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グアンタナモ収容所 地獄からの手記 モハメド・ウルス・スラヒ著 ラリー・シームズ編 2015年 2005年に収容者自身が書いた手記だそうだ。弁護団や各種団体が司法、軍と6年の交渉の末に公表することができたそうだ。 固有名詞、政府や軍に不都合な部分が黒く塗りつぶされたように印刷された本だ。注記で公表資料などから責任者などの推定解説がなされている。 メディアの常で騒がれた時期が過ぎるとその後の報道はほぼなくなってしまい、人々の記憶から事件は薄れてしまう。この事件も進行中であるにもかかわらず、そうなっているようだ。そうなることは、為政者にとっては願ってもない事であるのだろう。オバマは政権を引き継ぐときグアンタナモ収容所は閉鎖すると言ったが、まだ存続している。 編者の冒頭の説明以外は、収容中の著者自身による記述からなっており、ノンフィクションである証の傍証、裏付け論証の記述を望むべくもない。しかし、これまでに非人道的な軍の行為を報道で聞いていたかぎりでは、これもまた事実なのであろうと思える内容だった。 ひどい話だ。読む限りでは、恐れのあるものは手あたり次第に収監し、拷問し、情報をとり、情報をとれなくば、拷問により都合のよい内容の供述書に仕たて上げ、それを論拠に犯人に仕立てて投獄しているとの印象だ。 陰湿でおぞましい古くからある手口で、勇ましい正義の軍律とはほど遠い、冤罪によって自己保身をする司法と同じ体質のいくじのない軍隊に見えてくる。暴力装置を装備している組織による蛮行であるからなおさら卑怯な行いだ。 この収容所は、2001年にブッシュ政権が設置したもので、不法な敵性戦闘員を軍事委員会で裁定し、ジュネーブ条約の戦争捕虜でもなく、米国司法の適用外にあると聞く。法外な施設など軍により維持されていていいはずもあるまい。昔、ソビエトには多くの強制収容所があった。アメリカでは、今も司法が自国民を二百万人以上監獄に入れている。加えて、軍は、法規外で外国人をグアンタナモ収容所に入れている。 怯懦な軍隊の妄想の果てに危険分子の影が増幅されているとしたら、和解は果てしなく遠い。
Dec 24, 2015
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笠智衆、高倉健-銀四郎、宮口精二-区長、倍賞千恵子、寺田農、中谷一郎、なべおさみ、北林谷栄、矢崎繁、浜村純山本直純別窓再生
Dec 23, 2015
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遠い日の戦争 吉村昭 1978年 ベトナム、アフガン、湾岸、イラク、シリアと繰り返される戦争映像を見せられると、正義をかざす戦争と言われても、仕返し、腹いせでもあるかのようだし、犯罪者の矯正と言うより殺害による排除でしかない戦争もあるかのようだ。 戦争犯罪裁判も勝者による仕返しの正当化芝居である場合もあるようだし、反テロの基地やテロリストの基地でなされる捕虜の収監は、拷問の隠蔽実行であるかのようだ。 主義や政略のために民間人を殺害しても、目的のためだとして罪が隠蔽される戦争もある。戦争に付随して必ず蛮行が犯され、まさにそのような犯罪行為の塊が戦争でもあるようだ。 多くの文明が、現代においても、争いはじめたら、仕返し、腹いせをしあう、応酬する文明であるかのようだ。 70年前の日本の一般市民居住区域へのアメリカによる焼夷攻撃は、非戦闘員殺傷を狙うもので国際裁判所条例の違反であるから、その実行者は戦争犯罪人として重刑に処せられると判断し、殺害を命令し、実行した日本軍人達がいたそうだ。 日本の各地の都市ヘのアメリカによる爆撃は、老幼婦女子の焼殺となり、もはや、アメリカ軍は日本人を人間の集団として認めていないと日本人に感じさせるまでとなったらしい。九州で日本軍に撃墜された爆撃機のアメリカ軍搭乗員は捕虜として西部司令部に収監されていたらしいが、街を焼き払われた市民が、殺せと司令部に詰めかけたそうだ。女性もいたそうだ。 憲兵隊の適当に処置せよとの命に従い、秘密裏に九州大学での解剖死や斬首処刑がなされたそうだ。その間も連日、アメリカ軍による無差別都市攻撃、執拗な機銃掃射があり、学童さえも多数死亡していたそうだ。終戦が命令された後には発覚を懼れ、残った搭乗員の処置がなされたそうだ。 アメリカ軍は、爆撃機搭乗員捕虜殺害の戦争犯罪として日本の司令官、実行者たちを日本の警察に探し出させ裁いたそうだ。絞首刑は9名、終身刑5名、有期刑14名であったそうだ。 昭和32年には、終身刑の者も仮出所したそうだ。戦後、敵意は薄れ、時代に同化していったらしい。仕返しせず、腹いせもせず、恩讐の彼方にいられるようになったのか。 戦争へマスコミ・有識者・教師が扇動し、日本人が熱狂し、身を挺していた状況が、敗戦を境に、民間人を虐殺した者になびき、親しくし、軍人、政治家、財閥のみに責任転嫁する変節は、不気味だと言う。そんな考え方では、戦争の恐ろしさはわからない。物事もみえなくなると。
