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200件記事が突破してキリがいいので楽天とおさらばします。リンクしてくれている方を二、三名知っています故に全く心苦しい事ですがリンク廃棄してくださいとしか言えないです。主な理由としては1.過去ログが検索できない(ひょっとしたらできるかも)2.文字数一万文字制限が邪魔で記事が二分割される事がある。3.業者コメント、トラックバックが巧妙になってきて邪魔。というところです。さらば。日記の書きやすさは一級品でした。これからはhttp://d.hatena.ne.jp/huyukiitoichi/での更新となります。一応ここはこのまま残しておきます。というか消す方法を知りません。
2008.09.03
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感想 ネタバレ有二巻である。やっていることは一巻とまったくかわっていない。男と男が格闘するのみである。ここにきて夢枕獏、さらに新キャラを出してきた、それも主人公を食いかねないほどのキャラクターである。もはや三巻で終わらせるつもりなんてさらさらない。本人もあとがきで4巻になりそうだ、なんてアホなことをいっているが、三巻を読んだ時点でその約束が守られるのはなさそうだ、と思うだろう。何を思ったのかトーナメントを開催したのである。それはジャンプのお約束だろう、と突っ込みたくなったが確かにこういう単純な話である、というか格闘においてトーナメント方式のバトルというのは何よりもやりやすい方式なのではないか。何しろ闘う舞台と、理由をわざわざ作る描写を省く事が出来るのである。今まではいちいち主人公である丹波に四国に移動させたり横浜に移動させたりと割と忙しい活動をさせながら、敵とわざわざ待ち合わせをしたり待ち伏せをしたりと、闘うのにもそれはもうたくさんの苦労をしてきたのである。それに丹波、確実に無職である。こいつが金を持っている筈はない。どうやって四国まで移動したの?と心底疑問である。まぁこいつなら走って移動しそうな気配はあるのだが。それをトーナメントは恐ろしいほどに簡単に解決してくれる。場所はでかいところを用意してくれるし、敵は勝手に集まってきてくれるし、闘う理由はいわずもがな、全員共通の目的に向かって突き進むことになる。単純に闘うことのみを求めたこの小説にとってこれ以上便利なものはない、と言い切れるぐらい便利な存在がこのトーナメントなのである。これでお金のない丹波はわざわざあっちにいったりこっちにいったりしないで済むし、相手もわざわざ丹波を狙ってあっちに行ったりこっちにいったりしなくていいのである。そしてトーナメントというのは大体漫画でも引き伸ばしに使われる代名詞というぐらいのレベルであって、それはもう時間をかけようと思えばいくらでもかけられる存在なのである。これが四巻で終わるはずがない、とトーナメントが開催される気配を感じた時に思った。バキも、トーナメントをやっていた。あれは面白かったなぁ。渋川先生とか愚地とかもあの頃はまだ第一線で頑張っていたというのにいつからあの二人はかませ犬的な存在になってしまったというのか。なんなんだよピクルって。そう、つまり格闘といえばトーナメントなのである。トーナメントなくして格闘なしだ。藤巻との戦いはまたしても途中で中断である。一巻の終わりも梶原との一騎打ちは中断で終わった。なんだこれは、生殺しなのだろうか? 何故最高の戦いを二回も続けて中断されなければならないのか。さすがに次では何らかの決着をつけてもらえるとは思うのだが。梶原との一騎打ち、かなり中途半端に終わったように思えるのだが丹波が完全に納得してしまっている。理由がよくわからない。あれだけ執着していたのに、どちらかが倒れるまでやらなくていいのだろうか。それにしても、である。凄いのは文章だけじゃなかった。いや、文章が凄いのはその通りなのだが、読んでいてその感覚まで伝わってくる。たとえば筋肉の描写である。首が太くて、腕が太くて体全体のバランスがしっかりととれている、というだけの描写なのに、いったいそれがどういう状況なのかまるで自分のことのように伝わってくるのだ。きっと自分に筋肉がついていたらこんな感じなのだろうなぁ、と想像力を喚起させる。こんな事はあまりない。第一章でカマセ犬的存在が次々と1ページぐらいの描写でやられているのはなんか笑ってしまった。かませという言葉がこれほど相応しい奴らもいるまい。どんどん強いやつが集まってきてどんどんどんどん面白くなっていく。ついに松尾象山が少しだけ闘ったし、川辺も長田も姫川もその実力を表していないし、グレート巽にいたっては名前だけしか出てきていない。こいつらが一体このあとどんな死闘をくりひろげるのか・・・。
2008.09.03
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あらすじひたすら格闘。感想 ネタバレ無非常にシンプルな話である。男が強さとは何なのかと考えながら敵と戦い続ける話である。内容なんてほとんど無いと言っていい。闘いの描写と、そこに至る過程が繰り返し繰り返し描写され続けるだけだ。非常にシンプルである。闘いを手段として使う小説は多々あれどただ単に戦いたいがために闘う、という話は確かに読んだ事が無かった。それにしてもこれが書かれていた当時、まだ夢枕獏は新人と書かれていたのだ。時の流れを感じさせる物の、文章に劣化した印象はない。本当に内容が無いと言ってもいいので正直書かなくてもいいぐらいなのだが、それでも面白かった、ならば書かないわけにはいくまい。せめてどこがどう面白かったかぐらいは書かなくては、忘れてしまっては何の意味もない。シンプルな話だからこそ深いともいえる。考えてみれば世の中単純なものほど複雑だということが多々ある。考えてみれば結構あるはず。考えるのがめんどうくさいので一個も具体例を挙げる事は出来ない。ただなんとなくそんな感じはする。あぁ、そういえばサザエさんとか、ちびまる子ちゃん、アンパンマン、ドラエもんなどの国民的アニメでいいか。あれも、シンプルながら深い、といえないだろうか。だからこそ、あれだけ長く続いているともいえる。変に方向性が定まっていないからこそどこにでもいける。餓狼伝でいえば単純に強い敵と戦う、というか相手と闘う、というそれだけを求めているのだから、闘い続けれいれば多分サザエさん並に続く事が出来るはずなのである。その証拠に一巻の時点で、三巻で完結といっているのに、実際に2008年現在すでに10巻を超える巻数を出している。終わる気配がない。いや、ひょっとしたら終わっているのかもしれないが、新・餓狼伝などというものを出しているから違うのだろう。いやひょっとしたらこの新・餓狼伝がただの新装版という可能性もなきにしもあらずなのだが。面白い点の一つとして、描写が物凄く想像しやすいのだ。格闘といってまず一番に思い浮かぶ問題点が、描写がわかりやすいか否かだった。わかりにくい描写、想像しにくい描写で延々と格闘描写を書かれても困るのである。その点驚くほど想像しやすい。何の苦労もなく研ぎたての包丁で大根を切るみたいにスラっと頭の中に切り込んでくる。関節技までもがわかりやすく書かれているというのは凄い事だ。関節技というのは現実に見ているとあまりに地味で、プライドなどを見ていても、正直素人目にはあまり面白くない(あくまで個人的に)だがそれが小説や漫画になると魅力的な動作に見える。エアマスターの関節技はどれをとっても面白いし、何しろ自分、エアマスターの中で一番好きなキャラクターは関節技使いの小西なのだ。関節技が面白いのはこの小説の中でも同じだ。何故だろうか。純粋に痛みとか、どれだけきいているのか、というのがわかりやすいからではないだろうか。描写すればいいだけなのだから。テレビでみているだけだと関節技が決まっているのか決まっていないのか、今は痛いのか痛くないのか見ているだけじゃわからないというところはあると思う。過去に板垣版餓狼伝は読んでいたのだが、内容をほとんど覚えていない。というか、つい最近まで餓狼伝は板垣氏が原作だと思っていたぐらいだ。それから面白いのは、この時点ですでに異種格闘技という視点で書き始めていた点である。確かこのころはまだ、一般的に異種格闘技という目線では格闘技は行われていなかったのではないかと思う。最近になってプライドやK-1の人気の甲斐もあって、異種格闘技が盛り上がってきた、喧嘩商売なんていうまさに現代版餓狼伝みたいなものもはじまっているし。はじまっているっていうか結構前からだが、それにプライドもK-1も、もうかなり下火に入っている感がある。プライドがテレビ放映されていた頃はまだ話題だったように思うのだがネタバレ有丹波いったいどうやって金稼いでるんだ? まさかスリじゃあるまい。しかしいい感じにエロとバイオレンスである。このまま何も変わらずに延々と続けばいいのに、と思わせるような心地よい文章である。せめてグレート巽と松尾象山と闘う場面ぐらいまでは読もう。プロレスは実際には強いんだよ! という主張が強い。最近になってはもうプロレスが実際に強いとか弱いとかいう以前に、プロレスなんて一回も見た事が無い、という人の方が多くなってきたように思う。まだこのころは、プロレスにもまだ注目は残っていて、それでこその強い弱い論争があったのじゃないかと勝手に想像している。強い弱い論争さえなくなってしまった今のプロレスは本当に存在が怪しい。こうして考えてみると弱いと言われようがまだ注目されているうちはよかったなぁという感じである。誰からもわすられてしまったら弱いとか強いとかも何もなくなってしまう。まるで死んでしまったかのようにプロレスは消えていくのだろうか。ワンピースのドクターヒルルクの言葉が思い出される。人は──いつ死ぬと思う? 人に忘れられた時さ! プロレスはいつ死ぬと思う? ひとに忘れられた時さ! ふむ。まだ本当に書き始められたばかりだからかもしれないが、格闘描写は新・餓狼伝の方が面白かったように思う。新・餓狼伝もほんの20ページほど読んだに過ぎないのだがそれでもわかるぐらいには進歩しているという事か。あるいはいつもの思い違いかもしれない。梶原と丹波の戦いは尋常じゃないな。風景はほっとんどイメージできないのだが二人の立会だけは明確にイメージできる。もはやアニメ化不要というレベルである。プロレスバカにしちゃあかんなぁ。はっとするような文章でもないのだが、それでも確実に読ませる文章である。
2008.09.03
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あらすじ妹がなんやかんや感想 ネタバレ無予想していたよりもずっと面白くてなんかもう最高だわさ。この場合の予想というのは傷物語と比較しての話である。せいぜい傷物語程度の面白さであればいい、と考えていたのである。いやはや、恐れいった。ギャグパートはこれ以上ないほど面白かった。シリアスパートは、何か言葉に出来ないような違和感をもったものの傷物語よりは格段に楽しませて貰った。これはひとえにキャラ小説ゆえの障害というかなんというか、傷物語のヒロイン的立場にたっていた吸血鬼と羽川にほとんど何の関心も持っていなかった事もあげられる。アホをやっているキャラクターがシリアスパートになると急にまじめになる、という展開が大嫌いなのだが。特に銀魂とクレヨンしんちゃんはその最たるものだろう。どこがどう嫌いって、今まで普通にバカやっていたキャラがある一時だけまじめになる、というのが理解できないだけだ。正直な話、このシリーズにシリアスな場面をほとんど期待していないのである。これが小説ではなく漫画だったら読み飛ばしているレベルだ。そういえば漫画だと平気で読み飛ばしという行為をする自分であるが、何故か小説に対してそれをやる事はひどくためらわれる。だが少しだけちゃんと考えてみるに、読み飛ばしという行為が起きるのは週刊連載の漫画だけであって単行本を買ったらいくらなんでも全部読む。金を払っているかどうかという問題ではない、週刊連載の漫画だって金を払っている。なんというか、せっかくあるのだから読もうという精神だろうか、それだったら何で週刊連載の漫画は全部読まないのだろうか。小説より漫画を読み始めた方が速いからだろうか、つまりそれだけなれたという事だろうかいやいやそんな事はないだろう、考えてみるに小説という媒体をページ単位で読み飛ばすという行為をしているという話を過分にしてきいたことがない。過分にしてって適当に使ったけれど実際意味はわかっていないのである。それにしても最近考える力が落ちている、と実感している。何か変だな、と思う事があってもそれが何故変なのかというところまで問い詰める気力がない。ちょっと前はそれが自然に出来たのだが今は何故か出来ていないような気がするこれはおかしい。まぁ何か原因があるようにも思えないのでほっておけばまた元に戻るかあるいはこのままなのかはわからないがこのままならそれはしょうがないことなのである。それにしてもと書いておいてなんだが、少し前、文章を書いていたらそれにしてもと一つの記事の中でなんと6回か7回も使用していたことに気づいた。とりあえず話を繰り出す時にそれにしても、といって前おきのようにして繰り出していたのだ。それに気づいて以来それにしても、というのを出来るだけ使わないようにしているのだがそこはそれ、クセというものがなかなか治せないように(ギャンブルを読んでもわかる)結構大変なのだ。少しでも気を抜くとそれにしても、とタイピングをしている自分がいるのである。何しろ自分タイピングをするのが結構速いものであっと気づいた時には自分の目の前にはそれにしてもという文字がすでに打たれているのである。これは恐怖でありますぞ。クセを消すには新しいクセをつければいいのであるからしてそれならばとそれにしてもに変わる言葉をしようとしているのであるがそれがしかしであったりなにか別のものであったりしているのであるがってこれ正直偽物語に全く関係ない話なのである。ただいったん書きだすと止まらないうねりというか流れというものがあるからしてこうやって自動記述ではないがだらだらだらだらと文章を書き続けているのである。本質的に無意味な行動であるがこれが普段の思考の流れなのだと考えて読みなおせばまたこれにも価値が生まれてくるのかもしれない。何も練られていないただの文章というのは練られていないがゆえの価値というものが存在するのだろうか、当然時間をかけていない脊髄反射的文章なので支離滅裂もいいところでそういった方面での魅力は皆無であるが、脊髄反射的文章であるがゆえのいいところといえば、はてそんなもの存在するのかどうか。なにごともなかったかのようにギャグパートとシリアスパートの話に戻ろう。前半150ページは、ほとんど本筋と全く関係のない、登場人物と主人公の絡みというだけの恐ろしい紙の無駄遣いというやつであった。それからの本筋、いわゆるシリアスパート、絶賛といえるほどではないが、ふむ、面白いか。ただ何かがひっかかるのだけが、気になってしょうがないのである。それが何なのかがわからないだけに困惑するほかない。確かに笑えるのだが、どこか笑いきれない違和感とでもいうのだろうか。何故かはよくわからない。ただ面白かったのは確かだ。傷物語の時は、シリアスパートに比重がかけられすぎていたように思う。戦闘描写ばかりで、それが読みたいわけじゃない・・・という気分であった。ただこうして、本編の半分が本編と関係のないただのじゃれあい、というのも結構大変なものだなと思いなおした。まだストーリーをおった話をやっていた方が楽だ。今回は最大の欠点だと勝手に自分で思っていた戦闘描写もほとんどなく、純粋に面白い。どんどんその阿良々木ハーレムを拡げていく。まるでときメモか何かをやっているかのようだった。携帯アプリでやったときメモは、少しでもケアを怠るとものすごい勢いで好感度がどんどん下がっていくという恐ろしいゲームだった。しかも何人もいるのだ。きっと主人公はてんてこまいだっただろう。偽物語を読んでいてずっとそんなことを考えていた。フラグを立てるだけではだめなのだ、維持するのがこれほど困難だとは。前半150Pが語りのための語りというべきか、本当にただ何の意味もなく女の子のまわりをまわってまわって喋っていただけであるそれにしても本当により取り見取り。まったく素晴らしいのは上巻と銘打っておきながらこれ一冊で完結している点である。ダンシング・ヴァニティを読んですぐだからこう思うのだろうが、繰り返しの表現が目立つ。そういえばこれには確かれっきとした現象名がつけられていたように思う。たとえば新しい単語を知った時に、新聞などをちらっとめくるとやけにその単語がよく目につく、というような具合に。今まで意識していなかった、というだけでそういった現象はあふれているのかもしれない。というか反復の話だが、繰り返しネタである。意外と反復という表現は小説でも日常的に使われている表現だったのだろうか。今まで反復があるというのは知っていてもそれを全く意識していなかった。意識していないということは、存在しないも同じ事である。こうやって自然にスルーしてしまっている作者の意図みたいなものがたくさんあるような気がする。ネタバレ有ついに妹まで惚れさせてしまったか。なんというハーレム・・・。火憐の口調がどう読んでも戯言シリーズの零崎人識だったように思う。少なくとも記憶の中の零崎人識はこんな口調だった。まあ概して記憶と現実は違うものであるから、実際全然違うという事もまったくありえるのだけれども。さて、これで残されたキャラはもう一人の妹の月火だけである。あと一人終われば全員攻略ということに相成る。もう新キャラも出てこないだろうし、これではれて、やっと、このシリーズ完結となるのだろう。面白いシリーズというのはそれはもちろん結構な話だが、まだ続いているというのは意外と不安なものだ。ひょっとしたら面白くなくなるのではないか、という不安がある。出るたびに面白かったとしても、期待が膨れ上がればそれに応じて求めるもののレベルも高くなる。完結してくれればその心配もない。反復の話だが、なんといっても八九寺と主人公のかけあいだろう。なんというかこの二人のやりとりははじめから終りまでもはやテンプレート化している感がある。 「なるほど、修羅々木さん」 「ものすげー格好いいからむしろそっちの名前に改名したいくらいだが、しかし八九寺、何度も何度も繰り返して言うように、僕の名前は阿良々木だ」 「失礼。噛みました」 「違う、わざとだ・・・・」 「噛みまみた」 「わざとじゃないっ!?」 「ファミマ見た?」 「そんな気軽にコンビニの場所を確認されても!」ただやはり化物語での神はいた、ほどのインパクトはない。以下笑ったところ。 「そうなんだ。病院のベッドで眼を覚まして、お前はすぐに言ったものだよ」 「『ここはどこ、わたしは誰?』と」 「いや、『高校はどこ、わたくしりつ?』と」 「記憶を失ってなお学歴社会の虜です!」 「暑いんなら、そこの壁に据え付けられているエアコンを入れればいいんじゃ・・・」 「だ、駄目だよっ! 暦お兄ちゃんはこの地球がどうなってもいいの!?」 地球が人質に取られた。 なんて壮大な人質だ。 「何がボランティアだ、得意げに横文字使ってんじゃねえよ、馬鹿。この間、ディフィカルトと言おうとしてデカルトって言っちまったような中学生がインテリぶるな」 「いいじゃねーか。デカルトの言ってることって大抵ディフィカルトだし」 「口の利き方に気をつけることね。さもないと凶悪犯罪に手を染めた挙句、阿良々木くんが好きな漫画に影響されて犯行に及んだと供述するわよ」 「お前、漫画化の先生を人質に取るの!?」ここまでだらだらだらだらだらとだらを五回も書いてしまうぐらい長々と書いてきたが、そのどれもが過去の繰り返しである。ギャグパートの個人間のやりとりは完全にすべてテンプレート化してしまっている。何回か会話のキャッチボールを交わして流れにのってどっちかが突っ込むパターンと、地の文で突っ込むパターンが主なパターンで、他に読み間違えネタ、似ている漢字ネタ、人質ネタ、大別して、ネタの種類がそんなにあるわけではないがパターンが豊富なのだ。いや、内容が豊富か? とにかくよくそんなに考えつくものだと感嘆するしかない。またしても正義言葉をなんか色々やっていたようにも思う。正直真面目な部分をあまりまじめによんでいないのだ。ギャグパートを真面目によんでシリアスパートを真面目に読まないというのは一貫性というか法則性という意味では割と整っているがはたしてそれはいったいどうなのだろうか、と疑問に思わざるを得ないが。世の中案外そんなものなのかもしれない、という言葉でしめれば世の中案外そんなものだよな、というような気がしてくるから不思議なものだ。貝木のいっていることがまるっきりストレイト・クーガーでちょっと面白いと思ったが、読んでいる最中はそんなこと全く思わなかった。時間をかければ誰でも名作小説が書けるっていうクーガーのセリフはどうかと思ったが時間をかければ誰でも同じ事が出来るっていうのを将棋のたとえでもって説明するのはふんふんとうなった。確かにパソコンは今はまだ将棋のプロに勝てないけれど、時間をかければ最適の手を導き出せるものな。いや、どうなんだろう。先の先を見据えた手はうてないかな?せめて盤面が終盤まで行けば話は別だろうが。初手からすべてを計算するのは不可能なわけだし。 「あまり考えすぎるな。俺から見れば、己の考えに没頭している奴は、考えなしの奴と同じくらいに騙しやすい。適度に思考し──適度に行動しろ。それが──今回の件からお前達が得るべき教訓だ」
2008.09.02
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あらすじなんか繰り返しちゃったりなんかしちゃったりなんかしちゃったりして。感想 ネタバレ有び、びっくりした。まさか前半部のあの滅茶苦茶からあのラストが生まれてくるとは予想だにしなかった。後半に行くにつれて加速度的に評価があがってきてラスト何ページかの、あの死を迎えるシーンはもう何も考えられなくなるぐらいびっくりした。本当に凄い。老いたから書ける文章があるとすればあのラスト何ページかのことではないのか。ジェイムズティプトリージュニアの書いた、輝くもの天より堕ちを読んだときと同等ぐらいの衝撃を受けた。しかもその凄いところは、それをこんな実験小説でやってのけた事だ。ストーリーでもなくキャラでもなく、純粋に文体というか語りを楽しませて貰った。素晴らしい。ビアンカ・オーバースタディを読む前にダンシング・ヴァニティを読んだ方がいいというような話をどこかで読んだ気がするが、その理由がわかった。ビアンカ・オーバースタディも反復を基調にした話なのだ。しかしダンシング・ヴァニティの繰り返しとはまた違い、同じ時間軸というよりもはっきりと別の時間にうつっているにも関わらずの、繰り返しなのだ。これを読んだ事によってビアンカ・オーバースタディへの期待が高まる。何かの企画で、色々な作家に、自分が死ぬ時はどんな風に死ぬと思いますか、という質問があった。その中で、普通は家族にみとられて、などと書くものが多いのだが、実際に作家でもそういう事を書いている人が多かったように思う。筒井康隆は、確か近所の悪ガキをステッキか何かでたたこうとして逆に殺される、と答えていたのが非常に印象的だ。細部は違うかもしれないが、だいたいはあっているはず。まさに、家の前でうるさくしているヤクザを注意して殺された、ダンシング・ヴァニティの主人公ではないか。いや、これをすでに書いていたから、そんな事を言ったのかもしれないが。それにしてもダンシング・ヴァニティの主人公と筒井康隆のイメージが、どうしてもかぶってしまう。その生きざま、というかなんというか。作品の中にも、これ現実に居そうな人だなぁというようなキャラクターが何人もいた。出版社で何度もくだらないミスをする人とか。ってほかにはいなかった。何人もいた、なんてノリだけで書いたけれども完全にオーバーリアクションであるどんな風にでも解釈出来る、という作品であったように感じる。それだけ深い作品ということだろうか。宮崎駿みたいに。例えば虚構も現実であるという風に、世の中に本当の事なんて何一つ無いということは世の中はすべてが本当のことなのだ、という詭弁も成り立つ。そんな事が言いたかったのだと単純に言えることでもないだろう。というか自分、この作品を恐らく理解できてはおるまい。この同じ事が何度も繰り返されるのが現実か、夢かなんて恐らくあまり意味はないのだろう。読もうと思えば、死ぬ最期の瞬間だけが本当の現実で、今までのは全部意味のわからない夢だった、ともとれる。自分が理解出来ていない多くの事柄の一つとして、例えば最期に出てきたフクロウはいったい何を表していたのかが自分にはわからない。フクロウが涙を流していたのは何故なのか。Wikipediaで調べたところによると日本ではフクロウは死の象徴であるともいう。または知恵の象徴でもあると。ただこの象徴なんていうのは割と地域差があるもので、あまりあてにしていいものではないが少なくとも日本における死の象徴と、死の瞬間に現れるフクロウというのは完全に意味は合致している。ただ、片方の目から涙を流した、というのは何の意味だろうか。単純に死という概念にすら涙を落とさせる程惜しい存在だったという事だろうか。片方というのにも何か意味はあるのであろうか。コロス、というのも読んでいる間はわからなかった。読み終えて、Wikipediaで調べて初めて観客の望んでいる反応をする存在の事をコロスという事を知った。確かにコロスに与えられている役目はそのまんま、普通の反応だった。フロイト的な夢診断の要素が入ってくるとこれはもう完全にお手上げである。精神分析入門を読んだが、象徴するものの種類が多すぎて把握しきれない。この作品が多分色々な要素を含んでいることは巻末の参考資料を見ればわかる。前半部を少し読んだ時点では、何でこんな小説にこんなにたくさんの参考資料が必要なんだろう? と疑問に思ったものだ。たとえば時空は踊る─関係としての世界、なんていったいどこに関わっているのかさっぱりわからないのである。いや、ループ関係のところで使われているのは当然だろうが。「考える身体」はひょっとして主人公が匍匐前進! と叫んで人が即座に反応するのと関係しているのだろうか、と想像するのが楽しい。いっけんわからなくても多くの要素がこの小説の中に含まれているのは確実のように思う。何でもないただの反復の中にいろいろな意図が含まれているのかもしれない。まぁ気づけないのだから、意味はないのだが。きづけていないにもかかわらず面白いのだからなおさらどうでもいいことなのかもしれない。読んでいる最中に反復ゆえの欠点というか、単純に自分がしっかりと読んでいないというか覚えていないからなのだが、ちょっとトイレ、とかいって読むのを中断して再び読み始めると、自分がいったいどこまで読んだのかわからなくなってしまうことがあった。あれはこんな小説特有の欠点だったな。老いぼれて、体も声も昔のように動かなくなって、昔の反則ともいえるような「匍匐前進」も声がかすれて使えなくなり、ぼこぼこにされる描写が悲しすぎる。どうしようもない老いというものが存在する事を明確に意識させられる。今までの回想が入り乱れて次々と襲ってくる場面、また一番最初の繰り返しポイントに戻るもののやっぱりこんなものはダメだ、と病室に戻ってくる場面、どれ一つとっても素晴らしい。何がどう素晴らしいのかというとうまくかけないのだ。だから素晴らしいと書いているのだ。何が素晴らしいってやはりこの文章だろうか。いや、内容が素晴らしいというのはわかっているのだ。何がどう素晴らしいのか説明できないのだ。非常に難しい。このまま投げっぱなしでいいのだろうか。今のこの気持ちを書いておくべきなのではないだろうか、うまく書けなくても。死に向かっていくというのが明確に意識させられる。そのタイミングというか、文章の呼吸というかそういったものが何一つ欠けていないというか、本当にぴったりあてはまった文章がそこにあるというか概念がそこにあるというか非常に書きがたいのは重々承知なのだ。もう意味がわからないが。何より感じ入ったのが、終わり方が老いで終わるということだ。何を書いているのかはよくわからないがこの老いで終わるということに感動したのは確かだ。やっさんに殴られて死んだのは確かだが、やっさんに殺される原因は老いだ。こんな事書くと何をわかりきった、というような感じになるので本当に厭なのだが、人は誰でも老いていって、人は誰でも死ぬのだ、という非常に単純な文学の基本的なテーマともいえる事を突き詰めた小説であったように思う。 この時代には戻りたくないなあと思う。しかしいったん戻った時はその時でおれはまたいくつかの分岐点において前回とは違う別の選択肢を選ぶのかもしれない。しかしどの選択肢を選ぼうがまたこの病室へ、つまりは自身の死へと戻ってくるのは確かなことだ。だとすればリセットしてもつまらない。生が一回限りでないとすればただの人生ゲームじゃないか。もしリセットを選べと言われたらおれは拒否するかもしれないぞ。よほど死を恐れていない限り誰でもそうするんじゃなかろうか。そんな生であればなんの意味もなくなってしまうからな。実に基本的な事を言っているように思う。死を意識することによってはじめて生きるという事を意識できるのだ、不自由があってはじめて自由が生まれるように、死が無い限り生きるという事にも何の意味もない。誰だってそうするだろう。 頸城氏がそこまで言ったとき、正面のドアを開けて功力さんがあらわれた。今度は何も持たず、ひたすら緊張した生真面目な表情で無言のまま、ひたと真正面を見据えておれの前まできて立ち止まった。そして彼女は突然、両腕を拡げ、おれの頭上へとななめ前方に突き出した。その勢いに気圧されて、おれも思わず立ちあがり、ななめ前方へ勢いよく両腕を拡げて突き出した。これを始めて読んだ時は意味がわからなさすぎてわらったものだったが、読み終わった今も全くこの行為に何の意味があるのかわからない。他にも川崎が突然壁に激突する行為など、意味のわからないことはたくさんあった。最期に、頸城氏がやってきてこのポーズをとったが、体が動かなくてそのポーズの真似できない、というような場面を読んで悲しくなる。 みんな美しかった。みんな可愛かった。会いたい。もう一度会いたい。しかしおれはもう眼が見えない。体力も残っていない。見ろ。手をあげようとしてもまったく動かないではないか。指先さえ動かない。ぴくりとも動かない。でも気配だけは感じられる。コロスが病室にいる。自分の立ち位置を心得盡している舞台上の役者たちのように理想的な配置で病室内に立っておれを見守っている。ゆっくりと静かに彼女たちは「グットナイト・スイートハート」を歌い出す。おれは眼を見開いて彼女たちの姿を見ようとする。だがコロスは見えず、ぼんやりとだが枕辺で白い顔のフクロウがおれの顔を覗きこんでいるのが見えた。その片方の眼がしらに一滴、涙が光っている。泣ける。これほどまでに死に際というものを書けるとは。結構死ぬシーンにはうるさいと自分では勝手に思っているが、それでも満足させてもらえるものだった。今まで片手で数えられるほどしか満足した場面はない。この小説、実験小説でありながら小説としての面白さを失っていない、と思った。虚人たちは実験小説としては面白かったけれども小説としての面白さを感じられなかった。いや、というかこれは実験小説とひとくくりにしてしまうからであって、単純に実験の内容によるのかもしれない。今回の反復という実験がたまたま小説としての面白さがあるまま読ませてくれるものだったのだろうか。繰り返されるものに人は安心感を覚えるものだと思う、
2008.09.02
