JINさんの陽蜂農遠日記

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2026.05.30
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カテゴリ: JINさんの農園
金・銀・銭貨の流通
金・銀・銭貨はそれぞれ金座・銀座・銭座で鋳造された。金座は後藤家が、銀座は
大黒常是が、幕府御用達として代々務めたが、銭座は大名や商人の請負であった。
金貨は小判であれば、1枚を1両とする計数貨幣であり、銀貨は目方を計って使用する
秤量貨幣であった。ただし、のちには定額の銀貨や金単位を持つ計数銀貨も発行された。
銭貨としては寛永通宝が江戸時代を通して発行されたが、後期には銭の流通量に製造が
追いつかず銅が不足するようになり、鉄銭も鋳造された。また、一文銭より高額の四文銭や
百文銭に相当する天保通宝も発行された。
幕府は財政悪化や物価問題、さらには貨幣の流通が活性化し、金銀の需要に対し供給が
不足したことなどに対処するため、
たびたび貨幣の改鋳を行った。元禄期には金銀の含有量を大幅に減らす改鋳が実施され、
幕府財政は一時的に好転したが、米価および諸物価が高騰し、庶民生活は困窮した。
そのため1714年(正徳4)に金銀の品位を元に戻したが、今度は貨幣の流通量が減少して
」経済の停滞を招いた。そこで再度、元文の改鋳で貨を増やした。貨幣量の不足を補う
ための質を下げる改鋳は、幕末にいたるまで数回行われた。」 



金・銀・銭貨 三貨の比率
Gold, Silver, and Iron/Brass Coins: Ratio of the Three Currencies
江戸時代には金貨・銀貨・銭貨がそれぞれ異なる単位のもとに流通していた。
そのため幕府は公定相場を定め、両替の基準とした。
三貨の比率(幕府による公定相場)
一両小判 1両
丁銀・豆板銀(秤量貨幣) 50匁
(1700年〔元禄13〕)
一文銭 4,000~6,500文
(1842年〔天保13〕)」 
銀相場の推移(江戸・金1両につき)
青線:市場相場
赤線:公定相場 60匁
横軸:
・1710年(宝永7)
・1750年(寛延3)
・1800年(寛政12)
・1850年(嘉永3)
・1868年(明治元)
グラフから、市場相場はおおむね公定相場の60匁付近で推移していたものの、時期によって変動していたことが分かる。
銭相場の推移(江戸・金1両につき)
青線:市場相場
赤線:公定相場 4,000文
注記:
1842年(天保13)公定相場引き上げ
公定相場は
4,000文 → 6,500文
へ変更された。
横軸:
・1710年(宝永7)
・1750年(寛延3)
・1800年(寛政12)
・1850年(嘉永3)
・1868年(明治元)
このパネルのポイント
江戸時代には、
・金貨(小判)は「両」
・銀貨(丁銀・豆板銀)は「匁」
・銭貨(寛永通宝など)は「文」
という異なる単位で流通していた。
そのため幕府は
1両=銀50~60匁=銭4,000文(後に6,500文)
という公定相場を定めましたが、実際の市場では需給によって相場が変動していた。



子供遊凧あげくらべ」。



子供遊凧あげくらべ
(こどもあそび たこあげくらべ)
Children's Games: Kite Flying
1805年(慶応1)10月
歌川芳盛/画
遠州屋彦兵衛/版
幕末の物価高騰の風刺画。
子供のあげる凧に価格が上昇した商品名が描かれている。
空高く舞い上がっている凧には、米・酒・錦・雑穀・紙類・紙類・乾物などがある。」


小売物価の推移
Changes in Retail Prices
The price of rice and the three currencies were quoted by money-exchange merchants, and retail
prices fluctuated accordingly.
米や三貨間には両替商による相場が立ち、それにあわせて小売り物価も変動した。」 


