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1/31 Sun子に教わる親の恩子どものことで困り果てて、もう、どうしていいか分からなくなってしまうというときが、親御さんなら、どなたにもあるのではないでしょうか。そういうときには、子どもをどうしよう、こうしようということはひとまずおいて、自分が子どものときのことを思いだしてみてほしいのです。これまで自分が親にどう対してきたか。自分がどんなに親に手を焼かせ、心配をかけたか。自分のために親がどれほどの苦労に耐えてくれてきたか……。それをすっかり忘れてしまって自分一人で一人前になったつもりでいるわけです。その自分を見つめることのほうが先だと思うのです。わが子のことで苦しみぬいて、初めて本当に親の恩が分かってくるのです。心の底から両親への感謝がわき上がってくると、心が素直になって、それで子どもの本当の心が見えてくるのですね。自分の子どものころのことも思い合わせて、子どもの気持ちが分かってきて、親と子の心が通い合うのです。毎日のご供養は、親の願いにこたえる誓いであり、ご先祖さまの願いをかみしめる行でもあります。その行がきちんとできるようになると、向こうから自然にお手配がついてきます。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.30
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1/30 Sat信仰の醍醐味お題目は、目に見えない仏さまと私たちの心を結ばせていただきたいという願いの言葉、と考えたらどうでしょう。それには、まず、法華経に惚れ込み、仏さまに惚れ込んでしまわなくてはなりません。心の底から惚れ込んだ相手だったら、なにを言われてもうれしくて、「はい」と素直に聞けますね。いつも、その人のそばにいたい。その人の言うことなら、「だって」だとか「そんなこと言ったって」などと口ごたえすることはありません。なんでも言われるとおりにしていて、それで幸福なのです。それと同じように、仏さまに心から惚れ込んでしまうと、おっしゃるひと言ひと言に、「はい」と素直に返事ができます。仏さまのおっしゃるとおりに一つでもできると、うれしくてたまらなくなってきます。これが、法華経に命をかけることだといってもいいと思うのです。そうなったら、もう、しめたものです。仏さまの偉大な力と、私たちの精いっぱいの努力の二つが一つになって、自分が変身してしまうのです。これが信仰の醍醐味です。経力の功徳にすっぽりと包まれてしまうわけです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.30
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1/29 Fri待ち続けたひと言長年連れ添った奥さんが一か月も入院してしまい、家事一切を自分でやらなくてはならなくなって、「妻の苦労が初めて身にしみて分かりました」というご主人がおられました。奥さん業というのは、食事、洗濯、掃除といった仕事の苦労もさることながら、くる日もくる日も同じことを繰り返し続けて、だれからも特別にほめられたり、認められたりすることがない。家の中は万事整っていてあたりまえで、ちょっとでも落ち度があると「一日中家にいて、なにをしてるんだ。だれのお陰で……」と言われかねません。それを「はい」「はい」と受けてくれていた奥さんの思いが初めて分かって、ご主人は、それまでの自分がいかに思いやりのない夫だったか思い知らされ、「私は、これまで一度も妻にねぎらいの言葉をかけたことがなかったのではないか」と愕然としたというのです。中年夫婦の離婚が増えていると聞いて、「ここまで連れ添ってきて、なにをいまさら」と不思議に思うのですが、ひと言でもいい、ご主人に言ってもらいたい言葉を何十年も待ち続けてきた奥さんの失望も一因なのではないでしょうか。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.28
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1/28 Thu「異類」との出会い職場で気心の知れた仲間と手慣れた仕事を続けているほうが、居心地がよくて、能率も上がるように思えます。しかし、そこには落とし穴があるのです。唐の南泉禅師に「すべからく異類中に行くべし」という言葉があります。異類とは経典にさまざまな形で登場する人間以外の存在です。私たちは、いつも同類の中にばかりいると自分の癖や好き嫌い、愛憎にとらわれて、かたよった見方から離れられないのですね。それを矯(た)め直すには、勇気をもって未知の世界へ、新しい出会いを求めていくことが大切だという意味にもとれましょう。慣れは甘えを生み、自分の癖をむきだしにしてしまいがちです。それが自分の成長を妨げ、小さく固まらせてしまうのです。自分の内に眠る可能性を開花させるには、新しい出会いが必要です。学校の新学期や会社の新年度は、その出会いのときです。「異類」との出会いは、緊張を強いられ、ときには苦しみを伴うこともあります。しかし、新しい出会いには必ず新しい幸せが待っているのです。そう信じきっていると、幸せのほうからこっちへ近づいてきてくれるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.28
