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「平安時代の随筆 紫式部日記24」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。 水鳥を水の上のものとしてよそごとに見るだろうか、いや、見ない。水鳥が水に浮いているように、私もふわふわと辛い世の中を過ごすばかり、水鳥もそうして気晴らしのように遊んでいるように、見えるけれど実際その身はとても苦しいようだと自分と重ねて見つめずにはいられない。一条天皇が道長様の所をお訪ねになる行幸の日も迫ってきたという事で、道長様は邸内をますます手入れさせ、立派に整えさせなさる。人々は実に素晴らしい菊の株を探し回り、掘り出して献上する。様々に色変りしている菊も、黄色いので見どころがある菊も、様々に植えつけている様子も、朝霧の絶え間に見渡したときには、延命長寿の花といわれる菊だけあって、本当に老いも退いてしまいそうな気持ちがするけれど、どうしてだろうか、そんなに晴れやかな気持ちにはなれない。
2023.12.12
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「平安時代の随筆 紫式部日記23」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。人々は、実に素晴らしい菊の株を探し回り、掘り出して献上する。様々に色変りしている菊も、黄色いので見どころがある菊も、様々に植えつけている様子も、朝霧の絶え間に見渡した時には、延命長寿の花と、言われる菊だけあって、本当に老いも退いてしまいそうな気持ちがするが、どうしてだろうか、そんなに晴れやかな気持ちにはなれない。 まして悩みが人並みの身であったら、この菊を目の当たりにすれば、うきうきもして、若々しい様子で無常の世も暮らしたであろうに。素晴らしい事や素敵な事を見たり聞いたりするにつけても、集中して、気掛かりなことを抱える気持ちに引きずられる面ばかりが強くて、憂鬱で、意図しないところで嘆かわしいことが募っていくのが、とても苦しい。 何とかして今は悩みをすっかり忘れてしまいたい。悩んだところで甲斐がない。こうして一つの事に拘ることは、罪深い事であるようだしなどと考えていると、空が白んできたので、ぼんやりと物思いにふけり、水鳥などが、悩みなどなさそうに遊び合っているのを見る。
2023.12.11
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「平安時代の随筆 紫式部日記22」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。まして、思ふ事の少しもありふれたる身ならよかったのに、好き好きしくももてなし、若やぎて、常なき世も過ぐしてまし。めでたき事、おもしろき事を、見聞きするにつけても、ただ、思ひかけたりし心の引く方のみ、強くて物憂く、思はずに、嘆かしきことの増さるぞ、いと苦しき。いかで今は物忘れしなむ。思ふ甲斐もなし。罪も深かるなりなど、明けたてばうちながめて、水鳥どもの思ふこと無げに遊び合えるを見る。水鳥を水の上とやよそに見む我も浮きたる世を過ぐしつつ何とかして今は、悩みをすっかり忘れてしまいたい。 悩んだ所で甲斐がなく、こうして一つの事に拘っている事は、罪深い事である。そのように考えていると、空が白んできたので、ぼんやりと物思いにふけり、水鳥などが悩みなどなさそうに遊び合っているのを見る。彼もさこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいと苦しかるなりと思ひよそへらる(重ね合わせて考える)一条天皇が道長様のところを、お訪ねになる行幸の日も迫ってきたという事で、道長様は邸内を増々手入れさせ、立派に整えさせなさる。
2023.12.10
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「平安時代の随筆 紫式部日記21」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。どうにかして、今はもう物思いも忘れよう、思ってもしかたがない、悩んでばかりいては、罪も深いことだろうなどと思いなおして、夜が明けてしまえば、ぼんやり眺めて物思いをして、庭の池に、水鳥たちが、物思うこともなさそうに遊びあっているのが見える。水鳥は、只水の上に浮いているものと、他人事のように見るだろうか。いや、他人事ではない。 私も不安定な浮いた人生を過ごしていながら。水鳥も、あのように心ゆくばかりに遊んでいるように見えるが、その身は、たいそう苦しいであろうと、私の身に重ねて思ってしまう。行幸近くなりぬとて、殿のうちをいよいよつくろひみがかせ給ふ。世におもしろき菊の根を訪ねつつ、掘りて参る。いろいろ移ろひたるも、黄なるが見どころあるも、さまざまに植えたるも、朝霧の絶え間に、見渡したるは、げに老いも退ぞきぬべき心地するに、どうした事か。
2023.12.09
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「平安時代の随筆 紫式部日記20」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。菊の色々な色のあせたのも、黄色の菊の見どころがあるのも、さまざまに植えつけているのも、朝霧の切れ目に見渡したところ、その美しい光景は、誠に、菊は不老長寿の象徴という通り、日持ちも良く長く楽しめる花で、老いも何処かへ行ってしまいそうである。増して、何故か、私自身が思うことは、憂愁の思いが少しでも、少ない身であったならば、風流がってみせ、若々しく振る舞い、この無常の世も過ごすのだけれど、私の憂愁は極めて深いものなので、そんな浮わついた気持ちにはなれない。道長一家の繁栄の素晴らしい事や、面白い事を見たり聞いたりするにつけ、俗世間を逃れたい気持ちを、ただ心に決めていた事に魅かれる事ばかりが、強く全てが憂鬱で、思い通りにならず、嘆かわしい事が増え大層つらい。
2023.12.08
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「平安時代の随筆 紫式部日記19」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。紫式部と清少納言の結婚生活は離婚と死別で夫婦関係は解消されてしまった。未亡人になったことが宮廷出仕の1つの動機とも考えられている。清少納言は離婚した後も則光と密会を重ねたが、結婚生活10年で離婚したのが25歳の時。その後中宮定子に仕えたが定子が他界し藤原棟世(むねよ)と再婚し摂津の国へ。源氏物語の作者である紫式部の日記の現代語訳を綴っていきたい。紫式部日記は、中宮彰子の出産前後の出来事を綴っている。手紙のように綴られている他の女房の論評などを書いている。華やかな宮廷生活の中、悩み悶える紫式部の姿が垣間見える。作者の紫式部が一条天皇の中宮彰子に仕えていた寛弘五年の秋から寛弘7年の正月までの宮廷生活の詳細な記録と個人的な思いを述べた部分からなる日記。一条天皇が道長の土御門邸を訪ねて、行幸が近くなったというので、邸内に手を入れて立派にされ、配下の者たちはこぞって、まことに美しい菊の株を探し出しては、根から掘り出して献上する。
2023.12.07
