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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2020.04.18
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 河岸とは川の岸のことで、特に、船から荷を上げ下ろしする所を指しています。

 川岸には市場がたち、特に、魚市場の魚河岸がその中心であり、全国各地にみられます。

 ここで河岸は魚市場のある河岸の意味になり、呼称は日本橋から江戸橋にかけての河岸に魚市場があったことに由来します。

 ”河岸の魚”(1979年3月 国際商業出版社刊 町山 清著)を読みました。

 「魚河岸」が「東京中央卸売市場」と名をかえても江戸以来魚河岸を舞台に、めんめんと引き継がれてきた河岸の魚と庶民文化についてのあれこれを紹介していまする。

 魚河岸とは、江戸時代から日本橋付近にあった魚市場、つまり日本橋魚河岸と、東京都中央区築地にあった中央卸売市場、つまり築地市場の水産物部の通称でもあります。

 江戸に幕府が開かれた当初、魚類は現在の芝浦一帯の地域で売買され雑喉場=ざこばといいました。

 品川沖でとれた魚類はとくに新鮮でしたので、江戸の前の海でとれた魚、すなわち江戸前の芝肴=しばざかなとして珍重されました。

 魚河岸は元来、摂津より来住した漁師たちが、幕府に納める魚類の残余を、市中一般に販売したのに始まるといわれます。

 その後、徳川家康は江戸の繁栄策として、郷藩三河の出身者にも魚類販売の利権を与えました。

 日本橋北詰から荒布=あらめ橋に至る河岸一帯に市場を設けて、各地から入荷する魚介類のうちの優れたものはすべて公儀御用としてこの市場で扱わせました。

 河岸の隆昌は日を追って盛んになり、日本橋界隈は魚介専門の店やこれに関連する店などで大商店街を形成しました。

 日本橋の魚市場は,慶長年間の1596年から1615年まで開かれたとされ,幕府の特許を得た魚問屋が営業していました。

 江戸の隆盛とともに,本小田原町,本船町,安針町を中心として栄えました。

 日本橋の魚河岸は明治時代以後も隆盛を極めましたが、1923年の関東大地震により600戸を超す卸売店、仲買店が焼失しました。

 そこで、芝浦埋立地に仮設の臨時市場を設け、同年12月に築地に移転しました。

 仮営業・調整の時期を経て、1935年2月に東京市中央卸売市場として本格業務を開始し、都内消費量の大半を取り扱いました。

 そして、2018年10月に施設の老朽化・過密化などの理由により、江東区豊洲に移転しました。

 著者の町山 清氏は明治38年6月12日浦安生まれで、天明年間より代々続く魚問屋八代目です。

 尋常小学校を出て修業に入り,戦後、仲買い復活運動に功績があり、黄綬褒章,勲四等瑞宝章を受章しました。

 株式会社丸清商店社長、東京魚市場大口卸協同組合理事長,魚がし会会長を務めました。

 さし絵を描いた沢畑久雄氏は明治44年9月10日茨城県日立市生まれで、久慈浜水産公民学校を卒業し、昭和2年から叔父の魚問屋で修業に入りました。

 株式会社佐和久商店社長、東京魚市場卸協同組合理事長、丸商水産物卸協同組合理事長を歴任しました。

 私たちの身近にあった「魚」が、どんどん遠ざかっていきます。

 食生活の多様化と海の汚染や200海里問題に象徴される、「魚が手に入りにくい状況」がその原因でしょう。

 魚離れという言葉を聞かされると、魚と暮らしてきた著者をはじめ、河岸っ子たちは、とても悲しいといいます。

 そんなおり、毎日新聞社からお魚のちょっといい話を書いてみないかと勧められ、週一回、約一年の連載で取りあげた魚は30種ほどでした。

 毎日新聞連載では「四季の魚」のタイトルでした。

 実際に書き進めると、細長い日本列島沿岸では、北と南では旬が春と秋で異なっていたり、とりわけ養殖や冷凍技術の発展で旬という言葉そのものが死語になりつっあることを改めて痛感したといいます。

 本書では、普段よく目にする見慣れた魚だけでなく、めったにお目にかからない珍しい魚も多く取り上げられています。

 四季を通して美味な鰆は、字からして春の季節感をたっぷり味わわせてくれます。

 実際にたくさんとれるのは、内湾では3~4月の産卵前と晩秋で、量も大差ない。

 駿河湾などではむしろ秋が主力で、この時期がうまい。

 昔は、両国の川開きには、サワラの照り焼きが必ず酒の肴にあがったもので、「お盆ザワラ」といい、夏のサワラも結構いけます。

 また「寒ザワラ」というのもあり、文字通り寒中にとれ、この時期のものは身がしまっています。

 サワラの漁期は、春は4、5月の瀬戸内海で、晩秋は駿河湾が主力、冬の寒ザワラは相模灘、つまり小田原沖で1~3月です。

 サワラはサバやカツオの一族のサバ科サワラ属で、暖流の魚です。

 サバ科の魚は総じて紡錘形の典型をなすものが多いですが、サワラは細長くやや平べったくおなかか狭いので、狭腹=さわらの名がついたといわれます。

 サワラの未成魚をサゴチといいますが、これもほっそりスッキリ、いわゆるる柳腰を「狭腰=サゴシ」といったものがなまったものでしょう。

 関西では、成魚のサワラもサゴシと呼びます。

 サワラ属の中には、今あげたサワラ、いわゆるホソザワラのほかに、やや薄べったいヒラサワラ、台湾や東シナ海にいて2米以上のウシサワラ、ヨコシマサワラ、タイワンサワラなどもいます。

 サバ科の魚というとサバ、マグロ、カツオなど赤身の魚を連想しますが、実は白身の魚もたくさんいて、このサワラも一応白身の扱いです。

 問屋でも、新米がうっかり乱暴に扱うと、「このバカヤロウ」と親方のバ声がとびます。

 身割れさせては、二束三文の値打ちもなくなるからですが、「サワラぬ神に崇なし」などというダジャレのゆえんであります。

 このためサワラを運ぶには、「サワラ箱」という特殊な箱を用いています。

 江戸時代、初鰹と同様に、サワラも幕府ご指定の「お買いあげだった」、といいます。

 江戸川を経て中川にさしかかると、向こう岸に葵の御紋の高張りちょうちんが二丁の舟に積んで日本橋に向かいます。

 すると、役人はのぼってくる舟をめっけては船体改めで、いい魚ほどねらわれます。

 お買いあげ、といっても、お役人が勝手に値決めする、いわゆる「あてがい扶持」です。

 本当に幕府、つまり千代田城の御納屋の幕府調進所に納められたのかどうかも分かりませんでした。

 そこで、文政12年に魚河岸の西の宮 利八以下5人の問屋主人が幕府に直訴しましたが、5人が獄死する事件がありました。

 この御納屋騒動で多少改善されましたが、幕府の徴発は維新まで続きました。

 この5人の義人を弔う五輪の塔は、今も両国・回向院にあるといいます。

 新聞で書き残した特ダネをたっぷり書きこみ、「河岸の魚」と表題を改めた本書には、こういった興味津々のお話が満載です。

河豚/鮟鱇/白魚/青柳/蛤/鰤/赤?と鮫/海老/鰹/針魚/鰆/鰯/太刀魚と鱧/蟹/鮎/鰺/鯔/鱸/烏賊/
鰈・鮃/沙魚/?/鮪/梶木/鯖/鱚/穴子/鯒と女鯒/鯛/黒鯛/初荷/あとがき





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Last updated  2020.04.18 07:11:26
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