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家内の実家は空き家となって20年経ちました。元来が築130年を越えている頑強な入母屋造りで、土間部分を台所と物置に追加増設したのは義父母が満州から帰国してからですので、その部分は築65年となります。戦後の混乱期に追設した張り出し部は右に15度程傾いていますので、朽ち果てつつあるのかと心配したのですが、左右端には三角板が貼り付けてありますので、当初の基礎土台工事に問題があった様に推定されます。台所床板も傾斜していましたので、今年は厚さ2cmの平板をビス止めして、食器棚を垂直に戻しました。家内と共に15年、私一人となって5年間何とか家の内外を管理して来ましたが、今後はどうなって行くのかは何とも判断し兼ねるのです。これまでは、近所に迷惑が掛からない程度に、雑草に覆われた庭の草取り、3年毎の業者による高木枝伐採を行って来たのですが、3年前から家の中での畳替え、障子張替え、不用品の廃却を行い、夏の別荘として誰でもが住める環境にしようと考えを変えました。LPG契約はしませんが、電気・水道は止めずに基本料金支払って、直ぐに住める様にしておくのに年間3万円程必要です。一昨年は高木伐採に加え冷蔵庫・流し台換装で15万円、昨年は座敷の畳取替えや外板ペンキ塗りで10万円、今年は居間の畳表交換、LEDペンダント照明、便所臭気ファン換装のみでしたので5万円程で済みました。少なくとも75才までの3年間は、こんな作業を進めて、木造家屋の劣化を防いで夏の別荘として整備して行こうと思っています。
2014.08.10
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例年暑くて堪らなくなりますと、家で海水パンツを穿いて、ゴム草履を履いて川野家の先の小さな海浜で泳ぐことにしていました。砂浜でなく砂利浜であり、休憩場所もありませんが、涼んだら家に帰って、シャワーを浴びてさっぱりすることが出来ますので、新上五島町随一の蛤浜海水浴場に行く必要性も感じなくなったのです。今年は梅雨明けが遅く、台風8号来襲前後には大雨で、半日で300mmを超える雨量があったのですが、リアス式海岸で川が短くて直ぐ海に流れ込みますので氾濫などの被害は無いのです。結局、川野家の先の小さな海浜に行きましたのは、7月21日、五島を離れる2日前となりました。リアス式海岸とは言え、あまりの集中豪雨で門松山の林から土砂崩れが起きていて、舗装道路に覆い被さっていたのです。川野家の処までは、土砂崩れから家屋を守る砂防ダム、イノシシや鹿除けの金網が整備されているのですが、その先へのアクセス路は自然のままで、昨年はその海浜でイノシシのウリボーを見かけた程で、土砂崩れが起きても不思議はありません。砂防ダムや海岸一体を埋め尽くすテトラポッドで、海流が変わり、山からの土砂流入が無くなって、海藻が死滅する「海やけ」が酷くなっていますので、土砂崩れで山の栄養が海浜再生の一助になるのではないかとも思われました。突堤の先では、サザエやシッタカ貝が結構な数、発見することが出来ました。今年の収穫は、タモ網で掬ったサザエ2個でした!
2014.08.07
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今年は梅雨明けが遅れて、美しい蛤浜海岸を見ることが出来ませんでした。訪れたのは2回、6月23日は雨が上がっていましたが曇りで、黙々と熊手で蛤を漁っている人が独りだけの寂しい風景でした。五島を離れる7月23日は、梅雨が上がって晴れでしたが、北に見える似首番岳の上には雲が掛かっていて本当の蛤浜ではありませんでした。対岸の榎津郷の奥に見える番岳の上に青空が広がって、右に門松山、左に榎津城山を従えているのが本当の蛤浜風景で、学生時代に友人と泳ぎ、家族連れで海水浴をし、子離れした老夫婦で水浴びを楽しんだものでした。1960年代に描いた油彩、未だ榎津港の突堤が延びていなくて、丁度中間に位置する長瀬と言う岩礁が印象的で、其処まで泳いでいったものでした。1985年に義父が亡くなって義母が独り住まいとなりますと、毎年1週間の夏休みを利用して会いに行きましたが、1987年には番岳中腹に送電線保守用の広い車道が整備されて良く目立ってはいたのです。この車道も、年月を経て木々が成長してしまい、蛤浜からは判然としなくなりました。
2014.08.05
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中2階の倉庫部には、客先接待用の漆器を含め沢山の什器類があったのですが、屋根瓦葺き替えの際に作業の邪魔になると言うことで、世話する方がそれらを欲する方々に譲ってしまって殆ど残っていません。作業を邪魔しない大きな長持や襖類、棚に置かれた行李・袋類、等は埃に塗れてそのまま残されました。棚にあった竹行李には、60年前の教科書やノートが入ったままでしたし、其処から家内の小学校6年の国語帳が出て来て、あどけない希望が書いてありました。私は音楽かになる私は音楽かになってみんなに音楽をきかせてよろこばせたいとおもいます。ベートーベンやモーツアルトのようにきれいな音楽をつくってみたいとおもいます。ベートーベンのようにしずかな森にいって私は音楽をつくります。そして世界まはります。バイオリンやピアノをもって私は音楽をつくります。1954年のことで、義父母が好きだったクラシックを聴かされて育ったことに依る感想であり、淡い望みでもあったのでしょう。7~8年前には、中2階から多くのSP盤セットを1階の床の間に下ろしたのですが、今年中2階の勉強部屋を整理してみると、未だ数点残っていました。YouTubeで検索してみますと、バックハウスの演奏する月光ソナタがアップロードされていました。Wilhelm Backhaus - Beethoven Piano Sonata No.14 "Moonlight"義父母と共に、このようなクラシック音楽を聴いていたのだろうと思われました。
2014.08.04
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新上五島町似首郷の似首峠から見る奈摩湾は雄大な景観を呈していて大好きな所で、紺碧の海、奈摩湾に下ってくる緑濃い山々は長い間眺めていても飽きることはありません。眼下の雑草草叢は50年前には稲作用の田圃だったのですが、今は昔のこととなりました。上五島奈摩湾の入口に位置し、その対岸にあります矢堅目の奇岩は一際目立つ存在でもあり、高さは凡そ100mの美しい円錐形で奇岩裾の岩場には小さな無人灯台が設置され、海難を防止しています。6月中旬、湾口の矢堅目の先で、大きなサメが定置網に紛れ込み新聞記事となりました。「体長7m」ホオジロザメ 新上五島町で目撃 注意呼び掛け奈摩湾の沖合150mで、体長7mとみられるホオジロザメが目撃されとして注意を呼び掛けている。6月17日午前7時頃、定置網漁をしている男性の網にサメが掛かり危険と判断した男性が網の中の魚と一緒に解放した。フロートと呼ばれる3~5m間隔の浮きからサメの大きさを推定したと言う。ホオジロザメは映画「ジョーズ」のモデルにもなったどう猛なサメで、通常大きくなっても体長5m程度とされる。恐れ戦いた男性の話だけですから、7mの真偽は定かではありませんが、日本が亜熱帯化して、南からの侵入者が北上して来ているのは確かな気がします。
2014.08.02
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7月14~15日は、新上五島町榎津郷では祇園様と言う夏祭りが行われます。新上五島町の各郷でも祇園様があるのですが、神社の宮司が掛け持ちとなっているのか、日程に多少のズレがある様です。7月14日の曳出は、午後5時に榎津神社から山車が出発し、詰め掛けた人々へのお祓いをしつつ子供に引かれて、榎津郷の隅々を練り歩きます。またこの日は郷の生活館への渡御(おわたり)で終了となり、子供達へは多少のご褒美も配れる様です。7月15日の還御(おかえり)は豪雨となってしまいましたので、山車を守る為、自動車での榎津神社への帰還となってしまったのは残念でした。普段は見かけない子供達が沢山いましたので不思議に思いましたので、榎津神社の名誉宮司に聞いてみますと、氏子の家だけでは山車が引けず、学校友達など氏子では無い家の子が多くなっているとのことでした。限界集落の悲しい現実です。
2014.07.31
