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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2020.12.05
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 ”細川忠利 ポスト戦国世代の国づくり”(2018年8月 吉川弘文館刊 稲葉 継陽著)を読みました。

 戦国武将細川忠興を父と仰ぎ明智光秀を祖父に持つ、細川家熊本藩初代藩主の細川忠利の国づくりのあり方と、ポスト戦国世代の生き方を紹介しています。

 幼少時は病弱だったため玉子がキリスト教の洗礼を受けさせたともいわれています。

 江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦である大坂の陣に徳川方として参戦し、1620年に豊前小倉藩藩主細川家二代、1632年に肥後熊本へ転封になり、熊本藩主細川家初代となりました。

 稲葉継陽さんは1967年栃木県生まれ、1990年に立教大学文学部史学科を卒業し、1996年に同大学院文学研究科博士課程退学しました。

 2000年に熊本大学文学部助教授、2007年に准教授となり、2009年に永青文庫研究センター教授となりました。

 博士(文学)で、専門は日本中世史・近世史(荘園制研究、村落研究、地域社会論、領国支配=初期藩政研究、細川家文書の研究)です。

 細川ガラシャを母に持つ忠利は、いわばポスト戦国世代でした。

 戦国武将を父と仰ぐ忠利の世代は、戦国動乱から天下泰平の確立へ転換する最大の変革期の渦中で育ち、統治者としての自己を形成しました。

 忠利による国づくりのあり方を通して、この重要な時代の特質を理解するのが本書のテーマです。

 世子だった長兄の忠隆が1600年の美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として行われた、天下分け目の関ヶ原の戦いの後に廃嫡されました。

 すると忠利が江戸に人質に出されて、二代将軍徳川秀忠の信頼を得ていた忠利が1604年に世子となりました。

 次兄の興秋は、弟の家督相続の決定に不満を持ち、翌年の1605年に細川家を出奔しました。

 1608年に小笠原秀政と登久姫の次女で徳川秀忠の養女の千代姫(保寿院)と縁組し、千代姫は1609年に豊前国中津城に輿入れしました。

 本能寺の変は明智光秀が織田信長を討ったことで知られていますが、忠利と保寿院の婚姻と光尚の誕生で本能寺の変で仇敵となった明智氏と織田氏の家系が合体し、縁戚関係に発展しました。

 1619年に長男光利が誕生し、1620年に父から家督を譲られて小倉藩主となりました。

 1622年に、かつて出奔して大坂城に入城し、大坂の陣を大坂方として戦い、戦後浪人となっていた米田是季を帰参させ、のちに家老にしました。

 1632年に肥後熊本藩の加藤忠広が改易されたため、その跡を受けて小倉から熊本54万石に加増移封され、後任の小倉城主には忠利の義兄弟である小笠原忠真が就任しました。

 忠利は熊本藩の初代藩主となり、父・忠興は隠居所として八代城に住みました。

 1637年の島原の乱は江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆で、幕末以前では最後の本格的な内戦ですが、忠利はこの乱に参陣して武功を挙げました。