Dec 18, 2015
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収容所から来た遺書 辺見じゅん 1989年 隠岐・西ノ島出身でロシア語を東京外大で学んだことのある一等兵は、文書情報班に所属し、敗戦でシベリアに抑留され、収容所での壮絶な囚われの生活を課せられた。スパイとの戦犯扱いとなり重労働25年の一方的判決により矯正労働収容所にいれられてしまう。1000人ほど収容されており、団長は瀬島龍三中佐であったそうだ。 飢餓、栄養失調、極寒、不衛生、過酷労働、拷問、監視、思想教育、密告、私刑、懲罰、衰弱死、これらが支配した生活で、そんな中でも、人間らしく、句を詠み、語り合い、情勢を分析し、人々に未来を信じさせる主人公の生き様は、静かで強靭で囚われぬ精神の体現だ。その人柄により階級を超えて周りに人が集まったそうだ。「事実を通じて真実を、現象を通じて本質を」と生きたそうだ。 病に倒れ、死を迎えても、残した親兄弟妻子を想い、子供たちへの教育に日本の未来が賭かるとの決意を遺書に託し、没収されぬように仲間に記憶することを頼み、仲間はそれに応え、シベリアの土となっても遺書は日本の遺族に確実に届けられた。 遺書を読むと、愛情に溢れ、胸に迫る人の道を説くものだ。日本人に囚われぬ精神を教えるかのようだ。悲劇の極みだが、清々しい精神が溢れだす、日本人に宛てたかのような尊い永遠の遺書だ。 子供たちへの遺書の一節「日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれた道義の文化---人道主義を以って世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。 また、君達はどんなに辛い日があろうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するという進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。」 残された夫人は、隠岐から教職を求めて松江、大宮と移り、4人の子供を養育し、東大、東京芸大、東大、東京外大へ進ませたそうだ。生きて帰ってきた男 小熊英二 2015年 早稲田実業卒の二等兵が庶民の冷めた見送りの中で出征し、敗戦によりシベリアに抑留され、なんとか生還する。収容所は、食料、寒さが極限状態で、さらに精神的にも民主運動なる転向同胞からの思想教育、反動摘発、密告と厳しいものであったそうだ。 窮状は極限にあったが、所外の労働時にロシア人家庭に泊めてもらった時、日本では見られないほどの貧しい状況にロシアの家庭があることを知ったと。一方、ロシア軍では日本のように上官が殴るようなことは見受けられず、上官と兵がフランクに話す姿が印象的であったと。日本が、士官学校、帝国大学など学歴による階級社会で差別社会であることを痛感したと。 普通の庶民が否応なく戦争の惨劇に巻き込まれてしまうのであるから、巻き込まれた者は、何かに意気込むような生き方はせず、命を永らえるのが精一杯であったらしい。何かに囚われる精神は、胡散臭く、疎まれたのだろう。 1948年に帰国すると、収容所よりも日本の食事は貧しいものであったと。職を求め転々としながら生活を築いていく庶民に、頼れる支柱などなかったようだ。囚われず銘々が生き抜いた時代のようだ。
Dec 14, 2015
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日本とドイツ 歴史の罪と罰 川口マーン惠美 2015年 改題 日本はもうドイツに学ばない 2009年 前書きに欧米の対日観が書いてあった。 「5年前もひどかったが、さらにますますひどくなっているのがドイツの反日報道だ。真実とはかけ離れたことが主要メディアによって声高に主張されている。」 知れば、「海外での日本のイメージがいかに歪曲されているかに気づき、戦慄を覚えるに違いまい。」 果たしてどのような報道実態であるのか。まさか朝日新聞が誤報会見した虚偽捏造報道レベルかと心配になるが、VWの環境性能詐欺が指摘された時、ドイツのニュースキャスターの中には、VWの不正をさしおいて、この機につけいる企業があると、トヨタを名指しした者がいるとの記事があった。ドイツには、反日の意識があるようだ。 なぜなのか。ドイツの自己の利益都合なのか、自己の過去の目くらましなのか、中韓目当てなのか。 