物価と相場
貨幣流通の地域的特徴をみると、おもに江戸では金遣い、上方では銀遣いであった。
そのため江戸では金で銀を買う時の銀相場が、大坂(大阪)では銀で金を買う時の
金相場が違った。
大坂の金相場が下落すると、江戸の銀相場が上がり、物価を騰貴させた。銀相場は金銀と
銭との交換比率であるから、金銀貨改鋳に左右されるばかりでなく、銭自体の発行・
流通量からも変動した。このように、三貨は相場によって常に変動したため、日用品の物価の
上下は、庶民の生活に大きな影響をおよぼした。
米相場は三貨と密接な関係をもち、諸物価の高下に大きな影響を与えた。しかし、幕末期に
なると米価は下落したが諸物価は上がり、「諸色高の米価安」という現象が起こってきた。
幕府は米価対策として物価引下げ令を出すとともに、貨幣の改鋳を行うなどして相場の
安定をはかった。
開港後は外国との金銀交換比率の違いから、金貨や銀貨の海外流出が起こったので、
幕府は1860年(万延元)に金貨悪鋳を実施したが、さらなる物価騰貴が発生した。」  


E4 江戸の商業



E4-2 江戸と 上方 」。 



■江戸と上方
政治都市であり大消費都市でもあった江戸には、大坂、京都を中心とした先進地つまり
上方からの物資の供給が必要であった。上方から江戸に運ばれる諸商品を「下り物」と呼んだ。
京都は文化的な伝統や高度な技術に支えられ、衣服・武具・調度品や日用諸道具など
高級品の生産地であった。長崎の輸入生糸や各地方の絹は京都に集められて加工され、
西陣織などの高級織物に仕立てられた。そのため呉服問屋は京都を本拠地として仕入店を
置き、江戸に販売店を持った。
大坂は、西日本の各地と海運で結ばれた諸物資の集散地であった。とくに西廻り航路が
開けると、西日本のみならず奥羽、北陸地方の米や特産物も集まり、全国に販売されて
いった。大坂から江戸に送られる商品は加工された日常必需品が多く、その価格の上下は
江戸の庶民生活にも大きな影響を与えた。」 



■東廻り航路と西廻り航路
Eastbound and Westbound Routes
幕府直轄の年貢を輸送するために開かれた「東廻り航路」と「西廻り航路」は経済の発展に
ともない、さまざまな物資の輸送が行われた。
As the economy developed, the “eastbound” and “westbound” shipping routes,
which were opened to transport annual land taxes under the direct control of
the Shogunate, were used to transport a variety of goods.」 
河村瑞賢による東廻り・西廻り航路の特徴
開設以前
商人負担方式
海難時のリスク→低
    請負料→高
航路開拓以後
幕府による商船の直雇
海難時のリスク→高
    請負料→低↓
リスクを回避するために
・寄港地(湊)を定める
・湊に安全施設を設ける
・沿岸の諸侯・代官に城米運搬の保護にあたらせる
輸送力を高めるために
・頑丈だが帆走性能が低い船から航走性能が高く少なくてすむ船に変更する
地図に示されている主な港
東廻り航路
・江戸
・銚子
・平潟
・荒浜
・石巻
・宮古
・八戸
・青森
・鰺沢
・能代
・酒田
河村瑞賢による西廻り航路
(江戸-大坂-出羽酒田間)
開設年:1672年(寛文12)
目的:出羽国の年貢米を江戸へ運ぶため
特徴
距離は長いが比較的安全
河村瑞賢による東廻り航路
(江戸-陸奥国荒浜)
開設年:1671年(寛文11)
目的:陸奥国の年貢米を江戸に運ぶため
特徴
距離は近いが難所が多い 地図に示されている主な港
西廻り航路
・酒田
・小木
・福浦
・柴山
・温泉津
・赤間関(下関)
・大坂
・大島
・安乗
・下田
・三崎
・江戸



『摂津名所図会』巻之四 大阪部(せっつめいしょずえ まきのよん おおさかぶ)



