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《そして、このことは、たとえば、共同体を外部の敵から共同で防衛するといったことを含む。というよりも、そのことは共同社会の成立の根底にかかわることなのである。だから、戦争においては、個々人はその個別の立場を捨てて、共同社会のために命を投げ捨てなければならないとまでルソーは言うのである。共同社会を作ることによって個人は安全を得ることができるとすれば、その共同社会を守るためには戦わねばならないと言うのだ》(佐伯啓思『現代民主主義の病理』(NHKブックス)、p. 160)
《他人の犠牲において自分の生命を保存しようとする人は、必要な場合には、また他人のためにその生命を投げ出さなければならない。さて、市民は、法に依って危険に身をさらすことを求められたとき、その危険についてはもはや云々することはできない。そして統治者が市民に向かって「おまえの死ぬことが国家に役立つのだ」というとき、市民は死なねばならぬ。なぜなら、この条件によってのみ彼は今日まで生きて来たのであり、また彼の生命はたんに自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件付きの賜物なのだから》(ルソー『社会契約論』(岩波文庫)桑原武夫・前川貞次郎訳、 p. 54 )
《これが彼の考える市民である。同時にそれは国家の臣民である。ルソーは、概念としての市民と臣民を区別しているが、両者は同じものにつけられた2つの名称なのである。つまり、われわれがつい考えてしまいがちなように、君主の臣民であるという近世の政治体制を打ち破って市民が登場したのではない。社会契約によって生まれた共同社会の住人は、主権をもつという意味では市民であり、同時に、国家(法)に服するものという意味では臣民なのである》(佐伯、同、 p. 161 )
「君主主権」が「人民主権」となれば、「臣民」は「市民」へと移行せねばならないはずなのだけれども、それでは、例えば、国防のような活動を担う人間がいなくなってしまう。だから、「臣民」は残し、「臣民」と「市民」の良いとこ取りの形をとっているのである。
《したがって、ルソーの一般意志なるものは、国家と呼ばれる共同社会の成立の根本と深くかかわっている。いささか単純化すれば、一般意志なるものは、主権者としての市民が同時に国家の臣民である。という1点で初めて形成される。ここには当然「祖国のため」という国家意識がある。この意識が前提となって初めて、近代社会は形成されているのだ》(同)
が、「臣民」を残した「人民主権」など矛盾そのものではないか。この矛盾が前提となって近代社会が形成されていると言われても咀嚼(そしゃく)するのは難しかろう。
《わたしは、ここで、何か格別に国家主義的言説を弄(ろう)しようとしているのではない。ルソーにとって「市民」とは、また「祖国のために」という意識をもった者のことであり、これは別のことがらではないのだ。そして、一般意志、つまり共同の事項とは、まさに、この両者が一致するような場所でのみ成立するということなのである》(同)
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