JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 予約時に保養所から確認の電話があるけど…
JINさん@ Re:再び大涌谷へ(05/16) Dさんが申し込んで下さいましたが、朝食を…
オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

Calendar

2026.03.11
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カテゴリ: 藤沢歴史散歩
「旧桔梗屋」の見学を終え、旧東海道・国道467号を遊行寺に向かって進む。



左上:旧藤沢の町並(仲久保町附近)
左下:舗装される前の本町通り(◯道) 昭和5年
右:藤沢町市街ノ一部



左手にあったのが「 祭りの小塚屋
創業は明治38年。江戸の粋を受継ぐ当主は三代目お祭り専門店。
絆纒(はんてん)や提灯、紅白幕、各種旗、足袋など多数の品揃えをしております と。


さらに「藤沢橋」交差点方向に進む。



遊行寺橋 」を渡る。
遊行寺門前の境川に架かる橋は「遊行寺橋」。
その昔「 大鋸橋(だいぎりばし) 」と呼ばれていました。
江戸時代に旧東海道が境川を渡るところに架けられた。
旧東海道からこの橋を渡ると遊行寺の入口。
江戸時代、藤沢は東海道の六番目の宿場町として栄え、 江の島詣の客などで賑わった。 
現在の橋は、1960年(昭和35年)に架けられたもの(「かながわの橋100選」)。



東海道 藤澤(文久3(1863)年 二代歌川広重) 」 
「大名行列」が渡っているのが「大鋸橋」。 

第五回 藤沢宿 | おうちでヒロシゲ! 大正の広重-江戸の広重 | 神奈川県立歴史博物館

境川の上流方向を見る。



境川の下流方向を見る。
前方に見えるのが、昔は無かった「 藤沢橋 」。



遊行寺の惣門 に向かって進む。



そして次の目的地の「 ふじさわ宿交流館 」が右手前方に現れた。



遊行寺の惣門 を見る。



ふじさわ宿交流館 」案内碑。
旧東海道藤沢宿の歴史、文化に親しむ機会を提供するとともに、地域住民や来訪客の
交流の場として、2016年4月29日に開館。



ここが藤沢宿の旧東海道の枡(ますがた)部分。
この先の旧東海道が右手に曲がりここまで進み左に曲がる。



そして 境川に架かる「大鋸橋」を渡りその先をさらに右に曲がる旧東海道



Google mapに旧東海道の枡形ルートを記入 して見ました。



旧東海道・藤沢宿
ます形
江戸時代、主要な宿場では、 街道を直角に二度曲げたかたちの枡形(ますがた) がつくられ、
外敵が進入しにくい ようにしたり、大名同士が鉢合わせになることを防いだりしていました。
江戸から京へ向かう東海道 が、 遊行寺を過ぎて右に曲がり、もう一度左に曲がって
遊行寺橋(旧大鋸橋)に至っている のも、典型的な枡形です。」 



そして「 ふじさわ宿交流館 」を訪ねた。
旧東海道藤沢宿の歴史,文化等と触れ合う場を提供するとともに,地域の人及び当地を
訪れる人の交流の推進を図ることにより、市民の文化の振興に寄与し、旧東海道藤沢宿及び
その周辺地域の活性化及びにぎわいの創出に資するための施設である と。



1階
【郷土資料展示室】東海道五十三次や藤沢宿に関する様々な資料を展示します。
【多目的ホール・広場】歴史散歩やウォーキングで訪れる方などが気軽に立ち寄り休憩が
 出来る場です。講演やワークショップなどの催しも開催します。
(事業開催ご希望の方はふじさわ宿交流館までお尋ねください)
2階
【会議室1・2】地域の方や団体の会合などにご使用いただけます。(有料・要予約)
施設名称:藤沢市ふじさわ宿交流館
所在地 :〒251-0001 神奈川県藤沢市西富1丁目3番3号
管理・運営
ふじさわ宿交流館の管理・運営は、指定管理者である公益社団法人藤沢市観光協会 が行います



