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「はっきりした事が分からない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百七十三段の一平安初期(9世紀)の六歌仙の一人である小野小町という女性の事は、全く、はっきりとした事が分からない。小野小町の美貌が衰微していく様子が、玉造という書物に書かれている。この玉造という書物は、三善清行(みよしきよゆき)が、書いたという説があり、高野山の弘法大師(空海)の著作の目録にも、玉造という書名が、掲載されているが、弘法大師は承和二年(835年)に亡くなっている。その頃の小町はまだ、十代の子どもだったと推測され、小町の美貌や、才能が開花して、盛りになったのは大師が亡くなった後の事になり、小野小町の事跡についてははっきりしない。
2023.09.09
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「百年生きられる筈の身を損なう」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百七十二段の二色欲にふけって、情愛に流される事で行いを清廉潔白にすれば、百年生きられる筈の身を損なってしまう。命を失うことすら、願うような素振りで、自分が長生きする存在だとも思わずに、好きな方に心を惹きつけられて、長く語られる物語にもなる。身を誤ることは、若いからである。老いた人は精神力が衰えて、欲望も淡く世俗にも疎くなっており、物事に敏感に、感じて動くという事もない。心は必然的に静かになり、無益な事はしない。自分の身を大切にして健康の悩みを減らすように努め、他人に迷惑を、掛けないようにしようと思う。老いた人は生きる知恵において、若い人に、勝っているが、それは若い人が外見的な容姿やスタイルにおいて、老人に勝っているのと同じである。
2023.09.08
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「病気の治癒を神仏に訴える」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百七十一段内政を慎まずに軽んじて、みだりに為政者のほしいままにするなら、遠い国が、陰謀を用いて反乱を起こす日が必ず来る。病気がちの人間が冷たい風に吹かれて、湿気の多い布団で寝て、病気の治癒を神仏に訴えるのは愚かな人のやる事であると医書で言われているようなものである。自分自身の養生や予防をせずに、病気を治すことなどはできないのだ。為政者は、まず目の前にいる人々の悩みを止めて、恵沢(けいたく/めぐみ)を施し、道を正しくすれば、その良い影響が遠くの地域にまで広がっていくという統治のやり方を知らないのだろうか。古代中国の聖王である禹(う/中国古代の帝で、夏朝の創始者)が異民族の三苗を征服した時のように大規模な軍勢を引き返させ、武力を用いない徳政を敷くことには及ばないのである。百七十二段の一若い時は内面の血気が盛んであり、心が物に動かされて異性に対する情欲も多い。自分の身を危なくして無謀に砕けやすい事は、斜面で玉を転がす事にも似ている。美しいものを好んで金銭を費やし、或いは金銭を捨て苔の麓で身をやつし、勇ましい心を高ぶらせ他者と争い、恥ずかしがったり羨んだりして、好む相手や場所もなかなか定まらない。
2023.09.07
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「人の袖の陰から膝の下まで」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百七十一段の一貝覆(かいおおい)という貝を用いたカルタ遊びをする人で、自分の目の前にある貝を、さしおいて、よそを見渡し、人の袖の陰から膝の下まで目を配っている間に、目の前にある貝を人に取られてしまう。貝覆の上手な人は、よその貝まで無理に、取らないが、手近な貝は必ず取り、結果として最も多くの貝を取る。 はまぐりのような二枚貝。おはじき遊びをする時にも、碁盤の隅に石を置いて弾こうとして、目標の石ばかり、見守っていてもなかなか当たらない。自分の手もとをよく見て、ここだという目安をつけて直線にして弾くなら、狙っている石に必ず当たるはずである。全ての事は、外に向かって答えを求めてはならず、ただ自分自身を正せば良い。11世紀の宋の名臣である清献公は、今の自分に出来る善行を実践して、将来の事を問うてはならないと言い、世の中の秩序を保つ政治も、そのようなものではないだろうか。
2023.09.06
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「向き合いたいと思う」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百七十段の二迷惑そうにして相手と話しているのも悪い。相手と話す事に気乗りがしない時、むしろその理由を言ってしまった方が良い。自分も同じ気持ち(関心)を持って、向き合いたいと思う相手が、手持ち無沙汰で暇していて、もう暫く居て下さい。今日は心静かに語り合いましょうなどと言う時には、この限りではない。晋の時代の竹林の七賢の一人である阮籍(三国時代の魏の思想家)のように、青い目と白い目を使い分けることができ、俗っぽい人物と会う時には白い目を、使っていたそうで、客人を歓迎する青い眼をすることは誰にでもあることだ。特に用事もなくて、知人が訪ねてきて、のんびり話してから帰るというのは、嬉しいことであり、また、手紙でも、久しくお手紙を差し上げていませんなどと、書いてあるだけで、とても嬉しいものである。
2023.09.05
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「最近になり使われ始めた言葉」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百六十九段の一何とか式という言い方は、後嵯峨天皇の時代までは使われなかった表現であり、最近になり使われ始めた言葉だとある人が話していた。しかし、平清盛の娘の建礼門院・平徳子に仕えた右京大夫という女房が、平家滅亡後の後鳥羽院の世に宮中に仕えた時、世の式には何も変わりはないのにと書き残している。百七十段の一大した用事もないのに、他人の家に行くのは良くないことである。用事があって行ったとしても、用事が済んだら早く帰ったほうが良い。長居されるというのは、とても厄介で迷惑なことだ。他人と向き合っていると、余計な言葉が多くなり、身体もくたびれて、心も静かに落ち着かなく、様々な事柄に支障が起こりやるべき事もできず、時間ばかりが、流れてしまい、お互いのために何の役にも立たない。
2023.09.04
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「生き続けるのも無駄ではない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百六十八段の一年老いた人が、優れた一事に関する才能があって、この人が死んだ後には、誰にこの事について聞けば良いのだろうかなどと言われるのであれば、老人にとっての味方とも言うべき人物であって、生き続けているのも無駄ではない。だが、その専門について衰退している所がないという。この老人の、一生は全てこの事だけのために費やされてきたんだと、つまらない人生のように思えてしまう。だから、今はもう自分の専門については、忘れてしまったよと言ってしまうのもありだろう。大まかには知っていても、やたらに言い散らすのは、それ程の才能が無いようにみえるし、自然としゃべり散らす中で誤りも出てくるだろう。その事については、はっきりとは確実に知らないがなどと言っていれば、本当に、その道の全てを、大まかに知り尽くした先生のように思われる。まして、老人が知らない事をしたり顔で、大人しく物事を良く知らない若者に、言い聞かせているのを見て、そうではない。老人の言う事は間違っているなど思いながら聞いているのは、とてもやりきれないものである。
