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自由民主党政務調査会主席専門員・田村重信氏も、次のように書く。
《いまの憲法の根底にある思想は、西洋流の「個人主義」であるといわれています。
そもそも、個人主義とは、「個々の人間の自由と権利が、人間社会の目標である」という考え方で、同時に、それは「他人の自由と権利を尊重する責任と義務」「国への責任と義務」も内包しているのです。
ところが戦後、個人主義は、利己主義へと変質してしまいました。
(中略)
自分だけの自由や権利ばかりを主張して、「他人の自由と権利を尊重する責任と義務」や「国への責任と義務」は何にも果たさない。それにもかかわらず、「他人がどうなろうとも、自分さえ良ければ、それで良い」「国は何もしてくれない」というのは、単なる「独りよがりの人権主張」です》(田村重信『新憲法はこうなる』(講談社)2006年刊、 pp. 128-129 )
が、憲法に<個人として尊重>と書かれていることによって、戦後日本が個人主義となり、さらに利己主義になったというのは単なる空想である。このような空想を根拠に憲法の条文を触るのは危うい。
第13条に<個人として尊重>、詰まり、<個人主義>が書かれているのは、日本は<社会主義>ではないことを闡明(せんめい)にせんがためである。さらに言えば、英国流の「自由主義的個人主義」を目指したものだと考えるべきだろう。
勿論、<個人主義>という西欧流の考え方は、日本人の肌に合わないと言うことは可能であろう。が、そんなことを言うのなら、そもそも「成文憲法」を持つこと自体が日本に馴染まないという「不文憲法」派の意見も聞いてもらわねば困る。日本のような歴史の長い国では文化伝統が社会秩序維持に大きな力を持っており、憲法という形で明文化せずとも、「國體(こくたい)」は自ずと定まっている。然(しか)らば、今さら「國體」に沿わぬ「明文憲法」を持つ必要はない。だから、現行憲法の条文をどのように変えるのかより先に、日本は「成文憲法」を持つべきか否か、英国流の「不文憲法」で良いではないか、ということを議論すべきではないか。
《イギリスには、われわれがいうような意味での近代憲法としての成文憲法はない。イギリスでは、1215年のマグナ・カルタ、 1628 年の権利の請願、1679年の人身保護法、1689年の権利の章典、1701年の王位継承法などの歴史的に生み出されてきた統治にかかわる重要な文書や判決などを集めて憲法と称しているのです。
ここには、権利の章典や人身保護の約束も含まれるので、近代憲法にある基本的人権も包括されています。しかし大事なことは、それは決して普遍的で絶対的な自然権に由来するものではなく、あくまで歴史的に生み出された約束として「イギリス人としての権利」とされていることなのです。
つまり、イギリスには、われわれが考える「憲法典」としての成文憲法はない。どうしてかというと、イギリスは歴史の断絶を経験していないからなのです。フランス革命のような全面的な体制転換をもたらす革命を経験していないからなのです。
革命のような歴史の断絶をやっていない国は、本来は、近代憲法的な成文憲法をもつことは難しい。その意味ではイギリスは、もうひとつの別の憲法の考え方を示しているのです。もちろん、大陸法と英米法ではそもそもの「法」の理解が違う、とよくいわれます。それもそうでしょう。しかし、ことはもっと根本的な、法の正当性にかかわることで、それは歴史の違いに由来している》(佐伯啓思『正義の偽装』(新潮新書)、 pp. 106-107 )
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