JINさんの陽蜂農遠日記

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2026.06.07
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カテゴリ: JINさんの農園
吾嬬の森連理の梓(あづまのもりれんりのあずさ)
The Intertwined Catalpa Trees at Azuma Grove
作者:初代 歌川広重
年代:安政3年(1856)7月
吾嬬の森とは墨田区堤通2丁目にある隅田川神社の別称。
ここには、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が妃の弟橘媛(オトタチバナヒメ)の遺品の
箸を一本塚にさすと一根二幹の楠に成長したという伝説があることから、梓は楠の
誤りだろう。図に見えるひときわ長い樹がそれである。
現在の所在地:墨田区立花」 



以下に続く浮世絵の説明【】内のキャプションは、
浮世写真家 喜千也氏の「名所江戸百景」 ​​ 👈️リンク についての詳細な説明文の一部を
私の学習用に転記させていただきました。

【第31景となる「吾嬬の森連理の梓(あづまのもり れんりのあずさ)」。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征にまつわる神社を描いた春の1枚である。
吾嬬神社の祭神は弟橘媛(おとたちばなひめ)で、夫の日本武尊が合祀(ごうし)される。
社伝では、日本武尊の東国征伐にまつわる入水(じゅすい)伝説に起源を持つという。
一行が船で相模国(現・神奈川県)から上総国(現・千葉県)へ渡る途中に暴風が
吹き荒れたが、弟橘媛が海神の心を静めるために水中に身を投じると、天候が穏やかに
なったそうだ。陸にたどり着いた日本武尊が「吾嬬(あづま=わが妻)恋し」と嘆くと、
弟橘媛の装束が流れて来た。その形見を納めるために、土を盛って築いた塚が、
吾嬬神社の始まりである。
1199(正治元)年には、後に鎌倉幕府の3代執権となる北条泰時が社殿を造営。
鎌倉時代末期に創建の真言宗寺院「寶蓮寺(ほうれんじ、現・江東区亀戸)」が境内を
管理するようになると、「吾嬬大権現社」と称し、武家を中心に尊崇を集めたという
江戸時代、人気を呼んだのが連理の御神木。連理とは、1つの根から幹が2本伸びたり、
別々の木の枝がつながったりすることを言うが、この御神木も入水伝説に由縁を持つ。
日本武尊は塚を築いた後、食事に使ったクスノキの箸を地面に刺して、天下太平を
祈ったと伝わる。やがて根が張り、2本の箸が幹となって巨大な御神木に成長。
連理の樹木は縁結びや夫婦円満の御利益があるとされるため、良縁を求める江戸っ子で
にぎわったそうだ。
では、なぜ画題は「梓」なのか――。現代ではクスノキを「楠」と書くのが一般的だが、
こちらはクスノキ科のタブノキ(別名:イヌグス)を表す文字で、本来は「樟」を使う。
広重がくずし字で画題を書く際に、つくりの真ん中にある「日」を抜かしてしまったと
いうのが定説だ。『絵本江戸土産』の「吾嬬の森」では、ちゃんと「連理の樟(くす)」と
書いているので、字を知らなかったわけではない。
アズサは浮世絵などの版木に使用することが多く、今でも書物を出版することを
「上梓(じょうし)」と言う。広重にもなじみ深い木なので「うっかり筆が滑った」のでは
ないだろうか。】


柳しま
Yanagishima Island
作者:初代 歌川広重
年代:安政4年(1857)4月
亀戸にもある横十間川に北十間川が接する柳島の景色を俯瞰する。このあたりは柳の木が
多かったため柳島村と呼ばれたと伝わる。
赤い柵で囲まれているのが妙見堂で、「柳島の妙見さま」と呼ばれ、葛飾北斎をはじめ
江戸庶民に親しまれた。
現在の所在地:墨田区業平」