2023.09.03
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「自分の長所・美点を誇らず」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百六十七段の二自分の知らない専門の道について羨ましく思うなら、羨ましいことだ。どうしてこの道を選ばなかったのだろうと言っておけばいいのだ。 自分の知識教養を出して人と争うのは、角ある獣が角を傾け、牙がある獣が牙で咬み合うのと同じ類のことなのである。人は、自分の長所・美点を、あえて誇らず、何物とも争わないことを、徳とするものだ。他者より優れている事があるなら、それが欠点ともなる。気品の高さでも、教養・才知の優秀さでも、先祖の名誉でも、人より自分は、優れていると思った人は、例え口に出さなくても、心の中に多くの罪や、過ちが生まれてしまう。自分の長所・自慢など慎んで忘れた方がいい。馬鹿のように見られ、人から自分の発言を訂正されて、災禍を招く原因は、この慢心からなのである。本当に一つの道に精通した者は、自分で明らかに自分の欠点を知っているが故に、いつまでも自分の理想の志が、満たされる事がない。だから、他者に自分の自慢をする事もないのだ。
2023.09.02
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「金銀・珠玉(宝石)の飾りつけ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百六十六段の一世俗の人々が忙しく動いている営み・仕事を見ていると、まるで春の日に、雪仏を作って、そのために金銀・珠玉(宝石)の飾りつけをし、御堂を、建立しようとしているかのようである。御堂が完成するのを待って、すぐに溶けてしまう雪仏を安置することなどできるのだろうか。人の生命は長いと思っていても、下から消えていく生命は雪のように、儚いものである。間もなく人は死んでしまうというのに、それなのに、一生懸命に働き続けて、その成果を長く待っているような人が多い。百六十七段の一ある専門の道に従事する人が、違う専門の道の会合に出席して、これが自分の、専門の集まりであれば、何も言わずに傍観するだけではなかったのにと言った。こういった事を思うのはよくある事だが、もし専門外の事に間違った反論をしてしまえば、酷く下らない人間だと思われてしまうだろう。
2023.09.01
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「日本の陰陽道の始祖」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百六十三段の一太衝(陰陽道でいう9月のこと)の太の字は、太と点を打つのか大と点なしで、良いのかという事で、陰陽に関係する人たちの間で論争になったことがあった。盛親入道が申し上げたのは、日本の陰陽道の始祖の安倍晴明の息子の安倍吉平が、占文の裏に書いた自筆文書が近衛関白の邸宅に残されていた。それには太衝の太の字には点が打たれていたということである。百六十四段の一世の人が会う時には、少しの間も沈黙していることがない。必ずそこには雑談、世間話の言葉がある。その話を聞いていると、多くは無益な雑談である。世間に流布している根拠のない噂話・評判、他人の良い事と悪い事についての雑談、自分と相手にとって失うものばかり多くて、得るものは少なく、こういう世間話の時には、お互いの心に無益・無意味な話をしている自覚がない。百六十五段の一東国(鎌倉)の武士が京の人と交わり、京の貴族が鎌倉で立身出世をする。また、京にある本寺・本山を離れた京の僧侶が、顕教・密教を入り混ぜて自分の宗派と、異なる修行(勤行)をする。自分が属している生活圏の風習から外れた人つまり、本来自分が居るべき場所にいない人というのは、どこか見苦しいものだ。
2023.08.31
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「立春の日より七十五日後」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百六十一段の一桜の花の盛りは、冬至の日より百五十日後とも、春分の日の二日後に、訪れる時正の日から七日後とも言うけど、立春の日より七十五日後でも、桜の花の盛りということでは大きな違いはない。百六十二段の一遍照寺の雑役・労務をしていた法師が、池に来る鳥を日頃から飼いならして、堂の中にまで餌を撒いていた。戸を一つ開けているだけで、数えられないほど、多くの鳥が餌を求めて堂の内部に入ってくる。そこへ法師は自分も入っていき、戸を閉じて、池の鳥を捕えては殺していて、その殺生の様子が外まですさまじく聞こえてくるので、草を刈って聞き咎めて、人に報告した。村の男たちが集まり遍照寺の御堂に入ると、大きな雁が慌てふためきながら逃げまどう中に法師が交じっていて、その雁を、打ち伏せてはねじ殺している有様である。 村の男達は法師を捕まえて、検非違使庁(律令制下の令外官)に、つき出した。その法師は殺した鳥を首に掛けられて、牢獄に投獄された。基俊大納言が別当(検非違使庁の長官)の時の事でかなり昔の話である。
2023.08.30
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「糸を結び重ねた様子」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百五十九段の一蜷(みな)結びというのは、糸を結び重ねた様子が、蜷貝に似てるから、そう呼ぶのだと、ある身分の高い貴人が話しておられた。なので、蜷貝を『にながい』というのは間違いなのである。百六十段の一門に額を飾るのを、額を打つと言うのは正しい言い方なのか。書道の師家の勘解由小路二品禅門(藤原経尹)は、額を懸けると話された。見物の時の桟敷を、打つという言い方も良いのであろうか。普通、天幕を打つとは言う。しかし、桟敷を構えるという言い方もある。護摩を焚くと言うのも良くない。護摩という言葉自体に護摩を焚くという意味が、含まれているので、護摩を焚くとは言わないのでは。修するや護摩するなどと、言うほうが正しいだろう。行法は、法の字を濁音無しで、ギョウホウと言うのは、悪く、濁音できちんと、ギョウボウと言うべきだと、清閑寺の僧正が語った。いつも使う言葉であっても、このような間違った使い方が多いものである。
2023.08.29
