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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.07.13
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カテゴリ: カテゴリ未分類

 ルース・スレンチェンスカは、1925年アメリカ・カリフォルニア州サクラメントの生まれです。


 幼少期に父親のヴァイオリニスト、ヨゼフ・スレンチンスキから音楽の手ほどきを受け、4歳でステージ・デビューを果たしました。


 ”のこす言葉 ルース・スレンチェンスカ-94歳のピアニスト一音で語りかける-”(2019年5月 平凡社刊 ルース・スレンチェンスカ著)を読みました。


 かつて神童・天才の名をほしいままにしたアメリカ生まれの94歳のピアニストの、半生を紹介しています。


 父親のヨゼフ・スレンチェンスキはヴァイオリン奏者で、子どもが生まれたらその子を音楽家にすると決めていました。


 生後12目目の赤ん坊を指さして「この子はいつか世界的な音楽家になる」と予言したとき、居合わせた人々はみな笑った、といいます。


 ポーランド生まれで、ワルシャワ、ヘルソン、ウィーンでヴァイオリンを学び、演奏家を目指してアメリカに渡った父親は、家で生徒を教える教師にとどまりました。


 そこで、その情熱はすべて娘のルースに注ぎこまれました。


 ルースはヴァイオリンよりピアノが好きで、3歳半のとき、ヴァイオリンのプレゼントを壁に投げつけて壊してしまったといいます。


 それ以前に、父親からピアノの音階、スケールは習っていて、3歳からハ長調の音階を両手で弾く練習を始め、全部の調でひととおり弾けるようになっていたそうです。


 ヴァイオリンを壊した翌日から新しい日課が始まり、朝6時から毎日、稽古に明け暮れました。

 1929年、4歳の時に、カリフォルニアのオークランドで初めてのリサイタルを行いました。


 このリサイタルがセンセーションを巻き起こし、名高いピアニストのヨーゼフ・ホフマンの推薦で、奨学金を受けてカーティス音楽院に入学することになりました。


 ルースと父は二人で東海岸のフィラデルフィアに行き、5歳のルースは最年少の生徒として、はるか年上の学生たちに混じって実技や音楽理論などを学びました。


 しかし演奏旅行で留守がちなホフマンからなかなかレッスンを受けられず、不満を募らせた父親はルースを連れてカリフォルニアに戻り、ヨーロッパに渡ろうと画策しました。


 ついにスポンサーを見つけ、1930年に家族全員でニューヨークから船出し、ベルリンに渡りました。


 当時最高の教師と言われていたシュナーベルのレッスンを受けるようになって、6歳でベルリンでのデビュー・リサイタルを行いました。


 その頃ベルリンフィルがシリーズで行なっていた朝の演奏会に行くと、フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターが指揮をしていました。