 かつての一向一揆のように一揆が拡大長期化すれば、外交窓口として最も重要な直轄地である長崎をはじめ九州の支配はおぼっかなくなります。

 そうした事態を防ぐために大規模な軍事動員を行い、社会を戦国乱世の状況に逆戻りさせてはならないという認識があったのでしょう。

 わけても、幕府中枢の権力から離れた遠国である九州での国づくりを担当した忠利の任務の重みは、特筆すべきものでした。

 江戸時代初期の大名家にとって、土一揆の戦国時代はいまだ遠い過去ではありませんでした。

 武士領主と百姓とが互いの武力行使を抑制しながら、支配をめぐるぎりぎりの交渉を続け、その限りで土一揆の凍結が維持されました。

 戦国の一揆の世に歴史を逆戻りさせてはならないと、エリート忠利が統治者としての自己を実現していきました。

 忠利は村々が核となって形成されていた地域社会と向き合い、実践から得られた経験を蓄積していかねばなりませんでした。

 社会の現実や百姓の政治意識、さらに政治的意思を無視した支配者、あるいは公私の区別をつけることができない支配者に、ポスト戦国世代の体制づくりは不可能でした。

 忠利の祖父は細川藤孝(幽斎)と明智光秀であり、忠利こそポスト戦国世代のサラブレット々と呼ぶにふさわしいのです。

 幽斎は初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力しました。

 後に義昭が信長に敵対して京都を逐われると、信長に従って名字を長岡に改め、丹後国宮津11万石の大名となりました。

 本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲りましたが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となりました。

 光秀は初め越前の朝倉義景に仕え、足利義昭が朝倉氏のもとに流寓したとき出仕し、ついで織田信長の家臣となりました。

 義昭の上洛に尽力し、義昭と信長に両属して申次を務め、京都の施政にも関与しました。

 室町幕府滅亡後は信長に登用され征服戦に参加、1571年に近江坂本城主となり、1575年に丹波の攻略に着手し、1579年に八上城の波多野秀治らを下して平定しました。

 1580年に亀山城主となり、ついで細川幽斎、筒井順慶、中川・高山諸氏を与力として付属され、京都の東西の要衝を掌握し、美濃・近江・丹波の諸侍や幕府旧臣を中核とする家臣団を形成しました。

 天下泰平は、国郡境目相論とともに土一揆を長期凍結させることによって実現されました。

 その画期となったのは、大名家と百姓の武力行使と武装権や公訴権を対象とした豊臣政権の一連の政策でした。

 本書の主人公忠利は秀吉・家康の次の世代で、天下泰平の確立を担った大名を代表する人物です。

 武士領主による新しい地域統治のあり方を体系化して安定させ、それを基礎にした政治秩序を立ち上げて、天下泰平のかたちを確立することを目指しました。

 そうして戦国の動乱へと歴史を決して逆行させないことが、忠利らポスト戦国世代の歴史的な使命でした。

 忠利の、細川家当主だった1621年から1641年までの約20年間の実践は、諸大名を代表する統治者として、自己を鍛え上げる過程でした。

 そして、1641年に父に先立って享年55歳で死去し、長男の光利が跡を継ぎました。

 200年間以上も維持された天下泰平は、日本の民間社会を成熟させ、同時代の世界史上でも稀な江戸時代の長期平和の期間でした。

 じつはこれが日本社会の成熟を実現させる条件となり、したがって近代日本のあり方を決定づけたのではないでしょうか。

 こうした観点で年表を見れば、江戸時代の歴史が鎌倉幕府成立期から戦国動乱にいたるまでの、いわば戦争の中世を克服した地点に成立し、そして長期維持された、平和の歴史であった事実に気づくでしょう。

 長期に及んだ天下泰平は、技術・経済・教育・思想などの諸分野で、民間社会の成熟をもたらし、その後の日本とアジアの歴史に大きな影響を与えました。

 江戸時代の平和状態がいかにして長期維持されたのか、その秘密にあらゆる角度からせまることは、現在、日本史研究における最も重要なテーマの一つとなっています。

ポスト戦国世代とは―プロローグ/波乱の家督相続と国づくり(誕生から家督相続へ/国づくりのはじまり―代替りの改革)/豊前・豊後での奮闘 国主としての試練(三斎・忠利父子の葛藤/百姓・地域社会と忠利/寛永の大旱魃と領国・家中)/肥後熊本での実践 統治者としての成熟(熊本への転封と地域復興/肥後における統治の成熟/「私なき」支配から「天下」論へ)/細川家「御国家」の確立 「天下泰平」のもとで(島原・天草一揆と「天下泰平」/忠利の死と熊本藩「御国家」)/「天下泰平」と忠利―エピローグ

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細川忠利 ポスト戦国世代の国づくり (近世史) [ 稲葉 継陽 ]







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Last updated  2020.12.05 08:42:28
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