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ネタバレ有帯でネタバレいい加減にしろばかやろ。なにが心の中で蘇る死もある。さらば、関羽雲長よ! だ。関羽死ぬのが1秒で認識出来てしまったじゃないか。しかもいざ読み始めたらいつ死ぬのかが気になって内容が全く頭の中に入ってこなかった。結局死んだのはラスト1ページ。自分だけかもしれないが、関羽の影が非常に薄かった。もちろん、曹操の元にいたところから、敵将の首を取って劉備のところへ帰還するシーンなどはなくちゃならない場面でもあるし、関羽の存在感もでていたけれど、やはり張飛との対比がちょっと弱いような気がした。張飛が劉備の足りないところを補っているように関羽ももっと単純なわかりやすい補い方があればよかったのだが。悩む関羽、というのも新鮮だ。今まで読んだ三国志関羽の死にざまに至る過程といえば、あまり描写されていなかったものだ。それが荊州で一人とりのこされ、いつか劉備と張飛と肩を並べて闘う日を願う描写が入っている分、重たく感じる。関羽の死が。単純に話に深みが加わったという話ではなく、想像の余地が生まれたというか、いやそれが話に深みが加わったということなのだろうか?いまいちわからないが。ラスト何十ページか、曹操が、孫権が、関羽を殺す算段を立てている描写なんてほとんど読んでいなかった。何故関羽が殺される計画をねっているところを殺されるのを嫌がっている自分が読まねばならないのか。水滸伝を連載しているときに、作者に助命嘆願がいったというが初めてその気持ちが理解できた。何故関羽が殺されなければならないのか。しかしそうはいってもいられない。もうみんな歳だ。正直、寿命で死んでもおかしくない歳の武将ばかりになってきた。寿命で死ぬよりは、こんな終わり方の方がよほど軍人らしい。関羽が布団の上で死ぬところなんて、想像できない。しかし、関羽、六十五になっても戦場に立つつもりでいたのだ。自分もへたれちゃいられんなぁと思う。六十五なんてまだまだ先だが、五十五になって、十年後、闘い続けている自分を想像できるだろうか。もうどこかに落ち着いて、余生をじっくり暮らそうと考えているような気がする。というか、今この時点ですでにそう考えているのだからもはやどうしようもない。 劉備とともに、闘うことができなかった。張飛と、轡を並べることができなかった。趙雲とも、会えなかった。しかしそれは、特別口惜しいということでもなかった。 みんな、益州から自分が闘うのを見ていたはずだ。ともに、闘ったのだ。心の中では、ともに戦場にいた。長い、実に長い歳月、ともに闘ってきたのではないか。ぐおおお。関羽おまえ・・・。なんという漢。やってくれる。ドッカンドッカンきた。ドッカンドッカン。 膝を叩いて腕立てを五十回ぐらい息継ぎ無しでやり続けられるぐらいの興奮を与えてもらった。 「郭真、旗をあげよ。関羽雲長の旗を」 「はい」 「城を出る。私は、最後まで諦めぬ。男は、最後の最後まで闘うものぞ。これより、全軍で益州の殿のもとへ帰還する」 十名、それが全軍だった。十名、それが全軍だった、で鳥肌が。一度曹操にくだったときも、死ぬほど悔しがっていたからな、これほど一貫して変わらなかった漢というのも珍しい。十名しかいないのに、まるっきり諦めていないところがすげぇ。さすがに曹操も今度は助けを出さない。老いたのだろうか、屈服させようという気力がなくなったのか。曹操が、あきらめを知ったか。馬の名前が、赤兎の子供なのに、赤兎と読んでいるのはどういうことなんだろうか。新しく名前をつけてやらないのか? それともやっぱり赤兎ってのは種類名なのだろうか。この赤兎の名前はちょっとした謎だわさ。 「関羽雲長、帰還できず」 呟いた。 次第に、視界が暗くなった。帰還しろばかやろおおおお。この最後のセリフ、今までと違い、ちょっと浮いてるような気がしたがどうなのだろう。印象に残るフレーズだが、どうにも違和感がぬぐえない。まぁいいさ、関羽だ。関羽雲長の死のシーンだ。そこに何かケチをつけるつもりはない。この巻は、この場面以外求めていないのだ。死ぬ事によってその存在をアピールしたのかもしれない、と考えた。いなくなってはじめてわかる、その存在のでかさだ。
2008.09.01
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感想 ネタバレ有周瑜の死がついに訪れた。ここまで死亡をにおわせる描写だらけだったから当然かもしれぬ。それにしても呉軍の武将は早死にである。ただ、孫権は長生きするはずである。少なくとも劉備よりは。ここまで周瑜の存在が大きなものになるとは、読み始めた当初は思いもよらなかった。北方三国志内部だけでいえば、周瑜は水軍を強化し、孔明に張り合うほどの軍略を見せ、世紀の大決戦である赤壁の戦いで曹操軍を破った。まさに三国志の豪傑に相応しい男として書かれた。素晴らしい。拍手を送りたいぐらいだ。108人もいた水滸伝とは違って、充分な描写を与えられての死となった。この巻の前半部はほぼすべて周瑜一人のためにあったといっても過言ではない。108人のうち7割を殺す宿命を背負っていた水滸伝では出来ないやり方といえよう。それだけに一つの死が重い。周瑜が死ぬシーンは全く涙が止まらない。比較的、泣くっていう感情は起こりやすい部類だろうが、その中でも漢泣きといっていいぐらいのいい泣き方だった。肝心の死ぬ場面だが、三国志を共通して言えることとして、やたらとかっこいいというか、魅せ方がちゃんとしているというか、まるで劇か映画がそこで終わるかのような、幕引きを思わせる場面や、セリフを残して死ぬ事が多い。ようするにかっこつけすぎじゃね? と後で思い返すようなセリフか。だが面白い。 「人は、いつか死ぬ。それは、誰もが知っている。いま、自分に、ということが信じられないだけだ。魂を売っても、生き延びたいという思いがある。いま、自分に、死が訪れようとしているのなら、雄々しくそれを迎えようという思いもある。不思議だな、口惜しくはない」これから益州攻略へと向かう途中だ。もしこのまま死なずに益州にむかっていたらかなり劉備軍はきついことになっていたはずだが、孔明はその場合どうするつもりだったのだろうか。当然、策は考えてあるはずだと思うのだが。作中で周瑜が向かっていたら打つ手がないみたいなことをいってたが、まさかそこで終わる孔明ではあるまい。 ざわめきが近づいてくる。軍勢だった。敵ではない、と周瑜は思った。しかし、味方でもない。顔のない軍勢だった。闘う相手を、捜しているように見える。 戦が、人生だった。その軍勢にむかって、周瑜は声をあげた。戦に生きた。いまだ、敗北を知らない。語る言葉がないな、これは・・・。周瑜が一番好きかも知れない。キャラ萌えの観点から見れば。何を書いてもウソっぽく見えてしまう事がある。あえて書くならばこの曹操のセリフだろうか。 「華であったな、大輪の。しかし、咲いたら散り、枯れゆく華だったのだろう。冬に散り、春に芽を出す。それができないからこそ、見事な華だったのかもしれん」 まさに一代の豪傑。周循にその資質は受け継がれていないのだろうか。それができないといいきっているのならば、周循はダメなのかもしれぬが。そもそも解釈が違うのかもしれない。別に冬に散り、春に芽を出すっていうのが世代交代を指しているわけではないのかもしれない。ただ考えても仕方ないことではある。孫権だけで呉を制御していくのは難しい。後年孫権が横暴な存在になって呉を滅ぼすのも周瑜がいればそうはならなかったかもしれぬと考えると面白い。
2008.09.01
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感想 ネタバレ有赤壁の戦い凄すぎる。北方三国志を読んでいてよかったと心の底からふるわせられるようなそんな戦いだった。1ページ目から、臨界点であり赤壁の戦いに向かって突き進んでいるのがわかる。やってくれたぜ! という気持ちでいっぱい。 「私は、なんとかなる、という気がしている。理由はない。しかしここを乗り切れば、道は平らになる気がするのだ。いままで、おまえたちにはずいぶんとつらい坂ばかり、登らせてきたと思う」 「つらい坂ではありましたが、兄上が先頭で登られたので、われらも続いて登ったのです。平らな道であろうと、坂であろうと、われらはただ兄上についていくだけです」 「そうだったな。おまえたちは、いつも私についてきた。そして私は、坂道しか選ぼうとしなかった」絶対に負けられない戦いと散々あおって緊張感を高め、曹操軍二十万を何度も強調し、その果てに赤壁の戦いがあった。それで燃え上がらないはずがないだろ・・・。 「会議の決定を伝える。われらは、これより曹操と開戦する。それが、唯一の私の道だ。降伏は、死ぬことである。命があってもなお、男は死するという時がある。誇りを、捨てた時だ」 孫権は、剣を振りあげ、渾身の力で振り降ろした。文机が、きれいに二つになった。 「私の決定を伝えた以上、これから先、降伏を唱える者は、この文机と同じになると思え。私は、わが手で、この乱世を平定する」 声があがり、やがてどよめきになった。 「ふるえる者は、去れ。立ち尽くすものは、死ね。これより、戦だ。男が、誇りを賭ける時ぞ」孫権かけえええええ。周喩ではなく、やはり最後は殿にしめてもらわねばなりませぬ。今までどちらかというと穏健だった孫権が、まるで曹操かなにかみたいにはっぱをかけるのがすさまじくいい。思わず読んでいてキャラに感情移入しているのか、展開に感情移入しているのかはあいまいだが、あまりの燃え展開に沸き起こった感情をどうやって発散すればいいのかわからずに声に出して読んでいたぐらいだ。 いつまでたってもこんな風に、興奮しながら本を読んでいるからちっとも内容の細かい事が頭に入ってこないのだ、と思ってもそれでいい、という気もする。虚人たち、のようなのめり込むような小説でなければ多少の分析や解説も出来るかもしれないが、こんな風にのめり込んでしまったら冷静な分析なんか出来るはずもない。細かい伏線も頭に入ってこないし状況描写や容姿描写もすっ飛ばしてしまう事が多い、それでも、まったく後悔はしていないが。 火の手があがっても、いいころだった。風が、急に強くなってきた。いまだ、いまだ。周喩は、口に出して呟いていた。周喩がここまで特殊な存在になったのは何故なんだろうか。この赤壁の戦いの策も、他の三国志だと孔明の策、というようになっていたような気がする。ひょっとしたら違ったかもしれないが。そこをあえて周喩が考えついた事にして、さらに孔明もそれを最初から見抜いていたということで非凡さをアピールする、とか。周喩の存在感が圧倒的だ。孫権がかすむぜ。周喩だけじゃなく、自分もいまだ、いまだ、といっていた時はさすがにアホかかぁ! と叫び声をあげそうになったがそれでもやっぱり読み返したら自然といまだ、いまだ、といっている自分がいてもうだめだこれ。いや、しかし今までずっと負け続けだったのだ。曹操に、劉備が、それがここでこの反撃。このときの気持ちといったらたとえようもないほどだ。あえてたとえるのならば、甲子園決勝で、あと一点とれば勝てるという場面で三塁を蹴るかどうかの判断をくだし、手を必死に振り回し続ける三塁コーチャーの気持ちだ。説明しづらいのだが、というか野球のルールに詳しくないから、コーチャーという名称すら曖昧なのだが、たぶんコーチャーというのは甲子園の場合補欠がやるのだろう。補欠君にとって、甲子園優勝というのはもちろんうれしいだろうが、自分は別に闘ったわけではない、だけれども、コーチャーとして手を振りまわしている間は誰よりも充実感があるのではないか、といつも思いながら手を振り回すコーチャーを見ていた。自分が主要人物として参加しているわけではないこの三国志という世界に、わずかながらでも参画していられる、と感じられるあの一瞬だった。かといって読者が物語に参加していないという意見ではない。読者は読者の集合意識として物語に参加している、という意見ではある。現に読者はこう望むだろうという予測はある程度作り手にもあるだろう、そういう場合読者の集合意識として物語世界に参加しているといえるのではないか。負けて弱気になったとたん今までと変わらず世話をしてくれていた許?の大切さに気付いて親しくなった曹操に少し笑った。いや、今までも大切にしてはいたのだろうがやはり弱気になったのだろう。それにしても曹操、よく負けるなぁ。さらに後継問題で悩む。方臘のように息子を片方簡単に殺すぐらいの度量を見せつければいいのに。 「曹仁の、援軍が来るな」 「来ます。しかし、劉備軍が、すぐ後ろにまで迫っています」 「そうか、間に合わぬか」 「間に合います。ただ、私はここでお別れしなければなりません」 「おまえが、張飛と趙雲を止めるか?」 「はい」 「死ぬな、虎痴。おまえが死ねば、私は虎痴と呼ぶ者がいなくなる」 「はい」涙がとまらんわぁぁぁぁ。許?かっこよすぎる。ただここで死ねばもっとかっこよかったが呆気なく生き残ったのはどうかと思うな! ただ、私はここでお別れしなければなりません、って割と映画とかでありがちなセリフだがありがちなのにはやはりそれなりの理由があるというわけか。関羽が四十九なのにあと十年は闘えるとかいってて吹いたわ。十年戦ったらもう五十九ですけど・・・。まぁ童貫元帥も六十なのに闘ってるしな。とりあえずここらで終了。
2008.08.29
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あらすじ今のところまだ何でもない彼は何もしていない感想 ネタバレ有久しぶりに筒井康隆でも。ものすごいツボにハマった作家というのが何人かいて、そういった人達の本は、ハマった故に読むのをためらってしまう。たとえば神林長平でも、恐らく日本のSF作家の中で今のところ一番好きな作家であるが、著作を半分読んでいるかどうか怪しい。もうかなり歳をとっている事もあるし、これから先、いったい何作品書けるかどうかもわからない。そんな中どんどん読んでいったら読む者が無くなってしまうじゃないか、という理屈。筒井康隆も同じで、面白くてしょうがないのだがどうも読む気がしない。読めば読むほど面白いものが減っていってしまう。ってそんな事いってたら何にも読めなくなってしまうような気がしなくもない。それからこれはある程度作品数があるからこそできることでもある。飛浩隆レベルに寡作になってしまうと、これはもうとっておこうなんていう思考が出来るはずもなくただただ渇きがあるのみである。ゆえに出た瞬間に読む。どういうタイミングで読まずにとってある作品を崩していくのかというと、それはもうフィーリングである。 突然ハッ 虚人たちを読もう、と思い立って読むのである。特にこの虚人たち、虚航船団と似たようなものだろうと勝手に分類していたので期待もひとしおであった。いつか読もういつか読もうと長年温めていた作品なのだ。虚人たち、面白いか? と訊かれたら答えに屈する。読んでみろ、という他ない。凄かったか? と訊かれたら有無を言わさず凄かったと答えるだろう。読んでいて小説じゃなくて論文を読んでいるようだと考えながら、いやでもこれは小説だろうと思い返していやでもと自分の中で否定と肯定がせめぎ合っていた。ストーリーに当然必要である感情の起伏みたいなものが存在しない。場面の盛り上がりも存在しない。何故なら登場人物は最初から自分がそういった世界のキャラクターであることを割り切っているからであって、いうならばこれは自分の夢の中で、自分の夢なのだ、と自覚している事に等しい。夢ならば、親が死のうが金がなくなろうが仕事をクビになろうが、関係無い。だから盛り上がりもない。もちろん本人が楽しもうという気持ちがあるならば何だって盛り上がるものだがこの主人公にはそれもない。そんなものがはたして小説といえるのかどうか。ただキャラクターにそういう感情の起伏が無い代わりに、自分が一方的に感情を起伏させられた感がある。はたしてこの意味のわからない小説はいったいどうなるのか、ちゃんとした終わりを迎えられるのか、とよくわからない心配だが、それでも感情の起伏という意味ではそれ程違っていない。ちゃんとした終わりを迎える事が出来るのか心配でハラハラドキドキした、というのを考えればサスペンスといえなくもない。最初、設定が物語の中の登場人物だと自覚したキャラクターが出てくるという事を聞いて、ああなるほど、それでまたいつものドタバタで物語をぶっ壊そうとするのだろか、という気持ちで読み始めたのだがまるっきり当てが外れた。てっきり自分が虚構の存在だと気づいてしまった主人公が苦悩するような小説だと思っていたのに、書かれていたのは説明不可能な話だった。自分が物語の登場人物だと自覚する話は最近の映画にもあったし、ゲームでもForestというやつはそうだったがこの虚人たちのような形式は、多分筒井康隆がはじめてだろう。というか誰もこんなことをやろうとは思わないだろう。面白くないことの理由の一つとして、ストーリーに起伏というものが全くないという事が一つで、あと一つは必要以上の持ってまわった言い回しの連続である。読点が一切なく(たぶんこれは思考の垂れ流しに本来読点などないからだろうか)恐らく時間を一切省略しないで、思考の流れを最初からありのまま書いているので必要以上に余計な描写が増えているのだろう。よくライトノベルが持ってまわった言い回しをしていてかっこいいとでも思っているのかという批評があるけれど、それを最初から最後までやっているわけである。ただ、読点を省略するだけじゃなく。←これも本当は思考には存在しないんじゃないかと思ったが、そんなこといったら思考に文字を使うのかお前は? という疑問に行きあたってしまってしかしそんなこといったら何にもならないじゃないかという疑問も当然のことながらこれだから概念的なものは難しいっていうか概念的っていう意味も知らずに勝手に書きやがってあほか みたいに、今のは思考をほとんど省略せずに書き続けていったものだが、(シュルレアリスムとは何か、で読んだがこれは自動記述というらしい、続けると狂うらしい、こええ)永遠に思考を続けようと思えば続けられる訳で、。←これもいらないんじゃないかと思ったがやはりどうでもいいことだろう。人生はゲームだ、小説だ、とよくいうけれども実際問題そんなこと無くて、ゲームならや小説なら~あれから三年がたった~なんてかっ飛ばされるようなところでも現実じゃどんなにめんどくさくても三年ちゃんと過ごさなくちゃいけなくて、ゲームや小説じゃ省略されるような事でも本当の現実じゃ全部一つ一つ自分でやっていかなくちゃいけないのだという事を思い知らされた。人生はゲームなんかじゃないな。虚航船団の時もそうだったのだが、改行が一切ない。虚航船団の時は確か何故改行が一切ないのだろうなんていうことを考えなかったように思う。考えていたとしても、もう忘れてしまった。だけれども虚人たちを読んでいてやっとわかった。というか正確にはわからされたか。ちょうど100ページのところから、約15ページにわたって空白の記述があった。これは意識を失った時間ということだが、それならば何の意味もなく15ページもの空白を作るはずがないと思い、そこで初めて気づいた。というか気づくのがあまりにも遅すぎたというべきか。この本にはひょっとして1ページごとに時間が設定されているのではないか、と思い、のちに30分程眠っていたようだ、という記述があったことから1ページ2分換算なのだろうと思い読み進めていた。 が、どうも途中から8分経過した、と書いているのにその間のページ数が約9ページあったことがあったりして、1ページ2分換算どころか、1ページごとに時間が設定されていたのもただの自分の思いすごしかと思ったものだが今さっき調べてみると原稿用紙1枚分が1ページとして書かれているらしい。なるほど、それならばずれるのもうなずける。そして意識が途切れない限り思考というのは続くわけだから何も起こっていない時ですら描写はありつづける。それを読むのが、地味につらかった。 描写するに価しない時間などというものは人間が意識を持つ限りあり得ないしある時間的間隔を持った意識の空白さえその時間的間隔ゆえに意味を持つ筈ではないか。むしろ無意味なのは本人がすべてを眺めわたしたというわけでもない風景の細密描写による現像焼付引伸ばしでありその為に時間までがおそるべき長さに引きのばされてしまう事であろうと彼には思える。そのように入念な観察が風景に対して終始一貫なされるものではないし極端な場合の如く会話と会話の間隙ほんの数秒の間に周囲の山川草木を一挙にあげつらうなど甚だしい暴挙と言わねばらならんのではあるまいか。こういった小説の技法批判というか、やり方そのものにケチをつけるための小説といった方がいいのかもしれない。たくさんこういった批評が書かれていたけれど、そんなこといったってどうしようもないというものがほとんどで記憶に残らなかった。ただ読んでいて面白いものではあった、たしかにたしかに、とうなずかざるを得ない。世界観の疑問ところで、この世界の意味がよくわからなかったのだが、途中で三人称視点で描写されていると思われる男が出てきたりと、割と意味がわからない。一つの作品としてじゃなくて、色々な作品の世界が混ざっている世界と考えた方がいいのだろうか? それともあれは一種のクロスオーバーが起きていたと考えるのが正しいのだろうか。絶望先生 「かかわりあうことが厭なんだ。今死んだあの中年の給仕はながいながい苦難に満ちた人生の幕をそこでおろしたわけだけど彼がわざわざおれたちのテーブルに倒れ込んできて死んだのはおれたちの中に観客の姿を認めたからじゃなくて否応なしにおれたちに助演させようとしたんだぜ。もし関わり合っていればあの男の厖大な数の出来事を含んだながい旅路の果てに立ちあい臨終を見届けた二人の親子づれというのでそこに重要なあるいは象徴的な意味を持たされかねなかったんだ」これとドンピシャのネタが絶望先生にあったなぁ。絶望した! ドラマに強制的に参加させられる社会に絶望した! みたいな感じで。これに対してオヤジ、しかし現実にはありえることだろうと言っているが何でオヤジ現実の事をそんなに知っているかのように話すのだろうか? ア・プリオリな概念として現実の事をほとんど承知していると書いていたような気がするが そもそも悲しみや苦しみを頒ちあうことはわれわれにはできないことなのだろうと彼は思う。だがそういう言葉が不自然でなく使用される以上現実の人間にはどうやらそういうことができるらしいと思い彼は現実の人間たちの虚構的な思いこみの強さやほとんど幻想的ともいえる想像力を羨む。強烈な皮肉だよなぁ。違和感を感じたのは現実の人間とこの親父がそこまでかけ離れた存在かどうかというところだが、まぁ皮肉だと考えれば納得できる。どうにもこの作品内における現実の位置付がよくわからない。この物語のキャラクターが現実というのを意識しているのは確かだけれども、現実についていったいどういった思いを持っているのかがわからない。現実に行きたいのか、行きたくないのか、どこまで現実を認識しているのか、現実と対比して自分の事をどう思っているのか。とりあえずこれにて終了である。 彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない。事件が終れば彼にはもうするべきことが何もない。するべきことのない彼はすでに何でもない彼である。
2008.08.29
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感想 ネタバレ有つ、ついに孔明殿が降臨なさった・・・。自分の興奮ぶりはそれはもう凄まじいものであった。50ページ以降ようやく孔明が出てくるのだが、早く出て来い早く出て来いと念じ続けて、一心不乱に読んでいたため50ページまでの内容をほとんど覚えていないというていたらく。やっぱ孔明反則すぎるな。いや、それにしても桃園の近いがなかったから、三顧の礼もひょっとして無くなるんじゃないか、という疑念をもっていたが、さすがに三顧の礼は書いてきた。よかったよかった。いや、別に無くてもよかったのだけれど。繰り返されることの安心、というものもある。一つひとつのエピソードが結構あっさりと流されていく印象がある。だから時の流れが速く感じるのかな。その中でも、孔明を迎え入れる話については結構念いりに書かれていたような気がしないでもない。いや、そうでもないかな? 一回目と比べて二回目と三回目はかなりあっさりだったな、そういえば。特に三回目はほとんど会話もしないで 「闘います、私は」 孔明は言っていた。 「劉備玄徳様のもとで、天下万民のために、闘います」 「まことに?」 「二言はありません」となっているし。読んでいる最中はやっと孔明が加入した! という嬉しさでいっぱいで何も考えなかったが、今こうして読み返してみると少々唐突すぎる感があるような・・・。期待がでかすぎた、というのは自覚している。なんにしても孔明がついに加入したのだ。これほどうれしい事はあるまい。これから、孔明の天下三分の計が始まる。孫家について周瑜がいい男すぎる。義に生きる、という生き方そのものはほかの登場人物にも、関羽とかに限らずこの北方三国志にはもはやありふれたものといっていいぐらいあふれているのだが、何故か周瑜が一番かっこよく読める。何故だろう。孫堅、孫策、孫権と親子三代にわたって忠節をつくしているからかな。よくわからぬ。そんな周瑜が突然酷い事をしたものだからびっくりした。 ようやく歩くようになったころ、川に放り込んだのだ。そうしていると、数日で周循は泳ぐようになった。いやいやいやいや、鬼畜すぎるだろ、拷問だろそれは。何故中国の親子関係は子どもにこんなに非情な事をあっさりとやってのけるのだろうか。ライオンは子どもを谷に突き落とすというがそれにしても歩けるようになったばかりの子どもを川に放り込むって・・・。絶対に助けられるという鉄の自信があってそうしているのだろうがやられた方はたまったもんじゃない。しかしかなり小さい頃の話だから、きっと覚えていないだろう。覚えていなくても泳ぎが身についているのだからそれはそれでありなのかもしれない。曹操についてついに曹操軍二十万が動き出した。袁尚もたおし、袁家を根絶やしにする。華侘のキャラが思いのほか曹操にとって重大なもののように書かれていたのに、あっさりと殺したのは驚いたな。というか殺された後、そういえばこんなやつが殺されるエピソードがあったな、と思いだした。というか今思いだした。北方三国志、キャラの書かれ方が全く違うのでキャラがうまく当てはまらない事が多々ある。この曹操もよく悩む。息子を殺してしまったことを悩み、部下が死んでも役に立たずに死んだとしか思えない自分に悩み、頭痛に悩み、劉備に悩み、天下を早くとらないと民が疲弊してもう限界だ、と悩み、ただこの悩みが全部、天下を平定すれば無くなる悩みである。だからこそこんなに攻めを急いで居るのかもしれない。残念ながらこのあと何年も闘いは続く事になる。
2008.08.28
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感想 ネタバレ有これほんとに十巻で終わるのかどうか・・・。長くなる分には何の問題もないのだが。三巻である。まだ梁山泊は準備の段階だ。主な出来事としては方臘の信徒がついに行動を開始し、童貫の軍がついに動き出し、王進の元から張平と花飛麟が出てきて、楊令がついに梁山泊の頭領におさまった。こうして羅列してみると、全てが動き出したな、という感じはする。次の巻あたりから大きく動き出すのは、と予測させるに十分な内容だ。これから起こるであろう事を羅列してみるか。方臘軍と童貫軍との戦いがまずある。それから武松の呉用救出。これによってどうなるかわからないけれど、ひょっとしたら方臘軍と梁山泊がなんらかの形で連携をとるのではないか。方臘が梁山泊入りするという展開は全く見えない。さらに聞煥章建国の策がどうなるかで全く展開が変わってくる。ただ、もし仮に聞煥章建国が成立してしまったらこれ、もはや十巻なんかで収まるはずがなさそうに思う。三国志並の入り乱れ方になってしまうのではないか。宋、金、梁山泊、燕国の四つ巴に等しい事になってしまう。そんな事を想定していたらとても十巻とはいわないだろうから、燕国が建国されることはなさそうだなぁ。とすると聞煥章がどうなるのか、死ぬか、まさか梁山泊入りすることはあるまい。死ぬのか?まぁよく考えてみても、根も葉もない想像であるからして、これぐらいでやめておこう。二巻か、三巻で呉用が死ぬのではないか、と書いたけれどそんなことはなかった。呉用がこれからどうなっていくのかも非常に気になるところである。しかし、一番予想外だったのはやはり方臘だろう。 「おまえは、俺の息子だ」 「はい」 「だから、教えてやっている。死ななければならない、理由をな」 「えっ」 方臘が、方天定に歩み寄った。次の瞬間、方天定の首は宙を舞い、階に落ちて転がった。ゲェー! 息子を殺しやがった。このへんがこええところだよな、中国の常識。子が親を敬うのは当然として親は別に子どものことを好きにしていいっていうそういう感じのあれが。それでも殺すとは思わんかった・・・。大抵こういうやつがだんだん火種になっていくのに、それを殺してしまうとは。そういう決断力というか描写を含めて、方臘のキャラ付がだんだん凄まじいものになっていく。呉用が方臘に心酔するのも時間の問題か、それとも武松が間に合うのか、楽しみだ。最期の言葉が えっ ってのもかわいそうな話だよな・・。まさかこんなにでかくなっていくとは思わなかった。そして聞煥章の新しい国を作ろうというその思いのほかでかかった野望にびっくりだわさ。てっきり李富にかわって青蓮寺のトップに躍り出ようとかいうぐらいの事だと思っていたのに、さすがにタダじゃ終わらせないか聞煥章。聞煥章と扈三娘の長い長い長い伏線はいったいどうなるのだろうか。楊令が子午山に戻っていったときの話が非常に泣ける。というか子午山の場面になると本当に心が洗われるような気分になる。誰がいってもそこに行けば精神も体も鍛えられるという、それでいて世間の毒々しさもない。あるいみ天国といっていいようなところだからだろうか。 「この山から、降りるのではなかった。何度も、そう思ったのでしょうね。しかし、おまえはいつも、ひとりであってひとりではなかった。おまえはそれを、受け入れたはずです。思いだしますよ、おまえが一度だけ、私に語ってくれた事を。肌身離さず持っていたもののことを」 「王母様」 「持っていますか、いまも?」 「はい」 楊令の手が、襟の中に入った。出てきた掌の上に、小さな袋がひとつ載っている。鄭天寿!! お前の死は無駄死になんかじゃないぞおおおお。山田を見返してやったな! ところで、鄭天寿、いい味を出しました。小者に急に正確づけが始まると末期も近いという読み方のいやらしさ。七人目の犠牲者であります。小説史上に残る犬死にであります。*山田とはこのセリフを言った編集者鄭天寿犬死じゃなくてよかったなぁ。やはり過去があるというのは面白い。どのキャラクターにも過去がある。しかし実際のところ、死に方だけをみたら完全なる犬死にである。あれほどサクっと死んだのはやはり鄭天寿だけだろうな。サクっと死んだって意味わからんが・・・。 「宋江殿より託されたこの旗は、聚義庁の入口に掲げる。長く、苦しい闘いが続く。その闘いのすべてを、この旗が見守るだろう。この旗にむかって、恥じること無き自分であろう、と私は思う」 また、声があがった。 聚義庁の屋根に、『替天行道』と大書した、真新しい大きな旗が掲げられた。ついに楊令きた!!!これで勝つる!楊令伝で、キャラクターが死んでいった者たちの事を思い出して語る場面があるたびに、その場面を思い出して涙が出てくる。鄭天寿のように、早くに死んでいった人たちも思い返すから反則である。そしてついに旗があがった。やはりこっからどんぱちかね。動きだすのかね、物語が。非常に楽しみである。
2008.08.27
