PR
カレンダー
カテゴリ
私が、いちばん好きなアーチスト「アンリ・マティス」の作品をニューヨーク近代美術館
(MOMA)の5階で、ゆっくり鑑賞です~(2016年4月2日午前中)
Henri Matisse(French)1869-1954
Goldfish and Palette 1914
アンリ・マティス作『金魚とパレット』 1914年
(パリ・サン‐ミシェルの波止場1914年秋にて)
Henri Matisse(French)1869-1954
The Moroccans 1915-16
マティス作『モロッコ人たち』1915年-1916年
Henri Matisse(French)1869-1954
La Serpentine 1909
アンリ・マチス『サーペンタイン池』1909年
マティス初期の彫刻で、最も大胆な作品です。
それは、女性の自然主義的な表現として始まり
マティスは、あらゆる形を徐々により細長くしました。
そして、簡単に体のリズムをあらゆる角度から認識できるようにしました。
結果は、徹底的に固体のリズミカルな空間が蛇状のものの中から生まれ
しかしマティスは、解剖学的正確さを目指していませんでした。
彼は、女性の形に興味を起こし
具体的な存在として完全な不足によって強調されると言うより
むしろ展望として解釈されなければなりません。
アンリ・マチスは、画家として有名ですが
彫刻も彼にとっては、重要な作品であります。
1900年ごろ最初のブロンズの姿をつくって以来
ずっとマチスは、絵画と彫刻を製作し続けました。
「彫刻」により・・・心の感情を整理して
絵画への目的を養ったのであります♪
マティスは、絵のためのモチーフとして彫刻を多用したのです。
Henri Matisse(French)1869-1904
Tiari 1930
(MOMA)ニューヨーク近代美術館には・・・
アンリ・マティスの絵画と共に彫刻も展示されていて楽しめました
Henri Matisse(French)1869-1954
The Red Studio 1911
マティス作『赤いスタジオ』1911年
Henri Matisse(French)1869-1954
The Yellow Curtain 1915
マティス作『黄色のカーテン』1915年
Henri Matisse(French)1869-1954
Dance(I) 1909
マティス作『ダンス( I )』1909年
エルミタージュ美術館で、有名な「ダンス」ですが
ニューヨーク近代美術館の『ダンスI』も・・・
踊る女性たちの躍動感が溢れています~
この作品は、ロシアのコレクターが
自宅に飾る為に絵画として注文した作品です。
Henri Matisse(French)1869-1904
Music(Sketch)1907
マティス作『音楽・スケッチ』1907年
(ユルユール・春‐夏)
Henri Matisse(French)1869-1904
Goldfish and Sculpture 1912
マティス作『金魚と彫刻』1912年
Henri Matisse(French)1869-1904
Periwinkles/Moroccan Garden 1912
マティス作『ツルニチニチソウ・モロッコの庭』1912年
(タージルにて)
Henri Matisse(French)1869-1904
The Blue Window 1913
マティス作『青いウィンドウ』1913年
マティスHenri Matisse・・・とは?
アンリ マティス
Henri Matisse
1869年12月31日 - 1954年11月3日
フランスの画家
フォーヴィスム(野獣派)のリーダ-的存在であり
野獣派の活動が、短期間で終わった後も
20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。
自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と謳われ
緑あふれる世界を描き続けた画家であった。
彫刻および版画も手がけている。
1869年、フランス・ノール県のル・カトー=カンブレジ
( Le Cateau-Cambrésis) に生まれる。
はじめ法律家を志すが、
1890年、盲腸炎の療養中に
絵画に興味を持ち、画家に転向する決意をする。
まず1891年に
パリの私立美術学校であるアカデミー・ジュリアンに入学し、
絵画を学びつつ官立美術学校である
エコール・デ・ボザールへの入学を目指した。
ボザールへの入校は許可されなかったが、
熱意を評価した教官ギュスターヴ・モローから
特別に個人指導を請ける事ができた。
この時、ボザールに入校して
モローの指導を受けていたジョルジュ・ルオーとは生涯の友情を結ぶ。
1898年には、アメリー・パレイルと結婚した。
マティスの初期の作風は
写実的なものを志していたが、
次第に
フィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャンら
後期印象派の影響を受け、
自由な色彩による絵画表現を追究するようになる。
『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、
『ダンスI』(1909年)など、
大胆な色彩を特徴とする作品を次々と発表し、
モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドランらと共に
野獣派と呼ばれるようになる。
しかし、フォーヴィスムとしての活動は
1905年から3年ほどの間だけで、
それ以降は
比較的静かで心地の良い作品を描くようになる。
そのころのマティスの言葉:
『私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい』
本人は、フォーヴィスムと呼ばれ見なされることをひどく嫌った。
線の単純化、色彩の純化を追求した結果、切り絵に到達する。
マティスにとってハサミは
鉛筆以上に素画に適した道具だったのである。
『ジャズ』シリーズなど切り絵の作品を多数残している。
晩年、
南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の
内装デザイン、上祭服のデザインを担当。
この礼拝堂は
マティス芸術の集大成とされ、
切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、
白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像などは、
20世紀キリスト教美術の代表作と目される。
また、
緑好きが高じて一風変わったアトリエを作った。
テーブルの上に所狭しと並べられた多様な花。
身の丈を越す巨大な観葉植物など、
まるで植物園のようであった。
さらに大好きな鳥を多い時には
300羽も飼っていたと云われている。
草花が満ち溢れ、
鳥たちが憩うアトリエから数々の傑作を生み出した。
巨匠が晩年辿りついた癒しに満ちた世界。
名画誕生の舞台となった緑いっぱいのアトリエであった。
そして体力がなくなっていったマティスは
油絵から切り紙絵へと変更する。
アシスタントに色紙を作ってもらい、
はさみで切り抜いて作品を作り上げていった。
体調の変化で作品にも変化が現れ、
自然から受ける感覚、
感触をダイレクトに現すようなことができるようになっていった。
形を見るというより、
花や植物から感じる安らぎを心の目で見ると、
はさみを使うという身体的な動きを通して機能化して表現、
生命そのものの記号になるように求めていったのである。
相撲博物館 SUMO MUSEUM 東京両国 国技… 2024.04.03
相撲博物館 Sumo Museum 2023年9月10日… 2023.10.07
相撲博物館 Sumo Museum 2023年9月10日… 2023.10.06