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1/27 Wedプラス思考のすすめものごとを悪いほうに悪いほうにと悲観的に考える人は、とりわけリーダーにはふさわしくないのではないか、と思うのです。病気の人が、もうだめなんじゃないか、とくよくよ考え込むのと、必ず治ると信じるのとでは、回復力に雲泥の差が出てしまいます。心の持ち方の違いが、船の舵のように働いて、その人の人生の方向をも決めてしまうのです。私のことを人は楽天家だというのですが、私は、全力を尽くせば、必ず仏さまが最善の結果を約束してくださる、と信じきっているのです。私たちはだれしも、自分を守ろうとする自己防衛本能のほうが先に働くようにできていて、「もしも失敗したら大変だ」と身構えてしまうのですが、だからこそ、つとめて積極的に、よいほうによいほうにと考える習慣をつけておくことが大切だと思うのです。いつも笑顔を忘れずに、大きな声で、明るい返事を、と心がけるだけでも、心はガラリと変わってしまいます。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.26
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1/26 Tue励ましがコツ あまりにも聞き分けがない人に対すると、つい堪忍袋の緒が切れて、思わず大声を出してしまうことがあるものです。それで相手が納得してくれるのならいいのですが、逆に反発されたり、さらに、不満をくすぶらせてしまうことのほうが多いのですね。大きい声が出てしまうのは、こっちに、もうひとつ自信がないからです。それで、人の考えや立場を察するゆとりを失ってしまうのです。有無を言わせずに相手を屈服させようと、感情をむきだしにしたのでは、人は心を閉ざしてしまいます。道元禅師は、「弟子の非を正すときも、責めたりののしったりしてはならぬ。優しい言葉でも従うべきは従うし、従えないものは怒鳴りつけても従うものではない」と教えられています。力づくで人を動かすことはできません。自分でその気にならないかぎり人は動くものではないのです。どうしたら本気になってもらえるか。やはり、その人のよいところを見つけて、励ましてあげることが大切です。それがサンガの仕事だといってもいいでしょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.26
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1/25 Mon食膳での合掌 毎日、食事を頂戴する前に「いただきます」と合掌する習慣が次第に忘れられてしまい、それにつれて、食べ物への感謝の念がだんだん薄れてきているように思えます。いまの日本は、世界中からありとあらゆる食品を輸入しています。それが私たちの毎日の食卓に届けられるのですが、食べ散らかされ、むだに捨てられている量は大変なものだそうです。食膳での感謝の合掌は、たくさんの物の命を頂戴して生かされている私たちの命を、他を生かすことに役立てる誓いともいえましょう。それが、自分の役割、自分の分を知った生き方であり、そこから、本当の少欲知足の生き方が生まれてきます。それを忘れてしまったら、大自然の法則を踏みはずす生き方になってしまいます。ちょっとお米が足りなくなったといって、すぐに買いだめに走り回るというのではなく、毎日頂戴している物の命の尊さをかみしめなおし、少ないときこそ、互いに分かち合う喜びを知る機会にしていきたいものです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.25
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1/24 Sun耐えぬく力 よいことを聞いたら、すぐに実行する人と、そのときは「大事なことだ」と思っても、翌日はもう忘れてしまっている人とがいます。また、実行し始めても三日坊主で終わる人と、ずっと続ける人とがいます。その違いが人生を分けてしまいます。これから社会へ巣立つ若いみなさんに私がお願いしたいのは、「自分はこの人生で何をめざすのか」という目標を持ってほしいことです。社会人になると、なにごとにも責任が問われます。苦手な人や、つらいことにもぶつかります。そこで、ただがまんし、耐えるというのでは長続きしないのですね。耐えるのには、なんのために耐えるのかを自覚し、ここを耐えぬけば道が開けるのだ、という希望が必要です。スポーツの選手でも、甲子園をめざし、横綱をめざすからこそ地獄の特訓に耐えぬくことができるわけです。娘さんが結婚して子どもを授かって母親になると、別人のように変わってしまいますが、それも、わが子のためという大きな目標ができたからです。ただの苦役ではすぐに音を上げてしまう人も、自分はなんのために、だれのために生きるのかという目標を持つと、力がどんどんわいてくるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.24
