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《政治を規制する根本的な原則はなにか、というのがここでの問題である。
その第1として、彼は一般意志にしたがうことを挙げる。そもそも政治が行なわれるということは、強制がはたらくことであるが、人間が政治体を構成することは、それによって共同の自由を確保するためである。したがって、政治体は自由と強制という相いれない2つの条件を同時に確保しなければならない。いかにして、それが可能であるか。それは、個人が自分の意志にのみしたがって自分を規制するように、政治が一般意志にのみしたがうことによって、はじめて可能である。一般意志の表現は法であるから、結局それは法にしたがうことである》(桑原武夫『ルソー』(岩波新書)、 p. 24 )
先ず、自由政体とは、「自由放任」ということではない。自由放任は、自由の過剰としての「放埓」(ほうらつ)、「放縦」(ほうじゅう)に陥りかねない。だから、自由には、これを制御する「手綱」(たづな)が必要であり、それが「一般意志」だとルソーは考えた。
私なら、「自由と秩序の平衡」と言うところだが、あるべき平衡の支点は、歴史や文化によって定まる。が、「旧体制」を否定してしまっては、平衡を支えるものがない。だから、ルソーは「一般意志」という抽象概念を設(しつら)えたわけである。
次に、<一般意志の表現は法>であるとして、ここで言う「法」は国家の基本法たる「憲法」ということだろう。が、この憲法の元となる一般意志は何を源としているのであろうか。「革命」によって「旧体制」が否定されれば、経験蓄積はなくなり、頼れるのは「観念論」だけとなる。つまり、革命政権が憲法を作る場合、半ば必然として非現実的「べき論」や「理想」に彩られることにならざるを得ないのだ。
《民主主義においては、人民は彼の意志に反する法律に賛成することもある。何故なら、法律は一般意志( volonté générale )であり、そしてそれは自由なる人民の意志だからである。すなわち、人民は元来決して具体的な内容に協賛を与えるのではなく、抽象的に( in abstracto )、結果すなわち投票の結果に現われる一般意志に対して協賛を与えるのである。
かくて彼はただかかる一般意志を認知しうる投票の計算を可能ならしめるために、投票を行うのである。この結果が個々人の投票の内容と異っているならば、票決に敗れた者は、彼が一般意志の内容について誤った見方をしていたということになる。すなわち「それは自己の誤っていたことを証明するものに外(ほか)ならないのであって、自己が一般意志であると考えたものが、一般意志でなかったまでである。」(カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』(みすず書房)稲葉素之訳、 p. 36 )
もう少し読み進めなければシュミットの本意が那辺にあるのか掴(つか)めないが、多数派の側に宿る「一般意志」に、どのような一般性があるというのか。
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