今日は勤務先A市の進路交流会がありました。
主として障害児学級籍の子の親や、関係する教師が集まり、いろいろなことを勉強したり交流したりする場です。
学校の悪口とかも平気で言える会なので、
そういう会が持てること自体、すごくいいことだなーと思います。
(親も教師も本音で語り合ってなんぼなので。)
さて、このあいだから読み続けていた『 普通学級での障害児教育
』
をようやく今日読み終えました。
知らないことや知りたかったことが書いてあり、
大変勉強になりました。
この中に書いてあることはひろくみなさんに知っていただきたいことなので、今レポートにまとめる作業をしています。
とりあえず1章までの内容を自分なりにまとめてみました。
(自分の判断で記述を拾っているので、誤解も生みやすいかと思います。
内容で気になるところがある場合は必ず原典をお読みください。)
『普通学級での障害児教育』
読書メモ
本書のポイントは、最後のあとがきの部分に端的に示されています。
本屋でみつけられた際は、まずあとがきのp209をごらんください。
(序:堀 智晴)
•・ これまでの教育を前提として教育実践を推進することのおかしさ
(これまでの教育に関する常識)
↑ ↓
•・ 個人学習とグループ学習と集団学習とを柔軟に組み合わせるような学習形態
•・ 障害児を含む普通学級での実践の持つ面白さ
「ノウハウといったものは、一度剥がしてしまわないと重いといわれる子ほど対応できない」
教育しようとすればするほど子どもが学びたくなくなるという教育の根本問題
教員の知らない世界が子どもたちの間に豊かに隠されているという事実
(一言で説明のしようもない子ども同士の面白い関係)
(論争「普通学級での障害児教育」宮崎隆太郎 VS 山口正和)
(宮崎) いきいきする状況を作ってほしい
・養護学校はあたりはずれがない。 (←後に山口「それは知らないだけ」と反論あり)
校区の学校の普通学級に行くと当たりはずれがひどい。
・問われているのは「障害」児の問題ではなくて普通教育そのものであり、「健常」児の問題ではないのか。すべての「健常」児がいきいきとできる授業を目指すことで、はじめて「障害」児もいきいきするのだ。
・「障害」児のそばに身をおいている教師が授業づくりにどんどん発言していくことが大切。
・クラスの子どもたちに対してもはっきりと話をするべき。
(山口) 分けないことが第一歩
・いろいろなことが起こるのです。僕はだからいいと思うのです。
・みんなといっしょだと結構いろいろなことができます。「最重度」やといわれているような子が来ても、僕の経験ではできると思います。
•・ 自分のクラスが運動会でよう走る子ばかり集まって、一等賞になるよりもずっといいもんです。
•・ できるようにすることばかり考えて結局は追い詰められているのは子どもだ。
•・ 何かを教えたり、何かを分からせようとするために教師がそこを抜き出すということは、子どもたちにどのような理屈をつけてみたところでごまかしではないでしょうか。
•・ 「どこどこの教室でしっかり勉強してくるからね」と言って、実際はいい加減なやり方をしている人がいっぱいいるわけでして、そのような偽善的なことは違うなと思います。
(宮崎)「抜き出し指導はやむをえぬか」
•・ 現実の問題とてやむをえないことであったとしても、それは教師側の都合でしかない。
それは明らかに教師の都合でやるのだということを認めよう。
教師たちの中で論議して、なぜそうしなければならないかをかなりきびしく突き合わせなあかん。
•・ 「共に学ぶ教育」というなかで 教師自身が本当に手を汚すということをしていない のではないか。 子ども達は「本当に自分たちの大事な部分ではあの人達とかかわらなくてもいいんだ」みたいに、「手を汚さない付き合い方」というのをむしろ大人の生き方から、教師の生き方から学んでいっているような気がする。「共に」が「生活」の問題につながっていかない。 問われているのは私達の日常だ。