『摂津名所図会』巻之四 大阪部(せっつめいしょずえ まきのよん おおさかぶ)
The book which the neighboring famous places were illustrated, and was introduced
to be Osaka
1798年(寛政10)
秋里籬島(あきさと りとう)/著
竹原春朝斎(たけはら しゅんちょうさい)/画
小川太左衛門(おがわ たざえもん)ほか/版」
江戸に多くの物資を送り、経済的に栄えていた大阪と、その周辺地域の名所を絵入りで
紹介した地誌書。
見開きは、大坂堂島(どうじま)の米市場のようす。 



大坂堂島(どうじま)の米市場のようす



上方との流通
大阪に集められた大量の日常物資は、海運により江戸に運ばれた。大阪・江戸間を定期的に
航海し、この物資の輸送にあたったのが菱垣廻船(ひがきかいせん)である。
菱垣廻船の運航は当初廻船問屋にまかされていたが、海難事故の処理問題や業者の不正が
続発したため、それに対処する必要が生じた。1694年(元禄7)に十組問屋仲間が結成され、
廻船の管理にあたるようになった。(十組とは、下り荷物を扱う江戸の仕入問屋仲間の
連合体であった。)
1730年(享保15)には酒問屋が十組を脱退し、酒荷専用の樽廻船仲間を結成した。
これにより、菱垣廻船と樽廻船の間で積み荷が競合するようになったが、競合を避けるため
酒は樽廻船のみ、米・酢・酢など七品は菱垣廻船と両積みとし、それ以外は菱垣廻船で
輸送を行うとする積荷協定が結ばれたが、実際には守られなかった。
廻船に積まれて江戸に入ってきた商品は、酒・繰綿・木綿・灯油などの加工品であった。
すべての荷物が水上輸送によって運ばれたわけではなく、絹織物のように高価で湿気を嫌う
商品は、飛脚問屋によって陸上輸送されたものもあった。」 



『改正日本船路細見記(かいせい にほん せんろ さいけんき)



『改正日本船路細見記(かいせい にほん せんろ さいけんき)
Guidebook on Maritime Transportation in Japan.
1842年(天保13)
須原屋茂兵衛、敦賀屋九兵衛 ほか/版
江戸時代の海路や道中の様子、海上や海岸の名所などをまとめた、航海時に用いる案内書。
記載の項目は多岐にわたっており、大坂(おおさか)を中心に、目的地までの情報について、
文章や挿絵などで分かりやすく説明している。」 



■十組問屋の役割
Role of the "Ten Guilds" (tokumi don'ya)
上方から江戸への物資輸送の安全を確保するために、江戸の諸問屋は組合を結成した。
In order to ensure the safety of goods transported from Kamigata to Edo,
the wholesale dealers in Edo formed an association known as the "Ten Guilds".
図中の主な文字
大坂側
・堂島の米市
・雑喉場の魚市・天満の青物市
蔵屋敷
蔵元
蔵掛
問屋
二十四組問屋
十組問屋と交渉を行い、商品を買い集めて江戸に送った。
輸送
菱垣廻船
様々な日用品の輸送
南海路(大阪-江戸)
 独立していた廻船問屋を十組問屋の支配下におくことで、海難事故のリスクをおさえる 
 ことが目的であった
江戸側
十組問屋
上方から菱垣廻船で送られてきた下り物を江戸で販売した。
蔵屋敷
蔵元
蔵掛
問屋
仲買
小売
(振売・棒手振)
消費者
武家社会
・浅草御蔵
・札差(蔵前)
・日本橋の魚市場
・神田の青物市場
旗本・御家人
樽廻船
  1730年(享保15)に
 十組を抜けた酒店組が酒類を中心に輸送
江戸十組問屋仲間
(1700年〈元禄13〉時点の十組)
名称      主な取扱い商品
塗物店組漆器等塗物類
内店組絹布・太物・緞紗・小間物・雛人形
通町組小間物・太物・荒物・塗物・打物
薬種店組薬種・砂糖
釘店組釘・鉄物・銅物類
表店組畳表・青筵
川岸組水油・練綿
紙店組紙・蝋燭
綿店組綿類
酒店組酒・酢



菱垣廻船(ひがきかいせん)」


菱垣帆船模型立面図 」。
江戸時代の物流を支えた菱垣廻船の模型説明。
・大坂―江戸間を結ぶ定期貨物船
・三崎木綿・紙・油・日用品などを大量輸送
・酒類中心の 樽廻船 と並ぶ代表的な商船
・側面の菱形格子(菱垣)が名前の由来
・模型は文化年間(1804~1818)の史料をもとに復元
1500石積



■菱垣廻船(ひがきかいせん)
復元年代:19世紀初期  縮尺:1/10
「天下の台所」大坂と大消費都市・江戸の間には、菱垣廻船という定期船が就航し、
上方から木綿、油、紙などの大量の生活物資を運んだ。菱垣廻船は、酒などを積んだ
樽廻船とならぶ重要な輸送手段であり、その名の由来は、船の側面に菱組の格子が
取り付けてあったことによる。
文化期(1804~18年)に描かれた1500石積の菱垣廻船の図をもとに復元した。」


移動して。



■三井越後屋京本店における奉公人の経歴
Careers of Servants at the Main Store of Mitsui Echigoya in Kyoto
10代前半から入店する大店の奉公人は、厳しい競争におかれていた。最終的に経営に
携われるようになるのは一握りであった。
Servants of large merchant houses who entered in their early teens were subjected
to harsh competition. Only a handful would eventually become involved
in management.」 

1742年(寛保2)三井越後屋京本店採用者35名のうちの宮田善右衛門の場合
年表
1730年(享保15)
 伊賀に生まれる
1742年(寛保2)江戸下り
 京本店出勤
 奉公人請状を出す
 手代奉公の場合、11~14歳が多い
年齢推移
13歳 子供
14歳
29歳 上座
32歳 役頭
34歳 組頭
38歳 支配
42歳 支配役
44歳 後見
48歳 名代
54~55歳 隠居名代
61歳 元締名代
71~73歳 加判名代
73歳没

年表中の説明
平(住み込み)
役付き(住み込み)
通勤支配:重役として通い勤務。このとき初めて妻帯を許される
元締:最高役職の三井の経営に関わる
退職
1802年(享和2)
死去

奉公人の採用
三井越後屋では、1730年(享保15)以降、京店・江戸店にかかわらず、奉公人の採用は京都と
京都周辺の出身者のみを京都で採用し、各所に振り分けた。
中登り(長期休暇)の制度
・勤めの期間中、奉公人がまとまった休みをとれる制度
・入店から7~8年に初登りがあり、その後7年ごとに二度登り、三度登りがある
・初登りは40~45日、二度登り、三度登りは65~70日で旅行に行くこともできた
 但し、二度登りまでに上席に就けないと「片付け」といって退職させられることもあった

1742年(寛保2)採用の35名の昇進の様子
同期採用者全体のなかで、役職以上に就けるものは全体の4分の1程度であった。
円グラフ
・平作 26人(74%)
・上座 1人(3%)
・役頭 2人(6%)
・支配 4人(11%)
・加判役 1人(3%)
・元締 1人(3%)



駿河町越後屋呉服店大浮絵 」。

駿河町越後屋呉服店大浮絵」 | Cultural Japan

駿河町越後屋呉服店大浮絵
The Echigoya dry-goods store at Surugacho in Edo
1745年(延享2)頃
菱川師宣/筆 奥村政信/画
江戸時代の商家では、商品の元値を符丁と呼ばれる隠語で記した。
本資料は同業者間で共通する「通り符丁」の解説書。例えば、綿織物を売った太物店では、
数字の1、2、3、4、5を「キ、千、原、タ、吉」としている。文字の「符丁」は現在あまり
見られないが、市場の競りなどでは、現在も手振りや口唱による符丁が用いられる。」 



江戸店の経営
同業圏辺は当初、急激に膨張した江戸の需要を満たす経済力に欠けていたため、上方はじめ
西国からの商品供給が必要であった。そのため江戸で商売にたずさわる商人も、西国に
本店を置き、江戸に出店を持つことが有利であった。これを「江戸店」と呼んだ。江戸店の
なかでも大きな勢力を持っていたのが、伊勢、近江の商人たちである。大伝馬町に集住する
木綿問屋は大部分が伊勢商人の江戸店であった。また、京都に本店を持つものはとくに
「江戸店持京商人」と呼ばれた。有力な呉服店が多く、三井越後屋もその一つである。
江戸店の経営は支配人にまかされ、主人やその一族は上方の本店に居住し、江戸の商況の
情報を得て、経営を采配していた。
江戸店の奉公人は本店で採用されて江戸に送られた。採用者はすべて男子で、台所その他の
雑用も男子が担当したため、女子の奉公人はいなかった。採用年齢は10歳代の前半であった。
店はそれぞれ店規・店則がさだめられ、人事などの重要事項は本店が管掌した。」


諸商人通用賦帳集(しょしょうにんつうよう ふちょうしゅう)」


諸商人通用賦帳集(しょしょうにんつうよう ふちょうしゅう)
Collection of Common Codes Shared among the Merchants
江戸時代
佐藤徳正斎/撰
和泉屋永吉/版
三井越後屋の店内の様子を描いたもの。
当時、呉服店での支払いは、商人が得意先に商品を持ち込んで販売し、客は年に2・3度
まとめて商品の代金を支払う「節季払い」が一般的だった。
三井越後屋は、店頭での現金決済によって安価に販売する「店前売り」、「現金掛け値なし」
などの商法を用い、大いに繁盛した。」 



E4-3 さまざまな商い



さまざまな商い
大消費都市・江戸では、多種多様な商人が活躍していた。
御用達商人は将軍家や大名・旗本からそれぞれ指定され、武具・呉服類から魚・野菜などの
日用の食品にいたるまで調達していた。江戸根生いの大商人には、魚河岸の問屋商人や
蔵前の札差、深川木場の材木商がいる。各地からの商品の荷受けや仕入れをする問屋の
多くは、同業者同士で株仲間を取り結んでおり、仲買商の手を経て、小売商が庶民相手の
販売をしていた。なお小売商の一種に、桶手職をはじめとする行商人がいた。
江戸時代の初めには商品の売買は市で行われ、物々交換も多かったが、商業の発達に
ともない常設店舗が増え、市は寺社の縁日や祭礼などにあわせて開かれるにすぎなくなった。
魚介類や野菜を小売商や行商人に卸す取引には、魚市場(魚河岸)・青物市場がこれに
あたった。盛り場には露店が出されていたが、そのなかにはやがて常設化するものもあった。」 



■札差(ふださし)の役割
Role of the Rice Brokers (fudasashi)
旗本、御家人に支給される俸禄米の受け取り手続きは複雑であった。その手続きを
仲介したのが札差であった。
The procedures for receiving the stipend rice paid to hatamoto and gokenin were
complicated.The fudasashi brokers took care of these procedures.
旗本・御家人が直接俸禄を受け取る場合は…
蔵米の支給
  2月 1/4を支給
  5月 1/4を支給
 1 0月 1/2を支給
年に3回行う
流れ
① 勘定所 → 切米手形 → 旗本・御家人
② 旗本・御家人 → 切米手形 → 浅草御米蔵
③ 浅草御米蔵 → お米 → 旗本・御家人
④ 旗本・御家人 → お米 → 売却(一部は消費へ)
⑤ 売却代金(お金)を受け取る
「全て自分でこなすため負担が大きい」
札差が仲介して俸禄を受け取る場合は…
蔵米の支給
  2月 1/4を支給
  5月 1/4を支給
10月 1/2を支給
年に3回行う
流れ
① 勘定所 → 切米手形 → 旗本・御家人
② 旗本・御家人 → 切米手形 → 札差
③ 札差 → 切米手形 → 浅草御米蔵
④ 浅草御米蔵 → お米 → 札差
⑤ 札差 → お米 → 米問屋
⑥ 米問屋 → お金 → 札差
⑦ 札差 → お金 → 旗本・御家人
「切米手形を渡すだけとなり負担が軽減」」


