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近頃、メディアへの露出が増えてきたモーリー・ロバートソンが、さまざまなゲストを迎えて地上波では言えない本当のところにおもしろするどく切り込むモーリー・チャンネル。今回のゲストは軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏。緊迫する北朝鮮情勢の本当のところについて明解に説明してくれている。今回、私が注目したのは北朝鮮情勢ではなく、ロシアが仕掛けているハイブリッド戦争ー情報工作についてだ。驚くべきことに、ソビエト崩壊後にイギリスの諜報機関(MI-5,6)に渡った情報が、近年になって開示されはじめたそうだ。そこにはKGBが意図的に反米世論を醸成するために、ユダヤ陰謀論、ロスチャイルド家やロックフェラー家、あるいはCIAや軍産複合体があらゆる事件の裏で暗躍しているとする陰謀論を意図的に流し続けてきたという工作活動について書かれていた。ソビエト崩壊後、一時は途絶えていたもののハイブリッド戦争と称し、ロシア政府はインターネットなどを駆使して意図的にフェイクニュースを流し続けている。そのやり方は非常に巧妙で洗練されている。信憑性を持たせるためにウィキリークスを使ったりもするのだ。かつてそのターゲットはソビエトに共感する左派だったのだが、現在はエスタブリッシュメントに反感を持つ右派に向けられているという。詳しくは動画を見ていただきたいのだが、(動画8:15~)世界中で右派が台頭している背景にはこうした情報工作があるのかもしれない。そういえば、ルペンのところもロシアとはずいぶん親しいようだし…EUを崩壊させるのに武器は必要ないようだ。銃声が響くずっと前に、戦争ははじまっていたのかもしれない。
2017/04/27
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こんな映画があっていいのかっ!!っていうくらいの衝撃。まだ見たわけじゃないけれど、その前情報だけで慄然とする。60年代のインドネシア。日本ではコワモテで知られるデヴィ夫人の旦那スカルノ氏が軍部のクーデターにより失脚したあと、赤狩りの名のもとに凄惨な虐殺が繰り広げられる。その犠牲者は100万人にも及ぶと言われている。この映画の制作者はその事件を取材しドキュメンタリーを作ろうとしたのだが、虐殺された側の人々は出演したがらない。なぜなら虐殺を実行した人たちは今も政府の中枢を占め英雄として君臨しているからだ。そこで彼は考える。虐殺された側は出たがらないかもしれないが、虐殺した側はどうだろう?彼は虐殺した側にインタビューを試みる。するとどうだろう。千人殺した男は英雄としてもてはやされ、テレビに出演し、豪華な邸宅で宝飾品に囲まれて暮らしている。にこやかに出迎えた彼は、褒められこそすれ批判されることなど微塵も考えていない。特にアメリカから来た客人ならなおさらだ。当時アメリカはこの虐殺を支持していたからだ。大喜びで自分の虐殺体験をみぶりてぶりを交えて説明しはじめる彼。それはもう武勇伝なのだ。それを批判することなくただ聞いている製作者。そしてある恐るべき提案をする。「あなたの体験したことを映画にしませんか?」そう。つまりこの映画は虐殺をした本人が虐殺の再現フィルムを制作し、出演するという世にも奇妙なドキュメンタリーなのだ。彼はこの映画をつくることで自分たちの行った功績を世界に知らしめるチャンスだと考え、嬉々として映画を撮りはじめる。延々とつづく虐殺、拷問、レイプ、そして枕元に現れる幽霊たち…そうしたシーンを演じていくうち、次第に彼の精神は変調をきたしはじめる。お祭り気分で撮りはじめられたこの映画がいったいどうなるのか…驚くべき結末が待っているらしいのだが、それは見てのお楽しみということらしい。なんにせよ、こんな映画は後にも先にもこれ一本しかありえないのではないか。おそろしいけれど、見に行くつもりだ。http://www.aok-movie.com/
2014/03/01
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ま~ こうなることはやる前からわかっていたことで、自民党だけで300議席くらいは行くんじゃね~かな~と思っていたので、別に驚きもしなかった。これで単独過半数取れちゃったわけで、公明党の助けを借りなくてもよくなった。参議院で過半数取れてないから、来夏の選挙までは安全運転で行くみたいだけど、次の選挙で過半数取れたら、もうやめられない止まらない憲法改正へとひた走るのだろうな…明確に脱原発を唱えていた未来はあまりにも急ごしらえだし、小沢さん合流でイメージが悪いし、投票しづらいわな~ほかは(共産党をのぞいて)脱原発や脱原発依存などと言いながら、実質再稼働容認だからね~少し風が吹けばこんなに大勝大敗してしまうのが小選挙区制の怖いところだ。それを是正するための比例代表での得票率を見ると、自民党は27.62%なんと大敗を喫した2009年の選挙での26.73%でほとんど大差ないのだ。だから実質議席数ほどの支持を受けたわけでもないとは思う。だが他の政党よりは上回っていたのは確かだ。今の日本の心理としては、改革よりも安定を望んでいるように感じる。ここにきてまた改革のすったもんだで混乱するよりは、政権担当能力に安定感を感じる自民がよかったのだと思う。そして最大の援軍は、中国さん朝鮮さん韓国さんだったのではないかな~中国が領空侵犯したり、朝鮮がミサイルを撃ったりすればするほど、日本の右派はウハウハ。危機感を感じれば余計に右に振れるってのがわっかんないのかな~?選挙前ぐらいおとなしくしてればいいものを(笑)右派の煽りに現実味を与えてるのは中さん朝さん韓さんだかんね。原発についてはやはり直ちに止めるべきだと思う。非現実的だというそしりを免れないのはわかっている。それでも直ちにやめるべきだと思う。福島はまだ収束していないし、どうやって収束させていいかもわからないでいる。第一原発四号機の燃料プールが壊れたら日本は終わりだ。もう日本には住めなくなる。首都圏はもちろん西日本だって住めなくなる可能性が高い。(風向きにもよるけどね)東日本の地震に前後して、東海、東南海地震が連動してやってくるってのは、過去数千年のデータが証明している。だからまだ終わりじゃない。安全対策をすれば大丈夫って言う人もいるけど、震災前だって万全を期していたはずなんだよね。親類の知人の電力会社幹部は格納容器が壊れることは絶対にないって震災直後胸を張ってたらしいけどね…そのあとすぐ爆発したもんね。自然のパワーをなめるでね~よ。防災対策すりゃなんでも防げるってのは傲慢でしかない。そしてもしダメだったときは取り返しがつかない。福島のように。政府だって東電だって、責任も取れないし補償もできないってわかんないかな~?自分の目には原発はまるで戦艦大和のように思える。造っちまったから出航せざるを得ない。時代遅れの大艦巨砲。本当に国を思うなら、ぜひ止めてもらいたい。「きっとだいじょうぶ。そんなことにはならないだろう」というような考えは危機管理にはそぐわない。最悪の事態を想定するのが危機管理であって、その最悪の場合取り返しがつかなくなるのが原発である。火力発電所が爆発したところで、その地域が数十年にわたって立ち入ることができなくなったり、子供たちが病気になったりしないだろう。だから反対なんだ。※今回コメントは受け付けません。
2012/12/17
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先日放送されたNHKスペシャル シリーズ原発危機「事故はなぜ深刻化したのか」 動画はまもなく削除されるでしょうから、見るならお早めに。この番組は来週月曜深夜にも再放送が予定されています。 200人を超える当事者たちへの取材から当時の状況を克明に知ることができる良作だと思った。 ただし、この番組の主張は、安全神話に基づく見通しの甘さと連携の取れない組織に事故を深刻にする原因があったのではないか言っているように理解したのだが、それだけでいいのだろうか? この番組を見ていると、事前に危機を予測し、対策を立ててさえいれば事故の深刻化を避けることはできたと言ってるように聞こえる。 たしかにそういう面もあるとは思う。危機を想定しておくのは大前提として大切なことだ。 しかし想定にない事態が起こったときにどう行動するかということも考えておかなくてはならないのじゃないか? もっと緻密なマニュアルをつくっておけば、それで一安心ということになってしまわないか? 想定しきれない出来事が時々刻々と起こりつづけるのがこの世界だと僕は考える。 わかりやすくいうと、日本人は野球には強いがサッカーは苦手ということだと思う。 次に何をすべきかがはっきりしており、監督が考え、その判断に基づいてプレイしていく野球と、さまざまな要素が時々刻々に変化していく中でプレイヤーたちの判断に委ねられるサッカーとでは同じスポーツでも精神構造はまったくちがっている。 野球ならプレイ中にタイムをとって議論することもできるが、サッカーではありえない。 それと同じように、時々刻々と変化する事態に対するときに、トップダウンのようなやり方では対処しきれない。 特に今回のような事態では、原子力の専門家でもない首相がトップに立ち、各組織間の情報伝達や根回し、議論などに時間を費やしているうちに、どんどんと状況は悪化していったのだ。 これはやはり現場への権限移譲をしなくてはならないのじゃないか? こうしたことは、以前「NHKスペシャル 変革の世紀 情報革命が組織を変える ~崩れゆくピラミッド組織~」というものでもとりあげられていたことだ。 ブラック・ホーク・ダウンをきっかけに米軍は率先して現場への権限委譲という組織改革を行った。それにならってフォードなどの大企業でも直接客に接する営業マンの権限を大幅に拡げたということらしい。 日本でもそういう背景があって「踊る大捜査線」なんかで青島警部に「事件は会議室で起こってるんじゃない!現場で起こっているんだ!」と叫ばせていたわけです。 その結果、こういうことになるわけです。米軍が避難所に救援物資搬送!! 彼らは一応の目安はあるものの、隊員が空から目で見て物資の届いてなさそうな所へ、自己判断で着陸して、物資を届けて帰るわけです。 日本ならどうでしょう? 正式なルートを通して支援要請を出して、それを中央に集めて集計し、物資が均等にいきわたるように割り振りし、それから実際に現地に届ける組織に要請なり根回しをしたりするわけです。 どんだけ時間かかるねん! 緊急を要するときに、そんなに正しくある必要あるのかな? 誰かに責められたり、処分されたりするのが怖くて何もできないのかな? それなら減点方式はやめて加点方式の査定に変えていかなきゃならないよね。 今回の震災でも自衛隊が安全確認が取れないという理由で着陸を拒否している場所にも、米軍は救援活動を繰り返していたと聞く。 そりゃもし墜落でもしたらえらいことになるだろうが…どこに安全の保証があるというのだろうか? 緊急事態において危険というものをどこまで折り込み、どこまで排除するかについても考えなくてはならない。 今のままで単に新しいマニュアルを備えたところで、それ以外の事象が起こればやっぱり対処できないでしょ。日本人は。
2011/06/07
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爆問学問という番組で木田元という哲学者の話がとてもおもしろく、わかりやすかった。ハイデッガーの研究者として日本哲学界でも高名な人なのだが、近年になって自ら極めた哲学を根底から覆すと宣言し衝撃を与えている。その番組をきっかけに「反哲学入門」を読んでみた。かいつまんでいうと、哲学というのは西洋における、ある種倒錯した(?)思考習慣だというのだ。というのも、自然は「自ずと生成し、変化し、消滅する」ものと考えるのは日本人にとっては普通のことだ。けれど西洋世界では、我々の知覚するこの世界の背後には永遠普遍の原理があると考えるのだという。どうもそうしたことを最初に言い出したのはプラトンらしい。ソクラテス以前の哲学者たち、パルメニデスやヘラクレトスなんかは日本人と同じように、すべては生々流転するのだと考えていた。しかしプラトンは生成消滅を超えた永遠普遍の「イデア」なんてものを持ち出して、この世界を超越した原理を設定したのだった。弟子であるアリストテレスは修正はしつつも「純粋形相」という形でそれを引き継ぎ、そしてなんとそれらはキリスト教と結びついて、超越的原理の同じ役割を「神」が果たすことになったのだった。もし、そうした超自然的原理を前提にしたらどうなるのか?自然は自ずと生成するようなものではなく、超自然的な原理によってどうにでも形作ることのできる単なる無機的な材料へと成り下がるのである。こうして物質的な自然観というものが、超自然的な思考様式とはっきり連動して生み出されることになった。そして自然を単なる製作の材料だと考えることで、技術文明がこれほど発達することになったのだった。そして超越的な原理によって創造された人間は、いわばその神的な原理の代理人として自然を支配する主人公として好き勝手に振舞ってきた。「近代のヒューマニズムなんて体裁のいいことを言いますがね。そういう意味では、あれは結局人間中心主義ですよ。」(木田氏)そうした西洋文化のあり方を批判したのがニーチェだった。「神は死んだ」という宣言は、キリスト教の神だけを想定しているのでなく、超自然的な原理に対して投げかけたものだった。超自然的な原理を取り除いて、覆い隠されてきた生きた自然というものをニーチェは取り戻そうとした。「善悪の彼岸」にしても、超自然的な原理を設定することで善悪の概念ができたのだが、そのもとでは生命的なものは悪とされ、超自然的なものは善の系列であるとされてきた。けれどそれをひっくり返して、生命の秩序のようなものを再評価しようというのがニーチェの狙いだったのである。ニーチェにしても、ハイデッガーにしても、生きた自然を復権し西洋の文化形成の方向性をシフトしようという、ある種の文化革命を企ていたのだ。木田氏は、哲学というのは西洋人自身が解体撤去しようと考えるような有害な思考様式であって、それを日本人が理解できなくても当然なのだと言う。たくさんの謎が解けて感心しきり。眼からウロコがたくさん落ちました。ばらばらだった話しがひとつにつながりかけていて、おもしろい。反哲学入門