ドイツは、ホロコースト被害者への補償はしたが、法的責任を認めた賠償は受け付けず、戦時賠償はしていないそうだ。国民がナチスに熱狂した結果のうち、ドイツ国軍が行った破壊、残虐行為の賠償はしていないことになるそうだ。 戦時賠償を行った日本とは全く異なり、ドイツは連合国と平和条約を結ばず、東西分断され、40年後に統一されても戦時賠償は一切せず、その意志もないらしい。 ただし、敗戦後、ソ連は東ドイツや旧ドイツ領の工業資産をことごとく持ち去り、英仏は石炭・木材資源を奪ったそうで、奪えた国はそれでよしとするのかもしれないが、それもできない被害国はもっと多いはず。 メルケルは、変節してきているそうだ。当初、人権擁護発言して中国に対応していたものが、今では、「中国はドイツにとってアジアで一番重要な国」と公言。当初、原発擁護派であったものが、前政権がロシアと親密にしてエネルギーをロシアに依存し、脱原発推進であった政策と同じ方向に変化したそうだ。財政規律と言い、日本の赤字財政も批判している。 そして、ドイツのメディアでは、日本悪玉論があり、中韓擁護、靖国参拝批判、残虐行為を喧伝するものがあるとのこと。 他者を誹謗して世論を欺き、自己の権益をはかるやり口は、政治家、メディアが堕落し始める兆候だ。よく注意して見る必要がある。クールジャパンなどと安心してはいられないようだ。
Dec 11, 2015
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動くものをすべて殺せ ニック・タース 2015年 アメリカ兵はベトナムで何をしたか 1965年からベトナムでアメリカ軍は対共産主義との闘いとして戦闘を本格化したが、それに伴ってとんでもない戦争犯罪が広範囲に頻繁に繰り広げられていたことが明らかにされている本だ。 アメリカは、ベトナムの独立運動については、フランスや日本とゲリラ戦を戦うホーチミン等にOSSが武器を供与し、軍事訓練を支援していた。1945年にホーチミンが独立宣言した後は、トルーマンは、フランスの再征服を支援し、1953年にはフランスの戦費の8割をアメリカが肩代わりするまでに関与を深めたそうだ。 後年、中東でやったことと同じことをしていたようだ。 フランスが劣勢となり、遂に引き上げると、アメリカはベトナムの専制的な君主を支援し、1962年には一万人を超える兵を軍事顧問の名目で進出させたそうだ。 1965年には、共産主義との闘いとして戦闘が本格化していく。1969年には、54万人の米兵、その他に韓国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピンの軍が参加するまでに拡大したそうだ。 1975年、革命軍がサイゴンを陥落させて戦争は終わるが、この間にベトナム政府によれば、ベトナムの軍人は、100万人、民間人は、200万人が殺されたそうだ。正確な数字は不明だそうだが、2008年のハーバード大学の調査では、全戦没者は、380万人との報告もあるそうだ。 著者は、2001年に国立公文書館で別の調査をしている際に、国防省の特務班によるベトナム戦争犯罪作業部会の記録を読み、そこには、300件以上の犯罪通報、調査記録があり、殺人、虐殺、婦女暴行、襲撃、遺体破壊などの事件報告書、宣誓陳述書などの告白が保管されていたそうだ。これらをもとに、更に情報公開請求を続けながら、100人以上に聴取を重ね、本書をまとめたそうだ。あまたのベトナム戦争の出版物があるなかで、軍の捜査記録に基づく戦争犯罪の本は初だそうだ。 本書で告発されている内容は、凄惨で残虐で身勝手で猟奇的で、人間のおぞましい所業として極悪の頂点に達するものだ。これらの行為は、アメリカ兵個人の逸脱行為などではなく、軍の方針としてアメリカ兵から逃げる民間人は殺害するとした結果であると結論されている。 アメリカ軍は、殺害数を戦功の指標とし、ノルマを課して指揮者と兵を煽ったそうだ。非戦闘員の虐殺も偽装して戦果とし、指揮者の叙勲や昇進のためには非武装の民間人を殺して点数を稼ぎ、昇進をはかる軍人達が黙認されたそうだ。自由射撃ゾーンなる地域を軍が設定して、そこでは逃げる者は敵と見做し、民間人、女子を殺害しても責任はないとしたそうだ。 農作業をする人々、村に留まる人々に対して、攻撃ヘリで低空ホバリングして威嚇し、突然サイレンを鳴らして逃げさせ、機銃掃射して殺害する。「来る日も来る日も、毎月、毎年、延々と民間人を殺し続けた」そうだ。 問題となり、上院で行われた調査報告では、1968年までに自由射撃ゾーンで殺された民間人は30万人とされていたそうだ。それでも、アメリカは止めなかったそうだ。 ウエストポイント卒のエリート将官達は互いにかばい合い、犯罪を結託して隠蔽し、有罪の犯罪者でも刑期を軽減し、遂には逃がす。