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「自然に仏の教えが身につく」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百五十七段の二経典を開き誤りに気付き、物事に触れる事による利益である。信心が起こらなくても、仏の前に座り、数珠を取って経を開いていれば、怠けていても自然に仏の教えが身につくものだ。また、気を散らしながらでも、縄の座椅子に座って座禅を組んでいれば、意図しなくても禅定の悟りの境地に達する事もある。事象と真理というものは、初めから二つが別々のものではない。外見の相や、言葉が道理に反していなければ、必ず自己の内面も悟りに向かい成熟する。無理に不信を言い立てる必要はない。外見だけでも良いので、仏を、仰ぎ見て尊重していれば良いのである。百五十八段の一盃の底に残る酒を捨ててから、人に盃を回す風習をどう思うかと、ある人が、尋ねた。その作法は凝当(ぎょうどう)と言い、底に凝り固まった酒を、捨てるからとある人が答えていたが、凝当ではなく魚道(ぎょどう)と言うと、酒の流れを残して、口がついた部分をゆすいでいるとある人は話していた。
2023.08.28
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「然るべき所を申し請け」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百五十六段の一大臣に任命された人が開催する宴会は、然るべき所を申し請けて行うのが世の常。宇治左大臣殿(1156年の保元の乱で崇徳上皇側に付き戦死した藤原頼長)は、東三条殿に人を集めて宴を開いた。ここは天皇の内裏であったが、大臣から、申請があって天皇は他所へ移動された。大層な縁故がなくても、皇后陛下の、御所なども大臣がお借りすることがあるが、古来からの儀式・慣例・習慣である。百五十七段の一筆を持てば何か書きたいと思い、楽器を手に取れば音を出したいと思う。盃を持てば酒の事を思い、サイコロを見れば博打を思う。心は必ず外部の物事に、触れて動く。仮であっても、不善を為す事に繋がる戯れをしてはいけない。気が向いた時に、仏教の経典を広げてその一句を見れば、何となくその前後の文も見えてしまう。その偶然に見えた文によって、突然、長年の誤り気付く事もある。もし、経典を開かなかったら、この誤りには気づかなかっただろう。
2023.08.27
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「初春を迎える新芽の気」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百五十五段の三枯れ葉が落ちるというのも、葉が落ちてから芽をつけるのではなく、木々で、兆している新芽に堪えきれずに葉が落ちるのだ。 初春を迎える新芽の気を、内部に蓄えているが故に、枯れ葉はあっという間に落ちてしまう。『生・老・病・死』が移り変わることも、この自然の推移と似ている。四季には定まった順序がある。だが、死期は順序を待つということもない。死は、必ずしも前より来るのではなく、いつも背後に迫っているのだ。人は皆、死ぬ事を知ってはいるが、死は急には来ないものと思い込んでいる。死はいつの間にか予期していない時に後ろから迫る。沖の干潟は遥か、彼方にあるけれど、潮は磯のほうから満ちてくるのである。
2023.08.26
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「人の生命・住居・差異・消滅」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百五十五段の二病気をすること、子どもを出産すること、死ぬということは、時機を上手く図ることもできず、順序が悪いからといって止まるという事もない。人の生命・住居・差異・消滅などが移り変わっていくが、これらの大事は、激しい流れの川が勢い良く流れていくようなものだ。僅かの間も流れが滞ることはなく、あっという間に流れ去っていく。なので、仏道修行でも俗世間での行為でも、必ず成し遂げようと思う事であれば、時機ということは関係がない。あれこれの準備は必要なく、足を止めない事だ。春が終わって夏になり、夏が終わって秋が来るというのではない。春は既に、夏の気配を感じさせ、夏は既に秋へと通じ、秋はすぐに寒くなり、十月は、小春日和の肌寒い天気となり、すぐに草は青くなり、梅の蕾も出来てくる。
2023.08.25
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「鉢に植えられた木々」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百五十四段の二障害者を見ていて、やがてはその興味も消えて、見るに堪えなくなり不快に、思われてきた。ただ素直な珍しくもない身体には及ばないと思って、家に、帰った後、自分が趣味で好んでいた盆栽を見て、枝や幹の異様な曲がり具合を、求めて楽しんでいたのは、あの障害者を愛でていたのと同じ事だと思い、急に興味が失せ、鉢に植えられた木々を、全て土ごと捨ててしまったという。当然のことである。当時の身体障害者(不具ゆえ貧しい)に対する貴族階級の、差別意識が反映された段であるが、当然ながら、差別を禁ずる人権思想が、発生するには18世紀のヨーロッパ(フランス)の啓蒙主義やフランス革命を、待たなければならず、日本では20世紀半ばまで、不具・奇形等の身体障害に、対する根強い社会的な差別意識が、なくならないで残っていた。百五十五段の一世間に従う人は、まず物事が上手くいく時機を知らなければならない。順序を、間違うという事は、人の耳に逆らい、相手の心にも逆らうことになり、その事は、成し遂げられないだろう。物事が上手くいく時節を心得なければならない。
2023.08.24
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「鎌倉幕府追討の陰謀に参加」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の151から200」の研鑽を公開してます。百五十三段の一為兼(ためかね/京極)大納言入道が、鎌倉幕府への謀略の疑いで召し捕えられた。武士どもが取り囲んで六波羅探題の幕府による京都の監視機関に連行する様子を、資朝卿は一条の辺りで見ていて、この世に生きたという思い出で羨ましい。為兼大納言入道のような生き方こそ望ましいと言っていた。後醍醐天皇の側近の日野資朝は、鎌倉幕府追討の陰謀に参加したが、佐渡ヶ島に、配流され、1332年6月、元弘の乱の際に佐渡ヶ島で処刑された。百五十四段の一資朝卿が東寺の門に雨宿りしたところ、体に障害を持つ者たちが門の下に、群れ集まっていたが、手足は捻じ曲がっていて、いずれも不具な異形をして、それぞれが類稀な曲者であった。面白いと思ってその様子を見守っていた。
2023.08.23
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「一芸も習得する事はできない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百五十段の一芸能を習得しようとする人は、上手くできないうちは、できるだけ人に、知られないようにして、こっそり練習して上手くできるようになってから、人前に出る事が恥ずかしくないといつも言うものだが、このように言う人は、一芸といえども習得する事はできない。まだ一向に技芸も知らないうちから、上手な先達の中に交じって、怒られようが、笑われても恥じる事なく、平気で過ごして修練に励める者だけが芸を習得する。天性の才能・素質がないが、芸能は停滞せず、自分勝手なやり方をしないで、修練の年月を過ごせば、器用で天性の才能に恵まれる人よりも、遂に技芸が、上手な域に達して、人徳も高まり人から認められるようになり、並びなき、名声を得ることにもなる。天下の芸能の名人でも、最初は無能と言われたり、酷く恥ずかしい思いも、しているものだ。しかし、名人はその道の教えを守って、これを尊重し、無茶をしなかったので、その道の名人となり万人の師匠にもなれたのである。これは、どの道においても変わらない事である。