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嘗て魚の目村榎津は海産物の集積地として大いに栄え、五島では珍しい洋館も多く建てられたのですが、漁業不振と共に衰退を余儀なくされ、若い世代が違った職を求めて島を出て行って高齢者のみが残る限界集落となりました。10年前までは定期船も就航していたのですが、運航を取り止めてしまい、ターミナルも小さな食堂と売店があるだけで、埠頭はコンクリート構造物を製造する場所になって、昔ながらの港の機能はなくなりました。家内の実家は、榎津神社から県道に至る所謂「榎津銀座」と称された細い通りに面していて、数多い商店が立ち並び活況を呈していたのですが、今は住む人も激減して寂しい限りです。近辺には、往時を偲ぶ洋館も残っているのですが、所有者が世話管理をしませんので、荒れ放題の状態となりました。家内の実家の隣は2階建て木造洋館の外科病棟で、整備すれば歴史的価値もあると思われるのですが、今は台風などで崩壊となり被害が実家に及ぶ懸念が大きいのです。榎津港に流れ込む川は暗渠となり、通行路として利用されていますが、外科病棟の通行路反対側には朽ち果ててしまった理髪店が将に崩壊寸前、こちらは所有者が島を出てしまって連絡が取れないと言うことで、新上五島町の少ない予算の中で、近々取り壊しが行われるとのことでした。
2014.07.30
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誰も世話する人のいなくなった2ヶ所の墓の清掃をして来ました。先ずは実家の墓で、菩提寺の推奨でコンクリート舗装したのは7~8年も前のことですが施工が雑で隙間が多く、そこから雑草が生い茂っていましたので刈り取りです。特にカラムシと呼ばれる雑草は困り者で、舗装下で根を走らせていますので退治するのは難しいのです。又、墓への供花用としてヒサカキとシキミ(樒)が墓所に植栽されていますが、共に4mを超える高さになっていて、墓所が暗くなっている邪魔者に見えました。近所の人に聞いてみますと、「ヒサカキは神棚には使うのだが墓地では使わない」とのことでしたので、1mの高さで伐採してしまいました。シキミも3m高さで剪定しましたし、繁茂していたヒサカキが無くなって明るくなり、隣の墓所への迷惑も無くなりましたが、雑草のカラムシは数日で繁茂を開始し出し、困り者として健在でした。次は義父の実父、つまり義祖父となる墓所ですが、菩提寺とは離れた郷の墓所群にあって30年以上世話されることが無かったのですが、雑草がコンクリート舗装を覆い尽くし、ガジュマル等の雑木が生い茂って募名が見えない悲惨な状態でしたが、3年前に雑木伐採、雑草類の剥ぎ取り等の作業を開始して3年掛けて墓参出来る状態に復帰させました。門柱や石柵等の石材が半分以上崩れたままですが、これ以上はどうしようもありません。
2014.07.29
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造園65年前はさぞかし立派だったろうと想像出来る庭で、菩提寺の造園に来ていた業者が家内の実家に寝泊りして作業にあたっていたらしいのですが、事前に若しくはその際かは定かではありませんが、大きな庭を造園して貰うことになった様なのですが、その辺の経緯は亡くなった家内も小学校入学前のことなので知らなかった様でした。庭石はどうも九州本土から持ち込みで、大きな石で周囲を囲んだ鯉の泳ぐ池、庭3ヶ所に石灯籠を配置して、古木の梅を含め庭木を体裁良く植栽したのです。菩提寺の庭は山の中腹の傾斜地に造園されましたので、平地に造られた実家の庭の方が見栄え良く出来ています。しかし、元来リアス式の海岸地ですので、下土が浅くて深く根を張れませんので良い樹が倒れて減って来たのです。松ノ木、泰山木、銀木犀、小さな紅葉群等、庭に彩りをもたらした良い樹はもうありません。残っているのは、神社仏閣に多い梼(ユス)ノ木3本、梛(ナギ)、モチノ木が主役となってしまっています。2年前に、枝が屋根に掛かって軒樋を詰まらせていた梼ノ木1本は1.5mの高さで切り落としましたら、枯れてしまいました。それでも、大きな紅葉、椿、躑躅、サツキ4本、クチナシ、樹皮だけで生きている梅が残って庭に彩りをもたらしています。池は側面に亀裂がありますので注水を止めて、雨水だけのどぶ池なのですが、麦わらトンボや鬼ヤンマーが卵を産みつけて生息地となっていますので、1年に一度どぶさらいをして生息環境を維持することにしています。除草し竹100本を切って綺麗にしてみますと、石灯籠への踏み石も趣向を凝らしたもので、9個の踏み石で灯籠にたどり着ける様に設計されているのが分かります。
2014.07.25
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シルバー当日割引は普通航空券料金の30%程度で利用できますので、高齢者にとってはありがたいシステムです。6月20日羽田-大村空港では12800円、7月23日は繁忙期になり13900円でJクラスへのアップグレード1000円でしたから、合計2万8千円弱で随分得した感じがしました。欠点は予約が出来ず、空港カウンターで空席状況を確認購入しなければならないのが玉に瑕なのですが・・昨日は午後3時15分発のJAL便ではOKでしたが、午後5時発満席と表示されていましたので利用できなかった筈です。今回の五島行は梅雨が明けないだけでなく、台風来襲もありましたので、雨には悩まされました。6月23日、新上五島町随一の海浜で全国88選に選ばれている蛤浜海水浴場も曇りでは冴えません。1ヶ月の間、雨の合間を利用して、住む人のいない入母屋造りの家内の実家で、曇りの日には庭で除草、100本も生えていた竹の伐採、高木の枝剪定等を行い、雨の日には室内清掃、古い雑誌の廃却、不要電気器具等の廃却、洋服箪笥3棹から義父母の洋服類の廃却等を行いましたが、全て所定のゴミ袋に入れなければならないのは面倒なことでした。本来ならば家内と一緒に行うのが筋なのですが、亡くなって5年経ちましたので、独りで考えつつ作業しなければなりませんでした。8部屋で160m2を越える大きな家で、保管場所がありすぎて不用品も沢山ありますので、少しでも明るくなる様に心掛けて作業しましたが、未だ半分の道程にも達していない様な気がしています。
2014.07.24
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昨年、五島に1ヶ月滞在した際、家内の実家の固定資産税を支払う手続きをして来ました。義兄が亡くなって6年、姪も結婚して家を出ましたので、良い契機と思われたからです。実家は義母が1995年に亡くなってから、ずっと空き家であり、それからは毎年家内と共に、五島に行って家内外の管理をしていたのですが、年に1~2回でその都度10日間ばかりでしたので、室内に風を入れてかび臭い雰囲気を除去して掃除すること、庭の雑草取りと高木剪定すること位しか出来ませんでした。昨年は1ヶ月ほど滞在し、海風で痛んだ外板にペンキを塗って劣化を防ぐこと、湿気で痛んだ畳の取替え、大きなステレオセットの廃棄処分、大量に残っていた雑誌類のゴミ出し、障子の張替え、等誰が行っても直ぐに住める環境にしたつもりでした。屋根瓦交換の際、大工が打ちつけてあった経歴板は捨てられてしまい明確には分からないのですが築130年と思える大きな家、中2階は倉庫代わりですので員数に入っていないのでしょう。土地は3ヶ所に別れていて、その1ケ所は義祖父名義となっていました。面積 280m2 評価額 318万円 課税標準額 53万円家屋は次のようになっていました。面積 156m2 評価額 16万円 課税標準額 16万円家屋分は20万円に満たず免税となり、土地分は30万円を超えて課税対象とされ、合計7400円を4期に分けて、納める様な通知書となっていました。家内が亡くなってしまい、私には相続に関して何の権利も無いのですが、息子たちを含む相続権利者の為に、少なくとも数年の間、納税させて貰おうかと思っています。
2014.04.14
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家内は4年前の本日未明午前2時ごろ、息を引き取り亡くなりました。病室で添い寝をしていた長男から臨終間近との報を受けて、急いで病院に駆け付けたのですが、臨終には間に合いませんでした。国指定の難病間質性肺炎との闘病7ヶ月の戦いでしたが遂に終焉となったのでした。無言の帰宅はそぼ降る雨、涙雨の中でした。それから4年、台風の影響でしょうが、今日も涙雨となりました。4年間何をしていたのかと問われますと、「何もしていない」と答えざるを得ない生活が続いています。種々形見分けをした様に覚えていますし、靴や下着類は廃棄したのですが、未だ和ダンスにも押し入れにも、衣服類やバッグ類が沢山残っています。そろそろ、それらは全て片づけて、長男夫婦に住んで貰って生活し易い様に変え、私は一部屋に隠居するのが良さそうにも思えます。連棟長屋タウンハウス1~2階4LDKの間仕切りは、2世帯住宅設計になっていないので、住み分け方には難しいものがありますが・・夏には2~3ヶ月、家内の故郷の空き家が保てる様に、滞在して管理するのも供養にもなりますし、義務とも思えるからです。未だ屋根瓦もしっかりしていますし、庭の管理も今年までは万全と見えます!
