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聖路加国際病院名誉院長だった日野原重明医師は、105歳でも現役で活動しておられました。
自宅で静養を続けていたが体調を崩し、2017年7月18日午前6時半に呼吸不全で死去されました。
”僕は頑固な子供だった”(2016年10月 ハルメク社刊 日野原 重明著)を読みました。
命とは人間が持っている時間のことという105歳の著者がどうしても書いておきたかったという初めての自叙伝である。
1911年に山口県で生まれ、京都帝大医学部を卒業し、1941年から聖路加国際病院に勤め、同病院内科医長、聖路加看護大学長、同病院長などを務めました。
医学・看護教育の改善にも尽力し、予防医学、終末医療の普及推進などに貢献し、生活習慣病という言葉を生み出し、常に医療の変化の先端を走ってきました。
また、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーヴァード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等も務めました。
京都帝国大学医学博士、トマス・ジェファーソン大学名誉博士、マックマスター大学名誉博士で、日本循環器学会名誉会員となり、勲二等瑞宝章及び文化勲章を受章しました。
人生105年といえば、さぞや長く果てない道のように思われることでしょう。
人生は川の流れに例えられますが、その勢いはたゆみなく、今、ようやく大海へとそそぐ緩やかな流れに身を任せているような心地です。
これまでは医学関連のものから生き方エッセイに至るまで、たくさんの書物を著し、その中で自分の経験についても触れてきました。
しかし、日野原重明という一人の人間を深く顧みたことはありませんでした。
これまでの人生は、ちょっとした日本の近現代史のようでもあります。
太平洋戦争が始まったときは30歳で、日本があれよあれよという間に軍国化していきました。
東京大空襲も玉音放送も、そして復興から高度経済成長に至る中で、1960年代後半の学生紛争に関わっていましたし、よど号ハイジャック事件に巻き込まれました。
バブル崩壊後に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件も、聖路加国際病院で対処しています。
自分ながら多面的な生涯を、こうして自宅のソファに座って振り返ってみると、しきりと思い出されるのは幼い日々のことです。
これまで人生を彩ってきたさまざまな出来事は、たぶん、幼い自分の中にすでに孕まれていたのだと思います。
今の私の基盤でもある行動力や勇気、負けん気といったものの根っこは、幼い日の思い出の中にすでにあるからです。
105歳になろうとする今も、これから先、自分が社会の中で何をすべきなのかを考えるために、今在る自分がいかにしてできてきたのかを振り返りたいといいます。
日野原医師は、1911年に山口県吉敷郡下宇野令村にある母の実家で、6人兄弟の次男として生まれました。
父母ともにキリスト教徒で、父親・日野原善輔はユニオン神学校に留学中でした。
日野原医師は父親の影響を受け、7歳で受洗しました。
1913年に父親が帰国して大分メソジスト教会に牧師として赴任し、大分に転居しました。
1915年に父親が大分メソジスト教会から、神戸中央メソジスト教会に移り、神戸に転居しました。
1918年に神戸市立諏訪山小学校入学、1921年に急性腎臓炎のため休学、療養中にアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始めました。
1924年に名門の旧制第一神戸中学校に合格しましたが、入学式当日に同校を退学し関西学院中学部に入学しました。
1929年に旧制第三高等学校理科に進学し、1932年に京都帝国大学医学部に現役で合格し入学しました。
大学在学中に結核にかかり休学し、父親が院長を務める広島女学院の院長館や山口県光市虹ヶ浜で約1年間の闘病生活を送りました。
1934年に京都帝国大学医学部2年に復学し、1937年に京都帝国大学医学部を卒業し、京都帝国大学医学部三内科副手に就任しました。
1938年に北野病院や京都病院で勤務し、1939年に京都帝国大学医学部大学院博士課程心臓病学専攻に進学し、京都大学YMCA地塩寮に住みました。
1941年に聖路加国際病院の内科医となり、1942年に結婚し、1943年に京都帝国大学医学博士の学位を取得しました。
1945年に志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官しましたが、急性腎臓炎のため入院して除隊となりました。
1951年に聖路加国際病院内科医長に就任し、エモリー大学医学部内科に1年間留学しました。
1952年に帰国し、聖路加国際病院院長補佐研究・教育担当に就任しました。
同年、闘病中の母が脳卒中で死去しました。
1953年に国際基督教大学教授に就任、以後4年間、社会衛生学などを講じつつ同大学診療所顧問なども務めました。
1958年にバージニア州リッチモンドのアズベリー神学校で客員教授を務めていた父が劇症肝炎のため、リッチモンド記念病院で死去しました。
1970年に福岡での内科学会への途上によど号ハイジャック事件に遭い、韓国の金浦国際空港で解放されました。
1970年に学校法人津田塾大学評議員に就任し、文部省医学視学委員となりました。
1971年に聖路加看護大学副学長および教授に就任し、1974年に聖路加国際病院を定年退職しました。
社会構造の変化によって、いまでは医療の現場でも多様な状況に対応せざるを得なくなりました。
日本では高齢化が急速に進み、がんや心疾患などによる死亡率も高まっています。
一方、大きな事故や災害が発生するたびに救急医療の問題も指摘されます。
その現状を見据え、生活習慣病の予防や救急医療のシステム整備に取り組んできましたが、何よりそれを担う人材の育成が急務でしょう。
そうした医療の現場では絶えず命の尊厳と向き合うことになります。
それだけに人間性をも高める医学教育を構築したいのです。
その使命感から、現行の教育制度を改めようと働きかけてきました。
日本の医療をよりよくすること、それが活動の原動力になっています。
そのためには医師として現役であることが大事で、たとえ車いすの生活になっても旺盛な好奇心は変わらないと自負しています。
むしろ、車いすに座った視線から世の中を見ると、また違った景色が見えてきます。
そして、とても楽しみにしているのは、2020年に開催される東京オリンピックを見ることです。
かつて東京の街が熱狂の波に包まれた1964年の東京五輪のときは50代で、体操や柔道、マラソンで活躍する日本人選手の姿に胸を熱くしました。
100歳を超えた今、またあの華やかな舞台をこの目で見られるのかと思うと、それだけで生きる力も湧いてきます。
最後に、自分自身がイメージする最期について書いておきます。
それは、地平線のかなだの断崖といった平面的なイメージではなく、常に回転を続ける独楽が上方に向かって進んでいくというものです。
その角度はいろいろでしょうが、常に一瞬前よりも上へと向かっています。
音楽で徐々に強く大きくなっていくときの、クレッシェンドという言葉がふさわしいでしょう。
最期の時にはきっと周りへの感謝を伝えたいと希望するでしょう。
もっと生きたかった、もっとしたいことがあった、といった欲望が浮かんでくることはなく、ただ、感謝の思いだけを伝えたいといいます。
プロローグ 105歳の私からあなたへ/第1章 負けず嫌いの「しいちゃん」/第2章 若き日にまかれた種 /第3章 「医者」への道を歩む/第4章 アメリカ医学と出合って/第5章 「与えられた命」を生かすため/第6章 いのちのバトン/第7章 妻・静子と歩んだ日々/にエピローグ 人生は「クレッシェンド」