2023.08.22
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「神域・神事の穢れとなる」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十七段の一お灸による治療の痕は、数が多くなってくると、神域・神事での、穢れとなるという事。これは、最近になって人々が言い出した迷信である。そんな事は、古代の法律・規則(内規)にも書かれていない。百四十八段の一四十過ぎの人は、身体に灸を据えて三里のツボを焼かないと、上気の病に罹ることがある。必ずお灸をすべきなのだ。百四十九段の一鹿の角に鼻を当てて匂いを嗅いではいけない。小さい虫がいて、鼻の穴から入って、脳を食べてしまうと言われている。
2023.08.21
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「気が荒くて飛び上がる癖」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十五段の二落馬の相とはどんな相ですかとある人が秦重躬に質問すると、桃のように、とても丸くて座りの悪い桃尻を持っていて、気が荒くて飛び上がる癖のある馬を好んでいたので、この相を持っていると感じた。今までこの相で見誤ったことはないと答えた。百四十六段の一比叡山延暦寺の明雲座主が、人相見(易者)に会われてお尋ねになり、もしや、私には戦死するような相はないだろうかと。人相見は、確かに、その相が、あると答えた。明雲座主は更に、どのような相だと尋ねたが、戦場での、怪我など心配される身分でもないのに、仮にも、そんな事を心配して尋ねている。これはその事自体が、既に危険の前兆なのですと人相見は申し上げた。果たして、明雲座主は、1183年の法住寺合戦で木曾義仲方の流れ矢に当たって亡くなってしまった。
2023.08.20
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「前世で功徳を積んで生まれた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十四段の一栂尾の上人(明恵上人/華厳宗の僧)が、道を歩いている時に、川で馬を洗う男を、見かけたが、男は『足、足』と言いながら、馬の足を上げさせようとしている。明恵上人は立ち止まり、なんと尊いことだ。あなたは前世で功徳を積んだ方の生まれ変わりであろうか。馬を洗う時にまで阿字阿字とマントラを唱えている。阿字阿字とマントラ(真言宗の瞑想法)深い呼吸で、自分を見つめる。その馬はどなたの馬なのでしょうか。その馬もとても尊い馬のように思えると、尋ねて、馬を洗っていた男は、府生殿(検非違使の下級役人)の馬でと答えた。これは素晴らしい事である。「阿字不生」ですか。「阿字」は全ての根源で、悟りにつながる仏法の奥義です。僧侶としてはこの上なく嬉しいご縁を、結ぶことができたと言って、明恵上人は感涙を拭われたという。百四十五段の一後宇多上皇の随身(警護役)である秦重躬は、北面の武士であった下野入道信願の、乗馬を見て、あの方には落馬の相があり、よくよく気をつけなさいと注意したが、信願はこれを本当だとは思わずに乗馬したら、落馬して死んでしまった。ある道に精通した者の一言は、神の如しと誰もが感嘆した。
2023.08.19
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「趣き深く感じるのに」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十三段の一終の時の素晴らしかった様子などを人から聞くと、ただ静かに安らかに、亡くなったとでも言ってくれれば趣き深く感じるのに、愚かな人は、不思議な、様子を加えて異なるように大袈裟に語ってしまう。故人の語った言葉も振舞いも、自分が好きな方向に作為を加えて褒めちぎるが、その故人の普段の様子からすると、事実とは異なる大袈裟な作為は本意ではない。人間の死という重大事は、神仏の権化であっても定めることなどできない。博学の有識者であっても、人の寿命は予測できないものだ。死にゆく人が、自分の普段の本意と異なる事がなく亡くなっていくのであれば、他人の見聞によってその故人の評価をすべきではないのだ。
2023.08.18
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「恥を忘れて盗みでさえ働く」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十二段の二その人の気持ちになって考えてみれば、本当に愛して思いやっている親や、妻子のためならば、恥を忘れて盗みでさえも働くだろう。であれば、盗人を、縛り上げて間違いだけを厳しく罰するよりは、為政者は世の中の人が、飢えないように、寒くないようにする政治を心がけてほしいものである。人間は安定した生活(収入・収穫)がないと、安定した正しい気持ちを、持つ事ができない。人は困って追い詰められれば盗みを働いてしまうのだ。世の中が治まらずに、飢えや寒さの苦しみが蔓延しているならば、家族のために罪を犯す者は絶えないだろう。人を苦しめて、法律を犯さざるを得ない状況にして、犯罪者を罰するのは、可哀想な仕打ちであるが、どのように人を幸せにすれば良いかということだが、貴族階層が贅沢や浪費をやめ、人民に思いやりを持ち農業に目を向けさせる事が大切であり、そうすれば、下の民衆の生活に利益があることは疑いがない。衣食住が足りていながらも、敢えて盗みをする者が本当の盗人なのである。
2023.08.17
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「荒武者が子供がいますかと問う」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十二段の一心がないかのように見える者でも、良い事を言うものだ。ある恐ろしげな、東国の荒武者が、傍らの人に向かって、あなたには子どもがいますかと問うた。いや、子どもは一人もいませんと答えると、荒武者は、それでは物の哀れさを、お知りにならないでしょうな。情愛のないお心を持っているというのは、とても恐ろしいことです。子どもがいるからこそ、万物の哀れさ(同情心)を知る事ができるのですからと言った。当然のことではある。妻子に対する恩義や愛情の道があればこそ、このような荒くれ者にも、慈悲の心が芽生えたのである。親孝行の心を持たない者も、子どもを持つことで、親の気持ち(恩愛)について知るものである。世捨て人が、家族のいない独り身であるのは当たり前だが、一般に、係累(親族)の絆が多い人は、家族のためにあらゆる事にへつらい、欲望が、深くなるものだが、これを見てむやみに見下すのは間違ったことである。
2023.08.16
