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新宿、渋谷、池袋、品川、上野などの都心ターミナル駅を起点として、郊外に向けてのびていく鉄道路線は、主に通勤通学のために使われますが、実はこれらの路線にも格差があるといいます。 ”沿線格差 首都圏鉄道路線の知られざる通信簿”(2016年8月 SBクリエイティブ社刊 首都圏鉄道路線研究会著)を読みました。 近年、東京への一極集中と地方経済の疲弊といった、東京と地方の格差に始まり日本が敏感になってきた格差について、東京23区の中でも勝ち組と負け組に分けられるという沿線格差を論じています。 本書は勝ち組10路線と負け組8路線を発表し、ブランドタウン充実路線から、酒盛り列車と呼ばれる路線まで、各沿線の愛すべき個性を徹底分析しています。 著者の首都圏鉄道路線研究会は、東京の鉄道路線を中心に各種統計データなどを駆使して、鉄道がもたらす様々な効果効用を日夜研究しています。 執筆者は、小川裕夫さん、小林拓矢さん、佐藤 充さん、常井宏平さんです。 小川裕夫さんは1977年静岡市生まれ、大学卒業後行政誌編集者を経て、フリーランスのライター兼カメラマンとして活動しています。 主に総務省・東京都・旧内務省・旧鉄道省が所管する分野で、ほかにエスパニョルを取材しています。 小林拓矢さんは1979年山梨県甲府市生まれ、早稲田大学教育学部社会科社会科学専修を卒業し、会社勤務などを経て、2005年よりフリーライターとして活動しています。 一眼レフカメラを所有し、写真撮影が必要な取材も可能です。 佐藤 充さんは大手鉄道会社の元社員で、新幹線や在来線の運行を支えていました。 現在はIT企業に勤めながら、フリーライターとして活動しています。 常井宏平さんは1981年茨城県生まれ、中央大学文学部社会学科を卒業し、出版業界で編集やライティングを担当しました。 現在はフリーで活動しており、歴史やタウン系などの記事を執筆しています。 鉄道路線は、主要ターミナル駅から、郊外に向けて放射線状に伸びています。 私たちが毎日通勤た通学の手段として活用しているこれらの各路線に固有のイメージや、路線間のヒエラルキーはどのようにして誕生したのでしょうか。 日本における首都圏は、主に首都圏整備法第2条第1項および同施行令第1条に基づいてと定義され、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県の1都7県を指します。 この範囲の首都圏総人口は、約4393万人です。 法令に基づく定義とは異なる範囲を対象とした首都圏の用例として、首都を中心とする周辺地域を指す用語の東京大都市圏、東京都市圏、東京圏などがあります。 東京を核とする首都圏には、世界でも類のない数の路線が運行されています。 それらの路線は、都心部から郊外に走る路線、都市部のみを走る路線、郊外を中心に走る路線など、さまざまな形態をもっています。 生活の場を地方から首都圏に移す際、また首都圏に育っても就職や進学などで生活の基盤が変わったりした際、引っ越しをしなければなりません。 その際、どのように住む場所を選ぶかの基準で、大きなウェイトを占めるのが路線ではないでしょうか。 車社会の地方では鉄道に乗る機会さえ限られますので、沿線を意識して住まいを選ぶ習慣がありませんが、首都圏では働いていれば、多くの人が平日は毎日電車に乗ることになります。 どの路線に住むかが暮らしぶりを変えるといっても過言ではありませんし、だからこそ、どの沿線に住むかは重要な関心事になります。 23区の所得水準で見た1位港区と最下位足立区の格差と同じように、誰もが路線間にも格付けや序列があることを薄々気づいていながら、これまであまり公には触れてきませんでした。 鉄道というのは、それがJRにせよ私鉄にせよ、社会インフラであり、不特定多数の人間が利用するものですので、路線に貴賎なしではありませんが、その優劣を論じることは憚られてきた面があるのでしょうか。 人気駅ランキング、住みたい街ランキングといった指標がよく不動産情報とひもづけて発表されるように、人気のあるなしは、鉄道路線にも確かに存在します。 また、私たちの普段の会話レベルでも、比較的よく交わされているテーマの一つです。 一方で、沿線の総合力、実力というのは、なかなか数値化して表すのが難しい面もあります。 例えば、各路線の沿線住民の富裕度なり沿線地価と、その路線の利便性が必ずしも一致するとは限りませんし、見栄やステイタスを気にしなければ、どこだって住めば都という一面もあります。 さらに、それぞれの沿線住民にとっての満足や不満も様々でしょうから、複眼的に各沿線を見ていく必要があります。 第1章では、東京都心部に通う人が利用する19路線をピックアップして解説されています。 選んだ基準は、JR山手線に接続しているJR路線、私鉄は都心部と郊外を結ぶ乗客数が多い主要路線、といった具合です。 東京メトロ、都営地下鉄は、その鉄道会社の性格上、都心部を走る路線が大半ですので、沿線に住宅地が多い路線を選んでいます。 