「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2016.07.09
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カテゴリ: 美術館・博物館

27歳の若さで戦死した青騎士の「マッケ」と、抽象絵画「クプカ」の絵画をご紹介したいと思います(^-^)b

August Macke(German)1887-1914

Lady in a Park 1914

IMG_8088.jpg

『公園の女性』1914年



August Macke・・・とは?
マッケ.jpg

アウグスト  マッケ
August Macke

1887年1月3日 - 1914年9月26日

20世紀初頭に活動したドイツの画家

1910年代にカンディンスキー、マルクらとともに

当時の前衛美術運動であった

「青騎士」のグループに参加し活動した。

マッケは、27歳の若さで戦死したため

その活動期間は数年間にすぎなかったが

単純化された形態と幻想的な色彩を特色とするマッケの絵画は、

表現主義とも抽象絵画とも一線を画した独自の様式を築き上げた。



修業期~「青騎士」

マッケは1887年、ドイツ北西部、現在は

ノルトライン=ヴェストファーレン州のメシェデで生まれた。

1904年から2年ほど

デュッセルドルフの美術アカデミーに学んだ。

この頃の作品としては、

1906年作の『自画像』などが残っている。

その後、1907年には、

美術コレクターのベルンハルト・ケーラーの経済的援助を得て、

パリに滞在。

後にマッケの妻となったエリーザベトは、

このケーラーの姪(めい)であった。

パリでは特にセザンヌの作品に触れ、影響を受けた。

パリ滞在の後、ベルリンに移り、

ドイツ印象派の画家である

ロヴィス・コリント(1858 - 1925)の

アトリエに数か月間通った。

コリントは、ドイツ印象派の代表的画家であるとともに

表現主義的傾向の強い画家である。

初期には印象派やセザンヌの影響から

スタートしたマッケの絵画が

転機を迎えるのは1910年、

「青騎士」の主要メンバーの一人である

フランツ・マルクに出会った頃からである。

「青騎士」

(デア・ブラウエ・ライター/Der Blaue Reiter)は、

ロシア出身の画家で抽象絵画の創始者の一人である

ワシリー・カンディンスキーと、

ミュンヘン出身のフランツ・マルクを中心に

ミュンヘンで活動した前衛画家のグループである。

グループの活動自体は、

1911年と1912年の2回のグループ展の開催と、

年刊機関誌『青騎士』の刊行(結局1回しか刊行されなかった)を行った後、

第一次世界大戦の勃発を受けて短命なものに終わったが、

20世紀美術のその後の動向に

大きな影響を与えた運動として重要視されている。

「青騎士」の2回の

グループ展の参加者の顔ぶれを見ると、

ドイツ表現派の代表的画家であるキルヒナーのほか、

20世紀絵画に特異な位置を占める

クレー、ドローネー、フォーヴィスムのドランと

ヴラマンク、キュビスムのピカソなど

多彩な画家が参加している。

そこには共通した画風や傾向は見られず、

むしろ、当時の前衛美術のさまざまな傾向を集めた観がある。

マッケは1910年、

ミュンヘンで初個展を開催中であったマルクに会い、

翌年にはマルクの住んでいたジンデルスドルフに滞在している。

また、1911年から翌年にかけて

クレーやドローネーと知り合っている。

マッケは、これらの画家たちから影響を受け、

中でもドローネーの色彩の影響が強く感じられる。

マッケは、上記2回の「青騎士」展(1911・1912年)に参加するとともに、

1912年5月のゾンダーブント展(ケルンで開催された現代美術展)、

同年3月のベルリン新分離派展、

1913年9月のドイツ秋季サロン展(ベルリン)などの

重要な展覧会に相次いで出品している。


【チュニジア旅行~早すぎた晩年】

1913年秋から翌年にかけては、

スイスの景勝地トゥーン湖畔に滞在して制作した。

湖の風景や湖畔を散策する人々を題材とした作品が残っている。

没年となる1914年の4月には、

クレー、ルイ・モワイエ(スイス出身の画家で、

クレーをマッケに紹介した)とともに

アフリカの地中海岸にあるチュニジアへ旅行している。

この旅行は、チュニス、ハマメット、カイルアンなどの都市をめぐり、

わずか2週間ほどの滞在であったが、

チュニジアの風景と鮮烈な色彩は

画家たちに強い衝撃を与え、

マッケはこの旅行中に代表作に数えられる

数十点の水彩画を残している。

この旅行は、

同行したクレーにとっても、

画風の転換をうながす重要なものであった。

このチュニジア旅行から帰ったマッケは

新たな画風を模索していたが、

マッケに残された時間はあまり多くなかった。

1914年8月、第一次世界大戦が勃発し、

この大戦でマルクを含む多くの芸術家も犠牲になった。

マッケは、同年9月26日、シャンパーニュの前線で戦死した。