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「心優しくて情のある人が多い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十一段の二誠実さがない人に対して尭蓮(ぎょうれん)上人は、それはそうだと思いますが、京の都に久しく住み慣れてくると、京の人が東の人より劣ってるとは思えない。京の人は、心優しくて情のある人が多く、人の頼みを簡単に断る事ができず、言いたい事も言えず、押しに負けて頼みを引き受けてしまったりもする。騙そうと言う意図はなく、ただ貧しくて、約束を守りたい本意があっても、その本意を貫けない事が多く、東の人は、自分の故郷の人ですが、実際には、心の優しさがなくて、人情味にも疎く、愛想もないので、初めから嫌だと、言って断っています。東の人は、家も栄えていて豊かなので、無理な頼みを、断ったとしても、まだ他の人に頼る事ができると世の道理を語られた。このように尭蓮上人の事を発音に関東なまりがあって、荒々しい素振りで、仏の精細な教えもわきまえてない人物と見ていた知人は、この一言によって、逆に心を惹かれたのであり、多くいる僧侶の中で、尭蓮上人が寺を任せられて住職としての地位に就いているのも、柔和な性格の魅力があるからで、そのことによるご利益もあるからなのだろうと思った。
2023.08.15
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「財産が多いのは残念な事」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十段の一自分が死んだ後に財産を残すような事は、頭の良い智者はしない。どうでもいい物を蓄えておくのは格好悪い事であり、価値ある良いものであれば、その物に心が、留まってしまって余計に儚くなる。財産が多すぎるのは、残念な事なのである。私がその財産を頂くという遺族も現れてきて、死後に争いが起こる事も見苦しい。死後に誰かに上げたい財物があれば、生きている間に譲っておいた方が良い。毎日の生活に必要なもの以外には、何も所有しないでいるのが望ましい。百四十一段の一孤児や老人を療育する寺院である悲田院の尭蓮(ぎょうれん)上人は、俗姓は、三浦の何とかいい、並ぶ者のない強い武者だったようで、ある日、尭蓮上人の所へ、故郷の相模国から知人が来て語り合った。東の人は言う事が信頼でき、京の都の人は、受け答えの印象は良いが、誠実さがないと故郷の知人はいう。
2023.08.14
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「京極様の南面に二本の梅がある」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十九段の二一重の梅が咲いて、早々と散るのは、春を思う心がはやり経つようで面白いと、京極入道中納言様は、一重の梅を自邸の軒近くに植え、京極様の屋敷の南面には、今でも二本の梅がある。柳も趣きがある。春の若楓(わかかえで)というのは、すべての花や紅葉にも勝るもので非常に深い趣きがある。橘や桂は、どちらも古びた大木のほうが良い。草は、山吹・藤・杜若・撫子が良い。池には蓮が良く、秋の草なら、荻・薄、桔梗・萩・女郎花・藤袴・紫苑・吾木香・刈萱・りんどう・菊がある。黄色の菊も良い。夏なら蔦・葛・朝顔である。いずれも、高いものではなく、ささやかな草木で垣根に無駄に繁らないのが良いと思う。これ以外の、世にも珍しいもの、舶来の中国(唐)の草花のようなものなどは、花も見慣れておらず懐かしさを覚えない。大体、珍しいものや中々ないものは、教養や品性のない良からぬ人が一時的に持てはやすもので、そのようなものは、無くたっていい。
2023.08.13
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「菖蒲は菊の季節まで咲く」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十八段の二寝室の簾に掛かった五月の節句の飾りに使われる菖蒲も、九月九日までに、菊に取り換えられ、菖蒲は菊の季節まで咲いて、枇杷皇太后宮が亡き後に、その寝室に節句の飾りの菖蒲が枯れたままに飾られているのを見て、乳母が、『季節外れの飾りをまだ掛けている』と言い、その言葉に対して、『あやめの草はまだ盛りですから』と江侍従が返歌を詠んだと伝わる。百三十九段の一庭にあったら良い木は、松と桜である。松は五葉もよく、桜は一重がよい。八重桜は、奈良の都にだけ咲いていたのだが、最近はどこでも良く見かける。京の吉野や左近の桜は、みんな一重桜である。八重桜は異様なもので、ごちゃごちゃとした印象がある。庭には植えなくても良い。遅咲きの桜は興ざめであり、虫がつきやすいというのも厄介である。梅は白や薄紅である。一重の梅は早く咲くが、紅梅の匂いも風情があり、みんな素晴らしい。遅咲きの梅は、桜と咲き合ってしまうので、人の記憶に、残りにくく、桜に圧倒されて、枝に縮んで咲いており、心配になってしまう。
2023.08.12
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「簾に飾っていた葵の飾り」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十八段の一祭が終わったら、後の葵の飾りは不用になってしまうと言って、ある人が、簾に飾っていた葵の飾りを全て捨てさせたが、風情のないやり方だなと感じた。だが、身分の高い教養のある人がする事で、そうするべきものとも思っていた。周防内侍の歌に、隠しても仕方がないもの、心と共に簾の葵は皆枯れてしまった。母屋の簾に飾りっ放しだった葵が枯葉になってしまった事を詠んだ歌の解説が、周防内侍の家集(個人の和歌を集めた)に書かれている。ある古い和歌の説明に、『枯れた葵の枝に、詠んだ歌を差して相手に渡した』というものがある。枕草子にも『来るのが悲しいのは、枯れた葵』と書いてあり、とても懐かしい気分にさせられる。鴨長明の四季物語には『祭りの葵が、まだそのままだ』と書いている。自然に枯れてしまい風情がなくなるのも名残惜しいのに、どうしてそのまま捨て去ってしまうことができるのだろうか。
2023.08.11
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「継子立てというサイコロ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の六今日まで死を逃れて生きてきたのは、ありえないほどに不思議なことだ。そうすると、この世の中がのどかだなんてとても思えない。双六の石で、継子立てというサイコロを作り、出た目の数字のコマに置いている石を取る遊びがあるが、石を並べた時には、どの石が取られるのかはわからない。サイコロを振ってその数のコマにある石を取っていくと、その他の石は、今は取られる事を逃れたように見えるが、実際にはサイコロを振り続けて、あれこれ出た目を取っていくうちに、どの石も最期には必ず取られる運命であることが分かってくる。これは人の死に似ている。出陣した兵は、死が近い事を知って、家を忘れ、我が身の事も忘れる。世に背いて出家した世捨て人の草庵では、静かに水石をもて遊び、死を、何処かに忘れようとするが、それは儚い事で、静かな山奥にも、死という無常の敵は競って現れ、どこに居ても、死に臨む事は戦場にいるのと同じだ。
2023.08.10
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「夏の泉には必ず手足を浸す」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の五田舎者は、夏の泉には必ず手足を浸すものだし、雪見では雪に降り立って、足跡をつけてしまい、全ての物をそっと静かに見守るという事ができない。祭りが通る桟敷を行き交う人々には見知った顔も多くあるので、無常を知ることになる。世の中には大勢の人たちがいるが、この人たちが皆死んだ後に自分が、死ぬ番だと決まったとしても、死ぬまでにはそれ程長く待つ事もないだろう。大きな器に水を入れて底にキリで穴を開けると、少しずつ水が滴り落ちていくといっても、止まる事なく水が漏れるのであればすぐに尽きてしまうだろう。都に人は多いが、人の死なない日はなく、一日に死ぬ人は一人や二人ではない。烏部野(平安時代以来の墓所)の野山に送る死者の多い日はあっても、誰も、送らない日はなく、棺を作っても作ってもゆっくり置いておく暇すらない。死は若い人であっても、強い人であっても、思いがけない時に訪れる。
