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新上五島町榎津にある家内の実家は、空き家になって17年が経ちました。義父が60年前に造らせた庭には、石燈籠が3基、真ん中には池があって嘗ては鯉が飼われていたのですが、空き家になってからは注水もしませんので、雨水だけのどぶ池となっています。側壁には亀裂もあり、豪雨の時には水位は上がるのですが、30分程で又元の水位に下がってしまいます。それでもそのまま放置させておきますのは、何時の頃からかトンボのヤゴの生息地になっているからです。よく、ムギワラトンボ、オニヤンマが来て、水面を叩いて卵を産みつけている姿が見られます。毎年の様に、オニヤンマは家の中に入って来て、出る時に網戸に邪魔されていることが多く、簡単に捕まえることが出来ます。今年は、オニヤンマは出入り場所を同じくして捕まえることはありませんでしたが、一寸小型のヤンマが網戸でもがいていました。片手で持って、デジカメで撮影してみましたが、自動焦点が上手く行かず、ピントが外れてしまいました。よく見ますと複眼が青く、胴体の柄も色とりどりで美しいヤンマ、マルタンヤンマでした。榎津の家で見たのは初めて、マルタンヤンマのヤゴも池で生息しているのかも知れません。どぶ池ですのに、藪蚊が少ないのは、色々なトンボのヤゴがボウフラを餌にしている所為でしょうか?
2011.08.08
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9時20分発のハイドロフォイル船に乗る友人を福江港まで送り届けて、五島家庭園に行ってみることにしました。私は新上五島町榎津に帰る為に乗るフェリーは10時40分発なので、十分時間的余裕があったのです。港からは7分程の距離で、五島家庭園に着いたのは9時前で未だ門が閉っていましたので待っていましたら、管理する女性が自転車通勤して来て、門を開けてくれました。入園料500円を支払い、雑草が生い茂るアクセスを通って、庭に廻ってみました。庭の中心となる「心字が池」では、白、黄色、ピンクの睡蓮(スイレン)が沢山咲いていて華やかに見えました。池の周りを歩いて居住家の方をみますと、見事に庭にマッチしています。縁側に腰掛けていますと、管理人の方が来て色々教えてくれました。「国の名勝に指定されましたのは平成3年、神木とされる楠木は樹齢800年、今はスイレンの時期で良い景観なのです。雑草は8月に入りますと業者が入って刈り取って綺麗な庭に戻るのですが・・現在の当主は学習院で今上天皇とご学友で、10年前に福江ご来島の際には旧交を温められたそうです」石田城を築いた五島家第30代盛成公の隠居所として、石田城の一郭に建てられた。京都の僧・全正に命じて造らせたという庭園は情緒豊かで、金閣寺の庭を模したものとも言われている。周囲の庭石と築山はすべて鬼岳の溶岩を用いており、多くの亜熱帯植物を配しているのも特徴です。作庭時期が明確で、建物も一体となって保存されていることや、例の少ない城郭内での庭園であることから国の名勝に指定されている。心字が池は、その名の通り「心」の文字をかたどっており、当主が亀好きだったことから各種の亀石が配置されている珍しいもの、神木ともされる樹齢800年のクスノキが見守っているかのような庭園は、心字が池を中心にした林泉式廻遊式であり、周囲を散策すると、しっとりとした情緒あふれる情感が感じられ、国の名勝に値するものと言える。此処には51年前の夏と、41年前の春に来ています。41年前の新婚旅行と現在、家内がいなくなっただけで、縁側風景に今昔の違いは感じられません。
2011.08.07
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大瀬崎灯台は五島列島最大の福江島の最西端にある、五島観光のメッカです。切り立った150m断崖が15kmも続く景観は素晴らしく、岩場に設置された白亜の灯台はその景観によくマッチしています。此処は1972年の沖縄返還迄は日本の最西端でしたので、51年前に大学の同期生4人で訪れ、灯台まで下駄履きで登り下りしたものでした。又此処は、家内との新婚旅行の地の一つとしても41年前に来たことがありました。その同期生が、是非再訪したいとの希望でしたので、新上五島町から福江島への船旅を経て、レンタカーで灯台近くの駐車場に停め、1.2km先にあるとの案内板があり、徒歩で行くことにしました。薄暗い樹林地帯での急なコンクリート舗装の下り坂が続きますので、ゆっくりと下りましたら約30分を要しました。帰りの上り坂は、杖と言うかストックが無いと大変な急登となり、汗だくだくで40分掛けて漸く駐車場に戻ることにしました。51年前には下駄で来たとは思え無い状況、その頃は薄暗い樹林地帯は無かったのではないかと思われます。41年前の記念写真は、フィルムを出した写真屋で誤ってフィルム露光させてしまい殆ど残っていませんが、形が窺えるものはプリントしてくれと頼み、辛うじて数枚は残っているので、パソンコンで読み込み修正させてみましたが、下記で最善と思われます。今回の辛い登り下りを41年前にしたのかと不思議ですが、家内も27才で若く体力もあったのだと推測するに過ぎません!
2011.08.05
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水之浦教会は、国道384号線に沿った穏やかな水ノ浦の港に面した高台に建ち、我が国最大の木造教会、国宝で木造の大浦天主堂と同様に気高くエレガントな聖堂です。1938年に鉄川与助によって再建されたもので、大浦天主堂を参考にした形跡が分かります。三廊式のゴシック様式で、リブ・ヴォールトの天井が実に美しく、ファサードに見られるレース装飾のような繊細さも備えています。隣接して修道院も設置され、岐宿地区の中核教会となっている様です。この教会には、キリシタン牢屋跡もあって悲劇の歴史を留めているのですが、今回は見る時間はありませんでした。最後のキリシタン弾圧とされる五島崩れは、明治元年(1868)9月頃久賀島から始まり、全五島に拡がったとされます。久賀島の信徒の代表10人は、大浦天主堂の宣教師のもとで再受洗し、異宗教の守り札を所持しないようにとの勧告を受けて帰島した。久賀島全土の信徒約200人が代官屋敷に集められ、松カ浦という牢に入れられた。牢はバラック作りの小屋で、わずか6坪の家に押し込めるというやり方で、大部分の者は人の体にせり上げられて足が地につかない。キリシタンを捨てず牢の中で殉教した者42人となりました。福江島水之浦の信徒達も、大浦天主堂で祝福を受け、この地で信仰を表明したことから、五島崩れと呼ばれる迫害が福江島でも次々と起きていった。維新後の新政府までがキリシタン弾圧を行ったという事実は衝撃的です。新上五島町でのリアス式海岸とは違って、福江島ではフラットな地域が多く、一度摘発されますと、容易に陸路で摘発されると言うことがあったと思われます。明治初期の新上五島町では陸路が殆ど無く、海路でないとアクセス出来ないキリシタン部落が多かったので、五島崩れは少なかったのだと思っています。
2011.08.03
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NHK-BSで、ゆで干し大根が紹介されていました。場所は長崎県西海市で、其処の特産品とのことでしたが、毎年今頃は家内がどう仕入れたのは覚えていませんが、良く食しました。子供の頃から慣れ親しんでいる「切干大根」とは異なり、茹でて太めに干した「ゆで干し大根」には大根本来の美味しさが残っているのでした。関東の切干大根は干瓢に似ていますが、細くて腰が無く、大根の味と言うより、含ませた調味料で味が決められる、他人本位な食物だと思うのです。ゆで干し大根はそれ専用の品種を使い、とれたての大根を茹で、1~2昼夜、冬の寒風の下で天日乾燥して作りますが、「ボイルしている」のが美味さの秘密とされています。甘みがたっぷり乗って、出来上がりはほんのりあめ色。自然の恵みをぎゅっと詰め込んだ健康食品だから日持ちが良く、 お台所の常備食品として最適です。ヘルシー食品カルシウムは干し椎茸の30倍で、もちろん繊維もたっぷりで、美容と健康の頼もしい味方です。切り干し大根は、大根を細く切り、天日で干して乾燥させた食材である。太陽の光を浴びることで、糖化されて甘味がさらに増し、栄養価も増加する。 骨や歯を丈夫にするカルシウムは15倍、悪性貧血を予防する作用がある鉄分は32倍、代謝を促進するビタミンB1・B2は10倍と、栄養価は非常に高い。又、食物繊維が豊富に含まれ、コレステロールを体外に排出し動脈硬化を予防する作用や、便秘を改善し大腸ガンを予防する作用、美肌にも効果的に働く成分である。食物繊維は食後、胃や腸の中で水分を吸収し膨らみ、少量でも満腹感が得られるため、ダイエットにも効果的だ。昔ながらの関東の切干大根は好みで無く、長崎のゆで干し大根を食してみたくなりましたが、残念ながら我が家には買い置きが見当たりません。家内は毎年五島に行ったついでに買って帰って来たのか、親類から送って貰ったのかは今となっては分かりません。家内の故郷の五島列島は、長崎県西海市の対岸ですから、ゆで干し大根はお店で売られていたのです。今度行きましたら買って帰ろうかと思っていますが、暑い季節になりそうですので、その内忘れてしまう様な気がします。