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感想 ネタバレ有まだ二巻である。ところでこの表紙のお方はどなたですかね。梁山泊の高年齢化がすさまじいのう。このままいつのまにか老人小説になっていそうだ、っていいすぎだけど。何人か年齢が書かれていた。ちょっと書いてみよう。呼延灼が四十九ぐらい、童貫が六十、史進が三十八、燕青が四十、張清が三十八、李俊が四十五。みんな歳をとったもんだなぁ・・・。童貫なんて六十っすか。とっとと定年退職しろよ。いったいいつまで指揮をとるつもりなんだろうか。まぁこんなじじいが存在したら死ぬまで闘いをやめなさそうだけどな。はた迷惑なじじいもいたもんだ。史進が思いのほか若かった。あと十年、戦えるか闘えないかというところだろうな。童貫もあと十年はさすがにきついだろう。五年が限度ではないか、と勝手に思っている。五年以内に、決着はつくのではないだろうか。楊令伝、ほとんど童貫vs楊令の構図になっているように思う。ってことは童貫が死んでまでだらだらと続くという事はないだろう。なぜなら童貫には子がいない。楊令のように続く事はない。本当の戦いはまだ、始まっていない。今はまだひたすら準備をしているところだ。何をするにも、大事なのは準備だ。全ては準備が必要だ。というのをひたすら書いていたように思う。方臘もそういっていたしな。アサシンクリードだって、暗殺するより調査する時間の方が長いしな。それにしても、である。方臘の考えが思いのほかしっかりとしている事に驚いた。一巻の時点じゃたいしたことなさそうだったのに。それから一巻であれほど皆に嫌われている、と地の文で書かれ続けていたのに一転して、呉用はみんなの憎まれながらも間違ったことはやっていない、と認められるようになってきた、でも嫌われているのはそのままだが。これから先どうなるのか全く予測が出来ない。呉用は死ぬのか、死なないのか。方臘の反乱も全然ダメダメ、からひょっとしたらっていうかこれ結構いい線まで行くんじゃね?というレベルまで引きあがってきた。まったく、何一つ予想がつかない。 「王になってみたいという思いは、めしを食いたいという思いに似ている。めしは、一日に三度食らう。一生に一度、食らってみたいというめしがあっても、悪くあるまい」王になってみたいなんて思った事ないが(そりゃそうだ)、似たような感覚を持っている。なんとなくわかる、というぐらいだが。楊令の考え方が面白い。 「新しい国家を夢みて、闘うしかない、と俺は思い定めました。その間、俺は痛いほど生きていられると。ほんとうに新しい国家ができてしまったら、俺はそれを、後ろから来たやつらに投げ渡してやりますよ。もう、俺の夢ではなくなっているのですから」あまり書かれない英雄のその後、というものがある。革命家にとって必要なものが何かはわからないが、それが国を運営していくのに必要ないものであるのは、確かであるように思う。革命に成功した後、政治に携わってうまくいった例というのをあまり聞かない、というか全く聞いた事が無い。そりゃ探せばあるだろうが。失敗した例ならば、日本の西郷、キューバ革命のカストロ、ゲバラなどがいる。そういやグレンラガンは英雄のその後、を書いた作品としても面白かったなぁ。あれも革命の英雄として扱われながらも、牢に入れられたり処刑されそうになったり、結構悲惨な目にあっている。ただ、この水滸伝時代じゃ革命をしたらそのトップに立っている人間はまず間違いなく国を作るという段階になっても、トップで居続けるというのが当然、という感覚があると思う。それどころかどいつもこいつも革命に成功したら自分が帝になるのが当然、という態度でもある。そんな中で、最初から退く態度を見せている楊令の凄さ、というものを感じた。呉用が命からがら梁山泊から逃げだす時のエピソードで、たった一文だが妙にひきつけるものがあった。 取調べなどなく、一度名を訊かれただけだった。晁江、と名乗った。晁蓋と宋江と本当に親しくしていた呉用だからこそ泣ける。阮小五も死んでしまい、そういえばもうずいぶん長いこと呉用は一人だったな。本当にみんなに嫌われているようで誰とも親しくしている描写がない。明らかに梁山泊の中で特異だ。 「そりゃ、死に方からいえば、摸着天の死に方は、勇敢そのものだった。だがな、梁山泊軍の古い兵があいつのことを忘れないのは、きちんと生きたからだ。やるべきことを、きちんとやった。摸着天の訓練を受けた兵も、まだ相当残っている。ああいう死に方でなかったとしても、その兵たちは、摸着天杜遷を忘れねえさ」死に方をといているわけではない。生き方か。生き方に焦点をあてた話をこれまでしてこなかったように思う。今までの水滸伝は、いかに死ぬか、という話だった。と思う。ここでは生き方をといている。Amazonのレビューを読んでいてなるほど、というものがあった。水滸伝は死に方を書いた小説で、楊令伝は生き方を書いていく小説ではないだろうか、というものだ。自分も全くその通りだと思う。
2008.08.26
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感想 ネタバレ無どこが、とはいわないが雰囲気がガラっと変わった印象を持った。完全に水滸伝とは別物として考えた方がよさそうだ。今までの話が、原典があるゆえのどこか予定調和的な世界だったという事から解き放たれたからかもしれない。全く別の視点で持ってこの作品に望む必要がある、と思った。どこが、とはうまく説明出来ないが、作品が全く違うように感じるのだ。ハードカバーなのだが、この表紙に書かれているムサい男が楊令なのだろうか・・・。どうみても二十一歳じゃない、少なくとも三十は超えているおっさんに見える。火傷のあとがあるから間違いないのだろうが、イメージを崩されたという気持ちが強い。絵でイメージを崩されたといえば、何よりひどいのは扈三娘である。絶世の美女、というような設定で書かれているにも関わらずあの絵! なんだありゃ?化け物か? 昔の中国はああいう女性が美人だったんです! といわれたら全く反論できないが。 いや、かといってもっと現代風のかわいらしい感じの、萌えという感じではないんだけどそれでも現代風にデフォルメされた絵を書かれても正直かなりがっくりきただろうからどうしようもないといえるかもしれないが・・。それから史進の絵もひっでぇ・・・。なんか剣二本持ってたっている姿、服装もあいまって変態にしかみえない。ていうか史進、武器棒なのに何で君剣をもっとりますか。一巻である。これでもかというほど一巻でもある。物語は所詮まだプロローグである。北斗の拳だったら、19XX年、世界は核の炎に包まれた・・・とナレーションが入ったところである。まだまだこれから。楽しんでいこう。今回の全十巻という構想ははたして守られるのだろうか。しかし、水滸伝を読んでいる間からずっと気になっていたのだがこいつらいったい何歳になるまで闘い続けるのだろうか。ひょっとして、闘うという行為については基本的に年齢はあまり関係ないのか? 老いで弱くなっていくというのはもちろん当然あるのだけれども、こいつら現役で闘い続けすぎなような・・・。史進とか、君何歳だよ、オリンピック選手だったらとうに引退してるよ。林冲が確か四十代半ばだったから、史進は三年たった現在、もうすぐ四十代に入るところか? おっさんじゃないか、そろそろ引退したらどうだ? というか林冲、四十すぎてまだまだ駆けまわってるって結構凄いな。自分四十すぎてそんな駆けまわる自信ないっす・・。王進も何歳だかわからん。少なくとも林冲よりは歳上だろう。ってことはもう五十超えてるんじゃないか? 五十超えてなお武道に励んでるのか・・・。まぁ塩田剛三もかなり歳がいってからもずっと武術を極めようとしていたようだし、あながち特別なことでもないのかもな。感想 ネタバレ有まだ王母様が生きている事に驚愕した。多分今七十超えたぐらいではなかろうか。まぁ生きてるか。それぐらいだったら。健康的な生活をしているみたいだし。そしてもっと驚いたのが、張平が思いのほか強くなっていることである。あまり武の方面を強調されていなかったので、たぶん武術の才能はないんだろうな、と勝手に想像していたのだがとんだ思い違いであった。張平と立ち会った時の花飛麟のセリフは小物すぎる。 「まさか。虎でもかわせなかった、私の打ちこみを」かませ犬のセリフテンプレートなんてものがあったら確実に入っていそうだな。 「私は、弱い。弱すぎる。馬麟殿の言う通りだ」花飛麟の慟哭。こうやって自分の弱さを嘆くような男の描写に弱い。こういうところは前の水滸伝と変わっていない。自分が弱いという事を自覚することが、強さへの第一歩である、みたいな。この楊令の苦しみ、みたいなものはある意味王道的展開であるともいえる。過去を受け入れるために苦しむ万能主人公というような構図。ただ水滸伝そのものも充分に王道的展開だとは思っていたが、どうも方向性が変わってきているように感じられる。たぶんそこが、水滸伝と楊令伝が全くの別物だと感じた元だとは思っているのだが、よくわからない。一つ気になったのが、呉用の存在である。呉用が生きていたことにもびっくりだが、その呉用に関するエピソードが多すぎる。これはひょっとしてあれかな、死亡フラグってやつかな。水滸伝じゃ五巻で楊志が死んだ。十一巻じゃ晁蓋が死んだ。どうも定期的に重要な人物を殺していく傾向がある。全十巻を予定されている楊令伝だ。二巻か、三巻あたりで呉用を殺してくるかもしれない。それも反則的なやり方で。みんなの憎まれ役をかってでながら、実は誰よりも梁山泊の事を考えていた、みたいな死に方で。それが出来るのは今のところ呉用しかいないのではないか。くどいほど呉用は確かに重要な存在だったが、今はもう用済みでうるさいだけだ、みたいな事をいろいろなキャラクターに語らせる。これが死亡フラグじゃなくてなんだというのだ。しかし痛いのはこっちの心である。呉用がどれだけの貢献を梁山泊にしてきたかを読んで知っているだけに、今こうして厄介者扱いされている呉用が不憫でならない。 燕青は、腰を降ろした状態から、侯真の頭上を越えるように跳躍した。なっ!?座ったままの姿勢!膝だけであんな跳躍を! どこからどう読んでもJOJOである。しかしこいつら、子供世代が大勢でばってくんのはいいんだが、子供だからっていって出来がいいのはどうかと思うぞ。秦容も多分これから梁山泊入りするだろうし、花飛麟、侯真は言わずもがな、どいつもこいつも子供だからっていう理由で強すぎる。もっとなんていうかこう、宮崎駿に対する宮崎五郎みたいな存在はいないのか? ああ、いるけど活躍しないから書かれないのか、ってまだ一巻やんけ! 批判するのはやすぎるやんけ!秦容と花飛麟のコンビはこれから先あるのかなぁ、あったら最高だが。往年の秦明、花栄の名コンビ復活であるな、子供で。そんな展開になったら泣くわ・・。童猛の活躍というか描写が結構されていたが、どうも替天行道に書いてあった 童威と童猛は区別がつかんので、どちらかを殺してしまいましょう。のセリフが頭に浮かんできて、ここに書かれていたのはひょっとしたら童威だったかもしれないと思うと悲しいやら不憫やらでもやもやした感情がわき起こってくるわけである。こいつ、コインの裏表のような運の要素で生か死か決められたキャラクターなんだなぁと想像すると悲しくなってくる。いや、実際には違うかもしれないのだけれどね。
2008.08.25
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続き第四章、時間を逆行する反粒子だが、意味が全くわからない。何で時間逆行するんだ・・・?未来から過去へと行く反粒子があれば、すべての説明がつくのである! と書かれていたけれど、意味がわからないが・・・。まあいいか。このあたりは難しすぎるなぁ、ファインマン図形とかいうの見ても何にも感想が湧いてこない。反物質とは全くの別物だよな・・。と思ったけど関係しているようだ。 反粒子(はんりゅうし)とは、通常の粒子と比較すると、質量とスピンが等しく、電荷など正負の属性が逆の粒子を言う。電子の反粒子は陽電子であり、同様に陽子には反陽子、中性子には反中性子がある。(中性子は中性であるが反中性子は構成粒子であるそれぞれのクォークが反粒子であるため反粒子が存在する)反粒子が通常の粒子と衝突すると対消滅を起こし、すべての質量がエネルギーに変換される。逆に、粒子反粒子対の質量よりも大きなエネルギーを何らかの方法(粒子同士の衝突や光子などの相互作用)によって与えると、ある確率で粒子反粒子対を生成することができ、これを対生成と呼ぶ。数学的取り扱いにおいては、粒子が時間軸を過去に向かって進んでいるものを反粒子である、と解釈することもできる。(CPT定理) (Wikipediaより)対生成・・・?まず反粒子がなんなのかWikipediaを見てもよくわからんな。まぁ要するにどんなものにも反対のものがあってそれとぶつかるとすげえエネルギーになるのか。質量よりも大きなエネルギーを何らかの方法で与えるってのもよくわからんな、滅茶苦茶小さいだろうに。そしてそれがどうやって過去に向かって進んでいるのと関係しているのかがわからん。第五章、マクロの世界を支配するエントロピーの法則は面白い上に分かりやすい。グラフとかわけのわからない図が出てこないからだろう。情けない話である。生物と無生物のあいだよりよっぽどうまく生命というものを説明していた。この本のタイトルが生物と無生物のあいだでもいいぐらいだ(言いすぎ)ただウィルスが生物なのか無生物なのかは、わからないが。とりあえずここから先重要なエントロピー増大の法則についてのわかりやすい解説。 たとえば、あなたの書斎がきれいに整頓されている場合、そこには「秩序」がある。このときあなたの書斎のエントロピーは小さい。しかし、あれこれ仕事があって整理がおぼつかないと、書斎は乱雑になってくる。秩序がなくなってくる。エントロピーが増大しているのである。エントロピーを小さくするためには、整理整頓という大仕事をつぎ込まなければならない。それが面倒で放っておけば、乱雑さはますますひどくなる。つまり、エントロピーはますます増大する。これが、きわめて不正確であるが、もっともわかりやすいエントロピー増大の法則である。時間論を語る上でエントロピーの増大が、こんなに重大な意味を持っているとは知らなかった。というかそもそも、エントロピーの増大なんて言葉を知っていただけで、意味なんて全く知らなかったのだが。なんとなくエンゲル係数とにたような意味を持っていると勝手に思っていた。はずれもいいところである。第五章はほとんどエントロピー増大の説明だった。第六章、主観的時間の創造から今までのまとめに入る。エントロピー増大の法則によって、世界は基本的に崩壊に向かっていくという。まぁこれは当然の事、と考えられるのかもしれないが、何故それが当然なのか、というのが面白い。世界が崩壊から秩序の保たれた状態へ戻って行くという事が何故起こらないのか、まだその問いには答えられないらしいが、面白い問いだ。 ここで悟ったようなことをいうが、われわれの宇宙(時空)がC系列であるとすれば、宇宙はただ存在するだけである。そこには、空間的拡がりや、時間的経過というものはない。(省略)実在とは、時間や空間を超越した何かなのである。確かに宇宙だけで見ればその通りだけれども、人間の自意識というものを通して宇宙を見るとそこに空間的拡がりと時間的経過が生まれるというのが面白いところだ。ここで語られている意識というものがあるが、これを生物と無生物のあいだにでいっていることと基本的に同じだが、こちらの方がわかりやすい。基本的に物質はエントロピー増大の法則によって崩壊に向かっていっているのだが、生物はそのエントロピー増大の法則に逆らう。たとえば石は放っておけばただ崩れるだけである。もし仮に、石が意志をもっていて(ギャグである)崩れないように、自己増殖すればそれは自己複製する遺伝子だかなんだかの、生物と無生物による生命の定義と等しい。つまり言っている事は同じか。崩壊を食い止めようとする力が働けば、それは生物である、ということだろうか。 生命とは秩序であり、かつ、その秩序を持続させる「意思」をもった存在である。エントロピー増大に逆らうために生物というものが生まれたならば、エントロピーが次第に減少していく世界では生物は生まれないのか?という当然の疑問を持ったのだが、生まれないらしい。 エントロピー減少が成立する世界では、世界全体がひとりでに秩序に向かうから、そこには自然選択というような進化の圧力が働く必然性がまったくないということである。エントロピー減少の世界で、エントロピー減少を食い止めようとする意識が生まれない理由がよくわからないのだが。秩序も無秩序も結局人間が考え出したものなんだからあり得そうな話だが。秩序が世界が向かうべき当然の場所、というわけでもないだろうに、だったら秩序も無秩序も同義じゃないのだろうか。自然選択というものがいまいち分かっていないのに書くようなことじゃないんだが。付録が思いのほか面白い。ただのおまけ的な要素なのに、いや、それだからこそ面白いのか。付録3、多元並行宇宙、俗にいうパラレルワールドである、について語ったところ。 ぼくの意見では、並行宇宙は存在しない。その理由は、本文で展開した時間の創造の仕組みに関係している。 ひと言でいえば、並行宇宙が存在するとしたら、そのような宇宙では「意思」が進化するための自然選択の圧力がなくなるからである。確率的に可能なあらゆる事柄が、実際に起こるのだとすれば、そこには秩序を維持するために未来を決定するという「意思」が生まれてくるはずはない。あーなるほど。並行宇宙なんてものがあるならば、そのどこかにはちゃんとした秩序を持った世界があるはず、だからわざわざ秩序をたもたせようという意思が生まれてくるはずがない、何故なら意思なんて生まれなくたって、無限に平行する可能性の中には意思なんてなくたって、どんなに確率が低くてもちゃんとした秩序が保たれている世界があるのだから、というような理屈か。非常に面白いが非情である。今までパラレルワールドが数々の名作を生み出してきたというのに、それだけで夢を駆逐されたらたまらんのである。パラレルワールドがなかったら量子論がおかしくならね?という問いにもちゃんと反論しているが意味がよくわからなかった。たとえばサイコロをふって、一が出る未来と六が出る未来、のように世界が分裂するのが量子論だと言われていたが、どうもサイコロがふって一が出たらそれはそれで確定で、他の未来などなく、量子論は関係していない、という理屈らしい、どうしてそうなるのかはよくわからん。付録4 タイムマシンあらかじめパラレルワールドが無いとしたうえで、もし仮に過去に人間がいったらそこは違う世界の過去であるとしている。何故なら現在にいたるまでの道のりはすでに確定している事で、それを変更する事は絶対にないから。それから、矛盾を生じさせない、という点だけでいえば物質だけなら過去に送れるという話があったが、それも別の世界の過去に送れる、というだけであろう。ここまで書いて何だが、パラレルワールドというのを先に否定しているので暗にタイムマシンなんてありえないといっているのであろう。永くなったがここで終わり・・。
2008.08.25
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感想 ネタバレ有いつも思うのだが、新書を選ぶ時、常にタイトルで選ぶ。これだったら時間はどこで生まれるのかが、気になったから選んだのだ。そしてその答えが知りたいから選んだのだ。だから、一行目にその答えを書いておいてほしい。これだったら、ページをペラっとめくったら 時間はどこで生まれるのか、それは~~~である。今からそこに至る過程を説明しよう、という感じで始めてほしいのである。なんという傲慢な態度。作者だったらコメント荒らしするレベルである。ただ、本書には大満足である。しかし、理解度ていったら恐らく二割、理解出来ていたらいい方だろう。その二割でも十分に面白いと感じられた。新書というのは手頃に頭が良くなった気分にさせてくれるものだなぁと読んでいて思った。良く考えてみたら、自分は時間の事なんて今まで全く勉強したことがなかった。多少知っている事といえば、生物の時間間隔というのは星の自転速度で決まる、という事ぐらいだ。これだってSFから得た知識で、正しいものかどうかすらわからない。いわば知識0の状態から、10でも100でもどっちでもいいがこの本を読んだ事によって急激に知識があがったのである。こりゃ読んでいて頭がよくなったという錯覚に陥っても仕方あるまい。ただその場合気をつけなきゃいけないのが、一冊本を読んだ程度でその分野に自分は精通していると思い込むことだな。自分も気を抜くと一冊しかその分野の本を読んでいないのに、それについて全てを知っているかのように思ってしまう事がある、利己的な遺伝子利己的な遺伝子と生物と無生物の間で何回も書いたが、あれがいい例である。全ての価値は比較する事によって生まれる、というような事が書いてあったのはどの本だったか、とりあえず一冊だけ読んでその価値を決めてしまうようじゃいかんよなぁ、というような自戒である。そういういわゆる知ったかぶりの態度は恐らくかなり痛々しいものであろう。特に自分、この本の事を二割しか理解していないと自負している(自負って使い方あってるのか?)一見関係あるのかないのかわからないような、最初の方の記述がラスト付近、六章七章で一斉に回収されていくのはまるで伊坂幸太郎の伏線のようだった。というかラスト30ページは今までわからなかった事がなるほどおおおと声をあげてしまうほどに理解出来て、次々と頭の中で整理されていくのは純粋にうまいと感じた。いや、っていうか純粋におもしれえよ!とりあえず、さっき自分が書いた、タイトルの答えがすぐに知りたい、というものをとりあえず自分だけは実践しよう。時間はどこで生まれるのか、それは意識というものが存在した瞬間に生まれるのである。哲学的要素もふんだんに盛り込まれていた。特に、哲学の一番わかりやすくておもしろい部分である、見る人によって赤は違う色かもしれない、というようなところの話も面白い。色というのは電磁波で、人間が色として認識出来ない電磁波を、赤外線と紫外線と呼ぶとか。モンシロチョウは紫外線が見えるから、モンシロチョウ同士にはお互いの羽に模様が見えるが人間は紫外線のレベルの電磁波は感知できないから見えないとか。全体的にいっていることは非常に難しいというか、専門用語が多いというか、単純に自分の知識が足りてないだけなのだけれども・・・。それでも最後の方は本当にきれいにまとまってくるから凄い。ただやはりもうちょっと理解するためにちょっとずつ進んでいこう。ミクロな世界じゃ何でもありなんだよ! というような話を何回も繰り返される。それも何でかよくわからない。たぶん量子論とか原子があまりにも小さいからとかそんなような理由なんだろう。それから非常に重要な時間のA系列 B系列 C系列の事も忘れないように一応書いておこう。A系列とは主観的な時間である。常に「現在」という視点に依存する時間のことをいう。B系列とは歴史年表のような客観的な時間である。C系列とはただの配列のことである。最初はC系列の、ただの配列ということの意味が全く分からなかった。正直読み終わった今もわかっていないが、最後の方で一枚の絵にたとえられていたことから、恐らくただ並べてあるみたいな感じなのだろう。二章でいきなり意味のわからない図を使った説明をされる。正直なところ、この図を使った説明、ぜんっぜん意味がわからなかった。というか空間と時間を相対的に考えるのがまず難しい。時間が実数であり、空間が虚数であるというのはなんとなく理解できたが、何故今現在の私が干渉され、干渉する事が出来る絶対過去と絶対未来が円錐形をしているのかがいまいちわからない。相対論の説明 たとえば、高速道路を時速100キロで走る車があったとしよう。この時速100キロという速さは、歩道橋の上に立っている人から見た速さである。同じ高速道路を同じ方向に、時速70キロで走っている車から最初の車を見ると、時速30キロに見えるはずである。この考え方を適用すると、光の速さというのは動いている人間の速度と相対して光の速さも変わってくる事になる。だが、光の速さは不変だという。その理由は動いている人の座標軸は時間軸だけじゃなく、空間軸もかたむくという、正直、意味がわからない。せめて自分がグラフなんて毎日もてあそんでるぜ?みたいな理系学生だったらもう少し理解度が期待できただろうが、しがない文系学生だった自分にはそんな次元の理解はとうてい無理なのである。空間軸が斜めになるというのは、光の速度がかわらない事を説明するには空間軸が斜めになるしかない、という事から導き出されているのだろうか。それプラス色々な要因から空間軸が斜めになるしかないと結論されたのか。しかしいきなり空間軸が斜めになるといわれたって、え?ななめって?どういうこと?地面が傾くの?というぐらいの感想しか持てない。自分が今感じている現在というものが、グラフ状じゃ点としてあらわされるのではなく、広がりを持ってあらわされるというのは面白い話だ。確かに認識するために脳を情報が伝達する時間があるのだから、それが伝達している間をイマとして定義するならば現在は広がっているということになるのだろう。実際にあなたが今見ている風景は何秒前の風景です、みたいな話を読んだ事がある。でもその場合眼に取り込んだその瞬間を現在とするならば、現在というのは点になるのではないだろうか、よくわからんけれど。 現在、「一秒は、セシウム一三三原子の基底状態の二つの超微細エネルギー準位の間の偏移に対応する放射の九一億二六三万一七七〇周期の継続時間」と厳密に定義されている。わ、わけわからんちん。な、なに?日本語かなほんとに?超微細エネルギー準位ってなに?ギャグなの?他に気になった場所は、時間という概念が人間にとってア・プリオリであるというところだ。ア・プリオリというのが何なのか、三割ぐらいしか理解していないがそれでも書くならば本能というか生存に必要なもの、というか元々知っていたものみたいな意味か?犬や猫には未来という概念がないらしい、人間が未来という概念を知る事が出来たのは、それが必要だったからだろう。仮に時間という概念が無かったらどうなるのだろうか。きっと三時間後にはまたお腹が減るだろうから、今食べるのを我慢して三時間後のために残しておこう、というような事は出来なくなるだろう。過去という概念がないのはうまく想像できないが、過去の経験から学ぶ事が出来なくなるのだろうか。人間に時間という概念がなかったら今もウホウホ原始人のような生活をしないとならないだろうな。ここまで自分で考えたこと。 もっとも、われわれの祖先は一万年ほど前までは、時間という概念を持っていなかったと思われる。彼らは他の生物同様、獲物や来襲者の「動き」といった刹那刹那に生きていたのであり、そこから時間概念が生まれるためには、もっと余裕のある生活(農耕など)が必要だったに違いない。それゆえ、時間は人間の理性が生み出した後発的な概念であり、よりプリミティブには、「動き」こそが生き延びる条件だったのである。プリミティブってなんだ?調べていたら原始的なさま、というような意味らしい。それにしても時間という概念が後発的な、身につけた概念だとしたらア・プリオリの本能みたいな意味は違うってことになるのかな? それと概念っていうのは子孫に受け継がれるもんなのか?よくわからんな。簡単な思考実験で時間や空間が実在ではないと示す事が出来るらしい。 一個の光子の立場から考えてみよう。もし光子が意識を持っているとすると、それはどのような世界を体験するだろうか。相対論が正しいとすれば、光速に近づくにつれて、空間の縮と時間の遅れは極限に達するから、宇宙空間を飛んでいる光子は、一瞬のうちに宇宙の果てに到達する。つまり、光子にとって、宇宙の大きさは0であり、流れる時間もまた0である。つまり、光子にとっては時間も空間も存在しない。光子にとっては無であるような世界の中に、われわれは広大な空間と悠久の時間を見ているのである。うーむ、ロマンだねぇ。光速で移動すると確か収束点がみえて、まわりはレインボーになるらしい、何でそんな事がわかるんだろうなぁ?体験したわけでもないのに。一つよく理解出来たことといえば、量子論だろう。SFを読む以上量子論は避けては通れない道である。必然、量子論についてはSFだけでなくちゃんとした本も合わせそれなりに読んでいるので全くの無知ではない。ゆえに完全についていけなかったというのは二章だけで、あとは五割ぐらいの理解度で何とか付いていくことができたのである。もう一万文字を超えてしまいそうなのでとりあえずここまで。それにしても一万文字制限、うっとうしいことこのうえない。やはり移転するべきか。
2008.08.24
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感想 ネタバレ有ついにラストで孔明への引ききたああああ。それにしてもこの徐庶と諸葛亮孔明へのバトンタッチは素晴らしいなあ。徐庶の有用さを十分にアピールしたうえで、あえて曹操の方へ仕官させて、しかしその徐庶をして自分より才に恵まれた男という事でいやがおうにも孔明への期待感が高まる。 「私より、はるかに才に恵まれた男で、臥龍と呼ばれています。つまり、まだ雲を得ていないということです。その雲に、おなりなされよ、劉備様」 「して、その臥龍の名は?」 「諸葛亮、字は孔明。劉備様自ら、お訪ねになるとよいと思います。それほどの男であるのです」初めて三国志を読んだ時は、なんで徐庶いっちゃうんだよおおおおと絶叫し、孔明がどれほどの男かとわくわくしながら読み進め、いざ孔明の実力を読んだ時はそれはもう嬉しくてうれしくて転げまわらんばかりだった。実際、今も大して変っていない。よく考えたら北方三国志、漢気の物語である。劉備はその誇りで闘い呂布もその誇りで闘う。策で闘う孔明は、北方三国志には実はあまりあっていないのかもしれんなぁ。孔明も誇りに似たようなものは、もっているか。北方三国志で、呂布がかっこいい関羽がかっこいい張飛がかっこいい劉備がかっこいいという話はよく聞くが、孔明がかっこいいという評価を聞いた事が無い気がする。あまりにも人の口に孔明の名前があがらんので、ひょっとして北方三国志には、孔明が出てこないのではないかと疑ってしまったぐらいだ。まぁ遂に孔明が出てくるようでよかったよかった。これで今まで不遇だった劉備も、ついに反撃にうってでれるわけですね。袁尚視点来るかと思ったら来なかった。このまま何事もなく駆逐されていくのだろうか。というか話全然おぼえてないなあ。記憶力の危機。まだ物語が本格的に動き出した、っていう感じじゃないなぁ。曹操がした事といえば、劉備とちょっとやり合い孫家の兄弟げんかを見守り頭痛に苦しんでいただけだし、劉備も劉備で同じ場所からずっと動いていないし、孫策もほとんど動いてない。って動きだけ言ったらこんな感じだが実際もっといろいろあったがな。この曹操の頭痛設定、今後一体どうなっていくんだろうか。 「徐庶殿か。私も、流浪を夢見ることが時々ある。羨ましい話だ」 「なにもかも、放り出す。その決心さえできれば、難しいことではありません」 「なにもかも、放り出せる。たったひとつのことを除けば」 「なんです、そのひとつのこととは?」 「志」このシーン、三巻での呂布と曹操のやりとりとそっくりだなぁあああ。呂布を思い出したよ・・・。やっぱりこの二人、そっくりである。志と誇りは違うであろうが、でも劉備志だけじゃなくて、誇りも持ってるんだよなぁ、その点が呂布と違うところか。
2008.08.23
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感想 ネタバレ有孫家ほんとに不遇っぷりが半端ないわ・・・。ここまで情けない孫家可哀そうだな。孫堅流れ矢で死んで、孫策もこれからって時に女に骨抜きにされて暗殺されるってどんだけぇー。というか何回か三国志を読んでるにも関わらず、自分の三国志への把握度が本当に低い事に、これを読んでる最中に気づいた。孫策が死ぬのと呂布があんなに速く退場するの忘れてた。というか呂布があれだけかっこよく死んでいったのに対して、孫策の死に方は間抜けすぎる。こいつのエピソードで覚えてるの、女を奪いに行った話しかないぞ。不憫な孫策、まぁよく考えたらこいつ、別にそんな大した役割じゃないもんな、最強の称号を与えられている呂布と比べるのは、酷な話か。孫権がいったいどうなっていくのか全く予測できんな。孫堅と孫策に続いて、しょぼい死に方をしたらおもしろいのだが・・・。今のところそれもなさそうだ。孫権には成長してもらって呉をおさめてもらわんとならんからな。抜け目ない袁紹が好きになりかけていたにも関わらず、曹操のなんだかよくわからん策にハマって負けてしもうた。なんというか曹操の勝ち方、納得いかない。恐らく一個や二個じゃない数の策を、袁紹に対して仕掛けていたであろう事は琴の女を送り込んだことからもわかっていて、数撃てば当たる戦法で一つの奇策があたったであろう事は予測出来るが、それにしても運の要素が強すぎる。ほぼ負けじゃないか。いや、しかし北方世界じゃ男は死ぬべき時が来るまでほとんど死なないらしいから当然か。もっとスカっとかってほしかった、という気はする。だが、リアリティというものにこだわるのならば、三十万の軍を擁する袁紹に曹操が勝てる要素は全くないわけで、それを勝たせるためには、運という要素が絶対に必要になってくるものな。また理解できないのが、劉備が曹操が勝つかもしれない、と予測するのはありだとしても、孫策まで曹操が勝つ方に賭けていた事かな。そんなに人間を把握するほど孫策と曹操って接触してたかなぁ?袁紹も結構抜け目ないやつなのになぁ。関羽が曹操にくだって、顔良の首を討って恩を果たすところは、三国志屈指の名シーンだと思うわけで。少し影が薄くなりがちだった関羽がまた復活してきたな。それにしても一巻からもう十数年経過してるんだなぁ。二十年ぐらい経過してたかもしれんが。とんでもなく早い時の流れ、と思ったがどっかで十年単位で飛んだような気がする。ええい、孔明はまだか。北方三国志の終わりはどこなのだろうか。このペースで時が進んでいったらみんな6巻で死にそうなぐらいなんだが・・・。今回は特に震え立つようなセリフは無かった。ところどころ気に喰わない箇所もあるが、それを補って余りある名シーンの多さは何物にも代えられないものだ。平均的に面白い、というよりも突出したある一点が面白い作品という事になりそうだ。あくまでも、自分の中では。視点によって面白い場所と面白くない場所があるのが、その理由なのだが。眼が止まった場所ならば、ある。 「凡人にはできぬことを、平然とやってのける。いや、それでこそ曹操なのだ。曹操と袁紹の戦の行方も、私には見えた気がする」そこにシビレるあこがれるぅ。
2008.08.22