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「平安時代の随筆 紫式部日記18」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。紫式部と清少納言は性格が真逆なことでも知られているが、紫式部の性格を、要約すると人付き合いが苦手や目立ちたくない消極的な性格。これに対して清少納言の性格は、明るく社交的で目立ちたがり屋だった。また二人の性格の違いには父親の教育方針の違いにも影響していたと考えられる。紫式部の父はかなりの堅物で女性らしく振舞うことを重視した厳格な教育方針をしていたようで紫式部の控えめな性格に大きな影響を与えたと言われている。一方 清少納言の父は一流歌人で三枚目の一面を持った人物だったようで、枕草子から伝わってくる清少納言の性格は父親譲りな面があると考えらる。紫式部と清少納言の性格は、人によって好みが分かれる部分でもある。紫式部と清少納言の結婚生活は 紫式部の夫は藤原宣孝で 清少納言の夫は橘則光(たちばなののりみつ)という人物で、紫式部は女の子を授かり、清少納言は男の子を授かっている。また、清少納言は約10年の結婚生活の後に性格の不一致を理由に離婚、紫式部は約2年の結婚生活で夫に先立たれてしまう。
2023.12.06
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「平安時代の随筆 紫式部日記17」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。清少納言は定子に仕え、紫式部は彰子に仕えた。定子と彰子は従姉妹の関係で共に藤原家の女性。紫式部と清少納言は平安京にいた印象が強いが数年地方で暮らしていた時期がある。父親がその地域を治める県知事のため紫式部は、27歳~29歳の頃に福井県で過ごし清少納言は9歳から13歳に山口県で過ごした。紫式部と清少納言は歌人として、共に和歌が百人一首に選ばれている。紫式部と清少納言の二人が残した作品のジャンルは大きく異なり、顕著に文学作品の違いが出て、源氏物語は世界最古の長編小説と言われる。主人公の光源氏を中心にした恋物語で400字詰めの原稿用紙1400枚分にも及ぶ超大作で、今では14か国の32の言語に翻訳され世界中で愛されている。清少納言の枕草子のジャンルは随筆とされ、清少納言が感じた喜びや怒り、興味を惹かれたものや素敵な情景が自由に綴られ、源氏物語は枕草子共に現代人も思わず共感する描写は、1000年前とは思えない作品である。
2023.12.05
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「平安時代の随筆 紫式部日記16」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。紫式部と清少納言が生きた時代の女房には中級から下級貴族の女性が仕えていた。その結果 宮廷には教養のある才女が何人も集まっており高い文化水準が築かれ、その中で枕草子や源氏物語が誕生し平安文化に大きな影響を与えた。紫式部と清少納言とも次女として生まれ、紫式部は3男3女の次女で、清少納言は3男2女の次女で末っ子。父が59歳の時の子で長男とは親子ほども年が離れていた。紫式部と清少納言の本名については今も謎に包まれ、清少納言が清原氏の娘で、紫式部が藤原氏の娘で彼女たちの名前はよくわかっていない。紫式部と清少納言の二人の生年月日を調べても生没年は分からないままだったが勝手に断定付けたものだ。同時代の人物は間違いないが年齢的には清少納言の方が上だったのは間違いないようだ。清少納言の生年は 966年頃で没年は1025年で紫式部の生没年は973年ごろから1014年ごろとされているようだ。
2023.12.04
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「平安時代の随筆 紫式部日記15」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。藤原定子の後宮は知的で明るい雰囲気が漂う場所だったが、藤原定子の崩御後、そのあとを継ぐ藤原彰子の後宮は派手さに欠け、少し堅い印象を受けに至る。そのため、藤原定子の後宮を懐かしむ男性貴族達が多く、紫式部はその事に負い目を感じ、定子の後宮は、紫式部にとって越えなければならない壁だった。紫式部と清少納言はともに現在まで読み継がれている文学作品の作者だ。紫式部は源氏物語を清少納言は枕草子を書いたが、清少納言は966年頃生まれ1025年59歳で没し、紫式部は973年生まれ1031年に58歳で没す。この時代は女流文学が数多く世に出た歴史は日本の誇りと言ってよい。紫式部と清少納言はともに宮仕えしていたが、具体的には天皇の后后に仕え、身の回りの世話や話し相手など、教育係 客人の取次などを行っていた。このように皇后など高貴な人物に仕える女性を女房といい、紫式部と清少納言も女房として宮廷で働いていたが同時期には仕えず面識がない。
2023.12.03
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「平安時代の随筆 紫式部日記14」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。枕草子において藤原定子の後宮の雰囲気を象徴しているのは、藤原定子が知性に溢れる冗談を言い、それを清少納言が褒める場面や、藤原定子と女房達が一緒に賭けを楽しんでいる場面など。藤原定子の後宮では、主君自身がその登場人物登場人物を前面に押し出して積極的に冗談を言える雰囲気が漂い、清少納言もそれに応えられる明るい性格であったことが分かる。紫式部日記において紫式部は、藤原彰子の性格について、非常に品格があり奥ゆかしいながらも、それ故に少し消極的なところがあると評している。ゆえに、藤原彰子の後宮で過ごす上級女房達も恥ずかしがり屋の人が多い。殿上人(天皇が暮らす殿上間に昇る事を許された、男性の上流貴族)が後宮を訪れても、もじもじするばかり。紫式部は、それが悪い評判を、呼んでいると悲観的に捉えていたが、当時の男性貴族にとって後宮は、女房達と会話を楽しみながら和歌に興じる憩いの場だった。
2023.12.02
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「平安時代の随筆 紫式部日記13」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。紫式部は枕草子の記述に見る清少納言とは異なり、むやみに自身の博識さを、披露しようとしない、遠慮がちで引っ込み思案な性格であったと言える。清少納言と紫式部の性格が分かる作風の違いは、2人が仕えていた主君やそれぞれが過ごす、後宮(こうきゅう)の雰囲気も大いに影響していた。後宮は、宮中において皇后や后などが住む奥向きの宮殿を指し、平安時代の後宮は上流貴族達の社交場として、女房達と共に文芸をたしなむ談話室のような役割を果たしていて、藤原定子と藤原彰子、それぞれの後宮の雰囲気は真逆で、枕草子と紫式部日記に記載があります。
2023.12.01
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「平安時代の随筆 紫式部日記12」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。枕草子には、清少納言が幼少期に身に付けた漢詩の知識を巧く披露したり、同じく漢詩の知識をもって、男性貴族と臆せずやり合ったりする場面が、出てくるが、読み取れるのは、清少納言が周囲の視線を気に留めることなく、自身の教養の高さを書き残せる陽気で負けず嫌いな性格である。他方で紫式部は、親しい人々に送る手紙の体裁を取った日記の紫式部日記の中で清少納言のことを、無駄に漢字を書き散らしているのみならず、その知識も大したことがなくて中途半端と痛烈に批判している。しかし、清少納言の作品には紫式部についての言及が見られないため紫式部が一方的にライバル視していたとも推測されているが、加えて紫式部は藤原彰子に漢詩を教える際、人目に付かないように隠れて講義を行っていた。
