心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.07.20
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類

 六角氏は佐々木六角氏とも言い、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った守護大名ですが、藤原北家流の公家・六角家とは血の繋がりはありません。


 六角定頼は戦国時代の武将・守護大名で、室町幕府管領代、近江国守護、南近江の戦国大名、南近江守護・六角高頼の二男で、六角氏14代目の当主です。


 “六 角 定 頼-武門の棟梁、天下を平定す-”(2019年5月 ミネルヴァ書房刊 村井 祐樹著)を読みました。


 足利将軍家の後盾となって中央政界に大きな影響力を持ち、北近江浅井氏をも支配下に置き最盛期には天下人ともいえる存在だった、六角定頼についての初の評伝です。


 村井祐樹さんは1971年東京都生まれ、早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学、2000年に東京大学史料編纂所助手となりました。


 以後、東京大学史料編纂所助教を経て、現在、准教授となっています。


 六角氏は近江源氏と呼ばれた佐々木氏の4家に分かれた家のうちの1つで、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していました。


 六角氏と名乗ったのは、京都六角東洞院に六角氏の祖となる佐々木泰綱が屋敷を得たからと言われています。


 鎌倉時代、佐々木氏当主・佐々木信綱の死後、所領の多くは三男・泰綱が継承しました。


 1243年に信綱の長男・重綱の訴えを幕府が入れ、泰綱が嫡流であることは変わりはありませんでしたが、泰綱は有した近江の所領の一部を失いました。


 近江の所領は兄弟で四分され、重綱と次男・高信、末子・氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となり、嫡流の泰綱の家系は六角氏と呼ばれました。


 これらの家は鎌倉幕府に直接仕えたため、総領たる六角氏が他の3家を家臣団化することはできませんでした。


 鎌倉幕府滅亡時は、当主・六角時信が六波羅探題に最後まで味方して敗れ降伏しました。

 室町幕府が成立すると、庶流である京極氏の京極高氏の佐々木道誉が出雲守護、飛騨守護などに加えて、近江守護に任じられました。


 その後、六角氏頼が近江守護に任じられ、以降は幕府と対立した一時期を除いて、近江一国の守護の地位を占めました。


 なお、京極氏は出雲や飛騨の守護に代々任ぜられ、近江国内でも守護である六角氏の支配を受けない特権を認められました。


 3代将軍足利義満の頃には四職となり、幕府の要職につき六角氏と対立しました。


 同族の中には高島氏・朽木氏・大原氏など、奉公衆として幕府の直臣化される者もいて、幕府からの直接の命令を奉じて、守護の命令には従いませんでした。


 領内には比叡山もあり、室町時代を通じて六角氏の支配は安定せず、六角満綱・六角持綱父子は、家臣の反乱により自害に追いやられました。


 持綱の弟で後を継いだ六角久頼は、京極持清との対立の末に、心労により1456年に自害して果てました。


 久頼の跡を継いだ六角高頼は、1458年に幕府の命により廃嫡され、従兄・六角政堯が近江守護となりました。


 しかし、政堯は伊庭氏との抗争により、1460年に近江守護の座を高頼に返還させられました。

 1467年に応仁の乱が起こると、高頼は重臣の山内政綱と伊庭貞隆に支持されて、東軍方の近江守護となった京極持清や六角政堯と戦い、美濃守護の土岐成頼と共に西軍に属しました。


 1478年に応仁の乱が収束すると、1478年に高頼は幕府に帰参し、9代将軍・足利義尚により近江守護の座を与えられました。


 しかし、高頼は寺社や奉公衆の所領を押領したため、1487年足利義尚自ら率いる幕府軍の遠征が開始されましたが、義尚は1489年に近江鈎の陣中で病死し遠征は中止されました。