『米銭小割早算用(こめぜに こわり はやざんよう)』
A manual of exchange rates for rice and coins (zeni)
1857年(安政4)
井口貞正/編
江戸時代は、金・銀・銭の三貨が併用され、これに米の相場も加わったため、レート換算が
複雑だった。
本書はこの換算をまとめた早見表。日々の相場に合わせたそれぞれの値が一覧表となっている。
米をいつ換金するかで得られる金額が変わったため、このような早見表などを駆使して、
その複雑なレート換算に対応した。」


東都日本橋風景(とうと にほんばし ふうけい)
Nihonbashi Bridge, in the Eastern Capital1804–1818年頃(文化年間頃)
昇亭北寿/画
西村屋与八/版
日本橋を川下から描いた作品。右側は魚河岸、左側は木更津河岸。
右側では押送船が川を遡上し、魚河岸の近くで積荷をおろしている。押送船は風向きを問わず
速く進むため、鮮魚を積むのに適していた。
左側に停泊する大きな船は木更津船。積み替えをすることなく川を遡上することが可能で、
物資や旅客の運送を行った。」 



東都日本橋風景(とうと にほんばし ふうけい)」 をズームして。
 

穀物と魚河岸
江戸幕府の米蔵は、現在の蔵前(台東区)付近に建てられていた。全国の幕領から大量の
年貢米がここに集められた。旗本への俸禄米や幕府財政に必要な米穀が払い出された。
旗本の依頼を受け、俸禄米を受け取り、米問屋に売却して現金化する商人を〈札差〉と
いった。札差はおも米蔵の西の道に沿って店を構えていた。その本来の収入は米蔵の受領・
手数料であるが、これ以外に旗本相手の金融利子により、大きな利益を得ていた。
彼らの豪奢な生活ぶりは十八大通の逸話として伝えられている。寛政の改革では6年以前の
債権を棒引きとし、残余◯◯賦利下げによる棄損礼が出された。これに反発した札差が締賃し
(金融拒否)を行い、一級の金貸しも武家金融を危険視したため、江戸中が一種の
金融パニックに陥った。日本橋の北、本船町から本小田原町一帯には、魚問屋が集住し、
魚市場を形成し、幕府への上納御肴御用も勤めていた。魚河岸に集められた魚類は江戸前と
江戸内海を中心とする武蔵、相模、安房、上総、下総の沿岸でとれたものが最も多かった。
隅田川の河口附近でとれた江戸前の鰻は江戸っ子に好まれ、また初鰹は江戸の初夏の風物
となり、江戸っ子の初物好みを熱狂させた。」


越後屋看板(複製) 」。
この看板に記された
・現銀(げんぎん) = 現金払い
・無掛値(むかけね)
・直(じき) = 正札販売・値切りなし
という言葉は、三井越後屋(現在の三越の前身)が導入した革新的な販売方法を示しています。
当時の呉服店では、武士や裕福な町人を相手に「掛売り(後払い)」が一般的でした。
しかし越後屋は、
1.店頭で商品を並べる
2.誰でも購入できる
3.現金払い
4.定価販売(値切り不要)
という方式を採用した。
これは現在の百貨店やスーパーマーケットの販売方法に近く、「店前売り・現金掛値なし」と
呼ばれ、江戸の商業に大きな変革をもたらした。三越が「日本の百貨店の原点」とされる
理由の一つである。