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感想 ネタバレ有うわぁぁぁ 後半100ページの勢いが凄まじい。正直いって泣いた。呂布の描写の厚さでどう考えてもこの巻で死ぬと確信してから涙がとまらねええええ。何しろ何しろ格好良すぎる。死ぬの早すぎるだろおおお。それから一、二巻で地味に影の薄かった劉備の視点が増してきている。そしてだんだん孫家の視点が空気化・・。正直張魯とかどうでもいい感じなんだけど早く死なないかな・・・。劉備の精神が不安定すぎる。すぐに切れるわ、妙に自身があるのかと思いきや不安でいっぱいだわ。ただ、かくあるべき、という姿というか一本芯が通っているというか、そういう所は全く何の迷いも見せずに決断するからそういったところと別のところでの妙に弱気な劉備を読んで、そのギャップに驚く。自分が読んだ三国志の劉備は本当に徳の将軍といった感じで、公孫讃が死んだ時も涙を流してたような気がするのに、北方版じゃ我が強い男だった、とかいって死んで当然だ、みたいな対応だしな。やはり天下を狙おうってんだから生半可な心構えじゃいけねえっていう気分にさせてくれる。劉邦みたいにしたたかな男じゃないとな。ただこの劉備、決してしたたかってわけじゃないとも思うのだが。曹操に従ったのはいいものの、曹操との宴のあとがっくりと膝をついて唇から血を出すほど噛み締めて耐えている劉備の描写とかほんとに鳥肌がたった。 「大兄貴、曹操の手を借りなければならないことが、無念だったのですか?」 「いつか、この手で、曹操を殺す」こいつあ猛犬だぁああ。時代が現代なら速効で刑務所行きだな・・・。よかったなこの劉備戦国時代に生まれる事が出来て・・。呂布のかっこよさは異常。ここまで散々赤兎との友情を書いてきて、というか二巻分しかないのだが全てが呂布のためにあったのではないかというぐらいだ。戦に行く前に、李姫から首に赤い布を巻いてもらう所から完全にもう呂布無敵モード。もはや全ては呂布のために!とでもいうべきか。呂布が劉備の守る城を攻めてきた時の、曹操の使者とのやりとり 「私は城を出る」 「なんと。この期に及んで、逃亡しようというのですか、劉備殿は」 劉備は、剣の柄に手をかけた。逃亡などという言葉は、いまここにはない。斬り殺す。そう思った時、張飛がその武将を殴り倒していた。 「われらは、城外に陣を敷く。呂布の騎馬隊を、正面から迎え撃つ。攻められて、城でふるえているのは、男ではない」張飛が激情しやすい劉備に代わって相手を打ち倒す役目をになっているというのは新鮮だ。ただその分関羽の影が薄くなってきている気がする。関羽の役割がうまく見えてこない。それにしても、張飛の死に方が原典のままだとすると非常に悲しい話だ・・・。 「呂布の騎馬隊の手並みを、見てやろうではないか。呂布ほどの男が、騎馬全軍を率いてきたのだ。迎え撃たなくては、この劉備の男が廃る」これだよ。これが劉備ですよ。いざ決定する前は色々と迷うものの、いったん事が始まってしまったら男はこうなんだよぉ! といって明らかに無謀な事を何の迷いもなく男だから、という理由でやってしまうそのアホさ。さすが劉備玄徳、徳の将軍の殻をかぶった虎だぜ。この一連の流れを読んだとき、笑いが止まらなかった。わはははははと笑っていた。なるほど、面白すぎると人は笑うんだなと当然の事を考えた。 散るか、劉備。呂布は、赤兎の上で呟いた。見事な花だ。それは認めよう。そして、散らせるのが、この呂布奉先だ。乱世の花。俺が散らせるのも、宿運というやつではないか。劉備と呂布の戦い、滅茶苦茶面白い。十年前の作品でもなんら色あせる事はない。ゲームだったらこうはいかんよなぁ。十年たったらゲームじゃロートルだ。小説は、割と現役の時間が長い。だからいつまでも残りつづけるんだろうなぁ。呂布が矢で曹操の鎧を射り、命を一つ貸しだといって赤兎の治療をさせる場面が泣ける。 「頼む、呂布殿。私に降伏してくれ」 曹操は、劉備の言う事を聞く気はないようだった。 「私と呂布殿が一体になれば」 「やめろ、曹操。男には、守らねばならないものがあるのだ」 「なんなのだ、それは?」 「誇り」 「おぬしの、誇りとは?」 「敗れざること」成玄固が、劉備と呂布が似たところがあるといっているが、この自分の誇りを絶対に曲げないところが似ていると言っているんだろうな。劉備も絶対に自分の信念は曲げなさそうだ。なにしろ天下の呂布の騎馬隊に真っ正面からぶつかっていくバカだからな。呂布の最後が、陳宮をかばって死んだというのも面白い話だ。やはり最後まで軍人であったという事か。軍人だから、命を賭けて陳宮を助けるのは、当然という理屈だろう。特に大した男でもないから、という理由で陳宮を見捨てたりするようなのは軍人じゃないという事か。というか、呂布は全く変わる事が無かった。呂布というイメージでありつづけた。戟を矢で射た時の呂布のセリフ、おい、俺は呂布だぞ、から始まって呂布だったらここは当てるだろう、というイメージのまま、それを体現し続けたのだろう。常に俺は呂布だぞ、という自負を持って生きたのだとそう感じさせる描写だった。赤兎と語り合うシーンが、いくつあったかは忘れてしまったけれど、そのどれもが良かったなぁ。最期の方に孫策と周癒が結婚相手をさらう話があるが、まるでオチのような扱いである。孫家が可哀そうになってきたな。オチの扱いしか与えられていないぞ。
2008.08.22
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感想 ネタバレ有まさに、群雄割拠というべきか。勢力が多くてめまぐるしく視点が変わる。どうにも慣れない、というか慣れないというわけではないんだが。最終的に蜀、呉、魏の戦いになっていくのがわかっているだけに、脇キャラの視点があまり面白くないと感じてしまう。その点水滸伝じゃ一人一人のキャラが非常に面白くてどの視点も楽しかったのだが、これは単純に原作を知っているかいないかの違いだけだろうか。曹操と呂布の視点が多くて、劉備の視点が少ない。それにしても呂布の描写の厚さは凄まじいな、こりゃ間違いなく近いうちに死ぬな、とつまらない予測をしてしまうが、楊志のような死を見せてくれるのだろうか。あれだ、それにしてもどうしても水滸伝と対比してしまう。仕方ないといえば仕方がないのだが、これからは少し抑えていくかな。赤兎馬と語り合う呂布の描写が何回か出てくるが、老いを感じさせる話だったり戦争の話を延々と語ったり、感じいる描写だ。普通三国志で呂布というと、ほとんど喋らず他人の言う事を聞いて戦に出ていき闘うだけ闘う、というあるいみ機械的なイメージなのだが北方三国志じゃ完全に一人の人間として描写されている。赤兎っていう名前はどこから出てきたんだろうなぁ。兎っていうイメージじゃないだろう、赤虎だったらまだ納得いったものを何故兎なのだろうか?調べてみたけれど、焼酎しか出てこない。赤虎でも赤雷でも、もっといい名前があったように思うんだがなぁ。ひょっとして、品種名だったりして、とも思ったけどそれだったら別に名前をつけるよな。 呂布は、陽を浴びて輝く、沖の海面に眼をやった。赤兎が、そばへ来て躰を寄せる。 「天下は、あれほど遠いかな、赤兎?」 赤兎の体が、かすかに動いた。 「俺とおまえで、天下を取ろうか。どうせ、いつかは死ぬのだからな」すっげーいい終わり方。黄布の軍百万を曹操軍がわずか三万で打ち破る場面がある。正直いって、百万という軍勢がいったいどれほどの数なのか、まったく想像する事が出来ない。百万も人間がいたらどうやってそいつらは飯を食ってるんだ?バキで同時に四人相手に出来たら地球上の人間を相手にしても負けない(数字はかなり適当)とかいう話があったが、百万もいたって、百万全員が同時に攻撃できるはずがないんだから、そういった間隙をついたということなのだろうか。百万を想像する力が足りないからそれを三万で打ち破るのも想像できない。というか人数の規模が凄いなぁ、これだよこれ。日本じゃそんなに人間がいないからなぁ。曹操と劉備の呂布の視点がいまのところ一番面白い。だんだん絞られてきて、視点の数が少なくなってきたらもっと面白くなってくるだろう。呂布が反則級に強すぎる。逆に、曹操の負けっぷりが笑える。あれ、こんなに負けるキャラクターだっけ?という感想を持ちながら読んでいた。とにかく呂布にぼっこぼこにされる。え?そんなにふるぼっこにされんの?曹操マジダッセェと思いながら読むものの、呂布+五百騎の恐ろしさは読まないと伝わらない。そりゃ曹操も尻尾巻いて逃げるわ。そして劉備である。退かぬ媚びぬ顧みぬじゃないが、我が道をいくっぷりがすさまじい。何がどうなってやがる。二巻っていうのはシリーズものじゃ結構微妙に位置にあると思う。一巻はいうまでもなく重要だが、二巻っていうと話をあとにつなぐためのツナギ的な要素が強いんじゃないか。ここじゃまだキャラ設定を説明するってぐらいのノリで軽く読んだような気がする。
2008.08.21
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感想 ネタバレ有自分にはこの作品を批判する資格がない。あまりにも内容が微妙すぎて最後の2,30ページほっとんど読んでいない。まぁいいだろ。そういえば同名の新書が岩波かどっかから出ていた。あっちはどうなんだろうなぁ。 文章のうまさと内容の面白さは比例しないという事を知った。ここで書かれてある事のほとんどは、すでに利己的な遺伝子の中で、この本の何倍もわかりやすく書かれている、と感じる。だからこそ自分はこの本を読んでも、あまり面白くなかった。しかしちまたじゃ大絶賛なんだなぁこの本。特にその文章力について、各所でべた褒めである。難しい事をわかりやすく書いてある、という評価も目立つ。帯の美辞麗句がとてつもなくウソ臭い。知っている人間でもよしもとばなな、高橋源一郎、内田樹、森達也、そうそうたる顔ぶれである。読んで思ったのだが、まったくわからなかった。いや、全体として言いたい事はわかるのだが説明過多というか。一行で済むような事を無駄な文章力を使って脚色して何ページにもわたって書いているというか、ひとつだけじゃなくて、最初から最後まで、全部そんな感じなのである。生物と無生物のあいだ、というタイトルは読む気にさせるに充分な魅力的なタイトルだったけれど、本の中で言っている事とあまりつながってこない。というか、全体的にまとまりがない、と感じる。最終的な結論に行きつくために、この論は必要なのか?という疑問で読んでいる間頭がいっぱいになった。各章のはじめに、何故か筆者の暮らしていた街の描写が入る。まったく、意味が、わからない。読んでいる最中に久しぶりにぶち切れそうになった。まったく意味がないのである。およそ三ページにもわたってニューヨークの町を描写したかとおもったら、そのあとニューヨークの話なんて無かったかのように本論に入って言った時には殺意すら覚えた。意味ないのかよ!ほんとにまったく意味がわからないのだがなんでそんな関係ないことを書く必要があるのだろうか。確かに絶賛されているように文章力はあるのかもしれないが、必要ないところでその文章力を発揮されても全く困るのである。さらにわかりやすいわかりやすいと評判だがラスト40ページぐらいは本当に読むのが苦痛だった。数学を勉強する時に、一番最初の勉強をサボると、そのあと全然理解できなくなってしまうという現象があるがまさにそんな感じだった。あまりに読むのがだるくなって数ページ流して読んだら意味のわからない語句が頻出していてそのまま読み進めても全く理解できなかった。サボるな!ちゃんと読め!といわれても仕方ない所業であるが読みたくないんだからしょうがない。っていうか面白くないわぼけぇ!というか、すでに利己的な遺伝子の中でほぼすべて理解出来ていることだったのだ。より理解しやすい方法で学んだあとに、何故わかりにくい方法で復習しなければならないのか、とそういう意識があった為に、これほど面白くないというネガティブな意見を持ってしまったのだろうと思う。恐らく利己的な遺伝子を読む前に出会っていたら、大絶賛していた可能性もある。タイミングっていうのは全く重大なのである。それにしてもくどい、説明がくどいし、意味があるのかないのかよくわからないエピソードの挿入がくどい。利己的な遺伝子の中で、一章でまとめ上げられてしまいそうな内容なのに一冊まるまる使っているという感じ。本の中で何人もの偉大な科学者の話が出てくる。ほんとうに意味があるのか?このエピソードの挿入は?と問いかけたくなるものだらけである。前に読んだ本に、ただの有名な科学者マニアの人間が書いたようなものがあったが、それと似たような空気を感じた。ただやはり面白い話もあるのである。本当に唯一の欠点は利己的な遺伝子を先に読んでいたという事だけである。 結局、私たちが自然に対して何かを記述できるとすれば、それはある状態と別の状態との間に違いがある、ということでしかない。何故こんなに生物は大きいのか、という問いに対しての説明はなかなか面白いものであった。 生命現象に参加する粒子が少なければ、平均的なふるまいから外れる粒子の寄与、つまり誤差率が高くなる。粒子の数が増えれば増えるほど平方根の法則によって誤差率は急激に低下させうる。生命現象に必要な秩序の精度をあげるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大きい」必要があるのだ。そういえば、またどうして面白くないかと感じたかというネガティブな意見に戻ってしまうのだが、どうもゴールがよくわからない。プロローグにて、生物を無生物から区別するものは何か、というものをゴールに設定していたようだが、中で語られているという事といえば物凄い小さい話なのである。まさかDNAの成り立ちから説明させられるとは思わなかった。そして関係は確かにしているのだろうが、あまりに視点が小さすぎる。うどんを作るために麺から作ろう!とかじゃなくてうどんを作るために原子の仕組みを調べよう!といっているようなものだ。何が一番不満かというとタイトルと内容があっていない。進化論に対して、私は違うと思う、と書いてありその後当然何故違うと思うのかが書かれているのかと思いきやスルーしてそのまま次の話題へ行ったりほんとうに何がしたいんだろうか。さらにいえばエピローグ、必要なのは最期の二ページぐらいなもので、その前の作者の小さい頃の体験談というものは必要とは感じなかった。そしてそして、最後のオチである。まさかこれがオチ?と目を疑うような思いであった。本を投げ捨てようかと思った。 私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ。なんだそりゃああああ。だったらプロローグとエピローグだけ書いてろバーカ!この本の270P近くはなんだったんだよ!いったい何のためにここまで読んできたと思ってんだ。文章力が凄いとかいうのは自分にはわからないのだが、やたら脚色されているような文章で非常にサムい。こういうのを凄い文章力というのかーと唖然とする思いだ。少し笑ったところ よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでになたの内部には存在しない。お変わりありまくりなのである、笑った。
2008.08.20
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感想 ネタバレ無十九巻もある水滸伝を読み終わった次の瞬間に同作者の三国志を読み始めるとは完全に中毒です。いやいやしかし北方謙三には本当に感謝せねば、ほぼ十年間も眠っていた自分の歴史小説への情熱を再びイグニッションしてくれたのだから!小学生の頃に三国志を読んだのは覚えている。誰が書いたものかは忘れたが。それから何年か前に宮城谷昌光の三国志を読んだ記憶がある。それから蒼天航路も、横山三国志も読んだ。いったいどれだけ三国志が好きなのかと。これで小説では三度目の三国志である。そういえばゲームでもやったな。いったいなにがそんなに人を惹きつけるのだろうか。いや、面白いからだろう。読んで思ったのは三国志こんな話じゃないよなぁという感覚である。水滸伝を読んだときには何も感じなかったが三国志を読むことによって、同時に水滸伝の凄さも味わっている気がする。なるほど、北方版になってしまうというのは、こういうことだったのか。なんというかまるで歴史小説を読んでいる気がしない。時代を感じさせない。いい事か悪いことかはわからないが、滅茶苦茶おもしろい。劉備がかっこいい。呂布がかっこいい。ていうかみんなかっこいい。というかこの感想、水滸伝と全く一緒だ。単純に文章だけでいえば水滸伝の方が断然わかりやすかったように思う。特に合戦のシーン。なんだか三国志だと、ごちゃごちゃしていて少しわかりづらい。どうなっているのか想像力をかきたてられる感じがしない。って勝手なこといっているなという感じであるがそれはしょうがないのか、先に書かれた方だから、まだ洗練されていなかったか、単純に自分の勘違いという事もありえる。というか確率的にいえば2:8で自分の勘違いの線が濃い。だがそれでも面白さが水滸伝と全く引けをとっていないと思うのはやはり、長年連れ添ってきたキャラクター達とのなじみの深さであろう。名前を知っている数々のキャラクターが出てきて、北方謙三に動かされ喋らされる、それを読んでいるだけでたまらなく面白いのである。もはや反則ではないか。ってまだ一巻しか読んでないんだけどな。この先の展開を全く知らないのだが、孔明が気になるなぁ。あの天才軍師がいったいどうやって北方謙三にアレンジされて登場してくるのか。小学生のころ読んだ三国志で、劉備や関羽や張飛が死んだあと、一人孤独に闘い続け、敵を罠にはめ続け、自分の死すら罠に使った孔明を読んで、滅茶苦茶感動、もしくは泣いた覚えがある。北方謙三によって孔明がどうなるのか今からわくわくが止まらん。間違いなく面白い。だが残念なのは、この三国志を読み終わった時に自分はどこへ行けばいいのか、じゃなかった何を読めばいいんだ! 水滸伝、三国志ほど満足させてくれる物語はどこにあるんだ!SFでも読むかな。ネタバレ有 「ならば、去れ。私は、賊になるつもりはない。男には、命を捨てても守らなければならないものがある。それが信義だ、と私は思っている」劉備のセリフだと思えんな。なんでこんな漢とかいてオトコと読むようなキャラクターになってしまっているんだろう。最高すぎる。そういえば読んでいて全く気付かなかったが、桃園の誓いがないなまぁそれはいいか。あまり必要とも思えんしな。 「進むぞ。?県に未練を残すな。われらは、大義のために闘う。命は、この劉備玄徳が預かる。死のう。ともに死のう。生きて、生き抜いて、闘い尽くしたあとに、ともに死のう。それを、男子の誇りと思える者だけが、われに付いてくるがいい」劉備・・・立派になっちゃって・・・。見当違いもはなはだしい話だが、何故かこんな立派な劉備を読んでいて泣けてきた。なんだか出来そこないの自分の子供が立派になって帰って来たみたいなそんな意味のわからん感情がわき起こってきたが自分にすら意味がわからん。 「私も、負けた。完膚なきまでに、負けた。この姿を見れば、それはわかろう。しかし、私は闘って負けた。そして諸君は、闘わずして負けたのだ。私は、闘わずして負けた諸君に、訣別を告げる」ぎゃぁぁぁぁ面白すぎんだろぉぉ。ちなみに曹操のセリフである。もうこのセリフを読んだ瞬間に、自分の心の中にあるわけわからんメーターが猛烈に限界を振り切って一回転も二回転もしてさらにひゃっほぉぉぉと叫んで清水の舞台から飛び降りるかのごとくベッドの上でごろごろと転げまわり声に出して三回ほど朗読しもう一度読み直し今こうして書きながら首を激しくシェイクしながらもう一度読んでいるのである。(誇張表現)悶えた。身が悶えた。面白くて。三国志、なんだかよくわからないけど、面白いねやっぱり。水滸伝は基本的に百八人の英雄を書いていく物語だった。一人一人に視点があたり、宋と梁山泊という二つの立場しかなかった。それはそれで、もう絶賛としか言いようがないほどに面白かったのだが三国志は乱世である。梁山泊のような存在がいくつも立ち上がり、おれがおれがと天下を奪いに走る。そういった意味で、視点の移動がまた水滸伝とは全く別物になっている、と感じる。どっちがすぐれているとかじゃなくて、物語にあっている。それにしても最期の最後であっさりと孫堅死んだな。思わずえぇぇぇぇと声に出して言ったぐらいだ(誇張表現)まぁ十三巻だからな、二週間かからんだろ。
2008.08.19
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感想 ネタバレ有ついにここまで辿り着いた。二十巻目の極致である。ついでに水滸伝全十九巻を振り返ってみようと思う。まず最初に気に喰わなかったところである。原本から比べて、圧倒的に現実感が増したのは、原本を読んでいないからわからないのだが、解説などを読む限りではかなり確実性のある話だろう。なにしろ原本じゃ、妖術が乱れ飛ぶ摩訶不思議な話だったそうだから。それでもおかしいな、と感じるところは、北方水滸伝にも多数あった。それは全十九巻にまで及ぶ話なのだ、おかしなところが出てくるのも、当然だという気もする。たとえば替天行道の中身が書かれていないところだ。ただこれは自分の中では、しょうがないと納得出来るだけの理由もある。だれしもがこの書を読んで、心を突き動かされるような感情を持たされているところだ。この世に、誰ひとり例外なく感動させられる話があるだろうか。たぶん、無いだろう。森博嗣の言葉を引用すると 大砲の弾が落ちた場所(作品の価値)は、そのまま動かない。永遠にそこにある。しかし、人の位置は常に変わる。自分も変わるし、大勢の人たちもそれぞれに変わる。ようするに、大勢の人がいる方へ自分が動こうとしていれば、人の評価を聞いて、作品に関する自分の評価を変更する、という行動になるわけだ。すなわち、違っているのは、自分がどこへ向かいたいのか(そもそも動きたいのか)、という方向性なのかもしれない。一人一人立ち位置が違うのであって、その位置が違う全員に感動を味あわせる物語がいわゆる王道であろう。恐らくいろんな人間がいる中の中心的位置にある物語の事を王道的展開、といって万人受けする話として受け入れられるのだろうと思う。だから誰しもが同じ感情を持つ本なんていうのはまず書くのは不可能だろう。替天行道というものを、最初から出さないか、それとも中身をもっと普通のものにしてしまうしか書く方法はなかったのだ。不満点といえばそこだ。何故かけない、存在しないものを主軸にしてしまったのか、という事だ。それによって書かれない宋江の根本というものが見えなくなってしまった。他の不満点といえば、童貫がなかなか出てこない理由がしょぼかったり兵站があまり書かれていないなどという細かい点があるが、全体を俯瞰してみるとほとんど気にならない点である。という事はたった一つ替天行道の事がひっかかるということになるが、これも仕方がないことだと受け入れている。つまり水滸伝サイコー!という事で。水滸伝、108人の英雄達の名前を一人一人書いていって、それぞれ思い出を語ってもいいぐらいだ。たださすがにやめておこう。読み返さない気がする。 不満点しか書いてないが、文字数の関係上これ以上書くわけにはいかない。いや、というか水滸伝については良く考えたらもう今まで充分すぎるほど書いてきたのである。これ以上書くというのは、正直蛇足であろう。ここでやめておけば替天行道からそれていない。替天行道の話に戻ろう。面白かった部分と、面白くなかった部分の差が激しい。面白かった部分は、担当編集者山田が出てくるところ全般と、北方謙三が一人で語っているところ全般。他には、文庫版で解説を担当していた人たちと北方謙三の対談だったり、文庫版の解説とほとんど同じ内容が書かれているだけである。その部分はほとんど焼きなおしといっていいぐらいで、読み飛ばしてもいいレベルの話ばかりだった。何しろ繰り返しが多すぎる。どいつもこいつも同じ話しかしない。北方謙三は凄い!何故ならあれほど滅茶苦茶だった原典水滸伝を徹底的に解体して自分流に作り直したからだ!この一文から北方水滸伝を褒める解説が並ぶ。全員そんな感じだ。一人ならまだしも何人も同じ話をさせられると、意味がない。と感じる。自分がやりたいのは、あのシーンのあのキャラクターは最高にかっこいい!と諸手をあげて喝采を叫ぶ!といったそういうノリのいい話なのだ。決して読み終わった瞬間に、あそこはどうなっていてあそこと関連していて、この物語は何を象徴している、なんてアホな話を聞きたいわけではないのである。ただ自分と同じ感想を持っている人間を探していて、同じ感想を持っている人間と面白かったなぁ!と叫び合いたいだけなのだ。それ以外は決して求めていない。原典水滸伝がどれほど滅茶苦茶な物語だったのかなんてのはどうでもいいことで、いま自分が読んだ北方水滸伝がどれほど凄かったのか、というのを比較して語るのではなく北方水滸伝だけを単体で話し合いたいのだ。これは何もこの作品に限ったことではない。すべての作品に共通する事だ。解説というと必ず何かと比較する。それが非常に煩わしい。山田という担当編集者の事は全く知らなかったが、物凄い面白い人間だな。いちいち手紙が面白すぎる。 童威と童猛は区別がつかんので、どちらかを殺してしまいましょう。編集者が言うことなのか・・・!?いや、作品に対する意見を言うとしては正しいのだろう。ただ、そんな事でいいのか、紛らわしいから殺すとか。まぁ確かに印象に残っていないぐらい影の薄い兄弟ではあったが。元気のいい植物を残す、みたいなやり方でどんどん削っていったんだろうか。 ところで、鄭天寿、いい味を出しました。小者に急に正確づけが始まると末期も近いという読み方のいやらしさ。七人目の犠牲者であります。小説史上に残る犬死にであります。確かに自分もこれを読んでいた時なんという犬死、と思ったけれど、なんとか補正をかけて意味のある死だったと思ったのだが、それというのも楊令伝という存在をすでに知っている未来を見ているからであって、楊令伝を想定していない時ならば鄭天寿、完全なる犬死である。 燕青が、楊令を初めて見て、若き日の盧俊義にそっくりなのにぶったまげたりして。ってどういうことだ?ひょっとして楊令の父親って盧俊義なのか?っていうかこの文を読むとそうとしか考えられないのだが山田という人間がいまいちつかみきれないのでこれも冗談なのだろうか。本気か冗談かいまいち区別がつきかねる。まぁ盧俊義がオヤジというのも微妙にあり得る話なのかもしれんが・・・。いやでもないだろ。 でも文学ではなく、小説、物語という言葉でいいたい。読んで難しいことなんか考えなくてもいい、読んでいる時間だけ楽しんでもらえればいい。酒みたいなもので、栄養にはならないかもしれないけれど、酔っていい気分にはなれる。だから、美味くて心地よく酔える酒をどうやって作ろうかという事だけ考えているんですよ。これは面白い。というか自分の小説の読み方そのものである。ただこういうのって、読者の心構えであって、作者の心構えじゃないんじゃないかなぁ?正直いってただのエンターテイメント小説なんて、基本的に言ってる事はあまり幅が広くない。知識を増やそうなんていう目的で本を読むならもっと学術書かなんか読めばいい話で、エンターテイメント小説をいくら読んだって別に頭がよくなったりしない。本を一か月に百冊読んだからと言って、本を一か月に百冊読んだ、という称号以外に付随してくるものはない、と思う。気になったのは、北方謙三が小説のキャラクターが勝手に動き出す、といったたぐいの発言をしている事だ。自分は別に小説を書いた事が無いからそれがいい事なのか悪いことなのか、まったくわからないが、それは作家としてはどうなのだろう。作品を制御する力が無いという事にならないのだろうか?完全に作品を自分の制御下において、最初から最後まで自分の思惑通りに書ききる作家と、キャラクターが勝手にうごきだし、計算外の動きをしてもそれをそのまま書ききる作家、どちらが優れているのだろうか。あるいはただのタイプの違いなのだろうか。そういう気もする。それにしても山田面白いなぁ。特に中国にいったときの話と、山田と北方と大沢三人の対談のところでは山田、面白すぎる。もはや山田のための替天行道であるといってもいいぐらいだ。それだけに、他の部分、かつての解説をした人間との対談などなど他のところが、ほとんどページ数の水増しといってもいいような目的のために使われているのが残念ではある。 とにかくYは、これは自分のものとなんでも囲い込む。かわいそうな男なのだ。うまいものは、常に段階の世代に取り上げられ、残りものを食って大きくなった事が、トラウマになっている。この北方謙三と山田のやりとりは面白い。特に両者がほぼ同時期になんのしめしあわせもなしに、団塊世代に対するまるで正反対の話を書いているところなど面白すぎるのである。 私が食べすぎていると、Yが非難しはじめる。帰国したら奥さんに言いつけるからね、と反則技まで出した。しかし、私は食いすぎていない。そう見えるだけなのである。たとえば、魚が一尾出てきたとする。私は、頭をごっそり取る。負けじと、Yが身をごっそり取る。頭には、実は身は少ない。食うのに時間もかかり、皿には骨が大量に残る。Yの皿はきれいだが、それはすべて腹に収めているからだ。愚かな男なのである。減量中の私が、戦術転換をしたことに気付かず、ひたすら最初に皿に取った量にこだわっている。Yの顔も腹も丸くなり、私は変わらない。大艦巨砲主義の、旧帝国海軍の発想から、Yはぬけられないのであった。ひどい言い草である。かわいそうな男である、とか愚かな男なのである、とか山田という人間をこき下ろすために人生を尽くしているかのような表現である。 ウンコの処理を気にする霹靂火・秦明のリアリズム。 その細密描写はしない北方謙三のアンチ・リアリズム。思えば自分がひっかかっている描写の差異というのは全て上から来ているのだという事にこの文を読んで気づいた。ちゃかしたような文章だがひどく的を射ている、と感じた。ウンコの処理を気にしながらも、重要だ重要だと叫びながらもそれ以外の事をしない、兵站が重要だ重要だと叫びながらもそれ以上書かない、そういった踏み込まないところが、全てにおいてひっかかっていたのだ。ひっかかっていながらも、何にひっかかっているのか気になって気に喰わない気分になっていただけで、何にひっかかっていたかさえ理解できれば特に追及しようという気分にはならないのであるが。なんというかこんなところで終わると非常に、なんというかまだまだ書き足りない。水滸伝について、もっと語りたい。書きたい。だがそれは本当に意味のないことなのだろう。何しろ今まで充分に書いてきた。もう改めてここに新しく書きなおす意味はないのである。だからここですっぱり水滸伝は終わりである。自分の中でも。さよならである。さらば、水滸伝。
2008.08.18
