『 連携と協働の学童保育論
ソーシャル・インクルージョンに向けた「放課後」の可能性』
(三好正彦
、2012、解放出版社、2000円)
この本の読書メモを書いている途中です。
第1回読書メモは こちら 。
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『連携と協働の学童保育論』
3
(p39~69 第1部 第2章より。
・以降の 太字
は本の内容。
顔マークのあとの緑文字は僕の個人的コメントです。)
<第1部 第2章
「障害のある子どもたちの放課後生活の場としての『学童保育』の意義」
より>
(学童保育所「じゃがいも子どもの家」について)
・「学童保育」としての一般的な役割
=親が共働きの家庭における、放課後の子どもの居場所としての役割
+ ・ 周りの健常児との関係を築くうえでの媒介的な役割
= 障害のある子どもの居場所づくり
放課後の居場所保障という考え方、大事だと思います。
単に親の働く権利というだけでなく、子どもの権利にかかわるところです。
・ 地域で生きていく方向性 を大事に
・「私じゃなくて直接その子に言ってもらえますか」
:「障害があることを理由にして、
その子の存在を無視・否定していることになるんですよ」と気づかせていく
私の特別支援学級担任としての経験のなかでも、
同じことがありました。
その子を飛び越えて、その子のことを介助者の大人と話すというのは
おかしいんじゃないの、と、まず最初にその場面を見たときに思いました。
自分でできることが非常に少ないと思われている子ほど、
みんなの輪の中でその子が主体になってほしいと思っています。
たとえ言葉が出ない子であっても、表情が、全然違ってくるというのが
私の実感としてあります。
特支担任や特支学級の子は、自分が輪の中にいるのか輪の外にいるのかに
非常に敏感になっているかもしれない、と思います。
学童保育だと、特支だなんだという枠は何にもなくて、
みんな同じ子どもとしてのラインなので、
その中に支援を要する子も同じように当たり前に入っているというのは
当然のようにそうなっていてほしい、という私の願いが強くあります。
・
学校での学級経営と比較すると、
「子どもの家」は、 複数の大人(指導員)が、複数の子どもとかかわり、
1人の子どもに対して複数の指導員との関係性を構築している。
大人同士でのかかわり 、 実践を行う実践者同士の意思疎通 が見られた。
・複数の指導員が1人の子どもを多面的に見る。
それゆえ、集団に入りきれていない子どもに対するサポートも手が届きやすい。
保育中にも指導員同士の意見交換、臨機応変かつ柔軟な対応
=>★障害のある子どもと健常児のかかわりの場として十分に機能する可能性
(エピソード)
・嫌がらせに発展した時点で止めに入ることは当然の行為として考えられるが、
指導員Dは戸惑っていた
。
「いじめる―いじめられる」の関係だけで判断すれば、
すぐに止めに入るべきだと考えられるが、
ここではさらに先にあるものを指導員は考えていた
。
指導員が間に入ってつなげるだけでなく、
Y自身が子どもたちとぶつかり合い、
自分のことを知ってもらうような行動を起こさないと
関係が広がっていかない という考え
・地域の子どもたちに自分が注意することで、
子どもたちが大人の目を気にしてYにかかわりに行かなくなるばかりでなく、
Yが自分から子どもたちに行動を起こす機会を逃してしまうことを憂慮した。
「子どもを安全に保護者に返す」というのが
一番の優先事項である学童保育で、
ここまで先を見据えた悩みを持ち、葛藤されていることに
非常に驚きました。
「先を見て子どもを育てる」ということを
もっと第一義的にやっているはずの「学校」や「保護者」であってさえ、
そこまでのことを考えてやっているか・・・。
自分を振り返って、思うことが多くありました。
・公教育で不可能な実践を可能とする構造
・ 柔軟性を生かすスキル
こそが
学童保育指導員の専門性として最も必要とされるもの
・学童保育は「学校でもなく家庭でもない子どもたちの第3の居場所」
・両者の中間としての機能
・「近所のお兄さん」的な立場での媒介行為
・学童保育指導員は状況によって子どもとのかかわり方を
柔軟に変化させ、対応させることができる。
・ 「共に生きる」「インクルーシブな実践」の課題
・だんだんとその関係は自然になくなっていく。
・中学校や高校になるとその関係は切れてしまって、
普通に遊ぶ友だちは現実にはいない。
★ 関係性をどうやって継続させるかが大きな課題
・本当のつながりになっていかない
・ 場を楽しくするのが1番
。
楽しければ、いつの間にか「共に」という場が結果的にできていたりする。
子どもは楽しければ「共に、大事」とか言わなくても一緒にいれるということが
実感としてある。
・「みんな無理に仲良くしなくてもいい、
それでもその場に一緒にいれる場」
・必要以上に障害児に手を出さない、介助の対象として見ていない。
子どもの自主性を大切にして、「待つ」という視点が貫かれている。
(p69(第3章の終わり)まで) =================================
ほかにも書きたいことがあるので抜き出す部分を絞ろうと考えていたのですが、「これは外せない」ということが多くて、今回も大量になってしまいました。
最後の「共に生きる」「インクルーシブな実践」の課題 については、
共に生きる実践を重ねている学校でも
ぶちあたっている課題です。
本章だけではないですが、読めば読むほど、「同じことを考えているな」と思うことが多いです。
学校教職員と、学童保育指導員。
これまで、立場・役割はかなり異なると思っていました。
それが、「おなじじゃないか」と思えるように変わりました。
いや、立場・役割は異なるんでしょうけど、「思い」は同じじゃないかと。
やはり、子どもを取り巻く大人たちは、
子どもの成長後の心配も含めて、
願いをもって接しているのですね。
このつづきは、 第3章「第3の教育の場としての学童保育論」です。及川房子・元学童保育指導員の実践が語られます。
それでは、また次回!
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