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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2020.12.12
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カテゴリ: カテゴリ未分類

 郊外の墓参りはバブルが生んだ年中行事である、結婚式のご祝儀もお葬式の半返しも伝統ではない、そもそもクリスマスはキリスト教に関係がない、ともいいます。

 ”神社で拍手を打つな! 日本の「しきたり」のウソ・ホント”(2019年11月 中央公論新社刊 島田 裕巳著)を読みました。

 日本人がしきたりと思っている行事にはごく最近生み出されたものが少なくなく、私たちはいろいろなしきたりとどう向き合えばいいのかを示唆しています。

 島田裕巳さんは1953年東京都生まれ、1976年東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、同大学大学院人文科学研究科修士課程修了、1984年同博士課程満期退学(宗教学専攻)しました。

 放送教育開発センター助教授、日本女子大学助教授を経て、1995年に教授に昇任しましたが同年に退職しました。

 2005年から2008年まで東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、2006年より中央大学法学部兼任講師となりました。

 2008年より東京大学先端科学技術センター客員研究員、2013年より東京女子大学現代教養学部人文学科非常勤講師となりました。

 現在、宗教学者、作家、劇作家、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長として活躍しています。

 拍手=かしわでは神道の祭祀や神社・神棚など神に拝する際に行う行為で、柏手と書かれることもありますが誤りです。

 かしわでという呼称は、拍の字を柏と見誤った、あるいは混同したためというのが通説です。

 神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教で、伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立しました。

 持統紀に、即位した新天皇に群臣が拝礼と拍手をした記載があり、初めて天皇を神に見立てる儀礼として即位式に柏手が取り入れられ、定例化したとされます。

 奈良時代には、天皇の即位宣命が読み上げられた後、参列した百官が拍手で応えたそうです。

 これはひざまずいて32回も手を打つという形式で、現代の立って行う形式とは異なっていました。

 799年の元日朝賀に渤海使が参列していて、天皇を四度拝むのを二度に減らし、拍手もしなかったということです。

 神道には確定した教祖、創始者はなく、公式に定められた正典も存在しません。森羅万象に神が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、天津神・国津神などの祖霊をまつり、祭祀を重視します。

 神社は日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設で、産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られています。

 一般的にみられる神棚は小型の神社を摸した宮形の中に、神宮大麻や氏神札、崇敬神社の神札を入れるものです。

 これは札宮といい、狭義にはこれを神棚と呼び、神職の家などの神葬祭を行う家には、祖先の霊をまつるための神棚があります。

 他に、神札よりも神の依り代としての意味合いが強い御神体をまつる神棚もあります。

 拍手は両手を合わせ左右に開いた後に再び合わせる行為を指し、通常、手を再び合わせる際に音を出します。

 音を出す理由は、神への感謝や喜びを表すため、願いをかなえるために神を呼び出すため、邪気を祓うためといわれています。

 両手を合わせる際に指先まで合わせる作法と、意図的にずらす作法があります。

 ずらす作法にも、途中からずらす作法と、最初から最後までずらしたままの作法があります。

 また、神葬祭や慰霊祭などにおいては音を控えめにする作法もあり、音を控えめにするのは儀式の静粛さを損なわせないためなどと説明されています。

 神社で行われる参拝作法の再拝二拍手一拝など、3回以下のものは短拍手・短手と呼ばれ、出雲大社、宇佐八幡、弥彦神社の4回、伊勢神宮の8回など、4回以上手を打つものは長拍手・長手と呼ばれます。