2023.08.09
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「目の前は寂しげな様子」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の四日が暮れる頃には、並んでいた車や所狭しと集まっていた人たちも何処かへと去ってしまい、間もなく車も人もまばらになってくる。車たちの騒がしい、行き来がなくなると、簾や畳も取り払われて、目の前は寂しげな様子になる。そんな時には世の無常の喩えも思い出されて、あわれな感慨が起こってくる。祭りは最後まで見てこそ、祭りを見たという事になるのではないだろうか。月や花はすべて、目だけで見るものなのだろうか。満開の桜なら家を出なくても、満月なら布団の上に居ながらでも想像することができ、それはそれでとても楽しくて味わいがあるものだ。風情や趣きを感じ取れる人は、ひたすら、面白がるような様子でもなく、何だか等閑に見ているように見える。片田舎の人の花見は、しつこく眺めて全てを面白がろうとするものだ。花の下に、にじり寄って、立ち寄り、わき見もせずに花を見守って、酒を飲み歌って、最後には大きな枝を心なく折ってしまったりもする。
2023.08.08
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「桟敷には人を残しておく」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の三桟敷には人を残しておき、行列が来たと聞けば、各々心臓が止まるような、勢いで桟敷まで争い走っていく。あわや落ちるんじゃないかという所まで、手すりに張り付き、押し合いつつ、一つも祭りを見逃すまいと見守って、あれとか、それとかと何かが前を通るたびに言い合っている。祭りの行列が渡り過ぎると、また来るからと言って桟敷を下りて行くが、物だけを見ようとしているようだ。反対に、都の人は、眠っているかのようで、祭を見ていないかのようである。その主人に仕える若い人たちは、常に立ち働き主人の後ろに控えて、行儀の悪い態度をとって無理に祭りを見たりはしない。賀茂祭では葵の葉を掛けて、優雅な感じがするのだが、夜も明けきらない内に、車が忍んで寄せてくるのである。その車の持ち主は誰だろうと思って近づくと、牛飼や下部などの中には見知った者もいる。祭りは面白くて、きらきらしていて、さまざまな人たちが行き交っていて、見ているだけで退屈することもない。
2023.08.07
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「男女の情趣というのも」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の二あらゆる事は、始めと終わりこそが興味深いものだ。男女の情趣というのも、一途に逢って抱き合う事だけを言っているのだろうか。逢えない事を憂いて、儚い約束を嘆いて、長い夜を独りで明かして、遠い雲の下に相手を思い、荒野の宿に昔の恋を偲んでいる。この様な事も、色恋の情趣と言えるだろう。千里の果てまで満月の明かりが照らしているのを眺めているよりも、夜明け近くになって、ようやく待っていた月が雲の隙間から見えた時のほうが、その月の青さがとても心に深く染み渡ってくるものだ。青い月の下に、見える深い山の杉の木の影、雨雲の隠れる具合など、この上なく感慨深い。椎柴・白樫の木などの濡れたような葉の上に月の光が煌めくのが身に沁みて、情趣を解する友と一緒に見れたならと思い、都のことが恋しくなる。月や花は、すべて、目だけで見るものなのだろうか。満開の桜なら家を出なくても、満月なら布団の上に居ながらでも想像することができる。
2023.08.06
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「風情や趣きを感じ取れる人」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の三満開の桜なら家を出なくても布団の上から見れ、それはそれでとても楽しくて、味わいがあるものだ。風情や趣きを感じ取れる人は、ひたすら面白がるような、様子でもなく、何だかいい加減に見ているように見える。片田舎の人の花見は、しつこく眺めて全てを面白がろうとするものだ。花の下ににじり寄り、立ち寄り、わき見もせずに花を見守って、酒を飲み歌って最後には大きな枝を心なく折ってしまったりもする。田舎者は、夏の泉には必ず、手足を浸すもので、雪見では雪に降り立って足跡をつけてしまい、全ての物を、そっと静かに見守るということができない。そのような人たちの祭見物の様子も、とても珍しいものであり、祭の行列が中々、来ないなと、それまでは桟敷にいてもどうしようもないなどと言って、奥の部屋で、酒を飲み、物を食べて、囲碁・双六で遊んでいる。
2023.08.05
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「土偏ですと答えた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十六段の二その時に内大臣の源有房が参られて、有房も、ついでに篤成殿に物を、教えて貰いましょうかと言って質問をした。まず、「しお」という文字は、どんな偏でしょうかと聞くと、土偏ですと答えたが、有房は、おぬしの、才知の程は既に明らかになった。今はその程度で良いだろう。知りたい事は、もうないと言うと、周囲の人々も笑い出して、篤成は堪らずその場を退出した。「しお」には塩だけでなく「鹽」という異字がある。百三十七段の一桜は満開、月は満月だけが見る価値があるべきものなのか。雨の日に月を、恋しく思い、簾(すだれ)を垂れて部屋に籠り、春の行方を知らないでいるのも、情趣が深い。花が咲く頃の梢であるとか、散って萎れた花びらが、舞う庭だとかにも見所がある。歌の詞に、花見に参ったのに、早くも散り過ぎていてとか、支障があって花を、見る事ができずなどと書くのは、花を見てと言うのに劣っているのだろうか。花が散り、月が傾くのを恋しく慕うのは習いであるが、特にあわれの感情を、知らない人は、この枝もあの枝も散っていて、既に見所がないと言ってしまう。
2023.08.04
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「呪文のような言葉」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十五段の二具氏(ともうじ)が、幼い頃より聞いていたのですが、その問いの心が分からない。「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう」との呪文のような問いは、どういった意味なのでしょうか。承りたく存じますと言った。大納言入道は、はたと答えに詰まって、それはつまらなさ過ぎる質問なので、答えるにも及ばないと言い出したが、具氏は、初めから深遠な学問の事などは、知らないので、取り留めのない事を尋ねても良いと約束しておいた筈ですよと、申し上げたが、結局、大納言入道は負けになってしまい、酒宴の準備の約束を、盛大に果たされたということです。百三十六段の一医師の和気篤成(わけのあつしげ)が、故・後宇多法皇(ごうだ・鎌倉第91代天皇)の御前に控えていて、そこへ食膳が運ばれてきた時に、この食事の数々について、名前でも効能でも何でも尋ねて下されば、そらでお答えします。後で医学書の本草書を参照して下さい。私の答えに何一つ間違いはありませんと申し上げた。
