烏 森 神 社

2006年03月03日
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カテゴリ: 年中行事
3月3日の『雛祭り』は「桃の節句」「上巳の節句<じょうし>」「弥生の節句」などという呼び名があります。かつては「節句」を「節供」と書きました。

この3月3日の節句の風習は 古くからある雛遊び と、中国から伝来した 厄祓 が一つになったものです。
日本には昔から季節の変わり目に体を清め、厄を祓う習慣がありました。
現在も残る端午(五月五日)や七夕(七月七日)をはじめとする五節句はもとは中国から渡ってきた習慣です。
古代中国では3月の最初の「巳<み>」の日に水で体を清め、宴会を催し厄を祓うという祭りがありました。
その「上巳の節句」が日本に伝わり、宮中や上流社会で行われる行事として日本古来からあった人形<ひとがた>に厄を移す風習などと混ざり合い、平安時代になると、祈祷師を呼んで祈りをささげ、人形をなでで厄を移し、供物を備えて、無病息災を念じつつ3日の夕方に火を灯して川に水に流すといった祭りが毎年行われるようになってゆきました。

またそのころ、上流階級の女の子の間で「ひいな遊び」といって、紙で作った人形と身の回りの品に似せてつくったおもちゃの家財道具を使った、ままごと遊びが盛んに行われていたようです。

室町時代には上巳の節句の厄祓い行事は3月3日にほぼ定まってきましたがこの頃はまだ禊ぎ<みそぎ>の行事として人形を流していたようです。

その後戦乱の世が落ち着いた江戸時代になって、宮中行事としてひな祭りが取り入れられ、その後幕府の大奥でも取り入れられました。
そのうち上流階級のものであったひいな遊びなどが庶民に親しまれ、女の子の初節句を人形を奉ってお祝いするという形が定着しました。江戸初期以降、女児の成長と幸福を願って民間にも広まりました。

初期は内裏びな1対にお供え物をして祝うという形だったのが、江戸中期には段飾りが登場し、三人官女をはじめとする付属の雛人形や雛道具の数が増えました。
将軍家へのお嫁入りの際に嫁入り調度とまったく同じミニチュアを雛人形とともに持っていった例もあります。
庶民の間でも3月3日が近くなるとあちこちにひな市が並び、流行を競い大変なにぎわいを見せていたということです。
その後明治以降になるとひな祭りは農村にまで普及し、現在に至る形になっています。

雛人形はいつしか王朝風の美しい雛人形へと変化し、人々に愛玩され鑑賞されるようになりましたが、それと共に祓いの習俗は後退していきました。
しかし、この飾り雛の変遷とは別に、災いを川や海へ流す禊ぎの意味を持つ流しびなも各地方で根強く残っています。
例えば、鳥取県地方にはそのような雛祭りの原型が「流し雛」という形で残っています。

他にも桟俵<さんだわら>という稲穂で編んだ船に乗せて流すなど全国各地でその風習が残っています。

当社では「桃の節句」ということで、神前でお清めいたしました「白酒」を女性の方に限り、境内にて振舞っておりました。
白酒

又、神前には節句にちなんだ菱餅やお菓子をお供えしておりました。
3月3日

桃の節句お供え桃の節句お供え2

本日の白酒の振舞は告知等を一切しておりませんでしたが、多くの女性の方がご参拝下さいました。





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最終更新日  2006年03月03日 20時01分56秒
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