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若い人なら一度は自分自身を、そして日本を外から客観的に見詰めて、自己評価をすることが成長への第一歩です。
”夢を持ち続けよう ノーベル賞 根岸英一のメッセージ”(2019年12月 共同通信社刊 根岸 英一著)を読みました。
50年前にアメリカへ渡り化学の分野で頂点を極め2010年にノーベル化学賞を受賞した著者が、子ども時代、学生生活、会社員の経験、そして研究に没頭した日々を振り返ります。
大きな夢を抱きそれをかなえるための手段を身につけようと最高の師を求め、自分が最も輝ける活躍の場を求めて世界に出ていった、といいます。
根岸英一さんは1935年満州国新京、現中国吉林省長春生まれ、1958年東京大学工学部を卒業後、帝人に入社し、1963年に米ペンシルベニア州ペンシルベニア大学で博士号取得しました。
そして、再び帝人を経て、1999年から米インディアナ州パデュー大学で特別教授を務めました。
1936年に、南満洲鉄道系商事会社に勤めていた父の転勤に伴い、濱江省哈爾濱市、現在の黒竜江省ハルビン市に転居して少年時代を過ごしました。
1943年に、父の転勤で日本統治時代の朝鮮仁川府、現在の大韓民国仁川広域市、次いで京城府城東区、同ソウル特別市城東区で過ごしました。
第二次世界大戦後の1945年に、東京都目黒区に引き揚げ、親戚一同と過ごしました。
深刻な食糧不足などを解消するため、神奈川県高座郡大和町、現大和市南林間へ転居して、大和小学校および新制の大和中学校へ進学しました。
神奈川県立湘南高等学校に進学する際に、高校から年齢が1歳若く入学できないと通知されたため、大和中学校の教諭約10人が交代で高校を説得して入学許可が下りたそうです。
高校のクラブ活動は合唱部に所属し、絵画部にも所属しました。
絵画部の2学年上に石原慎太郎が在籍していましたが、レベル差を感じて根岸は絵画部を短期間で退部しました。
高校在籍当初は成績優秀な生徒ではなかったようですが、2年へ進級した後に猛勉強した結果、2年2学期から卒業まで学年トップかトップタイの成績を修めたそうです。
1953年に湘南高等学校を卒業し、同年17歳で東京大学に入学しました。
大学3年の時、胃腸障害をこじらせ一時入院し、1年留年して1958年に東京大学工学部応用化学科を卒業しました。
在学中に帝人久村奨学金を受給した縁もあり、同年に帝国人造絹絲、現帝人へ入社しました。
その後、1960年に帝人を休職して、フルブライト奨学生としてペンシルベニア大学博士課程へ留学しました。
1963年にPh.D.を取得し、帝人中央研究所に復帰しましたが、学界の研究者への転身を決意したそうです。
日本の大学での勤務を希望していましたが職場が見つからず、1966年に帝人を休職してパデュー大学博士研究員となりました。
1968年パデュー大学助教授、1972年シラキュース大学助教授に就任して、帝人を正式に退職しました。
1976年シラキュース大学准教授、1979年ブラウン教授の招きでパデュー大学へ移籍し教授に就任しました。
同年のブラウン教授のノーベル賞受賞式には、随伴者の一人として式典に出席しました。
1999年から、パデュー大学ハーバート・C・ブラウン化学研究室特別教授の職位にあります。
2010年に帝人グループ名誉フェローに招聘され、2011年に母校ペンシルベニア大学から名誉博士号を授与されました。
独立行政法人科学技術振興機構の総括研究主監に就任し、同機構が日本における活動拠点となっているそうです。
2010年にノーベル賞を受賞し、その功績により文化功労者に選出され文化勲章も受章しました。
初めてアメリカに行った1960年というのは、まだ日本が戦後の傷を引きずっていたころでした。
50年前には日米の差は大きく、ずいぶんいろいろなことでびっくりしたものだそうです。
とてつもない国もあったものです、そういう国と戦争したんだという感慨を覚えました。
しかしいまはそうではなく、日本も一流だし日米の差はかなり接近しています。
だからといって日本の若い人が、何もアメリカやヨーロッパに行かなくてもいい、海外に出なくてもいい、ということになるとは思いません。
若い人に向かって、ただやみくもに海外と言っているように受け取られているとしたら、それは違います。
専門である化学のコンペテイションの場は、もはや世界です。
化学だけではなく、音楽やスポーツの世界でもそうです。
いまやわれわれのプレーグラウンドは世界です。
単に海外ではなく、世界でトップのところを探して、そこに競争の場を求めるべきです。
分野によっては、それは既に日本かもしれませんが、いままではアメリカとかヨーロッパが多かったのは事実です。
さまざまな分野で最高のものを追究している人のところに行って勉強してみるというのは、若い人にとって大きなチャレンジの方法ではないかと思います。
学ぶための師も世界単位で探し、世界の競争の中でトップになることを目指すべきです。
そういう環境に自らを置くことにより、自分のレベルを知り、このまま進むべきか、それとも方向転換するべきか、より客観的な視点に立って、自己を見詰められるというメリットもあります。
世界を相手にするということを考えると、コミュニケーションのツールが必要です。
やはりまだ当分の間は、英語が世界語であるといえるでしょう。
世界に出ていく準備を整え、自分の高い夢を設定したら、あとはそこに向かってあきらめずに、徐々に徐々に時間とともに突き詰めていくことです。
つかむものは何もノーベル賞でなくてもいいです。
そういう自分のパッセージを築くことが大切なのです。
1901年に始まったノーベル賞の受賞者は、これまでの110年間に700~800人です。
その間にこの世に生まれた人はおよそ100億人と考えると、約1000万人に1人ということになります。
過去、50年を振り返ってみると、東京大学を卒業してフルブライト全額支給スカラシップをいただいた時点で、ノーベル賞を受賞する確率は1000分の1くらいになっていたかもしれません。
その数年後、パデュー大学のブラウン先生の弟子として迎えられました。
先生には約400人の弟子がいて2人が受賞しましたので、ブラウン研究室からは約200分の1の確率でノーベル賞受賞者が出ています。
その後、シラキュース大学助教授、パデュー大学教授、ブラウン特別教授、さらにその間いくつかの最高レベルの賞をいただきました。
これらから、過去10年間くらいにノーベル賞の確率も100分の1あるいは10分の1くらいにないていたと思ってもよいかもしれません。
運不運は人間誰にでもありますが、大きな夢を実現するのには運に頼るだけではなく、それ以外の道があることも間違いないと信じましょう。
自立しながらも協力的であれ、適切な競争を通じて秀でよ、最善を尽くすでは通常で全く不十分、問題を抱えたまま暮らすな。
はじめに 若者よ海外へ出よ!/第1章 夢をかなえた朝/第2章 ブロークンイングリッシュでいいじゃないか/第3章 幼少期~学生時代/第4章 大学時代、そして社会へ/第5章 再びアメリカへ/第6章 研究者として/第7章 大学での日々/第8章 科学の未来を育てる/第9章 ライフスタイルも追求型/第10章 豊かな人生にするために