2011.02.20
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五島列島の中通島新上五島町の西沖に、小さな無人島が二つ目立って見えます。特別に知られた島でもなく、地元の人以外には知る人も殆ど無い島です。この画像は従妹が新上五島町似首郷の郷墓所から撮影したもので、10月末で空気が澄んで来た季節ですので、島の様子が遠くからでも良く見え、その間の荒れた海を高速船が航行しているナイスショットです。空港が閉鎖されてしまった頭ヶ島からも近く、友住郷あたりから多分渡海船で渡れる様になっている筈で、二つの無人島はロクロ島と共にメジナ釣りを狙う釣り人のメッカとされているからです。名前が付けられていて、二瘤の山があるのが野案中(のあんじゅ)、平坦に見えるのが山案中(やまあんじゅ)と呼ばれています。時々どちらがどうなのか分からなくなりますので、義理の叔父から教えられた「山案中に山無し」等と言われているのを思い出して識別しています。五島の旅行案内書にも記載されてはいませんし、名付けられた由来も調べたこともありませんが、ロマン誘う無人島と思い、訪問すると、朝な夕な、良く眺めさせて貰っています。義理の叔父も亡くなって5年余経ち、今年は7回忌となります。似首郷-事代主神社
2011.01.20
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今日は亡くなった家内の68回目の誕生日です。中国(旧満州)の大連にあった満州鉄道社宅で生まれ、実際の誕生日は大晦日であったらしいのですが、届け出が年始になったことで1月3日となったと聞いていました。昨年は悲しいものがありましたが、1年経過してみますと悲しさは消え、寂しさだけが募って来ます。「忘却とは忘れ去ることなり」とは言われますが、故人の誕生日を記憶して、忘れることなく陰ながら祝うのは、生き残った私の務めかも知れません。元旦に押し入れから、何の気なしに41年前の油彩を出しましたが、新婚旅行で訪れた下五島である福江島の井持浦教会の景色でした。家内には福江市(現 五島市)内に親戚もいたのですが、福江島最西端の玉之浦、荒川温泉、井持浦教会へは初めての訪問だったのでした。此処はルルドの奇跡を模した、ルルド泉があると言うことで知られていました。五島のカトリック教会にはルルドの泉が多いのですが、此処が発祥の地で、日本最初の事例であると思っています。この教会も建て替えられて近代的なレンガを使った建築になり、今は昔の古びた教会ではなくなりました。そんなこんなもあり、この絵を見ると遠き良き思い出となりますが、家内の故郷である上五島には行きましても、もう下五島の方は行くことはあるまいと思っています。この写真は、次男が電気自動車調査で下五島を訪れ、1月6日に井持浦教会に行き、携帯で撮影しメールしてくれたものです。教会はすっかり新しく変わっていますが、周辺はそのままの様です。
2011.01.03
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1週間掛けて、家内の実家の庭を綺麗にしました。何故こんな立派な庭を造園したのかは定かでありませんが、石燈籠が3基あり、飛び石も配置、石組主体の築山もある池もあって、まるで高級料亭の庭と思われても不思議ではありません。周囲に植栽されて竹は、処構わず庭の中を這いまわり、放置すれば竹林となるのは必定となりますので、若竹を中心に60本程伐採して、暗かった庭の雰囲気を一変させることが出来ました。しかし、離島の町村合併の際に、樹木枝・竹類は捨てられなくなってしまいました。町村合併前の新魚目町では、40cm以下に切り揃えて紐で括れば、燃えるごみ収集の日に出して持って行ってくれたのですが、それも駄目になりました。仕方なく石垣の処に積み上げて、我慢することにしましたが、管理人としては不満です。新上五島町では、「ゴミ減量」をスローガンにして、伐採した枝・竹類の収集を停止したのですが、納得がいきません。エコロジーの観点からも緑の管理は重要で、街の美化にも役立つのに、何故止めてしまったのでしょう。確かに、昨年は業者に6万円支払って庭の高木伐採、伐採竹類の撤去作業を発注したのですが、毎年では費用的に個人負担額が大きいのです。緑地保全は、住民の自主管理では無く業者のビジネス展開の方が良いとでも言うのでしょうか、現在の自治体方針は変更して行くのが妥当です。
2010.09.06
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家内の実家は、明治時代に建てられた家で、多分130年は経っているものと思われます。海岸から近いことから、外板には潮風による劣化を防ぐ塗装がされているのですが、住む人も無くなり、殆ど禿げてしまっています。亡くなった家内の記憶に依りますと、玄関横の窓ガラスのある応接間は、元来土間だったとのことでした。構造的には中2階を持ち、土間から種々のものを引き上げて貯蔵庫として使いつつ、玄関上に見える窓位置には小さな部屋も設置して勉強部屋等にも使ったらしいのです。昔は台風も良く襲来したことから、屋根には粘土を敷き詰め、その上に瓦を葺いていましたので、粘土が断熱材としての役目を果たしていた様です。此処は漁村・漁獲輸送中継地でしたから土地が制約され、庄屋・網元と言えども、土蔵を建てるスペースは無かったので、断熱された中2階が貯蔵庫として使われ、小作米を大量に貯蔵しても劣化することが無かった様です。今回、中2階に登ってみますと、粘土の粉末で床が泥だらけでした。義母の晩年は独り住まいだったのですが、雨漏りに苦労していました。その後、骨粗鬆骨折をして動けなくなり、義母は最後の1年、五島から我が家に来て、1年過ごして亡くなったのです。それから毎年、私と家内で管理をしていたのですが、雨漏りで畳も駄目になりつつありましたので、10前に思い切って瓦を葺き替えたのです。屋根上の粘土はすっかり取り払われ、屋根板の上に直接瓦が置かれることになりました。今回、中2階を掃除してみようと登ってみますと、泥だらけですので、箒とチリトリで掃き掃除をし出しますと、濛々たる埃で窒息しそうになりました。断熱材の無くなった中2階は、まるで蒸し風呂状態で作業も捗りません。これでは貯蔵庫としての役目は果たせませんし、先人の知恵は大したものだと認識出来ました。その後、何回も雑巾で床の拭き掃除をしたのですが、10年の蓄積はなかなか綺麗な状態になりませんでした。柱、上部の梁には、雨漏りで流れ落ちた粘土の痕跡が数多く見られました。130年経過しましたが、適当な管理をして行けば、未だこの家は持ちそうな気がします。
2010.09.05
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今年の五島行の帰りの飛行機が午前10時45分でしたので、その前日、長崎大波止、県庁近くのビジネスホテルに泊まりました。五島産業汽船の乗客用の1000円割引券を頂戴して、朝食付きで4500円と言う格安、デフレ基調が進行する状況でホテルの営業も大変だろうと考える始末でした。朝食を取り終えて朝7時半でしたから、大波止から長崎市電に乗って大浦天主堂まで行ってみることにしました。乗継券も含めて120円ですから、庶民の公共機関として便利に使えます。「大浦天主堂下」停留所を下りて、オランダ坂方面に向かいますと、坂下にはチャンポン発祥の店と知られる四海楼が見えました。しかし、此処には観光客が多いことから、作り置きのチャンポンを供する様に思えて美味しくなく、チャンポンお勧めの店ではありません。坂には土産物のお店がずらりと並んでいるのですが、朝早く開店前でシャッター通りとなっていました。大浦天主堂も門限前で閉っていましたが、混雑の無い静かな雰囲気に浸ることが出来ました。家内と五島航路出発前の数時間を利用して、四海楼で食事をし、大浦天主堂、グラバー園を訪問したのは6~7年前のこととなりました。その頃は、未だ新上五島町似首郷に住む家内の叔父さん・叔母さんも存命で、五島行で会えるのも楽しみでした。義叔父は逝去から5年、義叔母は2年、家内は1年、月日の経つのは速いものですが、人生も晩年を迎えた自覚もひしひしと感じ、寂しさが募ります。
2010.09.03