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理想の母理想の母とは、どういう母をいうのでしょうか。それは、終生、子供から敬われるような母になるということです。もう一つは、嫁から「あのような母になりたい」と感心されるような姑になるということです。人間にとって母親というものは、いくつになっても尊く、懐かしいものです。いろいろな苦しみを味わいながら、己を忘れ、子を養い、それを恩に着せることもなく、子供と共に憂い、喜び、育ててくれる--母親とはそういうものであると思います。そのような母親が一人でも多くなれば、子供は健全に育ち、また世のため人のために尽くす人として、どんどん輩出されていくのだと思います。『佼成新聞』より
2010.01.22
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1/23 Sat結婚も仏になる修行私の祖父は、村で「仲人の名人」といわれたものです。祖父は「夫婦の相性は合わせ性」というのが持論で、「収入がよくて優しい相手をなどと注文をつけるのは、いい相手さえ見つければ、それだけで幸せになれると思っているからだ。先のことは、こっちの出方でよくも悪くも変わってしまう」と言い聞かせていたものでした。「苦は常態」というのが仏教の教えです。その苦とは、ただ苦しい、切ないということだけではなく、自分の思いどおりにならないこと、それが苦なのです。そう考えると、生まれも育ちも違う男女が生活を共にする結婚生活は、まさに苦が常態の毎日であるのが分かってくるのではないでしょうか。こっちの思いどおりにならない相手に、どう合わせていくか。その努力の中で互いに本物に成長していくのが結婚生活で、結婚も仏をめざす修行の一つと言ってもいいのですね。そこを覚悟してしまうと、結婚生活の一日一日が喜びの一日一日になってきます。人生は苦であるという教えを、あきらめのすすめのように思っている人がいますが、反対に、積極的に幸福を築いていく教えが仏教なのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.22
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1/22 Friお母さんの大事業動物は、知らない相手を恐れ拒絶する原始的な本能を具えて生まれてくるそうです。人間の赤ん坊も同じなのですが、お母さんの愛情によって、相手に対して心を開くことができるようになっていくのだといいます。お母さんは、わが子のどんな要求も無条件に受け入れてあげる愛情で子どもを育てます。その母親への信頼が人間全体の信頼につながっていくわけです。若いお母さんの子育てを見ていると、それは大変です。赤ちゃんは泣いたり、ぐずったり、熱を出したりで、お母さんはゆっくり眠る間もありません。まるで戦争です。それが、くる日もくる日も続いて、一日の休みもないのです。若いお母さんの中には、「女性だって自分の生きたい人生がある。育児にしばられたくない」と考える人も多くなってきているように聞きます。しかし、人間への信頼をわが子の心に植えつけるのは、お母さんの人生の大事業です。とりわけ三、四歳までの子育ての悪戦苦闘が、重大な意味を持つのです。地道そのものに見える子育てのご苦労が、世界平和の基盤づくりにつながっているのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.21
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1/21 Thu百の理論より一つの事実ご法のありがたさは、理屈だけではなかなか人に分かってもらえません。「こんなに口をすっぱくして話してあげているのに、なんで分かってくれないんだろう」と、じれったくなる人も多いと思うのですが、決め手は実例なのです。あなた自身が、法によってどう生まれ変わることができたか、どんなに幸せになれたか、自分が体験したとおりに具体的に話させてもらうと、相手の聞き方が違ってきます。百の理論より一つの事実です。人は、自分が心から納得しなくては、気持ちを変えられるものではありません。その納得は、理屈で考える脳ではなく、情緒をつかさどる脳の働きだと専門家は言っています。具体的な事実を目の前に突きつけられると、だれに説得されなくても、自分で自分を説得してしまうのです。それまで、いくら理路整然と説いてあげてもなかなか受けつけなかった人が、心から感動して、目に涙を浮かべて大きくうなずいてくださるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.21
