全523件 (523件中 1-50件目)
「私は人生の中に『余生』があるとは思いません。この世に生まれ、成長し、学び、社会に出て活動し、そして高齢期を迎えて老いが進み、やがて死が訪れる。そのライフサイクルの中の、すべての時間は、等しく大切なものだと思うのです」これは「さくら苑」桜井里二苑長の言葉だ。もう20年も前のことになるが、文春文庫から私が上梓した「老人と犬~さくら苑のふれあい~」。横浜市は旭区にある特別養護老人ホームでの、動物と入居高齢者との日常を、「盲導犬クイールの一生」の写真家・秋元良平氏の写真と私の文章で構成したドキュメンタリー本。ことの起こりは日本動物病院福祉協会が、人と動物の絆を深める「CAPP活動」を始めるにあたり、動物が定期的に訪問できる施設を募集。 桜井苑長はその第一号に名乗りをあげ、「できれば訪問を受けるだけでなく、動物と一緒に暮らしたい」と申し出た。その理由が前記したもの。 つまり「高齢期は自分の人生の総括の時です。たとえ車椅子の生活であっても、寝たきりになっても、日々を楽しく充実させて生きていたいと思うのは、すべての人の願いではないでしょうか。老人ホームでも、大切なのは『生存』ではなく『生活』なのです」(桜井苑長)こうして大型犬を含め犬6頭&猫3頭を迎え入れた苑での日々の生活を「老人と犬」では追った。ペットと位置付けられた動物を受け入れた苑では、数々の奇跡のようなことが起きた。もう何年も手が動かせないでいたおばあさんが、犬を抱きしめたい一心で手を動かしたり、誰とも仲良くなろうとしなかったおじいさんが、猫の話しをするために仲間の輪に加わったり・・。すべてを書くと長くなってしまうので、動物との絆はここまでとして、「さくら苑」にはもうひとつ、とても「大きな試み」がなされていた。厚生省(現・厚労省)では、特別養護老人ホームには「静養室」と「霊安室」を設けることを義務付けている。ちなみに「静養室」とは、死が目前に迫った人を、他の居住者から離して看取るための個室。もちろん「さくら苑」にも、この二つの部屋はある。でも・・・開設依頼、一度も使われたことがないのだ。桜井苑長は言う。「生きとし生けるものは、必ず最期を迎えます。生と死は対極にあるのではなく、死は生の延長線上に位置するもの。死とは決して敗北ではなく、人生を結実させる大事な瞬間だと思うのです」最期の時に、夜陰に紛れて家族に引き渡してしまうのではなく、縁あって一緒に暮らしてきた仲間と共有する時間を持つ。桜井苑長は最期の時間を今まで居住した部屋で、同室者や仲のよい人と共に過ごすように計らい、亡くなった後は食堂ホールに安置して、スタッフや動物も含めた全員でお別れの時を設ける。簡単なことではない。日々の生活と、国から決められた課題を守ることだけでも大変な介護の現場で、桜井苑長の「想い」を実現するために、スタッフも全員、力を合わせていた。桜井苑長の考えに心から賛同している人たちが、苑を支えていた。「死は生の対極ではない。生の延長線上に死はある」「人生のどの時期をとっても、すべての時間は等しく大切なもの」私の中で最期まできっと生き続ける、たいせつな、たいせつな「言葉」、「想い」・・。
2025年11月24日
だるくてたまらず、熱🤒を測ったら36度7分~37度1分を行ったり来たり。病院では「熱がある」というのは37度5分以上なので、37度1分では「微熱」とすら判断されない。私のように平熱が35度台であっても…だ (。´・ω・)? なので微熱未満…ではあるが。風邪🤧か? と疑ったが、鼻水は出ないし、喉の痛みもなければ咳も出ない。身体が異様に熱く感じ、頭もクリアではない。 もしかしたら? と血圧を測ってみる。ちなみに降圧剤の軽いのを毎日1錠💊だけ服用していて、それで通常は上が130台と下が70台。前は3種類の降圧剤が出ていたが、高齢者医療専門の医師・和田秀樹さんの著書📗📖を読み、降圧剤の怖さを知って、1種類に減らしてもらった。 半ば強引にだが(;^ω^)和田医師は、自身は上が200以上だった時でも、なんともなかったと言い、心臓に病気が見つかったので、今は薬で170くらいには落としているとも。約1時間おきに血圧を測ったが、上が170~160、下が100~90と急激に悪化していた。何より不安なのは、起きてゴミ出しに出るだけ👣で、身体がふわふわすること。ぼーっとした頭で歩いて、去年の秋のように転んでしまったら、また骨折🦴の心配もある。もし今度は脚をやられたら、手術後もなかなか家には戻れないだろう。病院🏥に予約📞を入れ、検査と受診🏥。 でも原因が判らない。「とにかく血圧を下げるために減塩をもっとしてください」そう言われて薬もなく帰された。まあ、降圧剤💊が追加されなかったことは、ありがたかったが‥。というわけで、仕方なくベッド🛏の中。時折パソコン作業や3食の用意のために起き上がる。~ベジタリアンだから出前は頼めない(´;ω;`)ウゥゥ~ベッドの中では読書をしたくても、身体に熱が籠っているために本を持つことすら辛いし・・💦CD💿を聴こう。寝ながら簡単に操作できるポータブルプレイヤーで🎵でもね、幼少期からバラード好きな私のCDコレクションは、見事にマイナー調なものが多く、しかも圧倒的にスローテンポ💦 はて、元気になれるリズミカルなものがあるか???って、あるじゃない(*^。^*) この夏、急に好きになったあの方ヽ(^。^)ノ 藤井風さん( *´艸`)💗ファーストアルバムとセカンドアルバム、そしてサードの「Prema(これはpreもセットで2枚組)」不思議なくらい、この齢になって見事、全曲にハマっている♬他のシンガーのものは、ベストアルバム💿であってすら数曲を飛ばして聴くことがほとんどなのに、風さんのは1曲たりとも外すことなく味わえる。 自分でも信じられない(;^ω^)声質に包容力があるのと、すべての曲に意外な展開があったり、歌詞もどれを取っても心に響くので、何度聴いても飽きないし、都度、新たな発見もあって聴き入ってしまうのだ💛。ああ、若かりし音楽誌のライター時代に戻れたら、私、インタビューしたのかな? なんて思いながら、でも世代が違いすぎる(現在28歳)彼の曲を、1ファンとして充分に楽しんでいる。ちなみに風さんのお父さんは私より1学年上。お母さんはお父さんより2歳か3歳下らしいので、ご両親共に私とは同じ世代らしい。風さんが子供時代に耳にしてきた音楽🎶が、私の好きなそれと重なる部分もあるのかな? 懐かしさも感じる。私の性格を知っている人なら、私がより好きだと感じる曲は「風よ」や「それでは、」だと思うだろう。もちろん、この2曲はかなり好みだが、実は「へでもね~よ」なんかもひどく好きだったりする(#^.^#)すべての曲の中で一番好きなのは歌詞がとにかく秀逸な「grace」🎶。後は…「帰ろう」「満ちてゆく」「旅路」「ガーデン」「さよならべいべ」「きらり」「死ぬのがいいわ」「まつり」「何なんw」「Prema」「Love Like This」「I need U Back」「It Ain't Over」 等、…ってバラードが多いが…結局、全部?(^▽^)さて、喘息やら膠原病やら、色々な持病があって、またまた新たな原因不明の症状追加・・。でも、めげずに受け入れよう。 そして落ち着いて前向きに対処の方法を考えよう。日々、ガヤトリーマントラとSAIRAMを唱え、風さんのCDを聴いて(#^.^#)「状況は常に中立です。そこにポジティヴな意味を与えるか、ネガティヴな意味を与えるかはあなたの選択です」自分、ファイトヽ(^。^)ノ
2025年11月21日
今ではとうてい無理なことだが(…多分)、幼稚園児の時に死んだヘビを首に巻いて遊んだことがある Σ(・ω・ノ)ノ!当時は生きてるアオダイショウが、あちこちで見られた。幼稚園に通っていた際、近所にいる同い年の子は男子2名だけで、女の子は皆無。その男児は共に医者の息子で、母から見れば「いい子」たちだったようだが・・。ところが、どっこいΣ(・ω・ノ)ノ! やっぱり男の子は男の子。 3人での遊びは雑木林の中でのターザンごっこがほとんどで、その流れで(?)死んだアオダイショウを首に巻いて遊ぶ、なんてことも、さらりとやってのけていたのだ。忘れられないのは、死んだヘビを触った後に、掌につく何とも言えない色(淡い黄色だったような)や匂い。そのまま家に帰るとバレて叱られるから、十分に洗ってから帰宅した。なかなか落ちなかったけど💦生きた小さな白ヘビを見つけた時は、その美しさに興奮した。毒はないと知っていたのか、3人で代わりばんこに手で持った。冷たい感触。 でも、どこか神々しい。今、もしヘビを見たら、どうするだろうか?大蛇であっても毒がなく、締め付けられないように係の人がついてくれるスネークセンターのような場所ならやっぱり触ったり、首に巻いたりしてみたいかな? とは思う。ちなみに昆虫は、幼児の頃はカナブンが飛んでも怖がったが、いつのまにか芋虫が大好きになって、蝶になって飛び立つまで育てたり、今のマンションには、部屋の中にコクワガタやカマキリ等が勝手に入ってくるので、観察しては、やがて窓から出て行くのを眺めるのが楽しみとなった。夏の早朝にはマンションの外廊下で蛍光灯にぶつかって落ち、仰向けになっているたくさんの蝉を指に留まらせ、その指を振って蝉を飛ばせる・・ということを毎年、行っている。放っておくと、カラスに食べられてしまうからだ。 一日に少なくとも20匹。 ただ、去年、今年と蝉の数が少なくなった。すごく淋しい(´;ω;`)ウゥゥ
2025年11月18日
妹夫妻とその子供達が、まだ大きな社宅団地に住んでいた時のこと。正月に私達姉妹の実家に集合し、そこで当時、小学生と幼稚園児の姪っ子達と一緒になった。私が都区内のマンションに住んでいて、猫も一緒に暮らしていると話すと、上のほうの子が言う。「おばちゃんちの猫は、悪い猫さんじゃないの?」びっくりした。なので聞いた。「悪い猫さんって、なに?」姪っ子曰く「社宅の庭に悪い猫さんが来るの。花壇に穴を掘ったり、おしっこしたりするの」私は大きく息を吸い、それから説得にかかった。「悪い猫さんなんていないのよ。猫さんはちゃんと土をトイレにして、そこに土を掛けているの。人間にとって都合の悪いことをすると、悪いって決めつけるのはよくないわ」姪っ子は始め驚いていたが、しばらくすると納得したようで「大人の人が言うことでも、間違っていることはあるんだね?」と返してくれた。この秋、各地で熊が人を襲う事故が増えている。熊が出没することは、ほぼほぼない都会に住んでいるから言えることかもしれないが、熊が悪いわけではない、それを最前提に考えて対策を練ってほしいと思う。人を襲い、人里に逃げた熊は、もう山には戻せないのかもしれない。でもすべてを「駆除」するという対処方法だけでなく、山から下りて来させない方法や、今後に備えて山を豊かにする方法はないかと模索した上でのサイアクな結論として「駆除」なるものを選択してほしい。もちろん、猟友会の人を非難しているわけではない。派遣される自衛隊員や地元の警察官も同じ‥。彼らだって命がけだ。職務とは言え、動物を手にかけることに抵抗を覚える人もいるだろう。すでに、触れると高圧電流が流れる策を張り巡らせている地域や、ドローンを飛ばし、犬の吠える声を聞かせて熊を追い払っている場所もあるそうだ。甘い考えかもしれないが、熊の習性を知る専門家を交え、その上での対策・・行政の予算の組み方や人員の確保など「共生」を試みてほしい。国は各都道府県に任せず、予算や補助も考えていってほしい。悪い熊さんなんて、いない。同じ時を生きている生き物を「排除」するのではなく、「共生」できないかどうか、人間ならそれを考える頭脳を持っているはずだから。
2025年11月15日
あれは忘れもしない、中学時代。ビートルズやローリングストーンズ等のロックバンドの影響があってだろうが、日本でも歌謡界にバンドブームが起きていた。「グループサウンズ」・・通称「GS」だ。タイガース、テンプターズ、オックスetc.etc.今とは異なってゴールデンタイムに幾つもの歌番組があり、GSの人気バンドが登場していた。ファンは女性がほとんどだったが、男性はというと、GSそのものというより日本に浸透してきたばかりのエレキギターに憧れる人が多く現れた。そして、若い男性の髪型にロングが目立つようになったのも、この時期から。それまでは髪を伸ばす男性は、おそらくゲイか浮浪者と言われる人達くらいだった💦あれは中2の時だっただろうか。学校の体育館に生徒一同が集められた何かの集会の際、音楽教諭のM先生がマイクを握った。曰く、「エレキギターが流行しているようだが、あんなのは楽器ではない。ビートルズやロック、GSは音楽ではない!」音楽=クラシックだと言い切った。まあ、そういう時代だったことは否めない。そしてM先生は男性の長髪についても苦言を呈した。「私は、あの男子の長い髪を見ると、虫唾がはしる」すると女子の手が上がり、マイクを貰ってこう声を張り上げる。「私はM先生の髪の、刈り上げた青い部分を見ると、虫唾が走ります。人、それぞれです!」体育館は拍手の渦(o^―^o)ニコM先生はどうしたか・・ 怒っていたが、何も言えずにいたように思う。あの勇気ある女子。誰だったんだろう?中学は各学年、一クラス52人くらいで10クラスずつほどあった。私の知らない生徒だったことだけは、確か。あの女の子、どんな大人になったんだろうな?そして、その後、エレキギターは当たり前に音楽界に浸透していった。
2025年11月12日