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中通島の最北端の津和崎郷まで来ますと、野崎島は目の前です。昔、九州商船の佐世保発上五島航路は北周りと南回りが交互に出ていましたので、榎津郷に行く際に時々北周りを利用しました。北周り航路は佐世保から宇久島、小値賀島、立串、小串を経て榎津着となるのですが、小値賀島から立串間は、津和崎瀬戸を通過しますので、野崎島は本当に眼の前でした。津和崎郷に入る坂道から望みますと、野崎島に段々畑らしきものが見えました。「野崎自然学習村」が整備されて、夏休みの学習用に畑でも作ったのでしょうか?野崎島は小値賀島東端の約2km東に位置する。島の南西部は中通島北端に近く、両島の間(津和崎瀬戸)の最も近い部分は約600mの間隔である。一般には五島列島に含められることが多いが、長崎県では平戸諸島の一部としている。1970年代には極端に人口が減少、1971年にカトリックの住民が島を離れて無人島になった。現在、島には野生の鹿(キュウシュウジカ)が700頭以上生息している。無人島ではあるが、旧野崎小中学校の校舎を利用した「野崎自然学習村」が整備され、小値賀町によって運営されている。また2007年には旧野首教会が「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の教会の一つとしてユネスコの世界遺産暫定リストへ掲載が決まっている。野崎島で多くなり過ぎた野生の鹿が急流の津和崎瀬戸を泳いで渡り、中通島での鹿被害が拡大しています。加えて山深くにいたイノシシも人里に出没して被害も増え、5月には山道で車の前を横切るイノシシにも遭遇しました。兎に角、住む人の少なくなった限界集落に押し寄せて来る野生の生命力には凄まじいものがあります。
2010.09.01
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新上五島町榎津郷に家内の実家の菩提寺があります。墓所は本堂脇の一等地に位置し、墓石が13基あって、墓所門脇の石燈籠2基を含めると壮観なものです。供花の目的でシキミ、ヒサカキも植栽されていますので、線香と鋏を携えて行けば、墓参も出来るように設計されているのです。家内の兄達が亡くなってその姓を接ぐ男子がいませんので、世話をする墓守もいなくなり、将に無縁墓地になろうとする悲しい定めとなりつつあります。尤も、近所の人達に依りますと、代々檀家総代を務めていたことで十分菩提寺に貢献しましたので、永代供養をして貰える権利はあるのだとのことでした。私の知る限り住職も3代替りましたので、そんな約束は反古にされても文句は言えないのだろうと思っています。来年は義母の17回忌ですが、弔う人達も新上五島町は遠く墓参も叶わないとのことで、私が家内の供養を含めて菩提寺に出向き、義母の法要を行う積りです。しかし、来年度は私も70才となりますので、その後どのようにしたら良いか思案投げ首の状態です。榎津郷は高齢者ばかりの限界集落ですので、将来の集落存続も不安視される処なのです。
2010.08.31
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新上五島町に残る家内の実家は空き家となってから、16年となりました。庭には石庭風の池が残っていて、給水することは無いのですが、雨水で枯れることはありません。尤も、側壁に亀裂があるらしく、水位は至って低いのですが・・此処は昔日大きな鯉がいたのですが、今ではトンボのヤゴの生息地となっていて、シオカラ・ムギワラトンボに加えて、オニヤンマも良く飛んでいます。どぶ池ですから、藪蚊の大群が発生する筈ですが、殆どがヤゴの食糧となるらしく、あまり蚊に悩ませられることもありません。特にオニヤンマのヤゴは数年かけて羽化すると言われていますので、この溜り池は生命線とも思われるのです。榎津滞在中には、シオカラ・ムギワラトンボは池周辺を飛び回るだけなのですが、オニヤンマは庭の窓から良く入って来て、家の中を飛び回っています。普通は、家の中を徘徊して飛び回って、その内窓から出て行くのですが、先日は偶然1枚の網戸閉めていたのです。その網戸に止まっていたオニヤンマを逆光気味の状態で撮ってみましたが、なかなか魅力的です。網戸を開けて逃がそうとしたのですが、動かず戸に挟まれそうになりましたので、羽を捕まえ空に放り投げて、飛んで行って貰いました。
2010.08.30
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海の青、山の緑に映える赤波江教会、この写真は5~6年前、一本松と言う小さな漁村から撮ったものです。山道を通って訪問してみますと、本当に小さな教会でしたが、野崎島も近く風光明媚な場所に位置していました。教会内部も極めて簡素な祈りの場となっていました。住所は長崎県南松浦郡新上五島町立串郷字谷ノ坂子、仲知教会の巡回教会となっている。明治17年(1884)創立され、昭和46年(1971)に改修完成した比較的新しいもので、赤屋根と白壁が鮮やかで、遠くから見ても目立つ存在となっている。この様に生活に密着した教会は、観光バスも通れない山道を行かねばなりませんし、遠くに見て浪漫を感じることを最善とし、世界遺産に登録すべきものではありますまい!
2010.08.29
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新上五島町最北端は津和崎郷となりますが、郷外れの米山地区には小さな白いコンクリート製のカトリック教会があります。住所は長崎県南松浦郡新上五島町津和崎郷589で、仲知郷にある仲知教会の巡回教会となっていて、使徒聖アンデレを保護者とする教会。明治36年(1903)信徒の希望により聖堂を建立したが、老朽激しく現在の聖堂を昭和52年(1977)建立した。訪れました時は、神父による祝福ミサと讃美歌が聞こえて来ました。どうも「神父と共に祈りつつ教会巡り」のバスツアーが行われていた様で、小さな駐車場は満杯状態でしたので、少し離れた道路脇に駐車しての訪問となりました。此処は、家内と2回程中通島最北端の津和崎灯台を訪れた際通っているのですが、この米山教会には入ったことがありませんでした。10年ほど前から夏の教会巡りは、私と家内の年中行事となっていたのですが、遂に終焉となりました。独りで行っても面白くないものです!
2010.08.28
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五島列島でのレンタカーは電気自動車(EV)に替りつつある様です。五島産業汽船の新上五島町「鯛の浦港」でも、三菱自動車の「i-MiEV(アイミーブ)」が4~5台配備されてレンタカーとして利用されています。一般には1回充電すれば160km走行できるとされていますが、配備されているEVは推奨50km(昨年配備なのに水素電池なのでしょうか?)、街中には充電器インフラが整備されておらず、レンタカーを返す時に充電してくださいとのことでしたので、今回は通常のガソリン軽自動車を借りることにしました。新上五島町では北端の津和崎迄行っても片道30km、通常は支障がありませんし、ガソリン満タンで返却、ガソリン価格170円/リッターを考えると、少なくとも1000円以上は節約出来そうで、可なり割安になりそうです。今回は3日間レンタルで、ガソリン代2000円でしたから・・返却する際、1時間程余裕を見て備え付けの急速充電器で30分充電すれば良いのです。急速充電器およそ15~30分程度で充電する高速タイプの大容量・急速充電器で、立ち寄り感覚で充電できるエコステーションやコンビニ、自治体などの公共機関や、中距離・長距離運転用に高速道路のサービスエリア、パーキングエリアに最適。来年、五島行の場合はレンタカーはEVにするのがお得と思われました!
2010.08.27
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大波止から、長崎港の港口(長崎市戸町~木鉢町)に架かる斜張橋、女神大橋(愛称「ヴィーナスウィング」)を過ぎると、三菱重工の香焼島100万トンドックでのLNG船の建造風景が見え、リゾート地として名を馳せている伊王島を南に見つつ、五島灘に入ります。新上五島町鯛の浦港には、大波止から1時間40分の船旅で、午後6時40分着となりますが、島影が見えて来ましたら、飛魚の飛んでいるのが見えました。長崎より西方に位置しますので、今でも午後7時過ぎまで明るいのです。いよいよ飛魚漁の季節になって来た様ですが、昔日は大きな飛魚は「塩アゴ」として食し、小さいものを「焼アゴ」として出汁専用にして来たのですが、近頃は大きなものが獲れなくなったのか「塩アゴ」を店で見ることが出来なくなりました。海面から0~10mの高さで、場合に依っては200m以上も飛ぶと言います。 小骨が多く、脂が少なく淡白過ぎる味であることから、関東以北ではあまり食べられませんが、南西日本では夏の味として親しまれています。干物・乾物にして保存しても脂肪が酸化してまずくなる事が少なく、 逆にタンパク質がアミノ酸に分解されて旨みが出てきます。長崎から佐渡近辺までの日本海側ではトビウオをアゴと呼び、 幼魚を素焼きして乾燥させたものをダシ(出汁)に使います。特に長崎では正月のお雑煮に欠かせません。マスコミ等で知られるようになった「五島うどん」(長崎県南松浦郡新上五島町でつくられる郷土料理)も、アゴ出汁を使って食べるうどんである。
2010.08.26