沿線の「勝ち組」と「負け組」の選定は、通勤・通学の目的地にいかに早く行けるか、賃貸マンションの相場はいくらかなどを勘案して決めるわけですが、もうひとつ、「沿線のイメージ」も選ぶ際のポイントになります。 たしかにイメージで区別されることもありますが、ここではイメージにとらわれず、真の「勝ち組」沿線とはどこなのかを考えてみたいといいます。 何をして勝ち組とするのかは、①ブランドタウンが多くて、②接続路線が多く、③遅延も少なく、④混雑していない路線がまず考えられる。とはいえ、閑散とした路線では沿線に活気も出ないので、⑤乗客が多く、成長具合も加味して、⑥乗客が増えている路線と定義してみました。 加えて、当の鉄道会社にとっては⑦運賃収入の多寡が重要なポイントになるでしょう。 なお、混雑率が低い路線を「勝ち組」としてはおかしなことになるので、1日の1㎞あたりの乗客数を示す「平均通過人員」を加えました。 「住みたい街(駅)ランキング」などで上位に上がる場所は人気が高く、ゆえにマンションの相場が高いです。 しかし、高い割に不便だったりすれば、満足度は低くなります。 逆に家賃が高くても、それに見合う快適さ、便利さがあれば満足できるでしょう。 そうした考え方のもとにつくったランキングで1位となったのが、京急本線です。【勝ち組】1位 京急本線 2位 東海道線 3位 東急東横線 4位 小田急線 5位 総武線 6位 中央線 7位 京王線、京成線 9位 京葉線 10位 東急田園都市線【負け組】11位 都営三田線、埼京線 13位 東西線 14位 東武東上線 15位 西武新宿線 16位 相鉄本線、常磐線 18位 西武池袋線 ※このランキングは私鉄のみのランキングのため山手線などJRの路線は入っていません。 本書では沿線開設の歴史から現在までの発展といった時間軸、相互乗り入れなど接続の便利さや混雑率、さらに駅として栄えているかという駅力など、いくつかの指標を勘案して、各路線の実力を大胆に診断することにしました。 これが、あるようでなかった「沿線格差」と位置付けた理由です。 各路線の分析、格付けについては異論や反論なども生じるかもしれませんが、あくまでひとつの見方ではあり、読者の皆様に楽しんで読んでもらえるならば幸いです。【第1章 首都圏の主要各沿線の通信簿】中央線 /総武線 /東海道線 /埼京線 /常磐線 /京葉線 /東急東横線 /東急田園都市線 /西武新宿線 /西武池袋線 /小田急線 /東武東上線 /京成線 /京王線 /京急線 /相鉄線 /東京メトロ /東西線 /都営三田線 /つくばエクスプレス 【第2章 テーマ別沿線ランキング】お金持ちの沿線ランキング、客数アップ、ダウン路線ランキング …ほか【第3章 沿線イメージのウソと真実】各沿線に特有なイメージはどうして出来た? ~沿線開発の歴史から現在のヒエラルキー誕生、異変まで
2020.06.06
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神社に掲げられる二礼二拍手一礼は伝統的な作法ではない、初詣は鉄道会社の営業戦略だった、といいます。 郊外の墓参りはバブルが生んだ年中行事である、結婚式のご祝儀もお葬式の半返しも伝統ではない、そもそもクリスマスはキリスト教に関係がない、ともいいます。 ”神社で拍手を打つな! 日本の「しきたり」のウソ・ホント”(2019年11月 中央公論新社刊 島田 裕巳著)を読みました。 日本人がしきたりと思っている行事にはごく最近生み出されたものが少なくなく、私たちはいろいろなしきたりとどう向き合えばいいのかを示唆しています。 島田裕巳さんは1953年東京都生まれ、1976年東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、同大学大学院人文科学研究科修士課程修了、1984年同博士課程満期退学(宗教学専攻)しました。 放送教育開発センター助教授、日本女子大学助教授を経て、1995年に教授に昇任しましたが同年に退職しました。 2005年から2008年まで東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、2006年より中央大学法学部兼任講師となりました。 2008年より東京大学先端科学技術センター客員研究員、2013年より東京女子大学現代教養学部人文学科非常勤講師となりました。 現在、宗教学者、作家、劇作家、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長として活躍しています。 拍手=かしわでは神道の祭祀や神社・神棚など神に拝する際に行う行為で、柏手と書かれることもありますが誤りです。 かしわでという呼称は、拍の字を柏と見誤った、あるいは混同したためというのが通説です。 神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教で、伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立しました。 