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古くはプラトンによって、国家というものは、その支配者たちが政治人としての生活にもまして、さらにいっそう普通人としてすぐれた生活をなした場合にかぎって、よく統治されるものだといわれております。
国家が支配力を行使する目的は、市民たちの共同生活を保護・維持し、調和させることにあるといたしますならば、その共同生活の活力と自発性が大きければ大きいだけ、国家の仕事がより必要なものとなりますが、一方ではいっそう容易なものともなるのであります。と申しますのは、活気に充ちた自発的な生活というものは、利害の対立や新しい不調和、そしてあらゆる種類の闘争の可能性を生み出すがゆえに、国家の仕事がいっそう必要なものとなるのですが、他方では、共同生活がより生き生きとした活気のあるものとなれば、それだけ輿論(よろん)は具体性を帯び、一般意志はより表明され易くなって、国家もまたいっそう容易にその仕事を果せることとなるからです。(リンゼイ『民主主義の本質』(未来社)永岡薫訳、 p. 147 )
<共同生活がより生き生きとした活気のあるもの>となれば、どうして輿論が具体性を帯びるのかが分からない。この「輿論」は「世論」と呼ぶべきものであろうが、人々が活性化すれば、その感情の集合体たる世論が拡散し、むしろ掴み処がなくなってしまうのではないだろうか。
共同生活が活発になれば「一般意志」が表明され易くなるというのも分からない。<利害の対立や新しい不調和、そしてあらゆる種類の闘争の可能性を生み出す>のにどうして「一般意志」が表明され易くなるというのか。勿論、「一般意志」が纏まらなければ、国家もその職務を果たすことは出来ない。
ここに至ってわたくしたちはやっと、前章でもち上ったもっとも深刻な難点、すなわち一般の投票者たちは政治に無関心であり、国家主義とか党派熟などといったいろんな形の集団的興奮によって、いやいや投票に参加しているのだという否定論にたいする解答のすくなくとも糸口は、見つけ出すことができるように思うのであります。
集団的興奮によるこのような人為的で不条理な人間結合の形態が不可避的に必要となるのは、ひとびとが広い共通の文化に互いに与(あずか)り、それゆえ孤立した異質文化の介在がなく、各集団の間には現実に精神的な交流がゆきわたり、事実上それぞれの小集団がよく結合していて、分裂するようなことのない共同生活に参与することによって、不自然にではなく自然に結びつけられているということが欠けている場合であります。
文化的または経済的あるいは宗教的な障壁が共同社会のなかにあって、共同生活が右に述べたような事情にない場合には、強硬に不条理な興奮に訴える力だけがひとびとを強制的に結束させて、どうにか政府のなすべき仕事を仕遂げるのであります。この意味では、むしろ当然のこととして、国家主義はいわば国民意識の病的現象すなわち麻疹だといわれなければならないのです。(同、 pp. 147f )
が、国家のような、人や集団の関係性が希薄化した大きな社会において、先に述べられたような「理想社会」は果たして有り得るのか。だからこそ<不条理な興奮>が不可欠となるのではないか。
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