40年後、アメリカが起こした史上最悪の金融犯罪でも、犯罪行為に及んだ全員が処罰から逃げ切り、蓄財しぬいた。名門大学出身のエスタブリッシュメント達のつるんだ腐敗の構図と同じだ。 アメリカ軍は、ベトナムに広島の640発分に相当する破壊力の爆撃を加え、砲撃の着弾孔は2100万個に及び、撒かれた枯れ葉剤は7000万リットル、それを浴びせられた人間は480万人だそうだ。 農村は破壊され、焼き払われ、生態系は壊れ、人々は故郷を奪われ、難民化させられた。都市に逃げた民間人も攻撃され始め、都市も壊され、無抵抗を示しても捕虜にはせず殺害してノルマの充足に加算された。 ベトナム人を人間扱いせぬ態度は、政府要人から、軍の教官、士官、指揮者、兵まで貫かれていたそうだ。メディアの告発も機能せず、組織的に隠蔽され、忘れ去られる時間がかせがれたそうだ。ソンミ村ミライ集落での村民500人の虐殺事件は、遠い異国で異常な指揮官個人がおこした逸脱行為として情報操作され、頻発していた非道な実態は隠蔽されたそうだ。 あまりにむごい。
Dec 7, 2015
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空飛ぶタイヤ 池井戸潤 2009年 ホンダのホームページを見てみると、「本田は1969年度の新入社員への講話の中で、自動車メーカーに働く者の責任を次のように語っている(1969年4月発行のホンダ社報125号に掲載)。」とあった。「われわれは交通機関を扱っているかぎり、責任というものを絶対もってもらいたい。責任をもてないような人は、すぐ辞めてもらいたい。もし責任のもてない人がいたら、ぼくは指名して辞めてもらうかもしれない。それはなぜかといえば、交通機関というものは、人をあやめるからだ。ものすごい人身事故をおこす、人の命を預かるものだから、それだけに責任をもつことを強く要求する。(中略)われわれはきず物を売ったらたいへんなことになってしまう。だから、あくまでも、この職業についたが最後、絶対に責任の所在を明らかにする」。 この年に、米国新聞記事に発して隠密リコールの追及が日本でもなされていたそうで、米国輸出と関係ないホンダは、国内のリコールをすかさず発表したそうだ。さらに販売トップにあった軽のN360の事故について欠陥でないかとマスコミがバッシングし、翌年には消費者団体を名乗る組織が事故遺族のかわりとして告訴したらしい。特捜は運輸省、東大を使って検証し、結果は、事故との因果関係は認められず不起訴であったそうだ。 WIKIによれば、その組織の専務理事と顧問弁護士は、後にホンダへの恐喝で有罪となっているらしい。 空飛ぶタイヤのモチーフとなった三菱自動車・三菱ふそうトラックバスの業務上過失致死事件は、Wikiによれば2002年に起きて、別々の欠陥による別々の事故でそれぞれ犠牲者がでてしまったらしい。 三菱自動車は、1977年から内部告発されるまでの23年間にわたり69万台をリコールせずに隠ぺいし、ヤミ改修していたという。2000年明るみになったときは、報告を怠ったとしての道路交通法違反しか問われなかったが、二年後に致死事件の元凶となるクラッチとハブの欠陥対策は、隠蔽し、手を打たなかったらしい。 2002年の事故で元社長、元副社長、市場品質部長、同グループ長等が過失致死傷をとわれ、控訴審などを経て2012年までには、猶予付きの禁固刑が確定していったようだ。 2009年からのトヨタの米国でのマットリコール対応遅延の糾弾、急加速事故電子制御欠陥の冤罪は記憶に新しい。マット・アクセル関係のリコールをし、電子制御には品質を信じて米国議会に対応していた社長の姿は印象的で、疑いが晴れ、リコールも済まし、和解も完了させた今では、高い品質評価を取り戻し、世界で一番多くの車をつくるまでに回復したのは、見事だ。トヨタ式A3プロセスで仕事改革 ジョン・シュック 2009年Managing to Learn トヨタの思考方法、合意形成と協働精神、コミュニケーション、改善し続ける決意、そして責任にたいする考え方がとてもよく解説されていた。いわば、トヨタ道場で人間として学び、考え、成長することが仕事の信念であるかのようだ。これが身についている間は、仕上げられる品質は揺るぎないものとなるのであろう。 VWの詐欺事件では、VWの仕事に対する精神をいったいどのように理解すればいいのだろう。VWの実像をノンフィクションでよんでみたい。 本田宗一郎は、水質の環境問題が取りざたされる前から、借りた水はきれいにして返せと工場に命じ、排水をきれいにしていたそうだ。
Dec 2, 2015
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