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NHK朝の漢詩紀行で紹介されて、映像付で解説されていました。江碧(こうみどり)にして鳥逾(いよいよ)白く山青くして花然(も)えんと欲す今春(こんしゅん)看(みすみす)又過ぐ何れの日か是れ帰年(きねん)ならんこの5言絶句は、私自身中学校では無かった漢文の授業が高校1年で始まった折、1957年度1学期の漢文科目試験で出されてもので、53年も経つのですが良く覚えています。設問は「この詩の魅力は何か?」と言うことで、私は「故郷に帰れない悲しみ」と回答したのですが不正解で、正解は「碧、白、青、赤の対比が素晴らしい」と記憶しています。【通釈】錦江の水は深いみどり色に澄み、飛び遊ぶ水鳥はいっそう白くみえる。山々は青々と茂り、花は燃え出さんばかりに真っ赤である。今年の春もみるみる内に過ぎ去ろうとしている。一体、何時になったら故郷に帰れるときがやって来るのであろうか。【鑑賞】杜甫がこの詩を作ったのは、戦乱のため都を遠く離れて、蜀にいた時である。故郷を遠くはなれた地で、帰れるあてもない、やり切れなさをうたったものである。前半は、碧・白・青・紅とあざやかな色を使われて、いかにも美しい蜀の春の風景を余すところなく表現している。私にはこれ程の故郷はありません。家内は大連生まれですが、引き揚げて育った五島がそうなのかも知れません。25年以上毎年、一時帰年していましたので悔いは無いと思っています。
2010.07.27
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日曜日に義兄の墓が完成し、開眼法要と納骨法要がありましたので行って来ました。場所は横浜市旭区二俣川にある二俣川霊園、1年程前にオープンした真新しい墓所でした。霊園係員が来て、骨壷を納骨堂に収めて封印してくれましたので、遺影を墓に置いて供物供えて合掌、直ぐに霊園手配の住職が来てくれまして、「建碑式と納骨法要を行います」と言い、読経を始めました。浄土真宗では全て煩わしいことは省略、開眼法要(建碑式)も行わないとも言われていますが、場所々によって臨機応変に調整するらしいと納得することにしました。義兄は家内のすぐ上の兄で、逝去しましたのは2年半前のことで、その遺骨を葬式をしてくれたお寺にずっと預けていたのですが、所定の墓所に入ることになりました。3回忌も既に昨年末に行いましたので、納骨法要は遺族2人と私だけの参列だけで、ひっそりとすることにしたのです。これで家内の親、家内を含めて満州生まれの兄弟は、全て亡くなりましたので、五島の空き家を訪れる人達もいなくなり、寂しいことになりました。一昨年までは、家内と私が年に2週間程、メンテナンスをして来ましたが、段々と老化している度合いが加速しているかと懸念していました。今年は取り敢えず、庭の高木剪定を数本登ってし、東側窓のすだれ2本を取り替えて窓ガラスが割られない様にしてだけ・・家内亡き後暫くは、私が面倒を看なくてはいけませんが、何時まで限界集落の家の世話が出来るのか自信はありません。
2010.06.02
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五島から持ち帰った油彩、キャンバスのままですので、画材専門店「世界堂」に額縁を探しに行きました。何時ものメタルフレームのものかと探していましたら、店員さんが最近入った木製フレームがお勧めと言うので見てみましたら、金色塗装がされていて一寸派手なのですが、油彩背景を緑色にしてありますので、色の対比も良いかと購入することにしました。価格は5%引きで9200円、見込み予算の5000円を大きく越えてしまいましたが、妥当な買い物だったと思いました。早速、油彩を額に入れて居間の壁に掛けてみました。23年振りの帰宅、「お帰りなさい!」と言った処でしょうか。良く見ますと頭部は右から光線、シャツ部分は左から光線で矛盾がありますが、23年前に一人暮らしの義母の慰めにして貰おうと、頭部だけを仕上げて急いで送ったからだったのでしょう。五島の空き家の仏壇には、細加工した遺骨を少し残して骨壷に入れて、亡くなった義父母、義兄と共に暮らして貰うことにしました。
2010.05.29
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頭ヶ島にあって閉港となった上五島空港の近くに、坂本龍馬ゆかりの里があり、海岸に「坂本龍馬ゆかりの広場」が設けられています。9年前に家内と仲良し従妹2人と連れ立って行きました時は、訪れる人も無く、綺麗な海だけが印象的でした。今回は仲良し従妹1人が9年振りに見てみたいと言うので行ってみましたら、NHK大河ドラマの影響は五島でも便乗して観光地化されていました。今年建立した坂本龍馬のブロンズが設置され、道沿いに結構な数の幟旗もひらめいていました。後方に見えるのは閉港となった頭ヶ島空港、青い海が印象的なのは変わっていませんでした。それでも、訪れる観光客はあまり多くありませんのは、アクセスが良くない所為なのだろうと思われました。1866年5月22日、亀山社中の洋型木造帆船ワイル・ウェフ号が、長崎から鹿児島への航海中、嵐に遭い航行不能となり江ノ浜郷沖の潮合崎まで流されて難破した。このいわゆる「潮合崎騒動」では、乗組員16人中12人が溺死。大砲、小筒、地金などの積荷も船もろとも沈んでしまった。五島藩はのべ人足875人、船123隻、海士230人、羽差(鯨組の人夫)72人を動員し、積荷を引き揚げ、遭難者を埋葬して供養した。社中の同士、同郷の池内蔵太を失った龍馬も一月後、社中一行と現地を訪れ、庄屋に慰霊碑の建立を依頼、その碑文は龍馬自身が書いたといわれる。龍馬の傷心は深く、この事件が亀山社中、斜陽のきっかけとなった。碑は江ノ浜郷共同墓地の一角に、遭難船の舵取棒が展示してある。実際に坂本龍馬が来訪したのではなく、代理人が来たとも言われており、その辺の史実については私は調べていませんので、定かでありません!
2010.05.25
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五島を離れる前日、若松港で散骨しようと出掛けました。此処は家内が幼時からよく遊びに来た処で、思い出深いと思ったのです。処が、若松町に住む家内の親戚の未亡人が、「若松大橋から散骨する方が景色も良くていいわよ」と言うので、車に乗って頂き、2人で散骨したのです。風の強い日でしたので、粉骨は風に乗って何処に行ったのかはよく分かりませんでした。お宅に戻って、お礼を言っての帰り道、対岸の上中島公園の「風の展望台」に登ってみました。数年訪れたことが無かったのですが、桜の木が大きくなり展望が悪くなっていたのは残念でしたが、樹間から見える若松大橋を眺めつつ「あの橋から散骨したのだ」と思って、感慨に耽りました。若松大橋(新上五島町若松郷)西海国立公園・若松瀬戸に架かる全長522mのトラス橋。橋の両側には潮の香薫る守崎公園・上中島公園、海沿いの遊歩道等があり若松瀬戸と、瀬戸に映える大橋を一望することができる。上中島展望所、龍観山展望所からは、瀬戸の多くの入江・岬・大小の島々・透き通る海からなる大自然を満喫出来る。
2010.05.23
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家内と仲良しの従妹達が住んでいる似首郷に行き、岸壁に設置されている階段を下りて、海面に1袋ずつ散骨しました。透き通った碧い水中を白い粉骨がゆらゆらと沈んで行く様は美しいものでした。従妹の家の墓所から見た似首郷集落、国立公園外ではありますが、綺麗な景色です。家内の育った榎津の空き家に戻り、近くの川野家海浜に行きましたら、丁度家内を良く知る知人に遭いましたので、一緒に波打ち際まで行って、波に向かって投げ入れ散骨をして頂きました。此処の海浜は狭いのですが、子供達を連れて海水浴をしつつ、サザエをよく取った場所です。小さな烏賊が泳いでいたりし、奥まった穴にはウツボを見ることもありましたが、現在は海焼けで海藻が極端に減り、生命感が薄れました。コンクリート護岸工事で山の栄養が海に流れ出なくなったことと、高潮対策で海浜にテトラポッドを置き過ぎて新鮮な海流が来なくなったことの複合理由で、動植物プランクトンの発生が極端に減った気がしています。処で、遺骨に意志はありませんので、弔う人の想いが優先するのでしょうが、兎に角故郷に返してあげられたことは、せめてもの喜びでした。その後1週間、空き家に寝泊まりしている間、3回程散歩を兼ねて行ってみて、此処も美しい処だと再認識致しました。
2010.05.22
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江袋教会を訪問した帰り道に、小瀬良教会に寄ってみました。此処は狭い道沿いにあり、車を停める場所も見当たらないので、何時も素通りでした。車道脇に寄せて駐車し、きつい山道を登って行きますと小さな教会がありました。外壁も綺麗で、屋根も塗り替えてありました。内部も至ってシンプルで、完全に集落の祈りの場と言った感じで、世界遺産の一部であるべきではないとの感想を持ちました。車道に戻って、集落の人に「毎年のように通っていますが、綺麗になりましたね!」と問いかけてみますと、「数年前に塗り替えたのです」との答えでした。新上五島町の教会は、結構な数を訪れていますので、写真集は下記をご覧ください!上五島の教会群写真を写しませんでしたが、この他にも行っており、焼崎教会等もそれらの一つです。近頃、教会巡りのツアーは人気があるらしく、今回の上五島行でも40人程の団体観光バスに出会うことがありました。離島に散在するカトリック教会群は浪漫を誘うのだと思われますので、開放教会群を定めての観光振興による地域活性化も必要なのでしょう!