2008/06/16
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某国営放送で「音楽の市民革命」と題して、モーツァルトの「魔笛」上演について解説していた。モーツァルトと言えば映画「アマデウス」でのいっちやってる天才のイメージが強かったのだけれど、この番組を見ているとモーツァルトがただのイカレた天才ではなく、当時最先端の思想を吸収した闘士の一人でもあったことが読み取れる。ときはフランス革命前。音楽も、すべては貴族や宗教者たちに支配、独占されていた。実質的に音楽家は彼らパトロンがいなくては何もできなかったのだ。モーツァルトもパトロンである領主にオペラの作曲を許されず、不満をつのらせていた。それでも5年は我慢をしたのだが、最終的に決裂し、伯爵のもとを飛び出した。彼は晴れて自由の身になったことをよろこび、意気揚々と首都ウィーンに出て音楽活動をはじめるのだが、そうはうまくいかなかった。パトロンである貴族たちは伯爵に通じていたため、まったく仕事を与えようとはしなかったのである。オペラの依頼はおろか演奏会の仕事にもありつけない始末。モーツァルトは完全に干されてしまったのだ。酒や遊興にふけって文無しになったようなイメージがあったが、実はそうではなかったのかもしれない。薪を買う金が無かったため、一晩中妻コンスタンツェと踊り明かしたというエピソードも、干されていたと考えるとモーツァルトの意地さえ感じられる。実際彼はへこたれなかった。ピアノの家庭教師をしながら、ひとつのオペラを極秘に書き上げる。それが「フィガロの結婚」である。この作品は貴族階級を痛烈に批判した喜劇で、すでに各国で上演禁止にされていた。にもかかわらず、彼はわざわざそれをオペラにしたのだ。もちろんウィーンでも上演禁止されていたので、彼は一計を案じ、皇帝の信頼篤い宮廷詩人に頼み、上演許可を得たのだった。しかも王立宮廷劇場でだ。劇場を埋め尽くした貴族たちは、自分たちを批判する内容に騒然となる。貴族に公然とケンカを売ったモーツァルトはその後どこで活動したのか?96年にあらたに発見された資料によれば、市民階級が集う大衆劇場で書いていたことがわかった。その名も「賢者の石」それはフランス革命の翌年のことだった。それからオペラを市民のものとするために、ウィーン市民が理解できるドイツ語で「魔笛」を書き上げる。「魔笛」は脚本からモーツァルトが手がけ、フランス革命の精神である自由と平等をテーマに盛り込んであるのだと言う。番組では、このオペラの上演をもって「音楽の市民革命」とし、音楽は以後貴族のものから市民のものへと変わっていく。そしてその時代の変化を敏感に感じ取ったモーツァルトはやはり天才であったとしめくくられる。さて、本当にそうだろうか?そのすべてをモーツァルト一人の天才のせいにしてよいものだろうか?ここからは某国営放送には描けない話しだ。つまりそれはフリーメーソンの存在だ。モーツァルトがメーソンのメンバーであったのは有名な話しだし、「魔笛」がフリーメーソンの入信儀礼(イニシエーション)と人間の変容について描いていることも有名な話しだ。その視点から見れば、さまざまなことにつじつまが合う。身分制度を批判するオペラをわざわざ書いたのもそうだ。おそらくは皇帝をとりなした宮廷詩人もメーソンだろう。大衆劇場のために書いた曲が「賢者の石」なんていう思わせぶりなタイトルなのもそうだ。そしてなぜモーツァルトが飲んだくれのイメージで描かれるのか。それは当時メーソンの会合はロッヂと呼ばれる居酒屋で行われていたせいもあるのではないか。そうした居酒屋で国や職業を超えた人たちが交流し情報交換するネットワークが生まれたのだ。そしてフランス革命にもメーソンが大きく関わっている。フランス人権宣言にはばっちりとメーソンの紋章が描かれている。そのメーソンのメンバーである彼が時代を読み違えるわけもないし、もっと言えば彼はメーソンとともにその思想を啓蒙するための宣伝係になってたのではないだろうか?そして大衆劇場は一種の市民啓蒙装置として働いたのではないだろうか?そう考えると、映画「アマデウス」であやしげな興行師として描かれていた支配人も、メーソンリーとして有力な人物だったのかもしれない。フリーメーソンなどというと、すぐに陰謀論的に考えられる向きもあるかと思うが、その歴史で果たした役割も大きいのだから、まともに歴史の教科書なんかでも扱ってもらいたい。たとえばメーソンの標榜する「自由・平等・博愛」は「青・白・赤」の色となって、フランス国旗になっている。イギリスやアメリカもだ。アメリカ独立戦争を支援し、アメリカのメーソンにお祝いに自由の女神をプレゼントしたのはフランスのメーソンだ。米ドル札にはメーソンの紋章がこれまたばっちりと刷られててある。考え合わせていくと、モーツァルトがただのイカレた天才ではなく、思想的パックポーンをもって行動していたように思えておもしろい。さて話は変わるが、思想的な革命は知らないが、音楽の革命が起ころうとしているらしい。彼の名はグスターボ・ドゥダメル。若干26歳でロス・フィルの副指揮者に就任したそうだ。彼の指揮を見ていると映画「アマデウス」のモーツァルトを髣髴とさせる。聴く人が聴くと、彼が音楽史を書きかえるのは確実なんだとか。う~ん、ラテン系!!グスターボ・ドゥダメル60 minutesグスターボ・ドゥダメル公式ホームページ
2008/04/21
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チベット問題に対する抗議として、北京オリンピック聖火リレーへの妨害が激しくなってきている。もちろんチベットにおける中国政府の行いはあってはならないことではあるけれど、このようなデモンストレーションには正直辟易する。捕鯨に対する妨害といい…どうしてこうも白人さんたち(?)は身勝手になれるのだろうか?日本の報道でも、人権の国フランスなんて言い方をしていた。確かにいち早く人権宣言を採択したのはフランスだし、人権意識も高かろう。しかし、だったらなぜイラクのために抗議行動をしないのだろうか?あるいはしていても、たいして報道されなかっただけなのだろうか?どれだけの一般市民がアメリカによって殺され、今も苦しんでいるのか?じゃあアフリカはどうだ?アフリカを食い物にしてきたのはそれこそフランスじゃないのか?日本だってほめられたものじゃない。もちろん自分たちで手を下すことはなかったけれど、どれだけの戦争にどれだけの金を出してきたのか?東ティモールはどうだ?虐殺を行った軍事政権を支援しつづけているのはどこの誰か?日本じゃないか。中国政府への非難は正当なもののように思う。けれど、自分たちの手だって血に染まっているということも忘れてはならない。自分たちを正義に、他国を悪に置いて、居丈高に非難するのはいかがなものか?正義などというのは非常に脆弱なものであって、旗のように振り回せるものはないというのが現実ではないだろうか。チョムスキーが言うように、東京にいて「ワシントンはバカだ。北京はアホだ。」と非難するのは簡単だ。私たちはチベットの平和と解放へのメッセージを出しつつも、自分たちにこそきぴしい目を向けるべきでではないのだろうか。そうでなくとも、近頃では中国や朝鮮半島に対する憎悪を煽ろうとする勢力が存在するようなので、この問題が政治的に利用されることがないようにと願う。
2008/04/08
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先ごろ仕事をやめ、時間ができたので旅に出ました。5泊6日のひとり旅です。奈良県桜井市から吉野、十津川を経て玉置、そして熊野から伊勢まで回ってきました。紀伊の国はもともと木の国というだけあって、多くの巨木に出会いました。植林によって作られたのではない原始の森には、なんともいえない存在感がありました。長谷寺の月長谷寺近くの竹林から石神神宮の銀杏玉置神社の神木神倉神社の岩日本三名瀑のひとつ那智滝頭の宮の御手洗
2007/12/02
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最近バイオエナジェティックスの本を読み直している。そのなかでも興味をひかれたのは、個性をうらやむ東洋人というくだりだ。72年に書かれた本だけれど、それでも今の状況にあてはまるように思う。以下抜粋「私は数人の東洋人とワークをする機会あった。彼らの感情は、アメリカ人とくらべると、比較的表層部分にあったにもかかわらず、それを外にだすことがとても難しかった。東洋では感情を表にあらわさないのが習わしで、子供のころ、そうした行動をとって、恥ずかしいめにあったと、彼らは話してくれた。私が観察したのは数人にすぎないが、東洋人の無表情な顔については、以前から知っていた。とはいえ、家のなかであけっぴろげに感情をだすことは控えられるにせよ、彼らの家族のあいだには、愛情や、ぬくもりや、理解がみられる。東洋の国々の過密な生活状況を考えると、表現の抑制は、プライバシーを守るうえで必要な、文化的適応索なのかもしれない。東洋人が西洋のやり方に魅かれる理由は、その進歩した科学技術だけにあるのではない。それよりもむしろ、彼らは、西洋文化にみられる個人主義の精神や、自由な自己表現を自分のものにしたいと願っているのではないだろうか。西洋人と一緒にいると、自分の感情表現をブロックしていることが、ハンディに感じられる。自分だけが制限されているように感じてしまうのだ。個性とは、自己を表現するということであり、これは感情をオープンに表現するということである。したがって、感情が抑制されていて、表現できなければ、自己表現する自由があたえられていたとしても、あまり意味がない。深い感情がしみこんでいない個性は、単なる見せかけであり、自我イメージにすぎないのだ。ところで、私たちアメリカ人は、外見をよく見せることが得意なので、東洋人がそれに魅かれて、中身をよく確かめもしないで、私たちの製品である個性に手をだしてしまうと、損をすることになるだろう。東洋の人たちは、個性をもとめるあまり、、自分の感情を犠牲にしてまで、うすっぺらい自我イメージをつくってしまわないように、注意すべきだ。」アレクサンダー・ローウェン著 甦る生命エネルギーより近頃ますますアメリカ化が加速しているように感じる。以前からアメリカの影響下にはあったけれど、それでも日本はやはり日本であった。それが今ではライフスタイルや価値観そのものがアメリカ製に取り換えられようとしているのではないだろうか?それもまたアメリカのネオコンたちが主導する構造改革の結果なのだろう。欧米的価値やスタイルを否定するつもりはないけれど、日本的、東洋的価値をかくも無残に捨て去ってしまってよいものだろうか?西洋文化に功罪があるように、日本文化にも功罪があるはずだ。何も今に始まったことではないけれど、どうしてこうも日本人は自分たちで自分たちの価値を量れないのだろうか?スポーツだけならまだしも、映画やアニメ、小説までもが、海外で評価されてようやく安心して自分たちを評価しはじめる。なんという依存なのだろう?自分で自分に価値を置けないのなら、うわべの個性に何の意味があるのか?この内発性のなさは漱石のころから何も変わらない。それは日本文化の罪の部分ではないのか。
2007/10/15
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江原さんの講演会から3日後。僕はふたたび伊勢の地を踏んでいた。思いがけず実家からお呼びがかかったので、旅の道すがら伊勢に寄ることにしたのだ。前回は駆け足だったので、今回はゆっくり味わうつもりの一人旅だ。しかも新幹線だったのであっという間。楽チンこの上ない。前回行った猿田彦神社、外宮、内宮、月読宮、に加え、月夜見宮。大神神社を再訪した。今回は写真はあまり取らなかったのでゴールデン・ウィークに撮ったものとあわせて貼っておく。ここは別宮のひとつ月読宮。瞑想するには一番気持ちの良い清冽な場所だった。しばらくここで時を過ごす。神社の良いところは巨木が多くあることだ。石の聖地とは違い、より生きている感じがする。生きた聖地と言われる所以だろう。ところかわって、奈良県桜井市にある大神神社。三輪山自体をご神体とする古代信仰の息づくところだ。ここは誰でも受け入れてくれるようなおおらかさが感じられる。ここは癒しの宮として知られる摂社だ。病気平癒に効験があるといわれる。社の横にはご神水が湧き出していて誰でも飲むことができる。この狭井神社から唯一、神域である三輪山に登ることができる。訪れた時間が遅く入ることはできなかったが、次回はぜひ上ってみたい。ここは神域なので、礼拝以外の活動は禁止されている。タバコはもちろん、飲食することも写真を撮ることも禁じられている。今回いちばんおいしかったのは三輪そうめん。そうめんってあまり好きじゃなかったのだけれど、あまりのおいしさに驚いた!子供の頃の夏休み、昼ごはんは毎日そうめんだったので嫌になってしまっていたのだ。これを機に、そうめんを見直した。また食べたい!