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ついに、完結。字数制限に引っ掛かったため改行少なめで。読み終わった瞬間に終わったぁ・・・と実感にひたり数分放心状態。いやぁ死ぬ前に読めて良かった。思えばここまで結構長かったな。どれぐらいの時間を水滸伝にかけたかわからぬ。一冊二時間ちょっとで読んだとしても、40時間はかかっている計算になる。それだけの間水滸伝には楽しませて貰った。まったく感謝という他ない。ひょっとしたら作者が途中でまとめきれなくなってしょうがなく楊令伝を出さざるを得なくなったのではないか、という疑問もあったが、やっぱりそれはなさそうだ。自分がまだまだ書ける、と実感を得て、出来るだけ壮大な物語を書きたい、という言葉を現実のものにしているのだろう。楊令伝が全十巻予定だが、もしその通りにいったら全部で二十九巻の物凄い量の物語になる。もちろん水滸伝のようにオーバーする事も考えられるのでもっと増える事もあり得る。いったいいつから楊令伝を出そうと考えていたのかはわからないけれど、本格的に次世代を意識した引き継ぎ、というようなテーマが出てきたのは十二、三巻あたりからだったように思う。主要キャラクターの子供が生まれ、きっと新たな梁山泊の主力メンバーになっていくのであろう。たくさんの人間が死んだ。間違いなくこの巻が一番多くの死者を出している。死者名簿が見れないのでわからないけれど、確実に二十人以上は死んでいる。これで108星のうち生き残っているのは30~40というところだろう。もし次世代に受け継がれていくとしても、果たして指揮を出来る人間がいるのかどうか。李俊と張清ぐらいしか残ってないんじゃないか。ああ呼延灼も生き残っているか。それに年齢の関係もある。~そして三年後~なんてやっていたら戦力外になるような人間はひょっとしたらあらかた殺させておいたのだろうか。秦明しかり、林冲しかり。確かに林冲が生き残っていたとしても、三年たったら馬は歳で使い物にならなくなり、林冲自身もどんどん弱くなっていっただろう。作中でもいってたように、老いる前に死んで幸せだったかもしれんな。やはり。さすがに二十人以上も死ぬと、ほっとんど描写されないキャラクターも出てくる。結構悲惨なやつもいる。凌振とかもあれだったけど、まぁ大砲バカらしい最期で非常に良かったといえばいいのかもしれんな。それから、やっぱり長く続いた物語のラストだからしょうがない話ではあるのだが、今までの伏線といっていいのかわからないが伏線の回収がかなり駆け足になってしまっている感があった。それはどうしようもないことなのだろう。王英と扈三娘の話だったり、凌振の大砲の話だったり。死ぬ時の描写を与えられながらも、何一つ出来ずに死んでいった奴もいた。あいつは非常にかわいそうだった。何しろ影が薄いもので名前すら忘れてしまった。石勇だったようなきがするのだが。黄信もなかなか最悪なやつであった。最初から最後までなんか愚痴ばっかり言ってる北方水滸伝の中じゃ例外的に男らしくないやつだった。死に方も敵に囲まれてめった刺しというなんら新しいものでもなし。ひょっとして北方謙三黄信に何か個人的な恨みでもあるんじゃないんすか?といいたくなるような微妙な最期だった。しかし途中見せ場があった事を考えればまぁ恵まれたキャラともいえる。 「いつか、私の存在は生きる。梁山泊にとって、生きる。私は、そう自分に言い聞かせて、いまじっとしている」 「虫のいい話じゃねえか、唐昇。叛乱ってのはよう、はじめたらもうやめられるわけはねえんだ。おまえは、梁山泊の背中に隠れて、食わして貰ってるだけさ」 「いずれ、生きる。必ず、生きる」きっと楊令伝で反撃の狼煙があがるのは北なんだろうなぁ。それを思うと未来を信じて今じっと耐えている唐昇が異常にかっこよく見える。童貫との戦い、全体としてはずっと押されまくっていたが、ことvs童貫戦だけを見れば結構いいところまでいっている。ほとんど楊令のおかげで。思えば宋側も童貫を失ったら負けの可能性がかなり大きくなってくるわけでその意味じゃお互いに賭けをしているようなものだったな。童貫が死んだらその代りを務める人間がいない。だから本当にきわどいところだったといえる。もし仮に楊令伝とかいう構想がなかったら梁山泊勝ちになっていても全くおかしくなかった。キューバ革命をモチーフにしているというのならば当然最後は勝つのだろうという気はしている。花栄の弓が強すぎて、微妙に現実感が湧いてこない。あるいは梁山泊メンバーの中で一番非現実的な能力を持っていたかもしれない。というか次から次へと指揮官を弓で撃ち落とすってそりゃあんた反則だろーが。 「済まんな」 花栄は言った。 「なにがだ、花栄?」 「きれいに殺して、やれなかった」 自分の口もとが、微笑むのがわかった。趙安運が良すぎるっていうか何故死なないのだろうか。いや、まだ彼にはやる事があるというんだろう。ただ何故二回ともわざわざ重傷を負わせる必要があるのか。運がいいというレベルではないのである。いつも皮一枚生存する。花栄は最後までかっこよかったなぁ。きれいに殺して、やれなかったってそりゃあんた最期の最後まで獣みたいにかじりついていってたからな。読んでいる間に鳥肌が立ったわ。ほとんど誰も見ていないのが残念だが誰かが見ていたら朱全におとらない死にざまとして評判になっただろうに。全く大砲の話が出てこなかったのでひょっとして大砲ってそのまま忘れられていくのか・・・!?と心配だったがちゃんと書かれていて安心した。まぁ思ったより大した威力じゃなかったんで拍子ぬけといえばぬけたのだが。 「三発だ。三発で、ほぼ燃える。四発撃ち込めば、どうあがいても消すことはできんぞ。見えるか、魏定国。俺とおまえの、瓢箪弾だ。ついに、完成したぞ」 凌振は、半分泣きながら、手を打って踊っていた。こいつはこいつで真っ直ぐな男だった。あまりにも真っ直ぐすぎて読んでいてバカだなぁとしか思えなかったがこうやってただひたすら大砲をうてる事を喜んでいるとむしょうに泣けてくる。しかも、俺は大砲に触るだけで大丈夫かどうかわかるんだ!みたいに得意げにいってたのに、結局最後は大丈夫じゃないところまで大砲を打ち続けて大砲と一緒に爆発しちまうんだから全く笑ってしまう。まぁ大丈夫じゃないと知りながら梁山泊のために打ち続けた可能性もなきにしもあらずだ。その可能性を信じてやろう。李逵も死んでしまった。まさか死ぬとは思えなかった。読んだあとも、え?死んだの?マジ?という感じで信じられなくて二回ぐらい読みなおした。どう考えても死んでいる。しかも水の中で。いや、死ぬならば水の中だろうという考えは確かにあったが、ここでか?ここで死ぬのか?あまりにもあっさりと死んだ。本当にあっさりと死んだ。 敵はどこなのか。板斧を構えたまま、李逵は相手を捜した。なにか、おかしい。すべてがぼやけて見える。それに、息ができない。李逵は、板斧を振るった。手応えはない。 どうしたのだろう。いつもなら、跳びあがれる。しかし、いくら蹴っても、そこに地面がない。 あっ、大兄貴。李逵はすぐそばに、魯達の姿を見て、そう言った。 父上も、小兄貴も、しっかり生きてますぜ。それに俺も。魯達が、さらに近づいてくる。なにも言ってくれない。そういえば、魯達は死んで、喋る事は出来ないのだ、と李逵は思った。大兄貴を殺した奴は、俺の板斧で首を飛ばせないしな。なにしろ病ってやつだからな。 次に李逵は、旅に出る事を考えた。宋江も武松も、そして魯達も一緒だ。 大兄貴。呼びかけようとしたが、魯達はいなくなっていた。李逵、没。まぁ李逵も花栄に勝るぐらいの反則キャラクターだったからな。林冲や王進の強さとは、また別次元の強さとして書かれていたけれどいったいそれがどんな強さなのか全くわからなかった。説明出来ない強さというやつだ。恐ろしいほどの活躍をした。そういうキャラクターはやはり死ななければならないのだろうか。許貫忠も重要なキャラになりそうだとは思っていたが、楊令伝での重要なキャラクターになるようだ。ここでは呉用と少し話しただけである。 「生きている人がいる。それは数多い。しかし、死んだ人間の多さは、無限に近いと思います。無限の死の上に、数多い人の生はあるのではありませんか?」 「なにを言いたい?」 「死は、無意味であると。だから、私は自分で死ぬことが出来ないのです」王英と扈三娘のくだりは本当に意味がわからんな。こんなちょっとだけエピソードを入れるぐらいならむしろ無かった方がいいぐらいだ。安道全も死んだ。こいつなら病気がある限り逃げて、生き延びて病気の人間を助けるかと思ったが、よく考えたら目の前にある病気を放置して逃げるような男じゃなかった。安道全。 人生の終りの十数年を、この男とともに生きることができた。それだけで充分すぎる、と薛永は思った。このコンビも、もう見る事が出来ない。たかだか小説のキャラクターが死んだだけ、と斬って捨てるような事が出来ない。思いのほか、のめり込んでいる。宋江の元に走る楊令を待っている宋江が、二巻の時の宋江とかぶる。 「なぜか、信じていた。おまえがここへ来るに違いない、と信じて、ここで待った」二巻の終りでもそういって、林冲を待っていたんだった、結局宋江は最初から最後まで何一つ変わっていない。ずっと宋江のままだった。十巻ぐらいからほとんど何の出番もなく、結局最後までほとんど空気だったし、それどころか最終巻じゃ戦に出たがってやたらと邪魔だったが。というかどう考えても死にたがってる感じだったしなぁ。そりゃ自分は何もできずに長年の友がどんどん死んでいけば死にたくなるのも当然だという気はする。それでも最期のこの引き継ぎという役目を終えるまで待っていたんだろうと思うと感慨深い。二回目だが、何しろこのセリフ、林冲の時とほとんど同じなのだ。二巻のあのシーンを思い出して、ついでにいろいろな事も思い出して泣いた。 「旗だ。はじめて梁山泊に掲げたのが、この小さな旗だった」 楊令は頷いた。差し出されたので、それを受け取った。 「この旗が、おまえの心に光を当てる」 受け継がれていく替天行道の志。反乱がおきるから国が荒れるのではなく、国が荒れているから反乱がおきるのだ。宋という国が変わらない限り、梁山泊の志が消える事はない、とそういう事を言っていたような気がする。 「この楊令は、鬼になる。魔神になる。そうして、童貫の首を奪る。この国を、踏み潰し、滅ぼす。いつの日か、おまえの眼の前にこの楊令が立っていると、童貫に伝えろ」完全に復讐の鬼になったなあ、楊令。それでいいのだろうか。元々腐っている宋という国をなんとかしようという志ありきで始まったのに、楊令によってただの復讐劇になってしまうのではないだろうか?それを正してくれる人間が残った梁山泊のメンバーの中にいるのだろうか。王進がいる限り大丈夫なようなきもするが。誤った道を進む楊令をまたぼっこぼこにするとか。でも王進も結構歳いってるきがするんだがなぁ。というか、もうどんどん梁山泊の人間も老いぼれていく。せっせと作中で子どもを産ませていたが、いったい何人ぐらいいるのやら。楊令伝を読んでみないとわからんなぁ。
2008.08.17
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感想 ネタバレ有もう十八巻も読み終わってしまった。残りあと一巻・・・。といっても楊令伝があるのであれだけれど。もうだいぶ長いこと読んでいて、あれだな。読んでいる間、ずっと水滸伝の世界が頭にあるような感じで、武将が飛びまわっておった。途中から読むのがもったいなくなったりしながらここまで読み進めてきた事を思うともう後戻りはできないなぁというところ。解説の夢枕獏はどう考えても水滸伝読んでねえ!結局最初から最後まで全部自分の話じゃねぇか!水滸伝に一言も触れてないぜ。読んでない事がわかるっていうのは水滸伝、確か巻数がかなりありましたよねぇ、という本人のセリフからわかる。一度でも読んでいれば全十九巻という事は絶対に忘れないだろう。その後解説を書くためにひょっとしたら読んでいるのかもしれないが、物凄い忙しさをアピールしていたので恐らく読んでいないだろう。というか読んでたらこんな必死にネタを絞り出すような事を書かねえ!夢枕獏の話になってしまうが、ユーモアのセンスとシリアスのセンスは表裏一体なんだろうな、という気がする。ギャグを描いている人間が、シリアスをかけないというのは全くの間違いで、シリアスよりずっとギャグの方が難しい。というよりも、どうもシリアスとユーモアっていうのはプラスとマイナスが違うだけで根本的に働いている力というか、方向は同じなのだろうと思う。だから全く逆のように見えても、基本的に同じなのだ。夢枕獏の解説を読んでいて、どこか夢枕獏の他の作品と通じるセンスを感じる。まぁ全十九巻、十九個の解説があるのだ。一つぐらいそういうのがあっても、もちろん面白い。というか結構解説、内容がかぶっているのが多い。締切の都合などがあって、事前に他の人の解説が読めないなどという理由があるのかもしれないが。正直読者からしたらあまり意味のない解説が多かったように思う。その中でも、水滸伝とは全く関係がないけれども笑わせてくれた夢枕獏の解説が一番良かった、と言ったらあれだろうか。ていうか単純に自分が夢枕獏ファンなだけの話なのだが。あと面白い解説といえばロックンローラーの古川だか吉川さんだろう。薬でもキメてんのか?と疑ってしまうような解説だった。ロックンローラーは薬をキメないといけないという暗黙のルールでもあるのだろうか。この巻で、楊令が梁山泊に入る。一人一人の将に会いに行き、話をする楊令の行動が、まるでゲームやアニメのラストバトルに行く前に入る過去の仲間たちとの回想シーンのようでなんとも切ない。これによって楊令に梁山泊の全てが引き継がれていくのだろう。楊令の存在がもはや梁山泊といっていいぐらいだ。多少納得いかないのが、楊令の用兵がうますぎることである。全く戦場に出た事が無いのに、それだけ強いのはいったいどういうことなのだろうか。戦を立ち合いに見立てて、楊令は立ち合いが強いから用兵もうまいのだ、というような説明がつけられているが、まだ楊令は立ち合いでも、確かに強いのだろうが林冲にもまだ勝てないぐらいなのだ。そこまで用兵をうまくつかえていいものだろうか。さらに林冲の騎馬隊を受け継いで、林冲を同レベルにはうまくやるっていうのは更に納得がいかない。林冲をなめてんのか?あぁん!?と怒りが込み上げてくる思いだ。林冲より弱くてさらに経験が少ない楊令が林冲と同じレベルで騎馬隊を扱えるだと・・・!?まぁ実際に出来るんだろうから仕方ないが、何故出来るのか、という事に少し納得がいかない気がする。あぁ、それにしても終わりが近づくというのはなんてひどいんだろうか。どんどんキャラクターが死んでいく。前巻、十二人死んだのに比べればまだ少ないが、この巻でも八人の死者が出た。それも梁山泊の主力メンバーからだ。それにしても未だに公孫勝が前の巻で死ななかったのが納得いかない感じである。どう考えても公孫勝が死ぬ場所はあそこしかなかったのではないか、と読んでいてずっと思っている。何故林冲が死んで公孫勝が生き残っているのか。なんとなく、この二人は死ぬのならほぼ同時期か、もしくは同じ戦場で死ぬのだろうと思っていた。何か覆された気持である。信じられないのは、林冲の死だ。まさか、まさかである。戦場で倒れるところが、まったく想像できなかった。というのもずば抜けた勘というものを何回も描写されており、兵を退くタイミングを間違える事が無かった。ただ、死に方はこれ以外になかった、という気はしている。というか随分前から林冲がこういう死に方をする事は、作者の中では決まっていたことだったのだろう。水滸伝九巻で林冲が 女一人救えなくて、なんの志か。なんの夢か。と言っているが、まさに雇三娘を助けるための台詞だったのかもしれない。というか、しきりに雇三娘に厳しく当たって、女だから容赦をしないと言い続けていたのはあるいはこういった状況になった時に、自分は雇三娘を見捨てて逃げていくことなど絶対に出来ないという思いがあったからこそ、厳しかったのかもしれない。どんなに男として扱ってくれと言われても女だという事は変わらないのだから。そう考えれば林冲の騎馬隊に雇三娘が配属されてきた時点でこの終わりは決定されていたようなものだ。林冲が死に向かうシーンで涙を流すな、という方が無茶であろう。 「言うことを聞け、扈三娘」 「百里風なら、まだ逃げられます」 「頼むから、乗って逃げてくれ。生涯に一度ぐらい、女を助けた男になりたい」 「林冲殿」 「俺は、女の命を救いたいのだ。女の命も救えない男に、俺をしないでくれ」 扈三娘が、馬に飛び乗るのを、林冲は眼の端で捉えた。駆け去っていく。 気づくと、郁保四がそばにいた。 「行け」 「林冲騎馬隊の旗持ちは、いつも隊長のそばにいます。時には、ついていけないこともありますが」 「この馬鹿が」 扈三娘は、もうかなり駆けただろう。 目前にいる騎馬隊は、数千だった。横にも、背後にも回っている。一騎も、扈三娘を追いはしなかった。 「俺でも、女を助けられる」 呟くように、林冲は口に出した。助けられる。救える。過去に女房を助けられなかったトラウマがここで解消されたなー。あるいはここから生き延びられれば、林冲の弱さを克服した最強の男になったかもしれないのだが。女を救ったという事よりも、命と引き換えに女を救った、という事が大事なのかもしれない。それにしても郁保四のかっこよさは異常じゃ。特に語る事はないけれど、かっこよすぎる。 脚に力を入れると、百里風が前へ出た。 よく、闘ったよな。百里風に語りかけた。俺たちが行くところに、敵などいなかった。しかし、もう疲れた。なにもない。白い世界も悪くないかもしれんぞ。 林冲は、自分が笑っているのを感じた。林冲、没。しかしこの世界に林冲がもういないというのは何とも不思議な感覚である。魯達がいなくなったのとはまた別の不思議な感覚である。魯達はじょじょにフェードアウトしていった感があるが、林冲は一巻から死亡するシーンまで常に第一線で、梁山泊軍で誰よりも強い男として書かれ続けてきた。誰にも負ける事無く最強の座を維持し続けて、そのまま死んだ。だからだろうか。あぁーしかし死んでしまうとはな・・・。秦明も死んでいった。それにしても秦明の最後は微妙だったと言わざるを得ない。ここまで梁山泊を支えてきた将の一人であるというのに。まだまだこれからだろーというところで死んでしまった。それも全身に矢を受けるという実に微妙な方法で。もう少し何とかならなかったのか秦明・・・。それから自分のずっと懸念だった馬桂暗殺の事実が李富に伝わる展開があったが、もしかりにバレたとしてもここまで憎悪の炎を燃やしてきた李富が迷うなんていう事はないだろうな。それはもうずっと前からわかっていたことだが。ここにきてその話を回収してくるのか、という感じである。扈三娘とブンカンショウがどうなるのかもまだ全く書かれていないし、それは楊令伝に持ち越しなのだろうか。
2008.08.16
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感想 ネタバレ有ついに童貫がその実力を表す!童貫の実力が圧倒的すぎてもうなんかこいつが主人公でいいのではないかという感想を持つ。というか、時として大きすぎる力はあきらめを産むのだと知った。好きな武将が殺されてもまぁ童貫だし仕方ないか、といってあきらめる事が出来るようになった。というか童貫が圧倒的鮮やかさで梁山泊を打倒するのを読んでみたい気もするのである。まぁ一番読みたいのは梁山泊と宋が共に外敵と闘う展開なのであるがそれはありえないな。この巻の終りで、108星のうち46人が死んでいる。戦死者名簿を見るだけで一つ一つの描写が頭の中に浮かんできて泣かずにはいられん。しかしこの十七巻が、今までで一番死んだ人数が多かったのかも知れんな。全部で十二人も死んでいる・・・。もうなんか、こんなに一気に死んでしまうといちいち怒る気にもならん。ただ、あぁ・・・という気持ちが残るだけである。孫立(病尉遅)びょううつち。董平(双槍将)そうそうしょう。侯健(通臂猿)つうびえん。 盧俊義(玉麒麟)ぎょっきりん。関勝(大刀) だいとう。 単廷珪(聖水将)せいすいしょう。鄒淵(出林竜)しゅつりんりゅう。 ?旺(花項虎)かこうこ。劉唐(赤髪鬼)せきはつき。 楊林(錦豹子)きんびょうし。孔亮(独火星)どっかせい。 魯達(花和尚・魯智深)かおしょう。ろちしん。たくさん死んだなぁ。それだけ童貫が強かったという事か。それにしても納得いかないのはこんなに最期まで童貫が出てこなかった事だ。ウルトラマンのスペシウム光線みたいなもので、最初からそれ出せよ、という気分である。もちろん弱らせてからじゃないと使えないとかいう理由があるのかどうかしらないが、何かしらの理由はウルトラマンにもあるだろう。童貫にだってその理由はある。相手を強者と認めないと自ら出動しないとかいう設定が。ただそれだけじゃ納得いかないわけで。何故一個人の武将によってそんなアホな事が決められてしまうのか。この点に関しては設定が苦しいのではないかと読みながらずっと思っていた。敵が強い方が燃えるから、とかいうわけわからん理由で戦場に出てこないとしたらそれまでに散っていった宋の何万という兵の命はどうなってしまうのかと。高?が実は裏ボスじゃないかと思っていたが、侯健とのやりとりを見る限りほんとに小物っぽいな。それにしても女のために残ったせいで、女は首を斬られ自分は股裂きで殺されるとは。この股裂き、あっさりと描写されているが中国の中で一、二を争う残酷な処刑法として有名じゃなかったか。死ぬほど苦しいらしいという話をよく読んだ事があるのだが、ここでの侯健は恐ろしいほどに達観している。小物っぽく思えた侯健も最後には立派な梁山泊の一員として洗脳されていたな。こうもみんながみんな死に対して達観しすぎているともうこれは洗脳じゃないかと疑いたくなってくる。盧俊義の死に様も見事だった。 「われらはみな、梁山泊の民。いまは、力を合わせて宋と闘っている。やがて、勝つ。私は信じているが、それを見る事はできん。私の寿命が、月用としているからだ。多くの者が死んだ。それ以上に多くのものが入山してきた。激しい闘いは、これからも続く。ともに闘えないのは無念であるが、わが魂魄はこの梁山泊にある」中略 「さらば、梁山泊のわが同志たち」演説終わった瞬間に死ぬとか並の人間じゃないな。さすがにたくさん梁山泊に貢献してきただけあって死に様も異常に待遇が良かった。一将校とは違うぜ!軽く驚いたのが?旺の死にざま。 「俺の命だ。受け取れ」 ?旺は叫んだ。血が、口から噴き出し、?瑾の寝台に降りかかった。 「?旺殿。命を、確かに貰いました」 ?瑾が、はっきりした声で言った。?旺は頷いた。 いま、自分は笑っているかもしれない、と思った。輸血ですらねぇぇぇぇ。だが魂魄で生きる梁山泊の人間なら可能なのかもしれない。血をぶっかけることによって命を分け与えるというおよそ人間業じゃない荒事が・・・!。ふはは!ジョースター家の血はなじむ、実に!なじむぞフハハハハハ!ということですね。?瑾は吸血鬼だったのか。なるほど・・・。他にあった出来事といえば案外あっさりと呂牛が捕らえられた。しかも拷問されて何でも喋るうううと叫んでるし、何か今までのかっこつけていた呂牛像があるだけに失望である。まぁ自尊心が強かったと作中でも書かれているし、かっこつけは完全に見栄をはっていたんだろうな。実は水滸伝の中で一番痛々しいキャラはこいつかもしれぬ。孔亮の死にざまも異常にかっこよかった。 致死軍。悪くはなかった。思う存分、暴れたのだ。孔亮の名は残らなくても、致死軍を誰も忘れはしない。ただの青州の暴れ者が、宋という国をふるえあがらせた。これぐらいで、もういいだろう。 抱き起こされた。 「済まん、独火星」 燕青の声が聞えた。頷いたつもりだが、首が動いたかどうかはわからなかった。魯達の死に方が今までのどんな人間の死に方よりもやべえええ。腹を自分からかっさばいて腸と取り出して楊令に見せつけながら死ぬとか・・。いや、そりゃあんたはいいかもしれないけどそんな死にざまと腸を見せつけられた楊令はきっとトラウマになると思うんだが・・・。ただこれで最強戦士楊令が誕生したな。楊志に育てられ、林冲にぼこぼこにされ、秦明を親代わりに育ち、王進に色々教えられて、さらに魯達に梁山泊が何なのかを教えられて育ったんだからな。これで最強にならなかったらウソだよ。いや、それにしても凄まじい最期だった。魯達。思い返せば物語の始まりも魯達で始まったのだった・・。その頃は魯智深だったが。それが志半ばにして死ななければならなかったことを考えると非常に無念である。宋江の魯達に対する思いも泣かせてくれる。 友が、いなくなった。 土に還ったなどと、言いたくなかった。魯達は、いなくなったのだ。宋江の人生から、永久にいなくなった。 人が死ぬというのは、そういうことだろう。 それにしても最近の宋江の空気っぷりは凄いな。もうほんとに居る必要が無いレベルにまで昇華されてしまった宋江。最近じゃ出てくる事も少なければ、出てきてもほんの一瞬あたりさわりのない事を喋ってすぐに消えてしまう。死んでいった人間一人一人について書いていきたいところなのだがどんどん死んでいくのでそんな事をしている力が足りない。というかめんどくさい。公孫勝が高廉の軍を襲ったシーンは、もうこれは確実に公孫勝死ぬな、と思ったものだった。何しろ公孫勝はすでに袁明を暗殺するという大役を終えていて、死ぬにはちょうどいいところだと思ったんだが、しかし生き延びて、高廉の部隊を壊滅させた。本来ならここで公孫勝の出番は終わりのはずだ。相手が梁山泊にあたえた暗殺という方法を相手にもくらわせ、さらにライバルだった高廉の部隊を壊滅させた。本来ならここで表舞台を去るはずだ。なのに生き残った。劉唐が死んで。ならばこの先、あと二巻しかないがまだ出番があるのだろうか。楽しみである。
2008.08.15
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感想 ネタバレ有ついに十六巻まで来てしまった・・・。もうどうしようもない。あと少しでこの物語が終わってしまうと考えると非常に憂鬱である。死を意識する事によってはじめて生の実感を得るという言葉があるが、物語にもそれは適用されるものかもしれない。この長い話が終わりに近づいて、終わりを意識するにつれて必然的に今までの事を振り返る事になる。終わりを意識するにつれて今までの内容を思い返す事になった。そうすると沸き起こる感想はただひとつ、異常に面白い、というだけだ。本当にどうしようもなく面白い。王道の中の王道という感じがする。ここでぐだぐだと一巻ずつ感想を書いていて、途中で全部読んでからまとめてやればよかったのではないか?という事も考えたが、今一度一巻から感想を読みなおしていたらやはり書いていて良かった、と思った。一つひとつのシーンが頭によみがえる。楊志の死、晁蓋の死、楊令の成長。あげればキリがないほどの名場面で溢れている。必死に目の前の巻だけを読んでくればよかった今までと違って、あと残り三巻にまでなるとどこでどうやってこの話が終わるのかを考えるようになってくる。どんなにでかい戦いがあったとしてもあと二つが限度だろう。はたしてそれがどのように起こって、どういう結末を迎えるのか。そういう事を考えるようになってきた。それにしてもこの巻は思いがけない攻撃を喰らった感じだ。まさか軍対軍が日常化している中でこんな一対一の名勝負が読めるとは思わなんだ。描写の技術なんて何一つわからないのだが、どう思ったかは書ける。今まで読んだどんな戦闘描写よりも想像しやすく、緊迫感が伝わってきて、そして面白い。もちろん洪清と燕青の戦いだ。公孫勝と袁明の戦いでもあるが。あれほどの実力を示されていた樊瑞を一瞬で倒したのも、このときのための前振りだったのだろうか。思うにあれまで洪清の実力はどうも凄いらしいと書かれているだけで、対して描写されていなかった。あの前振りがあったからこそ、この洪清と燕青の名勝負の緊迫感が実現されたのであろう。そう考えると樊瑞の死にも、もちろん意味はあったことになる。まぁ壮大なカマセ犬という事になるが、ストーリーには重要なかませ犬がいつの世も必要なのだという事か。一対一の戦いの間、こちらまで息が詰まる思いだった。緊迫感が伝わってくる。闘いの終結に泣いた。こういう泣かせ方もあるのか、と感動したぐらいだ。 構えて、むき合う。燕青は眼を凝らしていた。洪清の構えは、静かだった。ふっと、そこに引き込まれていきそうなほど、静かだった。 燕青は近づき、洪清の躰をそっと地に横たえた。洪清はかすかに笑っているような表情をしていた。 「失礼なことを申しました。老いておられるなど、とんでもないことでした」 洪清は、相変わらず微笑んでいた。開いたままの眼を、燕青は指先で閉じた。それにしても袁明を追い詰めた時に悠長に会話をしている公孫勝が笑えるんだが。今まで徹底的に冷酷非道な致死軍だったのにこんなときだけ会話をする余裕を与えるとは。北方世界じゃなかったらあばよとっつぁーん!とかなんとかいって逃げるか、会話をする余裕を与えたのが命とりだったな!とかいいながら懐から出した剣か何かで公孫勝が殺されているところだ。ただ北方水滸伝ではそういった事は起こらないのだろう。追い詰められた時に最初に発した袁明の言葉が、「長い、闘いであったな、公孫勝」というのはかっけぇなぁ。 「冷たい喋り方をするのう。癒せぬ傷でも負っているのか、公孫勝?」 「生来のものです」 「いい国を目指せ、公孫勝。梁山泊が、そうやって闘えば、宋もまたいい国になる」 「袁明殿、おさらば」 剣は、たやすく袁明の胸を貫いた。しかし中国の古い歴史といえば暴君を抱えて国がどうやって生き残るか、という話が圧倒的に多い気がする。あるいは名宰相が国を立て直していく話か。宮城谷昌光の作品はほとんど読んだがそこからの影響を受けているだけかな。この宋という国も君主は割と最悪な感じだがそこが語られる事はほとんどないな。
2008.08.14
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感想 ネタバレ有もう十五巻なのにまだ童貫出動しないんだけど・・・!?あれか?童貫さんあれなのか?おまえは秘密兵器の上に最終兵器だから!絶対に最期まで出てくるなよ!と言っておきながら結局出番はないというオチなのか!?ラッキーマンのスーパースターマンオチですね、わかります。十五巻で何がヤバいって小李広の花栄がヤバい。なんかもう反則とか販促とかそんな段階を通り越してる。やばい。それからなんか知らないけどバタバタキャラクターが死んでく。ヤバい。マジヤバい。何がヤバいってお気に入りのキャラが次々と死んでいって怒りが込み上げてくる物のどこにこの怒りをぶつけていいのかわからない。作中でお気に入りの人間を殺した奴かもしくは北方謙三にぶつければいいのか。ばたばたと死んでく。あまりにもあっさりと死んでいくからひょっとしてここでこの物語は終わってしまうのではないかという錯覚にとらわれたぐらい死んでいく。宋清 楽和 穆弘 欧鵬 李応 朱武みんな死んだぞ!何故だ!何故なんだ! 穆弘も李応も朱武も物凄い描写を与えられていたのに最期あんなにあっさりと死んでいったのは何故だ!朱武なんて2行ぐらいしか描写が無かったぞどういう事だ北方ぁぁぁぁぁ李応も、「死ねば土。そう思い定めている。どこからでもいいぞ、来い」なんていう滅茶苦茶かっこいいセリフを吐いてた時が懐かしいぜ。確かに役には立ったが、死にざまとしては地味すぎる。穆弘も、関勝、呼延灼と比べれば地味だったとはいえ物凄い活躍をして梁山泊に貢献し続けたのに、結局超安程度に殺されてるんじゃ世話ねーぜ・・・。しかも相打ちならまだしも、相手は紙一重で生き延びているとは。確かに戦に定評のある穆弘、自分で眼をえぐりだしたヤバい男穆弘というような特徴があるぐらいで、李俊みたいに船の知識があるとかそういった特別な特技が無いのが弱かったか・・・。だから死んでしまったのか・・・。ところで特別な特技って意味かぶってね?ひょっとして地味なヤツから殺されていくのか?いやでも楽和なんて、梁山泊にただ一人しかいない音楽という癒しを提供してくれる存在だったのにあっさりと死んだぞ?宋清だってとてつもなく地味だったのに兵站とかいうある意味戦で一番重要な任務をこなしていたのに・・・。兵站を重用視する佐藤大輔が読んだら怒るぞ。いやむしろ怒ったのは自分だよ! 兵站を手に入れるのは大変だ大変だって大変だって書くだけで全く描写してねーじゃねーか!何がどう大変なのかわからんよ!欧鵬も欧鵬だよ!最後のセリフが 「すげえものを見た。人間業じゃねえ。ほんとに、すげえものを見た」ってどういうことだよ! ただのびっくりする役かよ! 花栄は声をあげた。ふと足もとを見ると、欧鵬が倒れていた。すでに、息はしていなかった。そして何事もなかったように死んでるううううう。しかも気付かれてねえええええなんてこったあぁぁぁぁぁ。まぁこいつらはいいよ。それなりに喋って死んでいったんだから。悲惨なのは朱武さね。ほんとに地の文で二行だけだよ、朱武が死んだ描写は。いったいどうなってんだよ。今まで梁山泊に貢献してきた朱武なのに死ぬ時は二行かよ。しかも敵に一太刀あびせたとかならまだしも、まったく相手にならずに一瞬で殺されるってどういう事だよ。もうちょっと頑張ってほしかったよ。いかん、お気に入りのキャラを大量虐殺されて気がくるっとる。この巻あたりから、というか前の巻からだったかもしれないが、ちゃくちゃくと次の世代への継承が行なわれている気がする。張平が子午山に預けられたのがその筆頭だし、超林の加入もそうだし、色々な子供が梁山泊に誕生しているのもそうだ。すべては楊令伝への布石だろうか。この張平が今後どんな活躍をするのか全く読めないが、楊令伝にて楊令の片腕のような存在になるのだろうか。期待が高まる。十四巻が大人しかっただけに十五巻は本当に激しかったなぁ。梁山泊がいったいどんな秘策を用意しているのかとわくわくしながら読んでいたが、まさか北京大名府を落とす作戦だったとは・・・。本当にギリギリセーフという感じ。
2008.08.13