2023.11.30
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「平安時代の随筆 紫式部日記11」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。一方で紫式部の源氏物語の作風を表現するのは「もののあはれ」という言葉。「もののあはれ」を漢字で表記すると「物の哀れ」となり、現代語訳の意味は「物事の寂しさ」や「しみじみとした情趣」などとなる。平安時代における王朝文学の「もののあはれ」は、目や耳で自然などに、触れることで生ずる感動や趣を書き記すことが、その本来の趣旨である。「をかし」と「もののあはれ」は、両方とも貴族社会の優美な点を描く王朝文学の理念ではあるが、どちらかというと「をかし」は明るく、「もののあはれ」は哀愁を伴うという性質が見出され、このような作風の違いから、清少納言と紫式部の性格が正反対であったといえる。
2023.11.29
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「平安時代の随筆 紫式部日記10」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。清少納言と紫式部は、同じ宮仕えをした女房の立場にありながら、対照的な性格の持ち主であったと言われ、作風にそれが顕著に表れている。清少納言の枕草子を評するとき、「をかし」と称される文学的、或いは美的理念の言葉がよく用いられている。「をかし」を現代語訳すると、興味深いとか、或いは、心が引かれるといった意味になる。平安時代の王朝文学に於いて「をかし」だとされる作風は、多様な風物を感覚的に捉えながらも、明朗、かつ客観的に表現しているのが特徴である。
2023.11.28
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「平安時代の随筆 紫式部日記9」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。源氏物語の長編物語は、貴族たちがこぞって読み、次が読みたいと催促した程。文学好きな仲間達に読んでもらうため、あくまで趣味の一環として書いていた。源氏物語は、いつしか一条天皇の愛読書になり、藤原彰子の父・藤原道長は、その続きを読むために一条天皇が藤原彰子のもとを訪れることで、2人の仲が深まってほしいと考えていたようだ。藤原道長は紙などを紫式部に贈るなどして、彼女の執筆活動を支援していた。源氏物語の内容は、時の帝の子である光源氏と女性達の恋愛模様が中心。物語のなかで、光源氏の一生とその一族の様々な人生を70余りに亘って構成する事で、王朝文化最盛期に於ける宮廷貴族達の華やかな生活を優雅に描いただけでなく、藤原氏全盛時代の貴族社会の苦悩を、克明に描きだした。源氏物語が日本文学史上における傑作中の傑作であるのは、歌人藤原俊成が、源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなりと、源氏物語を読んでいない歌詠みは、誠に残念であるとの言葉で絶賛していることからも感じ取る事が出来る。源氏物語は日本文学に絶大な影響を与え、20ヵ国以上の言語に翻訳された。
2023.11.27
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「平安時代の随筆 紫式部日記8」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。平安時代の女性は学問に触れる機会が少なかったが、紫式部は日本書紀や仏教の経典など様々な書物を読破し更には和歌や琴などの教養も身に付け、それらにも才能を発揮し紫式部は998年頃に、山城守(やましろのかみ)の20歳以上も年上の藤原宣孝(のぶたか)と結婚し一女を授かった。紫式部は、その数年後に藤原宣孝と死別したが源氏物語の執筆を始めたのは、丁度この頃であり、この源氏物語の評判を聞き付けた藤原道長が、娘で一条天皇の妻であった藤原彰子(しょうし)の教育係に紫式部を抜擢。1006年より紫式部は、藤原彰子の女房として仕える事になった。紫式部は1012年頃までは藤原彰子(しょうし)に奉仕し、この期間中に、源氏物語を書き上げたとされている。紫式部が源氏物語を書き始めたのは、夫・藤原宣孝(のぶたか)が亡くなった頃で、具体的には1001~1002年の頃。藤原宣孝の没後、半年ほど経ってからとされ、そのため、紫式部が源氏物語の執筆に取り掛かったのは、夫を失った寂しさや将来への不安を忘れる為だった。
2023.11.26
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「平安時代の随筆 紫式部日記7」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。平安時代の天皇は、複数の后妃を有し、藤原氏などの上流貴族が娘を入内させられたとしても、天皇の寵愛を受けて皇太子となる子どもを授からなければ、摂政や関白への道は閉ざされてしまう。天皇に気に入ってもらえる女性に必要な要素は、高い教養と鋭い才知を持ち合わせていること。藤原氏をはじめとする上流貴族達はこれらを娘に身に付けさせるべく、和歌や漢詩の知識が豊富な女性達を女房として集め、そしてこの女房達が宮仕えの傍ら、仮名文字を用いて執筆活動を行うようになったが当時は娯楽が、多くなく、女房達の日記文学や随筆などの作品は、宮廷や貴族達の間で大評判になる。紫式部の生年は諸説あるが確定していなく、近年の研究では970~978年の間とされ、父は藤原為時(ためとき)は、正五位(しょうごい)に叙された下級貴族だったが、65代花山天皇(かざんてんのう)に漢学を教えるほど優れた学者また歌人でもあったが、紫式部は幼い頃から漢詩文を読める才女だった。
2023.11.25
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「平安時代の随筆 紫式部日記6」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。清少納言による枕草子や紫式部による源氏物語では、宮廷における日々の暮らしや行事などについての描写があり、2人が生まれ育ったのは、下級貴族の家庭だったが、まるで潜入取材をしたかのように宮中の様子を克明に書き記せたのは、彼女達が宮廷に出仕する女房の立場にあった事が大きい。平安時代の女房は、朝廷や高貴な人に仕え、身の回りの世話や来客時の対応など、宮中の雑事を行う女官を指し、女房の名称は、それぞれにひとり住みの房(部屋)を与えられていた事が由来で、清少納言や紫式部の平安時代の女流作家達が、女房の立場を活かし宮中を取材の場とし、そこで得た経験を自身の作品に反映させた。女房は宮中で様々な役割を担っていたが、それらの中で最も重要だったのは、上流貴族の娘に仕える教育係で、平安時代中期より藤原氏が摂政、及び関白の座に就いて摂関政治を行い、中央政界でその権勢を振るっていて、その背景は藤原氏が何代にもわたり、娘の生んだ皇子が即位し皇室の外戚として実権を握っていた。
2023.11.24