浮世絵師の大先輩・葛飾北斎が信仰し、吉運を開いたという柳島妙見の周辺を描いた一枚である。
現在の墨田区南東部の広域に、古くは「柳島」と呼ばれた一帯があった。
広重の時代には、隅田川と中川を東西に結ぶ北十間川(きたじっけんがわ)の南側、
南北を流れる横十間川(よこじっけんがわ)の両岸に「柳島」を冠した町や村が点在した。
この絵は春の景として、横十間川が北十間川と交わる手前に架かる柳島橋
(現・墨田区業平5丁目、江東区亀戸3丁目)周辺を描いている。
中央の建物は柳島橋西詰めにあった料亭「橋本」で、晩春の季語・若鮎(わかあゆ)の料理が
評判だった。当時のグルメ本にも載る有名店で、この絵のスポンサーだという説もある。
その左側、朱塗りの塀に囲まれるのが、法性寺(ほっしょうじ)内の「柳島妙見堂
(みょうけんどう)」で、江戸っ子たちは「妙見さま」と親しんだ。横十間川沿いの少し南東は
亀戸になるので、梅の時期には亀戸梅屋敷、藤の時期には亀戸天満宮とともに訪れるのが、
この時代の定番行楽コースだったという。横十間川に浮かぶ屋根舟からは、両国や深川の
旦那衆が舟を仕立てて名所を巡った後、橋本で料理と酒を楽しむ情景が思い浮かぶ。
北西の山は、実は武甲山を中心とする秩父連山であろう】。



四ッ木通用水引ふね
Towboats on the Yotsugi Road Canal
作者:初代 歌川広重
年代:安政4年(1857)2月
四ツ木道と並行する葛西用水を描く。この水路は元亀有上水と呼ばれる上水路で、
のちに物流のための運河に転用された。画面の小舟は水路沿いの道から人の手で引かれて
いるが、これが曳舟の地名の由来である。上方にS字状にカーブした奥の筑波山へと
視線を誘導している。
現在の所在地:葛飾区四つ木」


【第33景となる「四ツ木通用水引ふね(よつぎどおりようすい ひきふね)」。
江戸郊外の交通手段、引き舟を描いた、色遣いの美しい春の1枚である。
題名にある「引ふね(引き舟、曳舟)」は、広重の絵の通り、岸辺から綱で人力によって
引っ張る珍しい舟である。単なる交通手段ではなく、旅先へ向かう際の娯楽の一つでも
あったようだ。
引き舟が浮かぶ細い川は、元々は飲み水用に開削された本所上水(別名・亀有上水)だった。
明暦の大火(1657年)後に、隅田川東岸の人口が急激に増えたことで、越谷付近から利根川
水系の水を引き、葛飾の亀有村や四ツ木村、小梅村(現在の墨田区向島、東京スカイツリーの
西側)などを経由し、本所方面まで給水した。享保の改革(1722年)の際、維持費が理由で
廃止となるが、農業用の水路として残されたのだ。
川沿いの四ツ木通りは、亀有村で水戸街道とぶつかり、柴又帝釈天(たいしゃくてん)への
参詣時にも利用されたので往来が多く、水路も次第に「四ツ木通用水」と呼ばれるように
なったのだろう。水運用に掘削したのではないので、浅い上に狭く、櫓(ろ)や棹(さお)を
使うのが難しいため、舟は陸から人が引っ張った。その風流な光景が定着すると「曳舟川」とも
呼ばれて、江戸の名所となっていく。
広重は、春の風景を鳥瞰(ちょうかん)で描いている。具体的な村名は記されていないが、
引き舟が往来した亀有村から、四ツ木村の南西にあった篠原村(現・葛飾区四つ木)までの
間なのは間違いないだろう。川上に見える橋は水戸街道だと思われるので、その手前の
舟だまり辺りは亀有村だと推測できる。遠くに見えるのは日光連山のシルエットのようだが、
方角的には筑波山と考えるのが妥当だ。
人工の堀川なので直線的なはずだが、随分と蛇行している。明治時代の地図で確認すると、
所々にゆるいカーブがあるだけなので、広重は奥行き感を出すことで川の長さを誇張
したかったのだろう。モノトーンの田園地帯に、水の青と四ツ木通りの黄土色、それを
縁取る緑が美しい曲線を描いて浮かび上がり、かすみの赤や空の濃紺ともコントラストを生む。
こんな絵を見れば、江戸っ子はこぞって柴又へと出掛けたのではと想像してしまう、
計算し尽くした構図だ。
】 