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感想 ネタバレ有大決戦の前の準備という雰囲気が強い十四巻。十三巻で、どの巻にも一か所は鳥肌が立つ場面がある!と書いたばかりだが特に鳥肌が立つような場面はなかった。というか良く考えたらこれまでも鳥肌が立たない巻はあったように思う。その場のノリだけで書いてしまうのは良くない事だな毎巻、一番活躍する人間の絵が一番最初に書かれているのだが、今回書かれていたのは張清だった。 あれ?こいつ死んでね・・・?と思ったら死んでいたのは張青だった。似たような名前のやつが多すぎるな。ていうかこれ英語表記になるとどうなるんだろう。この張清、活躍どころかほとんど出てこなかった。というかこいつ初登場だっけ?張を名に持つキャラクターが増えすぎて意味がわからなくなってきた。どうもこの巻は本当に大したことがないようで特に活躍するような人間もいないから張清を書いたということなのだろうか。でも樊瑞や燕順がかわいそうだろう、それは。樊瑞なんて、ものすごい暗殺という役割を与えられていながら相手にたった4名の損害しか与えられずに死んでいくとは。しかしその死の描写は本当にあっさりとしていたな。死んだ事に次の巻の戦死者名簿を見るまで気がつかなかったぐらいだ。 また夜が来た。はらわたは、毀れ続けている。はらり、となにかが落ちた。はらわたからの音が、大きくはっきりと聞えた。 ここだろう、と樊瑞は思った。まさかここで死んでいたとは。いや、確かに言われてみればわかるのだがそれにしても・・・。そのあとの描写が全くないわけだし。ひょっとしたら暗殺に成功するかもしれないと思わせるぐらい樊瑞の凄さが書かれていたからそれだけにこの結果は可哀そうともいえる。ただ暗殺を生業とした男がこうやって静かに死んでいくというのもまた面白いかなという気はする。 「わからんな。数え切れないほど、死んでいく人間を見てきた。死ぬとはどういうことなのかと、考え続けてもきた。医者なりに、結論を出しているような気はする。しかし、どこか違うとも思ってしまうのだな」 「なくなるよ、安道全。おまえも俺も、俺のまわりの全部も。そして、それが心地よいような気もしている」北方謙三が書こうとしているのはこの伝えようのない感覚なのだな、という事は何度となく書かれているから、わかる。言葉で伝えられないものを必死に伝えようとしているのだろう。それが「死」だったり「志」だったりするわけか。それを一つの死によって伝えようとするんじゃなくて、怒涛の死亡ラッシュで伝えようとしてくるのが面白いといえば面白いし、またそれが微妙な点でもあるのかもしれない。あまりにも命が安すぎる。命は確かに万人が等価だが、それは百万円持っている、という意味での等価でしかなくて、本当の価値は百万円持っている事よりも、それをどう使うかでしかない。百万円ギャンブルに使って全部無くす人間もいれば、元手に株をして増やす人間もいる。逆もまたしかり。そういった命の使い方、みたいな事をこの108人を使って試しているのだろうか。張横と張平の描写も大量にあったし、張横と張清の間に何か関係性があったっけ・・・?張青の死にざまはもっと評価されてもいいと思うのだが。史文恭を止めようとしたけど失敗したけれども、一太刀喰らわせたわけだし。いろいろなところで語られながらも、決して描写されない高?が地味に怖いな。RPGだったら真のボスといって現れてきそうなところだが。フハハ!実は私こそが蔡京を裏で操っていたのだ!お前らは宋を倒すのには童貫を倒さないとならないと思っているかもしれないがそんなことはないぞー!梁山泊よかかってこい!梁山泊の勇気が宋を救うと信じて! 北方謙三先生の次回作にご期待ください。聞煥章を読んでいて思ったのだが、一番最初に出てきた時は完璧超人といってもいいぐらいの凄さを見せつけたのに、その後はあまり凄さを見せつけていないような気がする。足も失ってしまったし・・・。もうちょっと大物っぷりをみせつけてくれてもいいものではないかと。うまくかけないのだが、特定の事をやらせたいがために出てきたキャラクターという感じを受ける。そのせいかその特定の事以外でのこいつがやけにいらない人間とかしているような・・・。まぁそれはおいといて。地味に染み入るシーン。 「もう泣くな、平。おまえがなにをやろうと、私はおまえの父だ」確かにいい父かもしれないが、しかしあまりにも言葉数が少なすぎる。言葉で言わないと何も伝わらないだろうが。とは思うが犬なんかも言葉はわからなくても、家族の接し方で誰が家族の中で一番偉いか見極めてリーダーと認める、というし言葉よりも行動で示せばいいという考え方もあるのかもしれない。ただ、旅に出て行く時に私は行くぞ、とだけ言い残していくのはどうなんだろうか。どこで、何を、目的を、期間は、せめてそれだけ言い残していけばいいんじゃないだろうか。ただ、やはりこういう無条件の信頼というのは親として必要なものであるのかもしれないと思う。しかし最近のニュースなんかを見ていると、モンスターペアレントみたいな息子は何も悪くない!と癇癪気味に叫ぶだけの親もいるが、あれはあれで息子に絶対の信頼をおいている、という意味では間違っていないのかもしれない。親が子を愛するのは、顔が整っているからとか性格がいいからじゃなくて自分の子供だから愛する、っていうのは世界を肯定する哲学でもいっていたことだがまさにその通りなのだろう。信じるってのは確かに素晴らしい事かも知れんが、モンスターペアレントとの境目がわかりづらいなぁ。ゴールデンスランバーに出てきたオヤジだって一歩間違えればただのバカだぜ。 「上だけ裸なら、まだわかる。なにも着ていなかったとはな。自分の姿を想像してみろ、史進。棒と一緒に、玉まで振り回しくさって。わしは話を聞いた時、これがわれらの隊長かと、恥ずかしさで身が縮んだぞ」思えば水滸伝で初めて笑ったかも知れぬ。ただこれから始まる今までで一番でかくて長い戦いの事を思えば、これから先ずっと息が詰まる展開になるだろうから、ここらでちょっと息を抜かそうという意図があったとしてもうなずける話だ。もしそういう意図のもとでこういう話を挿入したのなら見事に策にはまっていることになる。地味に大砲バカがいい味だしてた。というか、火薬と大砲を合わせる、という概念が組み合わさったところはなにか人類が初めて火を起こした時のような感動があるな。発明というにふさわしい。これが完成した時の場面を思い浮かべると顔がにやけてくるような気がする。 「俺は、錦毛虎燕順だ。臆病者の手並みは、よく見せて貰った」このかっこいい名乗り上げの三行後に体中矢だらけにされて死んでるんだから笑ったぜ。そんなことするから矢だらけになって死ぬんだよ。
2008.08.12
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感想 ネタバレ有十三巻てなんか不吉やん。十二巻にて、ようやく関勝が加入して、戦う準備が整ったな、と考えていたがまさにその通りで、本格的にこの巻から宋との戦いが始まったな。今までは完全に人数を揃えるためだけに準備して、後手後手に回っていた感じだったがこれからはついに、宋を攻めるために軍を展開していくのだろう。そのせいか、恐らく宋攻略に最も大事であろう水軍の描写が多かったように思う。ずっと水軍だ。ただ考えてみるに、水軍対水軍ってのは案外地味だよなぁ。日露戦争の時の海軍の戦いは本当に派手で現実の話か?と疑うような面白さなのに。東郷平八郎に秋山真之の二人はカッコよすぎる。海軍同士が大砲をどかんどかん撃つだけが戦争じゃないな。さらによく考えてみたら、どうも派手さが足りないというのは単純に数が足りないからだろう。梁山泊側にはまだ千船もないみたいだし、それで派手さを要求されても梁山泊だって困るだろう。なんだかどんどん負け色が強くなってきたように思う。というか、冷静に考えて勝てる要素がなかなか見つからない。確かに一癖も二癖もある武将が集っているが、現実的に考えて兵力が圧倒的に足りない上に、宋側に強力な武将が控えている。っていうかお話の王道として、冷静に考えて簡単に反乱が成功しそうなストーリーだったら緊張感も何もないな。やはり圧倒的負けぐらいでちょうどいい。恐らくこれから幾度か宋軍と決戦するのだろうが、水軍が一番大事な事には変わりがない。大砲の使い手が出てきた時は軽く織田信長の再来かと胸が高鳴ったものだがそれきりほとんど何の描写もなくスルーされておる。せめて凌振には大砲バカらしい最期を願いたいものだが。朱全←(漢字が出せないからこれで)と孔明と李忠が死んだわけだが存在をすっかり忘れていたぐらいなので何の感慨もわいてこない。朱全の死にざまってもう誰か別の人がやってなかったっけ?という無粋な感想を抱いた。つってもかっこいいのだけれども。 「秦明、老体に鞭を打って走ったか。間に合ってくれた。俺は、闘い続けることができたのだ」 返事をしようと思ったが、秦明は声を出せなかった。 「林冲」 「おう、朱全」 林冲はしっかりと声を出した。 「おまえにだけは、あやまらなければならん。俺は、おまえより先に死ぬ。悪く思うな」 「いいさ、闘い抜いた」 「さらば」す、すげぇな・・・。まるで電池が切れるように死んだな・・。こういうのを読んでいると自分でも真似したくなるから困る。死ぬ三日前ぐらいに読んでいたら、たぶん死ぬ時に恥ずかしげもなく「さらば」とかいって死んでのけてみせられる気がする。それにしても本当に感動するのは林冲がこのあと呉用に向かって朱全が死にながら戦っていた、と淡々と説明するところだな。まるでわかってもらえないのはわかっているがどうしても言わずにはいられないのだ、というよういなそんな雰囲気の描写が恐ろしくうまい。恐ろしい男だった。まるで普通に生きている自分は死んだ方がいいんじゃないかと錯覚してしまうような。というか北方水滸伝を読んでいるといつもお前は屑だなぁげらげらげらと笑われているような気分になるな。なんという卑下・・。孔明も妙に印象に残る死に方をしていった。船に押しつぶされて、即死していてもおかしくないのに立ち上がって退却の合図を出して死んだ。なるほど、言葉が無くても行動で示せばいいのか。これは新しい。 「泣くな」 童猛はひと塊になっている八名のそばに立ち、声をかけた。 「泣いたら、孔明が生き返るのか?」 「でも、隊長は」 「言うな。おまえらは、よくやった。あの空の赤さを見たか。あれだけ、空を赤く染めたのだ。胸を張れ。孔明も、それを望んでいるに違いないのだ」北方謙三が書いた小説じゃなかったら、別に孔明がそんな事望んでたかわかんねーじゃねーか、と否定的な難癖をつけたかもしれないがどう考えても孔明はそれを望んでいただろうな。わかりやすいといえばわかりやすい。非常にシンプルだ。それにしても孔明という名前をつけられたら普通頑張って軍師になろうとしないのだろうか。中国に孔明さんがたくさんいるのかどうかわからないけれど、自分が孔明っていう名前だったら頑張って軍略を学ぶような気がしなくもない。いや、でもそれは酷な話か。知り合いにケンシロウという名前のやつがいるが、やつはケンシロウという名前だからといって北斗真拳を極めようとは決して思わないだろうからな。ケンシロウと名付けたアホな親は、その妹にユリアと名付けようとしてさすがに止められたらしい。危ないところだった。
2008.08.11
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感想 ネタバレ無久しぶりに水滸伝以外の感想も。全く悔しいのは、ハードカバーで読んだために文庫の解説を読めなかったこと。さらにいえば自分の読書力が全く足りていない事か。何も考えずに、深読みも何もせずにただぼんやりと読んでいただけであった。それでも十分に楽しませてもらった事を考えれば素晴らしい小説であるといえよう。とりあえず最初の文章を読んだ時点でまともな小説ではないな、という感想を持った。書いてある事がむちゃくちゃなのである。そう思っても当然という気もする。さらにいえば、最初の100ページほどは本当に何が書いてあるのか全くさっぱりちっともわからなかった。全く違う世界観のところに放り込まれたかのように右往左往して、理解しようと思えば出来たかもしれないのに完全にその努力を放棄して理解できないものは理解できないものとして置いといてしまった。ラスト20ページぐらいを読んでいて、ひょっとしてこれは理解しようという努力さえすればもっと面白かったのではないか、と考えたがもう後の祭りだった。完全に自分の中でこの小説は、意味がわからない事が面白いただのアホ小説という烙印を押されてしまい、恐らくその評価はもはや覆らない。ファーストインプレッションというやつだ。わざわざ横文字で書かなくても第一印象だ。その後いくらかして、この小説が精神病者の闇を書いた作品だという評価を持っている事を知る。全く寝耳に水、という感じであった。正直いって自分の中でこれはギャグ小説のような立ち位置でもって迎え入れていたのだから。私小説だともいわれているが、高橋源一郎という人間を過分にして存じ上げないもので全くわからない。しかしそれでも、それでもだ。面白いという言葉に嘘はない。読んでいて気が狂いそうになった小説はこれが初めてだ。現実に影響を与える小説が面白い小説の定義だとしたら間違いなく面白い小説だった。ただひとつ間違いがあるとすればその定義はおかしいということだけだが。現実に影響を与えるような小説をなんというのかといったら、「凄い」小説だろう。まったく間違いなく凄い小説ではあったわけで、そう言われると面白いかどうかというのはわからない。だがつまらないという事は断じてあり得ないという事だけはわかるが。一気に全部読んだら頭をかきむしるんじゃないかという気分だった。それでもそんな内容なのは前半部だけで、後半部はやはり先程書いたように内容がもっと真面目になっていき、ストーリーとしての体裁を持っていたように思う。正直前半部にはストーリーがあるのかないのかすらわからずに読み進めていた。どの文章に意味があって、どの文章に意味がないのか、という事を問いつづけるような文章だったように思う。そしてこのタイトルにどんな意味があるのかさっぱりわからない。あるいはこういう事を言いたかったのだろうか。意味がない事に意味がある。思えば全編を通してそんな感じだったように思う。読んでいて日本の作家だという事を頻繁に忘れたが、大量に出てくる日本人特有の固有名詞に現実に引き戻される。何度考えてもこれを日本人が書いたというのが納得がいかない。だがそれもおかしな話で、なんで日本人が書いたというのが納得いかないのかがわからないのだけれども。こういう気が狂ったようなものは日本人は書かないとでもいう先入観があるのだろうか。そんな先入観ゴミ箱に突っ込めばいいのだ。一回しか読んでいないのにここに感想を書くのが本当に心苦しい。恐らくたくさんの馬鹿をさらすことになっているだろう。感想 ネタバレ有 「ヘーゲルの大倫理学」がこの突発性小林秀雄地獄に見舞われるようになったのは大阪刑務所付属病院の精神病棟に収容中の時かららしい。 高速で落下する「ヘーゲルの大倫理学」の顔は宇宙戦艦ヤマトの波動砲で撃ち抜かれたダース・ヴェーダのように官能的だった。素晴らしい意味のわからなさ!もはや何もかも意味がわからない。ヘーゲルの大倫理学が人名っていう時点ですでに意味がわからないし、宇宙戦艦ヤマトの例え話も意味がわからない。だがなんとなくすげぇ!というような事は伝わってくるそんな文章だ。と思う。最初の方はずっとこんな調子で真面目に考えるのもバカバカしい、という文章の羅列だ。精神病者を書いた、といってあぁだから意味がわからないのね、と納得してしまうのも、正直どうかと思うわけで。しかし自分がここで、この作品について何かを書くというのは、決定的に間違っている事を書くということで、間違っているというのがわかっているのに書くというのはこれ、おかしな話じゃなかろうか。あるいは何も書かない方がいいのではないだろうか。書こうと思ったらそれこそいくらでもある。それは謎があるからで、意味がわからないところがあるからで、それをわかるようにいくらでも書き連ねていったらいいのだ。でもそんな事したら恐ろしくグダグダになりバカをさらしほんのちょっとで済む時間が大幅に増える事になる。それで利点といえば、自分の中である種の決着がつくだけだ。いや、決着がつくことが大したことないというつもりはないのだけれどもそれにしても意味はあまりない。何しろ量が半端ない。パラパラっと読み返しただけで、もう一度考え直したい要素で溢れかえっている。ここにそれを一か所ずつ書きあげていくぐらいならもう一度読み直した方がよほど有意義な気がするのだ。よっていつかまた文庫で買ってきて、解説を読みながら本編をもう一度読み直しこの感想を書きなおす事にしよう。
2008.08.10
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感想 ネタバレ有衝撃の十一巻から続いて激動の十二巻であります。意味は特にない。巨星、落つ、から梁山泊の立て直しがはかられる。といっても基本的に宋江がいるから大丈夫といえば大丈夫だが。このための二人首領体制だったわけだし。それにしても、晁蓋がいなくなったことをいい事に自分の案を全面に押し出して作戦を方針だてるのかと思いきや、晁蓋の意志を汲んだ方向に動くとは、やはり晁蓋は死んだ方がよかったのかもしれんな。対立し続けるよりは。この巻でようやく、関勝が仲間になった。思えば初登場から何巻たったか。なかなか仲間にならないので、ひょっとしてこいつはもう梁山泊入りしないのではないかと思ったぐらいだ。しかしその分、じらした分、物凄い活躍を見せてくれるであろう事は想像しやすい。呼延灼もいるし、関勝も加わったし、晁蓋がいなくなってもこれだけの人材がそろったというのは面白い話である。ついでに宣賛や魏定国も仲間になったしな。特に宣賛は相当使える軍師のようだ。なんだか段々SRPGでもやってるような気分になってきたぞ。恐らく宣賛はいきなり一軍入り出来るぐらいのスペックを持っているだろうな。十二巻にしてようやく戦力が充実してきた感がある。という事は、次の巻から本格的に宋との闘いが始まるのだろうか。もう増える人間はいないように思う。童貫が仲間になるはずはないし、李富が謀略に気づく気配も全くない。でもいつか気づくと思うんだがなぁこの巻で主に扱われていたのはほかに、盧俊義と燕青だろう。これも梁山泊第一といっていいぐらいの主従関係である。拷問されても何もしゃべらない盧俊義に、命をかけて助け出そうとする燕青。あらすじだけかくと非常にシンプルだがそこに込められた思いと、実績がすさまじい。まさに人でない偉業を達成した燕青だ。死域だ。 「心と躰の状態で、そういう域に入る事があるらしいのだが、通常は四刻ほどで死にいたるという。それが、燕青の場合、二日近くは続いたのではないか、と安道全は言っている。およそ考えられないことで、燕青の回復の方を、安道全はむしろ心配している」燕青が盧俊義を背負って五十二の人と地名を暗唱しながら梁山泊への道のりを歩く場面は本当に鳥肌が立った。絶対に一つの巻に一か所は鳥肌が立つような物凄い場面がある。だからこうやって感想を書くと毎回似たような感想になってしまうのだが全くしょうがない話である。
2008.08.10
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ネタバレ有衝撃の第十一巻・・・!最初はこの巻も大人しめだなーなんて思いながら読んでいたのだが、すべては最期までの布石だったとは・・・。三万で宋と対決すべきだ、という晁蓋と、十万まで待つべき、という考えの宋江。どちらも正しいともいえるこの選択。お互いに、ひかない相手だと知っていて、ひかない相手だからこそ信頼できる間柄というところか。 仕方がないことだった。晁蓋も自分も、考えを大きく変えることはできない。どこまで歩み寄れるか、ということに尽きるのだ。 友ではないか。 すべてを語り合い、ともに生き抜いてきた、無二の友ではないか。 宋江は、そう考え続けた。ここで自分の考えを引っ込めるような人間なら、そもそも二人の首領という特殊な立場にたっていない。しかしこの晁蓋が三万で行くべき、期を熟した、と肌で感じているところが正しさをうかがわせる。結末は梁山泊負けという事を知っているだけに、このタイミングで挙兵していたらあるいは・・・と歴史のIfを想像してしまうのも仕方のないことかもしれない。すでにフィクションとして存在しているものの、さらにIfというのも面白い話だが。この巻でついに晁蓋が死亡する。全19巻という事と、首領が二人、という事を考えると半分だから展開的に首領一人殺しておこうか、というような考え方もできるがその代りといってはなんだが、面白い人間関係の対立もだんだん出てきた。人数が増える事によって描写されない人間の数が圧倒的に増えてきたが、その分一人一人の密度が濃い。人と人が関係しあって、さらにそれが力になっていくのだと読んでいて実感できる。やはり最初に感じたように、水滸伝は人間関係の物語でもある。対立や主従関係、友譲や命の恩人、兄貴と弟分、さまざまな関係性がここには書かれている。杜興のエピソードも面白い。しかしやはりなんといってもここで特筆すべきは晁蓋の死ぬ場面であろう。正直、突然の急展開に読んでいて驚きを隠せなかった。あまりにもあっさりと、突然に死ぬのでまるで現実の死のようだった。いや、フラグというようなものはもちろん大量にあったのだが、作中の人物が何度も語るように、晁蓋が死ぬところがまるで想像できなかった、ということに尽きる。この男がそんなにあっさり死ぬように思えない。宋江ならまだしも。それにこの描写力・・・。死んだことが無いから真に迫っているとか、現実っぽいなんて口が裂けても言えないが、最高レベルで、フィクションとして面白い。エンターテイメントとして面白い。なんだ、これは、と読みながら考える。リアルとかリアルじゃないとか、現実的だとか非現実的だとか、そういう事じゃなくてただただ、「正しい」かもしくは「アリだな」という感覚を持った。これ以外にない、という感覚か。ものすごい説明が難しい。感覚を文章にするのがこんなにも難しいとは。バカボン風にいえばこれでいいのだ、か。技巧をこらしたシーンではない。ジェイムズティプトリージュニアがたった一つの冴えたやり方や、輝くもの天より堕ちなどで書いたような、美しい死のシーンではない。物語に吸い込まれるようなそんな描写だ!わけわからん なにかが、ふわりと自分に寄り添ってくるのを感じた。やさしげで、触れると心地良さそうで、包み込まれるとかぎりなく安らかになれる。しかし、冷たい。 この冷たさが、死なのか。 そう思った瞬間、憤怒にも似た思いが晁蓋を包み込んだ。 立って、両断してやる。 「去ねっ」 立とうとした。やわらかなものは、しっかりと晁蓋を包み込んでいた。うーむ。凄まじい男だな、晁蓋。死を自覚した瞬間に、死を両断しようとするとは。そんな男今までどこにもいなかった。何気ない描写だが、立って、両断してやるってのは滅茶苦茶すげえ。何故そんな表現が思いつくのか。漢だなぁ。漢だよ。死に包まれていると知って、今までの人生疲れたな・・・死ぬのもいいかな・・・なんて、全く思いもしないでぶっ殺してやる! と奮起できる人間なのか。すさまじい。この一言に尽きる。読み終わった瞬間に意味がわからなくなって十二巻を取りに走ったのはいい思い出だ。今までで一番びっくりして、今までで一番感情を突き動かされた感がある。毒に身体を犯されて、物を考えられるのに死ぬのか・・・?と自分が死ぬかもしれないと考えるまでの過程がほんとに凄い。
2008.08.10
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感想 ネタバレ有濁流の章。読んだのがもう一週間ぐらい前なので全然思い出せない。さて、最終的に一番大きな出来事は呼延灼との戦い、そして呼延灼の加入か。このあたりから脇キャラがぽこぽこ死んでく。まるで何の役目も描写も与えられず死んでいった穆春とかを考えると涙が止まらん・・・。まぁお前兄の影としていただけだしな・・・。良く考えてみたら、兄弟で梁山泊入りしている奴らは基本的に兄の方が優れてるな。宋江しかり、穆春しかり、朱富しかり。 「高?を、どう思う?」 「まさに、人間の屑ですな。開封府にはそういう屑が集まっていますが、その中でも屑と呼ぶのに最もふさわしい男でしょう」ここまで言われる高?という男に惚れた。この漢ばかりが集まってる北方水滸伝でこれほどまでに一身に屑という評価を受けるとは並大抵の屑ではあるまい。まえに人間的な弱さがこの物語には決定的に欠けていると書いたが、あるいはそれは高?がになっているのではないか。ところで呼延灼の武器は双鞭だという話だが、そろそろ苦しくなってきたんじゃ・・・。元々108人という人数が多すぎるから武器でキャラをかきわけようとかいう画力の足りない漫画家のような発想から、一人一人得意な武器が違うとか言う設定が出来たんだろうが、鞭で戦うってのはどうにも想像しづらいな。まぁ面白いからいいんだけれども。一瞬で首を落とす双鞭っていったいどんな凄い鞭なんだろう。いや、無知だからあんまりこんなこと言わないほうがいいのかもしれない、鞭だけに・・・。実は世界には首が切れる鞭が存在するのだろう。凌振とかいう熱血大砲バカが加入した。なんかだんだんキャラ設定いい加減になってないかなぁという感想を抱く。かといって面白くないわけじゃないのが面白いのだが。
2008.08.09
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さぁさぁさぁ、折り返し地点も近くなってきました九巻でございます。感想 ネタバレ有何があったかなぁー。索超が出てきたり林冲が危険な目にあったり晁蓋が自分から戦場にでるようになったりっていうのが主なところですかねぇーさすがにもう九巻ともなると、書く事が無くなってきた代わりに経験が積み重なりもうなんかダラァーンと長年の親友と酒でものみながらゲームしているようなダラダラ感が出てくるわけだけれども、ひょっとしてこれが中ダルミってやつなのかしらん。ただそれはあくまで感想を書く上での中だるみなのであって、断じて作品の中身が中だるみしているわけではない。それだけははっきりとさせておこう。恐らく最初から最後までこの物語は北方水滸伝でありつづけるだろう。一見何も起りそうになかった十一巻でさえ驚愕の出来事が最後で起こったし。しかしこの巻の帯はひどいなぁ。林冲愛する妻を救うために敵地に!みたいな感じの帯だったが、一巻を読んだ時点でその帯を見た時に、妻生きてんのかよ!と壮絶なまでに突っ込んでしまった。そうか、それで実際には妻が死んだ描写が全くなかったのか、と納得しかけたところでやっぱりブラフでしたってそれこそがっかりだよ!あぁガッカリだよ!でも圧倒的なまでに強い林冲にも、そういった弱さがあるという事を書くにはこれ以上ないほどのイベントであったな。水滸伝最強キャラランキングでも林冲が一位のようだし。やはりそこまで強い人間はいないということか。王進をのぞいて。 女一人救えなくて、なんの志か。なんの夢か。死んだあともこれほど大事にされる女の名前が全く思い出せない。ただやっぱり林冲かっこういいなぁ。晁蓋がやられそうになった時突っ込んできたのも林冲だし、どんなピンチにもこの一人!万能林冲発売中!みたいな。しかもどんなにピンチになってもお話の魔力が林冲を守ってくれるという。原典があるからだが。水滸伝とは関係なしに、ストーリーに介入する読者側の意思、というテーマで考えてみるのも面白いかもしれない。読者に望まれて死ぬべきだったキャラクターが死なないとか、読者が望むであろう展開に行くというのは、物語である以上当然あることで、それを許すのは作り手の怠慢であるなんていう狭い考え方ではなく、それすらもストーリーというものの一部として取り上げていくのが本当の物語というものではないのか。本来読み手がいてこその物語なのだから。関係ないお話終わり。なんかもう梁山泊がみんなやられちゃったあとみんなの敵はこの私がとる!とかなんとかいって王進が巨大化とかなんかしたりして一人vs国 ドガーン!みたいなキャッチコピーがついて王進が宋を倒す話があったりしたらおもしろそうだけど絶対にあり得ないな。いかん、なんかおかしいな。 「ここで逃げたら、俺が俺でなくなる。やれるところまで、おまえと一緒にやらせて貰うぞ、豹子頭林冲」 「馬鹿な男だ」 「おまえもな」オマエモナー 索超男すぎる。ここで逃げたら、俺が俺でなくなる。うひゃー。もうなんかうひゃー。うひゃー。万の言葉を尽くして語りたい気もするが、なんというか、うひゃーだけで気持ちが全部あらわせているようなきがする。うひゃー。 「俺はよ、魯達を女真の地からひとりで連れ戻した。誰にも出来ない事をやってのけた、とみんな言ったもんさ。その時、俺はこれが男だと思った。誰にでもできねえことをやってのけて、人に語られるのがな。いままでも、俺の名を聞くと、魯達を救いだしたあのとう(楽天じゃ変換できない)飛か、と梁山泊の兵はみんな言う。そんなとき、俺は男だって思えるのよ」そして今まさに、八方塞がりの中から重要人物を助け出そうと、誰にも出来ないことをやってのけようとしているそこにしびれるあこがれるぅ!格好いいぞぉぉとう飛ぃぃ。でもお前の名前は別に語られる事はないからなぁ!でも悲しむんじゃない。一応死ぬシーンが書かれているというだけで君は立派なキャラクターだ。中には全く描写がないまま死んでいく人間もたくさんいるんだ。その中で君の描写はキラキラと光輝く太陽のように北方水滸伝という物語の中で屹然と立っているぞ。まぁ語られる事はないけど。解説より 百八人だ。百八人の北方謙三もどきが、これでもか、これでもかと男の生きざまを説き、死に様を見せつける。百八人分のナルシズムに翻弄されるのだ。読んだときまさにその通り!と腹を抱えて笑ってはいないけれどうんうんと頷くぐらいはしたような気がする。実際のところこれでもかこれでもかと男の生き様を見せつけられて、なんというか自分はなんていう人間の屑なんだ、と自己嫌悪に陥る方向に向かっている気がする。あとは何回も繰り返される男の思想によって、一回ならまだしもそれが何回も繰り返されるので、なんだか洗脳されるかのように頭の中から思想がこびりついて離れない。みんな立派すぎてあまりに自分が屑過ぎて本当にもう誰にあやまっていいのやら、生まれてきてごめんなさいというのは親に失礼だし今まで真面目に生きてこなくてすいませんすいませんと水滸伝に向かって土下座したいぐらいである。
2008.08.05
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第八巻。感想 ネタバレ有なんかだんだん書く量が少なくなってきたような・・・!?この巻では解珍、解宝の親子が出てくる。ジャイアントロボの中で、ほんの数秒しか出てこないとはいえその圧倒的な存在感をしかと目に焼き付けたものだが、まさか親子という設定だったとはしらなかった。ジャイアントロボだとどうみても兄弟だったからな。主に、祝家荘vs梁山泊の戦いが繰り広げられる。相変わらずどの男も格好いい。ただそれが不安でもある。格好いいのは、当然いいのだが、そう何度も強調されるとさすがに飽きるのではないかと。確かに変わらないことというのはそれだけで魅力的だ。世の中、何もかも変わらざるを得ないものばかりだ。変わらないものなんて、ひとつとしてないといっていい。その中で変わらない作風で最初から最後まで一貫して書ききる、というのは素晴らしい。いや、それはシリーズを始めたものならば誰もがそうするべきと考えるだろう。シリーズの途中で作風が変わったり、主張する事が変わったりしたら興ざめである。そういう事ではなくて、今は確かにこんなに楽しいけれど、次第にまたその展開かよ、と鼻で笑うようになってしまうのではないか?というのが今唯一の心配なのだ。まぁそんな心配をしている暇があったら一行でも多く読め、というのが正解だろうな。ただこのシリーズを読んでいる途中で、そんな事も考えたという記録を残したかっただけだ。読み終わった時には笑い飛ばせるのを願っている。しかしこの作品、くどいほど同じ思想を強調する。死ねば土になるだけ。死んでも、誰かに覚えてもらえればそれでいい。などなど。 「これは、鄭天寿の命だ。私が本営に戻った時、おまえの熱はもう下がり始めていた。だから、この蔓草が役に立つ事はなかった。これが、鄭天寿の命だとしたら、情けないほどのどうでもいい命でもある。しかし、ひとりの、この世でただひとりの人間にとっては、無上に大切な命だ」病気の子供のために薬草を採りに崖にのぼり死ぬってこれなんてありがちな展開?ただこうやって楊令が子どもながらに、人の命を背負って生きていく自分、というものを明確に意識しながら生きていくというのは非情だけれども、これから先人の上に立つものとして生きていく上で重要なのだなと思う。楊令伝という続編があるのを知っているから考えることではあるが。 心の底が、ふるえていた。 いままで、こんなふうな感じを味わったことが、李応にはない。 これが、生きているということではないのか。危険を求めながら、しかし生きている。命のかぎり生きている。そういうことなのではないのか。この男、李応のことだが、描写は少なめだがその存在感が異常に強い。鮮烈なイメージを植え付けていく男だ。ところでこの8巻で、ついに馬柱がむごたらしく殺されるわけだが、李富の対応があまりにも不自然すぎる。今までの冷静沈着な描写はいったいなんだったのかと思うほど簡単に物事を梁山泊のせいにしすぎる。女に没頭しすぎるからこうなる、というような解が与えられているのかもしれないが、それにしてもここだけは納得いかねぇ。いくらなんでも無条件に、梁山泊のせいだと信じるのはおかしいのではないだろうか。さらに、自分の事は梁山泊側には全くバレていないはずだ、とどの口がそう言わせるのだろうか。いつだって全ての条件を考えていくのがやり方だったはずなのに、何故そこだけ盲目的に自分の事は知られていないと信じているのか。ここだけは後々まで引きずる事になりきがする。あるいはこれは、李富が梁山泊側に寝返るフラグだろうか?バレないはずがないとおもうのだが。 「死ねば土。そう思い定めている。どこからでもいいぞ、来い」やばかっこいい。さすが李応だぜ。きっと壮絶な死に方を決めてくれると信じている。最初はキャラに期待していたが、最近はもう死に方を求めるようになってきた。どうせみな死ぬのだ、どうせなら、壮絶に死ぬ方がいいだろう。でもよく考えたら、どうせみんな死ぬなんてのは自分らにも当てはまるわけで、よくよく考えてみれば同じ死ぬなら派手に死んだ方がいいというのは全くもってその通りだというきがする。座右の銘にでもしようか「どうせ死ぬなら派手な方がいい」なんか頭のイカれたジジイになりそうだな。 「歩きませんか、宋江殿。この祝家荘の中を。何人もが死にました。ひとりで歩くには、肩が重たすぎます」 「そうだな」 宋江が笑った。 月が出ている。呉用もかっくいいなぁ。闘わないのだが、それ故に死を受け入れる度量を持っているというべきか。同じ事は宋江にも言える。この二人が揃うとよくわからん化学反応が起こりそうだ。