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「平安時代の随筆 紫式部日記5」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。平安中期の日本では唐風文化を中心とする大陸の文化を熱心に採り入れた。だが、894年に遣唐使が廃止されて大陸との接触が減少すると、唐風文化を基礎とし日本化された独創的な文化様式が、貴族のあいだで生み出された。この日本独自の文化は国風文化と呼ばれ、浄土教の普及に影響をもたらした。最も象徴的な現象が仮名文字の発達で、元々日本には固有の文字がなかった為、文章を書く際には、中国から入って来た漢字を用いていたが、語順の構成を、日本語の文体にそのまま用いるのは難しい為、6世紀より漢字を日本語の発音に当てはめた万葉仮名、別称、真仮名(まがな)が使われるようになった。万葉仮名を崩し簡略化して創り出された文字が、平仮名や片仮名という仮名文字でそれまで漢字を用いていたのは貴族の男性達で、この仮名文字は多くの女性達にも用いられた。仮名文字が登場してからも、漢字が公的文書などに使われた。仮名文字は手紙を認める際などの私的な場面で使われ、仮名文字の普及により平安時代中期以降、日記文学や随筆、物語などの女流文学が発展していった。
2023.11.23
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「平安時代の随筆 紫式部日記4」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。紫式部は晩年宮中での日常を書いた紫式部日記に清少納言をかなり酷く大した知識もない癖に知ったかぶって、でしゃばって生意気だとか他に書き散らした漢字は間違いがあるとかあのような女は不遇の最期を、遂げると辛辣な内容で書き清少納言以外の女房に対する愚痴も書いている。清少納言は紫式部をどう思っていたかについては文献は一切残っていない。清少納言が紫式部をどう思っていたかは謎で、もしかしたら紫式部を悪く、思っていたかどうかさえ分からない。紫式部の縁者を理屈でやりこめた話で、紫式部の才能に脅威を抱いていたかも噂話では誰も知らないはずである。日本で女流文学が発展を見せ始めたのは、平安時代中期に清少納言や紫式部が、知られるようになり文学や物語の分類で人気を博した事も大きな要因である。現存する日本最古の歌集の万葉集で、多くの優れた女流歌人が詠み世に、出された事も平安時代に女流文学が開花した基盤になったと考えられる。
2023.11.22
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「平安時代の随筆 紫式部日記3」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。紫式部が描いた相当嫌な事柄に対しても宮中に居た年も5年程の違いがあり、例え聞いたとしても明るい清少納言は文に残す程でもないと笑っていた。それよりも面白い事をして過ごせばいいという明るい性格だったと思う。紫式部と清少納言の仲の話が書かれていても清少納言は知る由もなかった。清少納言が紫式部の悪口を書いたかどうかは全く何も資料が残っていない。枕草子から見える清少納言の文とその同時期の彼女の女主人・定子の立場を考えると清少納言が紫式部を悪く言う姿は考えられない。枕草子における紫式部の縁者に対しても、本人の名を直接書いているのではないかと思う。清少納言は天皇の后に教育係として仕えていたが中宮のお産で亡くなり、辞職し再婚していた20歳年上の夫の赴任先であり生まれ故郷の東北で生活。上東門院小馬命婦(こまのみょうぶ)平安時代の女流歌人を育て上げる。源氏物語が書かれた頃から有名で清少納言は紫式部の存在は認識していた。
2023.11.21
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「平安時代の随筆 紫式部日記2」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。藤原彰子が中宮になるが、9年くらいの間手もつけられず放置された。清少納言は993年冬頃から1001年1月藤原定子に仕えたが定子が出産時に、他界し退職した。紫式部は1005年に藤原彰子に仕え清少納言とは接点がない。だが紫式部は日記に清少納言の書物を読み感想を書き悪口と捉えられた。紫式部と清少納言はお互い面識はなく、噂で知っている程度だった。定子が他界し清少納言が宮廷を去った後に紫式部は彰子に仕えた。紫式部は清少納言がいなくなった後彼女と親しかった女房・公達の話を聞いたり、宮廷に広まった枕草子を読んで悪口のような評価を下した。清少納言は本当に紫式部をどう思っていたかは分からないが彼女は定子に、可愛がられ、機転をきかせ面白い事をやってはみんなに褒められた。定子に気に入られていた同僚は沢山いたかどうかは限らない。だが、彼女はそんな事は一切書いておらず皆褒めてくれたと書いている。
2023.11.20
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「平安時代の随筆 紫式部日記1」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。千年前の平安時代に11歳の時、出会った1人の女性を想い続けた男性。枕草子や源氏物語が生まれた時代を生きていた帝の一条天皇である。一条帝の後宮には本来なら一人のはずの后が2人並び立っていた。一人は清少納言が枕草子を執筆し仕えた定子であり、もう一人は彰子。彰子は源氏物語の作者である紫式部の上司だった女性である。華やかで知的な社交場を作り上げた定子と、奥ゆかしく控えめな彰子は、性格も対照的で、ライバル関係だったと思われがちな2人である。彰子は定子の死後、彼女の息子を引き取って育てるなど、必ずしも敵対しライバル関係ではなく、権力争いに翻弄された女性なのかも知れない。7歳で即位した一条天皇は、病気がちで寂しい子供時代を過ごした。両親の折り合いが悪く、父親である円融天皇とあまり会う事がなかった。一条天皇が11歳の年、藤原定子が内裏に来たが、定子は一条天皇の従妹。よく笑う明るい性格で、当時の女性としては珍しく漢詩を読みこなした。
2023.11.19
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「仏とは人が悟りを開き成った」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から243」の研鑽を公開してます。二百四十三段の一八つになった年に、仏とは、どういうものでございますか?と父に質問した。父は、仏とは人が悟りを開き成ったものだと言うが理解できないので、人はどうして仏に成れたのですか?と、また問いかけた。父は、仏の教によって仏に成ると答えるが理解出来ずに、その道を教えてくれる仏自身は、何から教わったのですか?と、また問うたところ、その仏もまた、前の仏の教えによって仏に成られたのだと父は答えるが、理解出来ずに、その教えを始められた第一の仏は、どのような仏ですかと聞いた。父は、空より降ってきたのか?土から湧いてきたのかと答えて笑った。息子から仏の原点について問い詰められ、答えられなく間を置いたあとで、仏とは外にあるものではなく己の心の奥底にあり、外に求めるものではない。苦難に立ち向かう時に己に勝つ事が大切と父は皆に語って面白がっていた。これで徒然草を終了。明日より清少納言と紫式部の関係を載せようと思う。
2023.11.18
