照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2022.12.09
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テーマ: 民主主義(130)
カテゴリ: 思想・哲学

 近代の政治理論が、19世紀の民主主義国家について分り易く説明しようとした時には、民主主義というものは一般意志に基づき、しかもそれに従う政治だという、あのルソーの考えを借用して話を始めたものでありました。そしてその当初においては、粗雑にもこのことは民衆の意見、すなわち人民の意志による政治と同じことを意味しているものと、受けとられておりました。(リンゼイ『民主主義の本質』(未来社)永岡薫訳、p. 143)

 ルソーは、個人の同意に基づく直接民主制を志向していたはずだった。が、「一般意志」はこれに反し、むしろ間接民主制に必要なものと考えられる。つまり、ここに矛盾が生じたのである。

 フランス革命の精神的支柱たるジャン=ジャック・ルソーは、

《一般意志は常に正しく、常に公共的利益を志向する》(『社会契約論』(中公文庫)井上幸治訳:第 3 章 一般意志が誤ることはありうるか)

と言う。が、此の世に<常に正しい>と言えるようなものなどない。少なくとも、そう構えるのが常識というものである。詰まり、注意すべきは、ルソーが言っているのは現実世界のことではないということだ。形而上学的世界、すなわち、観念論として<一般意志は常に正し>いと言っているのだということを読み誤ってはならないように思う。

《しかし、だからといって人民の決議が常に同じように公正であるということにはならない。人は常に自分の幸福を望むのであるが、必ずしも幸福とはなんであるかがわかっているわけではない。人民はけっして堕落させられることはないが、しばしば欺(あざむ)かれるのである。人民が不正なことを望んでいるように見えるのは、そういう場合だけである》(同、 pp. 40f

 この部分も優れて希望的である。ルソーは、<人は常に自分の幸福を望む>と言う。が、実際は、自分の幸福以上のものを望むことが少なくない。親が子の幸せを優先することをはじめ、人が「利他的」に振る舞うことは決して少なくない。「滅私奉公」の人が輝いて見えるということもしばしばである。

 <人民はけっして堕落させられることはない>というのも希望的に過ぎる。我々は、堕落した人間を見付けるのに困らない。歴史の中にも多々登場する。が、ルソーは、それは人が欺かれているだけだと強弁する。が、これは「堕落」というものの定義の問題であって、ただ堕落ではないというのは、ルソーの勝手な解釈に過ぎない。

 このようにルソーが言うのは、このように考えなければ、後々の議論の辻褄が合わないからである。






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Last updated  2022.12.09 21:00:08
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