真乳山山谷堀夜景
Night View of Matsuchiyama Hill and Sanya Canal」
作者:二代 歌川広重
年代:安政4年(1857)頃
真乳山は台東区浅草の隅田川沿いにある小山で、山谷堀とは音無川の末流のことである。
ここから猪牙船(ちょきぶね)などに乗り遊客が吉原に向かった。
画面に隅田川対岸の向島から真乳山と山谷堀を望んだ景色である。
現在の所在地:墨田区今戸」 



「第34景となる『真乳山山谷堀夜景』。
数多く登場する桜の中でも珍しい、葉桜を描いた一枚である。
『名所江戸百景』は安政江戸地震(1855)の壊滅的な被害から復興した江戸の姿を描いた
シリーズである。全118景(119枚)のうち3分の1以上の42枚が春の景で、その半分近くの
20枚に桜の花が登場する。春の象徴・桜は、まさに復興を表現するのにふさわしかったのだろう。
これは、その中でも唯一「葉桜」を描いた絵だ。向島・三囲神社(墨田区向島2丁目)近くの
墨堤から、隅田川越しに対岸の山谷堀と聖天宮(しょうでんぐう、現・待乳山聖天、台東区
浅草7丁目)がある待乳山(まつちやま)を望んでいる。
有名な墨堤の桜と、ちょうちんに導かれてお座敷に向かう芸者を「枠」とした広重お得意の
構図だが、花が散りかけた葉桜で、芸者の着こなしや表情がやぼったく、桜の絵としては
寂し気な夜景である。
一方、対岸の山谷堀入り口付近はにぎやかだ。橋脚が見えるのは今戸橋で、その両側の
料亭には煌々(こうこう)と明かりがともり、宴会の笑い声が聞こえてきそうだ。
近くの川面には猪牙舟(ちょきぶね)や屋根舟が数多く浮かんでいる。山谷堀の上流に
あるのは、“毎夜が祭り”の「吉原遊郭」。日本橋や両国辺りの旦那衆は、ここまで舟で
やって来て、腹ごしらえをしてから、山谷堀沿いの土手通りをかごか徒歩で吉原へ向かった
という。
しっとりとした向島側の近景が、主題である対岸の遠景をより華やかに引き立たせている。
空に輝く満天の星、水面に映る星影は、散り落ちた桜の花弁と混ざり合い、「陽」と
「陰」の調和をはかっているようだ。
実は安政江戸地震の翌年の1856(安政3)年、名所江戸百景の刊行開始直後にも大型台風が
江戸の町を襲った。数多くの建物が倒壊や浸水の被害に見舞われ、今戸橋の近くにあった
料亭も損壊したと伝わっている。この絵の年月印は安政4(1857)年8月。たった1年後には、
新しくなった料亭が繁盛し、吉原の毎夜の祭りも復活を遂げたことが読み取れる。
葉桜も江戸時代には、新緑の始まり、暖かい季節の到来を象徴するめでたいものであった。」


隅田川水神の森真崎
Masaki and the Suijin Grove by Sumida River」
作者:初代 歌川広重
年代:安政3年(1856)8月
隅田川神社から向こう岸の真崎を望んだ景色。この地点からは真崎と筑波山を同時に
拝むことはできないが、手前の八重桜をクローズアップして、奥行きのある表現で
画面の風景をまとめている。
現在の所在地:墨田区堤通」 



【第35景となる『隅田川水神の森真崎(すみだがわすいじんのもりまっさき)』。
桜越しの隅田川を、広重お得意の構図で描いた人気の一枚である。
近景の八重桜の花と幹を枠にして、遠景の隅田川と筑波山を描いた、広重らしい構図の絵だ。
右下にある森に囲まれた神社は、隅田川の水神を祀(まつ)っている。向島から北西を向いて
描いているので、隅田川対岸の入り江のような場所が橋場の渡船場で、広重が好んで
題材にした景勝地・真崎(先)稲荷があった辺りである。
筑波山は江戸の北東に位置するため、本来、この方角に望むことはできない。