2008.08.03
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感想 ネタバレ有まだ七巻か。今回の主な出来事は、宋江脱出、雷横死亡、時遷死亡、阮小五死亡、他にもまだあったかもしれないが、こんなところか人数が増えてくるにしたがって頭も混乱してくる。しかし見事なキャラの書き分けというところだろうか。一人一人の主張がうまくかみ合っている感じがする。たとえば名言的な事をいったキャラがいたとして、そのキャラが矛盾した行動をとっているような事がない。まぁ当然かもしれないが、それが108人もいるというのだから把握するのも大変だろう。もう何人か死んで100人ぐらいになっているかもしれないが。というかまだ108人そろったかそろってないのかもわからないが。 「志がどうあるべきかなど、ひとりひとりで違う。おまえは土を捨て、闘いを選んだ。大事なのは、それなのだ。闘いぬく事が出来るのか。自分が選んだ事を、やり遂げられるのか。志は、難しい言葉の中にあるのではない。おまえのやることの中にある」宋江のセリフだが、パっとみたかんじ晁蓋がいったような感じがする。何故だろう。七巻まで読んで、多少気になる点も出てきた。塩の道塩の道と凄く大切そうに何回も繰り返して書かれているものの、その実態が全く描写されていなかったりまたしても同じく、替天行道と何回も大切そうに書かれているのにその中身が全く書かれていなかったりと。 よく見ろ、これが梁山泊の雷横だ。挿翅虎と呼ばれた、雷横だ。空を飛ぶ虎。そう呼ばれるわけを、いまから見せてやる。 俺はまだ立っている。雷横は思った。男は、決して倒れたりはしないのだ。雷横格好いい。ほっとんど名前も覚えていないようなキャラだったのに・・・。それにしても時遷の死と比べるとあまりにもかっこよすぎる。というか、戦えるキャラは必然的に格好いい死に方を迎える事が出来るなぁ。闘えないキャラは、なんというか地味な死に方をせざるを得ない。時遷なんか、女を追い詰めて殺そうとしたら後ろからグサリ、だもんな。いいところの見せようもない。せめて死ぬ間際に少し喋れれば格好いいセリフをいって死ねたかもしれないのに、後ろからグサリじゃそんな事も無理だ。ていうか死に際のセリフが「なんなのだ」で終わる時遷はひょっとして梁山泊でトップ10には入るぐらい微妙な死に方をするのではないか。いや、まだ7巻でこんなこというのもなんだが。読み終わった時は複雑な気持ちになったものだ。結構重要な人だったんだけどなぁ・・・。宋江が今までやってきたことは割と悪い方向に向いているような・・・。いや、宋江システムによって仲間が増えているのはわかるのだが無駄に危険な目に会いすぎではないかと。もう少し自重しろと。晁蓋に戦に出るなという資格はこやつにはないな。
2008.08.02
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この壮大な物語、まだ六巻であるというのだから驚きを隠せない。もう三十巻分ぐらい読んだような気分である。感想 ネタバレ有何か、この水滸伝で大切な事を挙げるとすれば、それは食事の描写がそこかしこにちりばめられている事だろうか。読んでいてそんな事を考えた。とにかく、ちゃんと食事の事がしっかりと書かれている。さすがに一から水滸伝を作りなおしただけはある。意味のないところに意味を持たせ、裏の裏まで考えて、塩の道を作りだしたり、各キャラクターにしっかりと意味を持たせたのと同じように、生活に必要な描写も洗いざらい書き出したのだろう。食事だけに関わらず、生きていれば絶対にせずにはいられない排泄物の処理の話なども、書かれている。本当に至れり尽くせりである。もう一つほかに考えた事といえば、当然書かれるべきである、弱さというものはいったいどこに出てくるのだろうか。この水滸伝に出てくるキャラクター、誰ひとりとして命を惜しみ、逃げ出すような人間がいない。それはいい。だが、それだけで物語というものは成り立たないのではないか。弱さを担う部分が必要なのでは。最初それは、女性に担わされているのかと思った。馬桂を読んでいてそう思ったが、それも違う気がする。済仁美に限らず、そんなに弱さを押し出すような女性は書かれていない。弱さはないのだろうか。まぁまだ全部読んでいないのに書くような事でもないのかもしれない。全部読み終わった時に、総括として書こう。さて、第六巻である。おもな出来事といえば、秦明の加入、他にも王定六、陶宗旺、欧鵬の加入などなど。特に王定六、このあとまた注目されることがあるのかどうかはわからないが、とりあえずこの巻だけでいえば目覚ましい活躍であった。たくさん書かれた文章でないにも関わらず、存在感を見せつけてくる。陶宗旺も物凄い活躍をするし、まぁそのあと活躍するのかどうかはわからないのだけれど・・・。こうして考えてみると、面白いキャラクターはこんなにもたくさんいるのに、その一人一人に焦点を当てて語れないというのが、水滸伝最高の落ち度かもしれない。百八人は多すぎるのではないか、と中国の歴史に真っ向から喧嘩を売るような発言だが。それにしても魯達、自分の腕を焼いて食ったとか凄い奴もいたもんだな。しかし良く考えてみると、中国の話にゃもっと凄いやつがごろごろしていたような気もする。そういう意味じゃ日本だって負けていないし、自分の腕を食うのはひょっとしてそんな大したことないのか?と思わせてしまう中国の物語がこええ。しかし、どんなに林冲が強い強い天下無敵!といわれようが、一巻の一番最初で王進にボコボコにされていたのを読んでいるのがいつまでもひっかかって、そんなに強いという印象を持つ事が、なかなかできなかった。それほどに王進の存在感というのは強いものだ。時には一回も出てこない巻さえあるというのに。この最後の終わり方、何気に今までの巻で一番好きかも知れない。誰にも負けないたった一つの自分だけのプライドを守りきった男、というのが、あらわれている。まるでエアマスターのジョンス・リーのように・・・。誰だってその道じゃ負けたくないって事があるよなぁぁぁぁぁ。 「長く走ることについちゃ、俺は誰にも負けねえんだよ。雷横とか言ったな。おまえ、そう思わねえか?」 「思う。おまえより走れる者は、この世にいないだろう」中略 腹が減っていたが、眠くもなってきた。 まず食って、それから眠る。王定六は、そう決めた。 躰が、まだ走っているように揺れていた。結果的にこの王定六の速さが、林冲を二日早く宋江の元に駆けさせ、それによって宋江も助かったと考えると王定六のやったことは本当に凄いことなのだ。ただ、王定六だけが凄いのではなくて、他にもみなが死力を尽くしてこその結果なのだが。
2008.08.01
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感想 ネタバレ有さぁさぁついにやってきました五巻。なんといっても注目は楊志の最期か。死亡フラグ立てまくってたので死ぬのはわかりきっていた事だが、ここまで壮絶な最期を持ってくるとは思わなかった、というか想像をはるかに超えて「圧倒的」な最期だった。ここまで読んできた人間を圧倒するかのその描写。もし仮にだが、北方謙三のキャラクター造型に疑問を持つ人間が読んだとしても、唸らざるを得ない場面であった。自分自身そういう経験があるからわかるのだが、自分の嫌いな設定、展開、キャラクターであるにも関わらず、それでもなお面白いと認めざるを得ない作品がある。たとえばゲーム「マブラブオルタネイティブ」だが、キャラクターはあまりにもシンプルなうえに、主人公に全く魅力がないわ、ストーリーがあまりにも王道すぎる、本当に、ひとつも好きなところがない作品だったが、中身をみて見直した。なんというかうまく説明出来ないのだが、説明出来ないからこそ、みんなパワーに圧倒されたとか曖昧な言葉で逃げているのかもしれない。物語の面白さというものに、キャラクターの魅力、ストーリー、テーマ、の他にもまた違った要素があるのかもしれない。同じ事が北方謙三の作品でもいえるかもしれない。こんな漢と書いてオトコと読むようなヤツらしか出てこないというのはある意味お約束でありながら、それを毛嫌いする人間も当然、いるだろう。現に解説でもそういう事を書いている人はいる。ただ、例外なくパワーに圧倒されたと言っている。水滸伝で、これから先死んでいく仲間が死んでいくさまは本当にどのシーンも格好いいものだが、果たして楊志を超えるものは現れるものか。これほどの存在感のあるキャラクターの五巻での退場というのは、銀河英雄伝説の二巻で死んでしまったキルヒアイスを思い出させる。楊志の事しか書いていないが、ここではもうそれだけでいいだろう。特に楊志の最期の戦闘の描写はまるで井上雄彦のバガボンド27巻、吉岡一門70名以上を相手に戦った時の絵を彷彿とさせた。それほどの衝撃だった。これほどの戦闘描写が書けるのか、と唖然としたのを覚えている。 ふり返る。楊令。済仁美に庇われるようにしながら、顔だけこちらにむけていた。眼が合った。笑いかけようと思った。笑えたかどうかは、よくわからない。父を見ておけ。その眼に、刻みつけておけ。格好いいと、もう何回書いたかも思い出せないが何回でも書こう。格好いいぞおおおおおどいつもこいつもかっこいいぞおおおお。しかも信じられないぐらいに。一人一人が、かっこいい。こんなのが108人もいるんだから恐ろしい話だ。この話の中では、闘う相手にも家族がいるんだ、とか戦争はいけない事だ、とかいうそういう偽善的な話は、一切出てこない。どれもこれも志を胸に、誇りを胸に闘うだけだ。その一貫した姿勢が、心地良い。 「われらは、この山寨を死守する。それが、総隊長へのはなむけではないか。総隊長に鍛えられたわれらが、ここを守らずして何とする。耐えろ。耐えて、耐えて、桃花山の土になれ。ひとりひとりが、その気持ちを失わずに、ここで耐えるのだ。俺を、信じろ。俺を信じて、『替天行道』の旗のもとで、懸命に闘え。じっと耐えるのも、敵と斬り合うのも、同じ闘いだ。斬り合うときは、俺が命令を出す。わかったな」 叫び声に近かった。涙は、まだ溢れ続けている。兵たちがどよめき、声をあげはじめた。それを手で制し、周通はさらに大声をあげた。 「われらは、梁山泊の一党。義によって、官軍と闘うために立った。その時から、命は捨てている。いいな。どれほど苦しくても、梁山泊の誇りを忘れるな」
2008.07.30
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水滸伝が 面白すぎて 読むペースと感想を書くペースの釣り合いが取れていない件について。感想 ネタバレ有そろそろキャラが多くなってきて、どれがどの勢力だかわかりづらくなってきた。しかし、一瞬わからなくなるだけで、少しでも読めば、ああ、あそこにでてきたあの人か、と思いだせるような書き方になっている。さりげない心づかいがうれしい。というか面白い。やばいこれ。ナニコレヤバイデスワヨ。激動の展開の5巻に向けての、準備の巻だったという印象が強い。まぁこれほど長い物語だ、そういう巻もあるだろう。ただその分しっかりと「志」各人が闘う理由が書かれていたり、さらに新しい人間が追加されたりしている。それにしても王進システムが人間リサイクル機関ならば、宋江の旅は人材発掘隊だな。旅に出る理由は苦しい気がするが、どう考えても108人の人材を都合よく発掘させるための旅だろう。読んでいて気付いたが、次の巻で壮絶に活躍するやつは前の巻から念入りに伏線が張られているか、大量に描写が入る。楊志しかり、林冲しかり。ただこれに気づいたのがいい事だったのかはたしてネタバレ並にひどいのかは少しわからないが。もう何度も書いたが、本当に一人一人が格好いいのである。もうこれでもかっていうぐらい。雷横とかいう脇キャラがこんなに格好いいなんて思わなかった。雷横が部下と一緒に逃げて、部下との深いつながりを示したシーンはボロボロ泣いたような気がする。(おい) 今ぱっと読み返してみても、あまり感動はしないが、流れで読んでいったときに雷横と部下との関係がキレイすぎる。汚いものなどなにもない。そういえば北方水滸伝の、梁山泊108人、誰ひとりとしてつまらない人間がいない。現実ならば、割と性根の腐った人間もいそうなものだが、一人一人が圧倒的なまでの信念を持ってる。命乞いをするような人間が、一人もいない。そういった弱さ、というものを完全に排除しているのか。 「老いとは、孤独なものなのですよ、宋江殿。出来のいい息子がいようが、やさしい娘がいようが、同じことです。ひとりで土に還る時を、待つ日々なのですから、その時、癒してくれるものを持つのは、その人の人生が豊かという事にならないでしょうか」ふーんとおもったけど自分老いた経験がねえからわかんねえ!あと40年ぐらいしたらわかるかな?でも確かに、60や70になって、死が射程距離に入ったら、本当に孤独な気がする。異邦人でムルソーが、死刑宣告された時に来た救いを説く神父に怒りをぶちまけたみたいに、死のうとしている人間に救いなんて何の意味もないのかもしれない。本質的に孤独っていうのはそういう事か。その時に死の恐怖をやわらげてくれる何かがあったら確かに人生は豊かといえるかもしれない。 「自ら死のうなどという気はない。しかし、志のために私は命をいとうべきでもない」宋江のセリフ。今のところまだ死んでいないが、いつか死ぬのは確実に思う。林冲が死ぬのを望んているような描写が大量に入るが、宋江も負けてない気がする。周りの人間が囃したてないだけであって。ただ確実に立派な最期を遂げるだろうという事がこのセリフから伝わってくるだけだ。それだけはわかる。きっとそういう誰もが期待して、当然そうなるだろうという王道をどうどうと突っ切ってくれるから最高に面白いのだろう。次への準備の巻という印象が強いが、主役をあげるとするならば間違いなく穆春と李俊だろう。この二人の見せ場は異常にかっくいい。 「おまえらの命、この李俊が預かった」 山寨に、百名のあげる声が谺した。嫌が応にも燃える。かっけええええとがっつぽーずしたまま壁にぶつかっていきそうな気分だ。この巻あたりから、死ねば土に還るだけ、というフレーズが増えてきている。後々重要になりそうな感じである。良く覚えておこう。
2008.07.28
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感想 ネタバレ有もうネタバレ無で書くような事が無くなってしまった。というか、特にここでもふれることはないのだが。でも書く。というか面白すぎてどんどん先に進むものの、こっちを書かないでいると内容が全く思い出せない。今読んでるところならわかるんだけれども・・・。三巻はどういう内容だったっけ?そういえば三巻の最初は、役人が腐っていた。という一文から始まるのだった。まだ読み始める前に、何故か三巻だけ、ちょっと読んでみたのだが、役人が腐っていた。という簡潔な単純明快なはじまり方に惚れたのだった。それから帯があまりにも格好よかったのもある。7巻だか8巻だかの帯のセリフ、死ねば土に還るだけ。どこからでもいいぞ、かかってこい。とか死ぬほど格好いいじゃないですか・・・ていうかそんなセリフまで到達したら泣く。ちょっと先まで読んだからわかるのだが、何気なく起こる、イベントが一つ一つ、あとになって重要な意味を帯びてくる。いったいどれほどの考えを巡らせて、どれほどの筋道を考えて、矛盾がないように行動を一つ一つ選択させているのかと想像すると絶句しそうになる。とにかく無駄というものがない。だから読んでいて楽しい。そういうものだ。たとえば石秀の一つ一つの行動であったりさりげないセリフが未来に起こる事の伏線だったりだ。晁蓋と呉用の会話が格好いい。「酒なら、これからも付き合おう。お前の夜だけが、長いわけではない」二人の思い出話ががががが。晁蓋はこういう男だ、というのがさすがに三巻ともなると味が出てくるというかなんというか。なるほどこういう男か、という納得がやっと出来るようになってくる。長い付き合いになるのだから把握も頑張らないといけない。宋江と晁蓋、いっけん相反する二人というところが、組織というものでは重要なのだろうと思わせてくれる。ガンダムを作った富野さんも、ガンダムを作った主要メンバー3人は仲がわるかったからうまくできた、といっていることだし。といっても水滸伝の二人は仲がいいが、中身が正反対という意味ではある意味あたっているであろう。王進と史進の関係性が最高すぎる。どれだけ慢心して、強さにおぼれても王進だけには素直な史進を読んでいて感動すら覚える。二人の絆の強さが見えるシーンだった。二人が再び出会うシーンは。「棒術の強さなど、人間の強さの中では小さなものだ。それをすべてと考えているから、おまえは幅の狭い男になった。なにが真実なのか見えぬ、濁った眼しか持たぬ男になった。おまえに、もうひとつだけ教えておけばよかったと思ったのは、強さがすべてではないということだ。棒術の強さがすべてというなら、世の人はみな棒を持っていなければならぬ。現実には武松のように拳を武器にしている者もいれば、魯智深殿のように懐の深さを武器にしている、棒では打倒せない男もいる」かっこいい男だ、王進。この男が無様に命乞いをしている姿を全く想像できない。またしても、ここで修行を積むことになった史進だが、きっと戻ってきた時は想像を絶する深みと強さをかねそろえた陽志のような男になっているであろう。それにしても王進システムがまるでポケモン育て屋さんみたいで少し笑ってしまった。 「所詮、強いやつに弱い者の思いなど、わかるわけがない」 「俺も、弱い」 「それでか。棒を、拳で打ち砕いてしまい様な男でさえか」 「そうだ。弱い」 「では、私は弱くさえもない。この山寨に入ったとき、強いものがいて、その下で闘えばいいのだと思っていた。ところが、私が一番強かったのだ。わかるか、その時の驚きと恐怖が。私は、さまざまなことを考え続けてきたが、闘えばみんなを死なせる、というところにしか行き着かなかった。闘いで人が死ぬのは当たり前としても、むなしく死なせたいとは思わなかったのだ」私は弱くさえもない。ずしんと来た。対して重要じゃないこんなキャラのセリフでずしんと来た。人は誰でも弱いと自覚した時にまた一つ成長するというが、無知の知というやつか。しかし弱くさえもない、というセリフを読んだ時の衝撃は本当に忘れがたい。しばらく頭の中でセリフが反芻されていた。それほどの衝撃だった。大したことがないように、あとから読み返したら思うかもしれないが、何故これ程、衝撃をうけたのか・・・。武松が自分の事を弱い、と断言して憚らないのにまず感心して、それを即座に受けて弱くさえも無いと自分の存在をすぐに認められることのできるというそこに感動したのかもしれない。はじめから勉強ができたやつに、勉強が出来ないやつの気持ちはわからないという話があるが、強い、弱いという次元での話ならば、最初から強かった奴なんていないだろう。宋江の嫁と宋清の嫁が死んでしまうが、あまりにも自然に受け入れてしまうというのが、宋江の志、覚悟を表しているのか。晁蓋といい宋江といい、度量の広さを見せつける描写である。この二人が今後どうなっていくのか目が離せない。
2008.07.27
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感想 ネタバレ無相変わらずぶっ飛んでる北方水滸伝。途中で読むのをやめるという事が出来ない。とにかくぶっ飛んでいる。面白さ限界突破という感じ。というか、別に巻ごとに、特に大きな区切りが無いわけだから、読むのをやめるわけにはいかない。読み終わるまで進み続けるだけである。巻が変わっても変わらぬ世界がそこにあるというのは新鮮な喜びだ。やはりこの巻でも数々の名場面がああ。やばいやばい。鳥肌物。この巻で陽志が出てきて、物語も少し、動きだす。梁山泊の主力メンバーも次第に集まってくる。さらに王進システム。というかこのシステム、なんか真面目にアホな事やっているような面白さがあって笑ってしまうのだがどうもおかしいような気がする。読み方間違ったかなぁ。でも王進の凄さが、巻が進むごとにだんだんわかってくる。最初から凄い凄いとは書かれていたけれど、あぁなるほど、というように吸収されていく。話の流れとしては、梁山泊を手に入れるための数々の行動というところか。もちろんそれだけではないのだが、何分一巻ごとに語るような本ではないような気がする。全部読み終わってから総括、という風にすればよかったのかもしれぬが、忘れてしまうというのはどうしても避けたい。ネタバレ有白勝が林冲と安道全に感謝するシーンは号泣物。ていうか、こんな小物の盗人一人にさえ確かな志が根付いているというその一事をもってしてすでに号泣出来る。 「あの二人がいなけりゃ、俺は死んでた。いや、一遍死んじまったんだ。手癖のわるいところなんか、きれいに治っちまったもんな」 「わかったよ、白勝さん」 「いや、孔亮、おまえにゃわかってねえ。俺は滄州でしばらく動け無くて、その間に、安道全も林冲も行っちまった、追ってみたが、山寨の中だってよ。安道全は、兄弟以上なんだ。林冲は、血を通い合わせた友だちなんだ。山寨にいるなら、俺も山寨に入りたい。そのために、みんなに信用される仕事をしなけりゃならなねえんだ。志なんか、くそ食らえなんだよ。それが恥ずかしいとも、俺は思っちゃいねえ」白勝は自分には、志がないといっているが冗談じゃねえ、これが志じゃなくていったい何が志だ。格好良すぎる。2巻一番の名場面といってもいい。晁蓋と宋江の二人共、タイプは違えど担ぎあげられるだけの強さが存分に書かれている。1巻で、林冲一人信じられないで何が志だ、と言って拷問にかけられている林冲が秘密をばらすと全く思っていないその胆力に圧倒された。 「会いたいと思った。思ったら、林冲は必ず来るという気がした。だから、夜明けに家を出て、ここで待っていた。おまえは、私に待たせる資格がある、数少ない男のひとりだ。会いたいと思って待っていれば、必ず会えるのだと、おまえが駆けてくるのを見て、本気で思ったぞ」ここで突っ込むべきなのは、来ると思ったから待ってるって、お前エスパーか何かかよっという野暮な突っ込みではない。自分勝手に解釈して、宋江を格好いい男に仕立て上げるのが本当のやり方じゃ。つまり宋江はたまたま今回だけ立っていたわけじゃなくて、会いたいと思った時は毎回立ってたんだよ!つまり今まで何回も不発させておきながら、それをみじんも感じさせない宋江超格好いい。この二人の絆には何物も阻めねええ。1巻の時点で林冲は何故こんなひどい拷問にあわせられながらも、何もしゃべらないのだろうと疑問に思ったが疑問は愚問であった、信じられる強い絆ってのをまざまざと見せつけられた気がする。どう考えても最強なのはこの二つの場面だが、さらに上げるとすれば王倫を殺したシーンか。あれはやばかった。まぁなんだかんだいって、このストーリーに出てくる登場人物は敵であれ味方であれ小物であれ全員格好いいという事を再認識した2巻となった。
2008.07.25
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あらすじ十二世紀の中国、北宋末期。政治は腐敗し、民は苦しんでいた。腐敗した政治を倒そうと、志を胸に漢達が立ち上がった。感想 ネタバレ無お、面白すぎる。20巻もあるというのに(文庫で)1巻だから、まぁまずは各キャラクターの顔見せとかかな、なんていう軽いジャブじゃない。ド真ん中ストレートで1巻目から最強に面白い。死ぬ前に読めて良かった。20巻てよく考えてみればラノベでもそうそう20巻続いてる作品なんて無い。しかもそのあとにもまだ話が続いているという。というかそもそも水滸伝という話を、ジャイアントロボでしか知らない、ていうかまったく知らない状態で読み始めたのだがまさかこれほど楽しめるとは思わなんだ。読む手が止まらない。というか巻が変わっても止まらない。ぐいぐい引き込まれる。これからこのブログは北方水滸伝に埋め尽くされるであろう。これから20巻も、北方水滸伝の世界に浸っていられるのかと思うと心が躍るわ。すでに手元には20巻分の北方水滸伝がある。あるいは途中で止まるかもしれないが、読むのが楽しみである。しかしただひとつ重大な欠点があるとすれば、7巻だか8巻の帯で壮大なネタバレを喰らった事だ。恨んでも恨み切れない。なんというネタバレ・・・。たいていのネタバレは笑って許せるが、許せないネタバレというのもこの世界には存在するのだ。しかも帯に書くとか・・・。さきに帯を読んでしまった自分が悪いのか。内容的には、やはり一巻だけあって、まだ大きな物語の断片が語られたにすぎない。林冲や魯智深、史進など、のちのち活躍していく人間の運動の始まりが多少語られているにすぎない。ただ一巻の時点でほぼ50人近くの人間が登場している。やはり重要な巻なのだろう。何より凄いのはどの人物をとってもつまらない人間がいないということだ。どの人間の視点になっても面白くて仕方がない。人間が増えれば最終的に100人を超す事になるが、それによる不安が全く湧いてこない。素晴らしい実力で書いていると感じる。というかそのすさまじさに声も出ない。読んでいて、あまりの凄さに芯から何かが込み上げてきた(言いすぎ)むやみやたらにほめても凄いとしか書きようがないのでポイントを押さえてみようか。まず第一に、数多くの人間が出てきているのに、つまらない人間がいない事が凄い。どの個人も機能的に生きている。作品の中で。というかみんな格好よすぎる・・・。思わず、か・・・かっこええと独り言を言うぐらい格好いい。第二に、戦闘描写が思わずみいってしまうほどわかりやすく、伝わってくる。みいるというのは誤字ではない。本当に情景が頭の中に浮かぶだけじゃなく、間というものまでも伝わってくる。つまらない戦闘しか書けない人間が書いたものを読むと、経過はいいからもう結果だけ書いてくれればいいのに・・・といつも思うのだがむしろ結果はいいからずっと闘っていてくれればいいのに・・・という感じである。第三に、単純ながらも魅せ方がうまい。強さを示すためにわざと弱いやつと闘わせたり、人間性をみせるためのイベントを設置したりと単純だが、だからか普通に響く。第四に、リズムが崩れない。20巻もの長大な物語を書くというのに、そのリズムが一定してみだれない。あいにくまだ全部読んだわけではないので20巻最後まで全くリズムが乱れていないのかどうかはわからないが、3巻まで読んだ感触だとこの先もリズムは乱れないのだろうと思う。あるべき結末に向けて着々と進んでいる印象を受けたあげればきりがないのでこれぐらいで。凄まじい小説だという事は繰り返し述べていきたい。ネタバレ有王進の漢っぷりに泣いた。内へ内へ向かうというのも別にわかるわけではないが、きっとこういうものだろうというのも、想像出来る話だ。親を大事にしている登場人物ばかりで心が痛かったりもする。それにしてもここで目指している民が普通に笑っていられる世界っていうのは、今まさに日本の事だろうなぁと思うと少ししんみりだ。シュルレアリスムとは何か、で理想郷とはそのまま日本の事だ、という言葉があったが言われてみればそういう気もする。今の日本を目指しているわけではないだろう。もちろん。ただこの状況を脱した後に待っているのも、日本のような状況だと考えると少し悲しくなってくるものがある。王進と史進も最初の対決は本当に良かったなぁ。格好いいという他ないし、王進の強さが存分に書かれていた。個人個人も水滸伝の大きな魅力かもしれないが、その実、一番の魅力は登場人物の多さによる、関係性の多さかもしれないと読んでいて思った。王進と史進。史進と盗賊3人衆。安道全と白勝と林冲。その他いろいろな関係性がある。そしてそのどれもがどうしようもないほど格好いい。これほど関係性というものを意識したことはなかった。それはやはりこういった多数の人間が入り乱れる小説でしか生まれてこないものだろうか。ともおもったがどこを重視するかによるのだろう。王進システムはいいなぁ。もはやシステムになってしまっている。それから、どの場面のどのセリフをとってもほとんど無駄なセリフというのがないせいか、どこを読んでも、みんな志というものを持っているのだなと意識させられる。書いている意味がわからないが・・・。なんというか芯というか、筋というか、キャラクターの中に存在する真中のものが設定されている、と読んでいてわかる。作者がそういう風に考えて書いていないと、伝わってこないだろうし、そもそもかけないだろう。好きなシーン史進と王進の別れのシーン。お前と私が別れても、お前の心の中に私は生きている、とか王進じゃなきゃ言えないぜ・・。鮑旭が、王進と王進の母に人間のように扱ってもらえて、うれしくてやべぇ!となっているところ。ほんと王進格好いいな。それから、安道全が白勝と林冲のことを友と認めて、死にそうになっている白勝をなんとしてでも助けようとして雪の中手術するところとか、というかその一連の流れ全部だ!やばすぎる。面白すぎる。こんな感想書いている暇も惜しい。さらばだ
2008.07.24
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感想 ネタバレ有む、難しいぞおおおお。サイズの生物学、ということで単純に時間だけをとりあつかったものではなかった。純粋に、大きい動物でも小さい動物でも一生の心拍数は同じなんだぜ、へへんっていう小賢しい知識の補強でもしようかと思い(純粋じゃない)読み始めたのだが、読み終わった今、自分の中に何か知識が残っているかといえば怪しいものだ。ちょっと思いつく限りにあげてみよう。ヒトデとかはなんか切り離せる自切とよばれる組織がある。ナマコとかは肺を吐き出して新しい肺を作る事が出来る(気持ち悪い)サイズの大きい動物は、大きいだけに安定度を失っている。逆に小さい動物は安定度が強い。だから高い所から落とされてもなんともない(100g以下限定)本来、大きい動物も小さい動物も、外敵から身を守るために仕方なく変化した形である。よってもし外敵がいない場所で暮らしていけるならば、進化の過程でだんだんどちらの動物も中庸の大きさの動物に変化していく。昆虫はなんかよくわからんが凄い人間はほかの動物と空間にしめるエネルギーとか身体の大きさから占めるエネルギー量をやばい程オーバーしている。これだけかな。思いのほか残っているじゃないか。一週間後まで残っているかどうかはわからんが。だからこそこうして書き遺しておこう・・。あと面白いな、と思ったのはこの上で書いたような、大きい動物も小さい動物も外敵から身を守るために仕方なく変化した形というところだ。これを島の規則といっており、日本とアメリカもこれで説明するとよくわかるという。 島国という環境ではエリートのサイズは小さくなり、ずばぬけた巨人と呼び得る人物は出てきにくい。逆に小さい方、つまり庶民のスケールは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。「島の規則」は人間にもあてはまりそうだ。何も日本の過去の大人物たちをけなしているわけではない。ただ、傾向としてこういう事があるというだけだ。カラオケなども、日本はプロは別にうまくないが、一般人がみんな歌が上手いという(関係あるのか?) 大陸に住んでいれば、とてつもないことを考えたり、常識はずれのことをやることも可能だろう。まわりから白い目でみられたら、よそに逃げていけばいいのだから。島ではそうはいかない。出る釘は、ほんのちょっと出ても、打たれてしまう。だから大陸ではとんでもない思想が生まれ、また、それらに負けない強靭な大思想が育っていく。獰猛な捕食者に比せられるさまざまな思想と闘い、鍛え抜かれた大思想を大陸の人々は生み出してきたのである。これは偉大な事として畏敬したい。しかし、これらの大思想はゾウのようなものではないか? これらの思想は人間が取り組んで幸福に感じる思考の範囲をはるかにこえて、巨大なサイズになってしまっているのではないのか?人間にも適切なサイズの思想があるというのは非常に興味深い話である。利己的な遺伝子でもいっていたがミームともつながってくるような気がする。情報や思想というのも生き残りをかけて、少しでも長く生き残ろうとするのだ。それが、大陸のような広い場所だと競争相手が多数おり、生き残るために強靭な思想にならざるを得ず、それ故に大陸の思想は太く死にづらくなっていくのではないか。読んでいて思ったのはほかに、昆虫って凄いな、という話だ。まず飛べるのが凄い。あいつらおんな硬い殻に覆われていながら空を飛ぶ事が出来る。恐ろしい奴らだ。しかもやつら葉っぱを食う。誰もそんなものくわないのに。しかもあいつらなんか変身する。蝶とかに。やばい。なんだか虫に惹かれる人たちの気持ちが少しだけわかったような気がする。大嫌いだけど。