母との確執を、初めて友人知人に打ち明け始めたのは、いつだったか。ほとんどの人の反応は・・・とにかく驚いていた。同情の言葉をくれる人もいたが、たいていは「信じられない」という表情を見せた。でも・・やがて私は気づいた。「お母さんと仲が悪いんですって。だから彼女は〇〇なのよ」と何か私がその人と違う意見を言ったり、違う考えを見せると、そう位置付けられていく。「だから〇〇なのよ」それは憐れみ、もしくは軽蔑の言葉。私はただ、実の母親に憎まれて育っただけ。私は子供らしく母の愛を求め続けたし、それが叶わないと知った時から母を憎んでしまっただけ。ただ、「お母さんととても仲がいいの」と語る人に対しては、羨ましいという感情はまったくなく、不思議なことだが、素敵だなぁ、とほほえましく思った。母親が好きだと語る友の顔は、明るくて、幸せに満ちていて、見ていてこちらも幸せな気分になる。何故だか判らないが、偽りない気持ちがそれなのだ。自分でも不思議だが‥。母が妹の家に引き取られ、現在、要介護5の寝たきりだとは知っているが、母に会いに行く予定はない。それは母が私と会うのを拒んでいるから。以前、まだ母が横浜の実家に住んでいた時、偶然に町で会ったが、その時の母は私を見るなり後ずさりして去っていった。その後も会いたいとは言わない。私の顔を見ると、姑を思い出してしまうからだろう。母が存命のうちに、なんとか関係を修復しないと、と思ってきたがもうやめよう、 最近になってそう思い始めている。ここまで憎まれているなら、私の方から求めるのはきっと母にとってはよくないこと。会わなければ私のことは忘れていて、心を乱すことがないのなら、母の心の平安のために、私は諦めよう。こんな形もあるのだ。母と娘。珍しいことには違いないのだろうけれど、愛されて当たり前と考えるのはみじめになるだけ。現実を、そのまま受け止めよう。そこに何かしらの意味は、きっとあるのだろうから。
2025年11月09日
ずっと「猫の高野瀬さん」と呼ばれてきた。まだ授乳が必要な子猫を幾度も保護し、3時間おきに面倒をみなくてはならなくて、仕事の際にも、専用にした鞄👜に入れて連れていた。猫が苦手だという小学館某月刊誌の男性編集長が、ある日私に言った。「高野瀬くん、娘がね、子猫を拾ってきちゃったんだよ。仕方ないから玄関のたたきに住まわせて、屋敷の中には入れない約束で飼うことになってね…」犬ならまだしも、猫をたたきに置いて屋敷に上げないようにするのは難しいだろうとは思ったが、余計なことは言わなかった。「何かあったらいつでも相談してください」とだけ返して。それから半年余りたった頃、編集長と会った際に尋ねてみた。「そういえば、あの🐱さん、どうしています?」すると当たり前のような顔をして、こう言った。「あ、あの🐱? 毎晩、僕の股の間で寝ているよ」(o^―^o)ニコ ヽ(^。^)ノ (o^―^o)ニコ猫が好きではないという男性に、この反応はけっこう多い(⌒∇⌒)好きではない理由には「何を考えているか判らない」「眼が光って不気味」「犬ほど懐かない・・」等上げられるが、実は一緒に暮らすと・・判るのだ。猫も、犬とは違う形で、とても懐いてくれる。リーダーを必要とする犬とは異なり、単独行動が基本の猫だから、べったり寄り添うことは少ない。それでも親子やきょうだい、仲間と甘え合うことは、ある。中には犬のように、べったり‥したがるコもいる(o^―^o)ニコ飼い主を仲間や親のような存在と認識した後、猫は犬に比べ気ままにではあるが甘えてくる。その気ままさゆえに「ツンデレ」と表されるが、それがまた飼い主にはたまらない(o^―^o)ニコ猫嫌いだったはずのその編集長。その🐱さんが虹の橋を渡った際には、家族の誰よりも涙を流したと聞く。愛して、愛されて、幸せな生涯を送ったペットと呼ばれる動物たちの話を耳にするのは、とても、とっても嬉しくて、少しでもそういう動物が増えてほしいと願ってやまない。
2025年11月06日
双子らしき、まだ2歳になったばかりの頃の男児たちを連れた若い夫婦と、電車の優先席で一緒になった。ひとりはパパの腕の中でそっくり返って泣いていて、パパが立って抱き上げ、あやしている。ようやく泣き止んだと思ったら、次は座っているママに抱かれたもうひとりが大泣き💦その子をママがあやして泣き止ませると、バトンタッチしたかのように、また泣き止んでいた子が泣き出す。ふたりの子供の泣き喚く声のあまりの大きさに、傍にいた乗客が隣の車両に移っていく。でもパパとママはといえば、イライラして声を荒げるわけでなく、笑顔を作って声がけし、子供をあやす。立派だなあ。 親がイライラしたら、子供に伝染することを解っていての笑顔だろう。子供のひとりと目が合った。 手を振って笑顔を作ってみせる。するとその子も笑顔になってくれる。でも、それを見たもう片方が泣きわめく。私はその子に向っても笑顔を作る。どうか、二人とも笑って。 パパとママは笑顔を作っているようでも、冷や汗をかいているんだと思うよ。ふたりの子供は、役割分担をしているかのように交互に泣きわめく。とうとう次の駅で「降りよう」とパパが言い、4人は降りていった。降り際、ママが私に頭を下げた。笑顔を贈ってくれた。あんな状況下で、ちゃんと私の様子を見ていたんだね。子育ての大変さを目の当たりにして、そして頑張っている愛情たっぷりなパパ&ママを見て、私は幸せな気分になった。頑張ってるね。 でも、きっと、いえ必ず、それは報われる(o^―^o)ニコ
2025年11月03日
喘息発作やパニック発作で、頻繁に救急搬送されるようになった30代。日本語で書かれた医学書を必死で読み漁った。同時に、納得できる死生観を求めて、色々な宗教の本も紐解いた。パニック発作はまだしも、喘息発作は、ひどい時には救急車も間に合わずに死に至ることがある。それなのに発作を予防する治療法や薬が、当時はまだなかった。・・・死が身近にある・・・ 縋(すが)りたかった。何にでも。 苦しみから、死の恐怖から、逃れる方法をすぐにでも手に入れたかった。喘息発作を初めて起こしたのは、29歳と7か月、秋のことだった。しばらくは薬で抑えられたが、32歳くらいから救急車を呼ばないと治まらない日々が続いた。原因が検査では突き止められず対処療法だけ受けることになり、しばらくして周りが煩くなってきた。「あなたに地縛霊が憑いている」とか「霊に頼られやすい体質ね」とまことしやかに言われたのだ。テレビでも冝保愛子さんが人気となっていて、除霊をうたう新興宗教が流行し、誘われることも多くなった。冝保さん自身は「亡くなったかたが好きだったものを、食事の際に少しだけ別のお皿に盛って供えてね」そういう語り口で、決して除霊に行きなさいとは言っていなかったが…。仏教系、特にご真言を唱える真言宗系の新興宗教が幾つかあり、そこに誘われたりもした。救急搬送が続いていた当時は、藁をも掴む心境で、誘われるまま幾つかの施設に足を運んだ。まともな教えをする集いもあれば、お金を集めたがる怪しげな集会もあった。一応宗教法人として認められている、仏教系の某新興宗教。有名な学者さんたちすらも通っているそこで、納得の上、仏教経典を学んだ。輪廻の環から抜けるためには、どのような心持が大事なのか、仲間と語り合ったりもした。ただ、次第に「?」を持つようになった。新興宗教の本殿の、その立派さ、にだ。先祖供養だの水子供養だの、お布施の種類がたくさんあって、お布施の額で魂の位が決まったりもする。どう考えても、違う。お布施の額で信仰の度合を測り、信心の基準とするのは、真の宗教とは考えにくい。神仏に認められるような人間としての大事な要素を持つことは、お布施の如何と比例するものではないはず。その新興宗教から離れ、独自に新約聖書から旧約聖書、仏教経典等、答えを求めて書籍で学んだ。そうこうしている間に、喘息発作は、当時の厚生省がようやく認めたアメリカから入ってきた発作予防のステロイド吸入を一早く試すことで、徐々に開放されてきていた。発作が徐々に落ち着いてきた頃、新たな疑問が私の中で起こった。キリスト教も仏教も、どちらにも納得できることがあり、自分はどちらがより納得できるのだろう?どちらかに決めないといけないような気がしていた。教えの根本は似ているものの、細部を比較すると、やっぱり違う。私はどの宗教を自分の支えとして生きて行けばいいの?そんな疑問を抱えている時に、出会えた「場所」があった。
2025年10月30日
食べ物の中で、フルーツが一番好きだ。八朔、伊予柑、イチヂク、梨、スイカ、葡萄、ベリー類・・いろいろあるが、秋は柿がいちばん(o^―^o)ニコ幼稚園児の時、近所に同年齢の子供は男の子が二人しかいなかったことは幾度か書いたが、秋が来ると幼稚園の帰りに、この二人と柿の木に登って熟した実を取っては食べた。時にはそのお宅の大人に見つかって叱られもしたが、たいていは子供のしたことだと許してくれて、お土産に幾つか持たせてももらえたっけ。今のマンションに越してきて丸30年が経つが、越してきたばかりの時には窓の向こうに見える市民の森や、どこのお宅の庭なのか判らないような雑木林がいくつもあって、そこには柿の実もたわわに実った。当時まだ41歳の私は、子供のころを思い出し、登ってみた。柿の木は往々にして登りやすい枝ぶりなことが多い。1個だけもいで、その場でかぶりつく。柿の木の下には熟して落下した実がたくさんあったので、誰も取ることをしないだろうと思ってのこと。案の定、人に見つかってもお咎めはなかった(;^ω^)子供のころから、柿の実は買って食べるものではなかった。 実家の庭に柿の木はあったし、母の奈良の実家からは、庭の何本もある柿の木から取ったものが箱一杯に送られてきていた。現在、近所にあった懐かしの柿の木は、とうに伐採され、マンションが建っている。柿の実はスーパーで購入するしかない。それも種なしのものが多くて、残念に思う。 あの種の周りが好きなのにな。急に寒くなって、今日は風邪気味ダウン。ベッドの中で、風さんの5枚のCDを代わりばんこに聴いたり、読書をしたり。治すことより悪化させないことを第一に考える。喘息発作に繋がったら、即病院だし、長引いてもしまうとせっかくの秋を楽しめないものね。昨日、松岡圭祐さんの「水鏡推理V・ニュークリアフュージョン」を読み終えた。核融合の専門用語が並び、私の頭ではなかなか理解しきれない場面もあったが、主人公の水鏡瑞希の心境にリンクさせて、楽しんだ。最後の方、研究不正の追及を仕事とする新人官僚の彼女が、考え抜いた末に気づく言葉に心惹かれた。必要とされる存在になりたい。そんなことは考えずに生きよう。必要を感じるかどうかは他人の自由だ。そんな他人の思いに願いを託しても意味がない。主体は常に自分だった。今後歩んでいく意味も希望も、すべて自分の中にある。ライトノベルと侮ることなかれ。学ぶことはあちこちに散らばっている。それと…中山七里さんの最新サイン本を、知人からいただいた。これはお宝ヽ(^。^)ノこれからゆっくりページを繰りたいと思う。
2025年10月27日
学生時代からの友人から電話。彼女の夫は長男だから先祖代々のお墓はあるけれど、そこに入るべきか否かの相談だった。自分たちの子供は女の子がひとりだけ。その娘さんも嫁に行き、子供を2人授かったそうだ。「でね、私達が死んだら、お墓を守るのは嫁に行った娘しかいないでしょ。そんな負担を背負わせるのは、もう時代に合わないと思うのよ」だから・・と京都の有名なお寺さんの名前をあげ、「一人30万円で合祀を引き受けてくれるんだって。そこに夫婦ともに入ろうかと。だって〇〇寺なら世界中から色々な人が来て賑やかだし、娘一家も観光のついでにお墓参りができるでしょ」。娘さんは京都の同志社大卒なので、京都に土地勘はある。懐かしい京都へ時々行くのは苦にならないどころか楽しいだろう、とも。そうなのよね。 私も、お墓問題はそろそろ本気で考えないとならない。うちは祖父が次男だったため本家の墓には入れず、父は自身の父親(私にとっての祖父)が亡くなった後に新たな墓を菩提寺内に造り、そこに、今は私の祖父母と父が入っている。亡くなる前に父は「順子、お母さんを入れたら墓じまいをして構わないからね」と言った。私はその時49歳で、まだお墓をどうするかなんて考えられずにいて、そのままこの年齢になっているが‥。母はと言えば、私が60歳を超えた頃だろうか、突然電話でこう告げてきた。「お墓のことなんだけれど、あなたには子供がいなくて継げる人もいないから、〇〇(姪っ子の名)にお寺さんへの管理費や寄付金やらを頼んだわ。お金はその分、〇〇に渡すから」もう決めてしまったようで、意見を求められたわけではなかった。お墓に執着しているようなので、それはそれで、そういう考え方もあるだろうと思った。あれほど憎み嫌った姑と同じ墓に入ることに抵抗はないようで、格式ある菩提寺に入ることが、母のプライドのようだった。でも、私はどうしよう?墓守を姪っ子にお願いするのはかわいそう過ぎる。母亡き後、墓じまいをし、私は友人のように合祀でもいいかと思う。…だとしても、時期をみて色々な手続きをふまないとなるまい。合祀にしても、決めたお寺さんにお骨を運んでもらうのは・・妹に? 姪っ子に?そう考えると、京都ではなく、南関東のどこか姪っ子が住む地域から近い所か・・。「亡くなった直後、魂は肉体から離れ、どこにでも瞬間移動する」「故人を想う時、すでにそのかたは、貴女のすぐ傍にいらしている」以前に取材で知り合ったお坊さんからそう伺って、私はそれを信じている。どこに埋葬されようと、私はきっとお墓の中にはいまい。瞬間移動できるなら、海にでも、京都にでも、フランスにでも、どの人の傍にでも行かれる。どこにでも、瞬間移動できる・・「どこでもドア」が持てる。そう考えると、楽しくさえなってきた(⌒∇⌒)ただ、その前に、残された日々をどう生きていくかこそが問題なんだけれどね(;´∀`)