2013.10.26
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この夏、長崎県五島列島で電気自動車をレンタルしました。五島列島は、三菱自動車が「アイ・ミーブ」を大量に持ち込んで、実験的に電気自動車の島とすることを目論んだ地域でした。例年はガソリン車をレンタルするのですが、鯛の浦港で「どちらでも良い」と言いましたら、電気自動車(EV)「アイ・ミーブ(i-MiEV.)」を貸してくれたのです。許容走行距離は当初85km、30分で充電出来る急速充電器も島主要各処に配置されているとのことでしたので、南端の奈良尾・北端の津和崎まで行っても各々25kmですから、問題無いと思ったのです。しかし問題はありました、暑いのでエアコンを掛けていると許容走行距離が減ります。レンタル会社に聞いてみますと、冬場のヒーターは電池駆動なので劇的に許容走行距離が減ってしまうと言うのです。又、急速充電器は80%容量迄しか充電出来ず、残りは数時間掛けるしか無いと言うのです。結局は往復40km程度が限界で、行動の自由が著しく制限を受けることとなりました。榎津から焼崎教会迄は、往復30~35kmに過ぎませんが、帰る途中電池切れの警告ランプと警告音声が出てくるのには閉口しました。日産の電気自動車(EV)「リーフ」もありましたが、此方は許容走行距離200kmと言われていましたが、普通自動車並みの8800円、軽自動車並み「アイ・ミーブ」は日額5300円と較べますと、独り自由に行動するには不要ですし一寸高いのが玉に傷です。やはり、現状では未だガソリン軽自動車が便利だと言うことの様でした。
2013.10.16
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新上五島町榎津は有川湾の奥に位置し、竹の子島と言う小島に守られていますので、台風等が来ても荒れることの無い天然の良港となっています。べた凪の静かな朝、南方を見ますと、近くに榎津港ターミナル、遠くに有川湾の奥にある矢倉岳もくっきり見えてなかなかの景観です。10年程前までは、私達も良く乗船下船をしたのですが、少子高齢化で限界集落となり、自動車Roll On-Roll Off設備もありませんので、汽船も来なくなって久しくなりましたのは寂しい限りです。北を眺めますと、近くに榎津郷の集落、遠くに似首番岳が朝日に照らされて輝いています。榎津郷を守る様子で、かなり高い山にも見えますが、標高は360mに過ぎません。昔は天然の良港を生かし海産物輸送の中継地として賑わった姿は、漁業不振で人口流失が加速して衰退し、無くなってしまいました。
2013.10.14
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五島は西方に位置し、夏は午後8時まで明るいので、夕食を済ませた後も夕暮れを楽しむことが出来ます。新上五島町榎津では、長すぎるとも思える波止がありますので、その先端まで歩いて行きますと、海上からと思える夕暮れの景色が満喫出来るのです。海難事故を守る、岩礁灯台の向こうには、メジナ釣りの名所として知られる山案中、野案中の無人島が黒いシルエットで見えますし、その向こうには平戸島が薄いシルエットですがくっきりと見えています。平戸島は上五島からは意外に近いのです。北方面を見ますと、上五島の最高峰である北番岳もシルエットになっていますが、夕暮れの夕焼け雲が旅情を誘う様に棚引いているのです。独り住まいも4年となり、家内の故郷であった新上五島町榎津が、私の故郷になりつつあります。限界集落で店が一軒半しか無く、生活するのは大変ですが、72才を越えても体が続く限り、空き家となっている家内の実家を面倒見る積りでおります。
2013.10.13
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元来、五島魚之目村の大網元の家であったので大黒柱も堅牢、小作米の収蔵庫であった中2階も太い梁も見事で、築100年余とは言え、未だ寿命には達していない様です。義父が28年前に亡くなってからは、義母が独りで住んでいたのですが、管理が出来ずに劣化が進むことになりました。義母が18年前に亡くなってからは空き家となり、雨漏りが酷くなって家が潰れてしまう懸念もあり、15年前に屋根瓦の葺き替えをして何とか劣化進行を止めることが出来ました。それ以来、閉め切りの家となりましたので、家内と共に毎年1~2回訪れて、風を入れ、庭木の剪定・伐採、石庭の除草、墓掃除等をして来ました。家内が亡くなってからは独りで行かざるを得ませんが、齢70を越えますと何時まで続けることが出来るのかは分かりませんので、当面訪問できる間は頑張ることで自分を納得させるしかありません。閉め切り状態でしたので、真ん中の座敷畳が湿って畳床も駄目になっていましたので、畳屋に頼んで、全て換装することにしました。近頃は稲藁が入手出来にくく、畳床は発砲スチロール製に替っていて、驚くほど軽いのには驚かせられました。28年間海風に晒されていた外板も、年輪が浮き出る程劣化していましたので、関西ペイントの水性塗料を購入し、目の高さまで塗装しました。海風による劣化の影響は、目の高さから上の部分もあるのですが、取り敢えず最低限の防止策は出来たのかと思っています。
2013.10.11
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上五島での三本松海水浴場で知られる浜ノ浦郷地区にあるのですが、海水浴場とは小さな半島を隔てた奥深い入り江に位置していて、山道を辿って行かなければならず、あまりアクセスは良くありません。信徒は大曽教会へは櫓船で参詣していたが、1947年に聖堂を建設し、1975年に真手ノ浦小教区に属し今日に至っている。 入江の奥に建つ教会堂は、外洋から見ることができない。 所在地 857-4415 長崎県南松浦郡新上五島町続浜ノ浦郷小教区 真手ノ浦小教区改修 1989年改修に際しては、教会の裏に、ルルドが作られた様で、五島でのルルド発祥の地は下五島の井持浦ルルドであるが、数多くの五島の教会ではルルド信仰も息づいている様です。
2013.10.07
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新上五島町榎津郷から見える湾の景色は見応えがあります。写真では見えませんが、左には有川港、正面には上五島随一の海水浴場である蛤浜海浜、右奥には標高382mの矢倉岳が聳えています。矢倉岳は上五島の最高峰ではありませんが、中通島中央に位置し上五島を広くカバー出来ることから、TV回線及び通信回線確保の為、昔から無線塔が設置されています。地域経済上も重要な設備で、山頂の無線塔迄舗装道路が整備されていますので、車で登ることが出来ます。少子高齢化による人口減少で猪や鹿の野生動物が増えていますので、途中には猪捕獲用のケージも設置されていましたが、世話が良くないのでしょうか、何れも獲物が掛った形跡はありません。山頂から見る展望は素晴らしいものがあり、北には有川湾が手前に、遠く上五島最高峰の北番岳443mも望むことが出来ます。東には奥深い湾で知られ、高速船発着の起点となっている鯛之浦港が箱庭に見ることが出来ます。西には、町役場のある青方地区、青方港は山影に隠れていますが、若松瀬戸も見え、絶景と言えます。山頂はマリンピアパークとなっていますが、観光客が全くいないのが寂しい限りです。キリスト教教会群が次の世界遺産候補から外されたことは残念、僻地には観光が一大産業なのですから・・
2013.09.29
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少子高齢化で、子供達は安全上プールで泳ぐようになりましたので、小さな海水浴場には人がいなくなりました。家内の実家から5分程で行ける岩礁地帯はシャワーもある海水浴場なのですが、今では泳ぐ人も少なく、寂しい限りでした。人が少なくなりますと、岩礁に続く森からは、野生動物が海浜に出て来て、猪のウリボーは日中にも拘わらずうろついているのは驚きでした。岩礁では、ムラサキウニが大発生していて足の踏み場も無い程ですが、産卵期を過ぎた夏にもなりますと、身の細ったウニは採る人も無く、海藻も食べられて無くなってしまうのではと心配する程です。深さ2m程の処には、サザエやらシッタカ貝も結構多くいて、タモ網で掬い取ることも出来て、昔の自然も回復している様に見えました。ゴーグルで海水中を見ますと、チヌ(クロダイ)も多く、クロダイに追われるキビナゴの大群、その他石鯛、タカハタダイ、箱フグ、カワハギ、タコ等もいて岩礁地帯の豊かさを実感することが出来ました。
2013.09.25
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有福教会は、実は若松島から独立した有福島にありますが、突堤で繋がれていて車でも行けますので、若松島の西端と言っても良いのでしょう。木造の美しい教会で、海岸に面した谷の小高い丘にあって、東支那海の荒波に面していて、奈留島も近く、寂しさと浪漫を感じさせるものがあります。有福郷は住民30世帯程の小さい集落で、漁業不振からどの様な生活を営んでいるのかと心配される限界集落と見えます。所在地 853-2313 長崎県南松浦郡新上五島町有福郷 教会データ 建物 創建 昭和2(1927)年改修 昭和49(1974)年 小教区 土井ノ浦小教区1817~1829年(文政年間)の頃などに、大村藩の神ノ浦からカトリック信徒が移住し、弾圧を逃れながら信仰を続けていた。 有福島には、四つの潜伏キリシタンの集落があったが、明治以降は伝道師らの布教によって、カトリックに復帰した。 1927(昭和2)年、島の西側に教会堂が建立され、木造で小さいながらも重層屋根を持つ教会。
2013.09.17
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焼崎教会は中通島最西端のリアス式海岸の奥まった処にありますし、国道384号線からは離れて狭い山道を遠く行かなければなりませんので、あまり行ったことはありません。西海国立公園の絶景を見せる若松瀬戸に隣接する静かな焼崎浦の入り江にあり、遠く見える教会は何か浪漫を感じさせるものがあります。車道は此処までで、階段を上がって内部を見ますと何とも小さな可愛い教会でもありました。この教会の成立は比較的新しく、付近住民に祈りの場を提供してくれているのだと実感することが出来ます。1950年に創建、桐小教区に所属していたが、1975年真手ノ浦小教区の発足に伴い、同小教区に属して今日に至っている。1969年改築。若松瀬戸の入り組んだ焼崎浦に面し一番奥まった地域に建つ。信者は漁業者が多く、その篤い信仰心により守られている。
2013.09.15
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今朝未明に少雨が降りましたので、涼しい朝となりました。20日以上もカラカラの猛暑が続きましたので、ほっとする気持ちがするのも良いことです。昨晩は、庭でコオロギの声もしていましたので、もう夏も終わりなのかも知れません。今夏は、五島列島新上五島町にある家内の実家が世話出来たのが良かったと思っています。4年前までは、家内と一緒に家の中に風を入れ、庭の草取りをして2週間程過ごしていたのですが、家内が亡くなって3年、特に昨年からは1ヶ月滞在して家の内外の掃除を真面目にすることにしたのです。棲む人のいない家の管理と言うよりも、遠いけれども夏の別荘として活用出来れば義務感よりも楽しく暮らせそうだと言うことに発想転換することにしたのです。今年は、雨樋の修理・割れた窓ガラス交換を依頼、冷蔵庫の買い換え、ステンレス流し台の交換、庭の高木剪定を業者へ依頼、と一寸忙しいことになりました。中2階構造ですが、1階は8部屋あり、台所と食堂があってかなり大きな家なのです。中2階の2/3は物置だったのですが、10年前の屋根瓦葺き替えの際、此処にあった客先もてなし用の漆器類等は、全て処分されて空っぽの状態となりましたが、梁構造は築後100年を経過しても立派なものでした。箪笥が二棹ある奥は、中2階の1/3は勉強部屋だったのですが、畳は崩れ、埃だらけとなっていました。5年ほど前迄は、中2階にはネズミが巣くいガタゴトと音がし、1階の押し入れの布団の中で子供が生まれて布団を捨てなければならないこともあったので「猫いらず」を置いていたのですが、此処3年に亘る中2階拭き掃除で綺麗になった所為か、ネズミも出ていった様な気がしますが・・来年は外側のペンキ塗りでもして、潮風による劣化を防ぐ工夫が必要かも知れません。
2012.09.01
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義母が我が家近くの病院で亡くなったのは1995年のことでした。1994年に骨粗鬆症による腰部骨折で、五島での独り暮らしが出来なくなり、我が家に来て貰ったのですが、僅か1年で老衰によって意識不明となり、2週間病院に入院したのですが、意識回復することなく、静かに亡くなりました。昨年は新上五島町榎津郷にある菩提寺で、亡くなった家内に替って親友が同席してくれて17回忌法要をしたのですが、今年は知らない内に過ぎてしまいました。5年前の13回忌には家内は病気知らずの元気でしたので、「歳月人を待たず」とは言え、月日の経つのは速いものです。家内と義母は、3人の中の末子で一人娘と言うこともあってか、至って中の良い母娘でした。1961年、義母56才、家内18才の時、新魚目町榎津港の突堤で撮った写真、突堤は未だコンクリート製でなく、玉石を太い針金で編み上げたもので、台風の大波は直ぐ越えて来たものでした。1993年、義母88才の米寿、家内50才、白内障手術で東京に来て、我が家に永らく泊って貰った時に、山梨県忍野村へ富士山見物に連れだした時のものです。2年後に逝去するとは思えないほど元気に見えました。我が家には、義母の遺影写真があったのですが、家内は何処かに収納して見当たらず、家内の仏壇に手を合わせて焼香することで、我慢して貰うことにしました。
2012.08.23
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今回の五島行往復の飛行機では、雲が多く素晴らしい富士山を撮ることが出来ませんでした。羽田を離陸し30分も経たず左下に見えると思いカメラを用意していたのですが、雲海の上を飛ぶので分からず、少し見えたと思いましたら、直ぐ通過することとなりました。帰りの長崎上空は、離陸後雲も少なく、島原半島の普賢岳が眼下に見えましたが、通常の飛行コースなのか定かではありません。有明海の干拓地が鉛色に光って異様に見えました。干拓には反対と言うほどのことはありませんが、急激な大規模開発は周囲環境への影響は甚大になると言うことなのでしょう!此処を過ぎ、北九州、中国・四国地方、関西、中部、東海地方は雲が多く、有視界飛行を優先させて何時もより南寄りのコースを取った様で、羽田に下降直前には、伊豆七島の新島が良く見えました。
2012.08.18
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古い歴史のある五島で隠れキリシタンの浪漫もありますが、温泉郷としての歴史は極めて浅いのです。国民宿舎で町営の新魚目温泉荘は、1971年に掘削された曽根温泉を取り入れ1973年にオープン、町内外の多くの観光客を迎えていたのです。家内と息子2人は義母と共に1975年には見学方々、遊びに行っていたのですが・・国民宿舎は一部を除き、全国的に撤退の方向となっていますが、公務員が従業員でサービス精神に欠けること、設備の整備保全が年度予算に計上されないことから殆ど行われず、宿泊環境への配慮に欠けていることが主な要因だと思っています。新上五島町では小串郷と奈良尾郷にあったのですが、手頃な価格でありながら宿泊客の減少に歯止めが掛らず、自治体での赤字経営が続いたままの状態でした。小串郷の国民宿舎「新魚目温泉荘」では、数年前から町によって建て替えを視野においての改修計画がなされ、民営の PFIの導入により、事業コストの削減、質の高いサービスの提供を目指したのですが、誰も応じてくれなかった様でした。コンサル見解でも10億円程度では集客力のある施設にすることは困難と判断され、その動向が気になる処だったのですが、全面改装費は新上五島町で負担しレンタルとして、運営を全国に飲食店・旅館を展開する際コーポレーションを任せた様です。「五島列島リゾートホテル マルゲリータ」は、国民宿舎として利用されていた場所を全面改装して生まれ変わり、2012年3月に再オープンとなりました。3階建ての建物で、部屋数は29室、なだらかな山の稜線に沿って白を基調としたリゾート設備となっています。ホテル名の如くイタリア料理が売りで、パン工房も併設され、ランチ・夕食の外来もOKとなっていますが、宿泊費は従来の2倍の設定、15000円からですから今後の運営は難しいのではないかと推断しています。際コーポレーション株式会社の所在地は東京都目黒区で、今回は初期投資も無かったので、経営困難となれば直ぐに撤退となり、残された設備が宙に浮くと言うことも危惧されます。
2012.08.16
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1年間閉め切った家とは仕方の無いもので、家中でカビ臭い感じがしていました。南側のカーテンは開け放しで、間接光がありますので乾燥していましたが、北側のカーテンが閉めてあることで、中央の10畳(?)広間あたりは、畳がジメッとして畳床も駄目なのだろうと思わざるを得ませんでした。扇風機を使って2週間程、湿った畳部分に風を当てましたら、ジメッとした感じは無くなりましたが、畳床が柔らかく膨れた劣化感は如何とも直しようがありませんでした。家内が障子の張り替えをしたかったと言うことを思い出し、障子紙を24m買い込んで作業をしてみることにしました。昔風の糊付けの用具も買い込んで始めてみますと、大きな家で8部屋もありますので、障子の数が大小合わせて27枚と数の大きさに驚かせられました。床の間のある客間の張り替え終了、ぼろぼろになっていたカーテンはUVカットのレースカーテンに付け替え、壊れた扇風機も後日粗大ゴミで捨てましたので、気持ちの良い部屋に何とか変貌となりました。中央の広間に隣接する寝所の障子も張り替え、ベッドカバーも新しくしてみました。奥に見える張り替えた障子の向こうは納戸なのですが、段ボール類が一杯で、今回の作業から外すことにしてしまいました。結局は24mでは23枚の障子張り替えでお終いとなり、残り4枚は未だ大丈夫かと日和ってしまい、作業完了としました。応接間のソファ-もぼろぼろでしたので、ソファーカバーでボロ隠しをし、中2階の拭き掃除等をしていましたら3週間経ち、その間冷蔵庫・ステンレス流し台の交換で、少しは他人を泊めることの出来る夏の別荘になったのかも知れないと思いつつ、今回はこれでお終いと自己納得しました。
2012.08.15
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家内の実家の庭には、ユスノキ(檮の木)が3本、連理となったモチの木、ナギの木、槇の木が大木となって残っています。この庭は寺出入りの造園業者が、60年前に家内の実家に宿泊して寺の造園工事をしていた際、ついでに造りませんかと、石庭に近いものを造園したのが経緯らしいのです。庭中央には石組みの池を設置、サツキを配し、築山には松を植え、その奥にツツジ、椿を植栽、石燈籠3個を配して、居間から庭を楽しめる様に設計されています。年月を経て、泰山木、銀木犀、松は枯れてしまい、梅の木も幹中央が腐り樹皮1枚で辛うじて生きている状態となりました。それでもユスノキ、モチの木、ナギの木は放っておきますと20mを越える高木となりますので、業者に頼んで強い剪定を行うことにしました。9年前、3年前と強い剪定作業を行ったのですが、樹木の反発は凄まじいもので、枝が繁茂して庭が暗くなる程だったからでした。ユスノキの1本は樹高1.5mの高さで伐採しましたが、それは屋根に掛って落ち葉で樋が詰まっていました状態を打破する為でした。高さ約20mの大木になり、葉は厚く長楕円形で互生、深緑で表面に強いつやがある。葉にしばしば虫こぶがつく。イスノキコムネアブラムシの寄生では葉の面に多数の小型の突起状の虫こぶが形成される。日本では関東以西、四国、九州に産し、国外では台湾、中国に分布する。モチの木、ナギの木も太枝剪定をすっきり、明るい庭に戻りました。剪定作業は1時間にも満たなかったのですが、4tトラック荷台に一杯となる剪定量となりました。池は側壁に亀裂があるらしく、水面が低いままですが、此処にはトンボ、ヤンマのヤゴが生き続けているのです。
2012.08.13
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昨年2週間掛けて、ガジュマルの木を根元から伐採、雑草類を取り除き、ゴミ出しをしたのですが、あまりに大量だったので、1ヶ所に積み上げておきました。今年は、昨年の清掃後の枯れた雑草類を片づければ良いと思っていたのです。しかし、豈に図らん哉、根元近くで切り落としたガジュマルからは枝が伸び、カヤも蔓草類も伸び放題で草ぼうぼう、元の木阿弥状態となっていました。致し方なく、先ず昨年の枯れた雑草類を大袋6袋分に入れて持ち帰り、草刈開始することにしました。ガジュマルも再度切り落とし、雑草類を3ヶ所に積み上げました処です。2ヶ所分の雑草類をゴミ大袋20袋を使ってゴミ出しをし、3週間後には1ヶ所を除き、清掃終了となりました。今回は、蔓草も根を引き抜き徹底的に取り除きましたので、来年の作業は相当楽になるものと期待する処です。それにしましても、雑草の猛威とは驚くべきものがあります!
2012.08.12
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五島ではウラジロ(裏白)と呼ばれ、生命力が強いしつこい雑草として嫌われ、葉の裏側が白いので、ウラジロとされるのですが、本当はカラムシと言うらしいのです。墓所は永年土のままだったのですが雑草の繁茂が酷く、寺の住職の勧めもあってコンクリート敷きに変更したのは7~8年前のことでした。しかし施工が悪く、墓の隙間からの雑草の生えて来るのが防げず、義父母納骨堂前の敷石周辺はカラムシが何十本も生えて来て見苦しい限りでした。今回はバールに替る大きな釘抜きを持って行き、梃子の力で敷石を動かしましたら、その下はコンクリートの無い開口部になっていて、カラムシの根がびっしりで土が見えない程の状態でした。根と言うか地下茎を全て取り除きましたら、40リットルの大袋で入り切らない程の量となりました。敷石を元通りに置きましたら、何時もの見苦しい状態は解消され、1~2年はカラムシの攻撃を防止出来そうに思われました。茎はやや斜めに伸びて高さ1-1.5mに達する。葉の大きさは最大15cmほどで、縁に細かい鋸歯(ギザギザ)があり、葉の裏側は細かい綿毛が密生して白く目立つ。林の周辺や道端、石垣などの湿った地面を好む。地下茎を伸ばし繁茂するので群落を作ることが多い。刈り取りにも強く、地下茎を取り除かなければすぐに生えてくる。今ではしつこい雑草として嫌われるが、茎の皮からは衣類、紙に利用できる丈夫な靭皮繊維が取れるため、分布域では6000年前から栽培されてきた。日本に自生するカラムシは、繊維用に栽培されてきたものが野生化した、史前帰化植物であった可能性がある。
2012.08.11
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五島列島は長崎県でも西端に位置していますので、東京と較べて日の出・日の入りの時刻が1時間程違っています。7月下旬では、日の出は午前5時半、日の入りは午後7時半となっていて、東京では午前4時に明るくなってしまうのと較べて、五島での生活のリズムには違和感がありません。何時もゴミ出しは午前6時を原則にしていましたので、港から見る日の出は、印象派の絵画の様にも見えました。午前6時、漸く出て来た朝日が、低く有川湾の海面を照らしていました。一方、夕没する際の夕景も、なかなか見応えがあります。午後7時半、明日も晴れを予想する夕焼けです。有川湾に浮かぶ竹の子島は新上五島町榎津郷のランドマークです。
2012.08.10
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今年の五島列島は、停滞した梅雨前線の影響があって梅雨明けは7月21日となり、滞在してから10日以上経っていました。7月22日は良い天気でもあったので、徒歩で標高220mの榎津城山に登ってみることにしました。家族4人で登ったのは1984年7月のことでしたから28年振りとなりますが、当時は山頂には城跡らしき遺跡も見当たらず、薄暗い林道を通って行ったのでした。25年程前から、史跡保護の為か、山頂にコンクリート製の城型展望台が造営され、舗装道路・駐車場も整備され、2回程家内と車で展望台まで行ったことがあります。28年前の林道は記憶せず、又山中にはイノシシが屯していることもあり、今回は舗装道路を徒歩で登って行くことにしました。未だ天気が安定せず、途中30分程雨が降り出して、ずぶ濡れになってしまいましたが、山頂直下の駐車場に着きました頃には、雨も上がって何とか眺望が効く様になりました。北を望みますと、直下には新魚之目中学、少し北には丸尾郷の全望、似首番岳で隠れて似首郷、遠く北には上五島の最高峰432mの番岳が望めますが、北端の津和崎は雲に隠れて見えません。南を望みますと、有川湾の岩礁の長瀬が浮かんで見えますが、上五島随一の海水浴場は山頂の木々が育って良く見通せません。雨の影響も残っていて、緑がくすんでいるのが残念です。下山は別ルートを辿った積りでしたが、似首番岳の中腹舗装道路を歩くことになり何時まで経っても丸尾郷に下りられません。途中林道に入って下りることを試みたのですが、イノシシ2匹に遭遇、幸い襲って来ることも無く逃げてくれたのです。慌てて舗装道路に戻り、遂に似首峠まで歩いて漸く下山することが出来ましたが、往復4時間強、暑い中疲労困憊となりました。
2012.08.09
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新上五島町はリアス式海岸なので砂浜は少なく、榎津郷ではこの小さな砂浜が唯一のもの、此処は35年前までは、岩礁にカジメ(搗布)が多く生育してサザエなどの貝類、クロダイなど種々の魚が見られる海水浴場でした。しかしながら、榎津港突堤の延長工事、テトラポッドの大量敷設で、潮の流れが滞り、新鮮な海流が砂浜まで届かず、海焼けを起こしてカジメ、ホンダワラ等の海藻が無くなり、サザエ類は激減となりました。カジメ(搗布)は、コンブ科カジメ属に属する褐藻の1種で長い茎部の先に「はたき」のような側葉を持つ。水深2〜10mの岩礁上に密な群落(海中林)を形成する。日本では主に本州中部太平洋側と九州北部に分布する。それでも、突き出している岩礁には苔の様な海藻が生き続け、フジツボ、小さな黒貝が密集していますし、海中ではムラサキウニが沢山見られます。引き潮で水深1~2mの処には、タカミナ、三角ミナと呼ばれる沢山付いています。関東ではシッタカ貝と呼ばれる美味しく食べられる貝です。ウニもミナも、サザエとは違い、カジメ等の厚肉海藻では無く、苔の様な海藻でも繁殖出来る様です。沢山いましたので、フジツボや海藻が付いた大きなミナ(シッタカ貝)、多分数年物だと思うのですが、それらだけを採ることにしました。その内、小さなサザエを35年振りに見つけることが出来ましたが、潜水が出来ればもっと居るのかも知れません。齢70才に達して、35年振りに貝採りに4日間興じることとなり、収穫を近所にお裾分けすることとなりました。
2012.08.08
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五島列島は、古く遣唐使船が経由して行く航路と知られ、1昨年は復元された遣唐使船が五島でお目見えし、中国への航海を実施して地元では結構話題となりました。三日ノ浦郷(みかのうら)は深い入り江に位置していて、風待ちには絶好の停泊地だった様で風の納まるのを3日間待ち続けたのですが、その頃の遺跡は何も残ってはいません。西海国立公園の白眉である若松瀬戸沿いにある国道384号線の三日ノ浦休憩所には簡単な説明板があるだけですが、そこから写真を撮ってみました。誰も気にも留めない場所ですが、謂われのある地名の入り組んだ入り江で、弘法大使である空海も此処で風待ちをしたのかも知れないと思い遣りましたりして、何はともあれ、少しは往時を偲ぶことが出来そうでした。
2012.08.07
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対岸にある上五島随一の海水浴場とされる蛤浜から見る、新上五島町榎津郷の遠望。榎津港の右には門松山、高さは100mも無いのでしょうが、右端に見える「竹ノ子島」と相俟って、天然の防波堤となる波静かな水深深い良港で、江戸時代から昭和迄水産物輸送の拠点だったのですが、人工の防波堤の出現により近年有川港にその役を譲ることになってしまいました。正面奥に見える山は標高382mの似首番岳ですが、右奥遙か彼方に見える北魚目番岳は標高443mあって、新上五島町最高峰となっています。榎津郷の左には城山、山頂には嘗てあった天守が、コンクリート製で再現され、付近を展望する絶好の場所になっています。港の突堤から見る榎津郷、似首番岳が一層存在感を増していますが、漁業の衰退と共に住民が少なくなり、限界集落となってしまいました。何処でもそうですが、港周りはテトラポッドで埋め尽くされ、山の栄養が海に行き渡らくなったことで、海藻類が少なくなり結果としてサザエ等の貝類も殆ど見つけられません。今年も、棲む人のいない家内の実家に行って、家を開けて風を入れ、庭の雑草取りをしながら、墓所を2ヶ所清掃しなければならない時期となりました。
2012.07.01
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家内の親戚、叔父叔母夫婦は80才代後半ですが、新上五島町榎津郷で元気に暮らしています。今月18日に宅急便で、昨年同様に、五島産のメロンを贈ってくれました。団ボールには五島市岐宿町中岳と書いてありますので、下五島である福江島の産物であるらしい。中には大きなアムスメロンが4個入っていて、食べ頃は6月20日と書いてありました。独りでは食べきれませんので、一つはお隣に貰って頂き、他二つは会社時代にお世話になった上司お二方宅に持って行くことにしました。御一方は88才の米寿を越え元気なのですが、奥様の歯が劣化して歯応えのあるものが食べられない状態が続いて痩せてしまっていますので、メロンだとスプーンで掬って飲み込めば良いだろうと持参したのです。やや楕円形で果皮は濃い緑色をしていて、網目が荒く溝のような縦縞があるのが特徴。果肉は淡緑色で甘みもあり果汁も豊富。6月頃から出回る。昨日迄は我が家にはクインシーメロンがありましたので、残り1個の1/4切れを今朝3日遅れですが、食してみました。瑞々しく美味しいのですが、今年は天候不順で、昨年の方がもっと甘かった様な気がしましたが、記憶に不確かさもあり定かではありません。差し上げた御3方、時期をずらさず美味しく食べて頂いたか否か一寸心配に思えました。
2012.06.23
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5月11日に冨士霊園に行ったのですが、御殿場ICを下りる頃から曇天となり、富士山の山頂は拝めませんでした。冨士霊園は桜も終わって、気持ちの良い新緑の季節になっていました。墓前に供花・焼香して、次の様に報告しました。「TT君は、君から遅れること2年2月で逝ってしまった。病名は胃癌とのこと、年賀状も貰い元気だったと思っていたのだが、手書きの年賀状だったので、病院のベッドで自分で書いたのだろう」「今日は富士山が見えないが、TTの墓所は遺族から連絡も未だ無く、何処にあるのか分からないのは残念、気長に探して、君の遺骨を斎場で拾ってくれたお礼をしようと思う」1962年、大学3年生の時、五島列島の蛤浜で撮った写真、未だ海の家も無く、テントが数個設置されただけの環境でしたが、白砂青松の海岸で皆、自然を満喫したものでした。TT君は、その頃からリルケの「マルテの手記」に傾倒していた様に思うのですが、工学者を目指すにも拘わらず、何とも繊細な詩人でした。デンマーク出身の青年詩人マルテが、パリで孤独な生活を送りながら街や人々、芸術、自身の思い出などについての断片的な随想を書き連ねていくという形式で書かれている。したがって、小説でありながら筋らしいものはほとんどない。マルテことリルケの姿勢があまりに過敏で真摯であり、ひたすら心を観察するという手記になっている。リルケは民族を超える芸術の意味を語っており、それはチェコ、ドイツ、ユダヤ系を越えた精神の「別の国」に内面を高める意義をもっていると見ることが出来る。一番繊細過敏で真摯な生き方を貫いた人生に合掌することにし、残った3人で何時か墓前を探し当て、永年の友情に感謝し、冥福を祈りたいと思っています。
2012.05.16
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インターネットをみていたら、下記の訃報を発見しました!TT(元三菱重工業取締役)が1月2日71才で胃癌のため死去。葬儀は近親者で済ませた。もう4ヶ月も前のことで、大学時代の友人に連絡したのですが、誰も知らないとのことで友人から遺族宅に留守電をしておいて貰いました。大学時代は、4人組で五島列島に何回も出掛け、伊豆のお寺には合宿と称して、無銭宿泊・無銭飲食を重ねたものでした。1960年、大学1年の時家内の実家に転がり込んで無銭飲食した際に撮影した写真、貴君19才、家内は高校3年の17才、それと後に義父母となる二人の懐かしい写真です。1963年、堂ヶ島に温泉が湧いたとのことで、伊豆のお寺の和尚に連れられ無料の海岸風呂に入りに行った時のもの。近くの仁科郷S医院で歓待を受けたものでしたし、もう50年弱過ぎてお寺は寂れて住職不在となっていますが・・リルケが好きで、繊細な詩人であった心の友よ、君は先に逝ったのだね本郷前の、喫茶ルオーで講義外の量子力学の輪講を重ね文学を語りつつ親交を深め卒業後は、違った進路を取りつつ恋愛についても、互いに心配し恋を取るか、親をとるかと迫られ悩みつつ、親を取った君よ良き人生を全うした今好きな様に、悔むことなく彼岸で楽しんでくれたまえ君も家内も、暫く彼岸で残り3人を待って欲しいものです!
2012.05.04
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家内との結婚式は1970年3月26日、式場は東大構内にある学士会館別館、2009年10月26日川崎市立多摩病院にての間質性肺炎の悪化による永眠で終焉となりました。お彼岸直前に墓参りしたこともあり、仏壇に焼香して家で静かに過ごすことにしました。人の出会いと言うものは分からないもので、1960年夏、大学同級生で五島列島出身者がいて日本の最先端に行ってみないかと誘われ、4人で出掛けたのが発端でした。友人の中に満鉄引揚者の息子がいて、五島に満鉄引揚者が漁団長として暮らしているので尋ねてみようとの提案があったのです。友人の父親が事前に手紙で通知してあったこともあり、無銭飲食4人組を歓待してくれたのは嬉しいことでした。家内は其処の娘さんで、我々4人が大学1年生、家内は未だ高校3年生でしたが、付近の案内役を務めてくれて、楽しい旅を続けることが出来ました。五島の自然に満喫して、毎年の如く尋ねることになったのですが、家内は親戚の従妹達も動員して歓待してくれたこともあり、我々4人のマドンナとなりました。紆余曲折がありましたが、10年後に縁あって私と結婚することになりました。裕福では無く、家事育児を全て任された平凡な結婚生活となり、娘時代に考えていた希望も頓挫させられた想いもあったでしょうし、主婦としてでは無く、女性として充実した人生を過ごさせた否か甚だ自信はありません。
2012.03.27
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現在では、キリシタンの島とされ、教会群を世界遺産にしようと候補リストになっていますが、それは400年前の江戸時代のキリシタン弾圧に端を発しているに過ぎません。それより遡ること更に800年、遣唐使、及び仏教の教えを求めて大陸へ向かう人々の最終寄港地であった五島、大陸の仏教文化が日本で初めて上陸したことを意味しています。数々の史跡と共に弘法大師空海ゆかりの伝説が数多く残る五島、三井楽半島の突端である柏崎には「辞本涯」の石碑が建てられているとのことで、7月27日旧友と共に行ってみることにしたのですが、高速ワイパーが利かない豪雨、道が細くて濡れていて、危険を冒すのは止めようと言うことで断念することにしました。804年、空海は遣唐使船に乗って唐へ向かう。五島列島の福江島西端の柏崎近くに遣唐使船出航の記念碑があるが、この碑に空海が命を賭して唐へ向かう覚悟を示す「本涯を辞す」が残されている。空海は、出発することを「死ヲ冒シテ海ニ入ル」。出帆したことを「本涯ヲ辞ス」と書物に残している。空海は804年に入唐して長安で真言密教の真髄を学び、806年に帰国した。その際、海が荒れ福江島の大宝の沖に漂着したと伝えられる。上陸した空海はそれまで三論宗が盛んだったこの地域に布教活動を始め広く真言宗を広めた。ゆかりの寺、大宝寺は後に西の高野山とまで呼ばれるようになった。そんな歴史的背景により大使の歩いた足跡を辿る八十八ヶ所巡拝も自然と栄え、福江島に散らばる八十八ヶ所の霊場がある様でした。その前日、旧友と共に51年前を思い出し、荒川温泉の旅館に泊ったのです。51年前、41年前に泊めて貰いました「豆谷旅館」は破産してしまいましたので、別の「竹中旅館」に入り、夕暮れの散歩をしてみました。波止場で青い海金魚を眺める旧友、コンクリート波止場はその当時は無く、狭い漁港だったと記憶します。翌朝散歩してみますと、町外れの山際にある宝泉寺が83番札所、境内にある荒川地蔵堂が84番札所になっていました。最後の88番札所は、空海が真言宗に改め、西の高野山とも呼ばれる大宝寺となっています。41年前に、家内と一緒に大宝寺を訪れたと思うのですが、写真フィルムが露光した部分だった様で、何の記録も無く、記憶も定かではありません。
2011.08.23
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41年前、福江島から中通島に行く船便は、どの様な訳があったのかは覚えていないのですが、奈留島で乗継となりました。中通島の青方港に向かったのだと思うのですが、船便の都合で郷の首港だったかも知れません。兎に角、奈留島で都合のよい乗継便がありましたので、この島での滞在経験はありません。1970年の奈留港で降り立った家内、未だフェリー便も無い奈留港は本当に小さな港でした。今回は、友人が51年振りに福江に行きたいと言うので同行、新上五島町青方港から福江島に行く途中、奈留港に寄港しましたので、懐かしく見ますと大きく賑やかになっていて驚きでした。太古丸と言うフェリー船から見ますと、港ターミナルは新しく整備されていて、41年前の記憶を思い起こす景観はありませんでした。こんな訪問機会を作ってくれた旧友には感謝するばかり、私独りの五島行では、福江島へのセンチメンタル・ジャーニーは、永久に実現しなかったと思うのです。
2011.08.22
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オオタニワタリの上を斜めに立って生きている梅の古木、倒れたのは十数年前のことでした。中心部が腐って空洞となり、樹皮の片肺も残っていましたが、養分の通り道としては用をなしておらず、どうにか残る片肺の樹皮で生命を永らえている様でした。その頃は、家内も元気でしたので手伝いを頼み、私が何とか少し持ち上げて、物置にあった角材を支えとする作業をしたのでした。枯れてしまった片肺の樹皮もそのままにしていましたが、今年は取り除くことにしました。その影がじめじめしていて、シダ類が蔓延ってしまい、庭の雰囲気が良くないと判断したからでした。写真でも分かる通り、幹は殆ど無く皮一枚で生きている様子でした。池の渡り石の上に見えるのが、取り除いた片肺幹の鋸で切断した部材の一部です。記念になるかと部材の一部を、衣類宅急便の中に入れて、東京の自宅に送っておくことにしたのです。手前が幹中心部で、腐ってしまっていて空洞となっていたので分かります。年輪の詰りは非常に密で、樹齢は100年を越えているのは確実と思われました。家内の実家で空き家、支えとした角材は防腐剤を塗ってあるのですが、何時まで持つか心もとない状態、十数年前までは、沢山梅の実が生る梅木でしたが、流石に生命力は衰えている様にも見えました。数年後支え角材が朽ちた時には、私独りともなって協力無しの交換力作業に自信が無く、残念ながらこの梅の古木は根元から切り倒さなければならないかも知れません。
2011.08.20