2008.07.23
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あらすじなんか忍者出た。感想 ネタバレ無最初の20ページぐらい、微妙な違和感を覚えていたがそれ以降は、ちゃんとしたブラックラグーンとして読む事が出来た。多分最初の20ページで違和感に感じたのは単純に、媒体が変わったことによるズレの修正にかかったページ数というだけだろう。とりあえず何が言いたいかというと忍者が出てきた忍者が。しかも滅茶苦茶おいしいキャラだった。ただひとつ残念な事があるとすれば、ひょっとしたら小説版で忍者を出してしまったばっかりに、広江さんが本編で忍者を出せなくなってしまうのではないかという事だけだ。あるいは小説版のキャラを登場させるという選択肢もあるかもしれないが、広江さんが自分で考えだした忍者をブラックラグーンの世界に登場させてほしかった。何しろ自分、小さい頃は忍者が好きで好きで将来は忍者になろうとおもっていたぐらいだ。戦隊物の忍者のやつをみたせいでもあるし、ピザを食う亀にはまったからでもあるのだけれども。NARUTOも始まった当初は興奮したものだが最近は何だかよくわからなくなってしまった。忍者が出てきたというその一事だけでこの小説の評価は自分の中で2階級特進である。しかもカマセではない。ネタバレだが。それから単純に話は面白かった。小説版、ブラックラグーンの体裁を完全にまっとうしている。シーンの格好良さだけじゃなく、微妙な人間ドラマまで魅せてもらえるとはおもわなんだ。それから信じられないネタキャラが忍者のほかにもう一人いた。笑わせてもらったな。こうして考え直してみれば笑って、漢泣きして、およそ自分がライトノベルに求めているものを完璧に満たしてくれたような気がする。ほめすぎだろうか。ただ色々やってみせたせいか、全体的にあっさり感が漂っているのは仕方のないことなのだろうか。どれもこれも中途半端とはもちろん言わないが、どこか一点に絞って書いてみてもよかったのではないかと勝手な事を書いてみる。いろんな展開がいちいちあっさりなのだ。ネタバレ有スタニスラフの最期 「なら、故郷から北風だ・・・・・アカマツの・・・・匂いが、する・・・」風を読むことで生きてきた男の最期が、滅茶苦茶格好いい。思えば昔から人の最期は自分の故郷を思い出すというパターンが多い。このラストシーンは映画、ブラッドダイヤモンドを連想させた。死ぬ時に思い出す故郷がない人間は、悲しいだろうか。でもよく考えたら故郷というのは、何も土地だけじゃないものな。母親だって恋人だって自分が一日しか滞在してない土地だって、自分が故郷だと思えば故郷か。それにしてもスタニスラフは本当にいいキャラだったなぁ。面白いだけなら忍者にアルティメットクールさんがいるからいいとして。最初のあのへろへろのひでぇ状態から、あそこまで株を持ち直すとは思わなかった。 「こんな私が柄にもなく、あの素晴らしい夕陽をもう少し眺めていようと思ったのさ。それほどに嬉しかった。心に祝杯を掲げたよ。何せ彼は来なかったのだから」 「彼は屈服による安寧よりも、闘争の継続を選んだ。地獄の底の袋小路で、なおも不屈という在り方を貫いた。彼は紛れもなく我が同胞だ。今なお我々と同じ魂で、血染めの夢を見続けている。・・・・ ああ、今ようやく私は再会の喜びを噛み締めているんだよ。彼とはしばし道を違えて、互いの立場に齟齬が出た。ただそれだけのことでしかない。我々は今また同じ夢を見て、同じ道に殉じようとしている」 「だから、譲らん。彼の望みも、彼の渇きも、私が満たす。私が彼を祝福し、彼の夢を埋葬する。──なあ張、最低の腐肉と貴様はいうがな。我らにとってはこれが極上の晩餐だ。私も、今ここに理想を遂げんとしている。戦い抜いて果てるという意地を」格好よすぎるだろ・・・。村上春樹の羊をめぐる冒険のねずみのセリフを思い出した。僕は僕の弱さが好きなんだ、誰にも渡すつもりはない、みたいなセリフだったんだが・・・。それがこの、中身の良さとかは関係無しにただ格好いいというスタイルが完全にブラックラグーンだな、と感じる。それからバラライカが我が遊撃隊にはたった一人の裏切り者も絶対にあり得ないと断言して、だからお前が犯人だと突き付けるシーンは漫画にしてもアニメにしても最高に格好いいだろうなと思った。もちろん小説でも。それにしても忍者だ。忍者の容姿が、日本人っぽいスラっとした細身で俊敏な動きが可能そうな忍者を予想していたのだが、イラストは滅茶苦茶ごついわ顔も異常にごついわでなんだか無性に悲しくなってしまった。それにしても忍者、おいしすぎるのである。神出鬼没だわ強いわ生き残るわ。これはもう再登場を期待するしかないのである。漫画か、あるいはノベライズ第二弾か・・・。しかしノベライズを虚淵玄に任せたのは全く最高の判断だったと、読み終わる前から思っていたし、読み終わった後もその気持ちにみじんの揺らぎもない。Fate/zeroといいブラックラグーンといい、ノベライズしか出していないのが気になるが、それ故にノベライズ特有のやり方、空気というのもわかっているのが虚淵玄なのであろう。全くいい作品であった。2008/7/20
2008.07.21
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感想 ネタバレ有無いわー。確かにいろいろな所から情報を集めたのは確かなのだろうが、その集めた情報を自分の都合のいいところで自分の都合のいいように出してあるべき結論に持っていこうとするような論調にしか感じられなかった。まぁよく考えたらそうやるのが普通にどんな場合でも、常套手段というか普通のことだったのだが。それでも男は~~~風に考えるものなのです!と断定口調に書かれている事のほとんどすべての事が自分に当てはまらないのはどうかと思った。むしろ女の特徴にあてはまるぐらい。中には例外もいるよ、ってことなのか?男は車の運転が得意だとかいうけど、自分なんて車の免許が取れた事が奇跡的なぐらい運転が下手だし....およそ男に関する情報が自分と全く当てはまらないので、同様に女性に対する情報も全く信用できなかった。確かに世間一般にいる人間を一列に並べて、平均化したらここで書かれているような女性が浮かび上がってくるだろうが、いったいそれに何の意味があるんだ?また各章ごとに、問題とその解決策が提示されているが、言われなくてもそれぐらいわかるわ! と怒鳴りたくなるようなチンケな解決策ばっかりだ。しかも世の中の男は、みんなそんな解決策ぐらい知っているうえで、その解決策をとれないから悩んでいると思うのに・・。男はチャンネルを変えるとかいう、局部的な話もわからんしな。チャンネルなんか変えないわ・・・。むしろ変える人間をみると、何でそんなにチャンネルを変えるんだろうという気分になる。ことあるごとに、男は昔狩りをしていたから脳が~とかいうが一体どれほどの核心があってそんなこといっているんだ?チャンネルを変える男に対する対応策 チャンネルをしょっちゅう変える男には、いらいらするからやめてくれと冷静な口調で話をする。それでも効果がなかったら、リモコンを隠すか、自分専用のリモコンを持つか、テレビをもう一台買う。それができねーから困ってるんだろうがバカ野郎。それぐらい誰だってわかっとるわ・・・!男は道に迷っても素直に尋ねられないという話があったが、少なくとも自分の周りに居る人間にそんな男は居ない。あるいはこれは日本では全く受け入れられない話なのだろうか?でも前作の地図が読めない女とかいう本は日本でもうれていたみたいだから、日本でも受け入れられているのだろうか。本能的に厭な行為を、あなたのずっと昔の先祖から続いてきた本能的な嫌悪感です、原因はあなたの脳ですと説明されても、だからなんなの?という。この本を読んで男と女が理解できたっていう人間は多分全然理解出来ていないと思う。知識と知恵の違いを例にあげるまでもなく。普通にいろんな人間と付き合っていく中でわかる事ばかりだ。ただ、だからといって全く面白くないわけではなかった。最初の方は確かに楽しめて読めていたような気がする。後に行くほどくどくなり、同じ事を同じ方法で繰り返すので飽きてきて最後の最後はもう何の意味もない文章だからと読むのをやめてしまう。ジョークは面白いし、男と女の脳の違いによる判断の違いを説明されるのも、まるで無意味ながら少しは面白かった。何しろここに書かれている脳の違いというのは、勉強が嫌だと言っている人間に向かってそれはあなたの脳のせいだ、といっているようなものだ。そんな事言われたってどうしようもない。 今朝、妻の母親がうちに来たんだよ。と愚痴のところで「しばらくここにいせてもらえる?」と聞くものだから、「もちろんですよ、お義母さん」と答えてドアを閉めたよ。
2008.07.20
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あらすじ喰らえー!ひっさつ魔剣七式ー! ちゅどーん!感想 ネタバレ無思いのほか面白くてびっくりした。タイトルを見ても絵を見てもプロローグを読んでも全く期待できなかったのに!最初っから最後まで混沌とした内容を貫きながら最後は最後でやってくれる。内容があれなのに、現代版文学というか、ライトノベル版文学的テーマの追及みたいなひどい有様。しかし面白かったぞー!穴があったら叫びたいものだ。またしても脇役の姉貴が一番好きなキャラだ。何だか自分の好きになるキャラクターの傾向が分かってきた気がする。最後はうまくまとまったかと思いきや最後の最後まで混沌としていた。もう全く混沌としていた。中盤までは笑わせてもらった。何だか、オチがうまくついて笑うというよりも、全体的に蔓延した笑いの空気にやられた。にやにやしながら読んでいたような気がする。これを本人が言うように学園ラブコメとして売りだしたらいろんな人が怒りそうな気がする。厨二病と言われる設定を逆手にとってネタにしてしまうとは・・。しかもそれで一本長編を書きあげるんだから凄いという他ないな。タイトルからしてすでに痛々しすぎる。これはひどい。思わず買うのをためらってしまうレベル。ただそこを乗り切れば何か別のものが待っている・・!はず。ネタバレ有異常にテンションの高い自称戦士達が、普通人たちによっておかしいことを指摘されているところは全く胸が痛い。普段元気のに突然しょげてるのが痛い・・・心に突き刺さるぜ・・。 黒歴史と呼ばれるようなものは意外や意外、もっていないがあるいは今現在黒歴史進行中なのかもしれないがえてしてそういうのは進行中の時は気がつかないものである。実際そんな人間がいたら、事実を突き付けていう方が一番つらい気もするが。現実にこのクラスにいるような人間がいるはずもないが、まぁ事実は小説とは奇なりというぐらいだし、案外いるのかもしれないな。自分が通っていた学校には一人もいなかったが。イジメも無い学校だったので全く平和な学校であった。もちろん感知していないところでイジメぐらいあったのかもしれぬが。最後クラスのほぼ全員が厨二病に感染するのも、なんだかノリのいい昔の学園モノのノリみたいで楽しかった。頭の片方でねーよ!と思いながらもそれもあるあると思うようなそんな絶妙の間。小説を読むと、批判される場合どこが批判されるかがなんとなくわかるのだが、この作品だとわからんな。全部批判する人か全く批判しない人の二極化になりそうだと勝手に思った。この普通になりたくなくて、社会に適応できない人間はどこで生きていけばいいのか、人の輪の中に入っていけない人間はどこに逃げればいいのか、みたいな問いはずーっと繰り返されてきたテーマだよなぁ。人間失格とかもそうだし。田中ロミオ版人間失格なんていったら噴飯ものだが。 「わかるよ。くっだらねーよなぁ。学校とかほんとくだらねーわ。いいこともあるけど・・・・・・悪い事はその数倍もあるよ。けど考えてみろよ。この魔法も植物もいない世界には、敵だけはいてくれる。闘い放題だろ。・・・・・まあ、見えない敵ばっかりだけどな」この答もまた色々な作品で言われセリフをかえ中身をかえ状況を変え本当にいろんな場面で言われてきた答えだよなぁ。考えてみればこういう、答えの出ない問いみたいなのに対する答えなんて、がむしゃらに前に進め、しかないわけであって。ただこんなやり方でそれを見せてくれる、っていうところがやっぱり面白いわけで。
2008.07.19
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あらすじ乙一の日記感想 ネタバレ有はげわろた。まさか日記ごときにこれほど笑わされるとは思わなんだ。読み始めた時は、っは なにくだらないことを書いていやがる、ぐらいの心持ちで臨んだのに3分もしたらその決心は砕け散っていた。それにしても読み始めてから少しの間、これがうそ日記だという事に気付かなかった。特に最初の第一部、愛知編に出てきたA君の存在がウソだったというのは、読んでいた自分を戦慄させた。特にウソをつく必要のない場面でウソをつくのは卑怯である。まったくもって疑う事が出来ない。CDショップから流れる音楽があまりにもうるさいのでCDを取り換えたという話も明らかにウソだが面白い。というか、自分はこうやって面白かったところを一つひとつ取り上げていって、このエピソードが面白かった、あのエピソードが面白かったと延々と語りつづけるつもりなのだろうか? それは避けたいところである。最初は面白いと思ったところを折っていたのだが、20ページを超えそうになったところであきらめた。こんなに引用ばっかりしていたらいくら個人ブログといえど非難GOGOである。一つ一つの話にオチがついていて、よくこれだけ考えつくなという感心。いやしかしこれは読まないとわからないな。あまりにも影響力が強すぎて、自分もうそ日記を始めたくなることうけあいだ。しかしもちろん、これほど面白く書けるはずもないので書いているうちに、自分の力量の低さに恥ずかしくなって途中であきらめることもうけあいだ。でもこの日記冷静になって読むと相当恥ずかしいかもしれない。それにしてもよく出版されたものである。本当に書く事がない。面白かったなぁーあははわらったわらった。としか書けない。まぁよく考えたらそれも当然なのだが。何しろ内容と言ったら全部ウソなので論議するようなことでもないし。面白かった所を一つ一つあげていったら日が暮れてしまう。結果何にも触れずにそっとしておくのが正しい選択肢なのだ。ひょっとしたらこれ、今まで書いた中で一番短い記事かも。さようなら2008/7/18 読了
2008.07.18
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あらすじ逃げろ!オズワルドにされるぞ!感想 ネタバレ無間違いなく面白い。全く無駄のない数々の描写に、圧倒された。これは伊坂だからという点もある。少しでも不思議な点、不自然な点があると期待してしまう。伊坂ならやってくれる──そのせいでさりげない描写でも伏線として機能して、のちのち生きてくる。あとやっぱりなんといっても会話が最高。こんな会話、伊坂にしか書けねえ。逃げろ!オズワルドにされるぞ でしびれた。何故か泣けた。帯に、現時点での集大成と書いてあるように、確かに伏線、会話、ストーリーとどれをとっても完成度の高さはほかの作品を圧倒しているように思えた。しかし作品自体の面白さが、他の作品よりも飛びぬけているかというかと、少し疑問に思ってしまうのが小説の難しいところか。ラストの終わり方に納得のいかない人も多いのではないかと想像する。それにしてもマスコミは酷い言われようだな。まぁそれだけの事をしているのであるが。序盤はスロースタートで、中盤から駆け足かな。加速していく。話がでかくなればでかくなるほど、ほころびもでかくなる。そのほころびを悟らせないようにするのが、作者の力量だと思う。そろそろさすがに、伊坂幸太郎がいつもあとがきでいっている現実とはかけ離れた部分が多い、という部分を読者に納得させられなくなってきたのではないか。ここがギリギリ限界点といった感じがする。正直いってラストああくるとは全く予想してなかった。やられた!っと言う感じだ。読み終わった後は誰かれ構わず、これを読め!とつきつけたい衝動に駆られた。そういえば伊坂幸太郎を好きだという人間はよく聞くけれども、嫌いだという人間をあまり聞いた事がない。何故こんなに伊坂が一般人に受け入れられるのか、感覚としてはわかるのだがうまく言葉に出来ない。信頼、というもののなんと美しい事よ。感想 ネタバレ有七美が最高すぎる。まさかラストも七美が持って行くとは。まさか真の主役は七美ではないか?ゴールデンスランバーの格ゲーが出たら間違いなく隠しキャラだな。間違いない。それにしてもドラマにしたらおもしろそうな話だ。何しろ派手なのがいい。ただ過去と現在が入り混じるのはわかりずらいから変えた方がいいか。それからラストで助けたアイドルが出てくるところ。今まで散々アイドルを助けたアイドルを助けた、って強調していたのも、やはり伏線だったのか。やはりラストは予想外な出来事で締めくくりたいよね。しかしテレビで散々犯罪者だ!と騒ぎたてられているのに、それでも犯人じゃないと信じてくれる人たちがいるっていうのは、なんて心強い事なんだろうと読んでいて思った。もちろん現実じゃそううまく行くはずもなく、息子はやっていないなんて主張をするオヤジがテレビで放映されたなんて話とんと聞いた事がないからな。あるいは、いたとしても映っていないだけか。人を信じる事が出来る奴は、人から信じられる事が出来るのかもしれない。 「俺なんて、ドストエフスキーのこと昔、刃物を持ったエスキモーだと思ってましたけどね。ドスとエスキモー」笑った。いったいどこからこんな発想が出てくるんだ。だいたいドスって日本語じゃねーか。 「すぐに返信しないタイプの子かもしれないっすよ。受信がうまくできなかった、とか。センター呼び出し、してみました?」 「俺がセンターだったら、激怒するくらい、呼び出したよ。メールはありません、って。こっちだってそんなの重々分かってるっての」アホすぎる。激怒するくらい呼び出したよってとこが滅茶苦茶面白いな。普通ここにこうやって改めて書くと全然面白くないような気がしてくるんだが、ドスとエスキモーも激怒するくらい呼び出したも全く色あせずに面白い。それにしても三浦のキャラがよくわからん。何の面白みもないキャラだったような気がする。確かにかなり役に立った事はたったのだが、印象が弱い。死んでしまったし。俺は犯人じゃない、と書いて車のサンバイザーに挟んでおいて、しばらくたって戻ったら、だと思った、って書いてあったとかいうところを読んだとき不覚にも泣いた。卑怯じゃろ・・・。 「名乗らない、正義の味方のおまえたち、本当に雅春が犯人だと信じているのなら、賭けてみろ。金じゃねえぞ、何か自分の人生にとって大事なものを賭けろ。おまえたちは今、それだけのことをやっているんだ。俺たちの人生を、勢いだけで潰す気だ。いいか、これがおまえたちの仕事だということは認める。仕事というのはそういうものだ。ただな、自分の仕事が他人の人生を台無しにするかもしれねえんだったら、覚悟はいるんだよ。バスの運転手も、ビルの設計士も、料理人もな、みんな最善の注意を払ってやってんだよ。なぜなら、他人の人生を背負ってるからだ。覚悟を持てよ」覚悟を持てよ──間違いなくこの本の中での1,2を争う名シーンだ。いったいこの文章を完成させるのにどれぐらいの時間をかけたのか。よく練り込まれていると感じる。名乗らない、正義の味方のおまえたちって格好良すぎるだろ・・・。大絶滅の感想でも書いたけれど、人を告発する事は誰だってできる。わかりやすい悪に向かって悪口をいい、正義の味方になることは誰にだってできる。それが問題なのだろう。まったくかっこいいぜオヤジ。それから最後のたいへんよくできました、か。やばいなぁ。白ヤギさんとかの話も伏線だと思ってたんだが大したこと無かったな。なんかまだ書いてない事があるような気がするけれどこのへんで。2008/7/16 読了
2008.07.17
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読書熱沸騰中、果たして何日続くものやら。あらすじ人間失格感想 ネタバレ無暗っこの話暗っ遮光カーテンとかで真っ暗にした部屋ぐらい暗いっ。読んで中断し、人と話してる間も何だか他人が乗り移ったかのように憂鬱な気分だった。人を憂鬱な気分にさせるとは恐るべき小説だ。しかし全く有用ではないな。ある意味こういった本を呪の本というのだろう。まったくひどい話だ。訴えたら勝てそうだぞ。勝てないけどよく本気は人に伝わるというけれどこういう負のエネルギーも本気と同じぐらい伝わるのではないだろうか。なんか死にてー死にてー言っているようなそんな負のオーラが近寄ってくる。まぁこれを書いたあとに太宰治が死んだからそう思うだけなんだけどね・・・。面白かったか?と聞かれたら多分暗かったと答えるだろう。多分聞いた方は怒るだろう。面白いかつまらないか聞いてるのに暗かったと答えられたら当然だ。まぁなんか面白いかつまらないかとかよくわからないけれどそういった方向の話じゃなくてなんか暗かったという印象しか残らなかった。斜陽と比べたら断然斜陽の方が面白かったが、どちらがより凄かったかと聞かれたらどちらか迷う。なんてひどい感想。何でこんなにこの主人公は暗いんだろう?と疑問に思う事が出来たらその人は恵まれているのだろう。ってことは自分、恵まれている。やったね!しかしもっと自伝的に書かれているのかと思っていたんだが、意外とそんなことなかった。むしろ普通に小説じゃないか。太宰の生涯を知らないと理解できないのかと思ったが、そんな事ないな。個人的にはストーリーというよりも、ところどころにある印象的なセリフを拾い読みするだけでも十分に楽しめる作品だ。もし仮に深く読みこんだとしても、太宰自身の生涯を考える事にしかならず、もう死んでしまった人間について考えるのも少々バカらしいものがある。それだったら上辺だけ読んであははーこの作品暗いねーとアホみたいに笑って読みたいものである。ネタバレ有 自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転転し、伸吟し、発狂しかけた事さえあります。天才は早死にだ。少なくとも30代手前で死ななくては天才ではないのではないかという勝手な持論を自分は持っている。もちろん根拠はない。なんとなくそう思っただけだ。アインシュタインだって長生きだしフェルマーだってニュートンだってみんなみんな長生きだ。考えすぎだ!多分伊坂の小説に影響を受けたんだな。確か登場人物がそう言ってた気がする。その時30手前で死んだ人間の例としてビートルズかなんかのバンドマンをあげていたな。そうか、芸術方面の天才か。なるほどなるほど。数学方面の天才しか考えてなかったぞ。うむむ。なんかいたかな、芸術方面。ピカソは長生きだしダヴィンチも長生きだ!なんてこった!もう知らんわ 女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。実はこの人間失格友人に借りたのだが、この部分に入念に線が引いてあって思わず笑ってしまった。そうかそうか・・・そんなにここが重要だったか・・。今度からそうしよう・・・。 用をいいつけるというのは、決して女をしょげさせることではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。ここにも線が・・・。勉強になります。太宰先生。まったく太宰先生の時代から女も男も進歩していないであります。それにしても本当に女によくもてる。何だか色々な感情が湧きあがってくるなぁこういうものを読んでいると。もやもやっと。何でそんなにもてるねん、みたいな。 ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違ってみていながら、無二の親友のつもりでいて、一生それに気付かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。それはそれで悲しいが、それがどうしたの?という感情が湧きおこる。死んだ本人が墓場まで持っていけば、その状態に何の問題も起こらない。むしろ自然な事だ。そんな事に一々矛盾を感じてしまうから、もちろん人間失格ということなのだろう。矛盾を矛盾として肯定できないと、矛盾だらけのこの世界で生きていく事は出来ないのだろう。それにしてもこの小説は、あとがきまで小説の一部なんだなぁ。あ、そういえば内容についてほとんど語っとりゃせんがな。こりゃまいった。なんか1年後には完全に内容を忘れてそうだからここに書いておかないと・・・。自殺に何度も失敗した人間の心理状態っていうのは、一体どういうものなのだろうか。いつだって死んでやる、というような心理状態っていうのは意外と何でもやれるのではないか、なんて当たり前の論理じゃなくて、自傷行為によって死ぬような気配だけを装って満足するとかいう底の浅い話じゃなくて、本気で死のうとして何度も助かるとしたらそれはいったい何がたまっていくのだろう。まぁ太宰が本気で死のうとしてたかしてないかなんて知らないし興味もないのだが。4回だか3回だか失敗しておいて、何を思うのか。意外と、次はうまくやるぞ!っていう前向きな意気込みだったりして、死ぬのに前向きってのもおかしな話だが。目標自体が後ろ向きなのに意気込みだけは前向きか、ちょっと面白いな。Funnyだ。2008/7/15
2008.07.16
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まさに「疾走」オーバードライブ!感想 ネタバレ無ラストまで駆け抜けた。なるほど、読むのが止まらないというのはこういう事を云うのだ、と読み終わってからしみじみと思った。今までも、よむのが止まらないという作品には何作も出会ってきた。その作品は面白かったから読むのが止まらなかったり、先が気になるから読むのが止まらなかったり、要するに理由があったような気がする。ただ、この作品の場合、作者の意図するままに操られて疾走させられたと、そんな気分だった。もちろん面白い、それに先が気になる。というかそれは凄い作品の必須条件であるように感じるが、それだけじゃなかった。面白い作品を書いたから結果的にそうなったのではなく、最初からそれを目指したら結果的に面白い小説になった、というのが正しい。うまく説明出来ない。最初の数ページでひきこまれ、ラストまで同じテンションを持続させ続けて読み切った。同じテンションでいられたのは特異な語り口のせいだろうか。常に同じテンションで、ペースで語られる故そのペースに、マラソンのペースメイカーのようにぴったりと歩調をあわせられるその感覚。ベルカ、吠えないのかの神視点を彷彿とさせる。素晴らしい。特に上巻の終盤あたりから最後までは、ほとんど休憩を挟まずに読み続けた。ラスト付近は涙無しには読めないだろう。もしくは、何かを感じたはずだ。あるいは嫌悪感かもしれないけれど。最後まで救いのない物語だった。あるいは人によっては、最後は救いや希望だと感じたのかもしれない。全編を通して聖書の言葉が引用されている。幸福とは何か、なんて面白くもない事を考えさせられてしまうぐらいには暗い話だった。それにしても、色々考えさせられる。はたして色々考えさせられる物語が、良い物語なのかどうかというのは、よくわからない。読む目的にもよるか。ただうまく説明出来ないのだけれど、言葉では説明できない何かなんて言うと一気に陳腐というかキザというか、基本的に物事は何だって言葉では説明できないとかいう屁理屈を置いておいて、概念をぶつけられたというか、難しいなぁ。いろいろなところに、性的な描写がある。どういう意図のものかは考えてみる価値があるだろうか。ないかな?それにしても下巻の中盤辺りまでは本当につらい。自分は上巻を読んだ勢いでそのまま突っ走ったからよかったけれど、いったん中断していたらどうなっていたことやら。自転車でいうならば上巻を読みぬけた慣性でそのままいったわけだ。しかもその先に報われる結末が用意されているとは到底思えなかった。ネタバレ有シュウジはどこまでもツイてない男だった。兄は放火をし精神崩壊を起こし、父は金持って逃げ、母親も借金まみれになってどこかえ消え、自分も逃げた先で人を殺してしまう。およそいい事なんて何一つ無い。もちろんイジメもあった。マイナスしかない。ここから這い上がる事なんて、出来るのか?精神崩壊した兄が復活し、父が金を持って戻ってきて、母親も戻ってきて殺しもなかったことになる、そんな幸せな未来が来るはずがないのだ。こんな状態で生きていたいと思えるはずが、無いだろう。知り合いと、生きていく時に、大事な事は何かというのを話し合った事がある。知り合いは、現状に満足して、いつだって「今」が幸せな状態だと認識することが生きていく上で大事なことであるといった。身の回りにあることで幸せを追求するのだと。反論した。仕事をして、かえって寝るだけの人間にお前はそれを言って、仕事に幸せを見つけ出せというのか、と。そうだと答えた。はたしてシュウジに同じ事が言えるだろうか。家庭が崩壊して家もなくなって殺しをしてしまってそれでも、そんな状態の人間に、お前は今幸せなのだと、紛争地帯に居る人間や、ゴハンにありつけないで死んでいく人間よりお前は幸せだと言えるのだろうか?誰が死にたいと思ったシュウジを責められるだろうか。殺してくれと頼んだエリを責められる? 死にたいと思う事は悪いことなのだろうか。からっぽな目だと作中で何度も言っている。まるで穴ぼこだと。希望も何もない状態だとそうなるのだろうか。またシュウジは誰にも期待しなくなる。人に期待しないというのは、怒りとかそういった感情からも切り離される事だ。他人が何をしようが、それはその人が勝手にしたことで自分とは全く関係がない事だと認識する事だ。悲しい事だとは思うけれど、そこまで悪い事だとは思わない。ただまだ15歳なのに、人に期待するのをやめてしまった事は悪い事だろう。大人になるまで生き延びられたら、死ぬ事もなかったのに。大人になるまで生き延びる事ができなかった。戦争から帰ってきた人間は、まわりの人間があまりにも普通に過ごしているのを見て、精神の均衡が崩れるという。 どこまでも不幸だったシュウジは周りと自分を比較して、精神の均衡が崩れないはずがあるか。まわりが幸せな中の不幸は周りが不幸な中の不幸よりよっぽどつらいんじゃないだろうか。ある意味これは聖書か?人々の罪を背負ってしんだキリストが、シュウジなのか?シュウジは復活はしないが。それにシュウジは「ひとり」を背負った。 神視点だと思っていたが、神父視点だったのには訳があるのか。 罪を犯そうとするひとを止められるのは、そのひとの丸ごとすべてを信じている相手だけなのです──普通、それをやるのは両親の仕事だ。もし死んでいたとしても、信じられていたという過去の経験がその人を支える。あるいは過去の信じられていた頃にされた自分の行動が。誰が悪いかっていったら全ての元凶は両親だろう。何がというまでもなく、全てがダメな親だった。ある意味こういった親を痛烈に批判している。一見するといい親にうつるのにその実情ときたら・・。いかん、いらついてきた。 仲間が欲しいのに誰もいない「ひとり」が「孤立」。 「ひとり」でいるのが寂しい「ひとり」が「孤独」。 誇りのある「ひとり」が「孤高」。なるほどなぁー。誇りのあるひとりってのがどうにも想像できないけれどな。エリみたいなのっていわれたらそれまでなんだが・・。どうにもしっくりこない。 聖書の時代から、どうしてひとは物語を紡ぎつづけ、語りつづけるのか、おまえたちは知っているか? ひとは、同じあやまちを繰り返してしまうものだから──だ。ここでいうおまえたちとはエリとシュウジの事。しかしどうもこういうセリフを読んでいると、どうしても神父というより、神の事を意識しなくてはならない。断定口調だ。ひとは、と全てをひとくくりにしている。それを断定口調で言えるのは、神しかいないのでは?あるいは神父という身体を持っているけれど、魂は神という見方も出来る。シュウジの事について、これほど綿密に語れるのはやはり神しかいない。神父が語り手だけれど、神父は神なのだ、と自分の中では結論を出してみる。それにしては神父に弟がいたりとそう考えると微妙な結論だがまぁいいだろう。誰に迷惑をかけるでもないし。2008/7/12 読了
2008.07.15
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