2025年10月24日
以前にも書いたことがあるのは覚えているが、どうしてもまたここに書きたくなった。少女期だったと思うが、テレビCMで時々に流れた曲。映像も少し覚えていて、2階か3階の窓から外を眺めた風景で、そこには石畳の道が垂直に続いている。私小説「瑠璃と響司の木漏もれ陽の時季(とき)」の第一話で、瑠璃が響司を連れて行く想い出の場所、横浜山手のイギリス館脇に昔あった風景に似ていた。なんとなく思い出したのは、このCMは多分、カルピスじゃなかったかな? ということ。検索では見つけられない。 どなたかご存知でしたら教えてくださいませ<(_ _)>🎵忘れてた子守唄 かざり窓 石畳 秋の日の想い出は 私には優しいいつか来たような 夢に見たのか この街秋の日の想い出は 私には優しい🎵メロディーはすべて覚えている。 本当にきれいな曲。 フルで聴かれるなら、すべて聴いてみたいと願う。
2025年10月22日
前回、英語に関することを書いていて、またまた思い出したことがある。「ランナウェイ」をシャネルズがリリースしたのは1980年らしいので、私は26歳の時だった(ようだ)。今はもうなき新宿のライヴハウス「ルイード」で初めてシャネルズを取材したが、そのユニークさに驚かされた。黒人音楽が好きだと言う彼らは、顔に黒い靴墨を塗り、俄か黒人となってブラックミュージックを歌っていたのだ。トイレットペーパーを滝のように垂らしてのコミカルなパフォーマンスや、ヴォーカルの鈴木雅之氏の歌のうまさが評判となり、やがてレコードデビュー。デビュー曲「ランナウェイ」はすぐに大ヒットし、私にも彼らを取材する機会が幾度か訪れた。コンサートツアーに同行しての取材もさせてもらったが、あれは、確か東海道新幹線の、今はもうなくなってしまった食堂車内での出来事だったと思う。全員でランチをとっていると、そこに黒人の若者数人が入ってきたのだ。シャネルズのメンバーはビビった。 何故かというと、黒人をリスペクトしているのに、「顔に靴墨を塗って黒人をバカにしているように思われていないだろうか?」と不安だったのだ。「大丈夫。今は顔を黒く塗っていないから、貴方たちだとは気づかないはずよ」と私は言った。彼らはおとなしくなって食事を続けていたが、やがてポツリポツリ何やら黒人たちと会話を始めた。高卒で、学校であまり勉強はしてこなかったという彼らは、誰も英語なんて話せない。カタコトですら怪しいだろうに、いったい何をどう話しているのだろう。興味が沸いて、傍まで行った。すると一人が黒人に向って話している内容が聞こえてきいた。「YAKUZA is チャイルドフィンガー カット カット!」Σ(・ω・ノ)ノ! Σ(・ω・ノ)ノ!黒人の若い男性たちはというと、ニコニコと何やら応じている。そこからは単語だけの会話が幾つか増えていった。「This is a pen」と言ってるメンバーもいた(;^ω^)ノリのいい黒人たちは、いちいち何かしら応じてくれている。言葉って「伝えたい」「仲良くなりたい」って気持ちがあれば、通じるんだよね。やがてヴォーカルの鈴木雅之くんが何の曲だったか忘れたが、R&Bを歌い始めた。聴き入る黒人たち。 そして彼らは手でテーブルを叩き、足で床を踏み鳴らして鈴木くんの歌にリズムを加え始めた。食堂車がライヴ会場と化すのに時間はかからなかった。今ならYouTubeに上げたい状態だ。なにしろ鈴木くんの歌は天下一品。黒人たちもそれを認めたようで、ノリも半端じゃない。すごかったなあ。 あの時間は。 濃かったなぁ。 楽しかった。やがて・・・鉄道警察隊なのか、制服の男性がやってきて制し、俄かライヴは強制終了。マネージャー氏が始末書を書いたっけ。 でもお咎めはそれだけ。食堂車は混んではいなかったし、数人いた部外者の乗客も、見事なライヴに聴き入っていた。そうか、あれは26歳の頃か。 もう45年も前のことになる。
2025年10月19日
友人のブログに「レッドロブスター」に行った時の話しが写真と共にアップされていた。いわずと知れたロブスター料理のチェーン店だ。もう20数年ほど昔のことになるが、一度だけ、江ノ島店に行ったことを思い出した。散策で鎌倉に行った時、小町通りの入り口近くで同年代の白人女性に声をかけられた。道を聞かれたのだ。 私は老若男女、色々な人に道を聞かれやすいΣ(・ω・ノ)ノ!いきなりの英語。 最初はもごもごと頭の中に「右」だの「左」だのの単語が浮かんだが、やがて彼女はランチをしたくて、店を探しているのだと判り、それなら一緒に行こうと意気投合。肉は食べないのだと言ったら「レッドロブスター🦞ならいい?」と彼女。どうやらおおよその場所は知っているらしい。了解して、交番で行き順を聞き、二人で向かったのが江ノ島店だった。江ノ電に乗ったんだろうな? 覚えてはいないけれど・・。で、初めてのお店。 案内された席に座ってメニューを拡げ、オーダーを決める。お店の人が来て、パンにするか、ご飯にするかのチョイスを聞かれた。でも・・そこで私は英語の失敗をしてしまったのだ(´;ω;`)ウゥゥ「Bread or rice?」と、頭の中にアルファベットを並べればよかったのに、口をついたのはカタカナ英語。瞬間💦💦 彼女は固まった💦💦💦 そして「ごめんなさい。もうご飯は選べないわ」と。そうだった。riceを「ライス」とカタカナ英語で発音すると「lice(虱=シラミ)」になるのだ( ノД`)気まずい雰囲気が、一瞬・・。でも、もともと陽気で優しい人柄なのだろう。 次の瞬間、笑顔を見せてくれ、お店の人に「Bread」と言った。あの時の彼女、それから数回会い、でも1年後にアメリカに帰ってしまった。一応メルアドは交換して幾度かはパソコンからメールを送ったが・・いつの間にかそれも途絶えた。どうしているかなあ?もうあのメアドは生きてはいなかった…。元気でいてね。 幸せでいてね。
2025年10月18日
パソコンデスクの前に、紙に書いて貼ってある言葉。ひどく落ち込んでしまって前へ進めない時、これを見て気持ちを落ち着かせる。生き方の指針となっているものだ。ちなみに各宗教でも、表現こそ違えど同じことを説いている(すべては自分の中にあるという‥)。状況は常に中立です。そこにポジティヴな意味を与えるか、ネガティブな意味を与えるかはあなたの選択です。by バシャールそして、次なるは、ベッドルームに貼ってある言葉。すべての宗教はひとつ。それは「愛」と言う名の宗教。そして祈る唇より、差し出す手の方が、より尊い。by サティア・サイLove is all. 愛こそすべて。~悩み患うな。物事に執着するな。愛をもって進め~心に刻んで生きてはいるけれど、まだまだ修行が足りずに、迷ってばかりの私。あと何年生きられるか判らないが、最期の日まで、なんとか成長していきたいと願う。P.S. スマホから見ると、消えている文字があるようです。色やポ数を替えてみましたが直らないようで‥ごめんなさい。
2025年10月15日
80代前半の友人と久々に会い、カフェに入った。店先にあったメニューにお抹茶と和菓子のセットがある。小豆あんが苦手な私でも、白あんベースのフルーツ入りの生菓子があり、とてもおいしそうだった。が! 店内に入っても、奥から「お好きな席へどうぞ」と声がかかるのみでスタッフの姿は見えない。通路が広めの二人席に決めて、さて注文を、とテーブルの上を見たら「オーダーはQRコードからどうぞ」Σ(゚д゚lll)ガーン そうだよね、 最近、こういう店がめちゃくちゃ増えた。でもさ、80代の彼女はスマホと言えば電話と家族ラインしかできない。そういう私はと言うと・・実はQRコードを読み込む操作ができないのだ(´;ω;`)ウゥゥ膠原病になって、右手が少し不自由になった(この症状は徐々に進行していくらしい)。だから左手でQRコードに焦点を合わせ、右手でタップしようにも・・右手指先がぶれて、どうやってもピンポイントで捉えられず、接続できない。左右を替えても同じ。そもそも、電話がかかってきても、うまくスワイプできず、すぐに出られないことがしばしばなのだ。家にいる時はまだそれでも姿勢を変えれば、なんとか電話を取ることができるが、出先では左手で杖をつき、両眼とも0,01以下で白内障&緑内障対策のためのサングラスをかけているので杖を置き、サングラスを外して老眼鏡に替えないと、スマホの画面はほぼ見えない(´;ω;`)ウゥゥだからぁ、外出先では電話になかなか出られない(´;ω;`)ウゥゥ(´;ω;`)ウゥゥしかも、メールに関して言うと、家にいる時はコンタクトではなくメガネにしているのだが、それも外して裸眼かつ片目で3㎝まで近づけて画面を見ないと、文字が見えない。見えているつもりでも、数字の「5」と「6」はすごく区別がつきにくい。ほぼほぼ間違える。これでは、スマホから何かを購入するなんて、とても怖くてできない。ったく(´;ω;`)ウッ… ったくヽ(`Д´)ノプンプンスマホって高齢者に優しくないぞ! かと言って、タブレットならいいかと言うと、持ち歩くには荷物が重くなって難しい。有事に備えて一週間分の薬やメガネセット等、緊急時お泊りセットを持ち歩いているので、普段から荷物は多い。結局、友人と入った店では、スタッフを呼んで紙のメニューをもらい、口頭でオーダーした。嫌な顔はされなかったが、こちらの引け目がそう感じさせるのか、笑顔はなかった、と思う。ったくヽ(`Д´)ノプンプン ったく(´;ω;`)ウッ… でも、お抹茶も和菓子もおいしかった。次はどうする? う~~ん、やっぱり、この商業施設に来たら、ここに入るかな?と共にうなずく。こちとら、ここまで辛酸をなめて生きてきた高齢者。QRコードごときで、めげないぞ!(;´・ω・)💦💦
2025年10月12日
幾度か書いたように、父は無神論者だった。菩提寺こそ、先祖代々400年もの長きに渡って滋賀県は彦根市にあるが(ちなみに宗派は曹洞宗)、遠いこともあり、お墓の管理費や寄付金等は払っているものの、滅多にお墓詣りもしない家庭だった。子供の頃に「お父さん、死んだらどうなるの?」と質問したことがある。父は「夢を見ない夜ってあるね? そういう感じかな。何もない」と応えた。ただ、何がきっかけなのか、私は人や動物の生まれ変わりを信じて疑わない子供に育った。キリスト教には輪廻転生の教えは無く、死んだら神の世界に入ると説く。だから日曜学校の教えではない。(かなり昔にはキリスト教でも生まれ変わりを説く聖職者がいたそうだが、後に否定されることとなった)キリスト教以外の宗教に触れることはほぼなく育った。 でも、それなら、何故? 高校受験前までは、毎年の夏休みに母の実家がある奈良県へ1週間から10日ほど行った。その時に奈良県の神社仏閣に見学に行くことは、とても楽しみだった。きれいな仏像を見たり、古い建物の何とも言えない香りに触れると、不思議と安心感を覚えた。日本人は不思議だ。信仰する宗教を持たないと言う人が多いわりに「生まれ変わったら〇〇になりたいね」とか、「前世はきっと〇〇だったよね」などと普通に話す。神仏の存在をどこかで疑わない。大事な局面では好きなものを絶って願をかけたり、すぐに「神様~」と手を合わせたりもする。年の初めには神社やお寺に初詣に行き、雛祭りや端午の節句、七夕、お月見、七五三など神道の行事をし、お盆には先祖の霊を迎え、クリスマスにはプレゼント交換をしたり、特別な食事をしたり・・。まあ「クリスマスって何の日?」と聞いても、キリストの生誕祭だと答えられる若者は多くはないらしいが💦でも、それでもいいと私は思う。日本には「八百万の神」がいるとされる。生活の中に神を感じ、神への信頼や恐れを持ち、自覚の如何にせよ神と共に生きてきた。あまたある神を否定することなく受け入れられる大らかさは、きっと平和への第一歩、となり得る。ただし現世において信心する宗教を持つ人に対して「弱い人」「神頼みしかできない人」と決めつける傾向は頷けない。宗教は頼るものではなく、自身の内面(魂)を高めていくための道標だと思うからだ。輪廻転生・・私はどこから来ていて、来世はどこに生まれるのだろう。逢いたい人に、次はどんな形で会え、関わっていくのだろう。今生でけじめをつけないと、来世にまた大きな課題を残す場合もあるんだろうな?と、会えずにいる、会わないといけないかもしれない人を思い浮かべている今日。
2025年10月09日
2つ前のblogでマリア様のルルドの水の話しに触れたことで、急に思い出した。カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲「アヴェ・マリア」の有名なメインメロディに「歌詞をつけてほしい」と、友人から依頼されたことがあって、思いついたまま、書いた。 数年前のことだけれど‥。色々なCMに使われてきた曲だし、現在はCX(フジテレビ)日曜朝の皇室の番組テーマ曲でもあるので、ご存知のかたも多いはず。よかったらメロディーに載せて歌ってみてください(o^―^o)ニコ🎵すべてを神の手に委ね 愛持て 暮らしましょう悲しみ苦しみ その手を拡げ 空に放ちましょう恐れを捨てて愛こそ 愛こそ すべて私の心は 満ちゆく🎵Qu'en pensez-Vous?(いかがですか?)