 他に、8回打った後に再度短拍手を1回打つ八開手もあります。

 神葬祭で音を微かに打つ偲手・忍手・短手や、直会で盃を受けるときに一回打つ礼手などもあります。

 明治維新前は神仏習合の影響が大きく、拝礼の作法は地域によりさまざまで、手を合わせて祈る、三拍手、四拍手などがありました。

 明治8年に式部寮から頒布された神社祭式に、再拝拍手と記されたことから、統一化の動きが始まりました。

 現在の「二礼二拍手一礼、再拝二拍手一拝」は、明治40年に神社祭式行事作法が制定され、その中でひとつの作法が定義されたものです。

 昭和17年に内務省神祇院教務局祭務課が編集した神社祭式行事作法に、「再拝、二拍手、一揖、拍手の数を二とす」と記載され、昭和18年1月1日より施行されました。

 しきたりとは、一般には昔から行われてきたならわしとして考えられています。

 昔から受け継がれてきた伝統だから、それに従うべきだというわけです。

 しかし、しきたりのなかには新たに生み出されたものが少なくありません。

 とくに最近では、商売として商業資本の手によって導入された新たなしきたりが広まっています。

 一方で、社会が変化することで、古くからのしきたりは意味を失ったり実行することが難しくなっていたりします。

 しきたりは栄枯盛衰をくり返しますので、新陳代謝が伴うのです。

 そのことを踏まえるなら、私たちはしきたりに接するとき、それが本当に昔から続けられてきたのかを考える必要があります。

 あるいは、そのしきたりに従うことに意味があるのかを検討してみる必要があります。

 神社で拍手を打たないということは、その一歩になります。

 拍手を打たない場合、必要なのは神に対して礼拝をする手段として、いったいどういう方法があるのかを考えることです。

 二礼二柏手一礼だと、そこには、神に対して祈る時間が含まれず、ただ神を崇めるだけで終わってしまいます。

 果たして私たちはそれで満足できるのでしょうか、と言っています。

 もっとこころを込めて神に祈る時間が必要だと思えてきたら、どうしたやり方をとればいいのでしょうか。

 神社には、「二礼二拍手一礼」を勧める掲示がなされていたりして、テレビ番組でも、このやり方が正式な参拝の仕方だと紹介されることが多いです。

 しかし、神社の掲示にも、テレビ番組でも、なぜ二礼二拍手一礼でなければならないのかという根拠は示されていません。

 礼拝の仕方を神が定めることはあり得ませんので、あくまで人間が定めたしきたりです。

 神社界の組織として神社本庁があり、すべての神社ではありませんが、多くの神社はこの神社本庁の傘下にあります。

 神社本庁のホームページの参拝方法という項目を見ると、永い間の変遷を経て現在、「二拝二拍手一拝」の作法がその基本形となっていますと記されています。

 二礼二拍手一礼ではなく二拝二拍手一拝となっていますが、意味は同じです。

 なぜそうした作法が基本形になったのか、その経緯は説明されていませんし、根拠も示されていません。

 教えを説く存在がいない神道の世界では、どんなことについても、経緯、背景、根拠を明確に説明することができません。

 そのため、しきたりについての説明は自ずと曖昧なものになってしまうのです。

 しきたりは、その背景にある宗教の世界、信仰の世界の成り立ちを明らかにしていくための鍵になります。

 しきたりにただ従うのではなく、そうしたところまで考察を深めることが重要なのです。

 しきたりは、私たちの生活のあり方と密接に結びついています。

 その点では、しきたりを見直すことは、私たちの生活をこれまでとは違った角度から見ていくことにつながります。

 そして、しきたりの変遷には、私たちが経てきた歴史ということがかかわっています。

 いったい、現在の社会において、どういったしきたりが求められるのでしょうか。

 そのあり方はどうあるべきかについて、考えなければならないことは多岐に及びます。

 この本をきっかけに、読者がしきたりの世界について考えてくれるようになれば、著者としてこれほど嬉しいことはありませんという。

1章 神社で拍手は打つな/2章 初詣は鉄道会社の発明/3章 マイカーが生んだ墓参り/4章 結婚式に祝儀など持っていかなかった/5章 どう考えても無駄な半返し/6章 クリスマスはキリスト教の行事じゃない/7章 ハロウィンの起源は江戸時代の花見/8章 商業資本としきたり/9章 怪しげなしきたりに踊らされてどうする





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Last updated  2020.12.12 07:55:17
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