2010.05.21
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鯛の浦港で2日間借りましたレンタカーを、5月12日夕刻に有川のターミナルに返しに行く途中、午後4時頃に蛤浜海岸に寄りましたら、シーズンオフですので殆ど人影が無く、犬の散歩をしている方に遭っただけでした。潮が退いていて、波打ち際までは200~300mは白い砂地が広がり、美しい景色となっていましたので、靴のまま浅瀬を越えて行きました。波打ち際の小さな瀬の流れに遺骨粉骨を撒きましたら、蛤の白い粉と見分けが付かなくなってしまいました。家内とは1960年8月に出会い、それ以来蛤浜には、独身時代、結婚しての家族連れ、子供が成長してからは夫婦二人、と良く来ていたものでした。出会いから50年、厚情を掛けてくれた交情も遂に終焉を迎えることとなりました。それにつけても、せめて家内の一生が充実したものだったろうと願うばかりです。榎津の空き家にあった、私の拙い油絵を持ち帰って来ました。義母の独り暮らしを慰めようと、23年前に家内にモデルになって貰い描いたもので、当時44才、若白髪が目立ち始めた頃ですが、髪がふさふさと多いのも印象的です。
2010.05.20
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江袋教会が復元されたと言うニュースを聞き、5月11日午後、其処を訪問してみました。昔と変わらない姿を見ることが出来たのは嬉しいことでしたし、中に入って献金箱に些少な額を入れさせて頂きました。教会によくある尖塔がありませんので、ステンドグラス窓が無ければ普通の民家にしか見えません。一部焼け残っていた柱や梁(はり)の骨組みを生かしながら修復したらしく、ほぼ昔通りの雰囲気でした。2007年2月に漏電火災で焼損した長崎県新上五島町の江袋教会が復元され、5月9日に落成式があった。信徒ら約150人が感謝の祈りをささげた。同教会は1882年に創建。日常的に使われる教会としては国内最古だった。台形の屋根やこうもり傘のような形の「リブ・ヴォールト天井」が特徴。焼失を免れた柱や梁(はり)は修復して使い、壁面は赤や黄の鮮やかなステンドグラスで彩られる。火災は、漏電が原因とみられ約200m2を焼いた。ただ、柱や梁(はり)の骨組みは一部残っており、焼けた木材の表面を合成樹脂で覆うなど残存部を生かしながら修復。調査工事費を含む総工費は約2億円。県や町からの補助金のほか、同教会を所有するカトリック長崎大司教区が寄付を呼び掛けた。火災後の2007年4月に町有形文化財に指定。現在、県有形文化財指定に向けた手続きも進められている。しかし火災となりますと、ステンドグラスは全損となるのは致し方無く、2003年に訪問した時にあった明治時代の美しいステンドグラスは永久に失われてしまった様です。この時は、家内及び仲の良い従姉妹と共に、義叔父に一番美しいステンドグラスがあると言われて出掛けたのでした。既に義叔父・叔母も亡くなり、家内もいなくなり、一人での訪問、全て寂しくなりました。
2010.05.19
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スミレ(菫)は、スミレ科スミレ属の植物の総称で、種類も多様で驚くほど多くの種類がありますが、これは種名も単純にスミレ、深い紫色の花を咲かせてくれます。スミレ(Viola mandshurica)葉は根際から出て、少し長めの葉柄があって、少しやじり形の葉をつける。花は独特の形で、ラッパのような形の花を横向きかやや斜め下向きにつける。5枚の花びらは大きさが同じでなく、下側の1枚が大きいので、花の形は左右対称になる。道路縁に群生平地、山間部から都会まで、都会ではコンクリートのひび割れ等からも顔を出す。日当たりの良い野原や田畑などのあぜ道などに見られる。花期は3~6月、草丈は7~15cm、分布は日本全土で生育地は日当たりの良い場所とされる。スミレ愛好家は本種を指す場合、この名に由来するマンジュリカで呼ぶことがある。このスミレ(Viola mandshurica)マンジュリカの繁殖力は、立ち壺スミレに比べて弱い様で、地植えで同じ場所ですと駆逐されてしまいそうですので、毎年その一部を鉢植えにしています。小さな庭には、種々のスミレ、ムスカリ等が咲き溢れていますし、濃い紫の「都忘れ」も花芽を出しつつあり、紫色の目立つこの時期が一年中で生命感に満ちていて一番好みです。
2010.04.06
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海恋し 潮の遠鳴りかぞへては 少女となりし 父母の家 与謝野晶子家内が3才で満州から帰国、高校卒業まで暮らした義父母の家、新上五島町榎津郷にあり、空き家になってから16年になりました。義父が亡くなる25年前までは、海水浴を兼ねて、家族4人でよく五島を訪ねていました。義母は9年間独り暮らしをしていましたので、必ず8月初旬の1週間、夫婦2人でその様子を見るのに訪ねました。義母逝去後、16年間毎年1~2回夫婦で行って、家の中の風通し、ガラス窓の手入れ、庭の草取り、庭木の剪定などをしていました。義父母が亡くなり、家内を含めて兄妹3人が亡くなってしまいましたので、伴侶である私にはこの家内の実家には一切の権利は無く、私の息子を含めて孫4人が継承することになりましたが、余りに遠く誰もいない空き家、彼等に訪れる機会は殆どありません。少子高齢化の限界集落ですから、売却も出来そうに無く、今後の処し方は思案中ですが・・来年は義母の17回忌ですから、家内の供養も兼ねて、未だ数年面倒を見ようかと思っています。50年前の蛤浜での母子、親戚と!今さらに 我れくやしくも 七人の 子の母として 品のさだまる 与謝野晶子家内も二人の子の母として人生を甘受していたのでしょうか?時代は専業主婦が殆どでしたので、敢えて我慢してそうなったのかも知れません!
2010.03.05
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この書籍は、家内の叔父西村次彦氏が記した労作、自費出版して関係者に配られたものでありますが、優れた漁業史としても認められ、長崎・佐賀辺りの図書館では多く所蔵されている様です。西村次彦氏は大正3年(1914年)長崎県南松浦郡魚目村榎津郷に生まれ、8才で父母に死別、長兄に育てられ、東大冶金学科を昭和11年(1936年)卒業、当時は日華事変と日支事変もあり冶金学科は秀才の集まる処だったので、相当の秀才でありながらも刻苦奮励の努力したのだろうと思われます。卒業後直ぐに神戸の川崎製鉄に入社、エンジニアとして将来が嘱望されていましたが、当時の製鉄業は今で言う4Kの職場、 生来頑健な体質では無かったので、その選択が災い、1年足らずで結核を発症、須磨、長崎と療養生活を続け、昭和19年(1944年)郷里の五島に帰り昭和39年(1964年)まで自宅での療養生活、病状が悪化諫早市の病院への入院に至るも1年半後永眠となりました。「白鷺や故山まづしく海に伏し」と俳句する程、行き詰った離島漁村の打開策に心をくだいたのですが、志半ばで倒れることになったのは誠に残念なことでした。それにしましても、こんな壮絶な人生もあるのだ、周りの人達も大変だっただろうと思い遣るばかりです!