持統紀に、即位した新天皇に群臣が拝礼と拍手をした記載があり、初めて天皇を神に見立てる儀礼として即位式に柏手が取り入れられ、定例化したとされます。 奈良時代には、天皇の即位宣命が読み上げられた後、参列した百官が拍手で応えたそうです。 これはひざまずいて32回も手を打つという形式で、現代の立って行う形式とは異なっていました。 799年の元日朝賀に渤海使が参列していて、天皇を四度拝むのを二度に減らし、拍手もしなかったということです。 神道には確定した教祖、創始者はなく、公式に定められた正典も存在しません。森羅万象に神が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、天津神・国津神などの祖霊をまつり、祭祀を重視します。 神社は日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設で、産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られています。 一般的にみられる神棚は小型の神社を摸した宮形の中に、神宮大麻や氏神札、崇敬神社の神札を入れるものです。 これは札宮といい、狭義にはこれを神棚と呼び、神職の家などの神葬祭を行う家には、祖先の霊をまつるための神棚があります。 他に、神札よりも神の依り代としての意味合いが強い御神体をまつる神棚もあります。 拍手は両手を合わせ左右に開いた後に再び合わせる行為を指し、通常、手を再び合わせる際に音を出します。 音を出す理由は、神への感謝や喜びを表すため、願いをかなえるために神を呼び出すため、邪気を祓うためといわれています。 両手を合わせる際に指先まで合わせる作法と、意図的にずらす作法があります。 ずらす作法にも、途中からずらす作法と、最初から最後までずらしたままの作法があります。 また、神葬祭や慰霊祭などにおいては音を控えめにする作法もあり、音を控えめにするのは儀式の静粛さを損なわせないためなどと説明されています。 神社で行われる参拝作法の再拝二拍手一拝など、3回以下のものは短拍手・短手と呼ばれ、出雲大社、宇佐八幡、弥彦神社の4回、伊勢神宮の8回など、4回以上手を打つものは長拍手・長手と呼ばれます。 他に、8回打った後に再度短拍手を1回打つ八開手もあります。 神葬祭で音を微かに打つ偲手・忍手・短手や、直会で盃を受けるときに一回打つ礼手などもあります。 明治維新前は神仏習合の影響が大きく、拝礼の作法は地域によりさまざまで、手を合わせて祈る、三拍手、四拍手などがありました。 明治8年に式部寮から頒布された神社祭式に、再拝拍手と記されたことから、統一化の動きが始まりました。 現在の「二礼二拍手一礼、再拝二拍手一拝」は、明治40年に神社祭式行事作法が制定され、その中でひとつの作法が定義されたものです。 昭和17年に内務省神祇院教務局祭務課が編集した神社祭式行事作法に、「再拝、二拍手、一揖、拍手の数を二とす」と記載され、昭和18年1月1日より施行されました。 しきたりとは、一般には昔から行われてきたならわしとして考えられています。 昔から受け継がれてきた伝統だから、それに従うべきだというわけです。 しかし、しきたりのなかには新たに生み出されたものが少なくありません。 とくに最近では、商売として商業資本の手によって導入された新たなしきたりが広まっています。 一方で、社会が変化することで、古くからのしきたりは意味を失ったり実行することが難しくなっていたりします。 しきたりは栄枯盛衰をくり返しますので、新陳代謝が伴うのです。 そのことを踏まえるなら、私たちはしきたりに接するとき、それが本当に昔から続けられてきたのかを考える必要があります。 あるいは、そのしきたりに従うことに意味があるのかを検討してみる必要があります。 神社で拍手を打たないということは、その一歩になります。 拍手を打たない場合、必要なのは神に対して礼拝をする手段として、いったいどういう方法があるのかを考えることです。 二礼二柏手一礼だと、そこには、神に対して祈る時間が含まれず、ただ神を崇めるだけで終わってしまいます。 果たして私たちはそれで満足できるのでしょうか、と言っています。 もっとこころを込めて神に祈る時間が必要だと思えてきたら、どうしたやり方をとればいいのでしょうか。 神社には、「二礼二拍手一礼」を勧める掲示がなされていたりして、テレビ番組でも、このやり方が正式な参拝の仕方だと紹介されることが多いです。 しかし、神社の掲示にも、テレビ番組でも、なぜ二礼二拍手一礼でなければならないのかという根拠は示されていません。 礼拝の仕方を神が定めることはあり得ませんので、あくまで人間が定めたしきたりです。 神社界の組織として神社本庁があり、すべての神社ではありませんが、多くの神社はこの神社本庁の傘下にあります。 神社本庁のホームページの参拝方法という項目を見ると、永い間の変遷を経て現在、「二拝二拍手一拝」の作法がその基本形となっていますと記されています。 