2006/12/23
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少し前のことだけど、いま一番会ってみたい人No.1と言われる江原啓之さんの講演に行ってきた。それは島根県の観光課が主催する無料イベントで、出雲大社への観光を促すキャンペーンの一環として行われたもので、先着順で入れたのだ。テーマは「スピリチュアル・サンクチュアリ」平たく言えば聖地めぐりについてだ。期待の高まる中、演壇に和服姿であらわれた江原さんは、思ったとおりに丸く、そして温かかった。それはもうストーブのように温かかった。そして客席に向かって深く丁寧に何度かお辞儀をした。万雷の拍手である。それから最初から最後まで時間めいっぱい話しつづけた。きっちり一時間半。律儀というかなんというか。内容は出雲大社と出雲文化の特異性。そしてうまいものの話し。…近頃では自分のことを食いしん坊キャラとして定着させようとしているのかな?ダイエットはもういいらしい。話しは盛りだくさんで、出雲や神々、聖地めぐりについてだけでなく、いじめや虐待、自殺など、現代日本の風潮について強く憂いておられた。もともと日本は精神性の高い国。それが敗戦によりアメリカ的な物質中心主義になったことで、目に見えぬもの(すなわちこころ)を大切にすることを忘れてしまった。そして世代の特徴について…戦後間もない世代は食うや食わずで物質主義に走るのも理解できないことはない。団塊の世代は反発をしたけれど、イチゴ白書よろしく手のひらを返して社会に適応していった。その子供たちは主体性のない世代で、人に言われたとおりに生きてきた。親の言いなりになって受験戦争に明け暮れた。今の子供たちは無垢の世代。彼らは何も悪いわけではない。ただ何にもない。いいも悪いも何もわからない。だから道端に座っても何がいけないのかわからない。大人たちも美醜というものを語れないでいる。たとえいじめをやめろといったところで、大人がいじめ社会なのに説得できるわけがない。確かに最近の報道を見ていてもスケープゴートを求めているだけのように思う。まるで犯人探しをしているようだ。学校にも責任はあるだろうが、いじめた子供たちや親、クラスメート、その場に居合わせた人たち。そして地域社会や国、すべての人にいくばくかの責任を感じるべきではないか?その上でそれぞれが自らの心を見つめ、内省すべきではないのか?僕が個人的に印象に残ったのは、神道について話したことだ。「異論もあるかとは思うのですが、私は神道は宗教ではないと思っています。なぜなら神道には教えというものがないからです。そこには自然のエネルギーへの畏れ敬う気持ちがあるだけだからです。だから宗教というよりも霊的な文化と言えるのではないでしょうか?神道は国家に利用されたことがあるので、必要以上に神道を嫌う人もいますけど、それはとても残念なことだと思います。神道に限らず、捻じ曲げてしまうのはいつも人間なんです。神や自然は関係ないんですね。」うん。そう思います。そういうこともはっきり言ってくれてよかった。神社や神道というと、すぐ右に傾いてしまがちだから…そうでなくても右が勢いづいている昨今、そうしたことを明確にすることは必要なことだと思う。日本は精神性が高いなんていうと、すぐに日本は特別に優れた国家であり民族だなどと考える人もでてくるかもしれない。講演以外でも明確に平和へのメッセージを発信しているところがよい。講演自体は爆笑の連続、なごやかなもので、美輪さんをネタに何度か笑いをとっていた。講演中に携帯が鳴った。「事前に注意されても止めない人がいる…これ私だからいいんですよ!美輪さんだったら処刑ですからね!」(爆笑)でもこれはネタではなく事実みたいです。美輪さんのコンサートに行ったことのある人が言ってました。舞台上で「処刑に値します!」と怒っていたそうです。まぁ歌ですからねぇ。楽しく、いろいろ考えさせられました。
2006/11/18
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前回の日記、立川武蔵氏の講演で見た謎の呼吸法の謎を探るべく、絶版となった氏自身のマンダラ瞑想体験の本をアマゾン・マーケットプレイスで購入。読んでみて驚いた。氏がデモンストレートした呼吸法は、ほとんど自己流であることが判明した。氏は自分が出会った霊能者や巫女などとともに瞑想しているのだが、どうも憑依的な色彩が強い。ぴゅるぴゅる言っていたのも喉が勝手に鳴るだけで、鳴らしていたわけでもなく、何かを唱えているかに思えたものも、ただ無意識から出るがままにつぶやいていただけのことだったのだ。仏教的なものにはなかなかアクセスできないなどと言ってたが、できないのではなくしていなかったのだ。そりゃぁ本格的なマンダラ瞑想法や成就法にはアクセスしづらいとしても、阿字観やトラタックなんてものもあるのだから、実際に試してその味わいを知ることはできただろうに…なぜにそんなことをしているのか?そうした体験へのアプローチはひどく行き当たりばったりで、核心に飛び込むことなくまわりをうろついているだけのように感じられた。奥さんに一線超えると離婚だと、釘を刺されているからだろうか?つまり宗教学者であるのはいいけど、宗教者になってはならないということか…宗教体験などという主観世界を、学問などという客観世界から分析的に定量化しようとする不毛さにもどかしさを感じる。踊る阿呆に見る阿呆~!同じ阿呆なら踊らにゃ損!損!なのである。
2006/09/21
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先日、北浦和で行われているマンダラ展を見に行ってきた。このマンダラ展は以前大阪の民俗学博物館で企画されたもので、見損なったと思っていたものだ。そのうえ今回は宗教哲学の泰斗、立川武蔵氏の講演が聴けるというので行ってみた。正午に整理券が配られるとのことだったのだけれど、着いてみるとすでに長蛇の列。正直言ってマンダラや密教に興味のある人がこんなにいるのかと驚いた。少々なめていた。何とかぎりぎり整理券をゲットすることができた。講演会は立ち見が出るほどの大盛況。テーマは「密教とは何か」という大きなものだったけれど、密教(タントラ)の成り立ちとマンダラの使用法などわかりやすく説明していただき、へぇボタンを何度か押させていただいた。まぁ大乗仏教がお釈迦さんの教えでないことはまちがいない。さて講演の最後に立川氏は言った。「マンダラについてはわかった。仏の位置やシンボルもわかった。けれどそれが何なのか?それをすることによっていったいどのような精神状態になるのか?どのような効果があるのか?という一番大切な問題が残されている。」そして「いまから少し呼吸法を実演したいと思います。」と言うや、演題に立ったままうつむいて「ぴゅる…ぴゅる……ぴゅる……しゅっ…ずずず~っ…ぴゅる…しゅしゅっしゅ~…」今まで聞いたこともないし、吸っているのか吐いているのかも、どこから音が出ているのかもわからない呼吸をしはじめたのだ。そうしているとがくりと膝をつき片手を床につけると、何事もなかったようにすくりと立ち上がった。「このように言語中枢のスイッチを切るのは非常に簡単なんです。いま私は口もきけなかったし、このままつづけていくと1人で立っていることもできなくなるでしょう。言語中枢を切ってもイメージやリズムというのは非常に鮮明に心に残る。そういう状態でマンダラのイメージが身体の一部を通して入ってくるのです。」「けれどこういことをやっていると脳血栓や心筋梗塞になりやすい。だから他の人たちと一緒にやらなければそのまま死んでしまうこともある。」なんておっしゃる。チベット密教はいうに及ばず、およそ行者と呼ばれる人たちはみな何らかの方法で心身に過度のストレスをかけることで、死の領域に足を踏み込もうとしていたのではないだろうか。そこで得られる臨死的な体験や精霊たちとの交流、そして幻覚が何らかの力を与えていたのかもしれない。さらに呼吸法だけではなく、詠唱や音楽、ドラッグや酒、セックスなど、通常の意識状態を突破し、変成意識を得るためにありとあらゆる実験を繰り返していたのではないだろうか。そうしたところが、やはりオウム的というか、そうは変わらないように思う。だから、もとは「タントラで気持ちいいセックス~」なんてあまっちょっろいものではないんだよね。命がけなんすよ、きっと。念のために書くと、こうした行法には大きく二つに分けられると立川氏は言う。ひとつはシャーマン的でより呪術に近いもの。もうひとつは仏教的で個人の悟りを求めるものだそうだ。シャーマン的なものには容易にアクセスできるが、仏教的なものにはなかなかアクセスできないのだそうだ。立川氏自身もアクセスできていないのだそうだ。実はプロセス的にはさほど違わなかったりして…展示されているマンダラは比較的新しいものが多く。図像的にはおもしろかったけれど、おどろおどろしいものはさほどなかった。9月には以前日記に書いた本「性と呪殺の密教」の著者正木晃氏のマンダラ・ペインティングの講演もあるという。マニアックな方はどうぞ。
2006/08/22
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伊勢を離れて神戸に向かう途中、丹生川上神社中社に行ってきた。ここはマンガ「陰陽師」第八巻~天の川に行きて雨をいのること、の中でとても印象的だった三川合流の地だ。途中とはいえかなりの山奥、細い道をうねうねとしながら向かう。あまり通りたくはなかったのだが、天誅組終焉の地の前を通過していくことになる。(彼らも南朝方を玉に立てようとしたのだろうか…?)川沿いに細い道を抜けてようやくたどりついた。とりあえず拝殿にお参りして、右手にある井戸から御神水をちょうだいする。味はうまいようなまずいような微妙なところだが、社務所でペットボトル入りで売られているので、おなかを壊したりはしないだろう…そう心配するにはわけがある。丹生とは水銀であり、丹生と名のつくところはたいてい水銀の産地なのだ。さっそく目当ての合流地に向かう。川沿いに歩くとすぐに橋があって、マンガで見たのと同じ風景を見ることができた。さらに川沿いに行くと吊り橋があって、滝へと渡ることができる。ここはマンガの中で源博雅が笛を奉じたあの滝だ。思ったとおり、まことに清冽な土地だ。と言いたいところだったが…ときはゴールデン・ウィーク。しかも滝のすぐ後ろはキャンプ場として開発されている。川沿いは家族連れでにぎわっている。子供たちは川を駆けずり回り、おやじさんたちはビールをあおる。何よりもそろいもそろってバーベキューなんてするもんだから、そこら中に肉の焼けたにおいが充満している。勘弁しておくれ。ここは祈雨のために聖別された場所なのに…そんなところで肉を焼くなんて、洪水を祈るようなものでは?ここではどうか知らないが、雨乞いでは牛を屠って川に流すということが各地でおこなわれていたらしい。牛の血で汚されたことに川の神が怒り、川を洗うために大雨を降らすというのだ。もとは中国から伝わったものらしいが、「沈」という文字は雨乞いのために牛が流されるさまを象っているのだとか。血では汚れなかったが、匂いがすごかった。残念ながら、聖なる雰囲気はほとんど感じられなかった。なんとかならんもんだろうか…
2006/07/04
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教育現場で国旗掲揚と君が代斉唱が強制されているというニュースに危惧を感じる。ここで国旗や君が代の是非を言うつもりはない。しかし国が先頭にたって指導し、末端に至るまで徹底して従わせようという姿勢に問題を感じるのだ。国旗掲揚や君が代斉唱したい人がいてもそれに反対はしない。そうしたければすればいい。けれどそうしたくない人たちが処分されたりするのはファシズムとしか思えない。国旗掲揚や君が代斉唱は職務であり、それに従うわない者が処分を受けるのは当然だとの意見もあったが、そういう人たちは職務であれば何でもするのだろうか?たとえば政権が変わって君が代禁止になったとしても、それも職務だからといって素直に従うのだろうか?だとしたら日本が敗戦したときにたちまち変節し、民主主義を教えはじめた教師たち同じではないのか?およそ思想というものがない。上から言われたことにただ従うということは自らの知性を放棄するということだ。国旗掲揚や君が代斉唱を処罰してまで徹底させようという寛容性のなさは、多様性や個性、そして知性に反する。それがファシズムでなくてなんなのだろう?子供たちにはさまざまな考えがあることを教え、自分で考えるよう促せばよい。混乱はするだろうが、そこからしか知性は育まれない。
2006/06/20