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「すべての願いはみな妄想」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から243」の研鑽を公開してます。二百四十一段の三夢幻(むげん)のごとき人生で、何を成し遂げられるか。すべての願いは、みな妄想であり、俗世での願いが心に浮かんだならば、妄信を生み心を惑わすものだと知り、俗世的な欲望を実現する為に何もすべきではない。即座に全てを放り出して仏道に向えば、何の障害もなくて、する事もないのだから、身も心も末永く静かに落ち着いたものとなる。二百四十二段の一永遠に終わりなく、順境(幸福)と逆境(不幸)とにこき使われることは、ただ一途に楽を求めて苦を逃れようとするためである。楽というのは、あるものを好んで愛することである。これを求めれば、終わりがなく、楽しんで欲望することで三つに分けられる。一つは名誉である。名誉には二種類ある。自分がやってきた実績(或は、公的な身分・立場)と自分の持っている才能・技芸の二つの名誉である。楽しんで欲望することの二つ目は色欲(性欲)である。三つ目は食欲がある。欲求は自然の摂理と真逆で、多くは大失態を招き欲求など追求しないに限る。
2023.11.17
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「病気も重くなく死なない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から243」の研鑽を公開してます。二百四十一段の二しかし、まだ病気も重くなく死なない程度だと、誰しもこのままずっと平穏無事だろうと思い込むもので、もっと色々な事をしてから、老後にでも静かに仏道を修めるとしようなどと思っているものだ。病を重くして死に臨む時には、仏道の願いなどはまだ一つも成せていないと語るのも虚しく、ただ年月の怠惰(たいだ/なまけてだらしない)を悔やみ、もし病が治って天寿を全うできるなら、昼夜を問わずに、この事、あの事、すべて怠りなく行う所存ですとか言う。しかし、やがて病気は重症化していき、自我を見失って取り乱したままで亡くなってしまう。このような事が多く、この事をまず、人々は急いで心に刻むべきなのだろう。俗世での願望を果たした後で、暇があったら出家したいものだというのでは、世俗的な欲が尽きるはずもないのだ。
2023.11.16
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「鏡に映る自分の影すらも」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から243」の研鑽を公開してます。二百四十段の三自分と女の落差から自分に自信が持てなくなり、我が身に向かう時には、鏡に映る自分の影すらも恥ずかしく思えて酷く味気ない人生である。梅の花が薫る夜に、朧月の下で恋人を求めて彷徨い歩くのも、恋人の住む家の垣根の辺りを露を分けて帰ろうとする夜明けの空も、我が身の事のように、思えない人は、恋心は分からないし恋愛に夢中にならないほうが良いだろう。二百四十一段の一満月の丸さは少しも留まる事がなく、やがては欠けていく。月に心を留めない人ならば、一夜のうちに満月がそんなにも変わっているようには見えないだろう。病いの重さにしても、とどまる暇はなく死期はすぐに迫る。
2023.11.15
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「お互いに知らない人」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から243」の研鑽を公開してます。二百四十段の二誘う水あれば 小野小町作の歌 わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘ふ水あらば 往なんとぞ思ふなどと言えば、仲人は双方ともに奥ゆかしい人のように言いくるめて、お互いに知らない人を引き合わせることにもなるが、これは何ともつまらないことだ。仲人により結び合わされる男女は、初めにどんな言葉を発するのだろうか。それよりも気楽に合えなかった年月のつらさを、分けて来た葉山の筑波山 端山繁山 しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり 新古今和歌集などと言ってお互いに語り合えるような関係のほうが、話の種が尽きる事が無いだろう。本人ではない人がお膳立てしたような結婚は、何とも気にくわない事が多いもので、仲介者が素晴らしい女を紹介してくれても、その女よりも身分が低く、容姿が醜く、老いてしまったような男だと、こんなつまらない自分のためにあんなに素晴らしい女性が人生を無駄にすることになるのではないかと考えてしまう。
2023.11.14
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「古代中国の天文学」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から243」の研鑽を公開してます。二百三十九段の一八月の十五夜と九月の十三夜は、牡羊座が輝いていおり、古代中国の天文学における婁宿(ろうしゅく)の日(婁宿黄道沿いの28の星座を地球の月日の基準とし、その28宿のうちの一つで月を鑑賞するのに適した日)で、この婁宿の日は、月が清くて明るく、月を見るのに良い夜となる。二百四十段の一海岸で人目を忍んで恋路を走ったとしても、他人の見る目は煩わしいもので、闇に紛れた山で女に逢おうとしても、山守りの目線があったりもする。そう考えると、無理をしてまで女の下へ通っていく男の心情には深くしみじみとした哀れさがあるが、忘れられない事も多いだろう。だが女の親・兄弟から結婚を許されて、ただ自分の家に引き取って生活の面倒を見てやるだけというのは、余り喜ばしいものではない。生活に行き詰まった貧乏人の娘が、親の年ほど離れた老人僧侶や、得体の知れない田舎者の財産に目がくらみ、貰って下さるのならと呟けば、世話焼き役が登場し大変お似合いでなどと言って、結婚させてしまうのは悪い冗談としか思えない。
2023.11.13
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「膝に寄りかかってきた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から243」の研鑽を公開してます。二百三十八段の六7)二月十五日、月が明るい夜。深夜に一人で千本寺を詣でた。後ろから入って、顔を隠して聴聞していると、姿・匂いが美しい女が分け入ってきて、いきなり膝に寄りかかってきた。その芳醇(ほうじゅん)な匂いも移ってくるばかりで、これは都合が悪いと思いその場から逃げ出すと、女は更に寄ってきて同じような状況なので退散することにした。その後、ある御所の近所の古い女房が世間話として、貴方はある女に色を、知らない男だと見下されて、情けない事だと恨んでいる女がいると言われた。私は、そんな事は知りませんでしたと言ってその話を打ち切った。この後になって聞いたところでは、どうやらこの夜に、御局の内より人が、来ていて、その人に仕えている女房の一人を飾り立てていたという。上手くやってあいつに言葉などかけてこい。その有様を帰って報告すれば、きっと面白くなるなどと言って、私を騙して馬鹿にしようとしていたようだ。
2023.11.12