越後屋看板(複製)
A signboard used by Mitsui Echigoya (Replica)
江戸後期
株式会社三越伊勢丹/原資料所蔵
三井越後屋の商法を端的に表した看板。呉服物品名々と書かれた文字上部の両脇に、
「現銀」「無掛直」とある。
当時の呉服店の商売方法は「節季払い」といって、まとめて後払いとする代わりに、
掛け値という利息をつけることが一般的であった。この販売方法を改め、
購入したその場で現金払いをすることで、掛け値をなくしたことが三井越後屋の発展に
つながったとされる。」 



商人づくし
江戸時代の商売には、三井越後屋に代表される呉服を扱う大店から、日用の食品などを
籠に入れて売り歩く棒手振といった行商人まで、多種多様な業者があった。これら
さまざまな商人たちは江戸時代の「江戸名所図会」などといった◯絵入りの版本などを
みるといたるところに描かれており、江戸の商売の様子を知ることができる。
このうち、店舗を構えた商人について詳細にまとめたものが『江戸買物独案内』である。
刊行されたのは1824年(文政7)のことで、消費者の便をはかるため、江戸のどこに
どのような店があるかを記したものである。商品別に配列されており、上・下・飲食之部の
三冊からなり、2,622の商店を収録している。
上下巻には十組問屋に代表される衣類や・・・・商店が多く記されている。また、食に
関する商売は飲食にを・・・・独立しているように、高級料亭にあたる料理茶屋から
居酒屋までさまざまな飲食店が紹介されており、すでにこの時代・・・産業が高度に
発達していたことをうかがわせる。」 



近世職人絵尽
A Book Full of Modern Craftmen Pictures
1890年(明治23)
狩野晏川/写(北尾政美/原画)
棒切れにたくさんの着物を重ねているのは古着売り。
庶民は着物を古着屋で買うことが多かった。古着屋は神田柳原や日本橋富沢町に多かったほか、
絵のような振り売りの形式で売りに来る者もいた。
江戸時代は三井越後屋のような大店以外にも、中小規模の店や振り売り商人のように、
多様な形態の商いが行われていた。」 



商業宣伝
江戸時代には庶民の購買力が高まり、さまざまな商品が出回るようになり、それにともない
商業宣伝の手段も発達した。宣伝に用いる一枚刷を〈引札(ひきふだ)〉と呼んだ。
引札にはその店の手作りのものから、当代一流の戯作者が広告文を書いたものまである。
山東京伝は紅問屋の玉屋、柳亭種彦は浅草海苔店の引札をつくっている。また山東京伝や
式亭三馬は、自分の店の商品の宣伝文を自作の戯作本のなかに載せている。引札が配る広告で
あるのに対し、今日のポスターのように貼る広告を〈絵ビラ〉といい、湯屋や髪結床に
貼られた。包装紙にも商標や屋号だけではなく広告文を載せたり、薬ならば効能書を
記したりしたものがある。歌舞伎の人気役者が舞台上で商品の口上を述べたこともあった。
商業宣伝の方法としても、ほかに看板・暖簾・印半纏幟や、店名入の貸傘・提灯・大風呂敷・
配り手拭いなどがあげられる。また、錦絵に店舗を描かせたり、番付に店名を記載したり
するのも一種の宣伝といえる。」 



「江戸本町いわしや薬種
Iwashiya Pharmacy in Edo Honcho advertisement for a drugstore
1846年(弘化3)
いわしや嘉右衛門/作
いわしやは、日本橋本町にあった大きな薬屋。当時の地誌『江戸名所図会』にも店先が
描かれている。貫母散、万金丹などの薬のほか、香袋や朱肉、絵具類なども取り扱っていた。」



                                                                                         ・・・​ もどる ​・・



                  ・・・​ つづく ​・・・




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Last updated  2026.05.31 17:36:33
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