2025年10月06日
秋晴れと言える高く澄んだ青空が見られた日、急に聴きたくなった歌があった。壮大なバラード、西城秀樹さん歌唱の「ブルー・スカイ・ブルー」だ。申し訳ないが、ファンではなかった。取材をさせていただいたことは幾度かあるが、それはヒットを飛ばし続けていた時期に、新曲の振り付けを追って、歌番組のリハーサル時にコマ撮りし、解説するのがほとんど。なので、この曲のリリース時には取材はなかった。「ブルー・スカイ・ブルー」は馬飼野康二氏作曲で、作詞は阿久悠さん。まだ若い男性(少年?)と人妻との禁断の恋を男性の目線で綴った歌だが、曲先だったと聞く。美しいメロディーにも、もちろん魅き込まれるが、阿久さんの壮大な詩に、とてつもない才能を感じる。おそらく幾度も幾度も推敲を重ねただろう。特に二番の詩に、それを感じる。もう取り戻せない恋の日々への想いと、晴れ渡った空の対比が、猶更の悲しみを映し出す。当時23歳の秀樹さんに、阿久さんは、「今はまだ解らないだろうけれど、大人になったらきっとこの歌の意味が解るだろう」と告げたそうで、これは阿久さんが亡くなった後に秀樹さんが明かしたエピソードだ。日本人の歌い方は、眉をひそめ、顔を伏せ、身体や心を折れ曲がらせるのが特徴だが、阿久さんは、顔を上げ、両手を高く掲げる「陽」の歌い方を秀樹さんに託そうとしたらしい。「ブルー・スカイ・ブルー」では(おとなに)別れさせられても、まだ断ち切れない想いを秀樹さんは、青空に大きく手を差し出し、顔を上げて歌う。🎵青空よ 心を伝えてよ 悲しみはあまりにも大きい🎵 たまたまYouTubeで、西城さんの息子さん(木本慎之介さん)がこの歌を歌う動画を見つけた。22歳になったばかり。 阿久さんから曲を渡された当時の秀樹さんよりも若い。どこか淋し気。そして、きれいな顔立ち。歌もうまく、真摯にこの曲に向き合う姿には好感をもてた。ただ、次に充分大人になった時代の秀樹さんが、オーケストラをバックに歌う動画を見て、その差に唖然とした。息子さんはとてもうまい。譜面に忠実に歌っていて、正確でうまい。声もよい。でも秀樹さんの方はと言えば、曲を完全に自分のものとしていて、その曲の世界観に誘い込まれる。すごい! 彼ってこんなに歌がうまかったんだ‥。今更ながら気づいた。そして「大人になったら、判るだろう」と言った阿久さんの言葉が蘇った。慎之介さんも、いずれ経験を積み、この曲をもっともっと素敵に歌い上げられるようになるだろう。楽しみ(o^―^o)ニコちなみに・・ここ1か月ほどは、朝一番に藤井風さんの「グレイス」をスマホのMVで見聴きし、次にその時々でチョイスした曲を1~2曲聴いてから、仕事に取り掛かっている。一昨日から今朝までは「Garden」(o^―^o)ニコ身体の中にこれらの詩の世界を滾らせて、今日もよい一日になりますように。 よい一日にできますように・・。
2025年10月03日
私はクリスチャンではないが、イエスさまは大好きで、今でも時々、ふいに口を突いて出る賛美歌がある。🎵主 我を愛す 主は強ければ 我 弱くとも 恐れはあらじ我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す🎵小学校の三年生の時だったか、クラスメートの男子に誘われ、地元の教会の子供向け「日曜学校」へ通った。今思うと、何故、母がOKを出したのか謎だが、多分、隣と言うか下に位置するお宅の、とても優しくて評判のよい20代の女性が、その日曜学校の先生をしていたことが関係していただろう。🎵今朝も私の小さい耳よ 主の教えを聴きにゆけよ主よ この日も 御心を 行う日となしたまえ🎵この讃美歌はメロディーが好きで、こちらも時々口を突いて出る。子供向けであっても、讃美歌はどれもメロディーがとても美しかった。プロテスタントの教会だったので、マリアさまに話が触れることはなかった。でも世にたくさん知られる「アヴェ・マリア」は、どの曲も美しく、レコードやCDで聴くことはよくある。特にシューベルトのそれや、スラヴァが探し出したという「カッチーニ」の「アヴェ・マリア」はドキュメンタリー映画「ガイア・シンフォニー」で知ってから、クリスマスイヴに必ず聴く曲となった。 信仰とはこんなにもピュアなものかと思わされるメロディーだと感じる。教会の日曜学校に通うのをやめたのは、中学に入った時だったか。牧師さんが日曜学校に集う子供たちに対して、贔屓をしていると思うことが続いたからで、子供ながらに、裏切られた気がしたのだ。神に仕える者が平等に子供を愛せないなんて、この人は嘘っぱちだと感じた。母との確執が根底にあり、子供を自分本意に贔屓することが、どうしても許せなかったのだ。その後、キリスト教に関することと言えば、40歳になった時にパリへ一人旅に出た時のこととなる。12時間のフライト(実際は遅れて13時間近くになった)で疲れ、ドゴール空港に着くなリ大熱を出してしまった。翌日もそのまた翌日も熱は下がらず、そんな時、宿泊していたホテルの支配人から聞かれたのだ。「マダム、貴女はマリア様を信じますか?」「マリア様は、大好きです」そう応えた。「先週末、私はルルドの水をいただき(汲み)に行きました。よかったら飲んでみませんか?」どんな病気も治すというマリア様の聖水。信じる信じないというより、支配人のその温かな気持ちに打たれて「ぜひ」と応えた。すると! 飲んだ翌日、熱は見事に去ってくれたのだ。帰国して喘息の担当医に言ったら「あなたには軟水より硬水が合ったのでしょうね」と(;´・ω・)言われたが…。クリスチャンではないが、イエスさまは今でも大好きで、代々のペットたちの遺影を飾るスペースには、イエスさまの20㎝くらいの白い像も置いてある。他の神様たちの像(絵画の場合もあり)も、そこにはおいでだが‥。少しずつ、その話しも書いていこうと思う。
2025年09月30日
ようやく、この異様に暑い2025年の「夏」にも、出口が見えてきた。この時季に思い出すのがシンシアこと南沙織さんのヒット曲「哀愁のページ」。🎵 秋の風が吹いて 舟をたたむ頃 あんな幸せにも 別れは来るのね…🎵作詞は有馬美恵子さん。シンシアの曲はほとんどが有馬さんの詩によるもので、抒情的なものが多かった。シンシアに直接会ったことが、学生時代にあった。作詞仲間の紹介だったか、夏休みの1か月ちょっとだけ彼女のファンクラブでバイトをしたのだ。所属事務所はバーニングだったが、ファンクラブは同じ赤坂内の別の小さなマンションの一室。そこでファンからの手紙の整理をしたり、入会希望や継続者の手続きをするアルバイト。気楽で楽しい日々だった。「シンシアにこれを届けてくれるかな?」と何かしらを渡されてテレビ局へ行ったことがある。彼女は個室の楽屋にいて、優しく迎え入れてくれた。「ねえ、チークは塗っていないの?」とシンシアが聞き、私が「はい」と応えると楽屋の鏡の前に一緒に向って座り、私の頬に彼女は自分のチークを塗ってくれた。当時、はやり始めていたアメリカ製のスティック状チーク。「ねっ、いいでしょ?」と言うシンシアの笑顔がかわいかった。同じ1954年生まれだが、私は早生まれなので学年は私の方が、ひとつ上。それでもすでに大スターとなっていたシンシアは、大人っぽくて、とにかく美しかった。フリーランスライターになってからは、夫の篠山紀信氏と仕事をさせていただいたことはあるが、シンシアに取材をする機会には一度も恵まれなかった。今、私の私小説「瑠璃と響司の‥木漏れ陽の時季(とき)」を再度読んでくださる方がいて私自身も、今、読み返してみている。そこでまた、シンシアの曲が脳裏に浮かんだ。🎵 あの恋の初めの日を 誰かここへ連れてきてほしいのあの燃える目をしていた熱い人に もう一度 逢いたい🎵~「ひとかけらの純情」~青春の、儚くも美しい日々。遠い過去になってしまったが、今でも想い出すと、温かい。
2025年09月27日
私が若かった頃、イルカさんがコンサートの最後にいつも選んで歌っていた曲。たいせつに、たいせつに歌い続けている「いつか冷たい雨が」の歌詞を、動物愛護週間に‥。🎵雪が降る駅の片すみで 誰にも いたずらされない様にうずくまっている 年老いた犬パンをあげても見てるだけ 時が来れば汽車に乗る私泣くことの他 何もしてあげられない私広い道路の真ん中で ひかれてしまった三毛猫その上を何台もの車が 通り過ぎていく思わず目を閉じてしまった 私をゆるしてくださいみんなだって そう思っていると信じたいのです牛や鳥やおさかなも 人間の為にあるのよ さあ残さずに食べなさいそんなふうに言うお母さんには なりたくありませんでも私だって食べて育ってきたのだし 虫だって殺したことも ありますだから だから お願いですもう役に立たなくなったら 捨ててしまったり自分本位でオリに閉じ込めて バカにしたり汚がったり人間だけが偉いんだなんてことだけは 思わないでください人間以外のもの達にも もっとやさしくして下さい同じ時を生きてるのだから朝が来れば夜も来るし 生まれてそして死んでいく私が土になったら お花たちよ そこから咲いてください🎵昨今は、この歌をイルカさんが創った頃よりは、動物を家族同様に迎える人が多くなった。でも、まだまだ愛されずに命を終えるコたちがたくさんいる。美しい魂を持つ、けなげで愛しい生きもの達が、皆、幸せに天寿をまっとうできますように‥。その為に、私も(そして、きっと、あなたも)、少しでも力となれますように‥。
2025年09月24日
いつからだろう。気になり始めたのは。PVを観たり、ネット試聴したり、そして昨年のライヴ時に録音したと言うCDを購入。涙が止まらなくなり、今月のリリースとなった3枚目だと言うアルバムをまたまた購入した。溜まっていたポイントでだけれど(;^ω^)これは私だけの想いだが、忘れかけていた、40歳になる直前だったかの青山圭秀さんとの出会いや同じく、およそ30年前の湯川れい子さんたちと語り合った日々のことが回想された。例えば 🎵手を放す、軽くなる、満ちてゆく‥ 「満ちてゆく」より自分を苦しめている、あらゆる執着を断ち切り、仏教用語の「知足」を真剣に実行しようとしていた日々が、いつの間にか遠くに流れ去っていた私…。CDを聴く。言葉のひとつひとつが染みる。対訳を見ることで苦手な英語もすんなりと入ってくる。声質の美しさ、言語の響きのそれも、心地よくて酔いしれる。稀なる包容力のある声質の持主だと感じる。もちろん、卓越した曲の構成にも感服。ちなみに「Prema」の中では「Love Like This」が一番染みたかな?でも、他も全部。 久々に曲を飛ばすことなくフルで聴かれるアルバム(^^♪今生のまとめを考える年齢となり、もう一度、生き方を真摯に見直そうと思わされた。私がベジタリアンになったのも、あの頃からで、もう30年以上になる。あら・・風さんはまだ生まれていなかったのね。不思議な感覚。 よいタイミングでこのCDに出会えたことに、感謝。ちなみに・・CDを開けたとたん、〇〇〇ティーの香りが強くしたのは気のせい?それともスワミからのメッセージ?
2025年09月21日
同じパニック障害に悩まされていると言う某イラストレーターの紹介で、都内は渋谷区の心療内科へ行ってみた。その医師も書籍のマニュアル通りに「自己否定をしないように」と言った。「大変な思いをしてきたんですね。でも貴女は何も悪くない」「お母さんを好きになろうとか、自分は産んでくれた母親を愛せないダメな娘だとは思わないこと」そして「お母さんと離れなさい。今のままだと貴女の心が壊れてしまいます」。同じマニュアル通りのアンサーなのに、どこかすんなりと受け止められる自分がいた。多分・・話し方や声のトーンだったのだろう。相性もあるのかもしれない。しばらく横浜から渋谷へ通った。処方された弱い精神安定剤を飲みながら。ただ、どこか「?」と思い続ける自分がいたことは否めない。母を自分の中から遠ざけようとしても、実際には電話をしてきたり、留守電に色々と小言を吹き込まれたり。「忙しいから」と来るのを拒むと、いきなりマンションに訪ねてきて、管理人に消息を尋ねたりされた。当時の管理人には少々問題行動があり、その後に辞めたが、管理人は面白がって私に色々と言ってくるようになり、それはそれは不愉快な思いが母プラス管理人とWになって、ますますパニック障害は悪化への道を辿った。他人を頼るな、そう教えられてきた世代だからなのか、このままでいいのか? 心療内科の医師に委ねて薬を服用し、母から逃げ続けるだけで解決するのだろうか?そう思い始め、徐々に自分がもっと強くなるしかないじゃないか! と考えるようになった。母にはっきりと子供時代の母から受けた数々の虐待を言葉で示し、だから会いたくない、しばらく時間が欲しいと告げる。しかしあの母にそれが理解できるはずもなかったようで、母は余計に意固地になり、電話で罵詈雑言を浴びせるように‥。私のパニック障害はそこでひどく悪化し、とうとう寝込むようにまで進み、言わずにおこうと思っていた父に打ち明けることにした。父はひどく驚いていたが、聞き終えると謝ってもくれた。「お父さんには女きょうだいがいないし、女の子の育て方が解らないから、お母さんにすべて任せていた。仕事で成果を上げること、それで家庭を守っていくことが父親の使命だと思ってしまっていた」。父は母が私にした仕打ちに関して「それは〇〇だったんじゃないか?」と違う解釈をしてみせたりもしたが、ただ、それも私がされた虐待の内容を正直に告げることで「それは・・ひどい」と言葉を飲み込んだ。前にも書いたが、父は私の前で母を叱ったことがあった。でも、母は悔しそうに唇を噛んで、顔をそむけただけだった。謝る気などさらさらない。自分はぜったいに正しい子育てをしてきたんだと言いたげだった。その後、父が79歳で亡くなるまで、私は実家へ帰ることはしなかった。父は独りで寝込む私のもとに、時々来てくれた。肺気腫で倒れるまでは・・。パニック障害が完治とはいかなくても、完解に近くなったのは、いつのことだっただろう。父を送り、母とは完全に縁を切り、電話があっても出ないようにした。徐々にパニック発作が出なくなってからは、会うことはしなかったが、母からの電話には出るようにした。話し始めて5分もしないうちに言い争いになることはしばしばだったが、それでも受話器を置けばすむことだった。文春文庫から私が本を上梓した時は、母は近所の奥さんたちに自慢をして、本を配ったりもしたようだ。こうして、一時の死ぬかもしれないと思った発作からは縁が遠のいた。最後の発作はいつだったか。今でははっきりと思い出せない。そして今、再び発作が起きないことを願いつつ、日々をなんとか送れている。
2025年09月18日