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「行成なら裏書きがある筈」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から243」の研鑽を公開してます。二百三十八段の五4-2)行成なら裏書きがある筈。佐理なら裏書きはないと言ったら、額の裏には塵が積もり、虫の巣で良く分からなくなっている。その汚れを払って拭いて見ると、行成の位署や名字、年号まで、はっきりした裏書きが見えて、みんなに感心された。5)5世紀のグプタ朝時代に仏教の那爛陀寺(ならんだじ)が設けられ、7世紀に玄奘や義浄が留学して仏教教理を学び、那蘭陀寺で、道眼の聖が講義をした。八災を忘れて、誰かこれを覚えていないかと尋ねたが、弟子たちは覚えておらず、事実を伝えると、酷く感心された。6)賢助の僧正に付いて行って『加持香水』を見る事ができた。まだ儀式が、終わってないのに僧正は帰ってしまい、塀の外にも見当たらず、弟子の坊主たちを引き返らせて探させたが、皆同じような坊主の格好なので、探しても見つけられず、かなり時間がかかった。
2023.11.11
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「子どもでも知っている」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百三十八段の三2-3)紫の朱を奪うことをにくむというこの程度の事は子どもでも知っている。昔の人は小さな事でもすごく自讃したものである。 後鳥羽院が、袖と袂とを、一首の歌の中に両方入れたら悪いだろうかと藤原定家に尋ねたところ、『古今集』に『秋の野の草の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらん』という、歌があるので問題はありませんという答えが返ってきた。重要な時に合わせて歌を記憶しておくというのも、歌人の冥加(歌の道の神の加護であり、これは幸運なことであるなどと、大袈裟に書き残されている。九条相国の伊通公(藤原伊通)の款状(かじょう)にも、大した事がない題目を書き載せており、自讃されている。3-1)常在光院のつき鐘の銘は、在兼卿が下書きをした。行房の朝臣が清書をし、鋳型に模そうとする前に、奉行をしていた入道が、その草書を取り出してくれた。花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆという句が草書にある。
2023.11.10
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「男が馬を走らせていた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百三十八段の二1)大勢で連れ立ち花見に行くと、最勝光院の辺りで、男が馬を走らせていた。それを見て、もう一度、馬を走らせれば、馬が倒れて落ちるはずだ。しばらく見ていなさいと言って、皆を立ち止まらせた。その男はまた馬を走らせるが、馬は止まる直前に倒れて乗っている男は泥土の中に転がり込んでしまった。言った通りになったので、みんなが感心した。2-1)後醍醐天皇が、まだ皇太子の頃は、万里小路殿が皇太子の御所だった。堀川の大納言様に用事があって、御所に伺候されている大納言様(源具親)の部屋に参ると、大納言は『論語』の四・五・六巻を広げておられ、皇太子に紫の朱を奪うことをにくむという文を御覧になりたいと希望されたた。『論語』から原文を探していたが、見つからない。尚よく探して見つけよと言いつけられたので、更に捜しているといいながら、その部分であれば、九巻の辺りにと教えると、嬉しいと言いながら、九巻を持って行かれた。
2023.11.09
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「縦にするか横にするか」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百三十七段の一柳箱(やなぎの細枝をたわめて編んで作った蓋付きの箱)に物を置く時、縦にするか、横にするかは、物によって変わり、巻物などは縦に置けば、木の間から、こより(紙縒り)を通して結びつけられる。硯も縦に置けば筆が、転ばなくてよいと三条の右大臣殿(三条実重)は、言われたが、書道で有名な、勘解由小路家(かでのこうじけ)で書に優れた人たちは、縦に置く事がない。必ず、硯は柳箱を横にして置かれていた。二百三十八段の一御随身(ごずいじん)の近友が、自讃(自分の自慢)と言って、自分の自慢話を、七つ書き止めた事がある。その内容は、皆、馬術絡みで取り留めのない物だが、その故事の例を真似て、私にも自讃の事が七つあると書き留めた。
2023.11.08
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「聖海上人は非常に感動し」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百三十六段の三神前にある魔除けの獅子と狛犬が後ろを向いて背中合わせに立っていたので、聖海上人は非常に感動し、何と素晴らしい姿だろうか。この獅子の立ち方は、尋常ではない。何か深い由縁があるのでしょうと、涙を零すほど感動し、この恍惚たる姿を見て鳥肌が立ちませんか。何も感じないのは酷と言う。話を聞いた一同も不審に思い、本当に不思議な獅子狛犬だとか、都に帰り、土産話にしようなどと言い出した。上人は、この獅子狛犬について、もっと詳しく知りたくなり、年配のいかにも詳しく知っていそうな神主を呼んだ。この神社の獅子の立ち方は、私などには計り知れない由縁があると思うのですが、教えて下さいと質問した。神主は、あの獅子狛犬ですか。近所の悪ガキが、悪戯したのですよ。困ったガキどもだと言いながら、もとの向きに戻して、立ち去った。聖海上人の感激の涙は、ただの勘違いで感激しただけだった。
2023.11.07
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「由縁を聞かせて頂きたい」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百三十六段の二聖海上人はその由来を知りたいと思い、年寄りの物知りそうな神官を呼び、お社の獅子の立て方は、他の社の獅子の置き方と違いますよね。ちょっと、その由縁を聞かせて頂きたいと質問したが、その事ですか。どうしようもない子ども達の悪戯ですよ、けしからん事ですと答えた。そのように言いながら、獅子の近くに寄り、正しい向き方に置き直して、立ち去ってしまったので、聖海上人の感涙は無駄になってしまった。京都の亀岡にも出雲があり、出雲大社の分霊を祀った立派な神社である。志田の何とかと言う人の領土で、秋になると、出雲にお参り下さい。そばがきをご馳走しますと言って、聖海上人の他、大勢を連れ出して、めいめい拝み、その信仰心は相当なものだった。
2023.11.06
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「新たな社殿を築いた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百三十六段の一丹波(京都亀岡)に出雲という場所があり、島根県の出雲大社が神霊を、こちらへ来て下さるように祈り願って、新たな社殿を築いた。丹波の領主で志田の男が、秋の頃に、都の聖海上人やその他大勢の人達を出雲に誘い、出雲を拝みにいらして下さい。おもちをご馳走しましょうと言った。聖海上人やその他の人たちは、丹波の領主に付いていって出雲まで行き、それぞれ礼拝して、強い信仰心を起こす事になった。社殿の前にある獅子や狛犬は普通は向き合って置かれているものだが、出雲大社の狛犬は互いに後ろ向きで置いてあり、これを見た聖海上人は、珍しいと酷く感動した。この獅子の立ち方はとても珍しく、何か深い意味があるのだろうと涙ぐんだ。皆さんは、こんな珍しい獅子に気づかないのですか。これを見て何も思わないのであれば残念なことと言った。それを聞いた皆は確かに不思議な獅子の置き方だと思い、本当に他とは違う置き方ですね。都への土産話として語りましょうなどと言う。