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今回は家内の実家内外の清掃、墓所2ヵ所の清掃、義母の17回忌を果たしただけでなく、友人との蛤浜での海水浴、上五島案内、福江島への2泊3日旅行と、充実したものでした。友人との昔語りにも花が咲き、「50年前の城塚登助教授の“社会思想史”講義は面白かった」等、思いも掛けない話題には、青春回帰の思いがしたものです。離島する前日、榎津神社の奥社に登り、実家と菩提寺を含めた写真を撮ってみました。左端の灰白色の屋根が少し見えて樹木・石垣のある処が家内の実家、右端の元海寺鐘楼の直ぐ右に墓所があります!来年は義務とする行事は無いのですが、実家管理の為に来春にも再訪しようと思いました。帰る日は、朝5時半では五島ではまだ薄暗いものがありましたが、その前の週に友人と共に家内の遺骨を納めた義父母の墓にシキミを供えて、「又来るね!」と話し掛けました。実家に戻って7~8年出せなかったスプレー缶多数を透明袋に入れてゴミ集積所に出しに行きました。旅立ちをすべく、衣類などを段ボールに纏めて、似首郵便局に持って行ってUパック処理し、鯛の浦から午前11時発の五島産業汽船で長崎港に戻ります。岬にマリア像の見える神の島教会が見えますと、長崎港はもう直ぐ、大波止から高速バスで大村空港に行き、JALの当日シニア割引券を無事購入し、東京自宅着は午後7時となりました。友人を含めて、色々な方々にお世話になり、充実した五島行となりましたことに感謝致します。
2011.08.15
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荒川温泉から三井楽に向かう途中にある高浜を目指し、到着直前にスコールが降って15分程車の中で待機せざるを得ませんでしたが、日本一美しいともされる砂浜は成程素晴らしいものでした。10分程で其処を離れ近くの高台、魚藍観音展望所から俯瞰しますと、雲が垂れこみ雨の影響で白砂が映えないのが残念です。高浜海岸は手前で三井楽町に属し、岬の向こうは頬泊、此方の遠浅で玉之浦町に属します。反対側には貝津港と遠くに嵯峨島が見えましたが、41年前には家内と共に大瀬崎から見た覚えがあり、漁業中心でカトリック信者が多いことで知られていました。此処を過ぎて雨は再びスコールとなり、高速ワイパーでも運転が大変ですが、友人が問題無いと言うことで任せ、私はカーナビを見つつガイド役に徹します。何とか見つけた三井楽教会前では、横なぐりの風もあり、教会見学もそれ以上の北上行も断念して南下し、三井楽中心街にある道の駅「遣唐使ふるさと館」で一休みです。1時間ほどで、スコールは止みましたので、白良ヶ浜海水浴場に行ってみました。此処は51年前、友人3人と宿から海水パンツで出て行き、夕方まで白砂青松での海水浴を楽しんだ場所ですが、家内を連れて行ったことがありません。遠浅の海岸ですが、突堤は長く突き出ていて、印象が少し変わっていましたし、雨の影響で砂が白砂で無いのが残念でした。
2011.08.14
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現在の煉瓦造りの堂崎教会は、1908年に建て替えられた、五島最古の洋風建築で、資材の一部がイタリアより運び込まれたと言われています。福江中心街からも、県道162号線を真北に車を30分も走らせれば行くことが出来、それ程遠くありません。五島での教会訪問時は、何時もは100円程度の心付を寄付するのが慣習でしたので、拝観料を取るカトリック教会は初めての経験、一寸奇妙に思われました。しかし、教会内部がキリシタン資料館として整備されていますし、世界遺産ともなりますと観光客も急増することが予想されますので、妥当なのかも知れません。其処から、友人が福江島最北端の糸串鼻まで行ってみたいと言うので、同意して半泊教会経由向かって行きました。対向車があるとすれ違いが出来ない程の山道となり、何とか半泊教会に到着、教会を見ますと訪問客も無く、此処は将に祈りの場になっている様でした。この教会は世界遺産候補にもなっていないので、本来のあるべき姿が残るのでしょう!教会前に広がる半泊浦は綺麗な海岸でしたが、静かすぎて無人と言う気がしないでもありません。あまりに細い山道でしたので、其処から糸串鼻まで行くのは大変だと言うことになり、福江中心街に戻ることにしました。この付近は典型的な過疎地帯で観光資源も無く、道路整備は将来ともされないのだろうと危惧される思われる地区でした。
2011.08.13
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台風による欠航で1日遅れの7月20日に、来島してくれた友人が新上五島町の最南端から最北端に行ってみたいと言うことでしたので、7月21日は南端の奈良尾郷から北端の津和崎郷まで案内致しました。レンタカーはその日限りで返さなければいけなかったのですが、電話確認した処、カーナビ装備のない車でしたら、車を交換して更に1日貸して貰えることになりました。7月22日は、東端から西端まで行くことにしました。前日には運転者も友人を追加しましたので、適宜交代しても良く、殆ど友人が運転し、私は助手席でナビゲーションすることと致しました。頭ヶ島にあった上五島空港は2006年3月に閉港となりましたので、もう5年も経過したことになります。私と家内も2006年2月が最後で、それ以来来ていませんので、やはり5年ぶりです。空港から赤い頭ヶ島大橋が見える景色は、やはり見応えのあるものでした。近頃観光客の多くなった頭ヶ島教会を見て貰い、有川を通過して浦桑商店街で昼食を取るべく戻る途中、頭ヶ島大橋の下の潮流はまるで川の流れの様に急流となっていました。五島うどんを昼食で楽しんだ後、国道384号線を青方から白魚分岐点まで使い、白魚線で若松大橋を渡って若松島に入ります。此処は昨年5月に家内の遺骨を散骨させて貰った処でもあります。写真撮影の一休みをし、若松港には向かわず、日島(ひのしま)に向かいます。途中は人家も少なくなり、海の青さと山の緑が一際綺麗に見えました。有福島、日島共に、若松島から独立した小島なのですが、コンクリート突堤で繋がっていますので、車で行くことが出来ます。4名で来ましたのは10年も前のこととなりました。鎌倉時代から自然石板碑で構成された曲個墓群、墓地としては海岸に打ち捨てられる様に見える奇妙な感じがしますが、リアス式海岸では平地が少ないことから、この様な古墓が造られたのだろうと思われます。
2011.08.12
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友人が51年振りに、福江島に行ってみたいと言いますので、私も41年振りでもあり、同道することにしました。榎津から午前5時半タクシーに乗って青方港に行き、6時着・6時20分発の野茂商船「太古丸」に乗船し、途中若松港に寄りつつ若松瀬戸を縦断し、奈留島に寄港して、福江港着は午前9時過ぎでした。若松瀬戸を縦断したのは、生まれて初めてのことで、家内も経験していない筈です。何とも、魅力あふれる船旅で、客室にいるよりも甲板で写真撮影することが多かったのは仕方がありません。素晴らしき若松瀬戸をスライドショーで見てください!若松瀬戸南端には「ハリのメンド」と呼ばれる石門、その近くには迫害を恐れてキリシタンが隠れたキリシタン洞窟がある筈なのですが、船上からは遥か遠く確認出来ませんでした。此処は自然とロマンが調和して堪能できる素晴らしい景観地です!