ふじさわ宿交流館内部の展示物を追う。
東海道五十三次 藤沢宿の様子
上部パネル:「 東海道五十三次 藤沢宿の様子 」が説明されていた。
下部: 藤沢宿のジオラマ(立体模型) が展示されていた。
特徴
   ・東海道が一直線に貫く構造
   ・両側に軒を連ねる町家
   ・川沿いの建物配置
   ・本陣・問屋場などの中心施設
   ・小橋や水路の再現
   旅人が行き交う“生きた宿場”の姿を立体的に理解できる構成になっていた。



東海道五十三次 藤沢宿の様子
東海道は、徳川家康が関ヶ原合戦に勝利した翌年の慶長六年(一六〇一年)に、徳川幕府を
開くよりも早く整備が進みました。
江戸ー京都間の人馬と、情報の往来幹線として朱印状で各宿に伝馬を山すことを命じました。
藤沢宿は、日本橋から一ニ里一八町(約五〇キロメートル)東海道第六の宿場で、大山詣、
江の島参詣の中継地として賑わいました。
本陣・伝馬継問屋・高札場も置き、天保十四年(一八四三年) に
宿内人口四〇八九人、家数九一九軒、旅籠屋四五軒となりました。
宿の名物にさざえ、鮑、ひしこなます(しらす干し)、弁慶餅などが有名でした。

六つの挿話
一、藤沢宿と遊行寺
  藤沢宿と遊行寺は切り離せない縁で結ばれています
ニ、宿場の施設
  ニつの見附 藤沢御殿 陣屋と本陣
三、江ノ島詣で
  えのしま道に、杉山和一が建てた「道しるべ」がある
四、大山参り
  藤沢宿の浮世絵にある大刀を担ぐ男達は大山へ向かった
五、民話「影取り様」
  藤沢宿が出来た頃、旅人の影を喰らう大蛇に里人達は困った
六、民話「灰の縄」
  灰で縄を作れという難題を解決したのは・・・」


ジオラマ

様々な角度からジオラマを追う。 ーー は私が追加しました。



様々な角度からズームして。







歌川国芳 本朝武優鏡 源義経 」。
一指 源義経 寿永三年 筆者 弁慶
源義經 「義朝の第九の子にて頼朝の末弟なり。平治元年に誕生して二歳にて父にはなれ幼名
牛若丸と云。又舎那王といへり。幼少の時鞍馬山にて剣術を習ひ、成長して奥州へ下り、
路次にて熊坂を討とり、又元服して源九郎冠者と名のつて、後頼朝義兵の時義経の
はたらきにて平家の一ぞくを討ほろぼせり。義経武勇すぐれ軍略に達し、讒言の為によつて
頼朝の勘気を蒙りて二たび奥州へ下り、秀衡の館に暫らく止りて後に蝦夷の国へ渡るといふ」と。
また「吾妻鏡」には「文治五年六月大十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高平持參豫州首於腰越浦。
言上事由。仍爲加實檢。遣和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各着甲直垂。相具甲冑郎
從二十騎。件首納黒漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糧。今高平者。
令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々」 とあると。
意訳 】<藤原泰衡(ふじわらの やすひら)の使者・新田冠者高平(にった かじゃたかひら)が
義経の首級を持参して腰越に到着。首実検のため、侍所別当の和田義盛(わだ よしもり)と
同所司の梶原景時(かじわら かげとき)らが派遣された。それぞれ直垂の上から鎧を身に
着け、鎧兜の郎従20騎を連れていく。義経の首級は黒漆で塗られた櫃(ひつ)に収められ、
中には腐り止めの酒が満たされている。高平の下人が天秤棒に担いで持って来た。
果たして首級を見た者は、みな涙で両袖を濡らすほど泣いたそうな。」 

