今高平者。
令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々」 とあると。
意訳 】<藤原泰衡(ふじわらの やすひら)の使者・新田冠者高平(にった かじゃたかひら)が
義経の首級を持参して腰越に到着。首実検のため、侍所別当の和田義盛(わだ よしもり)と
同所司の梶原景時(かじわら かげとき)らが派遣された。それぞれ直垂の上から鎧を身に
着け、鎧兜の郎従20騎を連れていく。義経の首級は黒漆で塗られた櫃(ひつ)に収められ、
中には腐り止めの酒が満たされている。高平の下人が天秤棒に担いで持って来た。
果たして首級を見た者は、みな涙で両袖を濡らすほど泣いたそうな。」 



伝 義経首洗井戸 」に近づいて。
井戸は公園右手の竹塀の前にあり、格子蓋が被せてある。



近づいて斜め上方から。



中を覗くとやや深い円筒形で、涸れ井戸だった。



井戸の手前右には説明板、左には 3種類の石碑 が。



武蔵坊辨慶公之靈 九郎判官 源義経公之首塚 
亀井坊 片岡坊 伊勢坊 駿河坊 各靈 』と刻まれた石碑。



九郎尊神 」と刻まれた石碑。 「九郎尊神」とは、 九郎判官 源義経のこと。

<

そして『 源義経史蹟 藤澤市 』と刻まれた石柱が建っていた。



そして国道467号まで引き返す。



前方にあったのが「旧鎌田商店蔵(藤沢宿)」。荘厳寺入口にある旧鎌田商店蔵は
明治30年(1897年)に建てられた築117年の蔵であり、外壁下部から中ほどには
鎌倉石を積み、上部はトタンで覆われているが、おそらくは漆喰であろう。
内部は丸太または縦に半裁された木材組みによる重厚な造りであるという。
昭和初期から主に和紙の商いに使用されてきた。荘厳寺境内横にも土蔵が見えるが
これも旧鎌田商店の土蔵であろう。 



藤沢市内の旧街道沿いに 設置されているこのボックスは、通信・電力系の地上設置設備
(ケーブル分岐箱/端子函)



貼られている写真は 藤沢の鉄道黎明期の風景 と思われます。
右: 小田急線藤沢本町駅 昭和12~15年 藤沢市文書館蔵
左上: 町立藤沢高等女学校 昭和12~15年 藤沢市文書館蔵
左下: 白旗神社  と。



旧鎌田商店蔵 」の脇の路地が 「荘厳寺」入口



右手にあったのが「 藤沢公民館分館 済美館 」。
藤沢公民館分館「済美館」は、歴史ある旧東海道藤沢宿の面影を残すエリアに平成時代に
建設された施設です。1階には藤沢宿に関するパネル展示や郷土資料が備えられており、
江戸時代の町並みや歴史を学べる地域活動の拠点となっています。 藤沢公民館の分館として、
地域の生涯学習やコミュニティの場として利用されている。


「藤沢公民館分館」が済美館として生まれ変わった建物である。



済美館記念碑文
この地域は、江戸時代以前から、遊行寺の門前町、東海道の宿場町として栄え、
商業(問屋街)も盛んで、近隣の町村から多数の人が集まりました。
また、大正初年から町役場があり、市制が布かれてからも昭和二十六年(1951)まで
市役所が置かれ、本市の歴史・文化並びに経済の中心地でもありました。
済美館は、昭和十七年(1942)一月武道場として飛嶋繁氏によってこの地に建設、
藤沢市に寄贈されました。
この「済美館」の名称は明治三年(1870)十月大久保町の名主堀内悠久の子郁之助氏
により、
土地の子弟教育のため藤沢宿に創設された藤沢郷学所済美館の名にあやかり
命名されたものです。

その後、一時期市議会議場として使用されたほか、昭和六十二年(1987)まで主に
市民の
武道練成の場として利用されてきました。
当館は、建築後五十年近くを経、この度、地域住民の熱望により、地域の活性化と、住民の
交流を
図るための機能を加え、新しい済美館(藤沢公民館分館)として生まれ代わり、
ここに完成をみました。