2011.08.11
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今年は、団地役員も終わっており、働く方でも会社への名義貸しのみで出社の必要も無く、日程的に余裕がありましたので、五島行前に義母の菩提寺に電話して17回忌法要を7月23日に設定し、家の内外・墓の清掃をする期間を2週間と配慮して、7月7日に五島入り、8月2日に帰京しましたので、滞在27日となりました。先ずは、高枝が伸びて暗くなった庭での高枝剪定、雑草の除去は1次的には1週間で終了、その後微調整を帰京直前まで行いましたので、驚くほど綺麗になりました。次は家の中の拭き掃除、特に中2階は、屋根瓦交換時の古い赤土粘土が床に落ちていて、歩くとモウモウと土煙が立ちますので、何回も雑巾で拭きましたが、綺麗になったとは思えません。しかし、それなりの掃除をしたと思っています。墓所は6年ほど前から、コンクリート敷きにしたのですが、施工結果は良く無く、墓石とコンクリートの間から、雑草が蔓延っていましたので剪定鋏で切り取り、序に鬱蒼としていたヒサカキも強めの剪定をして、綺麗にしておきました。義母の17回忌法要は、菩提寺である新上五島町榎津にある浄土真宗本願寺派の元海寺で、姪2名、義従妹、義母がお世話になった遠い親戚の女性、加えて私の大学同期生が大学時代に義母に世話になったと50年振りと五島観光を兼ねて、来島して参加してくれました。大学同期生の彼のお蔭で、久しぶりに蛤海岸の海水浴も楽しめ、下五島である福江島への2泊3日旅行も出来ました。下五島は青春旅行の地であり、新婚旅行の地でもありましたので、懐かしい種々の思い出も甦えることとなり、彼の来島には感謝するばかりです。
2011.08.10
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家内の父母は、親戚であった大網元の他家に夫婦養子に入り、実父の墓守もしていたらしい。義父は次男格でしたが、長男の義伯父が東京在住となった為、委託されたのだと思われます。義父が逝去して26年、義母が亡くなって16年の17回忌法要でしたが、折角の機会でしたので、20年ほど世話されなかった義祖父の墓の清掃をしてみることにしました。雑草で鬱蒼として蔓草も蔓延り、おまけにガジュマルの木も生えていて、墓名もよく分からない状態、ムカデだけでなく蛇も巣くっている懸念もあり、注意深く雑草の刈り取りをしました。途中、ムカデが出て来ましたが靴で思い切り踏みつけて退治、幸いなことに蛇には遭遇することは無く、ガジュマルの木も鋸で切り倒し、数日で墓石の墓名が分かる様になりました。雑草をゴミ大袋6袋分「燃えるゴミの日」に出したのですが、量が多すぎて「焼け石に水」状態に困り、仕方なく墓所の1角に積み上げて置くことにしておきました。墓所を囲う石柵が廻らされ前面には門柱があった様ですが、崩れて階段横に積み上げられていて、万全復旧とはなりませんでした。それでも、雑草に遮られて、墓参りが出来ない状態は改善されましたので、家内の実家から線香を携えて焼香し、1週間掛けた今回の義祖父の墓守を完了することにしました。
2011.08.09
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新上五島町榎津にある家内の実家は、空き家になって17年が経ちました。義父が60年前に造らせた庭には、石燈籠が3基、真ん中には池があって嘗ては鯉が飼われていたのですが、空き家になってからは注水もしませんので、雨水だけのどぶ池となっています。側壁には亀裂もあり、豪雨の時には水位は上がるのですが、30分程で又元の水位に下がってしまいます。それでもそのまま放置させておきますのは、何時の頃からかトンボのヤゴの生息地になっているからです。よく、ムギワラトンボ、オニヤンマが来て、水面を叩いて卵を産みつけている姿が見られます。毎年の様に、オニヤンマは家の中に入って来て、出る時に網戸に邪魔されていることが多く、簡単に捕まえることが出来ます。今年は、オニヤンマは出入り場所を同じくして捕まえることはありませんでしたが、一寸小型のヤンマが網戸でもがいていました。片手で持って、デジカメで撮影してみましたが、自動焦点が上手く行かず、ピントが外れてしまいました。よく見ますと複眼が青く、胴体の柄も色とりどりで美しいヤンマ、マルタンヤンマでした。榎津の家で見たのは初めて、マルタンヤンマのヤゴも池で生息しているのかも知れません。どぶ池ですのに、藪蚊が少ないのは、色々なトンボのヤゴがボウフラを餌にしている所為でしょうか?
2011.08.08
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9時20分発のハイドロフォイル船に乗る友人を福江港まで送り届けて、五島家庭園に行ってみることにしました。私は新上五島町榎津に帰る為に乗るフェリーは10時40分発なので、十分時間的余裕があったのです。港からは7分程の距離で、五島家庭園に着いたのは9時前で未だ門が閉っていましたので待っていましたら、管理する女性が自転車通勤して来て、門を開けてくれました。入園料500円を支払い、雑草が生い茂るアクセスを通って、庭に廻ってみました。庭の中心となる「心字が池」では、白、黄色、ピンクの睡蓮(スイレン)が沢山咲いていて華やかに見えました。池の周りを歩いて居住家の方をみますと、見事に庭にマッチしています。縁側に腰掛けていますと、管理人の方が来て色々教えてくれました。「国の名勝に指定されましたのは平成3年、神木とされる楠木は樹齢800年、今はスイレンの時期で良い景観なのです。雑草は8月に入りますと業者が入って刈り取って綺麗な庭に戻るのですが・・現在の当主は学習院で今上天皇とご学友で、10年前に福江ご来島の際には旧交を温められたそうです」石田城を築いた五島家第30代盛成公の隠居所として、石田城の一郭に建てられた。京都の僧・全正に命じて造らせたという庭園は情緒豊かで、金閣寺の庭を模したものとも言われている。周囲の庭石と築山はすべて鬼岳の溶岩を用いており、多くの亜熱帯植物を配しているのも特徴です。作庭時期が明確で、建物も一体となって保存されていることや、例の少ない城郭内での庭園であることから国の名勝に指定されている。心字が池は、その名の通り「心」の文字をかたどっており、当主が亀好きだったことから各種の亀石が配置されている珍しいもの、神木ともされる樹齢800年のクスノキが見守っているかのような庭園は、心字が池を中心にした林泉式廻遊式であり、周囲を散策すると、しっとりとした情緒あふれる情感が感じられ、国の名勝に値するものと言える。此処には51年前の夏と、41年前の春に来ています。41年前の新婚旅行と現在、家内がいなくなっただけで、縁側風景に今昔の違いは感じられません。
2011.08.07
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