2009.10.10
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昨日のブログ日記はメールにして家内の親戚に送ったのですが、次の様な返信がありました。昔、あたしたちが小さい頃、毎日のように福山に行っていました。ユリヤ側の三畳が祥子姉ちゃんの部屋で其処にはあたしたちがあこがれる素敵なものが沢山ありました。葵ちゃんはいつも雑誌「それいゆ」に夢中でしたし、つたえはオルゴールを聞くのが大好きでした。そのオルゴールの曲が「河は呼んでる」でした。西洋音楽との出会いが「河は呼んでる」だったとよく思い出したりしていました。あたしたちにとってもとってもなつかしい曲なんです。その頃から祥子姉ちゃんは静かな優しい人でした。 つたえ体気をつけてください。爪もみは誰にもいいのでしてみてください。落ち着きますよ。歌いいですね!私たちは~フランス川の~と歌ってたなあ。 葵家内の小中学校時代については私も殆ど知りませんので、そんなこともあったのかと思いつつ、昨日病室で歌った「河は呼んでる」は家内が娘時代から好きな曲だったのだと感慨深く読ませて頂きました。
2009.10.04
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先月、新上五島町の空き家での高木伐採を業者に依頼して帰京したのですが、ようやく工事が済みましたと電話連絡があり、写真類が郵送されて来ました。上の画像が工事後業者が撮ったもの、下は私が撮った1ヶ月前の写真です。左端のユスノキ(梼木)は落葉が軒樋を詰めてしまいますので、強めに剪定したかったので良いとしても、真ん中のツバキ(椿)は上を剪定するだけで下枝・横枝は残しておきたかったのですが、不在時の剪定工事ですから上手くは行かないものです。兎に角、石垣から家がすっきりと見える様になりましたので、空き家で草木がボウボウしているとの苦情は出ないだろうと思われます。伐採して庭に放置していた若竹40本・積年の古竹100本も片付けてくれましたので、人の住んでいない庭も明るく綺麗になりました。剪定・片付作業結果については空き家にしては上出来と納得することにしました。
2009.09.23
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若松港の海は透明で綺麗なのですが、人気が少なく何となく侘しいものがあります。新上五島町は、平成の大合併で、奈良尾町・新魚目町・有川町・上五島町の4町が合併したのですが、人口減少には歯止めが掛らず、町役場のある青方地区に再開発が集中して、他の地区は合併前より疲弊が激しいと見えるからでしょう。地元産業の根幹である漁業は不振ですから、地政学的な中韓国境を生かしたフリートレード経済特区、風光明媚な自然環境を生かした高齢者養護経済特区、カトリック教会巡りを入れた世界遺産候補観光、自然豊かな「海・山生活体験」誘致等を模索して、他の経済基盤を作り上げ、Iターン、Uターンを呼び掛ける必要がありましょう!平成の大きな町村合併、実は地域の実態に即さない「望まぬ合併」が少なくなかったのではないか。「地方交付税削減に耐えられず、合併特例法の財政支援措置を受ける必要があった」「財政面の見通しが立てば合併は選択していなかった」という本音の合併理由が少なくない。合併が引き起こしたマイナス効果の声の一つは、住民に最も身近であるはずの行政機関である市町村が規模拡大によって、遠い存在になってしまったことだ。合併前は「住民は役場へ行けば各分野担当の職員が必ずいて話ができた」のが、合併後は旧役場から職員が減って、「話にならない」と住民の足が遠のき、つながりが薄れた。嘗て役場などがあった各市町村の中心地域は衰退し、商店街などの「さびれようは目を覆うばかりだ」という訴えもある。平成の大合併が始まって間もなく10年だ。合併の痛みに苦しむ自治体は多い。合併を推進してきた国の責任で実態を調査し、必要な手当てを施す時期ではないか。西海国立公園の白眉「若松瀬戸」は絶景です
2009.09.11
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久しぶりに大曽教会を訪ねてみました。世界遺産登録準備に向けてでしょうか、何処其処綺麗になっていました。正面から写真撮影をして見たのですが、デジカメが28mmで広角の所為なのか、全景が全て入ります。昔に描いた油彩では、一寸狭苦しく感じられますが、近年少し正面の広場を大きくしたか否か、定かではありません。裏に回ってみますと、レンガ壁も綺麗ですし、瓦も葺き直してあることが分かりました。昔は裏の林・畑は雑草だらけで、草ぼうぼうだったのですが、梅林と畑にきめ細かく分けられていました。近年、過疎化と共に、野生の鹿・イノシシの数増えて出没が激しくなり、畑には全て防護ネットが掛けてありました。新上五島町では、カンコロと言ってサツマイモの栽培が盛んですが、防護ネットの無いサツマイモ畑は全て穿られ食べつくされ全滅と言われていました。人間と野生との共生とは簡単に言われますが、勢力争いの態も見えて、調和ある共生とはなかなか難しいものです。
2009.09.08
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五島手延べうどんは、ツバキ油を練りこんでいますので、こしが強く、細い乾麺にも拘わらず、8~10分程ゆで上げる必要があります。その所為か、讃岐うどんの様に茹で上げた後にのびてしまう食味を損なう欠点がありません。ツバキ油がのびてしまうのを抑えているのだろうと思われますが・・・。しかし、美味しく食べますには、あごだしスープがセットになっていることが必要なのですが、これが関東地区ではなかなか見つからないのです。煮干しスープですと直ぐに茹でたうどんで味が薄まってしまうのですが、あごだしスープでは上品な出汁が何時までも持続してくれるから不思議です。先月、新上五島町を訪問した際、有川港ターミナルで50袋入りを1750円で買い求めて来ました。五島手延べうどん: 自然環境にめぐまれた美味しい水、島に自生する椿からとれる食油を使用し、古来の製法で一本一本丹念に作り上げる、細くてこしの強いうどんです。 お勧めの召し上がり方(釜上げうどん:地獄炊き) 多めの沸騰している湯の中に、バラバラにして少しずつ入れ、箸で軽くまぜて、再び煮立ったら、差し水をしながら吹きこぼれない程度に火加減して、8~10分程ゆで上げます。美味しい出汁の作り方:300mlのお湯にスープ10g袋を溶かして、手軽に美味しいうどんスープの出来上がり。焼きアゴ(飛魚)は、五島列島の風土が創り上げた風味が生きています。
2009.09.06
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12年ほど前、新上五島町榎津郷の空き家の雨漏りが酷く、屋根瓦を全て取り替えたのですが、その際に棟木も腐食しているとのことで交換して貰いました。どういう訳か、古い棟木が庭に放置されたまま、半分土に覆われていた状態が続きました。この前の五島行の際、庭の清掃を行いました時、積み上げられた竹材の下から、その棟木が出て来ました。そのまま捨てられる運命にあるので、記念にと一部を鋸で切り落としてみました。極めて緻密な松材で、鋸歯が立たず、閉口するほどの硬さでしたが、何とかオブジェになる大きさの部材を手に入れることが出来ました。雨漏りを放置せず、きちんと整備しておけば、この松梁の棟木は今でも使用できたと思うと残念です。空き家は明治時代の建築で、使われている木材の太さ・堅牢さと言ったら大したものがありました。棟木(むねぎ)は、屋根を作るために桁と平行に、最も高いところに配される部材。上棟式の「棟」とは、棟木のこと。
2009.09.01
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家内が胃・食道検査で1週間入院しましたので、急遽五島列島に行き、1年振りに空き家となっている家内の実家に行き庭の草取り・掃除をしました。遠目に見ますと、庭木の高さはそれ程ではありませんが、庭の大きさにしては密集していて、高木は剪定する必要があります。特にユスノキ3本は、落ち葉で軒樋を詰まらせるので何とかしなければなりません。そこで業者を紹介して貰い、見積もりを依頼した処、8本を屋根の高さでチェーンソー伐採、運搬処理に2日間5万8千円とことでしたので、「不在中でも良いので実施してくれ」と発注することにしました。周囲の石垣の内側には目隠しの為、細竹を植えてあるのですがそれが庭中に広がって竹藪と化していましたので、30本以上斬って見栄えを良くしました。斬った竹の処理は、庭に放置しておけば、トラックで運搬してくれるとの約束ですので、その様にしました。50年前に築庭した庭は雑草が生い茂っていたので、歩き回れる様に草刈をしました。この庭にはムカデがいますので、噛まれない様に靴と軍手を使って注意深く行う必要があります。一枚40円の町指定のポリエチレン処理袋に入れ、ゴミ集積場に持って行かなければなりません。結局金曜日、月曜日、水曜日と20袋余、作業用一輪車で各々2~3往復して運びました。1週間掛けて漸く石灯籠が見えて来る程となりました。真ん中に見えるのは鳥もちの双樹、樹皮に傷を付けますと粘着状の樹液が出て来ますので篠竹に絡めて蝉取り等に用いることが出来ます。赤い実が生り、ヒヨドリなどが啄みに来るのですが、庭が暗いので、思い切って剪定して貰うことにしたのです。この庭には、石を周囲に配置した池があります。以前は鯉が泳ぎ、睡蓮も咲く見事な池だったのですが、空き家となってからは給水を止めてありますので雨水で水たまりがあるだけとなりました。世話見も悪いので池の周りの灌木も枯れて減ってしまったのですが、皐月、クチナシ、バンマツリ等は何とか生命を保っている様でした。
2009.08.29
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新上五島町榎津郷にある浄土真宗の寺「元海寺」の山門は、仏教らしからぬ「レンガ造り」でアーチ構造を採用したもので、変わっています。カトリック教会建築で名を馳せた鉄川与助が、菩提寺の山門を設計施工したらしいのですが、新上五島町の教会巡りをする際、この仏寺も一見する価値がありそうです。鉄川与助(てつかわよすけ)は、長崎県南松浦郡新上五島町丸尾郷出身の棟梁であり、布教にやってきた宣教師のもとで西洋建築について学び、日本の教会建築に多大なる貢献をしたが、彼自身は生涯仏教徒であった。長崎県を中心に多くの教会堂建築を行い、頭ヶ島教会・青砂ヶ浦教会は国の重要文化財に指定され、1959年に黄綬褒章、1967年には勲五等瑞宝章を授与されている。