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1/20 Wed経力を頂戴する今年も寒中読誦修行(かんちゅうどくじゅしゅぎょう)が始まりました。まだ夜も明けきらぬ早朝、寒さを吹き飛ばして道場へかけつけ、腹の底から声を出して真剣に経典の読経をすると、内から力がみなぎってきます。私たちが読誦するその法華経の経典の一文字一文字に、仏さまの願いが宿っています。また、これまで数えきれない人たちによって読誦されてきたその祈りが、お経にはこもっています。その仏さまの願いと一つになり、人びとの祈りと一つになったときに、法華経の経力(きょうりき)を頂戴することができるのです。仏さまのご守護とは、摩訶不思議な力で私たちの願いをかなえてくださることではありません。私たちがどんな困難にぶつかろうと、仏さまはいつも私たちについていてくださって、「私が見守ってあげているから、大丈夫なのですよ」「あなたは、そこを乗り越えることができる力を具えているのですよ」と後押ししてくださり、私たちの力を、ありったけ引きだしてくださるのです。それが仏さまのご守護です。その仏さまのお見守りを信じて、全力を尽くすことこそ大切です。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.19
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1/19 Tue求める心 私は子どものころから、人さまが難儀をしているのを黙って見ていられない性分でした。祖父や父の生き方を見ていて、自然にそれが身についてしまったのだと思うのですが、それで青年時代になると、見るもの聞くこと、「あれもこれも人助けに役立ちそうだ」と、自分のものにしたくなるのです。そうして、ついに法華経に出遇えたのでした。経典に、「見聞触知(けんもんそくち)、皆菩提に近づく」という言葉があります。ただ漠然と見聞きしているというのでなく、目的をしっかりと定めて毎日を生きる。真剣に求める。すると、その答えが読む本の中に、会う人の言葉に、また、出合う一つ一つのことに、次々と見つかるのです。それはたとえば、磁石が砂の中から砂鉄をそっくり吸いつけてしまうのに似ているのではないでしょうか。反対に、求めることのない人は、宝の山の中に埋まっていても、なにひとつ身につかないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.18
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大切なものは、みんな「ただ」素敵だなと思っている『ただ』という詩があります。『もっとも大切なものは/みな ただ/太陽の光/野の山の緑/雨や川の水/朝夕のあいさつ/神への祈り/そして母の愛』(作・河野進氏)。私たちは、「ただ」だからあまり大切にしない、どうしてもそのようになりがちです。しかし、「ただ」のものほど有り難いものはなく、本当に大切にしなくてはならないのだと思います。「母の愛」と最後に述べられていますが、母親の愛が深ければ深いほど、子供もしっかりとした人間に育ちます。愛情の深い、慈悲の深い女性が一人でも多くなることが重要なのです。最も大切なものは「ただ」でありますが、それを大事にすることこそが、家庭をととのえ、社会を平和にする一番のもとになるのです。『佼成新聞』より
2010.01.18
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1/18 Mon「宝石になろう」ノートルダム清心女子大学の学長をしておられた渡辺和子先生は、少女時代、自分の性格の嫌なところばかりが気になって、「自分は石ころだ」と思い込んでいたそうです。ところが大学生のとき「あなたは宝石のような人だ」と言ってくれた人がいて、「そうだ。それなら宝石になろう」と心に決めてしまったのだそうです。すると、人に笑顔で接することができるようになってきた。腹を立てずにいられる。だんだん相手を思いやれるようになった、と著書に書かれています。『法華経』の「五百弟子受記品」には、自分などつまらない人間だと思い込んでいた若者が、襟にすばらしい宝石が縫いつけられているのを教えられて生まれ変わる「衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬え」が出てきます。渡辺先生のお話もそっくりそのままではないですか。「若し法を聞くことあらん者は 一(ひと)りとして成仏せずということなけん」というのは、ここなのです。 法華経によって、自分はつまらない人間どころか、宝石だったのだと気づいたときに心の底からわき上がってくる感動、それが精進の起爆剤です。磨き上げれば、一人ひとり、だれにも負けない輝きを発するようになるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.18