まだ27歳の若さであった。


【作風】

マッケは「青騎士」のメンバーであったことから、

ドイツ表現主義に分類されることも多いが、

その絵画には、

他の表現主義の画家に見られるような

政治的・思想的な主張や生の感情をぶつけたような色彩感覚は見られない。

マッケの絵画は、

むしろ、キュビスムやドローネーから強く影響を受けており、

セザンヌやキュビスムの影響を受けた

理知的な画面構成、

単純化された形態、そ

してドローネーの影響を受けた鮮烈な色彩に

その特色がある。

マッケの作品のうち、

純粋な抽象絵画は、実験的に制作した数点を見るのみで、

基本的には、具象画家であり、

戸外を散策する人物などの

日常的な題材を好んで取り上げた。

人物や樹木などの形態は単純化されているとはいえ、

キュビスムの形態ほどには解体されておらず、

現実感を保っている。

一方、独特の色使いは、

自然の色彩の再現から離れ、

絵画独自の表現を追求したものと言える。

マッケは、1914年(没年)のチュニジア旅行で多くの水彩画を残し、

水彩画家としても高く評価されている。


【代表作】

妻の肖像 1909 ミュンスター、ヴェストファーレン州立美術館

青い湖のほとりの人々 1913 カールスルーエ市立美術館

緑の上着の婦人 1913 ケルン、ヴァルラフ=リヒャルツ美術館

帽子屋の前で(赤い服の婦人と子供) 1913 個人蔵

牛とラクダのいる風景 1914 チューリヒ美術館


【マッケの水彩画】

明るい家 1914 個人蔵

トルコ風カフェ 1914 ミュンヘン、レンバッハハウス美術館

カイルアンIII 1914 ミュンスター、ヴェストファーレン美術館

チュニス近郊サン・ジェルマン 1914 ミュンヘン、レンバッハハウス美術館

Frantisk Kupka(Czech)1871-1957

Mme Kupka Among Verticals 1910-11

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フランティセック クプカ 『垂直線の中のクプカ夫人』1910-11

クプカは、この絵を製作するために、

妻の未完成の肖像に手を入れたと後で述べました。

推理小説の始祖といわれるエドガー・アラン・ポーは、

小説の中で、奥さんをレンガの壁の中に塗りこんだ。

と言う怖いお話がありますが・・・

クプカは、、

夫人を色とりどりの明るい縦の線の中に、閉じ込めました。

かろうじて、女性の顔だけが・・・幽かに見える。

死に顔のような、目と鼻と口の一部だけ見えて



これは画家の妻に対する憎しみ?

殺意によるものではない。

むしろ、やさしさが込められている。

立ったままの棺に納められて、

ありったけの花々ではなく、

あるだけの絵の具で縦に埋め尽くされている。

顔だけを残して。

おれはお前に死んでほしいと思ったことなど一度もない。

ずっと一緒に生きていくものだと思っている。

だから、おれをおいていかないでくれ!!

その気持ちを込めておまえの肖像画を描く。

お前には、どこにも行ってほしくないから。

おれの色に閉じこめて置く。

明るいおまえのこころは、オレンジ色。

思いやりのある正しい生き方は、肌色と茶色。

おれのせいでおまえに降りかかった憂愁は、青色だ。

さぁ、お前、目を覚ますのだ。そして出て来てくれ。

動いておくれ。おれの囲いを破って。

いろんな色を身にまとっていいから。

お前の好きな色の服を着ていいから・・・

フランティセック・クプカ・・・とは?


クプカ.jpg

František Kupka

フランティセック・クプカまたは、フランチシェク・クプカ



1871年9月23日 - 1957年6月24日

20世紀の画家

抽象絵画・非具象絵画の最初期の作家の1人

遅くとも、1911年から1912年にかけて制作された抽象作品が存在する。

フランチセック・クプカと表記する場合もある。

オーストリア=ハンガリー帝国領東ボヘミア(現チェコ)のオポチノに生まれ、

パリ郊外のピュトーにて没する。

ウィーンの美術アカデミーで学ぶ。

初期には、

幻想的な具象絵画を制作している。

その後パリに移り、

具象絵画から、

キュビスムの影響を受けて次第に抽象化が進み、

1911年から1912年ごろには

完全な抽象絵画に至った。

1910年代、1920年代は、

カラフルで有機的な抽象作品であったが、

1931年には、

アプストラクシオン・クレアシオンの主要メンバーともなり、

1930年代には、幾何学的傾向が強まっていった。

一般に、オルフィスムの画家に分類されることが多い。

【日本における主要な展覧会】

クプカ展(1994年・愛知県美術館・宮城県美術館・世田谷美術館)

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最終更新日  2016.07.09 13:22:17
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