二礼二拍手一礼ではなく二拝二拍手一拝となっていますが、意味は同じです。 なぜそうした作法が基本形になったのか、その経緯は説明されていませんし、根拠も示されていません。 教えを説く存在がいない神道の世界では、どんなことについても、経緯、背景、根拠を明確に説明することができません。 そのため、しきたりについての説明は自ずと曖昧なものになってしまうのです。 しきたりは、その背景にある宗教の世界、信仰の世界の成り立ちを明らかにしていくための鍵になります。 しきたりにただ従うのではなく、そうしたところまで考察を深めることが重要なのです。 しきたりは、私たちの生活のあり方と密接に結びついています。 その点では、しきたりを見直すことは、私たちの生活をこれまでとは違った角度から見ていくことにつながります。 そして、しきたりの変遷には、私たちが経てきた歴史ということがかかわっています。 いったい、現在の社会において、どういったしきたりが求められるのでしょうか。 そのあり方はどうあるべきかについて、考えなければならないことは多岐に及びます。 この本をきっかけに、読者がしきたりの世界について考えてくれるようになれば、著者としてこれほど嬉しいことはありませんという。1章 神社で拍手は打つな/2章 初詣は鉄道会社の発明/3章 マイカーが生んだ墓参り/4章 結婚式に祝儀など持っていかなかった/5章 どう考えても無駄な半返し/6章 クリスマスはキリスト教の行事じゃない/7章 ハロウィンの起源は江戸時代の花見/8章 商業資本としきたり/9章 怪しげなしきたりに踊らされてどうする[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]御朱印帳 カバー付 送料無料 蛇腹 40ページ 四季草花文 紺 送料込み (※メール便のみ 送料無料)| 朱印帳 カバー おしゃれ かわいい かっこいい お寺 神社| 朱印帳 カバー おしゃれ かわいい かっこいい お寺 神社御朱印帳 カバー付 送料無料 和綴じ 60ページ 雁皮紙使用 ブック式 四季彩爛漫 生成 (※メール便のみ 送料無料)
2020.12.12
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川路利良は1834年に薩摩藩与力の長男として、現在の鹿児島県鹿児島市皆与志町比志島地区生まれました。 ”川路利良 日本警察をつくった明治の巨人”(2024年1月 講談社刊 畑中 章宏著)を読みました。 薩摩藩の下級武士の家に生まれ幕末の激動の時代を生き国家と警察組織に一身を捧げ初代大警視となった、川路利良の生涯を描いています。 川路家は身分の低い準士分でしたが、16世紀に横川城主だった北原伊勢介の末裔とされます。 北原氏は肝付氏庶流で横川城落城後に北原伊勢介の一族は蒲生に逃れ、川路氏と名乗りを変えたといいます。 重野安繹に漢学を、坂口源七兵衛に真影流剣術を学びました。 島津斉彬のお伴として初めて江戸に行き、薩摩と江戸をつなぐ斥候的役割の飛脚として活動しました。 大久保利通の腹心の部下で、戊辰戦争に参加しました。 1872年にイギリス・フランスに渡り警察制度を研究し、帰国後に警察を司法省より内務省に移管しました。 1974年に警視庁が創設された際に大警視に就任し、治安維持に尽くしました。 西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、別働第三旅団を率いて西郷軍に大きな打撃を与えました。 欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した、日本の警察の創設者であり日本警察の父とも言われています。 加来耕三さんは1958年大阪市生まれ、1981年に奈良大学文学部史学科を卒業後、同大学文学部研究員として2年間勤務しました。 1983年より執筆活動を始め、歴史的に正しく評価されていない人物や組織の復権をテーマに著作活動などを行っています。 講演活動やテレビ番組、ラジオ番組などの出演も数多くこなし、テレビ番組では監修、時代考証、構成も手掛けました。 観光大使としては、2018年に港区観光大使に、2019年に薩摩大使に、2019年に柳川市観光大使に就任しています。 このほか、内外情勢調査会、地方行財政調査会、外交知識普及会、政経懇話会、中小企業大学校などの講師を務めました。 1874年に創設された東京警視庁が、2024年に150年目となりました。 東京警視庁は発足3年で内務省警視局に吸収されましたが、今日の警視庁の第一歩は東京警視庁にあります。 これはそれまでの日本になかった、近代的な警察制度です。 ほぼ独力で東京警視庁を創り、今日なお日本警察の父と呼ばれるのが川路利良の存在です。 本書では、薩摩藩下層から出て一代で藩士となり、ついに東京警視庁を創った川路の生涯を紹介しています。 1830~1844年の天保年間は、幕末の入口に相当する時代でした。 幕藩体制は弛緩し、事実上、経済はすでに破綻していました。 