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1/17 Sun一つの自信がだれも初めは自信がなくてあたりまえなのに、失敗を恐れて自分に閉じこもってしまうのは、一種の増上慢(ぞうじょうまん)なのではないでしょうか。会社でも、伸びない社員は、できない理由を人のせいにして、自分で問題を解決しようとしない人が多いといいます。自信のない自分を、がんこに主張しているわけです。私も、十八歳で田舎から上京してきた当座は、素早く立ち回る都会の人を見て気後れがして、一つ失敗すると二つも三つも失敗するというふうでした。いくらか自信が持てるようになったのは、仕事を終えたあと、近くの道場へ柔道の稽古に通うようになってからだったように思います。自分を励まし励まし一日も休まずに通ったものですが、そのうちに、相手と四つに組んで、ときたま勝てるようになると「自分も捨てたものじゃないな」と、自信らしいものが生まれてきました。一つのことをへこたれずに続けていれば、必ず、なにかがつかめます。一つ自信ができると、それが、さまざまな自信につながっていくのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.17
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1/16 Satすべてを抱える器大勢の力を集めて事業をやろうとすると、さまざまな誤解や中傷は避けられません。そうして足を引っ張るのは、外の競争相手や敵意を持った人ばかりかと思うと、その元は内部にあることが多いのですね。組織の中にそういう人がいると、「そんな危険な人間は切り捨てなければならん」と考えるのがふつうです。ところがお釈迦さまは、自分に背く者をも懐に抱え込んでしまわれるのです。がまんして使ってやる、警戒しながら使っていくというのではありません。そういう人を「自分を大きくしてくれるお師匠さん」と決めてしまうのです。そういう心になると、なぜ身内の人間がそこまで追い詰められてしまったか、考えずにいられなくなってきます。こちらにも反省しなければならないところがあったのではないか、と考えられるようになってきます。これが『法華経』の「提婆達多品(だいばだったほん)」の教えです。そういう考え方ができるようになると、どんな問題が起ころうと、また、どんな人に対そうと、腹が立たなくなります。信仰者であることの第一の条件は、どんな人も信じきって、豊かな、ほがらかな気持ちで対せることだと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.16
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1/15 Fri信念をとおす このところ、寒さがいちだんと厳しくなってきました。だいぶ昔の話になりますが、私が十八歳で再上京して炭屋さんに奉公したのは、寒さがいちばん厳しい真冬のまっさかりでした。それまでどんなにつらい畑仕事でも平気だったのに、手にあかぎれができてパックリと割れ、血がにじんだものです。その血の流れる手で夜遅くまで炭を切り、薪割りをしたことが、寒さが厳しくなってくると懐かしく思いだされます。当時は、将来何になるという具体的な目標はありませんでしたが、とにかく「私は日本一になるんだ」という気持ちで、「なにごとであれ一生懸命に働かなくては日本一にはなれない」と自分に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせたものでした。そういう気概を持っていましたから、仕事がつらいから手を抜く、といった気持ちは毛頭起こりません。「この程度の仕事に耐えられないで何ができるか」と、なにごとにも挑んでいく心意気で、その気概を、私はその後も変わらずに持ち続けたのでした。私はいまも、なにごとも真剣に、まじめにやり続ければ必ず道は開ける、という信念を持ち続けているのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.15
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1/14 Thu背中はうそがつけない 人には欠点は隠しておきたい、よく見られたい、と思うのが人情で、だれしも、人さまに見せる顔は多かれ少なかれとりつくろっているのですが、背中はうそがつけません。心をそっくりのぞかせてしまうのです。人さまの目というものは、正面からだけではなく横からも、うしろからも注がれています。顔や言葉をいくらつくろってみても、心に思っていることは、その姿に現われてしまうものです。ですから、口先だけで教えが分かっているようなことを言っても、実際にちっともやっていないのでは、そっくり見すかされてしまうわけです。佼成会では「うしろ姿で導く」大切さを強調しますが、「この人についていけば間違いない」と、自分のうしろ姿で教化できてこそ本物です。どうしたらそれができるのか、至難なことのようにも思えますが、自分が心から尊敬する人をお手本にして、「あの人のようになりたい」と真剣になると、いつのまにか自分のうしろ姿が整ってくるのです。「拝む姿が拝まれる姿」というのもそこです。謙虚に学ぶ姿勢が自分の背中、つまり毎日の言動に自然ににじみ出て、みなさんの謙虚な心を招き寄せるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.13
