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2003年01月22日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 微熱がまだあったのだが思い切って外出した。朝起きると昨日学校を休んで家にいた娘はいなかった。

 本屋で『村上春樹全作品 1990~2000』の第二巻を買う。この間には『国境の南、太陽の西』と『スプートニクの恋人』が収められている。どちらも今は文庫本で手に入るのでためらったのだが、『スプートニクの恋人』はいつかカウンセリングにきた人に貸したまま帰ってきてないので読み返す機会が泣く今に至っているので、村上の解題が載っているということもあって買うことにした。

『国境の南、太陽の西』はもともと『ねじまき鳥クロニクル』の一部として組み込まれていたが、そこから切り離し独自に発展させ新たな小説として完成させたものであることを始めて知った。村上は『ねじまき鳥クロニクル』の第一部と第二部を一年余りで集中的に書いたが「その出来上がりについて僕としてはなにかしらしっくりとこないというか、いくぶん納得のいかないところがあった」(p.481)。

 村上の「同居している配偶者」が面白いことは面白いが一つの本にするには多くの要素が盛りすぎていることを指摘、もう少しすっきりさせたほうがいいと「何度も作品を読み返し、具体的方策について長い時間をかけ、額をつきあわせてディスカスした結果」三つばかりの章はあきらめて除去した方がいいだろうということになった。

 この変更は当然後の調整を大変なものにしたわけだがこの除去した三つの章が『国境の南、太陽の西』として結実したのである。『国境の西、太陽の西』のハジメ君は、『ねじまき鳥クロニクル』の岡田トオルともともとは同一人物だったのである。

 このような作品成立の経過が著者自身によって語られているのは興味深く、解題が収録されている第二巻を買ってよかった、と思えた。

 僕がおもしろいと思ったのは、一年間息を詰めるようにして書き続けた『ねじまき鳥クロニクル』が大がかりな暗礁に乗り上げ、一頓挫して、がっかりし、本格的に落ち込んだことを説明する次のような村上の言葉である。

「小説家が長い時間をかけてようやく書き上げた長編小説を誰かに読ませて、「根本的に書き直す必要があるよ」と言われたときに(そしてまた相手の意見が客観的にある程度正しいように見えたときに)どれほど暗澹たる気持ちになるものか、これはおそらく経験者にしかわからないだろう。頭の中がしばらく真っ白けになるというか、極端な言い方をすれば手足をもがれてしまったような、ほんとうに「何をする気にもなれない」という自失状態に陥ってしまうのだ」(p.483)

 しかしそれにもかかわらず村上は結果的に二つの小説(一つは長編小説、一つは中編小説)を完成する。根本的に書き直す必要があるといわれたときの暗澹たる気持ちは僕にはよくわかる。助言を受け入れることも、書き直しに着手する勇気が要ることはいうまでもない。



 ついでながら村上は1991年にアメリカにわたりプリンストンに居を構える。この時から村上はマックを使って『ねじまき鳥クロニクル』を書き始めたということである。昨日、少し書いたがアドラーの「悪文」と格闘して『個人心理学講義』を訳していた頃は僕もマックを使っていたことを思い出した。





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最終更新日  2003年01月22日 22時09分14秒
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