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お参り旅はよかった。伊勢参りをして豊かな気持ちにはなれたし、確かに清澄なエネルギーに充電されたような気がするのだ。日本古来の言葉-山紫水明だとか、大和心だとか、晴明だとか-いうものを、具体的なものとして感じられた。けれどいったい何なのだろう?神道はかつて日本を統べる指導原理であり、神国日本幻想の素材にちがいない。伊勢神宮は今でも天皇家の祖神を祭る別格として天皇制を象徴するものでありつづけている。だからただただありがたがる気にもなれない。ある種の聖なるエネルギーが存在するというのはよくわかるし、世界中の聖地にはさまざま形でそれが存在しているだろうことも理解できる。それが元から聖なる場所であったかどうかとは別に、何千年ものあいだ、数しれない人たちによって拝まれてきた、あるいは祭儀が執り行われてきたという事実が、ある種のエネルギーを宿らせるという側面もあるだろう。だが、こうしたある種の聖性が、統治に、服従に、利用されてきたことも否めない事実なのである。"なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる"と、伊勢において詠んだのは西行法師である。涙こそこぼさなかったが、この感覚はよくわかる。それが何であるか、うだうだ考えることを大和心はあっさりと拒否してきた。神とはただただみやびなものだからだそうだ。あーだこーだと言挙げするのはみやびなことではないらしい…だが、判断停止するつもりもない。できるのは保留することぐらいだ。どうやら次回につづきそうだ…
2006/06/13
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何かと話題のダ・ヴィンチ・コード映画の公開をめぐって反対デモが起きたり、ヴァチカンが声明を発表したり。キリスト教が文化の根幹をなしていない我々からすると、対岸の火事として楽しめる。ダ・ヴィンチ・コードの中で挙げられている古代の異教や聖書編纂についての話しはよく知られたところであるが、イエスの子孫がヨーロッパにいたことや、シオン修道会なるものが実在し錬金術的な儀式にいそしんでいたというのは非常にあやしい話しだ。ましてやダ・ヴィンチがそれを暗号として書き残したというのはいかがなものか…ダ・ヴィンチ・コードの2匹目のドジョウを狙ってか、今度はユダの福音書なるものが売りに出されている。ユダはイエスを裏切ったのではなくイエスの指示によってピラトに訴え出たというのだ。けれど、そんな話しはユダの福音書が解読される何十年も前からささやかれていたことだ。さらにイエスは死んでおらず三日後にカシミールに逃げのびたという話しもある。というのもユダヤ式の磔刑では半日ぐらいでは死なないからだ。そのためわざわざ安息日を前にした金曜日に刑は執行されたというのだ。事態を収拾するためにイエスとピラトが仕組んだ狂言処刑だったというわけだ。義経ジンギスカン伝説よりは信憑性はありそうだ。さて対岸の火事でない話しはどうだろう。天皇家にまつわる歴史だ。キリスト教に負けず劣らずスキャンダルの宝庫だ。そもそも国家神道や天皇制は、キリスト教を模倣して国家統一の指導原理として明治政府が無理矢理つくりだしたものである。日本の精神文化に対して明治維新が与えたインパクトははかりしれない。何百年ものあいだ神仏習合だったものを政府が強引に引きはがし、寺も神社も国家の傘下に納めてしまったのだから。その明治維新にまつわる話しとして、すりかえられた天皇伝説がある。かいつまんでいうと、岩倉具視、伊藤博文らの策動により、非現実的な攘夷を唱えつづける孝明天皇を毒殺し、その後を継いだ陸仁親王(明治天皇)を暗殺し、長州藩が秘密裏に擁立していた南朝系の子孫である大室寅之祐とすり替え、明治天皇として即位させたというのだ。読めば読むほどありえる話しではある。少なくともダ・ヴィンチ・コードよりは信憑性がある。誰かこのネタを元にミステリー小説でも書いてみてはどうだろうか?もしかすると当たるかもよ。大室天皇考はこちら
2006/05/23
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旅館で食事を済ませ、いよいよ伊勢神宮へと参る。今回はスピリチュアル・カウンセラー江原さんの本江原啓之神紀行(1)を読みつつお参りしてみた。まず向かったのは猿田彦神社だ。猿田彦は天孫光臨の際、道案内をした地元の神様だということで、導きや新たな道を切り開くことに霊験があると言われている。詳しくはこちら露払い的な存在として、ここからお参りを始めるのがよいのだとか。いままでのお導きに感謝。もうひとつ境内にあるのは佐瑠女神社でアメノウズメ命を祭っている。アメノウズメと言えば、アマテラスがスサノオの狼藉に腹を立てて天の岩戸にこもったときに岩戸の前で踊った女神だ。それはもう踊りまくりで、乳はおろかアソコまで丸出しにして踊るもんだから、それを見た神々はどっと笑いだした。その笑い声を聞いたアマテラスは「何がそんなにおかしいんやろか?」と顔を出したところを御用となったのである。何とも愉快な話しである。こうした話しからアメノウズメは神楽、技芸、鎮魂の神として尊崇を集めている。人間的な魅力を祈るにはよいところだという。一通りお参りを終えたあと本殿裏を覗くとおみた祭なる看板が立っている。引き寄せられるように歩いていくと、そこには田んぼが…これは神様に供えるお米をつくる田んぼで、数日後に田植えの祭りが行われるというので、地元の人だろうか、苗の準備をしていた。さらに近づいていくと、田んぼの右手にある土手というか小山には、何とも言えない気持ちのよい静けさがあふれていた。それは豊かさというか、豊穣というか。やさしく輝いていた。やわらかな日差しに若葉が芽吹き、藤の花が咲き誇る。蜜を求めてクマバチが羽音を唸らせている。文句のつけようがないほど命にあふれている。こういうのを陽の気が極まるというのだろうか?しばし、うっとりである。
2006/05/18
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ようやく伊勢に着いた。と言っても泊まったのは二見浦である。二見浦といえば、誰でも一度は目にしたことがあるだろう夫婦岩で有名なところだ。宿屋は海辺の松林沿いにあって、部屋からも波音を聞くことができる。前日の疲れもあるけれど、早々に起き出して朝食まえに夫婦岩まで散策する。二見の町は何だか昭和を思い起こさせる。町並みや建物はもちろんだが、町内の大人から子供までが通りを掃き清めている。懐かしいというのか、ひさしぶりに行儀のよい日本人を見た気がする。今日はいい天気だ。絶好の行楽日和である。波も静かですがすがしい。十分ほどで夫婦岩に着く。夫婦円満(笑)を祈る。うそ!みな仲良くすごせますように、世界平和を祈る。なぜか二見には蛙の置物がいっぱい…詳しくはこちら!
2006/05/16
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なかなか伊勢にはたどり着かない。豊橋あたりで夕方の渋滞に巻き込まれ、ずいぶん時間を食ってしまった。湾岸道路にたどりつく頃には日もとっぷりと暮れてしまった。湾岸道路を使えば名古屋を迂回して伊勢に抜けることができる。強風の注意が表示されていて、突風が吹くたびにボックスカーはがたがたと揺れ、わずかにハンドルがとられる。湾岸地区には工場や化学プラントが数多く建ち並んでいる。夜の化学プラントはいかにも無機的で、近未来SFを思わせるのだ。STAND ALONE COMPLEX O.S.T.(音が出ます!)をがんがんにかけて少々ハイにぶっちぎる。なんとか無事に伊勢にたどりつくことができた。●菅野よう子 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX O.S.T.2 (2004/5/28)
2006/05/14
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さて昼飯である。東海道には数多くの宿場があり名物と呼ばれるものも多い。今回はそうした宿場のひとつ丸子宿の麦とろをいただくことにした。ここを選んだのにはわけがある。十数年前にも、関西~東京をくるまで旅したことがある。そのとき何も知らずに通りがかったのが、この丸子宿なのだ。当時麦とろなど食ったこともなかった私は、質素な田舎料理というイメージしかなかったので素通りしたのだった。のちに食べた麦とろは香ばしくてうまかった。今回はあのとき食べそびれた麦とろを食べてみようというわけだ。残念なことに一番の老舗丁子屋さんは連休を前にして臨時休業していた。おとなりの一松園で麦とろにありついた。どれどれうんま~い麦とろのみならず付け合せのむかごや金山時味噌、漬物などが絶妙にマッチしてうまかった。丸子宿は風情もあるし、なかなか満足な昼食となった。
2006/05/13
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ずいぶんと久しぶりの楽天です。予定していたイタリア行きが急遽中止になったため、このゴールデン・ウィークはひさしぶりに関西に里帰りしてきました。ただ里帰りするのもつまらないので、車でみちみち楽しみながら帰ることにした。江原さんの旅行記を読んだせいもあるのだけど、伊勢神宮と天河神社はわが師OSHOも多少の縁があり、前々から一度行ってみたいと思っていた場所なので、今回たずねてみることにした。横浜を出て東名をぶっ飛ばすも、足柄~御殿場あたりでそれはもうバケツをひっくりかえしたような土砂降りで、前がぜんぜん見えない。減速を余儀なくされる。江原さんの旅行記よろしく浄化の雨と呼ばせてもらった。最初にたどりついたのは静岡県原町にある松蔭寺。ここは臨済宗中興の祖、白隠慧鶴の生誕地であり没した寺である。「隻手の音声」や「趙州無字」の公案を工夫し、内観法や軟蘇の法を学び伝え、禅画をよくし、釈迦や達磨や観音の傑作を数多く残す。座禅和讃においてはThis very body the Buddha, This very place the Lotus paradise.「この身こそブッダ。この場所こそ蓮華国」と言いはなったあのお方である。境内に入ったのだがいまいち要領を得ない。ここはほとんど案内がないので何を見ていいのやらさっぱりわからない。しかも工事中なのか雑然としていて、静けさを感じない。勝手に上がりこむわけにもいかないので、寺務所(?)に行って取り次いでもらう。自由に上がって見学してくださいと言うので遠慮なく上がらせてもらった。道場の奥に木像があるというので参らせてもらう。なかなかの眼光で迫力がある。横から見ると茶目っ気がある。道場でしばらく座らせてもらう。少々かび臭い広間である。残念ながら禅画は蔵にしまってあり不定期にしか公開していないそうだ。一休寺のように小さな資料館でもつくって見せてもらいたいものだ。お墓も霊園の中に普通に建っている。一番左が白隠の墓だそうだ。質素もいいかもしれないが、あまりにもこじんまりしていて少々拍子抜けだった。
2006/05/11
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深夜アニメ「蟲師」を見てとても気に入っている。「この世界は目に見えない生命にあふれている」というキャッチフレーズそのままに不思議な世界観が静かに淡々と描かれている。公式ページへはコチラ!この世界には目に見えない蟲と呼ばれる生命体が生きていて、それがときに障りをなす。蟲師は自然に耳を傾け、そうした問題の原因を探り解決することを生業としている。そういう意味では蟲師は自然との調停者でありヒーラーだとも言える。自然に対するその眼差しはあくまでもやさしい。印象深いシーンや台詞も数多い。恐ろしい蟲をどうして抹殺してしまわないのかと問われて、「恐れや怒りに目をくらまされるな。ただ、それぞれが在るように在るだけだ。」という台詞が心に響く。昔の日本を思わせる風景になぜか洋服を着た主人公がひとり旅しているのだが、懐かしい世界に自分が迷い込んだようにも錯覚させられるし、目に見えない存在への畏敬が、物質的価値観一辺倒である現代に失われつつある日本的なスピリチュアリティを刺激する。そこが何とも言えずノスタルジックなのだ。話し自体もものさびしいマイナー調でよい。ついでに言うと、この蟲たちというのはスピリチュアル・カウンセラーの江原さんの用語で言えば自然霊にあたると思う。自然霊とはこの世に生まれたことのないエネルギー体のことだそうだ。お稲荷さんや天狗、竜神さんも自然霊なのだとか。蟲師のコミックを読むと、コラムに親類が狐に化かされたようなエピソードが紹介されていて、そうした話しが蟲師のインスピレーションになっているようだ。こうした話しを読んでいて思い出したのだけど、どういう縁かは知らないが子供のころ実家には道通さまというのが祀ってあった。道通さんは失せもの発見には抜群の効験があって何かというと家族皆お願いしていたものだ。さんざん失くしたものを探したあげく道通さんにお願いしてふと見ると、すぐそばの座布団の上に目当てのものがのっていたりするのだ。いくらなんでも先刻から何十回も通っているところだし、目につかないはずもないようなところだ。まぁ一度や二度なら偶然で片づけられるが、そうしたことが何度も繰り替えされると正直気味が悪いくらいだった。江原さんがテレビで「物がよく失くなったりしませんか?そしてこんなところから出てくるはずがないというようなところから出てきませんか?それは自然霊の仕業です。」と言っているのを聞いた。自然霊とはよくそうしたことするらしい。ということは、そもそも物を失くすのも道通さんにからかわれていたからなのかもしれない。家族全員うっかり者だとばかり思っていたのだが…ちなみに道通さんとは蛇なのだそうだ。その実家も阪神大震災で木っ端微塵になった。「蟲師」はオダギリ・ジョー主演で映画化されることが決まったそうだ。監督はなんと「アキラ」を描いた大友克広。これは少し期待できるかも…↓クリックすると楽天ブックスへ