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1/13 Wed物があり余る怖さ「比叡山の歴史をみると、貧乏のときほど修行がさかんだったようです」と、山田恵諦座主からうかがったことがありました。「衣食足りて礼節を知る」という言葉があって、豊かな時代になって生活にゆとりができれば、人は自然に内面を磨き、礼節を知るようになるように思えますが、必ずしも、そうとはいえません。逆に、外側の物質的な楽しみばかりを追いかけがちな一面をも持っているのです。むしろ貧しい時代、危機の時代のほうが、内面を真剣に見つめるようになることが多いのです。この世に、むだなことは一つもないといいます。これまであり余っていたお米が急に足りなくなってきた、と報道されていますが、それも、お米のありがたさを教えるため、と受け止めなくてはならないのではないでしょうか。あり余っていると物のありがたさを忘れてしまうのです。いまや日本の国ほど物を粗末にする国はないとさえいわれます。私たちが食膳に「いただきます」と合掌するのは、さまざまなものの命を頂戴して、自分の命を養わせていただく感謝の言葉です。そうして生かされている命を、どう使わなければならないかをかみしめる機会を、むだにしてはなりません。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.12
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1/12 Tue相性を育てる夫婦の相性のよし悪しがよく言われます。相性がいいと、一プラス一が、三にも五にもなるのです。日蓮聖人は「異体同心なれば万事を成ず」とおおせられましたが、それぞれ持ち味の異なる人が心を一つにすると、考えられない力が生まれてきます。相性は性格や考え方が似ていたほうがいいんだ、いや違ったほうがいい、とさまざまに言います。しかし、大事なのはめざすべき共通の目標を持てるかどうか、心を合わせて行動できるかどうかではないでしょうか。「愛するものは同じ岸を歩け。別々の岸を行くと、川下に行くにつれて手をつなげなくなる」という言葉があります。ただ、口で「同心」を唱えるだけでは、一つ心になれるものではありません。共通の願いを持って、苦楽を共にしてこそ同心が育っていくのです。それは夫婦だけでなく、サンガも、会社のような組織も、さらには、国も世界も同じでしょう。願いを一つにして共に行動することが、いまほど大切なときはありません。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.12
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1/11 Mon青年の大変身青年を育てるのが上手な教会長さんは、若い人を喜ばせることが上手な人なのですね。といっても、言いたいことも言わずに、お上手ばかりを言っているわけではありません。ちょうどいいようなことを言って青年をおだてていれば青年が喜ぶかというと、そうではなくて、青年を信頼して、まかせることが大事なのです。仕事を押しつけたりしたら嫌がって逃げだすのではないかなどと心配して、自分一人で苦労している人がいますが、それでは、「あの人は、人を信用してまかせることができない人だ」とみられるのが落ちです。青年にまかせたら、結果は満点というわけにはいきません。当然、不十分なところが出てきます。そこを、手をとって教えてあげる。それでうまくできたら、一緒になって喜ぶ。思いっきりほめてあげる。一つのことを成し遂げ、人の役に立てたと実感できることほど、青年にとって大きな喜びはないのです。もう一つ大事なのは、間違っても「うまくできたのは私が教えてあげたからだ」などと言ってはならないことです。本当の喜びを知ったら、青年は大変身を遂げます。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.11
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1/10 Sun一日の重さ映画評論家の淀川長治さんは、毎朝、目を覚ますと「今日は平成四年一月十日、私の一生で、地球の歴史の中で一日しかない日だ。だから、ニコニコしていよう」と口に出して唱えられるのだと、新聞のコラムに紹介されていました。今日しか会えない人だと思ったら、仏頂面はしていられません。今日しかできない仕事だと思えば、いいかげんにはできません。「人生別離に足る」という漢詩の一節を、「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」と作家の井伏鱒二さんが名訳されていますが、今日のこの一日とは今日でお別れしなければなりません。それが「諸行無常」です。だからこそ、そのかけがえのない一日を最高に生きようという積極的な生き方が、法華経の生き方だといってもいいでしょう。お互いさまに今日という一日の大切さを、かみしめ直そうではありませんか。私は八十五年という年月を生きてきて、一年ごとに、一日ごとに、ますますその重さを思い知らされるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.10