•・ 毎日毎日、毎時間毎時間の授業の中でちょっとしたさりげないところで障害のある人たちをも必ず巻き込んでいく取り組み、そういう人たちの思いを大事にした取り組み、そういうことが今問われている。
(山口)
•・ 養護学校はシャバの風が吹いていない。閉ざされたところ。何してるか分からない恐ろしさを感じてしまう。
「原学級保障のあいまいさ」
•・ 「障害」のある子がそこにいないとわからない。どこかに抜き出している限りそれは見えない。やっぱり分けないことが大前提で、そこで起こってくるいろいろなことをみんなで解決していきたいなあと思っているんです。
•・ 「共にする」というのは、それが当たり前だからするのであって、何か効果があるからするのではないのです。
•・ こっちがその子の言おうとしていることを「言葉じゃない言語」でわかるっていうのは、いっしょに生活していればあることですよね。
•・ 障害のある子がいることを前提とした学級とか学校とか都市といったものになっていくのが筋だ と思います。
(宮崎)「受験」
•・ 公立高校に入ったというのはほとんど定員割れがあったから入れるわけです。
•・ 親子の関係で勉強を教えようとすると、教師という他人、馴れ合いがない人間が子どもに教えるのと全然違う。親が勉強を教えるというのは、これは非常に難しい。
•・ 「この子はこんな程度のものや」という中学校の教師の決めつけがある。いろいろやってみないことにはわからない。
•・ 私たちは何だかんだと言いながら、障害を持った人をオモテ面だけで決めつけてしまう。いろいろ試してみようということもなく、その人たちの内面すら見ることもないままに、一方的に教師の判断で終わってしまっている。
•・ たかが文字や数をちょっと教える程度のことで、なんでそんなに大仰な話になるのか。障害を持った子にもちょっと勉強を教えたってくれ、というそんな親の思いを受け止めるなんてことは当たり前であって、なんで、「障害」児のことに関してだけそんなにたいそうに身構えて、考え込んでしまうのか。親は、そんなたいそうなことは思ってないと思うのです。
(藤田)まとめ
•・ 絶対正しいというようなものがないということ
•・ ある人が考えた教育のやり方というものが絶対と思ってやっても、ある子どもにとってはつまらなかったり、別の子どもにとってはすばらしかったりする。教育には絶対というものがない。私達の考えがこうあるべきだと凝り固まってしまった時には、道を外れてしまう可能性がある。
•・ 相反する部分があるということ
•・ 大胆でかつ繊細でなければならない。
•・ 楽天的であって、センシティブでなければならない。
•・ その子の持っている思いは非常にセンシティブに受け止めなあかん部分がある。
(宮崎)補筆
•・ クラスの子どもたちみんなにとって、楽しくて、いきいきできる授業をつくりだしてこそ、「障害」児もいきいきできる--この方向性を持って、普通学級の授業を考えていく。
(山口)補筆
•・ 分けないことが前提でさえあれば、無視したり、特別扱いしない限り、それぞれのやり方でやっていけば良いというのが私の考え方である。「たかが文字や漢字を教えるその程度のこと」をどうこう言うつもりは毛頭ない。だが「たかがその程度のことで」子ども達を分ける(抽出する)というのなら見過ごしにはできない。
•・ 「あるべき障害児像」を最も忌み嫌ったはずの宮崎さんが、なぜ教師たちには「あるべき教師像」を求め、苛立つのか。
•・ 私が問題にしているのは「わかること、できること」を大切にすることではない。それを理由に「分ける」ことなのだ。
以上、第1章までより抜き出し転記
以下つづく
著者: 藤田修
出版社: 明石書店
サイズ:単行本/216p
発行年月:1998年06月
【目次】
序 教育思想が問われる/第1章 論争「普通学級での障害児教育」/第2章 「共に学ぶ教育」とは-大阪の「共に学ぶ教育」その現状と課題/第3章 仲間と共に/第4章 みんながいきいきできる授業を-枚方市立枚方第二小学校の試み
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