2006/01/31
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今では超メジャーになったスピリチュアル・カウンセラーの江原さん。僕もまた江原さんの番組が好きで欠かさずに見ている。その卓越した霊視能力に加え、その解釈やカウンセリングの仕方に感服しきりである。先日人気番組「オーラの泉」で上原さくらさんの回を見てとても感銘を受けた。過去生、貧しさから遊女にならざるをえず、男性たちから見下げられたという経験から男性たちと闘ってきたということを聞かされ、涙を流す上原さん。江原氏が語る内容は過去生についてだけれども、それはセラピーで言う癒しの言葉だ。そのようにして涙を流すことで何かが解き放たれていた。江原さんも美輪さんも、そのようにして泣いているのはあなたではなくその過去生の女性なのだと言う。そして今その気持ちが理解されたことで成仏したのだと言う。こうしたことはセラピー場面でときおり起こることだ。セラピーでは成仏とは言わずにリリース(解放)と言う。僕自身もそうした言葉により深いリリースを体験したことがある。それは本当に成仏と表現してもよいくらいに、まるで身体の細胞の一つ一つからか何かが解き放たれて、浄化の涙が終わったあとには本当に身体が軽くなる。まるで本当に乗っかっていた何かが昇天したみたいだ。江原さんにはそうしたものが霊としてはっきり見えるのだろうけれど、何かの思いが人の上に乗っかることは案外普通に起こっていることだと思う。わかりやすい例を挙げるなら親が子供に対して寄せる期待なども生霊と言ってもよいと思うし、熱烈な片思いだってきっと生霊になっているに違いない。ただ死んだ人の思いであっても消えずに残っているだけではないだろうか?そしてときにはまったく見ず知らずの人の思いも拾ってしまうこともあるのだろう。そうした思いが受け入れられ理解されたとき、その思いは涙と笑みと共に天に昇るに違いない。あるいは無関係で聞き分けのないものはおっぱらうしかないのかもしれない。そうした意味ではある種のセラピーはいい意味で呪術的な要素が多分にある。原始的な共同体には精神のバランスをとるための呪術医や悪魔祓い師がいたものである。そしてそうした満たされない思いを理解し昇天させていたのだろうと思う。セラピーでは思いや霊とは言わず、ただのエネルギーとして扱うことが多い。
2006/01/23
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日記のアップがミョ~な感じ。リンクされているページに反映されていない模様。「新着記事がありません」と書いてある。日記の訪問者も半減!ど~なってんの~?これでど~だっ!と投稿してみる。
2006/01/13
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友人の薦めで「北の零年」を見たのだが、どうにもひどい話しだった。キャスティングという意味でも吉永小百合と渡辺謙は名優ではあるが、開拓するには年がいきすぎているし人間的にも完成されすぎている。若さ故の荒削りさがあったほうが役柄的にははまったのではないだろうか?人としての未熟さを感じさせたほうが後の変節にも納得がいくというものだ。吉永も渡辺もどっしりとゆるぎがなさすぎる。映画の内容には自立と依存についていろいろと考えさせられた。日本人は伝統的に自治よりも統治されることに慣れている。それはとりもなおさず自立よりも依存することと言い換えられる。分をわきまえ主君に仕えることがよしとされ、目上の者に刃向かうことは道義的にも咎められる。だから旧来の価値観が崩れ去って、仕える主君を失くした侍たちは泣きながら「これからは自分たちの国をつくるのだ」と言って髷を切るのだ。しかし、主君の代わりに現れたのは明治新政府という支配者だった。「決まったことだから」と紙切れ一枚で、血のにじむ思いで育ててきた馬を渡せと役人は迫ってくる。吉永はこれを毅然と断るのだが、それは反乱と断ぜられる。最終的には銃を持った明治政府の兵たちと鍬を持った村人たちが対峙することになるのだが、あるできごとにより最悪の事態は避けられる。そして村人たちは自分たちの国への思いを新たにして土地を耕しはじめる。このラストシーンでの解決にならない解決がいかにも日本的でいやになる。新たに土地を耕したところで役人は再びやってくるだろう。そのときはどうするつもりなのだろう?また幸運にも衝突が避けられるとでも思っているのだろうか?いつか自分たちの国がやってくるのを夢見ながら、じっと耐えしのんでいくつもりなのだろうか?アメリカはもともと開拓によって創られた国だが、自分で開拓した物はもちろん自分たちの物にしていたはずだ。それでも法律は必要だし利益を生まない公共サービスも必要だった。そのために税金を出すことで、そうしたサービスを委託したのが政府にすぎない。だから驚くべきことにアメリカの憲法には、もし国家が国民の権利を侵すようなことがあれば国民は国家と戦争をしてもよいと取れることが書いてある。アメリカ人が銃の所持にこだわる理由はここにあるわけだ。「自由を与えよ!しからずんば死を!」というわけで、彼らにとって自由のために死を前提に闘うのは当たり前なことらしい。日本人はそんな血なまぐさい解決を好まないから、よくわからないラストシーンになってしまう。お上や忠義という意識を捨て去らなければ本当の意味での自立や自治、ひいては社会に参画するという意識は生まれないだろう。アメリカ張りに小さな政府を標榜するなら民間に権限を委譲することになるだろう。社会的な構造が変革したからといってどれほど人の意識が変わるのだろう?忠義ではなく契約によってかかわるということは日本にとっては大変な変革であるはずだ。お上も忠義もいらないなら天皇さんもいらないんじゃない?そうしたことを踏まえたうえで現政権が構造改革を進めているとも思えない。結局、政官財はばっちり癒着していながら、貧乏人には自立しろと言って見捨てているだけの見せかけ改革なんじゃないか。「おまえら自立しろ!だけど愛国心を持て!」なんて、虫が良すぎるんじゃない?でもそうした状況を許しているのも自分たちの依存心にあると思うのだ。
2006/01/08
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。年末は掃除と料理でけっこう忙しい。料理といってもおせちを作るわけでもなく、出来合いの料理で簡単に済ましている。去年の秋よりノン・ミート・イーター(魚介類は食べる菜食?)になったので、いろいろと菜食レシピを探している。菜食といえばやっぱりインド料理ということで、さっそくインドのチーズ、パニールに挑戦。牛乳とヨーグルト、生クリームを混ぜて煮立て、レモン汁を投入し、水を切って出来上がり。材料さえあれば、あっけなくできるものだ。それでパニール・カレーを作った。こちらも思ったよりも簡単にできた。カシューナッツと玉葱をベースにした濃厚な、えびカレーでよく使うレシピだ。こいつを全粒粉でつくったパロタ(チャパティの一種)とレーズンライスでいただく。うん。うま~い!自分で作るとよろこびもひとしお。買い物に出かけるたびに美味そうな地酒を買っていたら、あららちょっと買いすぎました。まるで家が居酒屋のようになってしまった。ゆっくり味わいましょう。明日は温泉だ!
2006/01/01
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行ってきました癒しフェア2006とにかく人が多かった!それはおそらく美輪さん人気のためだろうが、朝から千人単位の行列だ。美輪さん講演の抽選券を手に入れて、何とか会場に入れたのは最初の講演も始まろうという11時過ぎだった。最初はちらりとミスティカのユニオ・ミスティ・オイルの講演を見に行くが、すぐにおいとまして「地球交響曲」の監督龍村仁さんの講演を聴きに行く。これが思いのほかよかった。実は今まで一本もガイア・シンフォニーを見たことはないのだけれど、ぜひ見てみたいと思うようになった。何かこの地球に起きていることの不具合な感じ。多くの人たちが感じているだろう、こうした違和感を映画を通して表現したかったそうだ。トマトの巨樹を育てる先生がいるのだが、監督はその先生に撮影に来るときはトマトに話しかけるように言われる。でもそんなことをしているのを人に見られるのが恥ずかしくて、スタッフに隠れてトマトに話しかけていたそうだ。そうしていると通常は60個しか成らないトマトが充分な水と栄養と愛情を注げば、1万5千個も成ったそうだ。そうした常識では信じられないようなことが実際に起こることを映画を通して感じられるのだろう。自分も含めたこの世界の生命に対する愛情が感じられて深く感動した。…疲れたのは、そのあと美輪さんの講演会の抽選に長蛇の列をなしているうちに、人酔いしてしまって気持ち悪くなった。しかも抽選にははずれた。縁がなかったようです。ガイア・シンフォニー公式ページ地球交響曲第二番 試聴できます地球交響曲第三番 試聴できます
2005/12/13
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以前テレビで見た「壬生義士伝」をDVDで再見。前見たときもそうだったけど、涙があふれて止まらない。非常に日本人的な話しではあると思う。要は自己犠牲である。愛する者のため、義のために死ぬのだ。後学のために、再度英語字幕で見てみると…ふむ、おもしろい!しかし、首をかしげるような英訳も何カ所かあった。「義」の訳がdutyだったのだが、これではずいぶんと感じが違うように思う。duty=義務、任務のために死ぬなんて…つまらないことだ。アメリカ的価値観に闇雲に乗り換えようとしている今、「利」はあっても「義」がなくなって久しい。人のためではなく、自分を生きるというのが当然になりつつあるけれど、いったい自己中心とどう違うのかはっきり区別できる人は少ないのではないだろうか。逆に社会や他者のために自分を殺したり抑えたりしなければならないとしたら、そんな社会は解放されなければならないとも思う。自分らしくありながらも、人を思って生きることに矛盾はないと思うのだけれど…どうも世の中どちらかに偏りすぎてしまうように思うのだ。
2005/12/06