パニック障害と診断されたのは、40代半ばだった。それまでは、そもそも日本にパニック障害という概念はなく、出先で急に過呼吸になって救急搬送されても、病院に着くころには症状は消えていて「精神的なものかな?」「自律神経失調症ですね」等と診断され、薬すら処方されずに帰された。これは社会人になってから、時々起きた現象。突然に呼吸ができなくなり、苦しくて、その場にうずくまるか椅子に浅く腰かけて喘いでしまう。初めてこの症状が出た時は、まだ喘息も患っていなかったので、ただただ苦しい呼吸困難に怯え、原因を考える余裕もないまま、このまま死んでしまうのかと本気で思った。しかも、例えば嫌な人に会うとか、何か苦手なことをしなくてはならないとか、状況が「負」な時ばかりではなく、恋人との待ち合わせの喫茶店で突然起きたり、楽しみにしていた旅で列車に乗る寸前のホームでも起きる。とにかく何の前触れも特徴的なサインもなく、いきなりの呼吸困難に襲われてしまうのだ。30代半ば、救急搬送された病院で10日間の入院をし、ありとあらゆる検査を受けた。それでも原因となる病気は何も見つからず「自律神経失調症です」と言われて、帰されただけだった。(同じ病室に入院していた女性からは「不幽霊が憑いているせいだ」と言われたことすらあった(;´・ω・))41歳で生まれ故郷の横浜に戻った頃、何がきっかけだったか忘れたが、アメリカで「パニック障害」という病気にかかる人が増えている、と知った。日本語に翻訳された専門書📚も発売されていると知り、取り寄せる。そこには私が長いこと苦しめられてきている症状とそっくりなものが幾例も書かれていて、自分はこの病気だ、パニック障害だ、と確信を持った。そして、私の症状はその原因が「母源病」つまり母親にあることも、その専門書では解き明かされていた。「アダルトチルドレン」という位置づけもされていて、母から受けた(受け続けている)精神的な虐待を示していた。数年かかったろうか? しばらくして日本でもパニック障害を取り上げる新聞記事やテレビ番組が生まれ、パニック障害を診ることができるという診療内科医も当たり前のようにあちこちに現れた。ブームになったようにも感じたが、それだけ同じような症状に悩む人が多かったということか?「パニック障害」を診られるとうたう心療内科医院を地元横浜で探して、幾件か通った。でも、医師の問診を受けると、本に書かれているマニュアル通りの対応。こう言ったら、こう応えるんだろうな・・と思いながら症状を伝えると、正に本📚通りのアンサー。大丈夫だろうか、この医師で。診察は保険が利くし、薬も行政から補助金が出る。だから医療費は気にならないが、数種類の薬が処方され、それを服用すると眠くて一日中ぼ~っとしてしまう。仕事どころか家事もままならないと告げると「じゃあ、もう一段階弱い薬にしてみましょう」そうやって出される薬も、やはり私には強い。これはどこの心療内科でも同じ。個人カウンセリングを受けたいけれど、これは自由診療なので1回1時間弱で2万円はする。毎週受けることになるので、月8~10万円。それで確実によくなるという保証はない。納得がいかないまま、心療内科通院を横浜から都区内まで拡げ、なんだかんだで1年以上が経過した。(続く)
2025年09月15日
8月末のある日、蒸し暑くてダウンしていたところに管理人さんから電話。なんと! 下の部屋に、うちから漏水しているという。場所をうかがうと、玄関を入ってすぐにある給湯器室の真下。管理会社から漏水専門の業者さんを呼んで、階下の漏水被害部分を見たそうで、我が家を調査する必要があるとのこと。スケジュールを合わせて来ていただき漏水調査を受けたところ、給湯器と水道管の結合部分に原因あり。なんでも、珍しいトラブルだとのこと。ちなみに給湯器は2021年8月に新しいものと交換している。だから経年劣化ではない。「マンションに入居した際、火災保険の個人損害補償に入っていますか?」と聞かれたので、「はい。階下への漏水損害補償はつけてあります」と、ひとまずは安心して応えた。でもね、知らなかったの。これって階下の損害賠償だけで、漏水箇所の調査や、自分の家の漏水個所の復旧は含まれない。つまり、調査費用と、漏水を直し、その周りを復元するのは自費なのだ(´;ω;`)ウゥゥ損害保険会社に聞いたところ、どの保険会社でもそうらしい・・。知らなかった。知らなかった・・。漏水調査及び修理復旧工事をしてくれた会社の人、そして保険会社の担当さん、どちらも感じがとてもいい。それが救いではあったけれど、自分の落ち度ではない範囲の突然の出費・・。階下の方へのお詫び(とても温厚でいい人だった)にもうかがうこととなりこの猛烈な残暑の中、すっかり神経を擦り減らせてしまった💦💦まだ請求書は届いていないが、漏水調査だけで5~6万円するという。工事と復旧代は・・?友人が言った。「人間は高齢化が進んで人生100年時代とか言うけれど、マンション等の建物はそこまでもたないものね」うん。今後も在り得る突然に訪れる災害・・。怖い(´;ω;`)ウゥゥ
2025年09月12日
子供の頃、詩を鑑賞することが大好きで、様々な詩集を借りたり買ったりして熟読した。その「好きな詩」の中から一編を・・。今こそワンコを室内に入れて一緒に暮らすことが当たり前になりつつあるが、私が子供の頃は、愛玩犬がまだ日本にはほとんどいなくて中型犬が主流だったのと、畳の生活が当たり前だったから、犬は庭先で飼われていたものだった。【犬は裸足なり】丸山薫ある日 みんなと縁側にいて ふいにはらはらと涙がこぼれ落ちた母は埃でも入ったのかと聞き 妻は怪訝な面持ちで私を見つめた私は笑って紛らわそうとしたが 流れるものを隠す術もなかったセンチメンタルなと 責めるなかれ 実はつまらぬことが悲しかったのだ愛する犬 綿のような毛並みをふさふささせ 私たちよりも怜悧で正直な魂がいつも裸足で地面から 上を見上げていることが 可哀想でならなかったのだ実家にいたコリー雑種の樹里ちゃんは、昼は芝生の庭を走り回り、散歩にも連れていってもらい、夜は離れの祖母の部屋で、祖母と寝ていた。祖母のその犬に対する愛、優しさが忘れられない。
2025年09月09日
「高齢」と言う枠の年齢に至り、自身の身体の変化に驚く場面が増えた。まずは「食」。好きなもの自体はフルーツや野菜、麺類と変わりはないが、辛い物が食べられなくなったΣ(・ω・ノ)ノ!例えばカレー。昔から標準より何倍にもなる辛いものが食べられたわけではないが、好きなタイ料理の店で普通に出てくるグリーンカレーが、辛くて耐えられなくなってきたのだ。レッドカレーなど、一口でギブ(´;ω;`)ウッ…プーパッポンが唯一、辛さ調性せずに食べられるかなあ(´;ω;`)ウッ…(´;ω;`)ウゥゥなので贔屓のタイ料理店では「マイルドセット」や野菜中心の「ヘルシーセット」しか頼めない。私より若い友人は、横で店自慢のグリーンカレーのセットに舌鼓を打っているというのに・・。まあ「ヘルシーセット」には、大好きな青いパパイヤのサラダと海鮮はるさめサラダが入っているから問題はないのだが・・。パスタにかけるタバスコも、冷やし中華の添える辛子も、以前より確実に量が減った。もう「辛い物が好き」とは言えないレベル。まあ、それでもお寿司を「さび抜きで」と注文する某友人にはまだ距離はあるか?💦そして! これはもう50代の頃から徐々にだが、あれほど好きだった絶叫系マシーンに乗れなくなった。気づいたのはディズニーランドのスペースマウンテンに久々に乗った時だった。とにかく怖い。身体が震える。何故? あんなに好きだったのに。それどころか(名称を忘れたが)飛行機のような遊具に乗って上空を飛ぶだけのアトラクションですら、ゆるやかに飛んでいる最中、徐々に震えが出始めた。 かなり驚いた。 まさか、高所大好き人間の、この私が???この変化はなんなのだろう?齢を重ねると誰にでも起こり得る現象?アトラクションの中には、下だけでなく、上にも年齢制限を決めているものがある。心臓発作を起こすことが在り得るから、とか、脳の血管にトラブルを引き起こすこともあるから、とか、尋ねればそう返答があると聞く。何度も書いていることだが、子供が傍にいない生活をしてきたので、自分が齢を重ねていることの自覚に疎い。ついつい若いつもりで行動を起こしてしまうし、若い頃と比べて何ができなくなっているのか、考えることすら忘れている💦💦あな、恐ろしや!これが、高齢というもの?
2025年09月06日
右耳の耳管狭窄症が一時的にひどくなった際、学生時代からの友達に打ち明けた。「片方だけでも耳がまったく聞こえなくなったら、って考えると不安なの」と。すると驚くような応えが返ってきた。「順子ちゃん、私、昔から左耳がまったく聞こえないんだよ」。「えっ? 昔っていつから?」と私。「子供の頃から。生まれつきかどうかは判らないけれど、気が付いたら聞こえてなかった」「でも・・」と続く。「私、それで困ったことないよ。だから順子ちゃんもそんなに不安がることはないよ」。彼女は一人娘のお嬢さま育ち。だから、例えば家が貧しくて医者にかかることもできなかった、とかはない。傍にいて、我が子の耳が片方聞こえていないことに気づかない、ってそんなことがあるのだろうか?それとも幼児期は聞こえていて、ある程度大きくなってから何らかの要因があり彼女は聴力を失ったのか‥。どちらにしても「大したことないよ」と言うのには驚いた。「だって、聞えない側に来て話しかけられたら、ごめん、聞えないから反対に廻って、って言えばいいもん」「イヤホンは? 両耳でないと音楽とか聴けないよね」と私が問うと、「別に。片方だけ入れて聴くよ。そういうものだとずっと思ってきたから」サラリと応える。強いなあ・・いや、強いとか、そういうのではないのだろう。でも「大したことないよ」と考えられるのは、何故だろう?そう自分に言い聞かせてきた? 否、そうではないのかも‥。ずっと考えている。学生時代に知り合って約50年。傍にいた時代も、その後にたまに会うことがあっても、気づかなかった。それは私がいつも人の右側につく癖があり、彼女の聞こえない左側に廻ることはなかったから?「ごめんね。少しも気づかなかった」と謝ると、「だからぁ、そういうんじゃないの。大丈夫なんだって」。当たり前のように、また電話の向こうで笑う。私、ほんとうにこの耳の件で彼女を傷つけたことはなかったのかな?もう遅いけれど、自分の鈍感さに悲しくなったけれど。黙っていると、「だからぁ、まったく気にしてないんだってば」という彼女。測り知れない人間としての大きさを感じた、つい最近のこと。
2025年09月03日
先日書いた「耳に飛び込んできたら足を留めて聴き入ってしまう曲」の中に入れたバルバラの「黒いワシ~ローランスに捧ぐ~」。アテネ・フランセの学生時代にアルバイト先のマダムのリビングで聴いたこの歌に、すっかり心を奪われてしまったことも書いたが、そこでふと思い出した・・。私、バルバラの来日時に、三軒茶屋の人見記念講堂で行われたコンサートに行ったんだ。あれはいつのことだったんだろう? 検索しても来日時のことはヒットしなかった。でも、覚えている。当日、バルバラは日本に着くなり大風邪をひいてしまい、声が出なくてドタキャンになってしまった。数日後に改めてコンサートが開かれ、運よくその日も休みが取れたので、私は会場へ行くことができた。バルバラは1930年6月9日パリ生まれ。ユダヤ系であったため、フランスがナチス・ドイツの占領下にあった際、迫害を受けてきた。当時のことを語りたがらなかったと言うが、それでも彼女の創った歌の中に「ゲッティンゲン」(日本題は「パリとゲッティンゲン」というタイトルのものがあり、歌詞の中で、こう綴っている。「ゲッティンゲンにセーヌ川は流れていないけれど・・・何て美しいの?! ゲッティンゲンに咲く薔薇は。ゲッティンゲンの子供も、パリの子供も、子供たちは皆同じ・・」バルバラは決して歌が上手なわけでも、声が特別に魅力的なわけでもない。それでもこんなに魅きつけられるのは、その詩の根底に流れる本物の温かさがあるからかもしれない。あの日、人見講堂へ一輪の薔薇を携えて出かけた。そして、歌い終わった舞台上の彼女へ手渡した。それが彼女のコンサートの恒例。彼女は静かに受け取ってくれた・・。その姿だけは、目に焼き付いている。~1997年11月24日呼吸器系の病気の為に逝去。享年67歳。憧れの人だった~
2025年08月30日
夏休みの宿題に読書感想文がある小学校は、今でも多いのだろうか?私が小学生の時は、夏休みだけでなく、毎月一度は読書感想文の提出日があったように記憶する。学校側が指定した本を読み、最初のうちは自分が感じたままに書いていた。ところが、だ。「着眼点に問題あり」のような指摘が赤ペンで書き込まれて戻ってくる。感想文なのだから、自分がどこに感動し、どこに疑問を持とうと、そのまま書いていいように思うが、先生は、どうやらお決まりの優秀かつ感動的な文章を求めているようだった。それに気づいたのは3年生くらいの時だろうか。本の末尾にある「解説」を読み、それを元に感想を書くと褒められることに気づく。忘れられないのが「にあんちゃん」(安本末子著)の感想文。確か、作者が貧しい(早くに両親を相次いで亡くす)境遇を「まるで運命論者のように語る」といったような文を解説文を参考にして書いたら、ものすごく褒められ、市だったか県だったかに推薦。そのまま優秀な読書感想文に選ばれ、各学校から一名ずつ10人くらいが集まって新たな本の感想を述べあう会に招かれた。小学校の担任と保護者も一緒で、母が得意げについてきたっけ(;^ω^)。その会での指定本はヘルマン・ヘッセの「車輪の下」だったが、会の様子はまったく覚えていない。そういえば以前、ライター仲間の女性が自身の娘さんについて、こう嘆いていた。「読書感想文なんて、解説を読んでどう書くか、そのコツを覚えればいい点が取れるのに、うちの娘は要領が悪くて、それができないのよ」。読書感想文。絵画もそうだが、作者が何を伝えたくてそれを書いた(描いた)のか、はっきりしている場合もあれば、作者自身がいくつもの想いを抱いている場合もあるだろう。好きに書いてもいいんじゃないかなあ?その着眼点に「?」と思える場合は、その児童の心の奥を覗くヒントになるかもしれないし。
2025年08月27日
ι(´Д`υ)アツィー 暑い 暑すぎる!去年の夏も暑かったけれど、エアコンを入れたのは7月末から8月頭の中の4日間だけ。それも1回4~5時間ほどだから、全合計で20時間57分だった。それなのに、この夏はもう15日間もエアコンをつけている(´;ω;`)ウッ…まあ直射日光が部屋の中まで届く午前中だけだが・・(ちなみに東南向き)。暑すぎて、頭がボケボケ。本を読んでも内容が入ってこないし、料理をすればスパイスを間違えるし・・。でもね、大好きな漫画家「あすなひろし」さんの画中のセリフにこんなのがある。「暑くて頭がボケるなら、インドにお釈迦様は生まれな~~い!」夏休みの宿題を暑くて頭がボケてできない、と言う子供に対してママが言った言葉だ。だとすれば、このボケボケの頭は、加齢のせい?名古屋に学生時代からの親友がいるが、名古屋こそ最高気温が37~38度の日が続いていて先日はとうとう39,0度を記録したΣ(・ω・ノ)ノ!家からなかなか出られないらしい・・。37度くらいで嘆いてはいられないかあ。はやく秋にならないかな。ただ、陽の高さはすでに真夏を過ぎている。ツクツクボウシも盛んに鳴いている。あと少しの辛抱。そう思いながらも、ボケボケの頭。このままだったらどうしよう・・と心配な昨今だ。
2025年08月24日