これを記念するとともに、「世々その美を済す」という済美館の原意通り、当館が
生涯学習の
拠点として、これを利用する人々の創意と工夫に より、将来に向けて、今後
ますます
発展していくことを祈り、この碑を建てます。
                     平成2年11月  藤沢市教育委員会」



そして我が実家の檀家寺「 妙善寺 」の入口。
藤沢市藤沢一丁目にある 日蓮宗の寺院 山号は、長藤山
永正元年(1504年)に日純により創立した。前身とされる密教寺院が建立された
延暦15年(796年)が創立で、弘安3年(1280年)日聞が日蓮宗に改宗したという
説もある。天明年間(1781年-1789年)に洪水により堂が流失したが、天保13年
(1842年)に日扇が再建した
墓地の一角には本陣職を務めた蒔田家の墓が往時の隆盛を偲ぶように立っています



そして道路の反対側、現在工事中の場所は、
藤沢市消防局南消防署本町出張所 」跡地。昔は「 藤沢市警察署 」のあった場所。


在りし日の「 藤沢警察署 」の写真。


現「南消防署本町張所」のところに建てられた洋風の立派な「藤澤警察署」。                                     旧「藤沢公民館」の前身は「藤澤町役場」、その後市制が引かれそのまま
「藤沢市役所」となり、旧「藤沢宿通り」には警察署、金融機関等々が連なる官庁街を形成、
また米・麦等の米穀肥料商や商家や問屋等流通街として繁栄してきました。その当時の面影を
残す「藤澤警察署」です。



左: 大藤澤復興市街図
右上: 藤澤全景の一部(本陣付近)昭和戦前
右下: 藤沢宿本陣跡(藤沢本町通り)



藤沢御殿(ふじさわごてん)の堀跡
藤沢御殿跡の堀や土塁は江戸時代後期まで残っていたことが記録に残っています。
その後、開発が進み土塁が削られ堀が埋められると、跡地がどこなのか、はっきりしなく
なってしまいましたが、平成12年(2000年)に宅地の建設に伴い調査を行なったところ、
この付近で御殿の西端の堀と考えられる遺構が確認されています。」

藤沢御殿 は、相模国藤沢(現在の神奈川県藤沢市藤沢二丁目)にあった 徳川将軍家の御殿
(別荘) である。御殿は、現在の旧藤沢公民館と藤沢市民病院の間にあった
藤沢宿が設置される前の慶長元年(1596年)頃に築かれたと推定される。
徳川家康は天正18年(1590年)関東に入ると地域支配の拠点、休憩・宿泊施設として御殿や
お茶屋を設置した。記録としては『慶長記』に徳川家康が慶長5年(1600年)に
鎌倉遊覧のため訪れた記述があるのが最初で、秀忠、家光と寛永11年(1634年)まで
28回利用されている と。

この案内板は、 藤沢市民病院前の植栽の中にも立っていた

藤沢御殿の堀跡(神奈川県藤沢市)を訪問しました | らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~

藤沢御殿の堀跡 」 
四方は水堀で囲まれ、内土塁と外土塁がめぐらされている東南の堀は幅6間、深さ2間半、
南北の堀は幅5間、深さ2間半で、外土塁の外側は東西106間、南北62間で、内土塁の中は
東西86間、南北36間の広さがあった。表御門は東海道に面した南側にあり、裏御門は
東側にあった。表御門の西側には御殿番所、東側には代官陣屋が立ち並んでいた。
総面積は6,000坪に及び、これは城郭構えである事は明らかである。
2000年8月には藤沢御殿に関し、初の考古学調査が行われ西側の堀の遺構が確認された。
相模国内には13箇所の御殿、御茶屋が資料に記載され、うち純然たる城郭構の将軍の恒常的な
宿泊施設は4箇所を数える。これらは藤沢御殿のように水堀と土塁または石垣が巡る方形の
城郭に準じて造営された(なお、同国内の御殿は元禄時代に全て破却された)。
将軍による藤沢御殿の利用は寛永11年(1634年)が最後である。その後、江戸で発生した
明暦の大火(1657年)に伴う江戸城再築のために建築物が取り払われた。天和2年(1682年)
には跡地が検知され耕地となった。
現在では、御殿橋、陣屋小路、陣屋橋、鷹匠橋などが残るほか、藤沢市民病院付近には
御殿辺公園 などの地名が残っている。



