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苅谷剛彦氏は言う。
《これまでの教育からの転換を急ぐあまり、教えることと「教え込み」とを混同し、教師たちに教えることを躊躇させるような空気をつくりだした。教えることと教え込みとの区別をつけられない教師に、教え込みはいけないと強調しすぎたこと。そこに、「新しい学力観」の問題があったと言ってよいだろう》(大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』(ちくま新書)、 p. 188 )
が、これは教師よりも、教師の上に存在する、文科省やこのような教育改革を推進した人達こそ問題にすべきではないのか。彼らがどこまでルソー主義的なのかは分からない。が、「アクティブ・ラーニング」などという碌(もく)でもない指導法を教師に押し付けたのであるから責任を負わせるべきなのではないか。ちなみに私は、教育現場をやれゆとりだ、やれアクティブ・ラーニングだなどと振り回す、碌でもない文科省など解体すべきだと思っている。
《これとは対照的に、旧来型の教科書中心の授業を変えない教師たちもいる。大村のリアリズムを下敷きにすれば、教科書の内容をただただ消化することに精一杯の教師もまた、教えない教師ということになる。先にも述べたように、教育のねらいと学習活動との関係を、自覚的にとらえる機会が失われやすいからである。教科書の内容を説明したり、その内容に関する問題をやれば、教育の目標が達成できると思ってしまう。どんな学習が行なわれたかより、教科書の進度に目がいきやすい。授業のねらいと生徒の学習活動との関係が教科書や指導書に組み込まれていることを前提としてしまうだけに、生徒たちがその学習を通じてどのような力を身につけているかに目が届きにくくなるのである》(同、 pp. 188f )
教科書を研究した経験から言えば、多くの教科書がよく練られており、最低限教科書「を」教えることによって多くの成果が期待できるのであって、教科書による指導をあまり腐すべきではない。勿論、教科書「で」教科書以上のものを教えられればそれに越したことはないのだけれども、言い訳になるが、教師は忙しいから、事前に授業研究を十分に行うことは物理的に不可能だという事情も考慮すべきであろう。
生徒の生活指導が殊の外(ことのほか)大変であるし、職員会議での打ち合わせや確認も時間的にばかにならない。もっと授業に専念できるような環境をまず整えた上で、授業内容の向上を図るのが筋なのではないか。
《このような授業のもう1つの問題点は、子どもの学習成果の評価が、教えることのチェックになりにくい点である。教科書に準じたテストの結果をもとに、生徒の成績をつけることはできる。しかし、その結果が教師の教え方をどのように反映したものかを見ようとはしない。テストの結果は、教科書の内容を生徒がどれだけ理解したかを示すものとしてとらえられ、そこから、どのような力が生徒たちについているのか、その力をつけさせる上で自分の授業がどれだけ貢献したのかを読みとろうとする反省が起こりにくくなるのである。しかも、教科書以外にも市販の教材やドリルなど、便利な道具が今の学校にはあふれている。市販のテストによっては、採点さえすれば、それぞれの設問が観点別評価のどれに対応するのかまで、教師に代わって準備してくれる。多忙な教師にとっては、助けとなることこの上ない。こうして授業の自動化がますます進み、教師は教えなくなる》(同、 p. 189 )
教師が教えなくなるのは、多忙な教師の自己防衛からくるところも大きい。忙しい教師に多くを求めるのは酷である。【了】
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