 1490年に土岐氏に庇護されていた足利義材が10代将軍に就任し、六角高頼は赦免されました。

 しかし、六角氏の内衆が寺社本所領の返還を拒絶したため、翌年に再び幕府軍の遠征が開始されました。


 高頼は再び甲賀に逃れましたが、敗北を重ね伊勢でも北畠氏の軍勢に迎え撃たれて逃亡しました。


 足利義材は近江守護の座を六角政堯の遺児の六角虎千代に与えましたが、1493年に河内遠征中に管領の細川政元が足利義高を擁立し権力を失いました。


 11代将軍となった足利義高は六角虎千代を廃し、山内就綱を近江守護に任じました。


 高頼はこの機に乗じて蜂起して山内就綱を京都に追い返し、1495年に足利義高からの懐柔を受け、近江守護に任じられました。


 1508年に大内義興の上洛により10代将軍足利義材が復権すると、高頼は11代将軍足利義高を庇護しました。


 しかし1511年に、船岡山合戦で足利義澄を擁立していた細川澄元が敗北すると、足利義材に恭順しました。


 その後、高頼は伊庭貞隆との対立に勝利し、六角氏の戦国大名化を成し遂げました。


 戦国時代中頃には高頼の次男の六角定頼が登場し、第12代将軍足利義晴や第13代将軍足利義輝をたびたび庇護し、天文法華の乱の鎮圧にも関与しました。


 近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げました。


 伊賀国や伊勢国の一部まで影響力を及ぼし、六角氏の最盛期を創出し、阿波国から畿内に進出した三好氏と度々争いました。


 しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においても、畿内の覇権を握った三好長慶と度々争いました。


 そして、1560年に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れ、六角氏の勢力は陰りを見せ始めました。


 そもそもこれまで一般書で六角氏を主題にした著作は皆無に等しく、専門書であっても専論は片手で足りるほどしかないのが実情です。


 もちろん、地元である滋賀県の郡・市・町が出版した自治体史においては叙述されています。

 なかでも戦前の最高水準の自治体史と言われる”近江蒲生郡志”において、当主の政治・外交面を含む各動向の事実関係が取り上げられています。


 戦後では、”新修大津市史第二・三巻””八日市市史第二巻”における叙述が最も詳細でまとまっています。


 専門家の研究では、本書の主役である定頼について、戦国期室町幕府研究の中においてその存在が注目され、一部究明されているものの、もとより十分なものとは言いがたいです。


 総じて、戦国期六角氏については、触れられていない、あるいは看過されている事跡が数多く残されたままです。


 どこかで六角定頼の紹介をせねばと考えていた折、幸いにもミネルヴァ書房から”日本評伝選”という最高の場を与えられましたので、研究成果を報告させていただくことにしました。


 前史として定頼の父高頼・兄氏綱、後史として子義賢・孫義弼についてもそれぞれ一章を割いて、定頼の生涯を浮かび上がらせるという形をとりました。


 したがって、事実上の戦国期六角氏列伝ということになります。


第一章 父高頼と兄氏綱-戦国大名六角氏の始まり/1 高頼の登場/2 応仁の乱/3 幕府との和睦から六角征伐へ/4 幕府との宥和/5 氏綱の生涯
第二章 定頼の登場-将軍を庇護し幕府を支える/1 定頼の幼少期/2 定頼と管領細川高国/3 定頼と細川晴元/4 将軍の庇護者定頼
第三章 定頼の全盛-「天下人」として畿内に君臨/1 定頼と天文の騒乱/2 定頼の権勢上昇す/3 天下人定頼/4 天下の執権/5 定頼の晩年
第四章 定頼の事蹟-発給文書に見るその権勢/1 他大名との交渉/2 洛中の相論/3 領国近江の内と外
第五章 子義賢と孫義弼-後継者の苦闘、そして戦国大名六角氏の終焉/1 定頼の後継者/2 家督相続/3 崩壊の序曲/4 観音寺騒動から信長の上洛へ
主要参考文献/附録 戒名集/六角定頼年譜







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2019.07.20 21:19:06
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: