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人生無意味症候群という精神的な病があり、人生は無意味という事実を改めて認識してしまうことで発症します。 人間が極限状態に追い込まれるとこの事実を再認識し、開き直って暴走してしまうことが知られています。 そのため、鬱に続く自殺原因の第2位とされており社会問題となっています。 しかし、この世には一人として同じ人はいません。 ”無意味な人生など、ひとつもない”(2017年3月 PHP研究所刊 五木 寛之著)を読みました。 人はどんな人生を送ったとしても、この世に生まれ生きたというだけで人間として大変大きな意味のある仕事をしているといいます。 どんなに自分が小さなとるに足らない存在に思えたとしても、世界はその小さなあなたがいて成り立っています。 無意味な存在、無意味な人生など、ひとつもないのです。 それぞれの宿命を抱きながら、それぞれが死に物狂いで生きています。 その健気さを思うと、胸が熱くなるような気がするといいます。 五木寛之さんは、1932年福岡県生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡り、教員としての父の勤務に付いて全羅道、京城など朝鮮各地を移動しました。 第二次世界大戦終戦時は平壌にいましたが、ソ連軍進駐の混乱の中で母が死去し、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げました。 引き揚げ後は、父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支えました。 1948年に旧制福岡県立八女中学校、福島高等学校に入学し、ツルゲーネフ、ドストエフスキーなどを読み、テニス部と新聞部に入って、創作小説や映画評論を掲載しました。 1952年に早稲田大学第一文学部露文学科に入学し、横田瑞穂に教えを受けゴーリキーなどを読み漁り、また音楽好きだった両親の影響でジャズと流行歌にも興味を持ちました。 生活費にも苦労し、住み込みでの業界紙の配達など、様々なアルバイトや売血をして暮らしました。 同人誌に参加し、詩人の三木卓とも知り合いました、 1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍されましたが、後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなりました。 1965年に、学生時代から交際していた岡玲子と結婚、夫人の親類の五木家に跡継ぎがなかったからか五木姓を名乗りました。 日本での仕事を片付けて、1965年に、かねてから憧れの地であったソビエト連邦や北欧を妻とともに旅しました。 帰国後は精神科医をしていた妻の郷里金沢で、マスコミから距離を置いて生活し、小説執筆に取りかかりました。 1966年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、1967年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞を受賞し、1969年には『青春の門』掲載を開始しました。 金沢で泉鏡花文学賞、泉鏡花記念金沢市民文学賞の設立に関わり、創設以来審査委員を務めています。 1970年に横浜に移り、またテレビ番組『遠くへ行きたい』で永六輔、野坂昭如、伊丹十三らと制作に加わりました。 1972年から2年間一度目の休筆に入り、その間の1973年に『面白半分』編集長を半年間務めました。 1974年に執筆活動を再開し、リチャード・バックの「かもめのジョナサン」の翻訳を刊行し、ベストセラーとなりました。 1975年に日刊ゲンダイでエッセイ『流されゆく日々』の連載を開始し、2008年に連載8000回の世界最長コラムとしてギネス世界記録に認定され、2016年には連載10000回を達成しました。 1976年、『青春の門・筑豊編』により、第10回吉川英治文学賞を受賞し、1981年から3年間再び執筆活動を一時休止し、龍谷大学の聴講生となり仏教史を学びました。 1984年に執筆活動を再開し、吉川英治文学賞、坪田譲治文学賞、小説すばる新人賞選考委員なども務めました。 2002年に菊池寛賞、同年ブック・オブ・ザ・イヤースピリチュアル部門を受賞しました。 2004年に仏教伝道文化賞。2009年にNHK放送文化賞を受賞しました。 2010年に『親鸞上・下』により、毎日出版文化賞特別賞を受賞しました。 著者は、あなたはこの世界でかけがえのない存在であり、今こそその意味を伝えたいといいます。 人の一生は、その一日一日が積み重なって延びてゆく一本の道のようなものかもしれません。 前に延びてゆく道筋がはっきりと見える時もあれば、暗闇に包まれて何も見えず一歩も踏み出せないと思う時もあります。 時に迷い、気づき、歓び、苦しむ、そのどれもがあってこそ人生です。 そうわかっていても、やはりまた悩み、苦しむのです。 誰かのためだけに生きてきた、孤独に生きてきた、ただ呆然と生きてきた、そのいずれの生き方も、どんな生き方をしようともそれでいいのです。 たとえ周囲から極楽とんぼと言われて馬鹿にされようとも、不幸にも罪を犯し、刑務所の塀の中で一生を過ごすような、そういう人生であってもいいのです。 人間としての尊い生き方は、あるいは価値というものは少しも変わらないのではないでしょうか。 しかし、人は何かを成すことがなくても十分ではないか、人間は生まれてきて生き続け、そして人生を懸命に生きており、そこにまず人間の最も大きな価値があります。 もし、人よりすぐれた野心やエネルギー、才能などを持ち合わせたなら、それを十分に発揮して世のため人のために尽くせばいいのです。 それは他人に自慢することでもなく、周りが称賛しなければならないことでもありません。 そういうふうに生まれてきて、そうした才能を開かせる機会を得たことを謙虚に感謝することです。 そしてもし無名のまま一生を送ったとしても、この世の中に生まれてきて生きたというだけで、人間として大変大きな意味のある仕事をしているのではないでしょうか。 50年生きた70年生きた、いや、わずかに1年生きたとしても、その生きたというだけでいいのではないでしょうか。 あなたの人生は、この広い世界でたったひとつしかありません。 この世には一人として同じ人はいませんし、どんなに自分が小さなとるに足らない存在に思えたとしても、世界はその小さなあなたがいて成り立っています。 無意味な存在、無意味な人生など、ひとつもないのです。 ほかと比べて優劣見る必要もありませんし、真似をする必要もありません。 同じように迷える者、弱き者の一人として生きてきた経験が、少しでもお役に立つことがあればと願い、この一冊にまとめてもらうことにしたといいます。第1章 大いなるいのちと「私」/無意味な人生など、ひとつもない/あなたが生きるのはなんのためなのか/悩み苦しむ「あなた」、そのままでいい/人間としての「私」と、個としての「私」/変えられないこと、変えられること/今見える道だけがあなたの道ではない/「あれかこれか」より「あれもこれも」/人生は自ずとなるべきようになる第2章 「今日一日」を生きる/生きる力を与えてくれるもの/「気休め」の効用/こころの傷があなたを支えてくれる/人を本当に力づける励ましとは/歓び上手のススメ/肉声で語り合うことの大切さ/怒りとどうつきあうか/悲しみはいのちを活性化させる/一人で生きるということ第3章 歳を重ねるということ/生には、立ち止まるべき時がある/「林住期」こそ人生の黄金期/”学び直し”が人生に深みと変化を与える/「必要か否か」ではなく「興味」で選んでみる/歳を重ねて、やりくり上手になる/失ったものではなく、増えていくものを数えよう/死があるから、生か輝く/生きどきがあり、死にどきがある第4章 ありがとう、おかげさまで/私たちは、すぺて大河の一滴/「天が見ている」という感性/激変する世界にどうむきあうか/どこにでも「地獄」はある/今必要なのは「許し合うこころ」/「理想の死に方」をイメージしてみる/生きていることは、ありえないほど貴重なこと/ありがとう、おかけさまで
2019.07.06
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祇園の名はインドにあった祇樹給孤独園=ぎじゅぎっこどくえんと呼ばれた僧園の名前を略したものです。 ”祇園、うっとこの話 「みの家」女将、ひとり語り”(2018年10月 平凡社刊 谷口 桂子著)を読みました。 祇園のお茶屋「みの家」の女将の一日、「みの家」の歴史、祇園の今昔、しきたり、母である先代のことなど祇園の四季や京都の四季を語っています。 祇樹給孤独園は、古代、中インドの舎衛国=しやえこくにあった、祇陀=ぎだ太子の庭園の祇陀林=ぎだりんを、須達=しゆだつ長者が買って、寺院=祇園精舎を建てて釈迦に寄進したものです。 今の八坂神社は、元の祭神であった牛頭天王=ごずてんのうが祇園精舎の守護神であるとされ、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれましたが、1868年の神仏分離令により改名されました。 牛頭天王は平安京の祇園社の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきました。 御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになりました。 これが京都の祇園祭の起源であるとされます。 八坂神社は西門前、四条通を中軸とした鴨川以東一帯の地をいいますが、その称は一定していません。 清水寺・祇園社への参詣路にあたるという立地によって、早くから辺りに茶屋が存在していました。 谷口桂子さんは1961年三重県四日市市生まれ、東京外国語大学外国語学部イタリア語学科を卒業しました。 小説、エッセイ、人物ルポ、俳句を雑誌などに発表しており、人物ルポは元首相、ノーベル賞受賞者から、山谷の日雇い労働者まで幅広くインタビューを手がけてきました。 24歳で鈴木真砂女に出会って作句を始め、のちに加藤楸邨「寒雷」へ所属しましたが、現在は無所属です。 八坂神社は明治以前は鴨川一帯までの広大な境内地を保有していたため、この界隈のことを祇園と称します。 鳥居前町は元々は四条通に面していましたが、明治以降に鴨川から東大路通・八坂神社までの四条通の南北に発展しました。 舞妓がいることでも有名な京都有数の花街であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがあります。 現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らぎましたが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれます。 北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいます。 お茶屋とは今日では、京都などにおいて花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のことで、東京のかつての待合に相当する業態です。 芸妓を呼ぶ店で風俗営業に該当し、営業できるのは祇園、先斗町など一定の区域に限られます。 料亭(料理屋)との違いは、厨房がなく店で調理した料理を提供せず、仕出し屋などから取り寄せることです。 かつては、宴のあと、客と芸妓、仲居が雑魚寝をするというのが一つの風情ある花街情緒でしたが、今日では見られません。 歴史的には、花街の茶屋は人気の遊女の予約管理など、遊興の案内所や関係業者の手配所としての機能があり、客は茶屋の座敷で遊興し、茶屋に料金を払いました。 料理代や酒代をはじめ、芸者や娼妓の抱え主など各方面への支払いは、茶屋から間接的に行われました。 客が遊興費を踏み倒した場合でも、茶屋は翌日に関係先に支払いをしなくてはならず、客からの回収は自己責任でした。 茶屋が指名された遊女を呼ぶ場合は、抱え主に対し「差し紙」という客の身元保証書を差し出す規則がありました。 客の素性や支払を保証する責任上、茶屋は原則一見さんお断りで、なじみ客の紹介がなければ客になれませんでした。 今でも京都ではこのルールが残っていて、料亭に芸妓を招く場合でも、いったんお茶屋を通すことになっています。 料理代は料亭に支払い、花代は後日お茶屋に支払うことになります。 「みの家」は京都市東山区八坂新地末吉町にあり、最寄駅は祇園四条駅です。 先代の女将、千万子は、瀬戸内寂聴が瀬戸内晴美の筆名時代の1972年に、祇園に取材して著した小説『京まんだら』のモデルとして知られています。 この小説は、「みの家」の女将で吉村千万子という、京都生まれでも無いのに祇園に店を立ち上げた実在の人物です。 小説中、「竹乃家」として書かれるお茶屋は「みの家」、千万子は「芙佐」、その子の薫は「稚子」として登しています。 京都祇園に生きる女性達の表と裏の素顔,その恋愛や生き方を描いた興味深い話で、京都の歴史や風物も織り交ぜられて華やかな作品になっています。 「みの家」には美空ひばり、イサムーノグチら、著名な客が多くいましたが、作家の瀬戸内寂聴もその一人です。 寂聴は祇王寺の智照尼のことを『女徳』に書き、智照尼の紹介で祇園に詳しい中島六兵衛を知り、「みの家」を訪れるようになったそうです。 何百年と続く老舗のお茶屋が、代々一族に受け継がれて栄える中で、当代の「みの家」女将の吉村薫の母親で、先代の女将の吉村千万子は、十代で祇園のお茶屋に奉公し、23歳で自分の店を持ちました。 ほかに、旅館「吉むら」などお茶屋以外の事業も成功させて、女実業家といわれた伝説の人物です。 千万子の母親は離婚して女の子を連れて故郷の山口に帰り、帰ってからおなかに子供がいることに気づいたといいます。 その子供が千万子であり、1919年に山口県で生まれましたが、訳あって母親は子供二人を連れて大阪に出て、駅前でくらわんか餅を売って生計を立てたそうです。 千万子は子供ながら母親の仕事をよく手伝って、その姿を見ていた京阪電鉄の人の紹介で、尋常高等小学校を出てすぐ、祇園のお茶屋「みの家」に養女に来ました。 しかし養母は病気がちで、千万子が16歳のときに亡くなってしまい、実家の母親はすでに亡くなっていたため、18歳年上の姉夫婦の家に厄介になっていました。 その後、仲居の修業を希望して、紹介してもらって「よし松」というお茶屋にやってきました。 その店で甘粕大尉に出会い、甘粕には贔屓にしてもらったといいます。 にもかかわらず、千万子は店の上等でない客の呉服屋の番頭と恋仲になり、大八車で夜逃げ同然に飛び出しました。 そして、途絶えた「みの家」を1942年に二人で再興し、子供も二人できましたが、その後、店に客できていた薫の父親と出会って、慰謝料をつけて追い出したそうです。 千万子は一時、旅館「吉むら」の他に、鉄板焼きの店「楼蘭亭」、スナック「チマ子」と手広く店を経営しました。 愛嬌のある可愛いい人で、頭もよく、愚痴は言わず、笑い上戸で泣き上戸の、情の濃い、情け深い人だったといいます。 そして、奔放な恋愛を繰り返す一方で、千万子は義理を欠かさない人でした。 「みの家」の先代の墓参りを忘れたことはなく、月命日に京都にいないときは、従業員を代理で行かせました。 薫は贅沢三昧に育ち、「あば」と呼ばれる乳母がつき、千万子は自分ができなかったことを子供たちにさせようと、薫は琴、兄はバイオリン、姉はピアノの習い事をさせました。 薫には中学生のときから家庭教師がつき、アメリカのハイスクールを出た先生に英会話の個人レッスンを受けました。 新し物好きの千万子はテレビもいち早く購入しました。 夕食後は近所の人が見に集まるため、座布団を並べるのは薫の役目でした。 お茶屋の娘は「家娘」とよばれ、よそから来た「奉公」と区別されます。 京都には祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒の五花街がありますが、「みの家」がある祇園町の家娘は舞妓に出しません。 薫は公立高校の試験に落ちて、私立の二次試験を受けて女子高に入学しましたが、その後、再入試を受けて公立に入り直しました。 その公立高校を落第しそうになり、かつて英会話を習っていた先生のいるアメリカに1969年に渡りました。 半年後に帰国してから男の人に出会い、その相手と駆け落ちして結婚しました。 親同士が話し合い、千万子が以前経営していたスナック「チマ子」を、薫が祇園で新たに始めました。 薫が「みの家」の若女将となるのはそれから21年後に、千万子が亡くなってからです。 21歳で結婚して、別れたのは27歳のときでした。 著者は四半世紀ほど前、編集者に連れられて「みの家」を訪れて、女将の薫と出会ったそうです。 薫はたおやかな京言葉を操り、繕わないかわいらしさの一方で、筋の通らないことには京おんなの芯の強さと誇りで対処していました。 出会いと縁に感謝しつつ、客層もお茶屋も変わっていく時代に、この先も「みの家」が末永く栄えていくことを心より願っているといいます。第一章 女将の一日/第二章 『みの家』の歴史/第三章 お座敷という表舞台/第四章 おかあちゃんのこと/第五章 祇園の四季/京都の四季/第六章 『みの家』のご縁/第七章 祇園今昔/第八章 お茶屋の暮らし/第九章 身近な神仏/第十章 『みの家』のこれから京都西院 料理好きの家変なホテル京都 八条口駅前京都キムチのほし山 キムチカタログ お届けいたします 【価格1円となっておりますが無料です】
2020.10.17
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クラシック音楽は16世紀ルネサンス期にまで遡れる程の歴史を持つことから、オーケストラはさぞ古いものだと感じてしまう人は多いようです。 しかし、現在我々がイメージするオーケストラの姿は、それほど昔に形成されたものではありません。 現代のオーケストラのスタイルは19世紀に成立したもので、アメリカのオーケストラはその形成過程で重要な役割を果たしました。 ”オーケストラ大国アメリカ”(2011年4月 集英社刊 山田 真一著)を読みました。 今日まで続くアメリカで最も古いオーケストラは、ニューヨーク・フイルハーモニックです。 クラシック音楽の伝統のない国だと思われているアメリカが、実は真のオーケストラ大国だということです。 設立は1842年、これはウィーン・フイルハーモニー管弦楽団と同じ年です。 山田真一さんは1963年東京生まれ、シカゴ大学大学院博士課程を修了し、昭和女子大学非常勤講師を務め、音楽専門誌や新聞などに評論等を執筆している芸術文化研究者、音楽評論家です。 今日ではもう聴くことができない演奏団体やオーケストラは、19世紀前半のアメリカに幾つもありました。 フランス王家オルレアンや、ジャンヌ・ダルクでも有名な都市にちなむニューオリンズは、フランスの豊かな文化の影響を受け、アメリカ合衆国に併合されてからも、19世紀初頭、音楽文化ではアメリカで最も活動的な地域でした。 そのニューオリンズには、ニューヨーク・フィルよりも早く、1824年にニューオリンズ交響楽団協会が設立されました。 ニューオリンズからは、アメリカ生まれながらヨーロッパ渡航後、ショパンに劣らない人気を得たピアニストで作曲家のルイ・モロー・ゴッチョークのようなアーティストも出ました。 ニューオリンズからミシシッピー川を上って、アメリカ北東部を結ぶ地点にあるセントルイスには、1838年セントルイス・フイルハーモニック協会が設立されてます。 また、オーケストラ伴奏を伴って、メサイアやハイドンのオラトリオなど古典音楽の演奏と解釈を深める目的で組織されたボストンのヘンデル・ハイドン協会は、1815年の設立です。 19世紀末、チャイコフスキーやドヴォルザークは、ヨーロッパ以上にアメリカで認められ、繰り返し演奏されて人気が確定しました。 ドヴォルザークの代表作、交響曲第9番、新世界より、はアメリカで作曲されたものです。 ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ラフマニノフ、マーラーなどは、アメリカでレパートリーとして定着して世界へ広まりました。 現在、CNNのサイトに掲載された世界の偉大なオーケストラトップ10は、1位、ベルリンフィル、2位、ウイーンフィル、3位、ニューヨーク・フィル、4位、ロイヤル・コンセルトゲボウ・オーケストラ、5位、ロンドン響、 続いて、6位、シュターツカペレ・ドレスデン、7位、ラウプツィッヒ・ゲヴァントハウス管、8位ザンクト・ペータースブルグ・オーケストラ、9位、チェコ・フィルハーモニー、10位、東京フィルハーモニーとなっています。 ほかのランキングでも、ニューヨーク・フィル以外に、シカゴ交響楽団、クリーヴランド管弦楽団、ロサンゼルス・フィル、ボストン交響楽団、サンフランシスコ響メトロポリタン歌劇場管弦楽団などが挙げられています。 トスカニーニ、バーンスタイン、ショルティなどのカリスマ指揮者や、名オーケストラが数々あるアメリカのオーケストラを知らずして、もはやクラシック音楽は語れない状況にあります。 本書は、これまで余り知られてこなかったアメリカのオーケストラの形成過程をひもときながら、どのようにアメリカが近代オーケストラの形成に貢献したかを紹介しています。 第1章では、19世紀にアメリカでなぜオーケストラが重要な文化の担い手になったのか、そして、なぜ20世紀初頭には世界水準の演奏団体へと成長できたのか、その理由を探っています。 第2章では、20世紀前半、オーケストラが大衆的な存在となった過程を、フィラデルフィア管弦楽団を率いたストコフスキーと、そのライバルだったニューヨーク・フィル率いるトスカニーニを軸に説明しています。 第3章では、20世紀半ばになり、アメリカのオーケストラが、聴衆の拡大やレコード技術の発展などにより、大きな文化産業へと発展し、世界の音楽界に影響を与えていく姿を迫っています。はじめに なぜアメリカのオーケストラなのか?第1章 オーケストラ大国の礎 オペラハウス・ブーム/オーケストラの伝道師トーマス-地域オーケストラの誕生/スパルタ指揮者!マーラー-アメリカ音楽界の飛躍/ドイツ音楽界からの脱皮第2章 オーケストラ大衆時代の到来 スター指揮者誕生/アメリカで花開いた現代指揮法第3章 悲劇と栄光の指揮者たち 新しい音楽界ビジネスの出現/レコード業界の飛躍/幻のシカゴ響音楽監督フルトヴェングラー/最後の勝利者ライナー第4章 スーパー・オーケストラの登場 アメリカ生まれのスター指揮者/ゲオルグ・ショルティ/クリーヴランド管弦楽団-セルとその遺産第5章 オーケストラ大国アメリカの発展 オーケストラ・ダイナミズムの時代/米国オーケストラの発展支えたもの)主要参考文献
2016.10.24
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”ゴーイング・マイウェイ”(2003年6月 財界研究所刊 田崎 俊作著)を読みました。 日本一の真珠王を目指した田崎真珠社長の、真珠と共に歩んだ74年を綴る自叙伝です。 株式会社TASAKIは神戸市中央区に本社を置く宝石を加工、販売する企業で、東京銀座にジュエリータワーTASAKI銀座店があります。 田崎俊作さんは、1929年に長崎県大村市で、男5人、女4人の9人兄弟の二男として生まれました。 家業は真珠養殖業でしたが、子沢山の貧しい生活だったそうです。 父親は神戸で単身赴任し、高島真珠で番頭として働いていました。 小学校に入学する前、弟と一緒に母親に連れられて神戸で半年ほど暮らしたそうです。 父親は33歳の時に独立して、大村湾の前ノ島で真珠の養殖を始めました。 そこは義兄や知り合いが、一足先に高島真珠を辞めて養殖をしていました。 前ノ島までは機船で2時間かかり、父母はその島に行ったきりでした。 そのため、9人の子供たちは祖父母に育てられました。 小学校を卒業してから、5年制の旧制大村中学に進みました。 大村中学を4年で卒業して海軍兵学校しましたが、在学中に敗戦を迎えました。 1947年にやむなく長崎経済専門学校に進学し、1950年に神戸の鄭旺真珠有限公司に入社しました。 1954年に田崎真珠を創業し、1956年に有限会社田崎真珠商会となり、株式会社となったのは1959年でした。 1970年代に真珠の量産に成功し、国内で真珠の生産及び加工販売を行っている企業としてはトップクラスの実力があり、日本真珠振興会が主催する全国真珠品評会では農水大臣賞を7度受賞しています。 真珠は海からの贈り物であり、神秘的な美しさから月の雫とも天使の涙ともいわれ、洋の東西を問わず最高の宝石として珍重されてきました。 古事記には、”白玉(真珠)の君が装し 貴くありけり・・・”と記され、真珠のように美しい、と美を象徴する言葉として使われています。 日本書紀や万葉集にも、真珠が詠まれています。 日本ばかりではなく、ヨーロッパでも真珠は美のシンボルです。 ギリシヤのホメロスの詩に歌われ、エジプトのクレオパトラが美容のために真珠を粉にして飲んでいたというのは有名な話です。 生まれ育った長崎県大村湾は、古くからその真珠の産地です。 戦国時代の1582年、豊後の大友宗麟、肥前の有馬晴信、大村純忠のキリシタン大名がローマ教皇に天正遣欧使節として四少年を遣わしましたが、その四少年がローマ法王に献じたのは、大村湾産の天然真珠だと伝えられています。 天然真珠の産地だった日本は、養殖真珠を開発し、世界中の女性に真珠を提供しています。 田崎真珠は2004年1月に創業50年を迎えました。 神戸で創業して以来、半世紀になります。 創業以来の目標は、世界に真珠を広めることでした。 いまでは、ミスユニバース日本代表の王冠は田崎真珠製になっています。 その後、会社は2010年に、英文社名をTasaki Shinju Co., Ltd.からTasaki & Co., Ltd.に変更しました。 2011年に、著者は82歳で神戸市東灘区の病院で死去しました。 2012年に、会社はTASAKIに商号を変更しました。 本書は、真珠に魅せられ生涯を燃焼した男の、子供時代から2002年までの物語が語られているます。 第1章 父と真珠第2章 海軍兵学校第3章 丁稚奉公第4章 「田崎真珠」創業第5章 逆境第6章 社会へ還元第7章 不況克服
2015.06.15
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6世紀初めに、羊皮紙を使用して現在の本の概念となったものが出現しました。 作ったのは、ベネディクトゥスがイタリアに設けた修道院の修道士たちでした。 その後、羊皮紙よりも軽くて扱いやすい紙が発明され、さらに印刷術が発明されてから、本の普及が飛躍的に高まりました。 15世紀半ばにドイツのヨハネス・グーテンベルクが金属による可動性の活字を使い、ブドウ絞り機を利用した印刷機を操作して印刷術を興してから、本は全く面目を改めることになりました。 ”ヨーロッパ 本と書店の物語”(2004年7月 平凡社刊 小田 光雄)を読みました。 ヨーロッパ近代の本と書店との関係と、文化や社会との関係を描き出しています。 小田光雄さんは、1951年静岡県生まれ、早稲田大学卒業、最初、書店に勤務し、ロードサイドビジネス、土地活用業務などの仕事に携わった後、人文書専門の出版社・パピルスを友人と二人で始めました。 傍ら、戦後社会や郊外、出版文化、流通に関する研究を続け、1990年代後半から出版不況に警鐘を鳴らしていました。 本書には、ドン・キホーテの妄想を可能にした行商本屋から、ユリシーズの神話を立ち上げたパリの小さな書店まで、華やかさと世知辛さと闇に満ちたヨーロッパ版・書物の近代史が描かれています。 1500年代以降、近世・近代ヨーロッパでは、本は、印刷され出版されて読者に買われていく形態が徐々に定着しました。 読者との間を取り持ったのは、行商本屋、貸本屋、古本屋、キオスク書店などでした。 当初、本は、行商本屋が各地を回って売り歩き、行商本屋はドン・キホーテの妄想を可能にしました。 その後貸本屋が普及して、本の読者を大きく伸ばすこととなりました。 貸本屋でもっともよく知られていたのは、ミューディという貸本屋でした。 ミューディは書籍流通の権力を握っていて、巻数を多くするため三巻本という形式を取っていました。 しかし、19世紀後半になってイエロー・バックや鉄道文庫が出現し、持ち運びが不便で乗客や旅行客に合わない三巻本は衰退し、それを受けて貸本屋は没落していきました。 その後、1774年にゲーテが25歳で”若きヴェルテルの悩み”を自費出版して、一躍時代のスターとなりました。 大勢の若者が、成功を夢見て、自分の作品を発行し販売してくれる出版社や書店を探して走り回りました。 当時は、書き手にとっては我が身を文学の神に捧げて書いた珠玉の作品でも、出版社や書店にとってはあくまで投機の対象となる商品に過ぎませんでした。 このような中で、ウォルター・スコットは出版社の負債まで背負い込み、返済のための休みない執筆による過労で死んだそうです。 処女出版の詩も歴史小説も売れず、バルザックは盗作や剽窃で三文小説を書きなぐり、あげくのはて出版業界に翻弄され3度も倒産しました。 そして、20世紀になってようやく、作品と商品を両立させ時代の精神と共にある出版社や書店が現れました。 パリの女性モニエは1915年に、新しい時代の精神に目を向けて、本の友書店という書店と貸本屋を兼ねた店を開店しました。 店は作家や未来の書き手を惹きつけ、フランス文学を担うサロンとなり、ジッドやボーヴォワールなどが常連となりました。 その近くに、アメリカ人女性ビーチのシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店が出来て、ヘミングウェイやフィッツジェラルドが入りびたったそうです。 ビーチはジョイスの”ユリシーズ”の刊行に、ほとんど無償で尽力しました。 モニエもビーチも経済的には恵まれませんでしたが、多くの作家を育てました。 そして、20世紀後半になってパーパーバックが出現して、これまでになかった書物の大量生産・大量消費が普及していきました。 ペーパーバックの出現は、流通や販売も変化させ、本は、書店のみならず、新聞スタンド、ドラッグストア、スーパーマーケットまで進出しました。 これによって、新たな出版の投機と本の消耗品化が始まりました。 しかし、出版は過去も現在も、少部数の書物と少数の読者の出会いから始まり、絶えずその事実を根底に横たえながら、出版業界もまた成長してきました。1書物と書店の出現 活字中毒者の誕生/書籍商と印刷業者/書物流津のインフラ2行商本屋の巡回 行商人と「青本」/イギリスの「チャップ・ブック」/民衆本とプロパガンダ3ゲーテとイタリアの書店 ファウスト博士の伝説/デビューは自費出版/『ヴェルテル』とスターの誕生/『イタリア紀行』で描かれた書店4貸本屋の登場 買うよりも借りて読む/古書店兼業から始まる/ミューディ書店と三巻本/フランスの貸本屋/貸本屋と『ボヴァリー夫人』5バルザック『幻滅』の書籍商 小説の時代/職業作家の成立/バルザック、三回破産する/失望と再生/『幻滅』にみる当時の出版システム/夢想と現実/出版業界人たち/出版業界の皇帝/軽業としての新聞書評/金なのだ!/「文学の神話」へ6古本屋の位置 古書業界の誕生/セーヌ河岸の古本屋/黄金時代とその終焉7三文文士の肖像 ある愛書家の嘆き/リアードンの貧窮と死/自殺した文士ビッフェン/ユールの見果てぬ夢/新しい出版者ジャスパー/「小説なんてみんな同じ」8キオスク書店の開店 鉄道旅行と書物/本の流通革命/ゾラと大衆社会9ドイツの出版社と書店 ドイツの出版理念/書店員ヘッセ/亡命する出版社/出版の神話10オデオン通りの「本の友」書店 精神の王国/文学のトポスへ/「文学の修道尼」11シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店 パリのアメリカ人女性/開店/アメリカ人作家たち/ジョイスのパリ移住/『ユリシーズ』のセンセーション/小出版社とリトルマガジン/ジョイス、金の亡者になる/黄金時代の終わり12ディドロを再考する 書物としての『百科全書』/ディドロの苦い認識/ペーパーバック革命/書店とは何か
2013.09.10
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佐々木惣一は1878年鳥取県鳥取市生まれ、鳥取県尋常中学校、現、鳥取県立鳥取西高等学校、第四高等学校を経て京都帝国大学法科大学で学びました。 ”佐々木惣一 ”(2024年2月 ミネルヴァ書房刊 伊藤 孝夫著)を読みました。 大正デモクラシーの理論的指導者として活躍し、戦後は憲法改正案の起草にあたった憲法・行政法学者の佐々木惣一の生涯を紹介しています。 1903年に卒業し、直ちに同大学の講師、次いで1906年に助教授、1913年に教授となり、行政法を講じました。 1927年からは、退官した市村光恵に代わって憲法も担当するようになりました。 行政法における師匠は織田萬で、憲法における師匠は井上密です。 1921年以来二回法学部長に挙げられました。 厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、東の美濃部達吉とともに、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍しました。 弟子の大石義雄とともに、憲法学における京都学派を築きました。 1933年に滝川事件に抗議して辞職し、同事件では法学部教授団の抗議運動の中心として活動しました。 1945年には内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、いわゆる佐々木憲法草案を作成しました。 その後、貴族院における日本国憲法の改正審議に参画し、日本国憲法への改正に反対しました。 専門は憲法学・行政法で、学位は法学博士です。 貴族院勅選議員、京都大学名誉教授、立命館大学学長を歴任しました。 京都市名誉市民となり、文化功労者、文化勲章を受章しました。 伊藤孝夫さんは1962年兵庫県生まれ、1985年に京都大学法学部を卒業し、1987年に同大学院法学研究科修士課程を修了しました。 専門は日本法制史で、2001年に京都大学により論文博士を授与されました。 1989年に京都大学法学部助教授、1992年に同大学院法学研究科助教授、1999年に同大学院法学研究科教授となりました。 現在、京都大学 法学研究科 教授を務めています。 佐々木惣一は厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍しました。 1916年に政党政治への不信が強まっていた時代に、「立憲非立憲」の論文を発表しました。 門地や職業に依て限られた範囲の国民を上級国民と名付けて行われた上級国民の意思による政治は、立憲主義ではないとしました。 一般の国民がその意思を政治に反映させて初めて立憲主義が生まれると、立憲主義の価値を説きました。 1940年に、革新的な新体制運動にともなって結成された大政翼賛会には一貫して反対し、自由保守主義を擁護し続けました。 1933年の京大事件により7月に京都帝国大学を免官となり、その9月に17人の教員とともに立命館大学に招聘されました。 京大事件はいわゆる瀧川事件で、瀧川教授の学説を巡り文部省が瀧川教授を罷免することに端を発したものでした。 教授の罷免にとどまらず大学の自治や学問の自由に対する侵害であるとして闘い、免官となりました。 同年12月12日には立命館大学の法律学科部長に、1934年3月9日に学長に就任しました。 1935年には創立35周年記念事業にも取り組みましたが、1936年に1年の任期を残して学長を辞職しました。 当時の天皇機関説問題などを巡る国の動向と、社会の状況によるものといわれます。 そして、1937年からの日華事変の長期化を理由とした、新体制運動の議会否定の思想を批判しました。 近衛文麿は首相として日中戦争を全面化して日独伊三国同盟を結び、国内の戦争体制を整備しました。 ナチス・ドイツに範をとった一党独裁のファシズムは日本の政治的伝統とかけ離れ、帝国憲法の運用に適っておらず、非立憲的であると主張しました。 その後佐々木は近衛の企てた大政翼賛会は違憲だと非難しましたが、太平洋戦争末期には近衛を中心とする反東条内閣、早期和平実現計画の一員に加わりました。 敗戦直後、マッカーサーは近衛に憲法改正を行うよう指示し、近衛が相談相手に佐々木を選びました。 佐々木は大正天皇の即位のときから憲法改正を念願としていましたので、これに応じました。 権力と反権力を象徴するこの二人は敗戦直後、ともに内大臣府御用掛として明治憲法の改正作業を行いました。 佐々木はこの作業を東大や同志社大出身者を交えて行う計画でしたが、実現しませんでした。 内大臣府廃止により憲法改正作業は打切られ、近衛は要綱だけを佐々木は全文を天皇に報告しました。 二人はともに、天皇主権という帝国憲法の国体を維持して、内容を民主主義に改めることを意図しました。 佐々木はGHQの意向を取り入れることを嫌い、天皇に関する第1条から第4条について変更がないなど、近衛案以上に明治憲法の枠内での改正となっています。 注目されるのは、生活権の規定、憲法裁判所の設置、地方自治についての項目が盛り込まれている点です。 近衛が戦争犯罪者に指名されて自殺したあと、佐々木は貴族院議員として主権在民の日本国憲法に反対しました。 一方で、皇室典範を天皇退位を可能にするよう改正せよと主張しました。 しかし新憲法の内容のデモクラシーには賛成で、新憲法が成立すると国民は新憲法を尊重してこれを守るよう説きました。 公法学者としての佐々本の軌跡は、明治憲法の長所と限界とをそのままに反映するものとなったといえるでしょう。 佐々木の生涯は、学問の自由を守るための闘いだったといっても過言ではありません。 本書は佐々木を扱うはじめての評伝として生涯の軌跡を追い、牽引した戦前期公法学の展開をドイツ公法学との関連の下にたどっています。 本書は京都大学名誉教授の松尾尊兌先生が書かれる予定でしたが、先生がお亡くなりになったため執筆担当を引き受けたといいます。第1章 土地の名―鳥取・金沢・京都/第2章 ドイツにて―ハイデルベルク・ベルリン/第3章 立憲非立憲/第4章 重責を担って/第5章 激動の中へ/第6章 戦時下に時を刻む/第7章 新憲法との対話 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]佐々木惣一 論理ノ正確ハ法理探究ノ目標ナリ (ミネルヴァ日本評伝選) [ 伊藤 孝夫 ]立憲非立憲【電子書籍】[ 佐々木惣一 ]
2024.04.20
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