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(日本人のアイデンティティ(伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心)の視点、国際性の視点)
国際社会を生きる教養ある日本人として、自らが国際社会の一員であることを自覚し国際社会に貢献しようとする意識とともに、自らのアイデンティティの基礎となる伝統、文化を尊重し、郷土や国を愛する心を持つことが重要である。そして、このような自らの国を愛し、平和のうちに生存する権利を守ろうとする国民1人1人の思いが、我が国だけではなく、同じ思いを持つ他国の人々も尊重しなければならないという国際的な視点に通じるものとなる。しかしながら、教育基本法には、このような視点が明示されていない。
また、「公共」に主体的に参画する意識や態度の涵 ( かん ) 養を図るためにも、国や社会、その伝統や文化について正しく理解し、愛着を持つことが重要である》(中央教育審議会:新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について:平成14年11月14日付中間報告)
ここでは深くは述べないが、〈「公共」に主体的に参画する意識や態度の涵養〉とは「愛国心」に関するものだ。当時、教育基本法に「愛国心」を明記するかどうかにおいて与党内で意見が分かれた。そして公明党の反対によって「愛国心」ではなく、「国を愛する態度」などというおかしな文言が落し所となった経緯があった。心はどうであれ、国を愛している振りをすることが大事などという話は破廉恥以外の何物でもない。
《ここでは、国家・社会・公共の形成に「主体的」に参加するということが謳われている。数年前には、社会の変化に振り回されないために、「自分の時間=ゆとり」を持つという意味での「主体性」が言われていたわけであるから、正反対の主張に転換したようにも見えるが、もともと「ゆとり」の中身や方向性が何なのかはっきりしなかったわけであるから、「主体的に考えた結果、公共の構築に主体的に参加することにした」という結論が出てきたとしても、論理的にはおかしくない。
かつて堀尾氏たちが擁護していたような、明示的に反国家主義的な「主体性」であれば、「国家形成に主体的に関わる」という答えはなかなか出てこないはずだが、「ゆとり」論の「ゆとり」は必ずしも「国家干渉からの自由」を合意しているわけではないから、国家の方に引き寄せられることに対する「限界線」はない》(仲正昌樹『「不自由」論 』(ちくま新書)、 pp. 138f )
〈国家・社会・公共の形成に「主体的」に参加する〉(昨日のブログ参照)などということは、学校教育という大衆教育において求めるべき課題なのであろうか。「1人でも多くの生徒が国家・社会・公共の形成に参加することが望まれる」程度であれば分かるが、〈国家・社会・公共の形成に「主体的」に参加する〉ための学習計画が立てられるとすれば、身の程知らずにもほどがあると言わざるを得ない。
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