描き入れたくなったのだろう。】



真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図
作者:初代 歌川広重
年代:安政4年(1857)9月
料亭の見切れた円窓から隅田川をのぞむ。画面左の掛け花入れには椿が生けられているが、
外では梅が咲き春の訪れを告げる。
真崎とは真崎稲荷のことで、水神とは隅田川神社のことを指す。「隅田川水神の森真崎」は 




【第36景となる『真崎辺りより水神の森内川関谷の里を見る図』。
斬新な構図で、隅田川と梅の花、筑波山を描いた、創造力を掻き立てる春の一枚である。
名所江戸百景で最も長い題が付く、梅を描いた春の景だ。桜の絵として有名な
『隅田川水神の森真崎 』とは、対岸からの眺めとなる。
江戸時代、浅草の北、現在の橋場や南千住の隅田川沿いでは、真崎稲荷明神社
(現・石浜神社内の真先稲荷)や石浜神明宮(現・石浜神社、荒川区南千住)が名所であった。
周辺は景勝地で、「真崎」または「石浜真崎」と呼ばれたという。
対岸の向島北部、鐘ヶ淵、隅田村(現在の墨田区墨田付近)方面では、水神
(現・隅田川神社)や木母寺(もくぼじ)が知られていた。広重の時代は隅田川が荒川の
本流で、千住大橋辺りから東へと流れてきた大量の水は、現在の南千住に沿って南へと
急カーブする。そのため、洪水が多い地域で、水神は隅田川の守り神として信奉を集めた。
広重は真崎の料亭から、近景と遠景を組み合わせたお得意の手法で、丸い窓越しに対岸の
上流側を描いている。下から伸びた梅の花、左隅の柱に生けられた白椿から、まだ肌寒い時期
だと分かる。それでも障子を開けて、雁(かり)の編隊が飛ぶ、早春の夕暮れの風景を愛でて
いるようだ。】



隅田河橋場の渡かわら竃
Kilns by the Hashiba Ferry on the Sumida River」
作者:初代 歌川広重
年代:安政4年(1857)4月
台東区橋場から墨田区堤通を結んだ橋場の渡しを描く。画面は渡場方面から対岸を
一望している。
手前の煙は瓦を焼く竈(かまど)から出ている。ここでは他に人形などを焼き、今戸焼と
呼ばれるこの地の名物だった。
現在の所在地:台東区橋場」



【第37景となる「墨田河橋場の渡かわら竈(すみだがわ はしばのわたし かわらがま)」。
渡船場近くにあった窯元の煙越しに、隅田川と対岸の風景を描いた春の一枚である。
「橋場の渡し」は浅草の北東、現在の台東区橋場と墨田区堤通をつなぐ白髭橋
(しらひげばし)付近にあった隅田川の渡船場だ。西岸に真崎稲荷、東岸に白髭神社が
鎮座することから、「真崎の渡し」や「白髭の渡し」とも呼ばれていたという。
近景に描かれた黒いダルマ型の物体は、瓦を焼くための窯である。江戸時代、橋場町から
南の今戸町(現・台東区今戸)にかけては、「今戸焼」と呼ばれる焼き物作りが盛んで、
広重の時代には50軒ほどの窯元があったという。釉薬をかけた高級な陶磁器とは違い、
低温で素焼きした土器や楽焼の類いで、瓦の他、茶わんや湯飲みなどの食器、かめや火鉢、
植木鉢といった生活雑器、招き猫や狐の縁起物も手掛けていた。
隅田川西岸を描いた『名所江戸百景』の「長昌寺(現・今戸2丁目) 宗論芝」を見ると、
瓦窯は人の背丈を超える大きなものだったようだ。
広重は、橋場町辺りの隅田川西岸から、北東を望んでいる。中央の渡し舟の奥に見えるのは、
対岸の「水神(現・隅田川神社、堤通2丁目)の森」で、その右手には花見の名所・隅田堤の
桜が咲き誇る。瓦窯から立ち上る煙の左奥には2つの頂を持つ筑波山が望める。】



廓中東雲
Dawn Clouds over Licensed Quatrter
作者:初代 歌川広重
年代:安政4年(1857)4月
空が白む頃合いの吉原大門で、帰りの客を遊女が見送っている。門前には桜が咲いているのが
見える。
吉原では毎年3月になると桜を移植し、夜桜の名所とされていた。」 