 ラフマニノフのピアノも聴いたし、メニューイン、ハイフェッツ、エルマンのヴァイオリンも聴きました。


 シュナーベルが演奏旅行に行くことになって、父はまた先生探しに奔走しました。


 アルフレッド・コルトーがベルリンに来ていて、かつてルースはサンフランシスコでピアノを聴いてもらい、パリに来るなら教えてあげる、と言われていました。


 楽屋を訪ね、いつパリに来ますかと訊かれて、それがパリに引っ越すきっかけになりました。

 ルースは7歳になったばかりで、コルトーのお膳立てでパリでのデビュー・コンサートが行なわれ、大舞台で大成功を収めました。


 翌日、シャンゼリゼ劇場でパデレフスキのリサイタルがあり、新聞はこの7歳半の最年少者と72歳の最年長者のコンサートを並べて論評したといいます。


 重要な先生はコルトーとラフマニノフで、コルトーにはそのアパルトマンに7年間通って教えを受けました。


 パリでの成功を受けてアメリカ公演の話が持ち込まれ、1933年に8歳でニューヨークのタウンホールでデビューしました。


 モーツァルト以来のもっとも輝かしい神童と評され、ニューヨークータイムズをはじめ、新聞各紙にこぞって取り上げられました。


 年が明けて9歳のとき、ロサンゼルスのリサイタルに出られなくなったラフマニノフに代わって、急逡、演奏することになりました。


 パリの自宅に戻って少しした頃、突然、会ったこともないラフマニノフから電話がかかってきました。


 公演でパリに来ていたラフマニノフが、会いたいのでホテルに来てほしいということでした。

 部屋のピアノでテストをされたあと、準備した曲を次々と聴いてもらい、それ以来、パリに来るたびに呼ばれて宿題を出され、指導を受けることになりました。


 12歳、13歳と年齢が進むにつれ、難曲を力いっぱい弾かせて聴衆を驚かせることに腐心する父に疑問が湧いたといいます。


 第二次世界大戦が始まると、アメリカに帰ろうとして、ニューヨーク行きの汽船の切符を手に入れて、出国することができました。


 14歳でサンフランシスコに戻ったルースは、再び1日9時間、父親と一緒にピアノに向かう生活に戻りました。


 しかし、翌年のニューヨークのタウンホールでのコンサートは、燃え尽きた蝋燭と書かれてしまいました。


 舞台に出て行って演奏する才能はないと覚悟を決め、音楽以外何も知らないので、学校に行ってどういう教え方がいいのか学びたいと思ったそうです。


 それで、カリフォルニア大学バークレー校を受験し、幸運なことに試験をパスすることができました。


 16歳の秋に大学生になって心理学を専攻し、学校に通いながら子どもにピアノを教え始めました。


 ある晩バークレーのパーティーでジュークボックスが壊れ、ダンスを続けるためにピアノを弾いてほしいと頼まれ、ポピュラーソングを弾きました。


 一人の若者が近づいてきてショパンを弾いてほしいと言い、そこから交際が始まりました。


 音楽好きな23歳のジョージ・ボーンは19歳のルースに夢中になり、2か月後にプロポーズされました。


 翌日、隣のネバダ州のワノに行って婚式を挙げ、家から逃げ出して最初はジョージの両親の家に住みました。


 生活費と学費を稼ぐために、ピアノの家庭教師やベビーシッターなどのアルバイトをしました。


 しばらくして、カトリック系の女学校でピアノ教師の職を得ることができました。


 ある日、学校の自分の部屋でピアノを弾いていると、バッハ・フェスティバルの関係者に演奏しないかと誘われたそうです。


 もう批評にさらされることもないだろうと引き受け、これが予想外に好評を博すことになりました。


 その年、1951年は大きな変化の年で、26歳になったルースは、アーサー・フィードラーが指揮するサンフランシスコ交響楽団と協演することになりました。


 サマー・フェスティバルでの公演は大成功を収め、ジョージは跳びあかって喜び、ルースに演奏活動に復帰することを強く勧めました。


 1954年から4年間、ルースはアーサー・フィードラーの率いるボストン・ポップスーオーケストラと一緒に、ソリストとして全米を公演して回りました。


 折からのクラシック音楽ブームとあいまって、この公演活動で多くのファンが生まれました。

 1957年32歳のときに、自伝を出さないかという話がきて、この本がベストセラーになりました。


 印税収入で当時の借金をすべて返し、税金を払って残ったお金でニューヨークにアパートメントを買ったそうです。


 1964年からサウス・イリノイ大学のアーティスト・イン・レジデンスに就任し、大学で教鞭を執りながら独自の演奏活動を展開する道を選びました。


 大学は1987年に退任し、2003年に初来日し、その後たびたび来日しました。


 2005年の岡山でのコンサートで公開演奏の場から退きましたが、録音はその後も続けています。


 2018年、93歳で東京・サントリーホールで開催されたリサイタルは、大きな感動を呼びました。


老いは成長の始まり/英才教育か児童虐待か/「燃え尽きた蝋燭」と呼ばれて/コンサートピアニストの日々/新天地を求めて/日本との出会い/のこす言葉






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Last updated  2019.07.13 05:20:59
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