2009.08.28
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青砂ヶ浦教会は北魚之目の中核教会で、国の重要文化財、レンガ造りの教会で、奈摩湾から遠望すると美しく、ロマンを誘う趣があります。「長崎の教会群」を世界遺産にしようとする活動が続き、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がユネスコ世界遺産登録の日本国暫定一覧表に入ることが決定され、青砂ヶ浦教会はその大きなウェイトを占めることになりましょう。その審査準備の為か、外装・内装とも化粧直し中でした。外装レンガに苔が付いたので、高圧水洗浄し、今からは苔が付きにくい様に撥水加工中とのことでした。苔生した古い教会と言うのも風情のあるものですが、遺産登録審査には綺麗にしておく必要があるのでしょうか? と疑問も出て来ますし、この様な日常の祈りの場所も、古くなっても改築厳禁と言う制限を受けることになるのだと思いますと、生活の場を世界遺産登録の功罪を改めて考えてしまいます。新上五島町の教会の紹介写真はこちらです
2009.08.27
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五島列島は何処に行っても透明度の高い海水が見られます。これはリアス式海岸で、殆どが切り立った断崖が傾斜のきついまま海に入って海岸線を構成していることに寄ります。しかし、蛤浜海水浴場は例外に近く、有川湾の奥深い入江に位置していますので、珍しく遠浅の砂浜となって、新上五島町随一の海水浴場とされています。砂浜は純白に近く、将に白砂青松の海水浴場で、平成13年には日本の水浴場88選にも指定され、島外からも多くの海水浴客も訪れます。此処は貝の細片で純白な海浜、晴天の干潮時には驚く程日焼けしてしまいますので要注意です。お盆の休みには帰郷した家族連れで賑わっていたのでしょうが、8月25日ともなりますと皆都会に帰ってしまい、広い海水浴場に数人しか見られず、海の家も閑散として、今年の夏も終わりなのだとつくづく実感出来ました。正面に見えるのは榎津港、町村合併の影響から旅客船の発着が無くなってしまいました。榎津港の右には門松山、右端に見える「竹ノ子島」が天然の防波堤となる波静かな水深深い良港で、江戸時代から昭和迄水産物輸送の拠点だったのですが、人工の防波堤の出現により近年有川港にその役を譲ることになってしまいました。正面奥に見える山は標高382mの似首番岳ですが、右奥遙か雲間の奥に見える北魚目番岳は標高443mあって、新上五島町最高峰となっています。
2009.08.26
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この写真は、およそ45~48年前の蛤浜海水浴場、中央が家内、その左隣が義母、後ろ左が先週亡くなった叔母さん、後ろ右が叔母さんの長女、皆生命感溢れています。未だ海の家も整備されず、夏になると日陰を供する仮設のテントが設置されるだけでした。五島列島は何処に行っても透明度の高い綺麗な海が見られますが、これはリアス式海岸による所が大きく、切り立った断崖が海岸線を構成していることに寄ります。蛤浜海水浴場は例外に近く、有川湾の奥深い入江に位置し、珍しく遠浅の砂浜となって、新上五島町随一の海水浴場とされています。その名の通り昔は驚く程蛤が生息していたのでしょう、砂浜は純白に近く、2001年に日本の水浴場88選にも指定され、島外からも多くの海水浴客も訪れる様になりました。蛤浜海水浴場は有川地区に位置していますが、発端は魚目村榎津郷の裕福だった住民・漁民が、対岸に見える白浜をレクリエーション海水浴に利用し、それが評判となり上五島中に広がったとされています。正面に見えるのは榎津港、右端に見えます「竹ノ子島」が天然の防波堤となる波静かな良港で、江戸時代から昭和迄水産物輸送の拠点だったのです。しかし、漁業不振から榎津郷は限界集落となり旅客船の発着が無くなってしまい、人工の防波堤整備させた有川港にその役を譲ることになってしまいました。正面奥に見える山は標高382mの似首番岳ですが、右奥遙か雲間の奥に見える北魚目番岳は標高443mあって、新上五島町最高峰となっています。
2008.11.03
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家内の叔母さんが先週木曜日急逝しました。89歳だったと思いますが、体力も相当落ちていて、この処の寒さから、喘息の持病が災いしたのかも知れませんが、それにしても急なことでした。叔父は3年前に亡くなりましたので、又寂しくなります。五島列島榎津郷で生まれ似首郷で結婚してずっと其処で暮らして来ましたが、1960年代半ば迄は、定置網漁業も大漁が続く盛んな時期は、漁業人口も多く活気の溢れた地域でした。漁業が不振になるに連れて、若者世代が島を出て行き、生活の基盤が揺らぎ、暮らし難い地域に変貌となり、お店も無くなって遂には殆どが高齢者の限界集落となりました。それでも、生まれ故郷で暮らして其処に死んで行くと言うことは稀有になって来ましたので、叔母さん本人はそれ程不満が無かったのかも知れません。お墓は高台にあり、その似首郷が良く望める位置にありますので、安息に永眠出来ることになりました。ふと眼を転じて、五島灘方向を望めば、野案中・山案中の対になった無人島が見えます。此の墓地は本当に風光明媚な処に位置しているのです。家内は葬式の手伝いに、急遽五島行きとなりました。小さい頃から世話になりました最後のご奉公です。
2008.11.02
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榎津郷の海水浴場「川野屋」から見る有川湾、湾奥には白砂青松の蛤浜海水浴場、遠くには矢倉岳の通信塔も見えて良い景色と思えます。しかし、榎津郷周辺の海岸崖は土砂崩れ防止のコンクリート製壁が設置され、その上には数を増した猪・鹿の侵入防止の鉄網が設けられ、海浜はテトラポッドで海浜は固められています。沿岸の漁業不振から、若い世代が育って郷を出て行くと戻らず、榎津郷は老人だけの限界集落と化しました。それでも今まで、離島振興の公共事業でコンクリート製壁・テトラポッド設置で、食い繋いで来たのですが、既に必要以上の状態で、将来性は不透明となりました。高齢者が歩いて行ける店も無くなり、バスの運行も減便となりましたし、生活も至って不自由となりました。我等の子供達を義祖父母に合わせる為に訪れた30~35年前には、この小さな通りは店が並び、周辺には小さな子供達も多く、賑やかなものでした。正面に見えるのが妻の実家で空き家状態、嘗て此処は榎津郷の中心地区、手前は生鮮食品・雑貨を商う商店でしたし、その向こうは薬局、右には明治の洋風建築を誇る2階建ての外科病院でした。通りを面して、左には床屋、明治風の郵便局があったのですが、全て無人となり果ててしまいました。しかし、温暖な気候と澄んだ空気は住んだ人々には何より財産、進み行く限界集落を克服するには、老人介護・特別養護施設を積極的に誘致してみることも必要と思われました。生活用品が殆ど海上輸送で生活費は高いのですが、その欠点を凌駕する静かな離島の生活環境は確かにありますので、全国的な少子高齢化を乗り切る試金石となるかも知れません。綺麗な海を眺めながらゆったりと過ごす老後の生活、案外人気が出るものと推測出来そうです。
2008.08.09
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ユスノキ、モチの木、槙の木の枝が頭上を横切り、竹も伸び放題で暗かった庭も、2週間に亘る庭の世話で漸く綺麗となりました。石垣周辺の若竹伐採に始まり、脚立を使っての枝の剪定、猿宜しく木に登っての太い枝を切り落とし、それでも足りずに樹令20年以上と思われる槙は根元から伐採としました。新上五島町では、剪定した木の枝・竹類は、30~40cmに纏めてもごみ収集の対象とはならず、全てゴミ袋に入れたものしか持って行きません。仕方なく細い枝・若竹は剪定鋏で小さく切り、燃えるゴミ袋に入れ、雑草類と共に収集場所に60袋を持ち込みました。40リットルの大袋は単価40円でしたから、袋だけで2400円が必要となりました。太い幹・枝、硬い竹類は如何ともし難く、庭の一角に積んで置く以外に方法はありませんでした。手前の太い幹はユスノキ、中央にモチの木、奥左にはナギの木、庭を造営してから60年は経過していますので、何れも樹高8mにはなってしまっていますが、日が入る様になり庭らしくなりました。処置に困った伐採した30本程度の竹が奥の石垣に積み重ねてあるのが見えます。それでも、石灯籠への敷石も良く現われて来て、料亭の庭に似た姿に回復となりました。この池には、大きな鯉も飼われていたのですが空き家となった現在、塩辛・麦藁トンボやヤンマの棲息池となりました。給水も止めてありますので雨水だけの古池なのですが、古くなり、壁の亀裂が進行して水位が上がることはありません。しかしトンボのヤゴ類が生息している所為か、ボウフラは食べ尽くされてしまうのか、藪蚊の大発生は無い様です。段々と我々夫婦も高齢化し、来年以降、此の庭の世話をどうすべきなのか、心配となって来ました。
2008.08.08
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跡次教会は国道384号線に沿った高台にあり、其処から青方湾が一望出来、湾内には石油備蓄基地、対岸には鉄川与助の設計で知られる大曽教会もよく見えます。「跡次教会・オレムス (OREMUS:われら祈らん)」と書かれた銘板が印象的な小さなカトリック教会です。此処は青方湾の入り江が深く入り込んで、シビ網漁と言う漁法に絶好の地形で、大曽、西の股(浦桑)、丸尾、今里から合計8名のカトリックが跡次に住みついた。旧青方小学校を半分買いうけ、1914年移築し初代教会落成。老朽化に伴い、石油備蓄からの地域整備資金を元に、1984年コンクリート製の教会に改築されました。国道384号線に沿っては跡次集落の小さなキリシタン墓地があり、運転する車からも良く見ることが出来ます。新上五島町の教会画像集はこちら