【第38景となる『廓中東雲(かくちゅうしののめ)』。
桜が咲き誇る春の吉原遊郭から朝帰りする江戸っ子の姿に、今に通じる歓楽街の風景を見る。
「廓中」とは、江戸幕府が公認した唯一の遊郭だった「吉原」門内のことだ。
吉原遊郭があったのは浅草の北、「浅草田圃」(あさくさたんぼ、現・台東区千束)と
呼ばれた場所で、堀と高い塀に囲まれていた。
毎年春になると、吉原のメインストリート「仲之町(なかのちょう)」には、客寄せのために
たくさんの桜の木が植えられた。常に桜があるのではなく、その時期だけ移植して竹垣で囲み、
ぼんぼりの明かりで照らしたというのだから、当時の吉原の盛況ぶりがうかがえる。
その満開の桜並木を、広重に限らず、多くの浮世絵師たちが描いている。この絵は題名の通り、
日の出前に東の空が明るくなる時間帯「東雲(しののめ)」の情景である。
吉原へ通う客は、大門(おおもん)から遊郭へと入る。火事などに備えていくつかの門が
あったが、特別な場合を除き、出入り可能なのは北東の大門だけであった。その大門は、
「夜九つ(春分時期は午後11時50分頃)」には閉められてしまう。遊びに夢中でその時刻を
過ぎてしまった客は、空が明るくなり始める「明け六つ(同午前5時10分頃)」に門が
開くまで出られず、朝帰りを余儀なくされた。
そんな吉原の早朝を描いたのが、『廓中東雲』である。吉原には仲之町の両脇に、町が
計7つ並んでいた。桜が植えられた左右方向に通る道が仲之町、木戸の奥に続く道沿いが
角町(すみちょう)と言われている。遊女に見送られる客らは、まだ寒いのか、それとも
ばつが悪いのか、手ぬぐいで頬被りをしたり、頭巾をかぶったりしている。】


吾妻橋金龍山遠望
Distant View of Kinryūzan Temple and Azumabashi Bridge」
作者:初代 歌川広重
年代:安政4年(1857)8月
枕屋の渡しの途中から隅田川下流を望む。吾妻橋と伽藍は浅草寺のもので、橋に架かるのが
吾妻橋。その背景に富士山を描く。
手前に大きく奥行きが強調された船。隅田には桜の花びらが舞う。春ののどかな景色が
演出されている。
現在の所在地:墨田区向島」


【第39景となる「吾妻橋金龍山遠望(あずまばし きんりゅうざん えんぼう)」。
桜吹雪の中、川に浮かぶ舟越しに浅草寺や富士山を望んだ春の1枚である。
近景の屋根舟の周りに降り散る花びらで、花見シーズンだと表現するしゃれた作品だ。
題名の吾妻橋は、屋根と柱に囲まれた遠景に架かっており、その奥には富士山も見える。
金龍山とは浅草寺の山号で、中央付近に五重塔と大きな瓦屋根が描かれている。
江戸時代、隅田川に架かる橋は5本だけだった。長さ76間(約140メートル)の吾妻橋は、
その中で最も遅い1774(安永3)年に完成。通常、これだけ大きな橋は公共事業として
建造するが、吾妻橋は民間人が幕府の許可を得て架橋し、武士以外からは通行料2文
(現在の価値で約65円)を徴収したという。莫大(ばくだい)な資金を投じても、
それ以上の経済効果があると踏んだのだから、この辺りの当時の往来量がうかがえる。
吾妻橋と同じ方角に富士山が見えるため、隅田川上流から下流方向を望んでいる。
浅草寺より上流の隅田川対岸は、桜の名所として知られる隅田堤だ。それなのに、あえて
桜の木を描かないのは広重らしいのだが、そのせいで描いた場所について度々論争になる。
最も多いのは、吾妻橋から約900メートル上流にある三囲稲荷(みめぐりいなり、現・
三囲神社)辺りからという説。その裏付けとなるのが、屋根船の向こう見えるヨシが
生い茂る浅瀬である。三囲稲荷の対岸(西岸)は山谷掘の河口で、周辺にはヨシが
群生していたからだ。しかし、広重が描いた『絵本江戸土産』の「宮戸川吾妻橋」では、
吾妻橋のかなり近くまで浅瀬が続いている。この地点の隅田川東岸は水戸徳川家の下屋敷で、
現在の墨田区立隅田公園(向島1丁目)。地図で隅田公園と吾妻橋、富士山を線で結ぶと
一直線になるが、三囲神社から吾妻橋を望んだ場合、富士山はもう少し右側に見えるはずだ。】