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1/9 Sat勝利の女神に愛される 年をとって、見るもの聞くこと、いちいち腹立ちの種になるという人がいます。それとは反対に、いつもニコニコと若い人の言うことを聞き、相談にのってあげるお年寄りもいます。その違いはどこにあるのでしょうか。なにもかもしゃくの種という人は、「これだけやってきた私に、みんなが感謝すべきなのだ」とか、「老人はいたわるべきなのだ」と、まわりへの要求や期待が強すぎるのですね。自己主張が強いようにみえますが、本当は、周囲への依存心が強いのです。元気なお年寄りが多く長寿村といわれる村のお年寄りを調べてみると、相手に何かしてもらうのではなく、隣の人に何か自分にできることはないか、都会に出ていった息子夫婦に何かやってあげられることはないかと、それだけを楽しみにしている人が多かったといいます。将棋の米長邦雄名人が、おもしろいことを言われています。「勝利の女神に愛されるのは、笑いと謙虚さを失わない人。ねたみ、ひがみの人はだめ。だから勝利の女神がいちばんお好きなのは、お釈迦さまだと思います」 庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.09
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1/8 Fri怖れを除いてくれる人病気の苦しみによるうめきも、その半分は「私の苦しさを分かってほしい」という訴えだといいます。ですから、そばについていて手をにぎってあげるだけで、痛みが半減するのです。経験の豊富なお医者さんは、その患者さんのつらさや心配を自分が受け止めてあげて、「そうだね。ここが痛いんだね。つらいんだね」と患者さんの訴えを、もう一度繰り返して口にして痛みを共にするのだといいます。大聖堂のご本仏さまは「与願施無畏(よがんせむ)」の印を結ばれています。右の手のひらを開いて「なにも心配することはないのだよ」と前にかざされ、左手を「この手にすがりなさい」と私たちに差し伸べてくださっています。病気にかぎらず心配事を抱えているときに、心から信頼している人に「心配しなくていいんだよ」と言ってもらえると、力がわいてきます。観世音菩薩は、助けを求める人の声を聞くと、その人その人にふさわしい姿で身を現わされて、隣に寄り添い、「つらいね。でも大丈夫なんだよ」とおっしゃってくださいます。相手の心に寄り添うことさえできれば、なにも言わなくても、こちらの思いは伝わるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.08
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人間は生き方を変えることができる聖路加国際病院の理事長、日野原重明さんは、お元気にいつもはつらつとして働いておられます。大変重要な言葉だと思いますので、日野原先生のお言葉をお分けしたいと思います。『鳥は飛び方を変えることはできない。動物は、這い方、走り方を変えることはできない。しかし、人間は生き方を変えることができる。繰り返す毎日の行動を変えることにより、新しい習慣形成により、新しい習慣の選択を人間は決意できる。人間には選択の自由がある。そして、意志と努力により、新しい自己を形成することができる。それは、人間と動物とを根本的に区別するものといえよう』(『生きるのが楽しくなる15の習慣』から)。私たちは、人生の生き方を自分で選んで、決意して、そして努力していく中で救われを頂くことができます。そのことがこの短い言葉の中にはっきりと示されているように思います。人に迷惑ばかりかけていた人間が、少しでも人に安心を与える人間になる。朝寝坊の人が、早くから目を覚まして、少しでも人のためになるようになる。皆、そのように選択することができ、意志と努力によって変わることができるのです。『佼成新聞』より
2010.01.07
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1/7 Thu一つのことを極めれば私が絵を習い始めたのは、六十歳を過ぎてからでした。習字は小学校のころから得意で、いつも甲をもらっていたものですが、絵は得意なほうではありませんでした。けれども、習い始めると絵もおもしろいものです。どこへ行っても絵をよく見るようになって、一本の線の引き方から微妙な筆づかいまで、その見事さが、はっきりと見えてくるようになったのです。なにごともそうですが、自分でやってみないうちは評論家気取りで勝手なことを言っていられます。しかし、いざ自分でやってみると、自分の未熟さに比べて、その道を極めた人の精進の深さに打たれずにいられなくなります。どんなことであれ、一つのことを通してものごとの奥深さを知ると、いろいろなことについて、本当のものが見えてくるようになるのですね。その感性が、人の悲しみや喜びを感じ取り、さらに、見えない偉大な力を感じ取る力になって、本当の出会いを可能にしてくれるのだと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.07