2008.08.07
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ユスノキは 高さ25m、幹の直径1mの大木になることから、神社仏閣に植栽されることはありますが、大きな庭園を除いて庭木とされることは滅多にありません。新上五島町榎津郷の空き家には3本も植栽されていますが、これは異例のことで、60年前の庭造園に際して寺院造園と並行して行われた為、同じ樹木が使われたことと推定されます。隣家となる北側の敷地は家が取り壊されて駐車場となっていますが、其処から石垣から見ますと、左からユスノキ(梼の木)、ツツジ(躑躅)、八重椿、ユスノキ(梼の木)と植えられていますが、大きな庭園では無いので密集し過ぎているのは確かです。左のユスノキは枝が屋根に掛かり、横樋に落ち葉が溢れて排水の用を為さない障害がありましたので、今年は猿宜しく木に登り、かなり太い枝を剪定はしたのですが、それでも高さは8mを越えてしまっている様です。別名イスノキ(柞の木)、ヒョンノキ(瓢木)、ユシノキといわれるマンサク科植物の常緑高木で、本州西南部、四国、九州の暖地に分布している。ユスノキの材は緻密で堅硬、木目が細かく堅いので、建築材の床伴、楽器、櫛に使用されている。ヒョンノキと呼ばれるのは、葉に虫こぶができ、それを笛のように吹くと、ひょう、ひょうと鳴ることから、その音色に由来すると言われる。ユスノキの虫こぶは、イスオオムネアブラムシ、またはイスコムネアブラムシが葉に寄生し、葉が異常発育するために出来るもの。前者の虫こぶは小さなイチジクの実くらい、後者は、大豆くらいの大きさになる。新上五島町似首郷の似首神社境内には、ユスノキ(梼の木)が植栽されていますが、なかなか樹形も良く見えます。あまり手を掛けている様には見えないのですが・・、このユスノキ、やはり神社仏閣用の樹木だと思われます。青方から若松に向かう道路沿いに、「檮の木(ユスノキ)」と言うバス停留所がありますので、昔から上五島では結構な数のユスノキ(梼の木)が自生しているのかも知れません。
2008.08.06
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上五島石油備蓄基地は1984年から4年を掛け、総工費2000億円を要して、1988年9月完成した世界初の洋上石油備蓄基地です。 国家備蓄の恒久基地第5号として建設された上五島石油備蓄基地は、世界初の鋼鉄製貯蔵船洋上備蓄方式で、1隻は390mLx97mWx28mHの大きさで容量は88万kl(520万BBL)、全部で5隻ですので440万kl(2600万BBL)の原油を備蓄し、国内全石油消費量の約1週間分に相当すると言われています。青方湾は、台風時には多くの漁船が避難して来る奥行のある入り江ですので、設置場所としては適切でしたが、湾内の折島はキリスト教信者の集落があったので、全住民を離島させ青方地区郊外に移住させ、建設開始となりました。国家備蓄基地でしたので、名目上3重工MHI、KHI、IHIが参加するジョイベン方式とはなりましたが、実際には鋼鉄製貯蔵船は全てMHI長崎で製作・移送となりました。建設開始にあたっては、周辺地域への整備にも新設道路・病院等が寄贈されたのですが、操業を伴う工場ではありませんので、建設完了後には地元の雇用に貢献するまでには至りませんでした。当初、石油公団を中心に三菱石油、日本郵船等から出資資本金100億円を得て上五島石油備蓄株式会社が設立されましたが、2004年から石油公団他の株主が抜け1億円に減資、本店所在地を神奈川県横浜市に移転したことで、当該地方自治体への税収は激減することになってしまった筈です。誘致時の詳細は分かりませんが、20年時限と言う条件があったのかも知れません。多少の操業を伴う石油備蓄基地でしたが、やはり道路・箱物を中心とした従来型の一般公共事業工事とそれ程の違いは無かったのは残念です。地方の地域格差を少しでも解消しようとするのは大変な事業なのだと認識せざるを得ませんでした。此処は永らく世界最大の洋上石油備蓄基地でしたが、2007年7月北九州市の白島石油備蓄基地が完成、560万klの石油備蓄容量を持ちますので、その座から降りることとなりました。
2008.08.05
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新上五島町の家で、30年前に私が描いた拙い油絵が出て来ました。義母が居間に飾ってくれていたものですが、片付けられ応接間に畳んでおかれていました。20年前に描いた蛤浜海水浴場の油絵は我が家の壁に掛けられていますが、上の絵は干潮時のもので、こちらは満潮時にスケッチしたものを後日油絵としたものでした。人間の眼とは不思議なもので、同じ地点から写真撮影すると、沖合にある岩場は驚く程小さく見えるのですが、スケッチでは何倍も大きく描いてしまうのです。蛤浜海水浴場は遠浅の砂浜となって、新上五島町随一の海水浴場とされています。砂浜は純白に近く将に白砂青松の海水浴場、平成13年には日本の水浴場88選にも指定され、島外からも多くの海水浴客も訪れます。潮が引くと200m程歩きませんと水辺には行けませんので、晴天の時には驚く程日焼けしてしまいますので要注意です。正面に見えるのは榎津港、町村合併の影響で旅客船の発着が無くなってしまいました。榎津港は「竹ノ子島」が防波堤となる波静かな天然の良港で、江戸時代から水産物輸送の拠点だったのですが、人工の防波堤の出現により近年有川港にその役を譲ることになってしまいました。正面奥に見える山は標高382mの番岳、此方は「似首番岳」とも呼ばれます。左は城山で山頂にはコンクリート製の城が復元されていて、観光資源としたのですがあまり訪れる人もいない様です。正面右の低い山は門松山、フクロウかミミズクが住んでいて、暗くなると「ポーポー」と鳴き声が良く聞こえて来ます。今年は空き家の高木剪定・草取りに2週間没頭となった為、榎津側から遠く眺めただけで、行ってみるチャンスを逸してしまいました。
2008.08.04
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番岳は標高443m、新上五島町で1番高い山、他の番岳と区別する時は「小串番岳」とも呼ばれます。頂上付近には駐車場・トイレもあり、番岳園地として整備されていますので、気軽にピクニックするのには良い所で、頂上には四阿屋(あずまや)、少し尾根道を下った眺望の良い場所には遠見番所跡展望台が設けられていて、素晴らしい眺望を満喫することが出来ます。西方眼下には、新魚目地域のふれ愛ランド、近く奈摩湾の出口には矢堅目の奇岩、その向こうは東シナ海で韓国も遠くはありません。南方には有川湾、矢倉岳、嘗ては上五島空港があった頭ケ島大橋等が見渡せます。東方眼下の400m直下には立串、小串港が見え、空気が澄んでいれば、五島灘を越えて遠く生月島、平戸島を遠望することが出来ます。北方には小値賀島が海面に貼り付く様に低く見えています。五島列島は古代から国境に位置していることから、異国船侵犯を見張る遠見番所を設置されて来ました。中通島魚の目地区に2か所、小値賀島にも1か所「番岳」と命名されている山があり、国境防人警備が厳重だったことが窺われます。此処小串番岳の番所跡には、展望台を兼ねた発煙装置の付いた「のろし台」が復元されて、観光地として整備されています。矢堅目古くより奈摩湾に侵入の外敵の見張りのために、矢(守備兵)で堅めたことに因んで、この地名が残されています。
2008.08.03
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新上五島町にある空き家の応接間に、義父が愛用していたユンハンス置時計(Junghans Clock)がポツンと残されていました。しかし、それは35年ほど前に記念品として貰ったものの様でそれ程古いものではありません。義父が亡くなったのは23年前、義母はその後9年其処で暮らし、後1年は東京の我が家で同居し、近くの病院で逝去となったのですが、義母はこの置時計を使いませんでした。幅が広くて重いこと、電池駆動で無く昔ながらの手巻き、又夜中でも15分毎に鳴るウエストミンスター寺院風のチャイムの音が煩いと言うのがその理由でした。第2次世界大戦前の古い昔、ユンハンス(Junghans) はキンツレ(Kienzle)と並び、ヨーロッパを代表する時計メーカーで、置時計に関してはトップクラスのブランド品でした。戦前に置いては、日本の精工舎製等の置時計は、ムーブメントの精密さ、部品の耐久性については比べるべくも無く、精密機械ではドイツ製が断然優れていたのです。ネジを巻く鍵が何処にあるのかは探しませんでしたが、今でも充分使用できる物だと思われます。ドイツの著名時計メーカーであるユンハンス(Junghans)製ウェストミンスター・チャイム、8日巻き・手巻きの置時計、義父は結構こんなものが好きでした。インターネット検索してみましたら、同型のものが33,000円で売られていましたが、昭和アンティーク品として人気があるのかも知れません。
2008.08.02
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新上五島町の小串郷曽根地区にある曽根教会には今回初めて行ってみました。これまで何回となく、隣接する国民宿舎「新魚の目温泉荘」に行っているのですが、曽根教会は何時も通過するだけだったのです。正面2階のバルコニーには「無原罪の聖母」が設置されていますし、教会横にはルルドの聖母も造られていました。カトリック教会にはマリア像が設置されているケースが多いのですが、此処では「無原罪の聖母」と銘打たれていますので、無原罪の聖母教会と言えるのかも知れません。アダムとイブが林檎を食べエデンの園から追放されましたが、これが人類の原罪の起源であるとされています。カトリックの教義では、聖母マリアだけはこの原罪を免れ、「無原罪の聖母」崇拝信仰が存在しています。此処は教会巡回コースにも入っているのですが、暑い最中でもあり、教会巡りをする人達にも出会わず、教会内・ルルド共ひっそりとしていました。新上五島町の教会画像集はこちらです
2008.08.01
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