テレビニュースのお天気コーナーで、一般視聴者がライブで自身の子供と一緒に映れる番組がある。まだ数か月の小さな赤ちゃんや1~3歳くらいの幼児と一緒に、ママとパパが映り込み、どの親御さんも、ニコニコとカメラに向かって手を振っている。おそらく離れて暮らす両親や親戚に、我が子の姿を見せてあげているのだろう。でも、それを見ながら、いつも不思議な感覚を覚えてしまう私、抵抗感すらある私・・(・・?子育てを女親も男親も同じようにできることがいかに大事か、解っているつもりだし、男性が育児参加をし、育児休暇も取れる時代になってきたことをほほえましくも思う。私には子育ての経験はないが、20代の終りから30~40代半ばまで、小学館の育児雑誌に書かせていただいていた。毎月たくさんの有名人ママ&パパを取材してきて、子育てに両親共に関わることの大切さを目の当たりにしてきた。そう、頭では十分に解っているのに、生放送のテレビカメラに向かって、ニコニコと手を振る若い父親の姿・・う~~ん、どこか違和感を感じてしまう。なんかしっくりこない。個人の感想です、というヤツだが💦💦何故なのか? じっくり分析してみる。自分の育ってきた時代は、父親が育児に参加することがほとんどなく、手放しで嬉しそうに子供と手を振る姿は、私の中の父親像から遠くかけ離れているからか?お父さんは一家の大黒柱で、お母さんは家を守る。それが長いこと当たり前とされてきた。だから父親は家では一目置かれた存在で、夕食などは他の家族より一品おかずが多くて当たり前だったし、お父さんには敬語すら遣って接していた。父と直接話をすることを母が許さずにいた時期もあった。染みついた習慣や思い込みは、なかなか抜けないものなのか?若い頃の私は、男性が料理をすることに抵抗がなくて、友人から驚かれたりもしたが、料理を作ることはクリエイティブな作業だから男性がやってもよい範囲で、掃除や洗濯は、やはり女性だけがするものだと、どこか思い込んでいたように思う。それとも・・私は家庭像というものをよくは考えずにきたのか?いや、そもそも私は結婚しても通り一遍的な「家族」という形を望んではいなかった気もする。元夫は最初から「子供は絶対にほしくない」と告げ、私も承知しての結婚だったし、結婚することによって子供が生まれ、その子供たちを育て上げる、という形は考えてもいなかった。仲の良い家族、温かい家庭。それを望んで付き合った「彼」は皆無だった。恋愛=結婚、と疑うことなく思っていたのにね。テレビカメラに妻と子供と並んで映り、画面の向こうの互いの両親に手を振る、そんなシーンを夢見られるタイプだったら、全然違った人生になっていたんだろうな。ないものねだり。今更どうしようもないことを考えることに、時間を割くのはやめよう。そして、違和感がぬぐえなくても、今の時代感覚を受け止めよう。
2025年08月21日
ひょんなことから、丁度20年前の2005年に書いた小説を読み返すこととなった。そう前回と前々回にお知らせした、私小説「瑠璃と響司の‥木もれ日の時季(とき)だ。私小説なので自身のことを書いているのだが、もちろんドキュメンタリーではないので、そのままではない。経験を土台にして物語を創り上げている。が、やはり自分の身に降りかかったことや、耳にしたことなどが、あちこちに散りばめられてはいる。少しずつ計101日に渡って書いているし、なにせ20年前のこと。すっかり内容を忘れてしまっていたので読み返してみたが、閉ざしたカーテンの向こうを陽射しが歩く‥という表現をとても気に入っていたのが思い出された(o^―^o)ニコ朝の光だったり、雪の気配だったりを、カーテンを通して感じている。辛く悲しい日に、どうしても明るい光を浴びたくなくて、閉ざしたままベッドの中でまどろんだ日々。 そんな日が幾日もあったなぁ、と記憶は蘇る。書き始めたのは51歳の時。29歳の時の自分を振り返り、デビュー直前の17歳のシンガーソングライターとの恋を思い出しながらしたためた。書いている最中、常にステレオから流れていたのは、本物の彼の曲ではなく、当時、国立音大出身の友人が「すごい新人が出てきたわ」と教えてくれたアッキーこと中川晃教さんのCD。今はミュージカル俳優としてトップの座にいるアッキーの、20歳そこそこの時点のアルバム。歌唱の素晴らしさはもちろん、彼の作詞作曲した歌のクオリティーの高さに引き込まれ、BGMにして綴った。特に「砂漠」や「ユー アー ザ スーパースター」は物語のクライマックスに必要な曲だった。実はプロットは全く立てていなかった。見事なほどに💦💦一回に書いた時間は30分程度。突き動かされるような感じで書き進め、書き直しはしなかった。実は、書き始める直前の半年ほどの間、某出版社から人気アイドルが本を出す予定で、私はプロデュース&ゴーストライターとしてその本に参加していた。でも、よくあることだったが、超大手芸能事務所から横やりが入り、その話は中途で流れた。私が悪者になった形で・・。そして同じ出版社から上梓する予定の私自身の著書も、同じ様に流されてしまった。その悔しさからペンを取った(ブログに綴った)のが真相だ。歌姫・楢咲ユミが独立して自身の事務所を立ち上げるために響司に誘いの声をかけるところや、プロデューサーやプロモーターの策略なども、実際に耳にした話をシチュエーションを変えて加えている。そうそう、テレビの本番で画面を通して響司が瑠璃にウインクするシーン。それは某アイドルから直に聞いた実話。私自身、読み返していて、好きだなあ、と思う表現が幾つも見つかっている。29歳から30歳の瑠璃こと私と、したためた時の51歳の私と、そして71歳になった現在の私。もう一度、あの若さゆえの輝きを手に入れることはできなくても、想い出の中で静かに煌めかせたいと願う。・・木もれ日のように・・。続編を書くかどうかは・・今度はプロットを立てないと無理だと思うので、今のところは保留です。
2025年08月18日
お問い合わせがあり、ここに追加します(o^―^o)ニコ私小説の開き方ですが、【パソコン】①ブログの左上「ホーム・日記・プロフィール」の「日記」をクリック。②真ん中の「カテゴリ別記事」を選ぶ。③一番下の私小説「瑠璃と響司と・・」をクリック。1・2・3とありますが、3が一番古く、物語の最初の章=№1が表示されます、№2は「2」に続き、「2」は50編。「1」が50編で全章、終了です。「次の日記」を選択していけば、進めます。【スマホ】最初の日記の画面を下にスクロールしていくと、プロフィールのすぐ下に「カテゴリ別記事」の表示が出てきます。後はパソコンとほぼ同じです。よろしくお願いいたしますm(__)m
2025年08月13日
どこにも行かないけれど、身体を休めるためにお盆休みを取ります。で、その間に、この楽天ブログを始めた当初の目的であった、私小説「瑠璃と響司の‥木もれ陽の時季(とき)」の整理をする予定です(o^―^o)ニコといいますのは、最近急にこの小説の閲覧数が増えているから(⌒∇⌒)。カテゴリに「瑠璃と響司の‥木漏れ日の時季(とき)」を入れ、最初から順を追って読めるようにいたします。・・小説の内容は・・夫の裏切りで傷つき離婚した主人公・瑠璃(29歳・エッセイスト&ゴーストの作詞家)が、一回りも年下の、売りだし目前のシンガーソングライター響司と新たな恋に落ちる。事務所やマスコミにばれないように逢瀬を重ねるふたりだが、次々と立ち塞がる、芸能界の掟や宣伝戦略等による問題をどうクリアしていけるか・・。そして、12歳の年の差を超えて、スターになりつつある響司を瑠璃は恋人として愛し続けられるのか・・。各回ごとの展開は速めです(o^―^o)ニコお好きな方は、ぜひ、お読みください。当時はランキングで何週も一位獲得していましたが、訳あって最後は尻切れトンボ状態。もしかしたら、続きを執筆するかも、です💦それでは、お身体に留意され、楽しいお盆休みを(^▽^)/
2025年08月11日
7月の第一週のこと。朝起きたら右耳が詰まっている感覚を覚えた。初めての症状だ。驚いて( ゚Д゚)片耳ずつ指を入れて塞ぎ、声を出して左右の聞こえの違いを確かめる。両耳とも聞こえてはいる。難聴ではないようだ。突発性難聴ならば、すぐに病院へ行かなければこのまま失聴してしまう危険性がある。しかし、聞こえてはいる。 とりあえず様子をみることにした。次の日も、また次の日も、同じ様に朝起きたら詰まった感じに気づく。日中は何かに集中していれば気にはならない。でも気にし始めると詰まった感は蘇る。ネットで検索したところ「耳管開放症」の症状が近いように思うが、ところどころ異なってはいる。?(。´・ω・)?そうして5日目の朝。とうとう詰まり具合がひどくなった。左右の聞こえが明らかに違っている。慌てて地元の耳鼻咽喉科の予約サイトを開く。この1月に歯から来る痛み(と思われた)で初めて検索し、行ってみたクリニック。急患以外は予約制で、24時間いつでもネットから空いている時間に予約することができる。予約日の前日夕方に問診票が届き、そこに記入してから当日の診察を受ける手順だ。祝日以外は土日もやっているクリニックだが、たまたま院内機械のメンテナンスで休みの日があり、その翌日の昼前に予約を入れて、受診に向った。まずは左右の耳にカメラを入れ、目の前の画面に映し出す。「鼓膜に問題はないですね」。次は聴力検査と空気圧検査。聴力検査では眼科の視野検査のように、聞こえたら手に持ったボタンを押す。これはなかなか面白い。ただ十秒近く何も聞こえないと不安になり、聞こえたかも・・と押したりして(・_・;)でも、これくらいの迷いは機械の方が見破ってくれるようだ。空気圧検査では、左右の耳、それぞれに空気の圧を加えて、その様子をみた。どちらも痛みがない検査で、ほっと一安心。結果は、特に大きな問題はない。聴力に関しては、加齢による高音の聞き取りにくさはあるものの、年相応だとか。空気圧に関しては、わずかに右耳に難あり。「耳管‥なんとかですか?」とうかがうと「耳管狭窄症と思われます」。あら、開放症ではないんだ。漢方薬と西洋薬を一種類ずつ処方され、毎日3回服用するようにという指示が出た。そこから1週間。なんとなく落ち着いたような、さほど大きな変化もないような…。そう問診時に告げると、漢方薬を中止し、西洋薬だけまた2週間。それにしても、神経質になり過ぎているのか、ちょっとした瞬間にも詰まった感があったり、ピリッとした痛みを一瞬感じたり・・何か見落とされてはいないかと、不安は止まらない。西洋薬を2週間薬飲み続け、三度、受診へ・・。また耳の中をカメラでチェック。「薬をやめて様子をみましょう。急に変だと感じたら、すぐに来てください」。うん、ひどくはなっていないようだ。と言うわけで、現在は様子見。そうそう、薬を8時間おきに飲むように指示されたのだが、最初の日に18時に服用したため、翌日からは、必然的に夜中の2時、午前10時、夕方の18時となり、忘れないようにアラームをかけたりしたのだが、長年の付き合いがある薬剤師さん曰く「あらあら、だいたいでいいのよ、この薬は。1時間2時間前後しても大丈夫だから」💦私、変なところで生真面目だからな。神経質。生真面目。心配性。それらが組み合わさってしまう私。これ、なんとかしたいけれど直らない(;^ω^)このまま何も問題なく開放されますように・・。
2025年08月09日
不二家のペコちゃんが、75周年を迎えた(そうだ)。横浜高島屋に特設コーナーができているとのことで、ついでがあった際に覗きに行ってみたが、長蛇の列となっており、中に入るのはとても無理。 残念だが諦めた(´;ω;`)ウッ…。実は見たかったものが、ひとつ、あるのだ。それはミルキーの手提げモール紐つき大きめサイズの箱。幼稚園児の頃、父は平日の夜には必ずお土産を買って帰ってきてくれたのだが、ミルキーのこの手提げ付きの箱は、ペコちゃんとポコちゃんの目が動くので特に印象に残っているのだ。ただ、何しろ66年ほども前の、しかも幼少の時のこと。しっかりとした記憶はない。サイズも思っているより小さいだろうし、覚えている通りの物なのか、確認してみたかった。父はただただ娘たちが喜ぶ顔を見たかったのだろう。 私はと言えば、玄関が開く音が聞こえたとたん、何をしていても、どの部屋にいても、すっ飛んで父を迎えに行った。ん? 妹とは3つ違いなので、まだミルキーは食べられない年齢だったか? あれは私へのお土産?ただ、5歳か6歳の頃、風邪で寝込んだ際に往診にいらしたお医者さまから、「毎日の土産はしつけ上よくない。誕生日やクリスマスなどの特別な日にだけにしたほうがいいです」と言われ、真面目な父は、それに従ったのだ。昭和30年代初め、お医者さまや学校の先生は、世間的に「偉い人」だった。子育てが初めてな両親にとっては、先達の言葉は素直に従うべきものだったのだろう。子供の私は納得できないでいただろうな? 大泣きしたかもしれない。でも何も記憶にはない(;^ω^)ミルキーは、高校生になっても好きだった。通学カバンの中に入れていることが多くて、仲の良い女子や男子に分けてあげていたっけ。今でも好きな味だが、さすがに買ってまで食べることはない。・・・ペコちゃんは今年75歳になった・・・私より、少しだけ、おねえさんらしい(o^―^o)ニコ
2025年08月06日
去る7月30日のこと。地元の最寄り駅まで歩いていると、いきなりサイレンが鳴り響いた。最初は何かの訓練かと思ったが、何度も何度も繰り返され、何やら女性の声でアナウンスもされているが、音が割れていて内容はまったく聞き取れない。サイレンを聞いたのは、実は地元では初めて。道行く人たちも皆、周りをキョロキョロと見回している。でも何事なのか判らない。そのまま駅の改札に着き、そこでも何も変化はなかったので、電車に乗った。横浜駅に着いたのは10時少し過ぎ。西口のシァルに用事があり、歩いているといきなりアナウンスが。「津波警報発令により、シァルの地下各店舗はシャッターを下ろし、営業を中止すること。シアル防災〇〇‥」えっ⁈ 津波警報? 横浜でそれを聞いたのは初めてだが、東日本大震災のあとに、横浜も大津波が来たら危ない地域だと知った。避難しないと、と思ったが、シァルと繋がっている高島屋の地下店舗を見ると、何事もないかのように、どの店も営業を続けている。??(。´・ω・)??(。´・ω・)??(。´・ω・)??目的のシァル内の書店はシャッターを下ろしたので、様子を確認するためにも地下通路で繋がる東口方面へ行ってみる。…ルミネからポルタ、そしてそごう。どこも何の変りもない。そのままそごうの地下二階入り口から入り、上階にある書店へと向かった。それにしても、あの津波警報云々は何だったの? とその時点でも不思議だった。やがて用を済ませて地下通路へ戻ると、柱にある電光画面にニュースが映されていて、津波の情報が流されていた。カムチャッカ半島の地震により、日本への大津波も懸念されているらしい。でも、この横浜駅周辺の、まったく普段と変わらない感じはなんなの?暑いし、用事も済ませたし、歩数計も8000を超えたので、長居は無用と帰路に着いた。横浜に津波が到着したのは13時半くらいだったそうだ。40センチ。 …たったの40センチ? とは言えないらしい。40センチでも足をすくわれ、人はまともに立っていられないのだと実験映像で知った。あの時いち早くシャッターを下ろさせたシァルの防災センター(?)の人は、もしかしたらあの大震災の際に、津波を経験した東北の人だったのかもしれない。でも…あとで誰かに𠮟られたり、文句を言われたりしなかっただろうか?大事にならなかったからいいけれど、もしもっと大きな津波が横浜に届いて、被害が出ていたら‥そう考えると怖い。横浜駅は港からは離れているイメージだが、そごうなどはベイサイド。そごうの隣の商業施設は「ベイクオーター」で、海を見ながら食事ができたりもする位置にある。「津波注意報」ではなく「津波警報」が出たのだから、もっと危機感を持ってもよかったのでは?そう思ってしまった。今後はサイレンが鳴ったら、ひとまず情報を得ることを第一に考えよう。あの東日本大震災で学んだことを、忘れないようにしなければ。