2023.11.05
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「主人の居ない家には」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百三十五段の一主人が居る家には、無関係な人が気ままに入って来るという事はない。主人の居ない家には、道行く人も勝手に立ち入るし、狐やフクロウのような動物も人気がない家には、棲家を得たという顔をして入り棲むことになる。更には、木霊(こだま/樹木に宿る精霊)など怪しい霊魂まで現われる。また、鏡には色も形態もないからこそ、すべての影が映るのだろう。鏡に色や形があれば、何も映らないだろう。空っぽの虚空はよく物を包む。私たちの心には様々な思念・感情が浮かんでは消えるが、これは心が虚空だからであろうか。家に主人がいるように、心にも主人がいたら、胸の内に、若干の小さな感情や思念は、妄想が入り込む余地もないだろう。
2023.11.03
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「人が物を質問してきた時」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百三十四段の二人が物を質問してきた時に、まさか知らない事は無いだろうと、本当の事を言うのはばからしいと思うのだろうか、心を迷わすように返事をするのは良くない事である。知っている事でも、もっとはっきり知りたいと思って質問するのかも知れない。また、本当に知らない人がいないとは断言できない。他人はまだ聞き及ばない噂話などを、自分が知っているのに任せて、それにしても、あの人の、あの事は、大変ですねなどとだけ言って手紙を、送れば、なにかあったのですか?と折り返し質問の手紙を、送らなければならないのが、不愉快に感じる。これは、尋ねる人にとっては不快な事であり、世間ではもう古くなった事でも、稀に聞き漏ら人もいるのだから、はっきりしない所のないように告げるのが、どうして悪い事があろうか。このような事は、物事の経験の足りない人がよくやる事で、何も考えなしにする人である。
2023.11.02
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「外見の美しい人の言葉」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百三十三段の一あらゆる事で他人から非難を受けないようにしようと思うならば、何事も、実直にして、人を区別せずに礼儀正しく振る舞い、多くを語り過ぎない事。老若男女に関係なくみんな平等にというのが理想ではあるが、特に若くて、外見の美しい人の言葉の麗しさは、忘れ難いもので、心が惹きつけられる。物事の失敗の要因は、本当は大した事がないのに、物事に慣れて十分に、会得(えとく)する事にしている振りをして自慢したり、高い地位を得て、得意そうな行動をし、人を軽く見て侮るところにある。二百三十四段の一人から何か尋ねられた時に、こんな事は、知らないはずはあるまい。それを事実通りに答えるのは馬鹿げているとでも思うのであろうか。相手の心を迷わすように返事をしているのは、よくないことである。知っていることでも、なお正確に知りたいと思って問うのかも知れない。
2023.11.01
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「父親の前で父の客人と議論」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百三十二段の一すべての人間は、学問がなく、芸能がなく、馬鹿なふりをした方が良い。ある人の子供が、外見は悪くないが、父親の前で父の客人と議論していた。『史書』の文を引用したりして賢くは見えたけれど、目上の人の前で、知識をひけらかし自慢をするのは如何なものかと思った。また、ある人の家で、琵琶法師の弾き語りでも聞こうと思って、まず琵琶を、取り寄せたが、その琵琶の弦の支柱が一つ落ちていて弾くことができず、作って取りつけよと主人が言った。ある男たちの中で人格者に見える男が、古い柄杓の柄はあるかと言うから見てみると爪を長く伸ばしていた。いかにも琵琶を弾きそうな感じだが、盲目の法師の弾く琵琶には、そんなに、気を遣う必要はない。琵琶の道を心得た振りをしているだけかと片腹痛い。柄杓の柄は、檜の木で良くないものとある人も話していたが、老人にとり、若い人のやる事は、少しの事も、よく見えたり悪く見えたりするものだ。
2023.10.31
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「煩わしく回りくどい」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百三十一段の二その場にいた人たちは自然で素晴らしい振舞いだと面白味を感じた。ある人が、この話を北山の太政入道殿(西園寺実兼)に語ったところ、そのような話は、自分には煩わしく回りくどい。鯉を切る人がいないならば、私が鯉を、切りましょうとでも言っていれば、更に良かったのに。どうして、百日の鯉を切ろうと言ったのだろうかと、それを聞いた人が面白い話だと語ったが、確かに面白い言い分である。日常生活では特別な感じに振る舞って趣きがあるようにするよりも、趣きがなくても安らかな方が勝っているのだ。客人をもてなす饗応でも、大袈裟な接待も結構な事だが、ただ特別な事をせずに客人の前に料理を、並べるだけの方が、気疲れしなくて良い。人に物を上げる場合でも、何かのついででなく、これをあげると言った方が真心が伝わる。惜しむふりをして、それが欲しいと言いたくなり、勝負の負けを理由にして上げるなどの事もあるが、人に、嫌味なく自然に物を上げるというのは難しい。
2023.10.30
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「器具を巧みに製作する職人」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百二十九段の一小さな器具を巧みに製作する職人は、少し切れ味の鈍い刃物を使う。彫刻の名人の妙観の小刀はまったく切れないという。二百三十段の一五条の内裏には妖怪が住みついて、藤の大納言様(二条為世)が語るには、夜に黒戸で殿上人たちが碁を打っていると、簾を上げ覗く者がいる。誰だと覗く方を見ると、狐が突っ立って覗いていた。狐だと大声で騒がれ逃げていった。化ける技術が、未熟な狐が、化け損じたらしい。二百三十一段の一園の別当入道(24歳で出家した藤原基氏)は、比類のない料理人である。ある人の屋敷で立派な鯉がでてきた時に、みんなが別当入道の包丁捌きを、見たいと思ったが、名人にたやすく匠の技を求めるのはいかがなものかと、ためらう中、当の別当入道はさりげなく、最近、百日に渡り鯉をさばいており、今日だけ欠かせないので、その鯉を申し受けたいと言われ鯉を調理した。
2023.10.29