2023.08.03
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「それはどうでしょうか」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十五段の一資季大納言入道(藤原資季)と言われた年配の人が、具氏宰相中将に会って、お前が質問してくる程度の事だったら、何だって答えてやろうと言う。それを聞いた具氏は、それはどうでしょうかと答えた。資季大納言は、そう言うならば、私と言い争いをしてみよと返した。具氏は、取り立てて質問するような学問の事は全く知らなかったので、何ということのない取り止めの無いことの中から、はっきりとしない事を、質問しても良いですかと返答した。勿論な事で、そこらの簡単な事であれば、どんなことでも説明して上げようと大納言入道は答えた。二人の会話を聞いていた院の近習(きんじゅう/主君の傍に仕える)や女房が、興味を引かれる言い争いですね。同じ争うなら、ぜひ天皇の御前にて争われるべきです。そして負けた人が、酒宴の席を準備すれば良いと、言いルールを決めて、二人を天皇の御前に召しだしたのである。
2023.08.02
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「老いた事を知ったならば」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十四段の三容姿を整えて年齢を若く見せろと言うわけではない。自分の未熟さや欠点を、知ったならば、どうしてすぐに退かないのだ。老いた事を知ったならば、どうして静かに隠居して気持ちを安らかにしないのか。行いが愚かだと分かっているなら、どうしてこれだと思う正しい事をしないのか。全く、人に愛されていないというのに、人と交わろうとするのは恥である。容姿が醜いという事で気後れしながら仕事をして、無知であるのに偉大な、人達に交じり、未熟なのに得意そうな顔をして、年老いて白髪頭でいるのに、若い人の中に交じり、出来もしない事を望んで、叶わない事に悩んでいる。来る筈もない人を待ち、人を恐れて人に媚びている事に悩む。これは、他人が、与える恥ではなくて、自分の貪欲さに引き寄せられ、自分で自分を辱めている。貪欲の心が収まらないのは、命が終わる瞬間が、迫っている実感がないからだ。
2023.08.01
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「御堂の法華三昧の仕事」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十四段の二更に、人と交わる事もしないようになり、御堂の法華三昧の仕事にだけ精を出し、自分の部屋に引きこもっていると聞いたのだが、こういった事は有り得ない事ではないと思った。頭の良い人でも、他人の事はよく見えても、意外に、自分自身の事は知らない。自分の事を知ず、他人の事が分かる道理はない。それでは、自分の事を知っている人を、物事を良く知っている人と言うべきで、自分の容姿が醜くてもそれを知らず、心が愚かである事も知らず、自分の技芸の未熟さも知らず、自分の身分の低さも知らず、年老いている事も知らず、病気に罹っている事も知らず、死が迫っている事も知らず、仏道修行が不十分である事も知らない。自分についての非難も知らないので、他人に対する誹謗も勿論知らない。しかし、顔は鏡で見る事ができるし、年齢は数えれば分かるものだ。自分の事を全く知らないというわけではないが、欠点に対する対処法を知らなければ、非難しても知らないという事と同じようなものだ。
2023.07.31
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「孔子も東を向いて寝た」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十三段の一上皇がお休みになる夜の寝殿では、枕を東向きにするのが決まりである。大体、太陽が昇る方角の東を枕とすれば、好ましい陽気を受けると言われ、中国の孔子も東を向いて寝たという。寝殿での布団と枕の配置も、東枕あるいは南枕というのが普通である。白河上皇は、北枕で寝ておられ、北は忌むべき方角で、皇室を祭る伊勢神宮は南の方角にあります。大神宮の方に足を向けて寝るのはいかがなものかと、ある人が申し上げた。しかし、天皇が京都の御所から大神宮を拝む時には、東南を向いて拝まれる。南の方角ではないのだ。百三十四段の一高倉上皇の法華堂で仏道修行をしている僧侶で、何某の律僧と呼ばれる者がいた。ある日、その僧侶が鏡を手に取って自分の顔をつくづくと眺めてみると、自分の顔が醜くて見苦しい事に気づき悩むように、鏡さえ疎ましく感じるようになり、その後は鏡を恐れて手にすら取らなくなった。
2023.07.30
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「知恵を増やした方がいい」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十段の二他人より勝ろうと思うなら、ただ学問して、その知恵を増やしたほうがいい。道を学ぶというなら、自分の長所に驕り高ぶらず、仲間と争ってはならないと、知るべきが故である。立派な地位や名誉も辞退し、大きな利益をも捨てるのは、ただ学問の力である。百三十一段の一貧しい者は、財力を礼節だと思い、老いた者は、体力を礼節だと勘違いし易い。自分の能力の分を知って、できない時には速やかにあきらめるのが知恵である。そういった諦めを許さないのは、人が陥りやすい誤りである。自分の分を弁えず無理やりに頑張るのは、自分の誤りというべきことである。貧しくて分を知らなければ盗みを働き、力が衰えてるのに分を知らなければ病気になってしまう。百三十二段の一鳥羽の作道(とばのつくりみち)という新しい道路は、鳥羽の御殿が建てられた後の名ではなく、昔からの名である。元良親王が元日に、臣下に掛けられる祝賀の声がたいへん立派で素晴らしく、大極殿から鳥羽の作道の所まで聞こえたという。李部王(醍醐天皇第四皇子重明親王)の日記にそのことが書いてあるとかいう。
2023.07.29
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「幼い心には身に沁みる」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十九段の二大人なら相手が本気ではないことが分かっているので何でもないという風に、思えるのだが、幼い心には身に沁みるし、恐ろしくて恥ずかしくて情けない思いをさせられるのは切実な問題である。幼い子供を悩ませて楽しむような人間には、慈悲の心が無い。大人の喜び、怒り、悲しみ、楽しみなどの感情も、仏教的観点からは皆虚妄に、過ぎないのだが、大人でさえも現実にある本当の感情だと信じ込んでしまう。子どもであれば尚更、それらの感情を実在のものとして受け取ってしまう。身体を傷つけられるよりも、心を痛めつけられる事の方が、人間の傷の深さは深くなってしまうこともあるのだ。病気の多くは心の悩みが原因であり、外部からやってくる病気は少ない。汗をかいて熱を下げる薬を飲んでも、汗を出す効果が全くない事があるが、恥じたり恐れている時に必ず汗を掻くのは心の仕業だということを知っておく。高い場所で、凌雲の額(洛陽の楼閣)を書かされて、そこから下りてきた時には、白髪になってしまったという例も無いわけではない。