せき口上水端はせを庵椿やま
詳細はピンボケのため解読不能。」  



「第40景となる「せき口上水端はせを庵椿やま(せきぐちじょうすいばた はせをあん
つばきやま)」。
桜色をアクセントにして、のどかな田園風景を描いた春の一枚である。
長く分かりづらい題名だが、「椿やま」は名門結婚式場として知られる「ホテル椿山荘東京」
(文京区関口)周辺の高台のことだといえば、ピンとくる人も多いのではないだろうか。
たくさんのツバキが自生していた関口台地は、古くから「椿山」と呼ばれていた。
景勝地として名高く、江戸時代には大名や武家の下屋敷が並んでいた。南側の斜面下を流れる
神田川は、元々は江戸の町に飲み水を供給するために引かれた「神田上水」だったので、
そのほとりは「上水端」となる。「はせを庵」は、椿山荘の西隣に残る現在の「関口芭蕉庵」の
ことを指す。
井の頭池を主水源とする神田上水は、関口にあった「大洗堰(おおあらいぜき)」で2つの
流れに分岐していた。一方は飲料水(上水)として、石や木材で造った樋(とい)を通じ、
神田や日本橋など江戸の中心部に送られた。残りの水は、飯田橋で江戸城外掘とつながる
神田川へと流れていく。
広重がこの絵を描く180年ほど前、大洗堰付近では大規模な改修工事が行われた。江戸に来て
間もなかった松尾芭蕉(1644-94)は、工事の管理をする事務方として3~4年従事したと
いう。その間に寝泊まりしていたのが、神田上水を守護する水神社近くの水番所だ。
「芭蕉庵」と呼ばれるようになったのは、芭蕉の没後のこと。由縁の地に、弟子らが塚や堂を
建てたのが始まりとされる
広重は大洗堰の西にあった駒塚橋辺りの北岸から、西の上流方向を俯瞰(ふかん)で望んでいる。
芭蕉庵をぎりぎり画角に入れることで、対岸の早稲田の田園風景を遠くまで描き、奥行き感を
生んだ素晴らしい構図だ。一番奥に見える緑の丘は高田馬場のあった台地で、画面左端に
小さく見える朱色の建物は穴八幡宮だと思われる。」 



市ヶ谷八幡
作者:初代 歌川広重
年代:安政5年(1858)10月
JR市ヶ谷駅から森の向こうの山上にあるのが市ヶ谷八幡で、太田道灌が鶴岡八幡宮を
勧請した神社。亀岡八幡とも呼ばれ江戸八幡八景の一つでもあった。
画面は外濠の対岸から斜めに八幡宮付近を見た図である。描かれているとおり、門前町には
茶屋が立ち賑わいを見せた。
現在の所在地:新宿区市谷八幡町」 



【第41景となる『市ヶ谷八幡』。
往来の多い外堀沿いの名所絵には、いつもの広重とは一味違う画風が感じられる。
現在のJR「市ケ谷」駅付近、千代田区九段北と五番町にまたがるように江戸城外堀の
「市ヶ谷御門」があった。桜が咲く春の日に、その門外の土橋の上から堀越しに、
「市谷八幡宮」(現・市谷亀岡八幡宮)と門前町(現・市谷八幡町)の往来を望んだ絵だ。
右上に大きく誇張して描かれた屋根が市谷八幡宮の本殿である。室町時代後期の武将で、
江戸城を最初に築いた太田道灌が1479(文明11)年に創建したと伝わる。江戸城西側を
守護するために、武家の守護神として知られる鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)
から勧請(かんじょう)した。「鶴は千年、亀は万年」にちなんで、当初は「亀岡八幡宮」と
命名したが、皮肉にも道灌は7年後に55歳で謀殺された。