2025年08月03日
アナウンサーの友人(女性)から電話がきて、話し込む。彼女の娘さんの恋バナをさんざん聞かされた後に、「ねえ、あなたが今より20歳若かったら、40歳若かったら、今の時代の誰と付き合いたい?」20歳若いとすると、51歳。40歳なら31歳かあ。 「20歳若ければ、エレファントカシマシの宮本浩次さんかな。40歳若ければ、SUPER BEAVERのぶーやん(o^―^o)ニコ」 と応えた。すると「えっ?! 板垣李光人くんとかじゃなくて?」と彼女。そうね、李光人くんには稀なる美しさがあるけれど&数年前から注目株ではあったけれど…若すぎるかな?宮本浩次さんやぶーやん(渋谷龍太さん)は、テレビで見ただけの少ない情報源からだけれど、一緒にいたら目いっぱい振り回されそうで、濃い時間を過ごせそう。なにより、このお二人、仕草や話し方が、とぉ~ってもかわいい🎵ただ、お二人ともO型双子座で、昔の私なら絶対に魅かれないタイプなんだわ・・。若い頃に好きになった人は、ほぼほぼB型で、水の宮の星座(魚・蟹・蠍)もしくは土の宮の星座(牡牛・乙女・山羊)生まれの人だった。わずかな例外はあったけれど。私、高齢者になって変わった?電話の向こうで彼女がため息をついた。「あなた、ますます普通の結婚ができないタイプになったよね」って・・ほっとけヽ(`Д´)ノプンプン
2025年07月30日
10代の頃、私はかなりの方向音痴だった。しかたがない。なぜなら道を覚える際に目安とするものが、花だったり動物だったりしたのだから(^-^;「あの白いホタルブクロが咲いていたお宅を左に」とか、「ブルドッグが塀の下から覗いている家」などとそんな覚え方をしていては、花が咲いていない時季やワンコが散歩に出ている時だったりしたら判らない。アテネ・フランセの生徒だった時、ボンヌ(ハウスキーパー)のアルバイトをフランス人宅2軒で行っていたが、一軒はJR目黒駅から15分ほど歩いた高級住宅街の一軒家(フランス大使館副領事さん宅だった)で、もう一軒は地下鉄青山一丁目駅から歩10分くらいの、これも高級住宅街の庭がかなり広い一軒家だった。青山一丁目の方は、30代の頃に取材で青山を歩いていて、ホタルブクロを見つけ、急に思い出した。そこは時々はプライベートで来ていたエリア。ホタルブクロが咲いて、ようやく思い出せた感じだ(;^ω^)ただ、目黒駅から歩いた方のお宅は、どうしても思い出せない。一度、探してみようと目黒駅を降りてみたが、改札を出たところからすでに解らなくなった。今はおそらく街自体が変わってしまっていて、探そうにも形をとどめていないだろう。そんな私が方向音痴を克服できたのは、ひとえにフリーランスライターと言う仕事ゆえ。その前の歌手のマネージャー時代は、ほぼタクシーや先輩マネージャーの運転する車での移動だったから問題なかったが、ライターになったら、タクシーやハイヤーが出ない打ち合わせや取材も多々ある。住所しか教えてもらえずに当日出かけるから、今のようにググれない時代、市販の地図帳と睨めっこだった。携帯電話ももちろんないから、迷ったら公衆電話から先方にかけ、目安となるものを聞いたりもした。そんなこんなで、すっかり地図の見方も覚え、徐々に迷わずに行かれるようになった。お日様が出ている時間帯なら、太陽の高さから南の方角が判るから、地図の方向もつけやすい。必ず早めに出て、ゆったりした気持ちで探せるように気をつけてもいた。ちなみに南関東の場合、明石標準時で正午に太陽が真上に来る場所が「真南」だ。今も地図を見るのは大好き。目が悪くて太陽光の下ではスマホが見られないから、スマホでの道案内には頼れない。初めて出かける場所には、あらかじめパソコンで調べた地図をプリントアウトするかメモし、それを見ながら探し歩く。それもまた、楽しい(o^―^o)ニコ子供の頃、私を方向音痴とバカにしたBFよ。私、克服できたんだよ(o^―^o)ニコもっとも当時は、方向音痴で頼ってくるような女の子の方が、かわい気があっていいと言われていたけれど(;^ω^)
2025年07月27日
いつ頃からだったか?歩けなくなることが怖くて、2日に1度は8000歩以上歩くように自分の中で決めた。(58歳の10月13日に突然歩けなくなり、整形外科で見放されて車椅子生活になりそうだったのを当時70代の脊椎矯正師さんの施術で、約10か月後に治った経緯がある)気候がよい春や秋は昼間に散策に出る。花散策は特に好き(o^―^o)ニコ仕事や買い物等の用事があったら、行った先の街を景色を眺めながら歩いたりもする。楽しくて1万歩は軽く超え、時には2万歩を超えることさえも。ただ、真夏は日中に1時間越えで歩くのは熱中症になりやすくて危険だから、一日で一番気温が下がる日の出前の時間帯に1時間半(私の足だと約9000歩)ほど地元を歩くことにした。住んでいるマンションから、四方八方どこに向かうかをその日の気分で決める。駅方面だったり、農家が多いエリアだったり、マンション群地区だったり、少し遠いが川の傍にも。好きな夏の花が咲いている時は、目的の花がたくさん見られる公園等へ向かう。未明の3時4時に歩くのは危険ではないか? とよく聞かれるが、新聞配達のバイクやスクーターが驚くほど多く走っている。4時くらいになると若いマラソンランナーが出てきて、すれ違う。大型犬を散歩させる人も、たまにはいる。ところが・・去年の真夏から、その未明ウォーキングが高温のためにままならなくなった。最低気温が27度を下回らない中で1時間越えの運動は、歩くだけとはいえ危険。麦茶と塩分タブレットを持ち、ネックファンをつけていても、クラクラしてくる。昨年、そんな状態になった8月は、しかたなく週に2回ほど、通院の後、もしくは歩くことだけを目的に、横浜駅に電車で出た。いくつもの路線が集まる横浜駅は地下通路で東西が繋がり、そこに枝をつけるようにいくつもの商業施設がある。朝の地下通路には冷房が効いていて、ウォーキングをするにはとても助かる。そごう、ルミネ、ポルタ、高島屋、シアル等々などの商業施設は10時から開くので、時には地下街を覗いたり、カルディや成城石井、東急ストアなどで帰りには買い物もできる。電車賃がかかるから地元で歩くことを思うともったいない気もするが、ジムに通うとなると持病のある私の場合は桁違いに費用がかかるので、これはもう仕方ない。健康のための必要経費とする。さて、まだ今のところは最低気温が26度止まりなので、何とか週3日は、未明ウォーキングや通院やスーパーの梯子で8000歩越えが達成できているが、この先はそうはいかない予報だ。しかたない。また横浜駅地下通路ウォーキングを始めるかあ。とにかく私の身体にとって、ウォーキングは健康的な食事の次に大事な位置づけなのだ。それにしても冬は雪国の高齢者、そして真夏は猛暑が続く地域の高齢者、簡単には外で歩けない時季は、皆さん、どうやって健康を維持しているのだろう? うかがってみたい。ちなみに、私が住む所は横浜市だが、電車に10分も乗れば都区内に入る。なので天気予報は「横浜」より「東京」で見る方が実際の気温には近い。で! 今日は36度に達する予報ι(´Д`υ)アツィーでも、風が入ってきたので正午前に冷房を切り、窓を開けて扇風機だけで過ごしている💦
2025年07月24日
中学生時代のこと。ホームルームの際に担任から言われた。「朝鮮人学校の生徒とは目を合わせないこと」。横浜市には朝鮮人学校があり、当時は制服が民族衣装だったため、そこの在校生はすぐに判った。でも、私はといえば、チマチョゴリの制服がとてもかわいらしく見え、胸元の合わせやリボン(?)の結びなど、どうなっているのかが知りたくて、電車内でチマチョゴリの制服を着ている女子を見かけると、ジ~ッと見ていたように思う。「どうして目を合わせてはいけないんですか?」と誰だったかが聞いたら、「何をされるか判らないから」と担任は言った。喧嘩に発展した事件もあったらしい。ただ日本人に蔑まれ続けてきた歴史がそうさせたのだと、その時は知らずにいた。社会人になって歌手のマネージャーになった時、日本の芸能界には在日コリアンがとても多いと知った。日本国籍ではないために、一般企業に簡単には就職できない彼ら彼女らにとって、貧困から抜け出したい、親に楽をさせてあげたい、たくさん稼いで家を建ててあげたい等…大金を稼げる職に就きたいと願った時、そこに芸能界やスポーツ界があった。実力があれば、その世界で有名になれ、大スターになれる。お金持ちにもなれる。それはドリーム。有名人だけではなく、芸能界のスタッフにも在日コリアンはたくさんいた。芸能事務所の社長以下、役員数人と焼き肉店に行ったことがあり、その際に、すべての人が韓国語で注文をしたので、かなり驚いた。「皆さん、韓国語を勉強なさったんですか? すごいですね」と何も知らずに言った私は全員から異様な目を向けられ、のちに真相を聞かされて、言ったことを後悔した。カミングアウトしている有名人はけっこうな人数になるが、一度意を決してカミングアウトした後に何度も何度も「自分は日本人ではない」と繰り返し言うことはなく、言う機会もなく、カミングアウトした雑誌やテレビ番組をたまたま見ていない限り、知らずにいる人も多いだろう。取材をして仲良くなり、その人の家に行ってインテリアで日本人ではないことを知る、ということもあった。「あなたを信頼して言うけれど、私が在日だってことは誰にも言わないでね」と、その人は言った。「なぜ韓国人であることを隠すの? 自分の国が好きじゃないの?」とひどく失礼な質問をしたことがある。返ってきた言葉は「私だけならいいの。私は今の自分にもアイデンティティや出自にも誇りは持っている。でも親戚のことを思うと無理なのよ」。その人の親戚たちは「歌手の〇〇のいとこなんだ」とか「〇〇の親戚なの」と周りの友人知人に言っている。誇らしげに。実際、誇らしく思って。「もし私が在日だとカミングアウトしたら、その人たちも在日であることが判って周りの人から差別を受けるの。それが耐えられないし、今までさんざん在日であることで迫害されてきた年上の人達が言ってくれるなと口を揃えて言うの。だから自分の想いだけでは語れないんだ」。中学校の担任が言った「目を合わすな」を思い出した。在日コリアンだというだけで、とんでもない差別をしていた。過去に日本が朝鮮人(韓国&北朝鮮)に対してどれほどひどい仕打ちをしてきたか、歴史の授業では学ばなかったし、大人たちは教えてはくれなかった。そして自分も学ぼうとしなかった。現在はもう十年以上も続いている韓流ブームで、韓国人のスターを「推し」にしている人達が多くいる。差別感情はどんどん薄れていっているように感じる。驚きと共に、いい時代になったと感じる。でも、今でも60代以上の人達の中には、残念ながらコリアンへの差別が根強く残っていることは否めない。良識ある人と言われている文化人の中にも「差別はしないけれど、親戚になるのはちょっとね」と身内が韓国人と結婚するのに反対している人も知っている。差別・・私の中に外国人に対するそれは、多分、ない。ただ、すべてのジャンルにおいて何の差別感情もないかと問われると「?」自信がない。今すぐに例は思い浮かばないが、当たり前だと長年思ってきたことが相手にはまったく通じなかったりすると「私とは違う?」「異なる生き方をしてきた人?」と見下してしまうことがあるように思う。差別は醜いことと言いながら、建前では「皆、平等」と言いながら、どこかで「区別」とは違う「差別」の気持ちがはたらく。自分に余生がどのくらいあるのか解らないが、この醜い「差別」という感情をできるだけ取り払ってから、私は来世へと旅立ちたい。誰かに対して思ってしまった差別的な考えを、きちんと反省して正せる人になりたい。いや、人生の最期には、そうならなければいけないのだ。・・・人として。
2025年07月21日
以前(6月15日付)に書いた、公園でプロコル・ハルムの🎵「青い影」を聴いていたご夫婦のこと。話しかけると、夫は日本人で、妻はフィリピン人だと判った。75歳と59歳という年の離れたカップルで、子供たちは巣立ち二人暮らしだそう。娘の一人はパリにいるとも。夫は定年退職して悠々自適な生活を送っているが、妻は「まだまだ働けるから」と高齢者施設で介護士をしている。ただ、悲しいことに外国人であることで、職場ではイジメも受けているようだった。日本語の読み書きはひらがなは完璧。漢字も人名や地名やよく目にするものは書けるという。ただカタカナがイマイチ苦手。英語はペラペラだが・・外来語はネイティヴな英語とは遠い。これは英語圏の人からよく聞くが、カタカナの字面はひらがなに似ているようで異なるため解りにくいらしい。そのため、パソコンへの入力作業は日本人の介護士が行い、彼女は介護以外の時間、雑用に追われる。「日本人介護士が自分で飲んだり食べたりした食器を全部私に洗わせるのよ」と。何より嫌なのは、高齢者と仲良く話したり、ハグをすると嫌味を言われることだと語る。「おじいちゃんが転んだ時ね、私、抱き起こしたよ。でも日本人介護士はダメだと言う。自分で転んだんだから甘やかしちゃダメ、って。でも怪我しているかもしれないでしょ?それにハグされて嫌な人かどうか、見極めているよ。たいてい、どの高齢者もハグするのが好きだよ」それ、解る! 日本人にはハグする習慣がないけれど、私は外国人と接することも多くて、ハグする時の独特な「安心感」「幸福感」を知っている。特に年老いて誰からも抱きしめられることがなくなった時、温かいハグは心に染みるものなのだ。私は、日本人の友人知人で海外での生活を経験した人とはハグすることもままある。彼女の日本人の夫が「信じられないこと」として語ったのは、日本人介護士の裏表がある行動。転んでしまったおじいちゃんを「甘やかさないで。抱き起さないで」と言った日本人介護士がそのおじいちゃんの家族が面会に来ている時には、「〇〇さん、膝を擦りむいたの?どこ? 痛かったね」と優しい声で言い、膝を優しく摩ったのだと妻が憤慨していたというのだ。夫は「日本人は優しいし、プロの介護士がそんな家族の前だけいい顔をしたりするかなあ?」と首を傾げる。でも私も友人知人の家族から、入居者が介護士さんにイジメのような対応をされたケースはいくつも聞いている。真冬の夜間に暖房を切られ、寒くて耐えられないと訴える夫のために湯たんぽを入れていた妻に対し、「こんなもの、介護の仕事が増えるだけだから、やめてくれない?😡」と言い、妻が「毎日、通ってきていますので、お湯の交換は100%私が‥」と応えても「来られない日があるかもしれないじゃない😠」と頭ごなしに拒否された、とか。夫のために編んだセーターを話したこともない職員が着ているので、びっくりして尋ねたら「着替えさせるのも大変なのよ。だから着られる人にあげただけ」と担当介護士に平然と応えられたり。もちろん、ひどい施設ばかりではないし、私が過去に上梓した「老人と犬」(文春文庫)で取材したさくら苑のように高齢者の人格を尊重し、人生の大事な最期を個々に本気で考えて接している施設もある。ただ悲しいことに、入居者もその家族も納得できるような施設は、さほど多くないのが現状のようだ。フィリピン人の彼女は言う。「お年寄りはかわいいよ💗 フィリピンではお年寄り、大事にするの当たり前。大事な人生の先輩」。私のことだが、去年、右手首の骨折で入院した際、手術当日に明るく接して励ましてくれたベトナム人看護師さん。地元の規格外野菜を安く売るスーパーの中国人店員さんは、三角巾で吊っている右手を見て混んでいるにも関わらず、店の外にあるテーブルまで荷物を運び、買った商品をキャリーバッグに詰めてくれた。今、外国人を排除することを推奨するようなSNSが多くあると聞く。ヘイト書き込みがどんどん増えているそうだ。どこの国にも、ずるい人、悪いことを平気でする人はいる。日本人だってしかり。規約を破り、抜け穴をうまく潜り・・そんな日本にはいてほしくない外国人は確かにいるだろう。でも、全体の何パーセント? それ以上に、日本を愛して日本人を大事に思う外国人はたくさんいる。ずるをする人を認めない規制は大事だけれど、十把一絡げで「外国人排除」と考える思想はとても怖い。…「青い影」で知り合ったフィリピン人の彼女とは、帰りしなにガッチリとハグをした(o^―^o)ニコ