そして、 藤沢市民病院前の植栽 の中には 「耕地整理紀念之碑」も立っていた。
表面。
「神奈川縣知事従四位勲三等井上考哉題字
相模東部自北亘東南有川田境川源發東京府南多摩郡境村地界交錯上為武相兩國之境
下為高座鎌倉兩郡之境至鎌倉郡片瀬注海流域約十五里従南左曲右折・・・以下解読不能・・・」 
石碑末には大正十年(一九二一年)辛酉(かのととり)四月二十日  と。



裏面。



そして更に「白旗神社」の前を流れる「白旗川」が「境川」に合流する場所まで歩く。



その場所にあったのが「 撥塚(はちづか) 」。
「撥塚」 は、かつて旧東海道沿いの 藤沢宿付近に存在した刑場跡の地名 である。



多くの石碑が並ぶ場所に咲く「河津桜」。



真新しい「五輪塔」の手前には「庚申塔」並ぶ。
右の昭和51年建立の「庚申塔」には「 陣屋小路 」と。
「藤沢御殿跡」や「藤沢市民病院」用地から移された石碑が並んでいるのであろう。 



一番奥にはこれも「 陣屋小路 」と刻まれた 「道祖神」碑 が。



振り返って。



高度経済成長期の陣屋小路。 旧藤沢公民館の周辺一帯は陣屋小路と呼ばれている。
写真は正月3日に撮られたもので、周辺に住まう職人たちがはっぴ姿(正装)で年始まわりで
あろうか。
道の中央をゆく、唐草模様の風呂敷包みに獅子の面を担いだ人物は門付けをしてまわる
獅子舞である とネットから。

昔の藤沢

そして引き返すと、白旗神社と藤沢市民病院の中間付近にある 御殿辺公園(過去の写真から)。



旧東海道・藤沢宿 蒔田本陣跡
江戸幕府は、東海道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として、各宿場に
本陣を指定しました。江戸時代に外交使節として日本を訪れた朝鮮通信使も国賓待遇の使節
ということで、蒔田本陣に宿泊した記録があります。通常、本陣にはその地の旧家や
富裕層等、有力宿民が指定され、家屋の格式も特別なものでした。
江戸時代の地誌「相中留恩記略」に記された蒔田本陣の図からも、他とは画然とした
本陣の様子が判ります。」



下記はネットから
相中留恩記略
天保10年(1839年)渡内名主・福原高峯によって描かれ幕府に献上された藤沢宿の様子と
藤沢御殿跡付近の絵図。
鎌倉時代以前にあった古道(通称・現北仲通り)は厚木や八王子へ通じる唯一の道で御殿橋も
描かれています。
下段には当時の賑やかな藤沢宿(東海道)の様子が描かれています。」 


「藤沢御殿跡
広さは約6000坪、東西156m、南北156mの長方形の土地地でサッカーグランド
1.5個分です。堀と土手に囲まれた要塞のような施設であったと推測されています。」 



藤沢御殿跡 推定範囲



現在のgoogle mapから
上部・藤沢市民病院、右側・境川、左側・妙善寺に囲まれた範囲が「 藤沢御殿跡 推定範囲 」。


「藤沢御殿」(慶長元年・1596年頃設置)は白旗川、妙善寺、旧藤沢公民館付近のやや
北東寄りにあり、徳川家康、家光、秀忠3代の将軍が寛永11年(1634年)まで28回利用された
将軍専用の宿泊施設。
御殿跡地は現在住宅街となっていますが、御殿橋、陣屋小路、御殿辺などの地名が残っ
ています。
左上の写真:東海道絵巻きからの藤沢御殿部分(郵政博物館所)



「藤沢御殿跡」の南東の角
が正面辺り。
現在は、工事中の「 藤沢市消防局南消防署本町出張所 」の仮設庁舎が移設されていた。



移動して。
「藤沢御殿」の跡地は現在は一面住宅地となっていた。 



旧東海道へ戻る途中、右側奥にあった 石造りの藏



左:藤沢郵便局
右上:横浜興信銀行
右中:大久保町問屋場跡(駿河銀行)現近藤眼科
右下:酒屋の店頭にて




                                   ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・



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Last updated  2026.03.09 23:16:15
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