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2002年08月25日
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 須賀敦子の『地図のない道』(新潮文庫)に、一夜にして髪の毛が真っ白になった人の話がある。その人はナチのユダヤ人迫害がイタリアでも多くの被害者を生み始めたので、スイスの国境に近い町にある山小屋に避難した。おなかをすかせて喧嘩ばかりする子どもたちを寝かしつけ両親が話し合っていると入り口のドアを叩く音がした。下の村の司祭だった。今晩、このあたりにナチの軍隊がユダヤ人を捜しにくるという情報がはいったと告げにきたのである。下の道にトラックを待たせてあるからすぐ子どもたちを起こして逃げなさい、と神父はいった。自分は村を出るわけにはいかないという神父を残して、夜の山町をトラックで安全な場所まで走り続けた。夜が明けて互いの顔が見えるようになってわかった。父親の髪は一晩で真っ白になっていたのである。父親はその時のことをさらに話した。

「戦争が終わってから、あの神父さんにお礼がいいたくて、私たちは山小屋のあった村までたずねて行ったんです。そしたら、亡くなっていた。あの夜、ドイツ軍に射殺されたというんです。私たちを逃がしたために。もういちど、髪が白くなるような気がしました」(p.32)

 このような悲劇はいたるところでくりかえされたのであろう。以前、別のところで書いたのだが、フランシスコ修道会のコルベ神父のことを思う。

 コルベ神父はアウシュビッツ収容所で餓死刑の囚人の身代わりになって亡くなった。逃亡者が出たのである。十人がその身代わりに死刑になることになっていた。一人ずつ犠牲者が選ばれていった。その時、

「可哀そうに。女房も子供も、さようなら」

と、一人の男が両手で頭をかかえて泣いた。一人の男が司令官の前に歩み出た。

「私はこの中の一人と代わりたい」
「誰のために死ぬつもりだ」
「妻子があるといった人の」

「カトリックの司祭です」

 殉教後、神父の名のもとに多くの不治の病に罹った人が癒された。後に聖人に列せられている。

 先の神父もコルベ神父のように自らの命を犠牲にして人の命を救うことができるのだろうか、と思う。しかし、たしかに彼らの行為は美しいが、そのような状況であなたも身代わりになって命をさしだしなさいと強いることはできないだろう。同じ状況で、コルベ神父のように、身代わりを申し出ることができなかったとしても誰もその人を責めることはできない。自分がそのような行為を選択することができるとしても、だからといって人にも同じようにしなさいということはできない、と思う。

 このような自己犠牲的な行動、あるいは生き方はもちろん不適切な行動ではないが、他の人にも同じようにすることを勧めるわけにはいかないという意味で、適切でもない不適切でもない「中性の行動」である、とアドラー心理学では考えている。

 この「中性の行動」の範囲はきわめて広い。今しがたあげたようなのとは違って何の説明もなく、不適切な行動という言葉を聞いて多くの人が考えるような行動は実は中性の行動である。

「不適切な行動」とは、家族、学校、職場などの共同体に対して実質的に迷惑を及ぼしている行動のことをいう。例えば、部屋で子どもが夜遅い時間に音楽を聞いているとする。この場合、その際行動の改善を要求できるのは、大きな音で音楽を聴いているということだけであって、音楽を聴くことそれ自体を禁じたり、あるいは聴く音楽の種類を指定したりすることはできない。ボサノバのような退廃的な音楽は聴くな、と父親にいわれ憤慨していた若い人がいたが、父親が音楽についてある見解を持ち、自分が好まない音楽を聴かないのはその父親の課題である。だからといって子どもに自分の好みではない音楽を聴くことを禁じることはできない。音楽を聴くことは相手の課題であるから、たとえ自分が聴きたくなかったり、自分の好みの音楽ではないという理由で子どもに音楽を禁じる権利はないのである。

 実質的な迷惑を及ぼすとしてもその影響がただ本人にだけ及ぶのであれば、不適切な行動ということはできない。実質的な迷惑を及ぼす行為だけが不適切な行動であり、そのような行動を止めるように働きかけることはできる。ただし、その場合も、自動的に共同の課題となって親が子どもの行動を制限することはできない。きちんと共同の課題にする手続きを踏まなければならない。

 父はしつけに厳しい人で、僕の息子は小さい頃よく叱られていた。ある時、父が電話をかけようとした。その時、息子は大きな音でテレビを見ていた。僕だったら、音を小さくしてくれるようお願いするのだが、父はいきなり何もいわずにテレビのボリュームを落とした。父は僕のところに数日の予定で帰ってきていたのだが、その後、息子は父が帰るまで父と口をきこうとはしなかった。

 実質的な迷惑を及ぼしていないという意味では不適切な行動ではないが、しかしさりとて適切であるとも必ずしもいえない行動を「中性の行動」と呼ぶ。勉強をしないことは、もし困るとすれば本人だけが困るのである。他の人に実質的な迷惑を及ぼしているわけではない。その意味で勉強をしないことは不適切な行動ではないが、さりとて適切な行動ということはできないだろう。

 親や教師が問題行動というレッテルを貼ってしまう行動の多くは、例えば、勉強をしないこと、髪の毛を染めることなどは、いずれも中性の行動であって不適切な行動ではない。

 中田英寿がフランスのワールドカップに参戦し日本に帰ってきた時、あるレポーターが「ワールドカップの時と髪型が違うようですが」と質問した。中田はいった。「それはサッカーと何か関係がありますか?」レポーターが何も返す言葉がなかったのはいうまでもない。



 不適切な行動については、これを問題にし、手続きを踏んで改善を要求する権利はある。その場合でも共同の課題にする手続きを怠ると、関係はこじれてしまう。中性の行動に対しては本人の意志を尊重しなければならない。頼まれもしないのに介入する権利はないのである。先にも見たように、対人関係のトラブルは相手の課題に許可なく踏みこむことから起こることが多い。

 他方、自分の行動が中性の行動である場合、世間がその行動を理解してくれるとは限らないということも知っておかなければならない。髪の毛を染めることが他の人に実質的な迷惑を及ぼさないとしても、中田へのレポーターの質問が示しているように、好奇の目を向けられることがある。専門的な知識、技術を持っていても外見で判断されるということは残念ながらある。つまらないことだが、これも自分の行動に伴う責任である。

 中田の髪の毛がそんなふうに問題にされたフランスでのワールドカップの四年後、ワールドカップは韓国と日本で開かれた。この時は四年前と絵選手の髪型に対する世間の目はかなり変わったように思う。髪の毛を染めたり、目立つ髪形にすることがプレーそのものに必要であることが理解されるようになったこともあるだろうが、もはや若い人たちの間では髪の毛が黒い方が珍しいのではないか、と思えるほど髪の毛を染めることは一般化したように思う。

「中性の行動」にはこれまで見たようなどちらかといえば不適切な行動に近いものもあれば、反対に限りなく適切な行動に近い中性の行動があるわけである。





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最終更新日  2002年08月25日 02時47分10秒
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