藤沢の義経伝説
『吾妻鏡(あずまかがみ)』(鎌倉幕府の記録)によれば、義経は文治五年(一一八九)閏
四月三十日に頼朝の意を受けた藤原泰衡(やすひら)に攻められ、衣川の館で自害したと
書かれています。まだ三一歳の若さでした。そして、同年の六月一三日の項には泰衡の使者
新田高平が義経の首を頼朝の前に持参し、首実検のために和田義盛、梶原景時等が遣わされた
とあります。
頼朝は、和田・梶原からの報告を聞いたのみで、義経の首は見ていないと言われ、それから
義経の首がどのように扱われたのかは史書には見えません。腰越の浜に捨てられたという
言い伝えもありますが、『鎌倉大日記』という書物の記載の中には、「閏四月三十日 
義経於衣河館自害 五月十三日 首上鎌倉被埋藤沢」と書かれています。
(五月十三日は六月の誤りかも知れません)。
藤沢に伝わる伝説では、腰越の浜に捨てられた義経の首は、しばらくして境川をさかのぼり
金色の亀の背中に乗って、白旗川に流れ着いたと伝えられています。
江戸時代の文政一三年(一八三〇)に、小川素堂が著した、藤沢の郷土史『我がすむ里』には
その頃、藤沢の川辺に、金色なる亀、泥に染みたる首を甲に負い出たり。里人驚きて傍らに
ありける童児たちまち狂気のごとく肱(ひじ)をはり、『我は、源義経なり、薄命にして、
讒者(梶原景時のこと)の毒舌にかかり、身は奥州高舘の露と消えるのみならず、首さえ
捨てられ怨魂やるかたなし。汝等(なんじら)よきに弔いてくれよ』と言い終わりて倒れぬ。
諸人恐れて、これを塚となせり。
また、首洗井戸については、白旗横丁のうちにあり、文治五年の夏、彼の義経公の御首を
あらい清めし水という と書かれています。
また、義経の御首(みしるし)は、文治五年に近くの白旗神社に葬られたとされ、同社は
宝治三年(一二四九)に義経を祭神とした合祀し、名称も白旗神社となったと伝えられています。
藤沢の旧宿場地域には、先に挙げた史跡のほか、白旗神社境内の義経松碑(松は亡失)、
弁慶の力石、芭蕉句碑?、荘厳寺の位牌、常光寺裏山の弁慶塚等が残されています。」 


現代に姿を現した藤沢宿の痕跡
江戸時代に東海道の宿場町として賑わいを見せた藤沢宿の痕跡が地下に眠っていることが
わかったのは、一九九〇年代の中頃になってからです。これにより、藤沢市教育委員会は
平成九年(一九九七)一月、神奈川県理蔵文化財台帳に藤沢市の新たな遺跡として
『東海道藤沢宿遺跡』を登録しました。
藤沢市の南部には、湘南砂丘と呼ばれる砂丘地帯が拡がっています。
ここには東西に延びる砂丘が複数存在していますが、藤沢宿はこれらの砂丘の中でも
最北の砂丘列と境川に挟まれた緩やかな斜面地に立地しています。
東海道藤沢宿遺跡に初めて調査のメスがはいったのは、遺跡として登録されてすぐの
平成九年(一九九七)八月のことです。共同住宅建設の際におこなわれた第一次調査では、
戦国時代から江戸時代にかけての五時期の生活の跡が確認されました。江戸時代だけではなく、
小田原北条氏が支配していた時期の痕跡が確認されたことは大きな成果でした。
つづく第二次調査が平成十五年(二〇〇三)に、第三次調査が平成十六年(二〇〇四)におこなわれ、
藤沢宿の様子が考古学の見地から徐々に明らかとなってきました。しかし、調査は主に宿場の
中央から東側の地域にかけてのものであり、西側がどのような姿であったか、まだ明らかに
なっていませんでした。
西側の様子を知るきっかけとなった調査は平成十九年(二〇〇七)におこなわれた第四次調査です。
この調査では江戸時代から大正時代にかけての生活の痕跡が確認されましたが、その中で
注目されたのが、宝永四年(一七〇七)に富士山が噴火した際の火山灰を廃棄した土坑
(大きめの穴)です。
これまでの調査からも火山灰の廃棄土坑は確認されていましたが、穴が掘られていた場所は
東海道から離れた敷地の裏側にあたるような場所でした。しかし第四次調査でみつかった
土坑は東海道沿いに掘られており、また噴火前後に人々が住んでいた痕跡は確認されません
でした。
天保十三年(一八四二)に記された『鶏肋温故(けいろくおんこ)』という文献には第四次調査
地点周辺より西側を「坂戸新宿」と呼んでいたことが記されています。おそらく宿場の
中でも新たに発展した場所を新宿と称したのでしょう。文献と発掘の成果が一致した貴重な
調査となりました。
なお第四次調査地点の北西隣りに位置する第六次調査ではこれまでに文献からは確認
できなかった幕末期と考えられる最大幅約四・五mの水路が確認されました。この水路や
周辺のゴミ穴からは「伏見屋市兵衛」をはじめ、様々な店の名前が記された荷札が大量に
出土しました。今後これらの荷札を研究することにより、藤沢宿の物流の一端が明らかに
なることが期待されます。」 