2023.07.28
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「傷つけ戦わせて遊び楽しむ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十八段の二大体、生き物を殺して、傷つけ、戦わせて、遊び楽しむような人は、畜生と、同じ類の低劣な存在である。全ての鳥獣をはじめ、小さな虫まで、心を傾けて、その様子を観てみれば、子を思い、親を懐かしみ、夫婦が連れ添い、妬み、怒り、欲多く、我が身を愛し、命を惜しむ事は、人より愚かさで明らかに勝っている。そんな彼らに苦しみを与えて命を奪うことは、何と痛ましい事だろうか。すべての心ある生命を見て、慈悲の心が起きないような人は、人としての道を踏み外している。(中学時代は魚釣りによく来た池を55年ぶりに散歩している)百二十九段の一孔子が期待して愛した弟子の顔回(がんかい)は人に苦労を掛けない事を志した。全ての人や動物を苦しめたり、虐げたりしてはいけないし、身分の低い卑賤の者でもその意志を侵害してはならない。また、まだ幼い子供を脅したり、すかしたりして、言い恥ずかしめて面白がる人もいる。
2023.07.27
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「浅ましい事を見た」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十七段改めて益が無い事は、改めない事を良しとするのである。百二十八段の一雅房大納言(土御門雅房)は、学識のある優れた人物で、次は大将にでもと、亀山法王は雅房を重用しようと思っていた。そんな頃、近習の人が法王に、ただ今、浅ましい事を見たと申し上げ、法王が何事かとお聞きになられた。雅房様が鷹の餌として食べさせようとして、生きた犬の足を斬り落としたのを、塀の穴より見てしまいましたと近習が申し上げると、法皇は雅房大納言の事を、疎ましく不快に感じられ、気分も悪くなってしまった。雅房の昇進の話もいつの間にか無くなってしまった。雅房様が鷹を、飼っていたのは知らなかったが、犬の足の話は根拠のない事だったが、虚言により昇進できなかった事は雅房様にとって不憫で可哀想な事で、こういった虚言を聞いて胸を痛められた法皇の御心はとても尊いものだ。
2023.07.26
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「自分をも傷つける恐れ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十五段の二諸刃の剣は両辺に刃がついているので、相手を切ろうとして振り上げると、自分をも傷つける恐れのあることから一方では非常に役に立つが、他方では、大きな害を与える危険もあり、人を斬ろうとして持ち上げた時には自分の顔を斬ってしまう恐れがあり、人は斬れない。同じで、先に自分の方が酔いつぶれてしまえば、人に酒を勧める事なんて、できないのですと申し上げた。この男は本当に剣を持って人を、斬ろうとした事があるのだろうか。何ともおかしな男であった。百二十六段の一博打の負けが込んでしまい、全てを賭けて博打を打とうとする者を、相手にすべきではない。立ち返って考えると、次はその相手が続けて勝つ時が、来るという事を知っておいた方がいい。そういう引き時を知ってるのが、優れた博徒というものであると、ある人が言っていた。
2023.07.25
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「浄土宗に恥じない人物」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十四段の一是法法師は、浄土宗に恥じない人物ではあるが、学識ある僧のように偉そうに振る舞わず、ただ明けても暮れても念仏唱え、やすらかに、世を過ごす様子は、たいそう理想的だ。百二十五段の一人に先立たれた家で四十九日の法事を行い、導師としてある聖(民間の僧侶)を招いたが、導師は法事に集まった人たちに説法をして、それを聞いた人は、感動して涙を流しあった。導師が帰った後、聴聞の人たちは、今日の説法は、いつも以上に尊いものでしたと感動しながら話し合っていた。だが、ある男が、そうでしょう、あれだけ中国の唐犬に似ているというのはと、言い出したので、それまでの感動も醒めてしまい、思わず笑い出してしまった。そんな導師を誉めようというものがあるのだろうか。また、この男は、人に酒を勧める時に、まず自分が飲んでから人に無理やり飲ませようとするのは、剣で人を斬ろうとするのに似ています。
2023.07.24
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「国の為主君の為とやむを得ず」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十三段の一無益な事をして時を過ごす人は、愚かな人とも、不正な事をする人とも、言うべきで、国の為主君の為とやむを得ずにしなければならない事は多い。それ以外の義務にとらわれない暇な時間というのは、ほとんどない。考えてみるといい、人間にとって絶対に必要とされるもの、第一に食べる物、第二に着る物、第三に住む場所である。人間にとって大事なのは、この3つに過ぎない。餓えなくて、寒くなくて、雨風がしのげる家があるならば、後は閑かに楽しく過ごせば良いのだ。だが、人には病気がある。病気にかかってしまうと、その辛さは堪え難いものだ。だから医療を忘れてはならない。衣食住に医療と薬を加えた四つの事を求めても得られない者を貧者とする。この四つが欠けてない者を、金持ちとする。それ以上の事を望むのは奢りであり、四つの事でつつましく満足するなら、誰が足りないものなどあるだろうか。
2023.07.23
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「聖人の教えを知る事ができる」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十二段の一人の才能というものは、古典・文書を読み解く事ができ、聖人の教えを、知る事ができるというのを第一にする。次は書道で、専門としてないとしても、書道には習熟しておくべきだ。次に医術を習い、自分の身を養生し他人を助け、忠孝の勤めを果たす時には、医術を知らなければ成し遂げることができない。次に弓矢と乗馬で、中国古代の士官が習得すべき六芸にも挙げられている。あと、必ず身に付けておきたい事柄は、文武と医術の道、これらは、欠けてはならない能力であり、これを学ぼうとする人を、無益な事だと思ってはならない。次に食で、食は天の如く重要なもので、美味しい料理を作る人は、大きな徳を、持っていると言わなければならない。次に細工で、色々と必要が多い。これ以外の才能もあるが、多才は君子の恥とする事でもある。詩歌が巧みで楽器を奏でるのは幽玄の道であるが、君臣がこれらを重視しても、今の世の中は、幽玄さや優雅さで国を治める事は出来ない。黄金(風雅)は美しいが、鉄(実務的技能)の利益の多さに及ばないのと同じである。
2023.07.22
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