その後、荒廃するが、3代将軍・徳川家光と、その側室で5代・綱吉の母・桂昌院
(けいしょういん)が信仰・寄進したことで、市谷八幡宮として再興した。境内には茶屋や
芝居小屋が並び、山の手地区の粋な旗本やっこや町やっこが参加する華やかな祭礼には、
見物客が押し寄せたという。
市⾕⼋幡宮の左隣は、御三家筆頭・尾張徳川家の広⼤な上屋敷で、敷地内にあった⽕の⾒櫓
(やぐら)と⽩壁が左端に⼩さく描かれている。堀沿いの道は現在の外堀通り。右側に⾏くと
⽜込・⼩⽯川⽅⾯、画⾯の左端辺りで四⾕・⾚坂⽅⾯に向かう外堀通りと、内藤新宿⽅⾯へと
抜けられる現在の靖国通りへと分岐する。今でも交通量の多いところであるが、広重の時代も
行き交う人が多くにぎわいを感じる。しかし、石段や花見台に人影がなく、誰も満開の桜に
見向きもしない。広重一流の暗喩的なメッセージも読み取れず、違和感すら覚える。
実は、この絵の枠外に押してある年月印は、初代広重がコレラで没した翌月の「安政5
(1858)年10月」。当然、初代の絵を死後に刷って発売した可能性はあるが、同じ年月が
押された計3枚の『名所江戸百景』は、描写や構図などからも二世広重が描いた説が有力だ。
実際、「安政6年6月」の改印(あらためいん)を持つ『赤坂桐畑雨中夕景』に「二世広重画」の
落款があるように、弟子が引き継いだことは明らかで、版元が人気シリーズを継続するために
慌てて二世に頼んだという意見にも一理ある。】


玉川堤の花
玉川上水は江戸の人口増加に伴い、神田上水に次いで引かれた上水道である。
四谷大木戸近くの水番屋までは開渠で、そこから暗渠となり、市中に配水された。
図は新宿当たり景色で右手には遊女屋の裏手が見える。
玉川上水の両岸には吉野桜と常陸桜川の桜が植えられたため、江戸っ子は花見の
場所としていた。
現在の所在地:新宿区新宿」



【第42景となる『玉川堤の花(たまがわつつみのはな)』。
江戸の飲み水を支えた玉川上水沿いに咲く、幻の桜の花を描いた一枚である。
玉川上水は、羽村(現在の東京都羽村市)の多摩川から引いた水を、甲州街道の江戸の
玄関口である四谷大木戸近くの四谷水番所まで届ける上水道であった。
この四谷水番所からは暗渠(あんきょ、地下水路)で江戸市中各地へ飲料水として
分配していたという。水番所の西隣は、玉川上水を挟んで南が高遠藩内藤家の下屋敷、
北は甲州街道最初の宿場である内藤新宿だった。
内藤新宿は江戸に近く、岡場所(幕府非公認の遊郭)としてにぎわいを見せていた。
さらに江戸からの客を増やそうと、玉川上水沿いの堤にたくさんの桜を植えて新名所を
作ろうと画策したそうだ。ところが、この私設の桜の木に無許可で「御用木(幕府の樹木)」と
書いたことで幕府の怒りを買い、初めて花が咲く直前の2月に全て撤去されてしまったという。
広重作の満開の桜は、事前に描かれた完成予想図で、この場所は実際には江戸名所に
ならなかったようだ。】


そして 夏の部
日本橋江戸ばし
Nihonbashi Bridge and Edobashi Bridge」
作者:初代 歌川広重
年代:安政4年(1857)12月
大写しの日本橋の欄干から東側を望む。奥には江戸橋が架かっている。手前には桶に入った
鰹が見える。初鰹は江戸っ子がこぞって買いたがる初夏の名物。日の出とともに魚河岸から
仕入れてきたのだろう。
今では橋の上に首都高が走り、魚河岸も、築地、そして豊洲へと移った。現在では見られない
日本橋の在りし日の姿が感じ取れる作品である。
現在の所在地:中央区日本橋」