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SFの中だけだと思われてきたサイボーグ技術(改造人間)が、まもなく実用化されるというドキュメンタリーを見た。それはアニメ「攻殻機動隊」そのままだった。まず一つ目は義肢や義眼の技術である。今では腕や脚を動かす神経からの信号をセンサーで読み取ることで、普通に手を動かそうとするだけで義肢が思い通りに動くのだ。最初それは異様なことなので手を動かすにたびに脳はパニックを起こすのだが、使い慣れてくるとまったく普通に使いこなせるようになる。そして手の動きがフィードバックされることにより脳は学習し、ないはずの腕の存在までも感じはじめるようになるという。目や耳のような感覚器官の場合は、脳に直接電極を差し込むことにより画像や音の信号を脳に送り、光や音を感じさせることに成功している。人工聴覚はすでに実用化されていて、耳が聞こえない子供に手術をし、訓練することで日常生活になんら支障がないばかりか、バイオリンまで習っているのだから開いた口がふさがらない。二つ目はパワード・スーツだ。これももとは障害ある人たちをサポートするために作られたロボット風の服なのだが、流線的でデザインもなかなかいけていた。このスーツは弱ってしまった筋肉の代わりをし、装着すれば歩けなかった人でも歩けるようになるそうだ。そしてそれは障害を克服するためだけではなく、工事現場や特殊環境での作業のために改良されようとしている。三つ目は脳の調整だ。脳が起こす病のいくつかは、脳深部の特定の場所に電極を差し込み微弱な電流を流しつづけることで、その症状を抑えることができるという。パーキンソン病での効果はめざましく、まったく奇跡としか言えないような効果があるのだ。電源を入れると瞬く間に症状が消え去っていくさまは感動的とさえ言える。病苦から解放された人たちは本当に涙を流して喜んでいた。アメリカではすでに2万人以上の人たちがこの手術を受け、日本でもこの手術は行われている。そして四つ目は電脳化である。脳に配線することでコンピュータと人を直接つないでしまおうというものだ。現段階ではカーソルを動かしてコンピュータを操作したり、テレビのチャンネルを変えたりする程度だが、その持つ意味は大きい。加えて記憶のデジタル化も研究されているので、やがては脳に直接データを送り込むことも不可能ではなくなるかもしれない。現段階ではネズミの記憶を保存する実験が行われている。病気や障害を克服するのはすばらしいことだけれど、いったいどこまで踏み込んでいいのか?それが問題である。アメリカ軍はすでにサイボーグ部隊を編成するために研究委員会を設立し、巨額の費用を投じはじめている。嗅覚を機械化しその感度を犬並みに上げることもできるし、視覚を改造すれば射撃命中率を格段に上げることもできる。パワード・スーツを着れば一万馬力。脳をネットワークにつなげば、離れたところにある戦闘機や兵器を操作することだってできる。脳の調整技術を使えば処理能力や知能をアップすることもできるし、恐怖やストレスを感じれば多幸感を生みだす脳部位を刺激して戦場に送り出せば、楽しそうに人を殺すかもしれない。実際快楽中枢を刺激することでネズミを思い通りに動かす実験映像もあったし、薬が効かない鬱病患者の脳深部に電極を差し込むことで、鬱にならないようにする治療例もあった。アメリカ軍はいったい何を考えてるんだ?まじめに言ってんの?人間を能率的に殺すために生みだされた改造人間…!?それだけでも身の毛のよだつような存在ではないだろうか?まぁ今でも普通の若者を殺人兵器に改造してるけどね…(泣)(そのあたりは映画「フルメタル・ジャケット」によく描かれている)いったいアメリカにとって人って何?アメリカ人の95%以上が神の存在を信じているのに悪魔の所行。デビルマンじゃないけれど「おまえたちこそは悪魔だ!」といって火を噴きたいところだ。誰かやつらに良心回路(若い人にはわかるまい)を埋め込んでくれ~!とマンガチックに解決したい。とほほ関連ページはここをクリック!攻殻機動隊SAC2はこちら
2005/11/08
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ベジタリアンの話からすすんで、暴力と攻撃性について考えていた。僕が考えていたのは、暴力性を避けるあまり正常な攻撃性までも否定することはないだろうということだ。先日読んだバイオエナジェティクス(生体エネルギー療法)の本の一節を要約します。「あらゆる表現行為は、自分自身の内部にあるものを外に向けて吐き出すという意味で攻撃的です。攻撃性は政治学で言うような暴力とだけ関連付けて考えるべきものではありません。愛の手を差し伸べることも、愛を得ようと努力することも攻撃的な行為です。「私はあなたを愛しています。」と言うのは「私はあなたを憎んでいます。」と言うのと同じほど攻撃的です。攻撃性は発言の内容にあるのではなく、何かに向けて行われる行為自体にあるのです。ですから、あらゆる自己表現には攻撃性がいくらかは含まれているものなのです。」「子供は家庭環境に順応しようとして、自分の感情の多くを抑圧します。恐れや怒り、悲しみや喜びの感情に両親は我慢できないだろうと子供は考えて、そうした感情を表現するのを控えはじめます。その結果、子供は従順になるか反抗的になるかのどちらかです。こうした態度はどちらも真正な感情表現ではありません。反抗はしばしば欲求の隠れ蓑ですし、従順はしばしば怒りや恐れの否定です。感情は、その人の心の奥底から自然に出た衝動、あるいは活動として湧き上がってくるものです。感情を抑圧するには、身体の活力や運動性を挫くか制限するしかありません。ですから、ひとつの感情を抑圧しようとするとすべての感情を弱めることになります。感情表現の抑制は、感情の喪失につながり、感情の喪失は生気を失わせます。思考がマインドの生命であるように、感情は身体の生命なのです。」あらゆる感情や思考に幸あれ。否定しなければならないようなものは何もない。要はそれをいかに創造的に表現するかだと思うのだ。
2005/10/21
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いまさらなんだけど、ベジタリアンになることにした。正確に言うとノン・ミート・イーターということで、魚介類は少々いただこうと思っている。もともとOSHOは菜食になるようすすめていたし、OSHOコミューンでは菜食がとられている。インドにいたころは、ベジタリアン・フードは普通なので何の苦労もなくベジタリアンでいることができたし、ことさら肉が喰いて~!と思うこともなかった。しかし日本に帰ってくると、ベジタリアンでいることには大変な労力が必要になってくる。まず外食ができない。となると、自分で三食つくらなければならない。が、正直なところ椎茸で出汁を取ってる暇はないのだ。ほかにもやることはたくさんある。というわけで、なし崩し的に弁当やら外食で済ませていた。そうしているうちに鶏肉なんかは普通に食べるようになった。そして豚肉も食べるようになり、焼き鳥屋なんかはお気に入りの場所のひとつになった。(関東では焼き鳥屋で焼きとん(豚)がでる)牛肉はほとんど食べないけれど、弁当買ったりすると入ってるし、スープの出汁になっていたりする。でも最近、なんとなく「可哀想だな~」と思ったり「なんか残酷だな~」と感じることが増えてきた。そんなこともあって、色々見聞しているうちに「菜食のススメ」というサイトに目がとまった。うすうす気づいてはいた畜産動物たちの残酷な状況の数々…それで「もう食べないことにする…」と誓ったのである。誓いというとおおげさかもしれないが、こうした現状を意識すればとても喉を通らないし、今までなし崩しになっていた労力を少しはかけるつもりになったということだ。サイトでは、菜食主義についての疑問や健康問題などについても詳細に述べられているので、細かいことはここでは論じない。そうした話は大筋で納得できる内容だったので、参考にするといいと思う。僕の場合、菜食(正確にはノン・ミート)をするのは残酷さを支持しないからだ。それは健康のためでも、地球環境のためでもない。さらに言えば、正確にはいわゆる動物愛護ということでもない。確かに動物愛護でもあるのだが、動物に限らず残酷な行為を許容しないからだ。そのような残酷さ(肉を喰うこと)を許容しながら、「イラク戦争反対」なんて言っても無意味だと思うのだ。特定の戦争に反対しているのではなく、あらゆる残忍さや暴力性に反対しているのだ。そして本当の意味で、残忍さや暴力性から自由になるには、菜食は不可欠なことのように思える。肉を食いながら平和を語るのは、ちゃんちゃらおかしいのだ。じゃ、なぜ魚介類は食うのか?おっしゃるとおりである。理由のひとつには菜食という食生活が確立されていないこと。そして魚介類にはそれほどの慈悲を感じていないこと。生きた魚をさばくことはできないと思う。しかし、貝を拾って食うことはやぶさかではない。いずれは本格的な菜食に移行していくと思う。とりあえずできることからはじめよう。菜食のススメはここをクリック!畜産動物の真実。それがミートリックス 菜食をすすめるものではありませんが…パロディが楽しい。さらにおまけ 有機食品が宇宙を救う!ストア・ウォーズ オーガニック反乱軍が添加物ダークサイドと対決! うますぎ!
2005/10/09
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Google マップって知ってた?俺ぜんぜん知らなかった~!いや~感動した。おもしろ~い。何がおもしろいって、サテライトボタンを押すと地図が衛星写真に変わって、かなりの倍率で鳥瞰できるんですよ!しかも世界地図よ!それで調べると、昔旅した場所が空からながめられた。以前アリゾナのセドナにホームステイしたときの家がはっきりと写っているではないか!?なんとなつかしい!この庭でよくタバコすったな~そうだCoffee Pot Dr.通ったよな~そのときよく通ったショッピングセンターやガススタンド、彼女とデートしたレストランまで写っているじゃないか!2年前尋ねたイタリアのイスキア島もばっちり写っている。あぁ~この道歩いたよな~ここのレストランうまかったよな~単なる地図を見るのと違って、写真だとそのときの情景をまざまざ思い出す。そして思い出の地インド、プーナへ!…う~ん、ちょっと倍率が大きくならないな~コミューンはこの辺かな~?でも、なんかうれしい~日本はというと、東京周辺以外は倍率が低くて建物一つ一つを判別できない。残念!いずれは世界中が高倍率で見られるようになるといいな。これさえあればナスカの地上絵からピラミッド、世界中の名所旧跡、美しい景色を旅できる。しばらくはこれで世界旅行を楽しむつもりだ。Google Maps Betaはてなマップ
2005/09/30
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気がつくとすっかり秋だ。風が涼しく、朝晩は寒いくらいだ。秋の虫が涼やかな声で大合唱している。僕の住んでいるあたりは、都会の割にはなぜか小山が点在していて、季節の移り変わりを身近に感じられる。リーリーリーリー仕事からの帰りに小山沿いの裏道を通れば、バスやトラックの往来する喧噪を避けて虫たちの声を味わうことができる。それはもう本当に大合唱で、虫たちの声がまるで押し寄せる波のように絶え間ない流れになって僕を包む。何やら家に帰るのがもったいないくらいだけれど、くらがりで座り込むわけにもいかないので、道々歩いたり立ち止まったり…先日、虫の声を愛でるのは日本人に独特なことなのだと聞いた。虫の声を聞くときに、日本人は脳の言語野が活性化するのだそうだ。それに対して一般の外国人は、単に音として処理するので、虫の声をノイズとしか認識しないのだそうだ。---車のエンジン音も虫の声も大差ない世界とは一体どんななのだろう?江戸期に来日した博物学者、シーボルトが驚いた日本の習慣のひとつが「虫売り」だったという。世界中の他のどこの国を捜しても、その声を楽しむために虫を売買したりする人を見つけることはできないそうだ。江戸期において、すでに鈴虫を飼育し卵を生ませ、また翌年卵を孵すための指南書が発売されていたというのだから驚きだ。それは庶民の風流な遊びとして立派に定着していたということを意味する。ドイツ人であるシーボルトは、こうした習慣を「西洋人である私たちにはまったく理解できないことだし、これからも理解できないだろう。」と書き残しているという。彼の予言はまったくそのとおりで、やはり西洋人には今でも理解できないことらしい。ただ、こうした脳の働きの違いは人種の問題ではなく、日本語を母国語として育った人に特徴的に現れることなのだそうだ。だとすると、それは完全に文化的条件付けによるものと言える。どうしてそんなことが起こるのだろうか?ここからは僕の勝手な想像なのだけれど…それは自然の中に主体を見いだすからではないだろうか?日本人は虫や鳥たちに主体があるものと捉えているので、彼らの声に何か意味を感じ取ろうとするのではないだろうか?それに対して西洋文化圏では、主体を持ち得るのは人間だけだという前提があって、虫なんかが何かを語りかけてくるわけがないのではないか?きっとキリスト教が大きく影響を与えているのだろう。この推論が当たっているかどうかはわからない。それに、こうした研究が他のアジアの人たちや少数民族に対しても行われているのかも不明だ。ただ、インストールされたOS(=文化的条件付け)によって、これほどの違いが生まれてくることに興味をそそられる。「この虫の声のよさがわからないなんて、まったくどうかしてるよ!」日本OSをインストールされている僕などは、本気でそう思うのだ。虫たちの鳴き声はコチラ!
2005/09/27
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ひさしぶりにしびれた~!そこは安定することのない水の世界。あらゆるものが流動的に動きつづけている。これぞ人生といった感じだ。安定や安全とはまったく関わりがない。いちばんしびれたのは、やっぱりマウイに現れる世界最大級の波JAWSにチャレンジするシーンだ。一瞬一瞬に気づいていなければ、あっという間に波に呑まれてしまう。気づきがあっても、最終的には呑まれてしまう。なぜ乗るのか?それは楽しいからだ。この映画を見るときは、ぜひ大きめの画面と低音部を再生できるスピーカーにつないでください。うちは画面は小さめだけどスピーカーはきっちりつないでいるので、波が落ちると「ドドドドドド~ッ」っと、すごい音がする。そしてそのたびにドアが「ガタガタガタ~ッ」っと震えるのだ。この音で波の重量感が実感できる。波って、こんな音がするのか。でかい!でかすぎる~!圧倒的なパワーとひとつになる瞬間…公式ホームページTrailer動画をCheck it up!