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1/6 Wed拝む心が拝まれる心サンガでのお役が、人さまをお救いさせていただくためであるのは、みなさんよくご存じのはずです。それだけに、真剣にお役に取り組むと、「ここを直してもらわないと幸せになれませんよ」と、人の欠点が目について言わずにいられなくなってきます。けれども、それをそのまま相手にぶつけたのでは、こっちの気持ちを素直に受け取ってはもらえないのです。人は自分の弱点をつかれたと感じると、本能的に自分を守ろうとして、身も心も閉ざしてしまうからです。人を説得する難しさは、言葉をどう重ねたらいいかではなく、どうしたら心を開いてもらえるかの難しさなのです。まず、互いに信頼し合える関係になることが先です。信頼関係ができてしまえば、多少言葉足らずでも、砂が水を吸うように、こちらの思いが相手に伝わっていきます。在家の信者のみなさんは、それぞれの仕事や家庭でのつとめを果たした上に、ご法を求め、奉仕をしてくださっているのです。そう思うと一人ひとりに心から合掌せずにいられなくなります。その謙虚な姿勢にみなさんが心を開いてくださるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.06
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1/5 Tue足るを知る者は富む子どもが五千円のお年玉をもらったら、大喜びします。ところが、次の年も同じ五千円では、それほど喜びません。こんどは一万円でなければ驚かない。その次の年になると、一万円では「なあんだ」という顔で、二万円もらって、やっとにっこりする。中学生くらいの子どもでもそうなのですが、大人となると、なおさらです。一つの欲が満たされると、また次の欲が出て、それが満たされないと不満になってしまうわけです。これではどこまでも不満は尽きず、一生、不平不満のうちに終わってしまうことになりかねません。こんな寂しいことはありません。十分の収入がある地位にいながら、それでも満足できずに収賄(しゅうわい)で捕まってしまう人がいます。立派な家に住んでいても、家族が不満だらけでいがみ合っている家もあります。それに比べて、アパート暮らしのつましい家計の中で一家が仲むつまじくいたわり合い、いつも笑顔で暮らしている家庭を、私はたくさん実際に見ています。どちらが幸せでしょうか。老子(ろうし)の言葉に「足ることを知る者は富む」とあります。よくよくかみしめたいものです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.05
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1/4 Mon一家和楽の条件正月には「睦月」の別名があります。家族そろって睦まじく暮らすという意味で、「今年こそ家内円満を」と祈願された方も多いことでしょう。しかし、それは棚からぼたもちで授かるものではありません。なすべきことがあるのです。まず、ご先祖さまをお祀りして、毎朝、お水・お茶・ご飯をお供えし、経典読誦のご供養を欠かさない。小さなことのように思えるかもしれませんが、なすべきことの中心が定まると、家の中全体が和やかで、ちょうど軸を得た車輪のように、なめらかに回りだすのです。それから、教会にお参りして法座にすわらせてもらい、自分のことだけでなく、人さまのことも心配してあげられるようになってくると、いつのまにか家の中のゴタゴタが収まって、笑い声の絶えない家庭になっているのですね。八正道(はっしょうどう)のなかにあげられている正精進(しょうしょうじん)は、自分がめざす正しい目的に向かってまっすぐに励み、怠けたり、わき道にそれたりしないことです。一日一日、その努力を続けていくと、仏さまのみ心にかなった身と心の使い方ができるようになって、必ず仏さまがご褒美をくださいます。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.04
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1/2 Sat正月は己を正す月みなさま、明けましておめでとうございます。人は生きているかぎり、「もっとこうなりたい」「こうあってほしい」というように、いろいろと願いを持ちます。新しい年を迎えて、みなさんも、いろいろな願い、祈りをされたことと思います。とりわけ信仰者にとって祈りは大切です。しかし、新年早々厳しいことを申し上げるようですが、その祈りが、自分のことだけをお願いするものになっていないかどうか、自分の心に問うてみてほしいのです。大事なのは、まず祈りに値する自分であるかどうか顧みることです。そして、「かなえてもらいたい願いにふさわしい自分になれるように、精いっぱいの努力をいたしますから、どうかお見守りください」とお祈りするのが、本当の祈りなのではないでしょうか。正月とは正す月と書きます。己の心の姿勢を正して、新しい一年を踏みだす大事な月、それが正月です。どうか、その決意をもってお屠蘇を祝っていただきたいものです。庭野日敬著『開祖随感』より
2010.01.02
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