【第43景
この名所は江戸、そして東京のシンボルの一つ「日本橋」。
東海道五十三次の宿場町を歌った「お江戸日本橋」という民謡があるように、今も昔も
日本道路網の起点としても知られる場所だ。
広重は日本橋の上に立ち、東にある江戸橋方向を見てこの絵を描いている。
手前下に描かれている、桶(おけ)の中の魚は「初鰹(はつがつお)」である。
昔は、初物を食べると75日長生きすると信じられていた。それが「カツオ=勝男」となると、
さらに10倍の750日長生きするのだということで、江戸っ子にとっては
「女房を質に入れてでも食いたい」代物だったようだ。
江戸時代は、この日本橋に魚河岸(うおがし)があったので、広重は夏の名所の代表として
この場所を描いたのだろう。】


日本橋通一丁目略図
Sketch of Nihonbashi Tōri-Itchōme」
作者:初代 歌川広重
年代:安政5年(1858)8月
日本橋の目抜き通り沿い。絵画屋やそのほか種々雑多の一軒一軒が画面の中心に配し、
通りの賑わいを描いている。
日本橋通一丁目は現在の京橋であり、後に近江屋と呼ばれる紙を扱う店などの店屋が
多く軒を連ねていた。
現在の所在地:中央区京橋」



【第44景となる『日本橋通一丁目略図(にほんばしとおりいっちょうめ りゃくず)』。
夏の強い日差しの中、日本橋の「白木屋(しろきや)」前を歩く人々を描いた一枚である。
日本橋通一丁目の白木屋といえば、三井越後屋、下村大丸屋と並んで江戸三大呉服店の
一つに数えられ、広重の時代には誰もが知る大店(おおだな)だったという。
元絵には、その店先が賑(にぎ)わう、夏の風景が描かれている。住吉踊りの一団と三味線を
弾く太夫をはじめ、瓜(うり)売りやそば屋の出前など登場人物が多い。今の時代では
ピンとこないが、当時はいずれも夏を連想させる人々だったのだろう。この絵で興味深いのは、
傘を差したり、菅笠(すげがさ)をかぶったりと、誰一人として顔が見えないことだ。
現在、かつて白木屋のあった場所は、商業施設「コレド日本橋」となっている。】


鎧の渡し小網町
Yoroi Ferry and Koamicho」
作者:初代 歌川広重
年代:安政4年(1857)10月
鎧の渡しは、日本橋川の小網町と茅場町を結ぶ渡しである。その名は源義家が竜神に
鎧を捧げて勝運を祈ったことに由来する、あるいは平将門の伝説に由来するともいわれる。
この辺りは蚊帳の集散地として蔵が多く建ち並び、回船も頻繁に往来した。日傘の女性、
飛び交うツバメ、土蔵の連なる壁越しにした空間に初夏の風物が描かれる。
現在の所在地:中央区日本橋小網町」


【第45景となる「鎧の渡し小網町(よろいのわたし こあみちょう)」。
江戸の水運物流における中心地だった小網町と、渡し場の風景を描いた初夏の一枚である。
東京・日本橋から400メートルほど下流、中央区日本橋兜町の東京証券取引所近くに、
鎧橋(よろいばし)が架かっている。江戸時代、この辺りの日本橋川には約1キロに
わたって橋がなく、「鎧の渡し」と呼ばれる渡し船が往来していたという。
広重はその西岸、茅場町(現・日本橋茅場町)の船着き場付近から、対岸下流方向の小網町
(現・日本橋小網町)に並ぶ白壁の土蔵群を描いている。
江戸城の築城に伴って埋め立てが進む以前は、この辺りまで江戸湾が迫っており、茅場町は
まさにカヤが生い茂る沼地であった。江戸の中心部に至る水路の河口だったため、古くから
水運の要所だったという。『名所江戸百景』が描かれた幕末にも、大きな土蔵が連なり、
川面にはたくさんの荷足船(にたりぶね)が浮かぶ。客を満載にした渡し船の他、
現在のタクシーのように人を運んだ猪牙舟(ちょきぶね)が中央を進んでいるので、
人の往来も盛んな場所だったようだ。】



                               ・・・もどる・・・



               ・・・つづく・・・



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Last updated  2026.06.07 00:00:11
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