2005/09/26
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自民党の歴史的大勝で終わった衆議院選挙。勝つだろうとは思っていたが、ここまでの大差に、俺の頭の上には「?」マークが三本くらい立ったのだ。読み進めていくと、実はこれほどの大差がついたのは選挙制度のせいだということがわかった。全体の得票数では自民党と民主党の得票数の差は、38対31でしかないのだそうだ。それが小選挙区制のフィルタを通ると、296対113の議席の差がつくのだ。詳しくはここをクリック!は~っ、それにしてもこんなことでどーするんだ?郵政民営化だなんて言ってたのに、話はいきなり憲法改正案に飛んでるじゃないか。ついに軍備という禁断の果実に口をつけるのか?それこそが最大の公共事業になりうるのだから。そうした世論を醸成するのはさほど難しいことではないだろう。北朝鮮の脅威や中国での反日をおおげさにまくし立て、恐怖を煽り立てればよいのだ。そのような道を選択しないことを切に祈る。そのためには護摩を焚いたり、お百度を踏んでもいいくらいだ。そんなことしかできない。投票が済んだら後は見守ることしかできない劇場型民主主義なのだから。
2005/09/14
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ちょいと選挙について…郵政民営化選挙などと言うけれど、実のところどうなんだろうか?郵政民営化は大切な問題ではあるけれど、それだけを基準に投票するのも変じゃないか?国の借金は一千兆円を超えているらしい。一千兆円ってどんな数字だ?どこへ消えてしまったのかをまず教えてほしい。郵政民営化は理念の問題ではなく、そうでもしなければ破綻してしまう国家の財政状況が背景にある。きわめて財政的な問題なのだから、実務的、効率的に処理していただければいい。小さな政府というのもよいとは思う。んが、しか~し、新自由主義というのはやっぱり好きになれない。それは弱肉強食にすぎないし、フェアじゃないからだ。競争が許容されるのは、適度に同じ土俵で闘えるときのみだ。このままだとアメリカ的な社会に近づいていくから、やっぱりNoだ。子供たちが凍死したホームレスをまたいで学校に行くような社会を望むのだろうか?僕は望まない。競争のない社会、平等な社会というのも極端だし、奇妙に感じる。けれど、そこまでの格差がある社会というのも極端だと思う。そして何より、新自由主義的な際限のない経済発展というのは、もはや持続不可能だ。環境がそれを阻むことになる。持続可能な発展を模索するEUの方がよほど知性的な取り組みのように思えるのだが…日本ではどんな取り組みをしているのだろうか?市場経済は万能ではないことは明らかになってきているにもかかわらず、日本はアメリカと共に覇の道を歩もうとしている。右傾化してきていることは間違いない。だからやっぱり自民党には入れられない。かといって共産党や社民党もな~新党日本?う~ん、考える余地あるかも。
2005/08/29
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先日、川崎にある岡本太郎美術館へ行ってきた。行くきっかけとなったのは、岡本氏の著書「自分の中に毒を持て」を読んだからだ。とても刺激された。一番気に入った言葉は「生は無意味だ。無意味だけれど瞬間瞬間に爆発している。」それは西洋哲学の果てにある虚無を飛び越えて、生そのもののエネルギーに溶けてしまったかのように思える。彼の言葉にはアトミックな力がある。瞬間に命を爆発させるさまは、まるで核融合じゃないか。彼は絶対感ということばを使うのだけれど、生をわしづかみにした者は考え込んだりしない。ただ全面的に生きる。正しいのか間違っているのか、成功するのか失敗するのか、そうしたことを気にかけない。ただ瞬間瞬間に命をぶつけていくこと。それ自体で完結しているのだ。生き方について彼自身も大いに悩んだそうだが、あるとき自分自身を生きるために戦っていくと決めたのだそうだ。ギリシャ文学の最高峰「その男ゾルバ」を思い出す。インテリ青年である主人は言う。「ゾルバ。僕はもめごとはごめんなんだよ。」ゾルバは激しく問いつめる。「旦那!生とはもめごとなんだ!安全なのは死だけだ!」安全にうまくやり過ごそうと思えば思うほど、人は緩慢な死を得ることになる。岡本太郎の本を読んでいると、死人でも墓から蘇ってきそうな気がする。
2005/08/22
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ある番組で靖国参拝問題について討論していたのだけれど、そこでわかったことは、いわゆるA級戦犯に対する取り扱いが外交面と内政面では乖離しているということだ。この二重規範ともいえる状況は、対外的には東京裁判を受け入れることで国際社会への復帰を果たす一方で、内政的には後年になって戦犯の名誉回復が盛んに行われたことに由来する。東京裁判の是非は別として、いわばこの本音と建前的なところが、アジア諸国の不審を買い、痛くもない腹を探られるということにつながっているように思う。とても日本人的なやり方だと思うのだけれど、それが仇となっていることを自覚した方がよいように思う。「靖国参拝についてとやかく言うのは内政干渉だ」という声もあったが、内政面と外交面では対応が違いすぎるのだから、被害者であるアジア諸国からの批判があがるのは当然だろう。一方では反省しているといいながらも、戦争当事者たちを奉った社を参拝するのだから、「日本人は心の中では反省していない」と思われても仕方がないだろう。この状況をクリアするには、外交面と内政面の論理を一致させなければならないのだが、そのためには東京裁判という矛盾を解決しなければならない。極東における戦争犯罪を裁くと言いながら、敗戦国である日本が一方的に犯罪者として裁かれるということ自体が不当だったのだ。「犯罪だというなら、アメリカによる空襲や原爆で無惨にも焼き殺された人々についてはどうなるのか?これが犯罪ではなく何が犯罪と言えるのか?」そうした問題が必ず出てくることになる。だから本当にこの問題を解決したいと思うならば、アジア諸国と向き合うのではなくアメリカを強く追求しなければならないし、東京裁判の不当性と戦犯の名誉回復を今更ながら国際社会において主張しなければならない。ちょっと実現できそうもない話しだ。しかも難題はそれだけではない。もしそんな主張が通って東京裁判が撤回されでもしたら、もう一度戦争責任ついて総括する必要が出てくる。東京裁判の不当性について文句を言っているうちはいいが、戦争責任について問い直すとなると、今度は我が身に火の粉が降りかかることになる。何より天皇の戦争責任と天皇制の意義が問い直されることになる。果たして天皇を被告席に座らせることができるのか?そもそもそこから天皇を守るために戦犯たちは詰め腹を切ることになったのではないのか。政府としては、それは非常にやっかいな問題になるだろうし、どちらにしても利益はなさそうだから、あえてはっきりさせないほうがいいってことになったんじゃないだろうか?う~ん、日本人的だなぁ。腹芸の世界だ…まっ、とりあえずは、こうした矛盾を抱えたまま60年も経ってしまったのだと理解しておこう。
2005/08/18
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戦後60年を向かえて、多くのメディアでアジア諸国との相互理解をこころみる番組が多く放送されていた。そこで明らかになってきたことというのは、やはり日本の若者は歴史をよく知らないので、ろくに議論もできないということだった。そしてそういう歴史を教えないところに中国や韓国の人々は苛立ちを覚えているようだった。かく言う私は若者ではないが、おじさんである私も、詳細に歴史を調べたこともなければ、近現代史について学校で集中的に教育された覚えもない。歴史は縄文時代から江戸時代に至るまでかなり詳細に記憶させられたが、近現代史については飛ばし読みだったし、試験にも出なかったように思う。番組中にもそうした歴史教育についてふれられていたが、やはり近現代史を扱うとなると教師の思想性が問われるので、あたらず触らずやり過ごしてきた面はあるようだ。そこで番組では歴史を問い直し、アジア諸国と共通の歴史認識を持てるように互いに努力すべきだというところで、おそらくは決着したのだろうが、そこで私は少々の違和感を覚える。確かに正論なのだけれど、あえて日本人であると教育されてこなかった私などは、いまさら過去の歴史を背負い、日本人としてアジア諸国の人たちと対等に付き合っていきましょうというのは、ハトが豆鉄砲をくらったような思いがする。なぜなら、そうするためには日本人である必要があるし、日本人として態度を明らかにしなければならないと思うからだ。いまさら日本人などという枠に自分をはめ直すなんてできるものではない。戦後60年間、日本人であることについてはあまり積極的に語られることはなかった。そこには左翼的思潮の影響もあったのだろうが、東京裁判という理不尽や、整合性の取れない戦争責任にという問題もあったと思う。それを「戦争とはおしなべて悪いものなのだ。」という一点のみで片付けてきたのだ。次の世代の子供たちに重荷を背負わさぬよう、そうした語りつくせぬ思いを胸にしまって、戦争放棄という免罪符を盾に、ひたすら経済発展に邁進してきたのだ。その結果、日本人としてのアイデンティティを確立しないままに成人した僕のような者は、アジア諸国からは無責任な顔なしに見えるのかもしれない。けれど僕はそれでいいじゃないかと思っている。ここに初めて国民を意識しない世代が生まれたのだ。国家や民族というとらわれを課せられなかった僕たちは、自分で自分の顔を探さなければならないし、自分で意味を見出さなければならない。そこには確かにギャップが存在する。だが人が人であることに、日本人である必要も、中国人である必要も、アメリカ人である必要もないはずだ。やがて来る地球人の先触れとして、日本の寄る辺ない若者(おじさんやおばさんも)が踏み出せればよいのだが、それは言うほど簡単なことではなさそうだ。
2005/08/16
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盆休みに出かけるのはあきらめて、早めの夏休みということで伊豆に旅行に行ってきた。暑い夏にわざわざ暑いところへ行って、じりじりと日に焼かれると、夏気分がたっぷり味わえる。そうしていると子供のころの気分を思い出す。伊豆には山も川も海も、そして温泉もある。温泉に入ると本当にさっぱりする。スピリチュアル・カウンセラーの江原さんが、お風呂に入ると汚れたエクトプラズムが流れてきれいになると言っていたけれど、本当にそう思う。身体の周りのエネルギー体が一時的にでもきれいになる。下手なセラピーやボディーワークを受けるよりも、よほどさっぱりするし、少なくとも温泉に入ってからボディーワークを受けたほうが、セラピスト側もその分被らずに済むのじゃないだろうか。そんなおり、銭湯に関する番組を見ていたら面白いことを言っていた。入浴はもともと沐浴などの宗教的な儀礼、清めの要素が強かった。昔は、湯を沸かして入るというのはたいへんなコストがかかったので、寺院でのみ行われたそうだ。そして公共サービスの一環として人々に施したのが湯屋のはじまりらしい。後に浄土真宗などは「風呂に入ると心が落ち着き、仏のようにものごとの本質を見極められる」と言って入浴をつよく推奨したらしい。いったん風呂屋の暖簾をくぐれば、雑念を忘れて極楽浄土に入れると言うのだ。そうしたことを反映して、銭湯は神社仏閣を模した建築となり、湯につかると人々は「極楽~極楽~」と唸るようになったのだという。う~ん。これぞ湯の中の瞑想。この身こそはブッダ、温泉こそはロータス・パラダイスというわけだ。
2005/08/09
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ついに買った。VAIOノートを買った。コンピュータ歴10年ぐらいになるのだけど、実は今まで自分のコンピュータを持ったことがない。今までどうしていたのかというと、ぜ~んぶっ彼女のコンピュータを使わせてもらってたのだ。それでブログまでやっていたのだから世話はない。というか、今の彼女はコンピュータをほとんど使わない。メールも携帯まかせだ。それ幸いと占有し、メンテナンスばかりか周辺機器を買いそろえ、メモリを増設し,手垢にまみれて、すっかりマイ・コンピュータと化していたのだ。あるとき3万で譲ってくれと言ったらすげなく断られた。5年前には20万したDynabook。Windows98最後の世代だ。ハードディスク4,5ギガで頑張っていたのだが、このままではDVDを編集することも、iPODで音楽を聴くこともできない。そろそろほしいな思っていたところ、目に飛び込んできたVAIOノート。10万そこそこでこのスペック!ハードディスク60ギガ、15.4インチワイド液晶、DVDスーパーマルチドライブ!すごい!すごすぎる~!ギガという単位だけでおののいていた時代がなつかしい。高価なおもちゃに過ぎなかったコンピュータも、製品としてずいぶんと成熟したものだ。馬車とガソリン車くらいの差はある。というわけでここ数日、設定やインストールに追われる毎日なのだ。ふふふとほくそ笑みながら、スパイダーソリティアにはまっている。
2005/08/02
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ゴパルのグループはすばらしかった。軽くて深かった。彼がかけるダンス音楽はとっても変なやつがおおい。深刻にならないようにするためなのはわかるけど、本当にふざけた選曲だ。今回のヒットはボンベイのタクシー・ドライバーの歌。「うっちゃらなか~うんだ~なか~へいへいへ~いや!」とかなんとか、歌詞はよくわからないのだけれど、とても変な曲でダンスをするのだ。これじゃ~深刻になりようがない。今回は瞑想と催眠の中で起こることー観照すること、批判の循環、内なる本質、条件付け、意識と無意識などーについて、ホワイトボードを使って詳しく解説してくれたので、非常に濃い理解が得られたと思う。そしていわゆるネガティブな感情を表現することにも焦点が当てられ、自分としてもとても考えさせられた。感情を見るのはむずかしいーそれらを止めることなく、いかに創造的に使うのかはアートと言っていいのかもしれない。それは僕が学ばなければならないことの1つだ。こうしたグループは本当に自分自身を癒し滋養を与えてくれる。それは植物の面倒を見ることに似ている。木の生長はゆっくりとしていて目には見えないけれど、ゆっくりと確かに根付いていく。たくさん栄養をありがとう。
