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2002年10月29日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 最初に入院した病院で主治医から母の病気について説明を受けた。病気についての知識がなかったので思いがけずよくない状態であることを知った僕と父は母のいないところでどうしたものか話し合った。そのことを母にはいわなかったのになぜか母は知っていて、僕たちが病気の当人である母の意見を求めずに方針を話し合ったことに激怒した。今なら僕はこんなことはしない。きっとまずは母に主治医の言葉を伝えるだろう。もしも話の内容が母の勇気をくじくかもしれないことが予想できる時は本当のことをいってもいいかと了解を求めたかもしれない。そういうことは既にこれから話すであろうことをいっているのと同じなのだが。僕が今後治癒困難な病気になったら隠さずにいってほしいと思う。

「優しい」という言葉について昨日は真実をいうことをめぐって書いたのだが、今日は違った視点から。ある人が優しいという時その人は私の気持ちをわかってくれていて決して私が傷つくようなことはいわないということを考えないだろうか。僕もそんな人でありたいと思う。しかし問題は人の気持ちを僕はそのすみずみまで理解しているとは思えないということである。次に引く例は以前別の箇所で一度引いたことがあるので読まれた人もあるかもしれない。

 中島義道は、次のような灰谷健次郎の著書からのエピソードを引きながら「優しさの暴力」について論じている(『カントの人間学』)。

 ……鹿島和夫氏も、また極貧の中で育つ。小学校のとき、貧しさゆえに、友だちを家に連れてくることも恥じたという。ある日教師が家庭訪問にくる。鹿島氏の母はお茶うけ用のヨウカンを無理をして買って出す。その教師はそれに手をつけなかった。そのヨウカンを紙につつんで持って帰ってもらう。その教師は外に出ると、人のいないのを見すまして、それを道端にぽいと捨てたのであった。鹿島少年は物かげから、その教師の行為を目撃する。ヨウカンを拾って持って帰る。それを受け取った鹿島氏の母は、力任せにそれを床にたたきつけたという。「ヨウカンは欲しかったけど、そのヨウカンだけは食べたくなかった」鹿島和夫氏はそう述懐している。

 中島はいう。多くの場合、「優しさ」を強調する人はその絶対基準を自分のうちに持ち、それで他人を断罪する、と。この場合、この教師がもし「優しければ」絶対羊羹を捨てることはない。「優しければ」鹿島少年の母親が何を思っているか隅々までわかるはずである。そう考えて問答無用で断罪する。

 しかし、私も中島が主張するように、少年はもしもそれほど傷ついたのであれば、言葉を駆使して自分が見たこと、母親が羊羹を床に叩きつけたこと、自分の感情を語らなければならない、と思う。それに対して弁解を求めるべきである。

 そうしなければ何も伝わらない。このようなケースはあるいはめったにないといわれるかもしれないが、立場を反対にして考えてみれば、知らない間に人を傷つけていることがありうることがわかるだろう。最近、傷つけられたといわれることがたびたびあって困惑してしまった。こちらはそんなつもりはなかったといっても相手がそんなことはないといえばなんとかしないわけにはいかない。このような時、傷つけられたことを指摘されることなく断罪されたとしたらどうだろう。いってほしい、と思わないだろうか。いってもらえたら謝ることもでき、今後の自分の態度を改めることもできる。誤解を解くこともできるかもしれない。中島はいう。「少年からも母親からも何も聞かされないまま、先生は永久に自分が他人に与えた痛みに気づかないであろう。これは双方にとってきわめて不幸なことである」





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最終更新日  2002年10月29日 12時06分11秒
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