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「多くの事柄を書き漏らした」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百二十六段の二山門(比叡山延暦寺)の事は格別に詳しく書けた。九郎判官(源義経)の事は、詳しく知っていて書き記しているが、蒲冠者(源範頼)の事はよく知らなかった。多くの事柄を書き漏らして、武士の事や弓馬の道については、生仏が東国の、生まれである事もあり、武士に詳しく聞いてから書いたのだろう。その生仏の生れつきの声を、今の琵琶法師は学んでいるのである。二百二十七段の一六時礼讃(ろくじらいさん/一日を六時に分けてその度に極楽往生の讃文を唱える浄土門の方法)は、法然上人の弟子の安楽という僧が経文を集めて作り、お勤めしたものである。その後、太秦の善観房という僧が音楽的な節や調子を、定めて声明にしたのが、一念の念仏の最初とされ、後嵯峨院の御代より始まる。法事讃(浄土転経行道の法則を明らかにした方法)も、善観房が始めた。二百二十八段の一千本(京都市上京区千本にある瑞応山大報恩寺)の釈迦念仏(南無釈迦牟尼仏と唱える念仏)は、文永の頃に如輪上人が始められたものである。
2023.10.28
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「神仏の由来を歌いながら」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百二十五段の一磯の禅師の娘は静御前(源義経の愛人)といって、この芸を引き継いだ。これが、白拍手(しらびょうし/男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞)の元祖で、神仏の由来を歌いながら舞い、源光行が多くの舞いを創作した。後鳥羽院も多くの舞いを作り、愛妾の亀菊(承久の乱の一因になったとも、言われる女性)に教えられたということである。二百二十六段の一後鳥羽院の御時、信濃の国司だった中山行長は、学問の道での誉れが高かった。しかし、白氏文集の論議の席において意見を求められた時、七徳の舞の内の二つを忘れてしまい、五徳の冠者という不名誉な渾名を付けられた。行長はそのことを悩んでしまい、学問を捨てて遁世(とんせい)してしまった。慈鎮和尚(じちんかしょう)は、一芸ある者を厚遇しており、身分の低い者でも、技能がある者であれば召しかかえた。そして、この信濃の出家者である行長も、召しかかえて面倒を見たが、この行長入道が、平家物語を作り、生仏という名の盲目の法師に教えて語らせた。
2023.10.27
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「我が家に訪ねて来られ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百二十四段の一陰陽師の安倍有宗(あべのありむね)が、鎌倉より京に上ってきて、我が家(兼好の家)に訪ねて来られ、家に入ってきて、この家の庭は、いたずらに広くて、みっともないものである。道を知る者ならば、まず作物を植えるように努める。細い道一つを残して、みんな畑にしてはどうかと諌められた。確かに、少しの土地でも、いたずらに広く置いておくことは無益であり、野菜や薬草でも植えておいたほうがまだ有益だ。二百二十五段の一多久資(おおのひさすけ)という朝廷に勤めた楽人が申し上げるには、通憲(みちのり)入道が舞いの中から特に面白いものを選び、後に、磯の禅師(静御前の母親)と呼ばれることになる妻に教えて舞わせた。この時の舞いの衣装は、男物の白い着物の水干(すいかん)であり、腰に刀を差して、長い髪を烏帽子に引き入れていたので男舞と言われた。
2023.10.26
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「念仏に勝るものないという」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百二十二段の一竹谷上人が、東二条院様(後深草天皇の皇后)の元へ参られた時に皇后から、亡き人の供養で、勝利・成仏につながるお経はないものかと尋ねられた。光明真言の宝篋印陀羅尼ですと答えたが、弟子たちは何故このように、申し上げなかったのです。なぜ念仏に勝るものないということを、言わなかったのですかと質問した。もちろん、南無阿弥陀仏はうちの浄土宗だから、そう言いたかったが、南無阿弥陀仏で死者を成仏させた上で更に大きな利益まであると書いた経文は見たことがない。どの経典にそんな事が書いてあるのかと、質問されたら、何と答えれば良いのかと思って、根拠とする原典が、確かな真言の陀羅尼(ダラニ/祈りの言葉)を勧めたと申した。二百二十三段の一鶴の大臣(九条基家)は幼い頃に「鶴君」と呼ばれた。鶴を飼っていたから鶴大臣だというのは間違いである。
2023.10.25
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「鐘の音というのは黄鐘調」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百二十段の二鐘の音というのは、黄鐘調(おうじきちよう)であるべきで、無常の、調子であり祇園精舎の無常院の音色でもある。西園寺の鐘も、黄鐘調になるように鋳られたが、何度も鋳かえたけれども出来なく、結局は遠国より探し出した鐘を使うことになった。浄金剛院の鐘の音も、また黄鐘調の音程になっている。二百二十一段の一後宇多天皇の御世である建治・弘安の頃は、賀茂祭の日に無罪放免された罪人が、行列して余興をするが、あの頃は変わった紺色の布、四・五反ほどで、馬を作り、馬の尾や鬣(たてがみ)にろうそくを灯し、蜘蛛の巣の柄の、水干にその飾り馬をつけたのを着ていた。歌の心などと言って賀茂祭に参加していたが、祭りの時にいつも見ている、光景ではあるが、実に興趣のあることをしているなという気持ちだったと、年老いた役人たちが今でも語っている。最近の賀茂祭は、年ごとに飾りが、過剰になっており、放免たちは色々と重い飾りを多く身に付けている。袖の左右を人に持たせて、鉾(ほこ)さえ持てずに息を切らして、苦しんでる有様というのは非常に見苦しいものではある。
2023.10.24
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「舞楽は都に負けてない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百二十段の一何につけても京都から離れた辺境の土地は下品で粗野であるけれど、天王寺の舞楽のみは都に負けていないと言う。それを聞いた天王寺の楽人が、申すには、私どもの寺の舞楽は図竹を使って調律を合わせており、楽器の音の調律が綺麗に整っているという点において、他よりも優れている。理由は、聖徳太子の時代からの調律の秘策である図竹(調律合わせのための笛)を、今に残していて、基準にしているからだ。いわゆる六時堂の前にある鐘の音を、調律に使い、その鐘の音の音程は、黄鐘調(おうじきちよう)そのもの。寺の鐘は暑さ・寒さで伸び縮みするので、音程にも上り下りがあり、二月の涅槃会(ねはんえ)より聖霊会(しょうりょうえ)までの間の音を標準としている。これが秘蔵の調律合わせの方法で、ただこの一調子のみを用いて、全ての楽器の調律を合わせることができると申し上げた。
2023.10.23
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