夢も希望も抱きにくいこの時代に、遅れていた日本に明治の時代を築く人々が輩出しました。 1840年には隣国の清がイギリスとの阿片戦争を本格化させ、清がイギリスに敗れました。 南京条約を結ばされ、広州・福川・厦門・寧波・上海を開港し、香港を割譲させられました。 その衝撃は大きく、日本の心ある人々は次は日本が狙われると怖気をふるいました。 大半の日本人は悲嘆に暮れるか観するかで、何もしない日常を送っていました。 その中にあって、わずかな人々だけが自国独立の尊厳を守るべく立ち上がりました。 1864年に禁門の変で、長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功を挙げました。 1867年に藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学びました。 1868年に戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いに、薩摩官軍大隊長として出征しました。 上野戦争では、彰義隊潰走の糸口をつくりました。 東北に転戦し磐城浅川の戦いで敵弾により負傷しましたが、傷が癒えると会津戦争に参加しました。 1869年に戦功により、藩の兵器奉行に昇進しました。 1871年に西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事・典事に累進しました。 1872年に邏卒総長に就任し、司法省の西欧視察団の一員として欧州各国の警察を視察しました。 帰国後、警察制度の改革を建議し、パリ警視庁のポリスを模範とする警察機構を日本に築こうとしました。 ポリスとは終日、市中を巡回したり毅然と街頭に立ったりして、国民の生命・財産を守る人々のことです。 しかし、国民はポリス=警察官をこれまでに見たことがありませんでした。 徳川時代の与力・同心・岡っ引などは今日のような民主的なものではありませんでした。 まったく知らないものを認知させるには、多くの労力が必要でした。 新生日本では国民はポリスは保護者でなければならないと、川路は主張しました。 そのため、警察官一人ひとりに課せられた責務は、重く厳しいものでした。 1874年に警視庁創設に伴い、満40歳で初代大警視に就任しました。 執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回ったといいます。 1873年に政変で西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くがこれに従いました。 しかし、川路は忍びないが大義の前には私情を捨てて、あくまで警察に献身すると表明しました。 大久保利通から厚い信任を受け、不平士族の喰違の変や佐賀の乱では密偵を用いて動向を探りました。 薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を、帰郷の名目で鹿児島県に送り込みました。 川路は不平士族の間では大久保と共に、憎悪の対象とされました。 1877年の西南戦争勃発後、川路は陸軍少将を兼任し、別働第三旅団の長として九州を転戦しました。 激戦となった田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退けました。 5月に大口攻略戦に参加した後、6月に宮之城で激戦の末、西郷軍を退けて進軍しました。 その後川路は旅団長を免じられ東京へ戻り、旅団長は大山巌が引き継ぎました。 1879年1月に再び欧州の警察を視察しましたが、船中で病を得てパリに到着しました。 当日はパレ・ロワイヤルを随員と共に遊歩しましたが、宿舎に戻ったあとは病床に臥しました。 咳や痰、時に吐血の症状も見られ現地の医師の治療を受けましたが、病状は良くなりませんでした。 同年8月に郵船に搭乗して10月に帰国しましたが、病状は悪化し享年46歳で死去しました。 川路は武家の末端に生まれながら、幕末の動乱で名を上げ、明治日本の新国家樹立に参画しました。 自らの命を賭して警察機構を作り上げ、大警視まで上り詰めた川路の生涯は大いに参考になるといいます。序章 幕末の動乱(与力・川路正之進/「貧乏に負くるこっが恥でごわす」 ほか)/第1章 新国家の樹立をめざして(薩英戦争で得たもの/文久の政変 ほか)/第2章 戦火の中の新政府(比志島抜刀隊の誕生/大政奉還から王政復古の大号令へ ほか)/第3章 東京警視庁の誕生(官軍、方向を転ず/“川路の睾丸”の由来 ほか)/第4章 “大警視”の生と死(相相次ぐ長州人の汚職/征韓論争と川路の立場 ほか) [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]川路利良 日本警察をつくった明治の巨人/加来耕三【1000円以上送料無料】大警視・川路利良 日本の警察を創った男【電子書籍】[ 神川武利 ]
2024.05.11
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