2005/07/26
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ゴパルが今年もやってきた。彼はプーナのOSHOコミューン(いまではリゾートというらしい…)で、長年にわたって座禅やヴィパッサナといった伝統的な瞑想と催眠のテクニックを使ったグループを指導している。ドライでストイックになりがちな座禅やヴィパッサナのような瞑想も、OSHOのガイダンスのもとでは、よりくつろいだジューシーなものになる。それは修行と言うよりも遊びだ。こんなにくつろいでいては求道者のエゴを持つこともできない。そうしたくつろぎの中で瞑想は容易に花開く。ゴパルのアプローチはいわゆるセラピーとはちがい、私的な問題に深入りすることはあまりない。先日、ある友人が彼のワークはまるで禅問答で有名な「ガチョウは出ている。」のようだと言っていた。うまいことを言うものだと思った。確かに、問題の中にいると思っていたのに、気がつくともう問題の外へと出ているのだ。くつろいだ雰囲気の中で瞑想はゆっくりと育っていく。まるで木が育つように。そうして座るとき、もはやゴールはない。
2005/07/22
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サイキック・マッサージのクラスではリーディングの練習をするのだけれど、正直「これだ!」と言い切れるほどはわからない。何かのイメージや台詞がやって来る場合もあるけれど、わからないときは本当にわからない。直感と一口に言ってもいろいろと種類があって、ビジョンとして画像を見ることや、台詞として言葉を聞くこともある。ただ質を感じることもあれば、フィーリングとして感じることもある。けれど何やらごちゃごちゃしててよくわからない。さらにそうして得た情報をどう評価するかが理解を要するところだ。ただ見たままをそのまま伝えるだけでは、あまり意味がない。そこに瞑想的スペースがあるかどうかでも評価が違ってくるし、人が成長することへの理解の深さがものを言うのじゃないだろうか。サガプリヤと出会って、ずいぶんと助けてもらったから、そのワークの真髄に触れたいと思いながらも、何せこのワークは僕には向かないとお墨付きをもらっていたので、別のワークにいそしむことになった。それはどういうことかと言うと、このワークで行うリーディングやレゾナンス・チェックをするには、内向的、女性的、静的な質が必要となるからだ。静まりきった水面が、鏡のように何でも映し出すことができるようなものなのだろう。ところが、僕は生まれつき外向的、男性的、動的な質の持ち主だ。だから、きっと僕は退屈してしまうだろうとサガプリヤは言った。それももっともだと思って、サイキック・マッサージではなくパルセーションのような、呼吸や感情開放を含む、もっとダイナミックにエネルギーを動かすワークをすることになった。今年、サガプリヤが行ったワークは昔のものとはずいぶん変わっていた。以前は女性性が強かった(優勢だった)けれど、男性性とのバランスをより強調するようになって、退屈なんてすることはなくなった。
2005/07/11
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ちかごろ日本酒を少々たしなんでいる。いまではよい酒もずいぶんと出回るようになっているけれど、ちょいと前までは大メーカーの三倍増醸酒ばかりが並んでいたものだ。知らない人のために言うと、三倍増醸とは醸した酒を水でうすめて、アルコールやら調味料で味を付けた、文字通りの水増し酒のことを言うらしい。どの程度薄めているのかは不明だが、いまでも醸造用アルコールが入っているもののほうが主流だ。だけど、そういう酒を飲むと実際気分が悪くなる。頭が重たくなって、二日酔いになる。しかも糖類なんて入っていると、妙に甘ったるく、口の中でべちゃべちゃとする。あの独特の酒臭さははそうした酒から生まれていたのかもしれない。そうした酒への反動なのだろうか?その後一気に淡麗辛口がブームになった。淡麗辛口もいいけれど、個人的にはわりとしっかりした味の酒が好きだ。そもそも日本酒を飲むようになったのは、社長に連れられて地酒飲み屋に行ったからだ。その店は東京の下町にありがちな、ちょいと変骨な親父がやっている店で、いろいろと決まり事がある。まず酒を飲んでいってはいけない。しらふの客にしか酒は出さない。よぱっらいには酒の味はわからないということだ。次に酒は大きめの杯に3杯まで。それ以上飲むとこれまた味がわからなくなるからだ。だから飲み終わったら、さっさと帰らなくてはならない。つまみはシンプルなものだけ。目刺しだとか、豆腐だとか。しかも酒の銘柄は選べない。おやじが決めるのだ。まず最初に体調やら好みを聞かれる。それに合わせておやじが段取りを決める。淡麗なものからはじめて、しだいに濃い味へと移っていくのだ。そのうえにだ。銘柄がわからない。酒はラベルのない一升瓶に移しかえてある。「酒は銘柄で飲むもんじゃないよ!」御説ごもっとも。しかし自分が何を飲んでいるかくらい知りたいのだ。買って飲むから!!そこはあきらめて素直に酒を飲むことに専念する。うま~い。つまみとの相性も抜群だ。酸味の入った濁り酒と豚バラの炙りの取り合わせはうまかった。日本酒でもこのような料理と互角に渡り合えるのだと知らされた。それから近所の地酒屋に行っては、四合瓶でいろいろと味見しているというところ。話は変わるが、日本酒は第二身体を溶かすという人がいたけれど、本当かもしれない。酒を飲んで酔うと身体のまわりが何やらぼや~っと溶けている感じはする。第二身体といえば感情体だ。いったん溶かして新たに再生することで、感情的にさっぱりするのかもしれない。そういう意味でも、酒は清めとして用いられ、神社に奉納されていたのかもしれない。ただしまともな酒でないと、さっぱりするどころかかえって重たくなってしまうから気をつけよう。まぁこれは酔っぱらいの与太話だと思ってください。酒は百薬の長。適量たしなむのが薬のうちですな。
2005/07/08
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前の日記から一ヶ月以上も経ってしまった。会社のホームページがリニューアルすることになり、そちらの仕事に巻き込まれて、毎日コンピュータとくびっぴき。家に帰ってからもコンピュータをのぞく気にもなれず、そのまま一ヶ月以上がすぎた模様。つかれました~ひとり人数が減ったままなので、忙しいぞ~!!そこのおまへ~きいてるか~?それでもこの間、温泉三回。湯河原に蛍も見に行った。毎週末、サイキック・マッサージの練習にも参加して、彼女とも喧嘩して、と~ってもいそがしかったのだ。やっと一段落着きそうなので、これからまた日記を書いていこうと思う。
2005/07/02
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ゴールデン・ウィークのグループはとても深かったので、単にすばらしいの一言では片付けられないくらいだ。きっとこのグループで得たインパクトを吸収するのに、3ヶ月から六ヶ月くらいはかかるのじゃないだろうか。僕自身は通訳だったので、私的な問題には立ち入らなかったが、それでもまだなんと言っていいのかよくわからない。3daysのグループは特にすばらしかった。サガプリヤも満足していたようだ。彼女のワーク自体もかなりバージョンアップしていて、本当にバランスがとれてきている。惚れ直しました。いま心に浮かぶのは―自分自身を満足させることをする勇気を持つこと。たとえ失敗しても、つねに別のやり方があること。そして人生に責任をもつこと。とりあえずは、こうしたことを覚えていよう。見るべきことはほかにもたくさんあったけど、いまはこれで精一杯。うまく言葉にならないや。
2005/05/09
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北海道でのグループはナイトセッションまであったのだけれど、毎晩のように僕とミキオは車をぶっ飛ばして温泉へと向かった。ここしばらく僕は天然温泉に飢えていた。確か二月に伊豆と箱根に行って以来だ。でも伊豆や箱根と北海道の温泉では、ずいぶんとパワーに差があるように思える。最初に連れて行ってもらったのは、ミキオおすすめの黄金湯温泉。ここは単純硫黄泉で、浴室に近づくとぷ~んと硫黄臭がしてくる。いよいよ久しぶりの源泉掛け流しだ。う~んっ(…つかっているところ)露天は少々熱めであまり長くつかっていることはできなかったけれど、川に面していてとてもきもちがよかった。まだ目の前には雪がたっぷりと積もっているので、出たり入ったりを繰り返す。ただ思ったよりも若い衆が多くて騒々しいのが残念だった。最近はだいたいどこでもそうだ。次はさらに山奥にある豊平峡温泉に行った。ここは少し不思議な温泉で本格インド料理を売り物にしているのだ。天然温泉とインド料理?どう考えても不思議な取り合わせだ。車を降りるなり温泉の香りではなく、強烈なスパイスの香りに迎えられる。厨房には10人くらいインド人が働いている。早速店内に入ってカレーを注文する。なかなかいける。うま~い。ちゃんとしたインド料理だ。さて、いよいよ温泉に入る。内風呂には仕事を終えたインド人7,8人が、やたら楽しそうにつかっている。けれど、お湯の色も手伝ってか、カンジスで沐浴しているようにしか見えない。お湯が濃いのだろうか、床や湯船の縁にカルシウムの結晶がこれでもかと言うほどついている。床なんて歩くのが痛いほどでこぼこしている。お湯は掛け流しを通りこして、垂れ流し状態。う~んっ(…つかっているところ)露天に出てみると、これはなかなか広い。というか、これだけ大きな露天はあまりないんじゃないかな?けっこう藻がついているのだが、ここの温泉では特に気にしていないというか、逆にそれを天然温泉の証として売り物にしている。この藻は光合成をして酸素を出すとても体にいいものだと看板に書いてある。関東圏では必死で掃除しているんじゃないかな?ともかく、月は見えるし静かだし、空気はうまいし、最高だな~豊平峡温泉へそして最後に訪れたのは、人気の秘湯(?)丸駒温泉だ。支笏湖畔にある天然露天で有名なところだ。天然露天というのは支笏湖とつながっている天然の浴槽で下に敷きつめられた玉砂利の下から直接お湯がポコポコと湧いているのだ。実は丸駒温泉を訪れるのは二回目だ。前回来たときにはそんなこととは露知らず、普通の浴槽にしかつからずに帰ってきてしまったのだ。それを帰り道で知ったときの悔しさといったら…だから今回はリベンジ(?)というわけで、どうしても天然露天につかりたかったのだ。念願の天然露天に行ってみると、深さが50センチほどしかない。ここは支笏湖の水位と連動していて、今ごろは一番お湯が少ないのだそうだ。ときには足がつかないほど深くなるという。お湯が少ないのは残念だけど、ちょうどいい具合に岩の枕を見つけると、気持ちよく寝湯を楽しむことができた。平日の昼間ということもあって、湯舟にはミキオと僕の二人だけだ。湯温もぬるめで長湯には最適。湖の細波を聴きながら目を閉じる。ときおり小鳥のさえずりが聞こえてくる。本当に静かだ。まるで自分が自然の一部…というかそこにある岩と同じになってしまったような気がする。目を開けると、青空に木の枝がかかって美しい。「はぁ~っ 帰りたくないなぁ。」丸駒温泉はお湯もさることながら、ロケーションも最高だ。これほど雄大な景色を見ながら温泉に入れるところもあまりない。北海道は雄大でいいな~首都圏を営業で回っていると、ほんにせせこましいというか、人間が小さくなりますぜ。人間の営みなんて小さいと思えるのがうれしい。丸駒温泉へ風不死岳を望むミキオの勇姿を見よ!
2005/04/22
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北海道のグループはすばらしかった。サガプリヤが参加者に話すことは、僕のハートにも触れて、ときどき泣きそうになる。彼女のワークはダイナミックにエネルギーを動かすものではないが、何か透明な力というようなものを感じる。信頼の力と言ってもいい。愛とか信頼とかいう言葉は、あまりにも抽象的に感じられるかもしれないが、それらが詩的な比喩などではなく、とても具体的なものであることがわかる。ほとんどつかめそうなくらいだ。そしてOSHOを感じる。OSHOでなければ光といってもいい。彼女がOSHOがワークすると言うとき、本当にそうだと思う。グループでは、仕事をしているときに自分がどのようにエネルギーを使っているのかを学んだ。―それを目的や欲望からしているのか?認めてもらったり、自分を証明するためにしているのか?―そこにはもちろん緊張や恐れがある。それとも、内面からやってきているのか?―それは無為の為だ。無為であっても、目的がなくても仕事はなされる。―それは自由で創造的だ。どちらを選ぶかは自分次第だ。そのほか内面の男性性と女性性のバランスやリズムについても学んだ。とても深いグループだった。グループ後にはほぼ毎晩天然温泉に連れていってもらえて大満足だった。ミキオありがと!温泉についてはまた別に日記を書くよ。美女たちに「低反発クッションみた~い」と、お腹をつつかれたり、つままれたりして、うれしいやら恥ずかしいやら…いや、とてもうれしかった!そしてウシャ、誘ってくれてありがと。また北海道にお邪魔したいです。参加者のみんなもありがと。LOVE
2005/04/21
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