2025年07月18日
不安定な気候からか、食べることが大好きな私にしては珍しく食欲が落ちている。これではダメ。ちゃんと食べなければ夏バテでダウンしてしまう・・。ダウンしたらウォーキングができない=歩けなくなるかも(;´Д`)ということで、朝食だけは無理をしてでも、いつものようにしっかり摂ることを厳守と決めた。ちなみに今朝のメニューは、ほぼほぼいつもと同じで、☆具だくさん味噌汁=エノキダケ(一束の半分)、マイタケ(3分の1パック)、空心菜(5本)、玉ねぎ(中サイズ2分の1個)、生姜(みじん切り大匙1杯)、ズッキーニ(1本の半分)。これらは250~300㏄の水で茹で、火を止めてからタニタの減塩みそ、とろろ昆布、チーズ一片を入れる。☆魚=生鮭切り身を一人前(魚はたいてい安い「あら」使用)を蒸して醬油と羅漢果で味付け。☆果物=今朝はキーウィ1個。☆プレーンヨーグルト100g。羅漢果を入れるか、そのままで。☆炭水化物=岩塚製菓の黒豆せんべい1枚。(これは日によって100Kcal程度の甘いものにする)。と、こんな感じの徹底した低G1ファーストで一日のスタートを切る。昼は大好きな麺類が多く、時々、これも大好きなジャスミン米でビリヤ二を炊いて。認知症予防に? カレー(インドカレーかタイカレー)は週一で。夜は本当に本当に軽く、野菜の煮物と豆腐などのたんぱく質。かなりお腹がすいている日はそれに🍙おにぎり一個等。全部で300~400Kcal位。ここ何年かは、この食事は替えていない。野菜が高い時のために、まとめて茹でて冷凍したり(冷凍野菜は使わない)、キノコは乾燥させて使ったりも。去年の夏の暑さを思い、この夏も暑いだろうなと覚悟をしていたものの、まさか6月に急に暑くなって、梅雨寒すらないなんて考えもしなかった(´;ω;`)ウゥゥ10月上旬まで暑さは続くだろうから、あと2か月以上かあ。なんとかダウンせずにすむよう、できることはしよう。
2025年07月15日
作詞家になりたいと高校生の時から思っていたけれど、そして何曲かは作曲家の手により「曲」として完成したけれど、シングル盤のA面で発売となったのは、わずか一曲だった。ヒット曲「ロードショー」で注目された「宿屋の飯盛り」の解散記念シングル「手紙をください」が、それ。確か発売時にレコードを2枚貰ったはずだが、書庫の中で迷子になってしまった。でもネットで歌詞をアップしてくださったかたがいて、それを書き記しておこうと思う。🎵「手紙をください」高野瀬順子作詞・山本達夫作曲🎵何でもない人の 何でもない言葉に 何故かひどく傷ついてどうしても眠れない そんな夜が あなたにもあるでしょう人は大人になればなるほど 自分のことを話したがらない声をかけても聞こえぬふりで 人ごみに消えて行く一人ぼっちで淋しくないの? 振り返ることさえしないで人は何かに巡り逢うため 悲しみを背負っているのでしょうか?誰か私に手紙をください 淋しがりやは君だけじゃないと人は何かに負けて初めて やさしく強くなると言うけど弱い私にいつもあるのは 小さい心とみじめな涙誰か私に手紙をください 淋しがりやは 君だけじゃないと誰か私に手紙をください 淋しがりやは ここにもいるとこの詩を書いたのは・・確か19歳くらいの時。私は自分を淋しがりやだと思っていました。でも・・そうでもないみたい。今は独りがけっこう好きです(o^―^o)ニコ追記:約半世紀も前のことなので、勘違いをしていました💦💦「ロードショー」を歌ってヒットしたのは「古時計」。この曲の作曲者が「手紙をください」の山本達夫氏で、彼は「宿屋の飯盛り」のリーダー。「宿屋の飯盛り」は4枚のシングルと2枚のアルバムを出しましたが、そのラストシングルが「手紙を…」でした。「宿屋の飯盛り」のヒット曲は「街路樹」等です。
2025年07月12日
出版物で怖いのは、取材相手に不祥事があった場合、すでに出来上がっていても記事が出せなくなることだ。もう印刷所に廻っている時すらあって、そんな時はページの差し替えに大わらわとなる。漫画誌は作者が締め切りに間に合わなかった時に備え、新人の作品の中から予備を用意していることが多い。ラッキーなデビューを飾ることができる人もいるけれど、その一作品だけで消えてしまう人も…💦でも取材記事の場合は・・・私自身も、長いことフリーライターをやってきた中で「差し替え」には何回か遭遇した。初めての時は音楽雑誌でのこと。あるバンドのメンバー数人が猥褻罪で訴えられた。逮捕されるとのニュースが編集部に届き、彼らを取材して4ページの記事にし終えていた私は、編集長から急遽異なるバンドのコンサート会場へ行くように言われ、差し替えはライブ実況報告記事となった。他の音楽雑誌や芸能誌、週刊誌、月刊誌の記者たちも来ていて、皆、同じ差し替えにしたようだ。どの雑誌も入稿や校了の寸前だったので、間近に取材できるものが他になかったのだろう。以降も、女性問題はもとより、違法薬物問題で逮捕寸前だという情報が編集部に入り、同じように差し替えの記事に追われたことが幾度かあった。ただ、今その人たちの名前を検索にかけても、何事もなかったかのようにその期間の休業の理由が違う事柄にすり替えられていたりする。もう遠い過去になったことで、本人が充分に反省し更生したならば、傍から蒸し返すことはいけないことだ。もちろん被害者が存在した事件なら、その人への対応の仕方も以後を決めるだろうが、それもまた本人同士の中できちんと話し合いが済んでいるならば、あえて触れることは避けたい。私自身は、差し替えに走った当時の大変だったことは思い出そうと思えば思い出せるが、その対象の歌手や俳優がテレビに出ていても、逮捕された時のことが蘇ることは、もうほぼ、ない。現在も芸能界等には幾つかの「差し替えが必要な事柄」が起きるが、なんとなく昔とは違う感じが漂うのは、ここ数年、コンプライアンス云々で、批判が良くも悪しくもそこに集中されるからだろうか?憶測での記事もあふれ、どこかうすら寒い気がしてしまうのは、時代を経てきたゆえの感覚なのか…。今、ここに書いていて「違法薬物」で思い出したことがある。30代頭の頃か、同い年くらいのフリーライター仲間に陥れられそうになったことがあった。その女性は私がレギュラーを持っている雑誌の編集長に、深刻な顔でこう言ったのだそうだ。「彼女は〇〇(違法薬物)を自ら注射しているみたいですよ。もっぱらの噂です」。ところが、それを聞いた編集長、呵々大笑したそうで、「彼女が薬物注射? ツベルクリンの注射を受けなくてはならなくなった時に、前の日から大騒ぎした彼女が? ((´∀`*))ヶラヶラ 」そうなのだ。体調が悪くて行った病院でツベルクリン検査を受けるように言われ、注射が怖くて苦手な私は、検査の前の日に「ツベルクリンって痛かったっけ?どのくらい痛い? たいしたことないよね? 大丈夫だよねぇ」などと皆に聞きまくっていたのだ(;´∀`)私を陥れようとしたそのライターは、次回から仕事が来なくなって、私の前から姿を消した。その後、結婚引退をしたと風の噂に聞いたが、ライターに未練はなかったのだろうか?後味の悪い事柄だった。
2025年07月09日
右手首の骨折をする少し前から1本の奥歯の治療を始めていた。右下の奥歯の詰め物が取れてのことで、週一で予約を取って進めていた。ところが! 骨折から手術&入院が決まり、歯科での治療はストップ。退院したらすぐに再開したかったが、困ったことに通えない理由があった(;´・ω・)そのクリニックは駅傍のビルの2階。小さなビルなので、エレベーターもエスカレーターもない。手術を受けた右手は、術後2か月間は手すりに掴まったりの手首へ負担をかけることが禁止され、左手で杖をついている身では、右手も使えないとなると、階段の昇降が不可能になってしまうのだ。手術を受けて退院したのが9月30日。10月&11月と歯医者さんには通えず、ようやく迎えた12月。でも、そこでまた問題が・・・。治療の途中で休止したものだから、歯や歯茎の状態が悪化して、2つある根っこの片方の部分の歯を抜くしかなくなったのだ。その部分を抜いて、残った根っこを生かし、差し歯のようなものを造ることになった。麻酔によって喘息発作を起こす可能性のある私は、喘息発作が起きた時にすぐ対処できるよう、呼吸器科のある大きな病院の口腔外科へ紹介状を持って行くことになり、ただ、その大病院が混んでいたため、初診の後に抜歯の予約が取れたのが年明けての1月Σ(・ω・ノ)ノ!またまた間が空いたからか、予後もよくなく、もう一方の根っこに繋がる歯も抜くしかなくなった( ノД`)そして再度、大病院の口腔外科に予約を取り抜歯。3月末に結局1本の奥歯を完全に失った。インプラントは最初から無理だと判っていたし、部分入れ歯かブリッジ。とりあえず部分入れ歯を入れてみて、合わなければ両隣の歯を削ってのブリッジにすることとしてまずは型を取り、部分入れ歯を造ることにした。結果、部分入れ歯は入れた感触も悪くなく、ようやくここで落ち着いた。なんと! 6月中旬のことだ。1本だけなので、部分入れ歯は小さい。「高齢の女性で、飲み込んでしまった人がいるんだよ。だから気をつけて」と先生。その女性は、お餅を食べていて、お餅と一緒に飲み込んだため大事には至らなかったそうだ。初めての部分入れ歯、実は面白くてハメたり外したりして遊んでしまう(;^ω^)というか、何か口にしただけで、金具に食べ物が少しだけ挟まったりして、外したくなる。外して歯を磨き、また入れる。部分入れ歯は、寝る時は外して水に浸す。時に洗浄剤に浸してから洗う。寝る時はマウスピースをつけているので、交代に外してハメるかんじだ。一本だけでも「入れ歯」になったのかあ。齢をとったものだ。部分入れ歯はおもしろいけれど、これを最後にしたい。だって、昨今のような暑さの中、頭がボケボケだと外し忘れたりして、トラブルを起こしそうで怖いもの。これからは歯科衛生士さんが細かく教えてくれた歯磨きの仕方を守って、自分の歯を守ろう。あ~~、それにしても、恐るべし、高齢期(;´∀`)💦💦
2025年07月06日
地方に泊りがけで行くと、夜に必ずホテルの部屋でテレビをつける。翌日に取材があっても、帰路に着くだけであっても、天気予報を見るためだ。当たり前のことだが、家で天気予報を見ようとテレビをつけると、全国の予報の後に、関東甲信越地方の地図が出て、その地域の予報が流れる。でも、地方に行くと・・画面はその地域のものとなる。見た瞬間「ああ、私は今〇〇に来ているんだわ」と一気にセンチメンタルな気分🌸恋をしている時は彼と遠く離れている現実に淋しさが募り、猫🐱たちが部屋にいた時は、今夜は皆どうしているのかなぁ? とすべてのコ🐱の顔を思い浮かべる。「明日帰るからね」そう呟いてベッドに入る。海外ではなく同じ日本なのに、望郷の想いのようなものがひしひしと迫ってきて、胸が少し苦しい。それでも旅はすごく好きだ。車窓から流れる景色を見るだけでも、思いもかけない風景に出会えるし、空の色、足元の草花の色、風の香り、光の入り具合・・どれもがいつもとは少し違って、そんな非日常が自分にとっては「ご馳走」だと思える。ああ、旅に出たいなあ。もうかなり前から真夏や真冬には出かけられない身体になってしまった。それでも、贅沢は言わない。一泊だけでも、この「ご馳走」は生きる糧になる。大げさではなくて。春や秋の気候のよい時に、また思い立ったが吉日で、ふら~~っと出かけたい。行きたい所は・・やっぱり海辺の町🌊。もしくは大好きなお寺詣り。今とても行きたいお寺さんが京都と奈良にそれぞれある。行けるかな? 体の自由が利くうちに、できれば新緑の古都を訪れたい。その時にまた宿泊先でテレビのチャンネルを天気予報に合わせるだろう。もうこの家に誰🐱も待ってはいないけれど、それでも遠く離れた場所にいることのセンチメンタルな気分は、きっと美味しく味わえるから(o^―^o)ニコ
2025年07月03日
長年の行きつけと言える店は、美容院のここしか私にはない。29歳の秋に取材で知り合い、偶然家が近所だった鳳蘭さんに紹介されて行った「サロン ド ケイ」さん。 その店が、明日7月1日に50周年を迎える。店主の恵子さんは、元々は女優さんのヘアメイクなども担当していた、若かりし頃からのカリスマ美容師。30代で渋谷(奥渋)に自分の店を持ち、そこから50年も輝き続けている(o^―^o)ニコ美容院の住所は「神山町」だが、隣接するは都区内でも一位二位を競う高級住宅街「松濤」。多くの政治家や、財界人、芸術家などが住み、その中にもこの美容院の常連客はたくさんいる。個人情報保護法があるので常連客の名は明かせないが、デヴィ夫人は公表しているので、いいだろう。夫人のブログによると、少なくとも3週間に1度は通っているそうで、もう20年になるという。そうそう、忠犬ハチ公の飼い主・上野教授の家も近くにあったそうで、私が若かった頃には、渋谷駅に通うハチ公に何度も会っているという高齢の男性も常連でいた。店主の恵子さんは80歳を超えても、常に新しい髪型やシャンプー、トリートメント、パーマ液など研究をしていて、行くたびに何かしら新たな情報をくれる。 だから私はいつも「お任せ」(o^―^o)ニコ現在もセミロングの裾の内側は刈り上げてあってΣ(・ω・ノ)ノ! これは襟元を美しくみせる方法のようだ。私の有機溶剤アレルギーも充分に理解していて、ヘアスプレーも吟味して使ってくれる。ある夏の日、汗だくで訪れたら、背中に手でタオルを突っ込んで拭いてくださったっけ(;´∀`)プライベートでの相談事にも、いつも親身になって耳を傾けて・・・😿。私が初めて本を上梓した時、お祝いの食事会を西麻布で開いてくださったのも恵子さんだった。離婚した時、新たな彼ができた時、病気に倒れた時、色々なシーンで彼女の優しい笑顔があった。「この仕事が好きで好きで、一生続けたい」「鋏を握ったまま逝くのが夢」と語る恵子さん。どうか神さま、恵子さんの願いを叶えてあげてくださいませ。55周年、60周年、いえ、それ以上長く、元気で美容院に立ち続けられますように。おめでとうございますヽ(^。^)ノ
2025年06月30日
全523件 (523件中 1-50件目)


![]()