藤沢宿関連する遺跡
下図の上部黄色部🟨は「藤沢御殿跡」
   下部茶色部🟫は「東海道藤沢宿遺跡」
           ①~⑩は発掘調査地点 



「藤沢宿」 
東海道分間延絵図(複製)より



ズームして。

電子博物館・みゆネットふじさわ

小栗判官と照手姫「東海道名所図会巻之六」(文書館所蔵) 」 
東海道名所図会のさし絵添え書
小栗小次郎は鎌倉権現堂にて強盗に出会い既に毒酒にて殺さるべきを
遊君照手が貞操にて夜陰に忍び出竹林の荒馬に乗り藤沢の道場へ駈け入り危急の難を
逃れたる これ馬上の達人にして 王済が錦障泥を惜しむの類にあらず」

小栗判官と照手姫
「小栗判官」の物語は、ふるくから説経節(せっきようぶし)として語られ、江戸時代には
人形浄瑠璃、歌舞伎などの題材となり、登場人物や背景もさまざまに変えて上演され、
大変流行しました。そして、江戸時代後半に庶民の物見遊山の旅行がさかんになると、
物語の重要な場面で、「藤沢の上人」が登場することから、東海道を旅する人々は
遊行寺や長生院をたずねることを楽しみにするようになりました。
寛政九年(一七九七)に刊行
された名所案内である「東海道名所図会」には、小栗判官照手姫の物語が藤沢に伝えられた
話として、次のように紹介されています。
相模の豪族横山の屋敷に宿をとった小栗判官が、金品目当てに毒殺されそうになりますが、
その場に居合せた遊女の照手姫に助けられて、荒馬の鬼鹿毛を乗りこなして遊行寺へ
逃れた・・・
実はこの話は、小栗判官の物語の様々な筋書きの一例にすぎません。
現在も清浄光寺(遊行寺)の北側には、照手姫が開基となったという長生院があり、小栗判官
主従や照手姫の墓、馬具などゆかりの品々を伝えるばかりでなく、「小栗略縁起」という
小栗判官物語も伝えています。
また、西俣野には「小栗判官絵解き」(花応院)や、小栗判官が埋葬されたという小栗塚跡
などがあります。」 



東海道五十三次之内藤沢小栗判官一三代豊国(画)伊勢屋(板)



東海道分間絵図
元禄三年(一六九〇)、富山藩の遠近道印作成の原図を基に菱川師宣が絵図を描いた、
旅行案内書。
折り本五冊組で広く普及し、宝暦年間(一七五一~六四)には懐中用の一冊本が
刊行されました。」 



江戸時代の旅人のすがた
江戸から東京まで東海道を旅するのに、江戸時代には約一四日間ほどの日数を要したと
いわれています。一日に約四〇キロを往かなければなりません。季節にもよりますが、
早朝から歩き始め、日没前には投宿しなければならないと考えると、結構な強行軍です。
道中記を片手に街道筋の名所旧跡を巡っていますが、実際には通りすぎたというのが
実感だったのではないでしようか。それでも今日とは異なり、一生に何度も体験することの
ない旅となれば、人びとは懸命に歩き、見て、味わい楽しんだのでしよう。
ここで、当時の旅人が携行した旅行用品についてみてみましよう。江戸時代に刊行され
旅行の心得を説いた書物『旅行用心集』には、
矢立、扇子、糸針、懐中鏡、日記手帳、櫛、鬢付油、提灯、蝋燭、火打道具、懐中付け木、
麻綱、印板が記され、その他に革袋、胴乱、鉤が図示されています。また、これら以外にも
鋏・小刀・物差・ぶん回し(コンパスのような道具のことです)・耳掻き・毛抜き・千枚通し
などの七つ道具、弁当箱に方位磁石などがあります。今日の旅行用品とほとんど変わらない
ようにもみえますが、早朝出発や仕方なく夜道を歩かなければならないときには、やはり
提灯や蝋燭が必要です。道脇で弁当を食べたり、木賃宿(燃料代だけを支払って宿泊する
宿屋)で炊事をするにも火打道具に懐中付け木が必要でした。
それから、方位磁石。不思議でもなく、実は方位磁石の果たす役割は大きかったのです。
「東海道分間絵図」をみると、図中にしばしば方位が表示されています。つまり、絵図形式
道中記も同様ですが、紙の天地の幅が限定された図鑑の場合は、東海道は一本道として描く
ことになってしまいます。
実際は、場所によっては南北に、あるいは東西に曲がりくねっていた道を右から左へ描いた
ため、宿場や名所旧跡などを除くと、例えば富士山や大山などの遠め近めの山などが目印と
なりました。そこで、自分がいる場所からそれらの目標が果たしてどのように見えるかを描き、
現在地を確認してもらうために方位が側に記されていました。そこで、旅人は図と方位磁石を
合わせてどの方角にどのように富上山が見えるかで、自分の現在地を確認したのです。
こうした絵図中に方位を表示する方法は江戸市中の絵図にもみられるところから、ちょっと
した散歩でも方位磁石は必須アイテムとなっていたにちがいありません。」


神奈川 広重 東海道五十三次細見図会 」。



品川 広重 東海道五十三次細見図会
品川川崎へ二里半
道中風俗
戻り駕籠
同山駕籠
大師参り
飛脚
仕事を終えて・帰り道、すれ違う戻り駕籠が、声を掛け合っているようです。
大師参りは参詣を済ませたのか、みやげらしきものを肩にかけています。 」 



広重 神奈川 東海道五十三次細見図会 
程ヶ谷へ一里九丁
道中風俗
江のしま詣もうで
盲人弁天参り
江の島詣での人々が描かれています。
盲人の江の島参りは、江の島で管鍼の着想を得たという杉山検校にあやかるのでしよう。
女の人たちは、荷物を運んでもらっています。


広重 程ケ谷 東海道五十三次細見図会
道中風俗
大山参りの諸人
宿引
午後遅く宿場を通過しようとする大山詣での人たちが、宿泊を勧める宿引と、
値段の交渉をしているようです。
大山の納め太刀といって、太刀を奉納し、帰りに他の太刀を受けます。
また、天秤で担いでいるのは、神前に御神酒を奉納して、大山でもらった水を、
大事に持ち帰るための御神酒枠(おみきわく)というものです。


広重 戸塚 東海道五十三次細見図会
藤沢へ二里
道中風俗
旅篭屋の留女
旅人
旅行者を宿泊させるために、宿屋の女が強引な客引きをしています。
旅人達は、迷惑そうな顔をしています。 」 


広重 藤澤 東海道五十三次細見図会
平塚へ三里半
道中風俗
草原野休の図
金毘羅参り
六部
順禮
修行者昼寝
六部は旅の宗教者で、側の箱には仏像が入っている。
長距離の旅行者達が、休憩しています。
なんだか楽しそうです。 」 



広重 平塚 東海道五十三次細見図会
大磯へ廿七丁
道中風俗
旅籠屋の座敷
屋どの下女
宿帳付
泊りの旅人
宿屋で食事を済ませて、これから寝ようかというときに、問屋が宿帳を
付けに来たようです。


広重 大磯 東海道五十三次細見図会
小田原へ四里
道中風俗
旅僧
旅虚無僧
田舎医師
ごぜ 旅かせぎ
プロの旅行者達が描かれています。これらの人々は、門付けといって、
人家の前に立って布施を請うて、旅くらしをしました。 」 



藤沢宿を通った人々
近世藤沢宿にはどのような人々が行き交ったのでしようか。
将軍・大名行列
慶長関ヶ原戦に際して、徳川家康の軍団が通行し軍事物資の輸送が行われました。
以後寛永一一年(一六三四)まで京都・大阪などとの将軍の上洛還御の大通行が一一回ほど
行われ、宿場や沿道の民衆に人馬の提供などの役負担がありました。
寛永一二年(一六三五)参勤交代制度が確立すると、大名行列の通行が定期的に繰り返される
ようになり、宿場も次第に整備されていきましたが、宿場および周辺村落の負担も大きく
なりました。
外交使節
朝鮮・琉球など外国使節も藤沢宿を通りました。琉球の使節は寛永一二年(一六三五)から
嘉永三年(一八五〇)まで一八回派遣されています。琉球使は琉球国王即位を感謝する
恩謝使で、将軍就任を祝う慶賀使とともに派遣されることもありました。琉球使の派遣は
薩摩藩島津氏の監督のもとに行われ、多い時で一七〇人程でしたが、先導する藩士を加えると
四千人余になることもありました。
オランダ商館使節の参府が恒例となったのは寛永一〇年(一六三三)からで当初は正月に、
寛文元年(一六六一)からは三月一日前後に将軍に謁見するようになりました。ケンペル、
シーボルトらは、街道沿線の様子や風俗についてよく観察し、日記に残しました。ケンペルは
藤沢で食事をして、遊行寺に詣でています。またシーボルトは藤沢宿に宿泊しています。
その他の公用交通
日光例幣使は、朝廷から家康廟の日光東照宮礼拝のため毎年派遣された奉幣使(参議の公卿)で、
正保二年(一六四五)以降毎年派遣されました。一行は五〇人程で、往路は中山道経由で、
倉賀野から日光例幣使街道を通り日光霊廟に忌日前日の四月一六日に金の幣帛を奉納、
帰途は江戸に寄り浅草寺に詣で、東海道を帰京しました。
御茶壺道中は、宇治の御茶を茶壺に入れて将軍に献上するための一行です。これは
寛永一〇年に制度化され、東海道通行は往路のみでしたが、元文三年(一七三八)からは
往復東海道を通行しました。御茶壺道中は五摂家や宮門跡に準じた権威をもち、これに遭遇した
大名は駕籠を降りて挨拶しなければなりませんでした。
また、通行に際して、大名に優先して本陣を使用しました。天保三年(一八三二)、保土ヶ谷宿
では茶壺の通行に人足五六七人、馬五五疋を要しています。
なお、熱海の温泉も、はじめは東海道を通って江戸に送られ、将軍に献上されました。
庶民
商人、文化人、芸能者、宗教者をはじめ寺社参詣、湯治客など多くの人々が藤沢宿を
通りました。特に伊勢お蔭参りは時に爆発的流行があり、江戸時代に慶安三年(一六五0 )、宝永
二年(一七〇五)、明和八年(一七七一)、文政一三年(一八三〇)年の四回の流行があり、その度に
街道筋では混雑をを極めました。
藤沢宿の場合は、伊勢参詣を別として、大山、江の島・鎌倉参詣や、箱根・熱海の湯治など
向かう人々が多く通ったという特徴があります。
とくに江の島参詣は、弁財天開帳の年に、より多くの通行がありました。」


ふじさわ宿交流館 浮世絵 絵はがき 」。



ふじさわ宿交流館ポスター に見る ―― 江戸の往還と門前町の賑わい
館内に掲げられた一幅のポスターは、江戸時代の藤沢宿を情趣豊かに再現したものである。
画面中央には東海道の往還がのび、旅人、飛脚、商人、参詣客が行き交う
荷を負う馬の姿や、旅籠の格子越しにのぞく人影、提灯を手にした巡行の人々が、 宿場町の
鼓動を静かに伝えている。
藤沢宿は江戸から六番目の宿場として栄え、門前には遊行寺(清浄光寺)を擁する
信仰の町でもあった。 東海道を往来する旅人のみならず、江の島詣や寺社参詣の人々が集い、
街道と信仰が交差する要衝として独自の活気を帯びていた 。本図は、そうした歴史的背景を
踏まえつつ、往時の町並みと人の営みを一枚に凝縮している。
格子戸、鳥居、橋、そして背後に描かれる松の木立――それぞれが藤沢という土地の記憶を
象徴する意匠 である。単なる観光案内の図像を超え、往還文化の精神を今に伝える視覚的な
物語と言えよう。
現在の街並みを歩くとき、この絵に描かれた人々の足音を想像すれば、日常の風景は一層
奥行きを増す。 藤沢宿交流館のポスターは、過去と現在を静かに結ぶ架け橋 なのであった。




                                 ・・・​ もどる ​・・・



                ・・・​ つづく ​・・・・





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Last updated  2026.03.20 18:51:52
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